ちばてつや
ちば てつや | |
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本名 | 千葉 徹彌[1] |
生誕 |
1939年1月11日(85歳)[1] 日本・東京府[1] |
国籍 | 日本 |
職業 | 漫画家 |
活動期間 | 1956年[1] - |
ジャンル | 少女漫画、少年漫画、青年漫画 |
代表作 |
『あしたのジョー』(原作 高森朝雄) 『おれは鉄兵』 『のたり松太郎』 『あした天気になあれ』 『ユカをよぶ海』 |
受賞 | |
公式サイト | ちばてつや公式サイト |
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ちば てつや(本名:千葉 徹彌[1]、1939年1月11日[1] - )は、日本の漫画家。2005年からは文星芸術大学教授を務める[2]。2012年7月から日本漫画家協会理事長。東京府(東京都の前身)出身[1]、現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業[3]。
名作と呼ばれる作品を残した作家で、代表作に『あしたのジョー』(高森朝雄=梶原一騎原作)、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』などがある。
概要
手塚治虫がかつて(1970年代末)[4]語ったところによると、自分がストーリー漫画を始めて以降、ほんとに新しいものを加えたのはちばてつやだけだ、と思っていると。また『あしたのジョー』の連載開始時点(1968年頃)で、梶原一騎が手塚治虫に並ぶ別格作家と語ったことがある。
作風は、体温のある描線の画風で1960年代には心理描写がうまいことで評価が高かった。また情景描写が長いことで生活感が表れたという評もある[5]。また、貧しい環境の自然児的な主人公が、微妙な摩擦を起こす(に出会う)話が多い。そうでない作品でも、同時期(昭和30年代)の他の少年漫画に比べて人間ドラマ性が強い。初期には少女マンガの名手とされ、少年マンガで人気を得てからそちらが主となり、のちに青年漫画に広げた。
中でも『あしたのジョー』は、当時の時代の象徴と受け取られていることも多い国民的に名が知られた代表作となっている。
来歴
デビュー前
1939年(昭和14年)東京築地生まれ[1][6]。生後すぐに日本を離れ、2歳の時に、満州国奉天に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた[7]。1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い、暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期をすごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年、家族共々、日本に引き揚げ、千葉を経て、東京、墨田区小梅町に移り住んだ。
道ばたに落ちていた豆本で見た漫画[注 1]の表現力に衝撃を受け、漫画にのめり込む。しかしちばの家は漫画に対して厳しく一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた[8]。
小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央[9]と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる[8]。
貸本時代
16歳の高校生時に、新聞の三行広告で[7]漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募。社長の石橋国松[注 2]はちばにプロの生原稿を見せ、道具の使い方を教え、試しに描いてくる様に指示し、ちばは本格的な執筆を始める。20-30ページを執筆して持って行くと続きを執筆するように言われ、ちばはテストだと思い言われるままに続きを描き、何度か繰り返した後に最後には28ページで話を終わらせる指示を受ける。最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として手渡された[7]。このとき執筆された「復讐のせむし男」は1956年(昭和31年)に貸本として出版され、ちばは17歳で漫画家としてデビューする[8]。
以降、高校に通いながら2年程貸本の執筆を続けた。
