Wikipedia‐ノート:あらすじの書き方
作成意図および議論
現在あらすじのガイドラインの草案としてWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案とWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体が作成されていますが、内容的にはやや「初心者にありがちな間違い」に絞った内容になっていると思われます。英語版を見たところもう少し実践的で中級者以上の利用者にも役立ちそうなものがありましたので、翻訳をベースに換骨奪胎し、また上記の二記事も参考にしてあらたに作成してみました。広く合意が得られるようであればガイドライン化したいと思っておりますので、問題のある箇所がありましたらご意見をお願いします。また上の草案も非常によくできていると思うので、これらは整理したうえでWikipedia:宣伝的なあらすじのような題でまとめなおし、より初心者向けのガイドラインとして位置づけたらどうかと考えています。この点のご意見もよろしくお願いします。--頭痛 2012年1月27日 (金) 01:50 (UTC)
- 文案を拝見し、概ね良くできていると思いました。Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案とWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体で扱おうとして議論が空中分解してしまった事柄についてもフォローされていますし、この方向でガイドライン化を進めることに賛成したいと思います。
- しかし気になるのはネタバレ問題です。これはどういうスタンスで書けばいいのか人それぞれの考えがあって、まだ議論はまとまっていないと認識しています。ネタバレというか結末について言及することについて、以下のようなスタンスがあると思います。
- 結末まで書くべきではない。
- 結末まできっちり書くべきである。
- 結末まで書くことを禁ずるべきではない。
- 結末を省略することを禁ずるべきではない。
- これらのどれか一つを熱烈支持している人達がいて、さらに2のスタンスの論者が4のスタンスの論者を1の論者と混同して反論したりするので、いつも議論はかみ合いません。こういう題材を誤解の余地なくガイドラインに盛り込むにはかなりの準備が必要な気がします(なのでWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案では扱いたくなかったのですが、そういう方向での議論は難しいようでした)。
- 《いずれの方針が最良かは、作品の性格によって異なってくる。「物語全体の要点を読者が理解」できるかという観点から記事ごとに個別に判断するべきで単一の基準のみをむやみに信奉すべきではない。》ということがうまく伝わるように出来ればいいと思います。
- Wikipedia:宣伝的なあらすじについては今のところ意見はありません。そちらの議論はこちらの内容が固まってからでいいのではないかと思います。
--Kojidoi 2012年1月29日 (日) 06:08 (UTC)
- ご賛同ありがとうございます。
- ネタバレに関してはWikipedia‐ノート:ネタバレでの議論に参加した経緯から、少なくとも「物語の解説に必要なネタバレを故意に隠すべきではない」という認識は一致しているように思われたのでこのような文面になっています。「結末をきっちりと書くべきかどうか」という点については過去の議論は知らないのですが、私も作品の性質や記事の完成度によって結末を書く必要性に違いがあると考えているため、「すべての作品記事で結末を書いてください」というようなはっきりした文面にはしていません(というか、「結末」という言葉に故意に触れないようにしています)。ですのである程度解釈を許す余地はあると思います。
- ただあまり「作品ごとに違う」ということを押し出しすぎると、「これはごく最近のポピュラー作品だし、同じジャンルのほかの記事も同じような書き方をしてるからこれでいいんだな」みたいに都合よく解釈されてしまって、後半の展開などを故意に隠している記事がいつまでたっても改善されない、というようなことになりかねないという点も危惧しています。このあたりは難しいところですが、ご意見を踏まえて「ネタバレの扱い」の節は後半をもう少しデリケートな文面に変え、また記事ごとに個別にすべきということをもう少しはっきりと冒頭に記述しました[1]。--頭痛 2012年1月30日 (月) 02:09 (UTC)
- 意図は理解できました。現在提示されている文案で概ねよろしいのではないかと思います。なお、 「結末まできっちり書くべきである」という意見は、ストーリー紹介の在り方についての解説素案のノートの過去ログなどにみることができます。--Kojidoi 2012年2月1日 (水) 17:02 (UTC)
- ありがとうございます。参考にします。--頭痛 2012年2月2日 (木) 15:04 (UTC)
- 意図は理解できました。現在提示されている文案で概ねよろしいのではないかと思います。なお、 「結末まできっちり書くべきである」という意見は、ストーリー紹介の在り方についての解説素案のノートの過去ログなどにみることができます。--Kojidoi 2012年2月1日 (水) 17:02 (UTC)
コメント ガイドライン化に基本的に賛同します。あえていえば、1点気になるのがWikipedia:独自研究は載せないとの関係です。「具体的な書き方」節で、「あらすじを書く際には作品それ自体を参照して書くことを基本にしてください。」という文があります。つまり「あらすじ」は一次資料に基づいて書け、ということですが、物語の要約自体がひとつの解釈である可能性を考えれば、これが「独自研究」でないことをどう示すのか、個人的に整理できていません。この点以外については概ねよくまとまっており、ネタバレについてもバランスが取れていると思います。--みっち 2012年1月30日 (月) 12:04 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。該当の部分は英語版を見直した上で「一次文献を基本とする」という言い方ではなく、「他人がまとめたあらすじを参考するときでも、必ず作品そのものにあたって確認する」という内容に変更しました[2]。
- 私自身は、「あらすじ」は基本的に「物語の中で起こる単純な事実」からなる文章であるため、一次文献だけを参照して作った場合でも独自研究にはならないと考えています(作品の中のなにを入れて何を捨てるか、という判断がどうしても入るので解釈といえば解釈なのでしょうが、WPの方針上では許容できる範囲、という意味です)ただもちろん、作品によってはたとえば「何が起こったのか」という点について解釈の余地があるようなものもあり、そうした場合には次の段落の説明にあるように二次文献を用いて注釈する、という形で独自研究が回避できると思います。--頭痛 2012年1月31日 (火) 12:14 (UTC)
- さっそくの対応ありがとうございます。修正によって懸念が解消されたので、このままガイドライン化してもいいのではないかと思います。--みっち 2012年2月1日 (水) 11:52 (UTC)
- いくつか細かな表現に改善の余地はありそうですが、早々にガイドライン化を宣言して、他の人達の反応を待つというのもひとつの手かもしれませんね。--Kojidoi 2012年2月1日 (水) 17:02 (UTC)
- なるほど。今のところ反対意見もありませんので、それでは草案の提起から1週間経過した時点で「反対がなければ1週間後にガイドライン化する」旨の告知をお知らせページおよび関連するプロジェクトのノートページなどに掲載したいと思います。--頭痛 2012年2月2日 (木) 15:04 (UTC)
- いくつか細かな表現に改善の余地はありそうですが、早々にガイドライン化を宣言して、他の人達の反応を待つというのもひとつの手かもしれませんね。--Kojidoi 2012年2月1日 (水) 17:02 (UTC)
- さっそくの対応ありがとうございます。修正によって懸念が解消されたので、このままガイドライン化してもいいのではないかと思います。--みっち 2012年2月1日 (水) 11:52 (UTC)
- コメント (ガイドライン化には反対)文書の趣旨自体はおおむね妥当なものですし賛同できるのですが、Wikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体、Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案と同様にこの文書も基本的にはガイドラインであるWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)を補足する文であり、従属的な内容であると考えます。その点を踏まえると英語版と同様に私文にとどめておくのがベストと考えますがいかがでしょうか。--Web comic 2012年2月3日 (金) 00:03 (UTC)
- 英語版がessayなのはわかっていますが、草案でははじめからガイドライン化を想定して英語版よりも意図的に総括的な内容にした上で、個々の記事に対する適用の際の注意などを盛り込んでいます。ですので「私文」に位置づけるには返ってそぐわない内容になっているはずです(この辺りは英語版と見比べていただければわかるかと思います)。
