神の王国
神の王国(かみのおうこく、ギリシア語: βασιλεία τοῦ Θεοῦ[1], 英語: kingdom of God[2])は、1世紀30年ごろパレスチナで活動したユダヤ人宗教家ナザレのイエスの宣教における最重要概念である。この宗教概念はのちにイエスがキリスト教の開祖とされ、キリスト教が世界宗教となるに及んで、宗教、社会、政治などさまざまな分野に影響を与えた。
日本語の訳語としては『口語訳聖書』や『新共同訳聖書』が採用している神の国が広く使われている。岩波書店発行の佐藤研らが日本語訳した『新約聖書』では神の王国と訳されている[3]。
用語
『新約聖書』巻頭に所収の『マタイによる福音書』で頻出する用語「天国」[注 1]は、他の『福音書』の「神の国(神の王国)」と同義である[4]。天国は『新約聖書』原文のギリシア語: βασιλεία τῶν οὐρανῶν[5]の訳語として『文語訳聖書』や『口語訳聖書』で使われている訳語だが、『新共同訳聖書』で採用された訳語天の国[6]も広く使われている。岩波書店発行の佐藤研訳『マタイによる福音書』では天の王国[7]と訳している。英語訳は kingdom of heaven[8]である。
天国(天の国)と神の国(神の王国)の対応を見ると、例えばイエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、洗礼者ヨハネの逮捕ののち独立して一人で宣教を始めるその第一声が『マルコによる福音書』では「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」[9]であるが、『マタイによる福音書』では「悔い改めよ、天国は近づいた」[10]となっている。この天国(天の国)という表現・用語は、『旧約聖書』『新約聖書』全巻をとおして『マタイによる福音書』のみで使われている[注 2]。その使用回数は「神の国」の5か所[11]に比して「天国(天の国)」はその6倍以上の33か所である[12]。このように『マタイによる福音書』で「天国(天の国)」が多用されるのは『マタイによる福音書』の記者が「「神」 のかわりに 「天」 という語を用いる当時のユダヤ人の言葉遣いに」[13]ほぼ従っているからである。
旧約聖書
ヘブライ思想を淵源とする宗教概念あるいは観念「神の王国」とは「神が王として支配すること」「神の支配する領域」[14]「神の王的支配」を意味する[15]。これは例えば『旧約聖書』所収の『詩篇』145篇13節「あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。」[16]といった箇所に見られるような観念にさかのぼることが出来る[15][注 3]。
新約聖書
『マタイによる福音書』
洗礼者ヨハネ
『マタイによる福音書』によれば、まず洗礼者ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教し[17]、人々に洗礼を施す[18]。イエスはその洗礼者ヨハネから洗礼を受けて弟子になり[19]、洗礼者ヨハネの逮捕ののち独立して一人で宣教を開始する。その第一声は洗礼者ヨハネと同じ「悔い改めよ。天の国は近づいた」[6]である。洗礼者ヨハネは、1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスの『ユダヤ古代誌』で「大きな影響力」[20]があったと言及されている人物だが、その洗礼者ヨハネが「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかた」[21]と述べている。これは、イエスが洗礼者ヨハネの元に来てバプテスマを受けようとした際にイエスを「思いとどまらせようとして」「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」[22]と述べている事から、「わたしよりも力のあるかた」とはイエスを指していると読み取れる。しかし、ドイツの代表的新約聖書学者の一人[23]キュンメルは著書『新約聖書神学』[注 4]で、「わたしよりも力のあるかた」について洗礼者ヨハネはイエスと名指ししてはいないこと、さらに洗礼者ヨハネが獄中から弟子を通して「『きたるべきかた』[注 5]はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」[24]とイエスに尋ねたことなどを検討し、洗礼者ヨハネがイエスについて「神に遣わされた終末時の福音の使者である…という確信に至ったか否かは知り得ない。」[25]と結論している。
イエスは、洗礼者ヨハネを「預言者以上の者」[26]で「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」[27]と高く評価する一方、すぐ続けて「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」[27]と付言する。その洗礼者ヨハネ出現以後の天の国について「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。 」[28]とイエスは言う。この「激しく襲う者」については否定的あるいは肯定的等に解釈する諸説があるが、いずれにしても『マタイによる福音書』は洗礼者ヨハネの出現がユダヤ人社会の「天の国」概念に大きな影響を及ぼしたことを暗示している[29]。
イエス
イエスがいわゆる山上の垂訓を語った際には最初に「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」と語り始めた[30]。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」とも語った[30]。主の祈りについて教えた時には「御国がきますように」と祈るように教え、神の王国が来ることを待ち望むようにと教えた[31]。
エホバの証人
19世紀後半にアメリカで起こったキリスト教系の新宗派エホバの証人のいう神の王国は千年王国説(至福千年説)に依るものである。千年王国説は、ユダヤ教の終末論に由来し、キリスト教では『新約聖書』所収の『ヨハネ黙示録』第20章「千年間の支配」「サタンの敗北」「最後の裁き」[32]がその主な根拠になっている。[33]