雑誌デビュー
高校卒業を前に先輩について訪れた『少女クラブ』(講談社)の編集部で自身の原稿を見せて執筆依頼を取り付け、読み切り「リカちゃん」を執筆。また同時期に訪れた『少女ブック』(集英社)でも執筆依頼を取り付け、読み切り「舞踏会の少女」を執筆する。両作共に1958年(昭和33年)に発表されたが『少女ブック』が先に発売されたため、「舞踏会の少女」が雑誌デビュー作となった。ともに少女誌となったのは、当時執筆陣が固まっていた少年漫画に比べ、少女漫画の方が新人の入る隙があったためであった[7]。両作をきっかけに連載も依頼され、同年6月号より「オデット城のにじ」(少女ブック)と「ママのバイオリン」(少女クラブ)を同時に連載開始する。しかし『少女ブック』がちばの了承なしに別冊への掲載を予告したことを機に講談社との専属契約を結び、「オデット城のにじ」は連載途中で降板する[10]。
1961年(昭和36年)には『週刊少年マガジン』(講談社)において野球漫画「ちかいの魔球」(原作:福本和也)の連載を開始し、少年漫画の執筆にも活動を広げる。1962年(昭和37年)より『少女クラブ』の別冊ふろくで「1・2・3と4・5・ロク」を連載開始し、同年に同作と「魚屋チャンピオン」で第3回講談社児童まんが賞を受賞する。
その後も「紫電改のタカ」、「ユキの太陽」などヒット作を手がけ、1965年(昭和40年)に発表された「ハリスの旋風」はテレビアニメ化され、注目を集めた。1968年(昭和43年)には劇画作家、高森朝雄(梶原一騎)と組み、ボクシングを舞台とした「あしたのジョー」を発表。同作品は爆発的なヒットとなり、連載されていた『週刊少年マガジン』の発行部部数を飛躍的に伸ばしたほか、一躍社会現象とまでなった。
その後は、角界を舞台にした「のたり松太郎」や、プロゴルフを舞台にした「あした天気になあれ」などスポーツ漫画のヒット作に加え、幅広い作品を発表。1980年(昭和55年)にはこれまでの功績を称え、青年漫画家の発掘を主とした講談社主催のちばてつや賞が設立された。
1984年(昭和59年)の創刊時より『GOLFコミック』(秋田書店)の表紙イラストを担当し、2015年現在に至るまで続けている。
連載活動の休止
「少年よラケットを抱け」の執筆中に心臓疾患と網膜剥離を患って手術を受けることとなり、ちばの身を案じた妻がちばの入院中にスタッフを解散させる。このため1994年(平成6年)に連載を終了した「少年よラケットを抱け」以降は短編作品の執筆を中心とし、大人数を雇ってのプロダクション形式での長期連載の仕事は行っていない[11][12]。
1998年(平成10年)にはやなせたかしの後任として、社団法人日本漫画家協会の常任理事に就任[13]。また2002年(平成14年)に横浜市で開催された『第5回アジアMANGAサミット』実行委員長に就任して漫画文化の担い手として活躍する一方、2005年(平成17年)からは文星芸術大学でマンガ専攻の教授を務め、後進の育成に力を注いでいる。表現の自由に関する問題にも関心が高く、東京都青少年の健全な育成に関する条例改正問題に関しても何度も積極的に発言しており、特に東京都知事・石原慎太郎が進める“非実在青少年”規制には否定的。2012年、日本漫画家協会理事長に就任。
受賞歴
- 1962年 - 第3回講談社児童まんが賞 - 『1・2・3と4・5・ロク』・「魚屋チャンピオン」
- 1976年 - 第7回講談社出版文化賞児童まんが部門 - 『おれは鉄兵』
- 1977年 - 第23回小学館漫画賞青年一般部門 - 『のたり松太郎』
- 1977年 - 第6回日本漫画家協会賞特別賞 - 『のたり松太郎』
- 2001年 - 文部科学大臣賞
- 2002年 - 紫綬褒章
- 2009年 - 第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞
- 2012年11月 - 旭日小綬章
- 2014年 - 文化功労者[14]
展覧会
家族人脈
四人兄弟の長男で、漫画家のちばあきお(三男)[16]と漫画原作者の七三太朗(四男)[17]は実弟。妻は漫画家のチバユキコ[18]。三男の千葉修平は文星芸術大学で専任講師を務め、父の助手として漫画教育に携わっている[2]。
エピソード