- もともと「登場人物欄ばかり膨れ上がっていてあらすじが数行しかない」みたいな記事が膨大にあるのをなんとかしたいと思って作成したものですので、「私文」に位置づけてしまっては改善の根拠になりにくいです。またガイドラインを補足、従属する内容なので私文にしておくべき、という論拠が私にはよくわかりません。「私文を補足する文章だから私文にしておくべき」ということであればわかるのですが・・・。そもそも、ガイドラインを補足するための文書が「私文」になってしまっては、それは「補足」ではなくて「解釈」になってしまいます(第一Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)自体、Wikipedia:スタイルマニュアルを補足するガイドラインでは?)。
- なお、ガイドライン化できた場合にはこの文書を根拠とした記事改善を促すテンプレートの作成を提案しようと考えています。--頭痛 2012年2月3日 (金) 03:07 (UTC)
- (追記)ところで引き合いにされているWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案とWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体もガイドライン化を想定して書かれた文書ではないのでしょうか。essayではなくてproposedが貼られていますが・・・。--頭痛 2012年2月3日 (金) 03:43 (UTC)
- 仮にガイドライン化するのであればWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案、Wikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体を含めて統合すべきではないでしょうか?ストーリーに関して書かれた文書が3つもあるのは編集者に無用な混乱を招くと考えますがいかがでしょう?--Web comic 2012年2月3日 (金) 10:21 (UTC)
- 頭痛さんもおっしゃるとおり、「従属的な内容だから」ガイドラインにふさわしくないという論理は変ではないですか。3つの文案はそれぞれフォーカスが異なります。「スタイルマニュアル」の方は検証可能性との関係に力点をおいた理論的な解説になっていて、それは否定しませんが、しかし実践の際に座右に置くにはちょっとわかりにくい文章ではないかと思いますね。3つの文案がそれぞれ念頭においているのは理論と実践の間にあるギャップを埋めることです。互いの文章が矛盾していては無論まずいですが、そうでなければ並立していても何ら問題はありません。とはいえ、Wikipedia:あらすじの書き方が正式にガイドライン化されるならWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案、Wikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体は私論に留めおいておいてもよいかと思います。すでに内容的には「統合」されているので。あれこれ話が飛び火したあげく何も議論が進まなくなってしまった解説素案の轍を踏むことなく、当文案が過不足なく「あらすじの書き方」を説明するものとしてガイドライン化されることを切に望みます。--Kojidoi 2012年2月3日 (金) 14:20 (UTC)
- 仮にガイドライン化するのであればWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案、Wikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体を含めて統合すべきではないでしょうか?ストーリーに関して書かれた文書が3つもあるのは編集者に無用な混乱を招くと考えますがいかがでしょう?--Web comic 2012年2月3日 (金) 10:21 (UTC)
- 冒頭に記しましたように、私は既存の2草案は「Wikipedia:宣伝的なあらすじ」のようなページ名のもとで統合し、より初心者向けのガイドラインとして位置づけたらどうかと考えています。議論次第でどうなるかわかりませんが、その場合は互いのページで役割の違いを簡単に説明する文章を入れておけば混乱を招くことにはならないはずです。「宣伝的なあらすじ」については現在の議論が終了したら統合した文案を示すことにする予定です。--頭痛 2012年2月4日 (土) 04:23 (UTC)
数年ぶりにウィキペディアで動いておりまして近年の事情を心得ていないのですが、「長すぎるあらすじはまた、場合によっては著作権上の問題ともなり得ます」という記述、逆から読めば「短めのあらすじは著作権上の問題となりません」となりますが、根拠はおありですか? この文書の目的とするところではないのは承知していますが、あらすじにまつわる法律的な議論はクリアにできているのでしょうか?--枯葉 2012年2月6日 (月) 15:51 (UTC)
- 法律に詳しくありませんので、法律的な根拠を聞かれてもなんとも答えかねます(その部分は英語版を大雑把に訳したものです)。この文書はそもそも、すでにWikipedia上に無数の「あらすじ」を書いた記事があるということを前提としたうえで、そのあらすじを適正に書くガイドラインを設定することを目的としております。ですので申し訳ありませんが、そういった前提条件に対する根本的な疑問に関しては著作権に詳しい利用者が集まっているWikipedia‐ノート:著作権にて提起していただけないでしょうか。--頭痛 2012年2月6日 (月) 16:17 (UTC)
- ということでしたら、このような雑音を避ける意味でも、著作権がらみの記述を避け、あらすじの書き方のガイドラインに徹したほうがよろしいのではありませんか? 「
ダヴィンチが大理石の塊からダヴィデならざるところを削り落としてダヴィデ像を表したようにダヴィデ像をあらわさんとしたミケランジェロが『大理石の塊からダヴィデならざるところのことごとくを削り落とした』と言われるように」、本質とかかわりのないところを削るということこそが本文書の説くところであろうと思いますので、配慮いただければと思います。平地に乱を起こすのは望むところではありませんので、Wikipedia‐ノート:著作権での議論提起はいたしません。あしからず了承ください。--枯葉 2012年2月8日 (水) 13:06 (UTC)- もともと英語版に書いてあるのでなんとなく入れたくらいのものでしたから、そういうことであれば除去するということでかまいません。向こうのリンク先を見るとフェアユースがどうとか書いてあって日本語版とはまた別に考える必要もあるようですし。ダヴィデ像を彫ったのはミケランジェロです。--頭痛 2012年2月8日 (水) 14:35 (UTC)
- ご理解賜りましたようでほっとしました。ありがとうございます。ダヴィデ像の件は、いかにも不注意でした。伏して訂正し、正しく引用させていただきます。--枯葉 2012年2月9日 (木) 23:29 (UTC)
- もともと英語版に書いてあるのでなんとなく入れたくらいのものでしたから、そういうことであれば除去するということでかまいません。向こうのリンク先を見るとフェアユースがどうとか書いてあって日本語版とはまた別に考える必要もあるようですし。ダヴィデ像を彫ったのはミケランジェロです。--頭痛 2012年2月8日 (水) 14:35 (UTC)
- ということでしたら、このような雑音を避ける意味でも、著作権がらみの記述を避け、あらすじの書き方のガイドラインに徹したほうがよろしいのではありませんか? 「
- こんばんは、一応こちらWikipedia:井戸端/subj/小説や映画の要約やあらすじは著作権違反でしょうか?では4000字の要約が著作権法に引っ掛かったとの事例がありました。参考なまでに。--220.208.181.187 2015年12月23日 (水) 13:44 (UTC)
コメント 少し上でみっちさんが指摘している、「Wikipedia:独自研究は載せない」との兼ね合いですが、これについては正式なガイドラインである「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」に、
- 記事は一次資料と二次資料のバランスの取れた使用を維持して書く。
- プロット自体は、もちろん利用可能な一次情報である。
という趣旨の解説があり、これを根拠とできるのではないかと思います。……まあ、ウィキペディアには「一次資料である本編をあらすじとして要約するのは独自研究だ」という見解の編集者さんが少なからずおられるのも確かなのですが、個人的にはあらすじの要約は、「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」において独自研究ではないと定義されている「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査」に含めて良いと考えています。--Kanohara 2012年2月6日 (月) 17:05 (UTC)
- ありがとうございます。私はどちらかというとその下の「専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説」にあたるのではないかと思っていました。まああまり大きな違いはないかもしれませんが。--頭痛 2012年2月7日 (火) 10:27 (UTC)
上で反対を表明されたWeb comicさんからその後の連絡がありませんので、説明に納得していただけたと判断し、近日中に先に述べた「関連プロジェクトなどに告知→1週間異論がなければガイドライン化」というプロセスに移りたいと思います。--頭痛 2012年2月13日 (月) 18:25 (UTC)
文面を少し修正してみました。要旨は変えず、言い回しの分かりやすさや用語の問題の少しの改善を意図したものです。ご検討ください。--Kojidoi 2012年2月18日 (土) 05:06 (UTC)