脚注
注釈
- ^ 文語訳『マタイ傳福音書』(『舊新約聖書』)では「てんこく」と振り仮名を付けている。『ルター聖書』(マルティン・ルター訳ドイツ語聖書)も「天国」と訳す(参照:W. G. キュンメル『新約聖書神学』山内真 訳、49頁。Luther Bibel (1545) Matthaeus 4:17 "Himmelreich")。
- ^ 他にアポクリファの『エズラ記』(ラテン語)2章37節の1か所に現れる(『新共同訳聖書 旧約聖書続編つき』)。
- ^ ここ13節の「あなた」は、直前の10節「主よ、あなたの…」(詩篇(口語訳)#145:10) とある部分の続きで「主」すなわち神ヤハウェを指す(参照:関根正雄訳『詩篇』岩波文庫、351頁、「ヤㇵウェよ、あなたの…」。Interlinear Bible Psalm 145 "יְ֭הוָה / Yah·weh / O LORD")。
- ^ 「〈穏健な指摘再構成〉(G・ハーゼル)と評される」(山内真「訳者あとがき」W. G. キュンメル『新約聖書神学』、510頁)書物。
- ^ 『きたるべきかた』とは「終末に出現するはずの預言者(ないし預言者的メシア)」(橋本磁男「マタイによる福音書」『新共同訳 新約聖書注解 1』84頁)。
出典
- ^ Interlinear Bible Mark 1:15
- ^ The Gospel According to St. Mark 1:15(『欽定訳聖書』)。
- ^ 参照:佐藤研『新約聖書 1』岩波書店、1995年、補注2-3頁。ISBN 4000039261。
- ^ 小河陽「天の国」『岩波キリスト教辞典』785頁。
- ^ Interlinear Bible Matthew 4:17
- ^ a b 『マタイによる福音書』4:17(『新共同訳聖書』)
- ^ 岩波書店版の訳(参照:佐藤研『新約聖書 1』補注2-3頁)
- ^ The Gospel According to St. Matthew 4:17(『欽定訳聖書』)
- ^ 『マルコによる福音書』1:15(『口語訳聖書』)
- ^ マタイによる福音書(口語訳)#4:17
- ^ 『マタイによる福音書』6:33, 12:28, 19:24, 21:31, 21:43
- ^ 「天の国」『新共同訳 聖書辞典』346頁。
- ^ ペトロ・ネメシェギ「天国」『新カトリック大事典 3』1191頁。
- ^ 『バルク書』3:24(『新共同訳聖書 旧約聖書続編つき』)
- ^ a b 佐藤研「神の国」『岩波キリスト教辞典』231頁。
- ^ 『口語訳聖書』
- ^ 『マタイによる福音書』3:2(『新共同訳聖書』)
- ^ 『マタイによる福音書』3章(『新共同訳聖書』)
- ^ 佐藤研「イエス」『岩波キリスト教辞典』66-67頁。
- ^ 「…洗礼者と呼ばれたヨアンネス…」(18:116)、「…彼のこの大きな影響力…」(18:118)(フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌』6、ちくま学芸文庫、50-51頁、第18巻116-119節)。
- ^ 『マタイによる福音書』3:11(『口語訳聖書』)
- ^ 『マタイによる福音書』3:14(『新共同訳聖書』)
- ^ 山内真「訳者あとがき」、W. G. キュンメル『新約聖書神学』510頁。
- ^ 『マタイによる福音書』11:3(『口語訳聖書』)
- ^ W. G. キュンメル『新約聖書神学』山内真 訳、43頁。
- ^ 『マタイによる福音書』11:9(『新共同訳聖書』)
- ^ a b 『マタイによる福音書』11:11(『新共同訳聖書』)
- ^ 『マタイによる福音書』11:12(『新共同訳聖書』)
- ^ 参照:橋本磁男「マタイによる福音書」『新共同訳 新約聖書注解 1』85頁。
- ^ a b マタイによる福音書(口語訳)#第5章
- ^ マタイによる福音書(口語訳)#6:9,10
- ^ 『新共同訳聖書』の小見出し
- ^ 参照:川中子義勝、國府田武「千年王国」『岩波キリスト教辞典』691-692頁。
参考文献
- W. G. キュンメル『新約聖書神学』山内真 訳、日本基督教団出版局、1987年再版。
- 山内真「訳者あとがき」509-511頁。
- 橋本磁男「マタイによる福音書」『新共同訳 新約聖書注解 1 マタイによる福音書 - 使徒言行録』 川島貞雄、橋本磁男、堀田雄康 編、日本基督教団出版局、1991年、29-165頁。ISBN 4818400815。
- フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌〈6〉新約時代篇 (18−20巻)』秦剛平 訳、ちくま学芸文庫、筑摩書房、2000年。ISBN 448008536X。(付:解説、索引)
事典・辞典
- 木田献一ほか 監修『新共同訳 聖書辞典』キリスト新聞社、1995年。ISBN 4873952689。
聖書
- Interlinear Bible(ヘブライ語・ギリシア語原典、行間に英語逐語訳・品詞・音写ほか)Bible Hub.
- Luther Bibel (1545)『ルター聖書』BibleGateway.
- Bible (King James)『欽定訳聖書』WIKISOURCE.
- Authorized (King James) Version (AKJV) BibleGateway.
- 『舊新約聖書』日本聖書協会、1887年、1917年。
- 『口語訳聖書』日本聖書協会、1955年。
- 『新共同訳聖書』日本聖書協会、1987年。
- 『新共同訳聖書 旧約聖書続編つき』日本聖書協会、1987年。
- 関根正雄 訳『詩篇』岩波文庫、岩波書店、1973年。ISBN 4003380215。(付:註釈、解説)
- 佐藤研 訳『新約聖書 1 マルコによる福音書 マタイによる福音書』荒井献、佐藤研 責任編集、岩波書店、1995年。ISBN 4000039261。(付:脚注、解説)
関連項目
外部リンク
- 渋谷治「「神の国」と「天の国」と「天国」との比較」『カトリック神学』1968年6月、上智大学神学会