2008年に『週刊ヤングマガジン』で発表された『トモガキ』によると、ちばは気分転換として弟のちばあきおと幼い頃から他の人に電気あんまをかます事がしばしばあったとの事で、『ママのバイオリン(1958年7月 - 1959年5月、少女クラブ、講談社)』が連載されていた当時も締め切りが迫っていて缶詰状態だった為に、気分転換のために当時の担当者に弟のあきおと電気あんまをかましたところ、担当者は堪らずにちばを蹴飛ばしてしまった。てつやは蹴飛ばされた勢いで窓ガラスに体を突っ込んでしまい、割れたガラスの破片で腕の腱を切る大怪我を負い、一時は漫画が描けなくなってしまった。この時、口の中にもガラスの破片が刺さっていたが、かろうじて奥歯で食い止められていた為に頚動脈を切らずに済んだとの事だった。
締め切りが迫っていた中での出来事だった為、担当者はトキワ荘のメンバーである赤塚不二夫、石森章太郎をはじめとしたメンバーに代筆を依頼した。当初は仕事で睡眠が取れていない事と絵柄の違いから渋られていたものの後に承諾、一同の代筆により締め切り内に原稿は無事完成した。
これを機に、ちばとトキワ荘のメンバーとの交流が始まった。
ちなみに、怪我の原因を最初は"疲れから誤って窓ガラスに突っ込んでしまった"と話しており、電気あんまをかましたからと明かしたのは、40年経ってからの事だった[19]。
『あしたのジョー』の力石徹が亡くなったのはちばがボクシングをよく理解せずに、力石徹を丈より大柄に描いてしまったため、設定の都合で、力石徹に減量が必要になってしまったためであり、『トリビアの泉』で「力石徹は作者のつじつま合わせで死んだ」というトリビアが紹介され、ちばがコメントをしておりVTRの最後で力石をつじつま合わせで死なせたことに対して、『彼(力石)には申し訳なく思っている』とコメントしている。
作品リスト
連載作品のみを記載。詳細はちばてつやの漫画作品一覧を参照。
- (単行本。母と娘でみる漫画名作館シリーズやちばてつや全集において各全3巻。)
- ユカをよぶ海(1959年6月 - 1960年8月、少女クラブ)
- リナ(1960年9月 - 1961年12月、少女クラブ)
- ちかいの魔球(1961年1月 - 1962年12月、週刊少年マガジン、講談社、原作:福本和也)
- 1・2・3と4・5・ロク(1962年1月 - 12月、少女クラブ) - 1972年及び1988年-1989年に2度ドラマ化されている。
- ハチのす大将(1963年1月-5月、週刊少年マガジン)
- 紫電改のタカ(1963年7月 - 1965年1月、週刊少年マガジン)
- パパのお嫁さん(1964年1号 - 9号、週刊マーガレット、集英社)
- 島っ子(1964年3月 - 1965年6月、週刊少女フレンド、講談社)
- 少年ジャイアンツ(1964年11月 - 1966年11月、少年ブック、集英社)
- ハリスの旋風(1965年4月 - 1967年11月、週刊少年マガジン) - 2度のテレビアニメ化
- アリンコの歌(1965年9月 - 1966年7月、週刊少女フレンド)
- みそっかす(1966年8月 - 1967年8月、週刊少女フレンド) - 『あかねちゃん』としてアニメ化。
- ジャンボ・リコ(1967年39号 - 48号、週刊少女フレンド)
- あしたのジョー(1968年1月 - 1973年6月、週刊少年マガジン、原作:高森朝雄) - アニメ化・映画化
- テレビ天使(1968年7号 - 50号、週刊少女フレンド)
- 若とのゴン(1968年6月15日付 - 1971年8月26日付、産経新聞)
- モサ(1969年20号 - 1970年2・3号、週刊少年ジャンプ、集英社)
- 餓鬼(1970年6号 - 36号、ぼくらマガジン、講談社)
- 蛍三七子
- おれは鉄兵(1973年8月 - 1980年4月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- のたり松太郎(1973年8月 - 1993年6月、1995年10月 - 1998年5月、ビッグコミック、小学館) - アニメ化
- おれイガオくん(1975年3月23日付-12月21日付、読売新聞)
- 練馬のイタチ(1980年7月 - 同年10月、ヤングマガジン、講談社)
- あした天気になあれ(1981年1月 - 1991年5月、週刊少年マガジン) - アニメ化
- 男たち(1982年1月 - 1983年7月、コミックモーニング、講談社)
- 少年よラケットを抱け(1992年5月 - 1994年6月、週刊少年マガジン、講談社)
- ハネ太(1998年4号 - 1999年13号、コミックアルファ、メディアファクトリー)
- ひねもすのたり日記(2016年1号 - ビッグコミック、小学館)
- テレビアニメ『3月のライオン』第7話エンドカード
展覧会