- 修正ありがとうございます。問題ないと思います。少々遅れましたが関連プロジェクトへの告知を実施しました。--頭痛 2012年2月18日 (土) 20:41 (UTC)
- 賛成 導入には賛成です。若干文言を修正しましたがまずい部分があれば再調整して下さい。
- 導入後に期待する課題として
- Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案とWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体との相互整理(個人的にはこのガイドライン(案)に一本化を推しますが、2本立てでも)
- あらすじ記述における一次資料の扱い。特に、検証可能性における出典としての評価(たとえばWikipedia:検証可能性#出典を示す責任は掲載を希望する側にのルールに対する一次資料のみの出典の有効性)。実務的には一次資料の出典の示し方(作品全体を要約するというあらすじの性質上、第何巻の何ページといった子細な出典提示が適さない場合がありうる)。
- なども検討されてゆけばさらに充実してくるのではないかと思います。2の問題はおそらくあらすじ記述特有の事情(あらすじは単純に二次資料優先とはいかないが、一次情報だけでは独自解釈の可能性や特筆性の評価を単純に判断できない)の中で非常に難しいバランス判断が必要だと思うのですが、現在のところそれ以前に出典が皆無のケースがまだまだ非常に多く、顕在化していないのかもしれません。--ディー・エム 2012年2月19日 (日) 06:20 (UTC)(誤記修正「一時」→「一次」--ディー・エム 2012年2月22日 (水) 12:44 (UTC))
- ご賛同ありがとうございます。前述しましたように1については今後まとめた上で文案を示そうと思っています。2についてはkojidoiさんが示してくださっている過去ログにも過去の議論があるようです[3]。英語版には作品からの引用や連載・シリーズ作品の場合などにページ数やチャプターなどを記すのは適切であるというようなことが書かれていますが、「何ページで○○、何ページで××」のような逐次的な記述を誘発しそうに思われたので割愛しています。前述したように私自身はあらすじにおける一次資料と二次資料の役割はそれほど難しい問題ではないと思っているのですが、例えばこうした方針のノートではなく、記事のノートなどでそうした論点をめぐって議論が起こったケースなどはありますでしょうか。--頭痛 2012年2月21日 (火) 10:40 (UTC)
- 過去の議論のご紹介ありがとうございます。一次資料を扱うバランス感覚の助言は参考になります。ただ、記事のノートでそういう議論が起こったケースは把握していません。
- 要するに、ウィキペディア内の共通認識として、フィクション記事のあらすじは他のウィキペディアの記事と違って出典の提示が必要ない(だから出典の無い記事が多い)と考えられているものなのか、それとも他と同じように本来は極力詳細な出典の提示が望まれるのか、もしくはストーリー記述ならではの(特に一次資料の)出典記載の考え方みたいなものがあるのか……といった、あらすじ節の出典の示し方のしきたりみたいなものがいまいちよくわからないので、その辺の説明があれば参考になってありがたいかなと思ったりしたので。--ディー・エム 2012年2月22日 (水) 12:44 (UTC)
- さしあたりは、英語版、日本語版ともに慣習的に「あらすじ」の中の作品の(単純な)出来事についていちいち出典をつけたりはしないようになっていると考えていいと思います。英語版のen:Wikipedia:How to write a plot summaryで示しているのも引用の場合や特に長い作品の場合で「何章で~が起こる」のような説明をする場合だけのようです。それに最近の作品であればともかく、膨大な版がある古典作品などでは特定の版によって一次資料のページ数などを出典としてつけても特定の人にしか役立たなかったりしそうです。とは言っても「一次資料の出典をこと細かに示したりしなくてもよい」といったことをわざわざ記載するのも、実際にそのようにされている記事が一定数あるとかいうことでもないのであれば薮蛇というか、指示の肥大化であるように思います。この点はなにか具体的な問題が起き上がったときに検討すればよいのではないでしょうか。--頭痛 2012年2月24日 (金) 04:00 (UTC)
- ご賛同ありがとうございます。前述しましたように1については今後まとめた上で文案を示そうと思っています。2についてはkojidoiさんが示してくださっている過去ログにも過去の議論があるようです[3]。英語版には作品からの引用や連載・シリーズ作品の場合などにページ数やチャプターなどを記すのは適切であるというようなことが書かれていますが、「何ページで○○、何ページで××」のような逐次的な記述を誘発しそうに思われたので割愛しています。前述したように私自身はあらすじにおける一次資料と二次資料の役割はそれほど難しい問題ではないと思っているのですが、例えばこうした方針のノートではなく、記事のノートなどでそうした論点をめぐって議論が起こったケースなどはありますでしょうか。--頭痛 2012年2月21日 (火) 10:40 (UTC)
- 反対 ここまでの議論、および文章を拝見してきましたが、現状の内容ですと反対せざるを得ないと考えます。まず文章の内容は既存のガイドラインであるWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)と重複する部分があるにもかかわらず、関連性を示すどころかリンクすら貼られておらず、この点で不適切と考えます。仮にガイドライン化を目指すのであれば、この点は明確にクリアする必要があるでしょう。またディー・エムさんの提案されている二次資料の要求ですが、前述したガイドラインの「文脈の提供」節にもあるように、「解釈の分野で迷わせるもの」以外については一次資料のみでも特に問題はないと明記されていることから、今回の提案は既存のガイドラインと矛盾する内容となってしまうため、これに対しては強く反対いたします。--Web comic 2012年2月23日 (木) 04:41 (UTC)
- ええと、まずWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)とのリンクがないことが問題であるなら単に追加すればいいだけのことではないのでしょうか。また同ガイドラインに「「解釈の分野で迷わせるもの」以外については一次資料のみでも特に問題はないと明記されている」とのことですが、そのことと現在のこの草案とがどのように矛盾しているのかご説明いただけますでしょうか。--頭痛 2012年2月23日 (木) 06:34 (UTC)
- 「ディー・エムさんの提案されている二次資料の要求」とはどこを指しているのでしょうかね。それらしい発言は《あらすじは単純に二次資料優先とはいかないが、一次情報だけでは独自解釈の可能性や特筆性の評価を単純に判断できない 》くらいしか見当たりませんが、これは《「解釈の分野で迷わせるもの」以外については一次資料のみでも特に問題はない》との記述と何ら矛盾していません。そもそもディー・エムさんは将来的な検討事項として一次資料問題に言及しているだけで、現状書かれてもいない記述を理由に「現状の内容ですと反対」とは一体どういうおつもりなのかと思います。なお、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)へのリンクを追加しました。これでWeb comicさんの反対理由は消失したはずです。Web comicさんは上でも反対を唱えられ、それについての反論に何ら応じることもなく、何日も経過した本日(草案は前回の反対表明時からほとんど変わっていないにもかかわらず)今度は全く違う理由を掲げて反対とおっしゃる。ご自分が主導して立ち上げたWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)以外の類似文書を認めたくなくて反対のための反対を唱えているようにしか見えません。--Kojidoi 2012年2月23日 (木) 15:01 (UTC)
- リンクを貼ったことで問題を解決したと主張されていますが、私は「リンクすら貼られておらず」と言ったまでで、リンクさえ貼れば問題ないとは一言も言っていません。まぜ問題なのかを具体的に言えば、現在の「あらすじの書き方」には、比較的長い文書であるにもかかわらずもっとも重要なはずの「あらすじ」とは何かという具体的な定義が示されていません。仮に定義をWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)と同じものだと考えられていた場合でも、前出のガイドラインには「あらすじ=プロット」と明記されているにもかかわらず、Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方においては「ストーリー」もあらすじの一種だと誤解を招きかねない、あるいはガイドラインと矛盾する内容が記載されており、この点でも問題と考えます。また定義が明記されていないうえに、対象範囲がごく限られた範囲である割には文書が全体的に冗長であり、これはWikipedia:方針とガイドラインの「対象範囲を保ち、冗長さを避ける」に照らし合わせても改善すべき点であると考えます。--Web comic (会話) 2012年3月2日 (金) 11:22 (UTC)
- あらすじの定義、とはいったい何のお話でしょうか。読めばわかるように、この項目では「あらすじ」という言葉はごく当たり前の「物語の大筋」という常識的な意味で使われているに過ぎません。なぜ「定義」が必要なのでしょうか?
- それから「プロット」云々ですが、残念ながらおかしいのはWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)のほうです。「あらすじ=プロット」というのはいったい何のことなのでしょうか。プロット (物語)によれば、「プロット」は狭義には「ストーリー」と対置されるもので、物語を再構成したもの、と説明されています。しかし本文で説明されているように、「あらすじ」を書く時には作品の順序にしたがっても従わなくてもよいと説明されています(このくだりはそもそも英語版の大体の訳です)。要は「プロット」でも「簡略化したストーリー」でもいいと言っているわけで、「あらすじ=プロット」である、というWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)の記述自体に根拠がありません。Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)は英語版からの訳のようですが、英語版には「あらすじはプロットであってストーリーではない」などという説明はありません。どうやらplotという、ごく日常的な「あらすじ」程度の意味で使われている言葉を文芸批評において「ストーリー」と峻別する際に用いられるごく狭義の意味でのplotと勝手に解釈してしまったのでしょう。これは単なる訳し間違いです。
- Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)はWeb comicさんの翻訳作成とのことでしたので、言い出そうかどうか今まで迷っていたのですが、この際はっきり言いましてWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)は誤訳だらけです。例えばWeb comicさん自身がご自分で引用されている「文脈の提供」という節にある「解釈の分野で迷わせるもの」という部分ですが、原文では”If such passages stray into the realm of interpretation”となっています。stray intoですから「迷わせる」ではなくて「迷い込む」などでしょう。「(もしそのような節が)解釈の領域にまで踏み込んでしまうのであれば」です。
- また「文脈の提供」(「提示」くらいがよろしいのでは)という節は最初の文章から、
- 一般的に創作した文脈と原書(オリジナルフィクション)の文脈という二つの可能性のものとみなされています。オリジナルのフィクションそのものが記事の主題であるとき、フィクション世界の外部にある情報は全て、そのオリジナルのフィクション(例えば、プロットの概要を含む)の文脈に設定される必要があります。
- という風にかかれていますが、これで何を言っているのか理解できる方がいるでしょうか。やや意訳を交えて試訳してみますが、たぶん
- (現実の観点から作品について述べる際に)一般に考慮されるべき二つの論点が考えられます。製作側の文脈と作品側の文脈です。フィクション作品それ自体が記事の主題となっている場合であれば、物語世界外の情報は常に(例えば作品の「あらすじ」を記事に含めたりすることによって)作品側の文脈に位置づけらている必要があります。
- のような感じになるのではないでしょうか。それほど自信はありませんが、少なくともThe context of the production はどう考えても「創作された文脈」とは訳せません。「プロットの概要」の短い節にもすぐ指摘可能な誤訳が見られます。ざっと見る限り全体にわたってこのような感じであり、「フィクションの記事をフィクション内部の視点で語らない」という最も肝心な点を伝えることは何とかできているとは思いますし、関連リンクとして示すことについて異存はないのですが、この文書は人に参照を促すレベルには至っていません。
- また現在の草案が冗長とのことですが、どこかどのように冗長なのか具体的に指摘してください。冗長というのは「無意味に長い」ということ(したがって短くできる)ということであって、必要な情報を入れた結果比較的長くなる、というものは冗長とは言いません。--頭痛 (会話) 2012年3月2日 (金) 11:58 (UTC)
- リンクを貼ったことで問題を解決したと主張されていますが、私は「リンクすら貼られておらず」と言ったまでで、リンクさえ貼れば問題ないとは一言も言っていません。まぜ問題なのかを具体的に言えば、現在の「あらすじの書き方」には、比較的長い文書であるにもかかわらずもっとも重要なはずの「あらすじ」とは何かという具体的な定義が示されていません。仮に定義をWikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)と同じものだと考えられていた場合でも、前出のガイドラインには「あらすじ=プロット」と明記されているにもかかわらず、Wikipedia:あらすじの書き方#具体的な書き方においては「ストーリー」もあらすじの一種だと誤解を招きかねない、あるいはガイドラインと矛盾する内容が記載されており、この点でも問題と考えます。また定義が明記されていないうえに、対象範囲がごく限られた範囲である割には文書が全体的に冗長であり、これはWikipedia:方針とガイドラインの「対象範囲を保ち、冗長さを避ける」に照らし合わせても改善すべき点であると考えます。--Web comic (会話) 2012年3月2日 (金) 11:22 (UTC)
- Web comicさんにおかれては、今週に入ってまた新たな後付の反対理由を思いつかれたというわけですか。こちらの再反論には答えず、忘れかけた頃に再来してまた別の反対理由を小出しに出してきて反対を唱えられる。もう3回目ですね。
- その反対理由たるや、全くお粗末千万なもの。あらすじの定義といいますが、本文冒頭に《作品内で描かれている物語の記述(あらすじ)》とあり、必要十分な定義は示されていますね。また、《前出のガイドラインには「あらすじ=プロット」と明記されている》とありますが、私にはどこに明記してあるのか見つけることができませんでした。WP:WAFに「あらすじ」という言葉は一箇所しか登場しません。《プロットとは、(中略)日本語版ウィキペディアの記事においては一般的に「あらすじ」「人物」などといったセクションに書かれるものです。》の部分だけで、これはどう読んでも「あらすじの定義」とは解釈できません。すなわち、矛盾どころかWP:WAFには本草案に示している程度のシンプルな定義すらありませんよ。「ガイドラインと矛盾する内容」って、一体何の話ですか。
- これではいつまで議論が収束しません。私にはWeb comicさんが、どうしてもスタイルマニュアルを唯一かつ絶対のガイドラインに位置づけておきたくて議論の撹乱を企図しているとしか思えません。もういいかげんにしてもらいたいものです。--Kojidoi(会話) 2012年3月2日 (金) 17:47 (UTC)
- Kojidoiさんの言われているとおり、ご自分の意見に対する反論を放置しておいて1週間おきに思いついたように難点を指摘する、というのでは話が進みません。24時間以内に返答せよというようなことは言いませんが、Web comicさんも編集履歴を見る限りでは特に週末にしかログインできないとかそういったことでもないようですので、返答は3日以内にお願いします。むろん考え中ということであればある程度待つことはいたしますが、「新たな指摘」をしたいのであればまずこれまでのあなたの意見につけられた私とKojidoiさんの意見にすべて答えた上で、疑問がもたれているご自身の意見の意図を明確にしてください。
- アルビレオさんからもその後ご返答がありませんので、3日以内に意思表明がなければ納得していただけたものと見なさせていただくことにします。--頭痛(会話) 2012年3月3日 (土) 10:09 (UTC)
- 三日たちましたが、他に異論はないということでよろしいでしょうか。まあガイドライン化されたあとでも変更のための議論はできますし、仮になにか致命的な問題が起これば無論格下げの提案もできるのですが。念のためもう2,3日待った上で異論がなければ正式にガイドライン化いたします。--頭痛(会話) 2012年3月7日 (水) 20:33 (UTC)
- コメント膠着するような問題点は特に無いと思いますので、あらためて正式ガイドライン化決定に賛成します。
- フィクション作品のあらすじ記述について実践的な助言が平易にまとめられており、実用性は高いのではないでしょうか。機械的な制限や禁止事項などの管理主義的ルールが抑制されている点もガイドラインとしてバランスが良く、運用面への好影響を期待します。
- あらすじ記述のノウハウ全般に特化してこういった機能を包括的に説明しているガイドラインは現状ではまだ無いと思いますので、他の文書と比較する必要はないと思います。--ディー・エム(会話) 2012年3月10日 (土) 15:27 (UTC)
- 頭痛さん、ディー・エムさんの意見に私も賛成です。これ以上待つ必要はないでしょう。--Kojidoi(会話) 2012年3月11日 (日) 01:03 (UTC)
- 三日たちましたが、他に異論はないということでよろしいでしょうか。まあガイドライン化されたあとでも変更のための議論はできますし、仮になにか致命的な問題が起これば無論格下げの提案もできるのですが。念のためもう2,3日待った上で異論がなければ正式にガイドライン化いたします。--頭痛(会話) 2012年3月7日 (水) 20:33 (UTC)
- 3日たちましたので、正式にガイドライン化しました。みなさんご協力ありがとうございました。次の段階として、既存の草案を「Wikipedia:宣伝的なあらすじ」にまとめる提案を行う予定です。ちょっと疲れたのでこれについては1週間後くらいを目処に準備したいと思います。--頭痛(会話) 2012年3月11日 (日) 04:55 (UTC)