アシスタント出身者
- ちばあきお[3]
- 川三番地[21] - 2013年よりちばてつやのアシスタント時代を描く自伝的漫画『あしたのジョーに憧れて』を連載中。
- 倉田よしみ[22]
- ながとしやすなり[23]
- 政岡としや[24]
- 梅本さちお[25]
- 石井さだよし[26]
- 村尾忠義(村尾ただよし)[27]
参考文献
- 『[総集編]ちばてつや 漫画家生活55周年記念号』河出書房新社〈文藝別冊 KAWADE夢ムック〉2011年2月28日初版発行、ISBN 978-4-309-97745-4
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h 『[総集編]ちばてつや』9頁
- ^ a b 「親子対談 ちばてつや×千葉修平」『[総集編]ちばてつや』108 - 113頁
- ^ a b まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、243頁
- ^ 「ぱふ」誌。1979年、手塚治虫特集
- ^ (村上もとか)「フイチン再見」83話
- ^ 佐藤正弥編著 『データ・バンク にっぽん人』 現代書林、1982年、196頁。
- ^ a b c d 「ちばてつや×モンキーパンチ "漫画家"になるために」『[総集編]ちばてつや』196 - 204頁
- ^ a b c この段落は、「ちばてつや3万字ロングインタビュー 「真っ白な灰に燃え尽きるまで」」『[総集編]ちばてつや』10 - 41頁を参照。
- ^ ちばてつや (2005年8月31日). “木内くんを偲んで”. ちばてつや公式サイト. ちばてつやプロダクション. 2011年2月13日閲覧。
- ^ この段落は、「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」『[総集編]ちばてつや』212頁を参照。
- ^ この段落は、「妻・千葉幸子」『[総集編]ちばてつや』114 - 121頁を参照。
- ^ この段落は、荒俣宏; 共同著作者 (2010年10月22日). “荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編 その4 まんがのこと、自分のことの巻 (8)”. 荒俣宏の電子まんがナビゲーター. eBookJapan. 2011年2月13日閲覧。を参照。
- ^ “社団法人日本漫画家協会の歩み”. 社団法人日本漫画家協会. 社団法人日本漫画家協会 (n.d.). 2011年2月13日閲覧。
- ^ http://www.asahi.com/articles/ASGBQ46FTGBQUCVL001.html
- ^ Manga now three generationsBritish Museum, 3 September –15 November 2015
- ^ 「ちばてつやが語る 弟・ちばあきおの素顔」『[総集編]ちばてつや』105頁
- ^ 「ちばてつや作品解説 1956 - 2008」『[総集編]ちばてつや』230頁
- ^ 「妻・千葉幸子」『[総集編]ちばてつや』114頁
- ^ ちばてつや「一番の宝物」(丸山昭『トキワ荘実録』小学館文庫、1999年、240-242頁)。
- ^ Manga now three generationsBritish Museum, 3 September –15 November 2015
- ^ 『漫画家人名事典』110頁
- ^ 『漫画家人名事典』136頁
- ^ 特集 鳥取市出身の漫画家たちとっとり市報2008年9月号(2011年2月20日閲覧)
- ^ 『漫画家人名事典』341頁
- ^ 『漫画家人名事典』66頁
- ^ 石井漫画工房 作者プロフィール
- ^ 『漫画家人名事典』371頁
関連項目
- 国松さまのお通りだい - 『ハリスの旋風』の2度目のアニメ化作品
- 松文館裁判(証人として)
- ちばてつや賞(選考委員)
- トキワ荘
- 有名人100枚の絵でつなぐ カンボジア学校建設プロジェクト
- 戦後70年 ニッポンの肖像(オープニング映像キャラクターデザイン)
外部リンク
- ちばてつや公式サイト(公式サイト)
- ちばてつや公式グログ
- ちばてつや (@chibatetsu8) - X(旧Twitter)
- 文星芸術大学マンガ専攻
- 荒俣宏の電子まんがナビゲーター 第3回 ちばてつや編
- 練馬アニメーションサイト「ネリマアニメウォーク2 ちばてつや先生」インタビュー動画