スタイルマニュアルの方は、いきなり「現実世界の観点」などと抽象的な話から始まり、次の「一次情報と二次情報」は、具体的に何をどう書くかというよりは一次情報とは何かという定義の話に終始しているなど、全体的に実践よりは理論志向といえます。これに対して、本案は「では実際どう書くか」にフォーカスをあてた実践志向である点がこれまでの既存文書を補完していると思っています。これはWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案でも目指した方向でしたが、総論賛成各論反対な方々が多く、結局空中分解です。今度はその轍は踏ませたくありません。欲張ってあれもこれもと盛り込まず(それはスタイルマニュアルの方で存分にやっていただきましょう)、「誰もが認める実践的なあらすじの綴り方」に限定して、簡潔にまとめればいいと思います。--Kojidoi 2012年2月23日 (木) 15:01 (UTC)
コメント あらすじの文体について1点、導入部の文章のニュアンスについて1点コメントします。 文体についてはセクションを分けます。導入部については、言い回しレベルなのであまりこだわりませんが、「以下の解説がうまく当てはまらないようなものも必ず存在します」と断言するのはガイドラインにふさわしくないと思います。「存在するかもしれません」くらいで良いのではないでしょうか。(存在するのがわかっているのなら最初から書いておけよ、と思ってしまいます)--アルビレオ 2012年2月25日 (土) 04:01 (UTC)
- ヌーヴォー・ロマンの作品やある種の実験映画のように、草案内容を当てはめることができない作品記事の事例は明らかに存在します。またそうしたものを「例外」として羅列していってもしょうがないのではないでしょうか。--頭痛 2012年2月25日 (土) 05:01 (UTC)
質問です。Wikipedia:過剰な内容の整理との両立はどうすれば出来るのでしょうか。例えば、とあるキャラクターを騙した手口とか、普段はそこにないはずのものがなぜ有ったのかとか、刑事物である事件の捜査中に、キャラクターの一人が過去に似て非なる事件があって、その事件ではこんなことがあった、と捜査中の事件との差異を語る場面があって、その差異の例として挙げられた例は書いた方が良いですか?なんどもWikipedia:過剰な内容の整理に引っかかるとして差し戻されている経験があるので。--RJANKA(会話) 2013年3月12日 (火) 15:46 (UTC)
- どの記事でしょうか。基本的にあらすじは「物語の流れ」を説明するためのものですので、その説明がなければ話全体の流れの解説が困難になる、というようなものでなければ省略するのが良いと思いますが。--頭痛(会話) 2013年3月12日 (火) 21:40 (UTC)
ディー・エムさんとの議論にも関係する点ですが、Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)の改訳にともない、「第一章では・・・」「第三話以降では・・・」というふうに作品への参照をおこなってよい、という点を加筆しました。--頭痛(会話) 2012年4月2日 (月) 23:19 (UTC)
あらすじの文体について
前半の文章は必要ですか? まず「現在形をベースにするのが慣例」について疑問です。以前Wikipedia‐ノート:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体#作中の出来事、登場人物の行動などを「過去形」で記すことについてで議論したことがあるのですが、
- Yahoo!百科事典のあらすじでは、現在形のものが多いとは言えそうだが、過去形のものもそれなりに存在している。
- そのときの問題を提起したIDCMさんは、逆に『「過去形」が多用されているのが気になる』と言っていて、ウィキペディアのあらすじでは「現在形をベースにするのが慣例」ではないと思われる。
- (その時の議論でも言ったことですが)日本語では英語ほど現在形、過去形にこだわらないのが普通であり、現在形が続く文章には個人的に違和感がある。
などから、前半を削除して後半だけにすることを提案します。--アルビレオ 2012年2月25日 (土) 04:15 (UTC)
- 「慣例」としたのは英語版からの翻訳によるものですが、そこは「Wikipediaにおける慣例」ではなく、「あらすじ」を記述する際の一般的な慣例だと解するべきだと思います。実際「あらすじ」は普通現在形をベースに書かれます。アルビレオさんが過去の議論なかで挙げられているyahoo百科事典(≒日本大百科全書)の例[4], [5]はどちらも執筆者が同じですが、いずれも作品の序盤の展開し記されておらず、特に後者などは「ミュールの正体は何か? そして第二ファウンデーションの所在は? 謎(なぞ)の解明が強烈なサスペンスを生むアシモフの代表作。」などというような「宣伝的なあらすじ」の見本のような文言が見られます。公刊されているヨソの事典にケチをつけることになってアレですが、端的に言って「参考にすべきでない例」だと思われます。過去の議論でIDCMさんが言われているように「大抵は過去形を使わず「 - する」「 - となる」といった書き方がされて」いることが確認でき、例外がそうした2,3の(あまりよろしくない)例しか確認できないのであれば、それは「現在形を使うのが慣例」と言い表すのがもっとも適切ではないでしょうか(紛らわしければ「一般的な慣例です」とするべきでしょうか)。
- いずれにしても「慣例である」とした上でなぜそれが慣例であるかを説明している部分ですので、実際にそうしたほうがよいかは(冒頭で明言しているように)作品によって執筆者が個別に判断すべきことです。このくだりは削除すべきでないと考えます。
- 現在のWikipediaの作品記事のうちで、過去形をベースにしており、かつ模範的だと思われるレベルの「あらすじ」が書かれている例を挙げることはできますでしょうか? 過去の議論におけるIDCMさんの発言も「過去形がベースになっていることの違和感」を元にした発言であり、単に「過去形をベースにしたあらすじが日本語版に多数ある」というだけでは、不適切な例が多数あるということと区別ができないと思います。--頭痛 2012年2月25日 (土) 04:59 (UTC)
既存の二草案について
前述の通りWikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案とWikipedia:ウィキペディアにふさわしいストーリー紹介の文体のまとめなおしの作業を始めてみたのですが、統合したうえですこしはじめのほうの文言を調整くらいで済むかと思っていたところ、当ガイドラインとの分担関係などを考えると結局ほとんどすべて書き直さくてはならなさそうだということがわかりました。一応「宣伝的なあらすじ」として半分くらいは書いたのですが、正直当ガイドラインに加えて是非とも必要かというと疑問ではないかという気がしてきています。是非必要という意見がないのであれば作成中止して既存の二草案は「歴史的文書」に移したほうがよいのではないかと思うのですがいかがでしょうか。「あとでまとめなおす」ということを前提に本文書のガイドライン化の議論を進めていたのでちょっとアレですが。--頭痛(会話) 2012年3月20日 (火) 07:31 (UTC)
- コメント似たようなガイドラインが散在するよりはこの文書に一本化する(した)ということで、むしろその方が分かりやすいと思います。ただ、採用されなかった草案を歴史的文書とするのは若干違和感があるので、{{私論}}のほうが良いでしょうか。--ディー・エム(会話) 2012年3月20日 (火) 09:37 (UTC)
- 解説素案を提案するにあたって想定した内容は、当該文書に取り込んでいただいてます。解説素案についての議論は迷走してしまい、これ以上の発展可能性はなさそうだと考えざるを得ません。最初にこれらを提案した私としては、まあ当該文書の呼び水としてはこれらの素案が役に立ったろうということで満足すべきなんだろうと思います。ふたつの旧素案にラベルをつけるとすればやはり{{私論}}でしょう。--Kojidoi(会話) 2012年3月20日 (火) 14:50 (UTC) 修正--Kojidoi(会話) 2012年3月20日 (火) 23:55 (UTC)
- それでは整理のためにこの二草案はもとのかたちのように一つに統合しなおし、その上で「草案」から「私論」に移行、また混乱を回避するため冒頭に現行のガイドラインとして「あらすじの書き方」への案内をつける、「記事内容のルール」「記事のスタイルのルール」からははずす、ということでよいでしょうか。
- 書きかけの「宣伝的なあらすじ」については今後のJAWPの展開しだいでもし必要になったら当該の二草案とはべつに作る、ということにしておきます。--頭痛(会話) 2012年3月22日 (木) 02:54 (UTC)
- 私論と言いましたが、いまテンプレート一覧を見ていたら{{Rejected}}というのもありました。こちらのほうが実態に即しているかもしれません。それから、わざわざ手間をかけて統合する必要がありますかね。それぞれにRejectedを貼って、当ガイドラインへのリンクを追加すればそれで十分のような気がしますが。--Kojidoi(会話) 2012年3月22日 (木) 15:48 (UTC)
- 却下された草案ですね。「私論」よりもそのほうが迷いがないと思うのでそちらを支持します。統合はしておいたほうが後からみて分かりやすいかなと思ったのですが、まあどちらでもかまいません。--頭痛(会話) 2012年3月23日 (金) 12:20 (UTC)
- (追記)反対がなければ2,3日後にそのようにいたします。--頭痛(会話) 2012年3月23日 (金) 13:53 (UTC)
- 当該2草案記事において、ここでの廃止提案議論を告知しました。--Kojidoi(会話) 2012年3月23日 (金) 15:57 (UTC)
- や、ありがとうございます。それではやはり1週間待ったほうがよいですね。--頭痛(会話) 2012年3月23日 (金) 15:59 (UTC)
- 上記実行いたしました。--頭痛(会話) 2012年3月31日 (土) 10:16 (UTC)
- や、ありがとうございます。それではやはり1週間待ったほうがよいですね。--頭痛(会話) 2012年3月23日 (金) 15:59 (UTC)
- 当該2草案記事において、ここでの廃止提案議論を告知しました。--Kojidoi(会話) 2012年3月23日 (金) 15:57 (UTC)
- 私論と言いましたが、いまテンプレート一覧を見ていたら{{Rejected}}というのもありました。こちらのほうが実態に即しているかもしれません。それから、わざわざ手間をかけて統合する必要がありますかね。それぞれにRejectedを貼って、当ガイドラインへのリンクを追加すればそれで十分のような気がしますが。--Kojidoi(会話) 2012年3月22日 (木) 15:48 (UTC)
あらすじ関連のテンプレートを作成しました
ガイドライン化を踏まえてTemplate:不十分なあらすじおよびTemplate:要あらすじというのを作成してみました。使用方法に関する統一的な議論は必要であればこの場を想定しています。--頭痛(会話) 2012年4月2日 (月) 13:44 (UTC)
実は以前、Wikipedia:ストーリー紹介の在り方についての解説素案を提起した際、今考えれば気が早すぎましたが、Template:百科事典的でないストーリー紹介というのを作ったのです。ところがご存知のように本体の議論が頓挫してしまい、このテンプレートは宙に浮いてしまいました。そこで、上記Template:不十分なあらすじのフォーマットを参考に第三のテンプレとして再整備し、現在もなお後を絶たない「宣伝的なあらすじ」の再生産を戒める目的で使用できるようにしたらどうかと思っているのですが、、どうでしょうか。--Kojidoi(会話) 2012年5月12日 (土) 02:53 (UTC)
- 私も「宣伝的なあらすじ」用の注意テンプレートの必要性は感じておりました。現在議論が止まっているTemplate:宣伝的なあらすじもあるのですが、これらの機能をまとめて整備するのがよいのではないかと思います。--頭痛(会話) 2012年5月12日 (土) 03:30 (UTC)
- Template:宣伝的なあらすじの方は全く視野に入っていませんでした。確かにやろうとしていることがかぶっていますね。ちょっと考えてみます。--Kojidoi(会話) 2012年5月12日 (土) 14:28 (UTC)
一部ゲーム作品のあらすじに関して
一つ疑問に思いましたがマルチエンディング(およびマルチルート)や任意イベントを採用しているゲーム作品にはTemplate:不十分なあらすじおよびTemplate:要あらすじを適用しない方がいいのではないのでしょうか?確かにWPのガイドライン上物語全般を書くのが望ましいとされてますが作品によってはマルチエンディングが存在する作品および任意イベントだらけの作品だとこれらを全てあらすじに入れて書けと言うのは無理な部分があります。 例えばザ・ブルークリスタルロッドやサイバリオンはエンディングの数が膨大に存在するし任意イベントが存在する作品ではストーリー上重要な物でも成功パターンや失敗パターンなどのフラグが複数ある以上これらを含めてあらすじには書ききれません。ネトゲーに至ってはプロローグ以外のストーリーはアップデートによって増えるため全体の流れを書くのはまず不可能です。 ゲーム作品においてはそれらを考慮してテンプレート張ってるのだろうか疑問に思うのですが…。--113.150.247.59 2013年6月14日 (金) 22:16 (UTC)
- 一年越しですが。その場合はそもそも「あらすじ」という節が不適当なのでは。小説や映画の「あらすじ」と同じ形式に拘る必要はないかと思います。ゲームプレイ毎に大きくストーリーが分岐するあるのであれば、単純にその旨を記述し、どういったプレイでどういったパターンに分岐するのかを記述してゆけば良いと思います。作品を説明するのに詳細な説明が必要なのであれば、「世界観」や「クエスト」のような節を設けてもいいでしょう。ともかく一律の形式には拘らず、その作品を百科事典として説明するにはどうすれば良いか、ということを念頭に置けば答えは見えてくると思います。テンプレートはあくまで改善が必要ですよ、と周知するのが目的です。--119.241.46.128 2014年7月23日 (水) 06:30 (UTC)
あらすじの長さと適切なスタイルについて
最近のフィクション作品関連のノートにて、あらすじのスタイルをめぐる議論がありました。フィクション作品全般に関わる問題であると考え、この場でよりよいスタイルについて広く意見を募りたく思います。
議論の背景
発端はプロジェクト:映画における議論プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#あらすじの長さでした。この議論はもともと2012年に話し合いが行われた節ですが、2014年10月になってIPユーザのIP:222.230.132.39(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)氏(以下IP氏とする)が議論再開をしました。
主にあらすじ文章の長さについて、現行1500字から2500字が適当とされるところを、IP氏は翻訳会社の調査結果をもとに720 - 1260字が適当であると意見されました。これに対し、利用者:Kanohara(会話 / 投稿記録 / 記録)氏は複雑な筋立ての物語については、これを越えて長くなることは避けられない場合もあること、また、あらすじが短くまとめられている記事については、序盤のみを書いて終盤を省きネタバレ隠しをしているなどの問題があり、その他編集を委縮させるデメリットがあるのではと指摘されました。その後の議論は読んでいただければ分かる通り合意には達していません。
私、Garakmiu2は後から議論に首を突っ込みましたが、意見としてはどちらかといえばKanohara氏寄りで、IP氏が例に挙げられた記事の現状は記事の質としてよいものとはいえず、具体的な改善の例示を希望すると意見しました。その後IP氏は議論に参加しないままフィクション記事の編集を続けました。しかし氏が映画『叫』でされた編集は、単なるネタバレ隠しの域を出ないものと私には思われ、映画『ミラーズ2』でも同様のものであったため、テンプレートによる注意喚起と剥がし合いなどのゴタゴタを経てノート:ミラーズ2#あらすじ部分についてで話し合いが行われましたが、前議論での参加者が少ないということ、Wikipediaにおける「あらすじ」のあり方全般に関わる件のため、一記事のノートを離れて議論した方がよいと考えこちらに場所を用意した次第です。
ポイント
- あらすじの適切な長さとは結局どの程度なのか?
- 「Wikipediaでは結末を書くことを禁止してはいませんが、結末を書かなければならないという規定はありません。書かなければならないのはそれが無くては作品の真意が損なわれる場合のみです。」という意見がIP氏から出ましたが、ならば『ミラーズ2』のように、結末を省いて三点リーダで曖昧にする形は正しいと言えるのか。
- また、適切な長さとは果たしてどのくらいになるのか。「本来あらすじとは短ければ短いほどよいものです」とIP氏は言っているがそれは正しいのか。
- 読者の目を意識した編集とはどういった形になるのか
- 上の議論のうち、IP氏は私のあらすじに対する理解が「すべてのストーリーの詳細をまとめたもの」であるといい、それは読者の目を意識していないというが、では読者が求めているのはIP氏が書くような形態のあらすじなのか。それはWikipediaという百科事典に求められるスタイルと一致しているのか。
- 余談:Garakmiu2の編集しているフィクションのあらすじは適切か
- これについては個人的なお願いなので会話ページや個々の記事ページなどに移動していただいても構いませんが、私は自分の利用者ページでこれまでにあらすじを書いた記事をリストアップしています。IP氏の言うように私の編集姿勢に問題があるのならこれまでに書いた記事も欠陥品ということになりますので、駄目出しが必要なら個別に指摘していただきたく思います。
以上をポイントとして、Wikipediaにおけるあらすじの理想的あり方について、幅広いご意見をお待ちしています。--Garakmiu2(会話) 2015年1月7日 (水) 17:18 (UTC)
- 私のあらすじに関する考え方は基本的にIP氏に近く、「短くて済むなら短いほど良い」と思っています。「ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありません」の「1.フィクション作品におけるあらすじのみの解説」には、「作品のあらすじ、登場人物、設定について適度に簡潔な解説が記述されるべきです」とあります。フィクション作品記事のあらすじは「こんなストーリーだ」と簡潔な説明をし、作品を知らない読者が「作品の概要」を理解できれば充分だと私は考えます。
- 「読者の目」という話が出ていますが、そもそもWikipediaのフィクション記事は「作品を知らない初心者」のためにあるもので、「詳しいファン」のためのものではないと思います。ファンとしては好きな作品の説明文はたくさん書きたくなってしまうものですが、詳細なストーリーはWikipediaではなく、個人サイトやファンサイトの領域だと私は思います。
- ただ、IP氏のようにあらすじの最後を「…」とぼやかして引くのは、読者の興味を引っ張ろうとする宣伝的な書き方なので望ましくなく、あくまで客観的な視点で書く必要があると思います。結末まで書くかどうかについては、私は個人的には結末までは書かない流儀です。そこまで書かなくても読者に作品の概要を伝えることはできると考えるからです。が、他の執筆者が結末まで書くことに反対する気はありません。ただ、上記のWP:IINFOにあるように、些細な内容は書くべきではないと思っています。
- もう一つ、読者側の視点で書きますと、「出典無しの長いあらすじを読まされてもそもそも信用できない」ということがあります。フィクション作品のあらすじは、その他の項目と違い、作品そのもの(一次資料)を元に書くことが認められています。記事の「あらすじ」節に何も出典が付いていなければ、読者は「執筆者が作品を観て書いたのだろう」と判断して読むでしょう。しかし執筆者がウソや間違いを書いているかもしれませんし、執筆者独自の解釈や推測などが入っているかもしれません。少なくとも私が読者としてフィクション作品記事を読む時は、出典無しで数十行ものあらすじがあっても迂闊に信用できないので、正直飛ばし読みします。「いいから端的に『どんな作品なのか』の信頼できる情報をくれ。細かいストーリーや結末はわからなくてもいいから」と思います。しかし外部資料(二次資料)の出典が付いているあらすじなら、ある程度は信用して読むことができます。
- 「プロジェクト‐ノート:映画/映画作品スタイルガイド#あらすじの長さ」で挙げられている作品を例に取りますと、「アベンジャーズ (2012年の映画)」のあらすじは出典が1つだけ(ただし公式サイトなので二次資料ではない)、「プロメテウス (映画)」「イングロリアス・バスターズ」はストーリー説明に全く出典が付いていません。記事の信頼性のために、できるだけ出典資料を元に書くべきでしょう。特にメジャーな映画作品であれば、評論や解説などの資料はたくさん見つかるだろうと思います。
- 具体的に映画のあらすじの分量がどの程度が望ましいのかは、私は映画分野に詳しくないのでよくわかりません。Garakmiu2さんが過去に書かれたあらすじが適切かどうかも、すみませんが同様の理由で判断がつきません。あまり役に立たないコメントかもしれませんが、以上です。--Shiro0922(会話) 2015年1月9日 (金) 04:58 (UTC)
- コメントWikipediaのフィクション記事が「作品を知らない初心者」のためにあるというのは方針の誤解であると思われます。勿論「詳しいファン」のためのものではありませんし、対象を限定すること自体がそもそもの間違いです。この点過去に何度もネタバレ関連についてはノートで議論が行われ、ネタバレのテンプレート廃止にいたった経緯があるわけですが、気楽に読める、編集が可能だからといって、Wikipediaが紙の百科事典とは異なる存在だというわけではありませんし、そうであってはいけません。無論誰にでも編集が可能という違いがありますので、できるだけ信頼できる情報源を用いて記事が書かれていることが望ましいでしょうが。仮に内容が間違っていると感じたのであれば、それは好事家が個々に対応するべきなのであって、百科事典としての基本理念にまで影響を及ぼすというのはおかしいでしょう。それらはフィクション作品の記事に限った話ではありません。些細な内容については個人サイトやファンサイトで行うべきでしょうが、物語の核心部分や重要なネタバレについてはそれらに簡潔に触れるべきなのであって、初心者向けであるという誤解を元にカットするのは方針の不理解に他なりません。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月9日 (金) 15:05 (UTC)
- コメント CHELSEA ROSEさんには少し誤解があるように思いますし、私も言葉が足りなかったかもしれないので、改めて書きます。「Wikipediaの記事は作品を知らない初心者向けだから(A)、結末やネタバレを書かない(B)」とは私は言っていません。(A)と(B)は全く別の話で、両者を直接結びつけるようには書いていなかったつもりですが、その辺りがうまく伝わっていなかったらすみません。
- まず(A)の「初心者向け」についてです。「対象を限定すること自体がそもそもの間違い」というのは、一面では確かにその通りです。ただ、Wikipediaは広く多くの人が見るもので、基本的には記事主題(今回の場合は映画作品)のことを知りたいと思う読者が見に来る訳です。まずは大多数の「作品を知らない初心者」を想定して記事を書くのは当たり前のことではないでしょうか。これはWikipediaのルール以前の、利用者を迎える側の「ホスピタリティ」「気遣い」「準備」といった一般的な話だと思います。ですからまずは「どんなストーリーなのか」を簡潔に読者に伝えられるあらすじが大事ではないでしょうか。
- (B)の結末やネタバレの件については、あくまで私個人の書き方・流儀として書きましたし、それ以外のやり方を否定してはいません。また、直接(A)と結びつけている訳ではありません。読者に伝わりやすく簡潔なあらすじなら、ストーリーの結末やネタバレが書かれていても問題は無いでしょう。逆に結末まで説明するために延々と長文が続くあらすじなら、いくら執筆者が「結末は重要だから」と言っても、それを読む読者の多くにとっては苦痛で迷惑だと思います。作品を調べに来る読者は、それだけの長文を読む努力をする映画好きなファンばかりではないからです。多くの人が読む百科事典だからこそ、簡潔に読者に伝える記述が必要だろうと思います。
- 「Wikipedia:ネタバレ」のガイドラインでは「ネタバレという理由によって、該当する記述をウィキペディア上から除去することは認められません。」と書かれていますが、「あらすじはネタバレも含めて結末まで書け」とは書かれていません。「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)」も同様です。フィクション作品の記事であらすじの説明が重要なのは論を待たないでしょうが、結末まで書くかどうかは記事や執筆者によって判断が分かれるところだと思います。私としては、「ネタバレも含めて結末まで書く」ことよりも、「簡潔で読者により伝わること」や「内容の正確性・信頼性」の方が大事だと思っています。
- 私の会話ページでの以前の議論でもそうですが、CHELSEA ROSEさんは結末やネタバレなどについて、過剰に反応しているように私には感じられます。あらすじで結末やネタバレを書かないのがそんなにいけないことでしょうか? 読者に作品内容を伝えるにもいろいろなやり方があると思いますし、CHELSEA ROSEさんが作品記事を書く時には、自分が思うとおりにあらすじを結末まできっちり書けばいいだけの話ではないでしょうか。お互いにより良い記事を目指して執筆すればいい、それだけのことだと思います。話が議論の本題から逸れてしまってすみません。--Shiro0922(会話) 2015年1月10日 (土) 10:17 (UTC)
- コメント Shiro0922様のお考えは理解しておりますが、作品を知らない初心者(?)が大多数である事の根拠がまず乏しいという点、そしていずれにしても「そういう読者を想定して書くのが当たり前である」というのは百科事典においては間違いであるといえます。百科事典の基本そのような基本方針が存在するのであれば別ですが、その点は誤解なきようお願いいたします。まず概要とあらすじは別物です。くわえて、知らない人が多いだろう、だから楽しみを損なわないようにという気遣いは全く無用です。というか、初心者(?)への考慮(そもそも"百科事典"を読みにくるような人間が、結末を知りたくないという根拠や統計は存在しません)がなされていなければ、思いやりや気遣いやマナー意識に欠けているというのはおかしいのではないでしょうか?ひとつ間違えれば他の利用者に対して、意識の押し付けになるということです。また、「あらすじはネタバレも含めて結末まで書け」とは書かれていませんとおっしゃっておられますが、あらすじである以上は起承転結、その全体の流れを記すことが大前提であり、敢えて何故結末だけはそう避けようとされるのか、まずそこが理解に苦しむところです。「あらすじ」は「概要」や「冒頭部分の紹介」とは違います。そして「簡潔で読者により伝わること」や「内容の正確性・信頼性」と普通に両立できるのではないですか?何ゆえShiro0922様はしきりに簡潔にすべきである・正確性信頼性を重視せよという当たり前のことを、ネタバレや結末までの言及を避けることをことさら結びつけて語ろうとされるのかが一番よくわからないところです。簡潔に伝えるのであれば他に削るところがあるというお考えにはどうしてならないのでしょうか、どうして結末やネタバレを避ければ簡潔になるという結論に至ってしまうのでしょうか?いつも必ずそういった形で議論が逸れてしまうように思います。無論、Shiro0922様に悪意があってそのようなご意見を述べられているのではないとは重々承知しておりますし、無論Shiro0922様個人が記事の加筆をされる際はそのように心がけるのはご自由なのですが、ある一定層の読者を対象とした記事の書き方をすべきではないか、記事を簡潔にまとめるのであれば結末についての描写を避けるべきというではないかというご意見を、Wikipediaにおける社会通念であるかのように他の利用者に結果的に伝播させてしまう可能性を心配し、コメントさせていただきました次第です。以前からの議論や、ネタバレに関して未だに禁止であるかのような、Shiro0922様以外の不特定のIP利用者の言動も時々目につくことがあり、少々きつい言い方になってしまった部分もあり申し訳ありません。どうかお気を悪くなさらずお願いいたします。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月10日 (土) 15:11 (UTC)
- すみません。CHELSEA ROSEさんにまたいくつか誤解があるようなので書きます。「知らない人が多いだろう、だから楽しみを損なわないようにという気遣いは全く無用です。」と書かれていますが、「楽しみを損なわないように」とか「ネタバレだから書くのを避ける」といった話は全くしていません。私が上で「気遣い」と書いたのは、「読者にある程度の知識があることを前提に記事を書くのではなく、作品を全く知らないと想定して書く」という一般的な気遣いのことです。
- 「作品を知らない初心者(?)が大多数である事の根拠がまず乏しい」というのは確かにその通りですが、逆に「作品についてある程度知識を持っている読者が多い」という根拠もありません。それならばまず「全く知らない初心者」を想定して記事を書くのは、私は至極当たり前だと思うのですがいかがでしょうか。例えばその映画作品のファンが集まるファンサイトだったら、「読者は作品について基本的なことは知っている」と想定して説明を書いてもいいでしょう。しかしWikipediaは多くの人が読む百科事典ですから、「知らない人お断り」と読者を制限するような場所では無いはずです。
- 「どうして結末やネタバレを避ければ簡潔になるという結論に至ってしまうのでしょうか?」「記事を簡潔にまとめるのであれば結末についての描写を避けるべき」というのも、私はそのようには書いていません。簡潔にあらすじを記述できるなら結末やネタバレを書いてもいいでしょう。しかし結末まで説明するのに長文を費やして、読者が理解しづらくなったり余計な負担を掛けたりするようなら、結局はちゃんと読んでもらえなかったり伝わらなかったりします。読者のことを考えて、そうした事態は避けるべきではないか、ということです。もちろん結末以外の途中の些細なエピソードなども、削れる部分はできるだけ削って簡潔にするべきだと思っています。
- あと、こうしたことを書くとまた本題から外れるかもしれない、と思ってこれまで書かなかったのですが、私が「簡潔に」「初心者のために」と何度も言っているのは別の理由もあります。私が主に関わっている美少女ゲームの記事では、あらすじや登場人物説明で些細なエピソードやトリビアばかりが加筆されることがよくあります。「このキャラが~した」「~と言った」「実は~だった」など、作品の中でどれだけ重要かといった判断や取捨選択がされずにゴチャゴチャと情報が追加され、読者にわかりづらい説明になってしまいます。それらは結局、執筆者の「俺はこれだけ作品に詳しいんだ」「こんなことを知ってるんだ」という知識自慢・トリビア自慢で、「読者の目」を考えない自己満足になってしまっています。私が「簡潔に」「初心者のために」と強調したり、「あらすじにもできるだけ出典を付けるべき」と考えるのは、読者のことを考えないそうした加筆を防ぐため、という面もあります。「作品に詳しい執筆者が書くからこそ、情報の取捨選択ができる」のも確かなのですが、その結果「作品に詳しいファンにしかわからない」「ファンにしか読めない」記事になってしまってはいけないのだと思います。
- 以上で私が言いたいことは一通り書きましたし、何度も話が逸れてしまって皆さんに申し訳ないので、すみませんが以後は静観させてください。--Shiro0922(会話) 2015年1月11日 (日) 06:55 (UTC)
- コメント 美少女ゲームの場合は、選んだヒロインによってパラレルなストーリーへと分岐したり、ハッピーエンドとバッドエンドに分岐したりする要素もあるので、結末までのあらすじをまとまった形で記述することが難しい傾向はあるでしょう。そのため、美少女ゲームなどで結末までの内容に触れる場合、あらすじに詳細な内容を書かずに登場人物のセクションに詳細を書いたりする傾向はあると思うのですが、それはそれで問題があります。そもそも、ウィキペディアにおけるあらすじの書き方の各種ガイドラインが整備されるきっかけとなった議論として、「Wikipedia:井戸端/subj/貧弱なあらすじと過剰な登場人物・用語解説」のような問題提起があり、現在のガイドラインにも「Wikipedia:あらすじの書き方#登場人物節との関係」として、セクションを設けて解説がされています。登場人物の説明としてエピソードやトリビアが加筆されていくような状態は、「プロジェクト:フィクション/登場人物と設定の記述」や「Wikipedia:過剰な内容の整理」において避けるべきこととして戒められています。--Kanohara(会話) 2015年1月11日 (日) 08:33 (UTC)
- コメント「作品を全く知らないと想定して書く」というのであれば、なおさらネタバレや結末の描写を避けるのは適切ではないでしょうね。知らない人のために結末までの全体のおおまかな流れをわかりやすく描写するのが良いかと存じます。むしろそれが気遣いなるかと思います。簡潔にあらすじを記述できるなら結末や重要ネタバレを書いてもいいとおっしゃられるのであれば、些細な内容に長文を費やして読者が理解しづらくなったり余計な負担を掛けたりする可能性というのは、結末や重要なネタバレなどは些細な内容ではありませんので、そもそもそれには当たらないでしょう。Shiro0922様が本気でそうお考えであれば、本来見解の相違があるようには思えず、確かに我々の間で齟齬があったのやもしれません。知識自慢・トリビア自慢であるという言い方については少しどうなのかとは思いますが、後はおおむね同意であります。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月11日 (日) 10:00 (UTC)
- あらすじの適切な長さ…これは主要なプロットを押さえたものなら短くてもよろしいかと。具体的に何文字が目安かというのは、強力な根拠はないように思いますので投票ででもで決めるしかないかもしれません。サウンド・オブ・ミュージックとかになると長すぎのような。
- あらすじとはどんなものであるべきか…それはこの文書をよく読んでいただければ、最後に「…」で終わるあらすじではないことが「あらすじの文体」で述べられているので、解決するかと。ちなみに「あらすじには出典は基本的には不要です(特殊な場合のみ必要)。」これは昔「Wikipedia‐ノート:出典を明記する/過去ログ4#あらすじと出典の明記」で議論したとおりです。--Afaz(会話) 2015年1月9日 (金) 10:40 (UTC)
- Afazさんの貼られた議論を読み返してみましたが、大変参考になりました、ありがとうございます。主題とは少々脱線してしまっていますが、あらすじがウソかもしれないし信用できないから出典が必要であるという考えは、過去の議論を拝見する限り原典を最重要視すべきであることを考えればやはり適切ではないように思います--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月10日 (土) 20:50 (UTC)
- コメント 映画や小説といった物語は基本的に結末は重要であると思われます。Wikipediaはあくまで百科事典です。内容を全くしらないもしくはよくしらない読者に配慮をして文章を書くべきではありませんし、そのような配慮によって重要な内容が欠落している状態は健全であるとはいえません。例として出ているインディペンデンスデイやミラーズ2はあらすじが途中でぶった切られているような状態ですので、内容が不足していると言わざるをえません。逆に、些細な内容であればまだまだ削れる部分があるかもしれません。そのような「短ければ短いほどよい」という目的意識をもって重要な内容が削られているのであるとしたら極めて不適切です。Wikipedia:ネタバレ、Template:ネタバレへの過剰な配慮にあるように、「品本編に触れる読者から驚きや楽しみを奪わないための親切心」は百科事典には不要です。それらは公式サイトやネタバレに対する注意喚起をしているファンサイトで事足ります。無論、物語における重要なネタバレ等ではなく、些細な内容についてはそれらもまたファンサイト等で取り上げるべきであると考えておりますが。ただ、正直それがないあやふやなものだからといってネタバレに対する過剰な配慮であるとか意図的なものであるとは限りませんし、内容によると思いますので、テンプレートの運用に異論が出た場合は各ノートでよく話し合いをされることをお勧めいたします。加筆されるのもそちら側の自由ですし、それら好事家に委ねられている状態ですので、結局は加筆する意思のある利用者が出てこない以上は分量が増えようがないという側面もあります。元から書いてあった重要なネタバレや結末などを除去した場合などは、差し戻し対応で問題ないかと思われます(一言でいって、叫の編集は問題外だと思う)。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月9日 (金) 14:49 (UTC)
- コメント 名前を呼ばれているようなので、私からもコメントします。
- あらすじの適切な長さ……物語の発端から結末までを短い内容で説明できるのであれば、それに超したことはないと思いますが、文章を短くするために百科事典としての役割を損なってしまっては本末転倒です。複雑な筋書きが作品の特徴になっているような作品では、長くなってしまうのも仕方ないと考えます。
- 読者の目を意識した編集……私の考える「内容を全く知らない、もしくはよく知らない読者への配慮」というのは、「ネタバレをしない配慮」とは逆です。その読者がウィキペディアの記事や社会の反響(なぜ、その作品が大きな反響を得たのか)を理解するために必要なことは、それが結末の内容であっても書くのが、内容を知らない読者のためだと考えます。もし、物語の途中で作品の印象を一変させてしまうようなどんでん返しがある作品において、その真相を避けようとすれば、読者を真相から遠ざけて内容を誤解させるように仕向けるような記事を書くことになります。本当は主人公を騙している腹黒くて邪悪な登場人物の説明に「主人公に対して優しく振る舞い、協力を惜しまない」という解説をつけたりとかですね。もちろん、ウィキペディアは嘘八百科事典ではないので、そうした記事は不適切です。その説明を真に受けた読者は、作品に対する批評を正しく理解できずに誤解したり、友人との会話で知ったかぶりをして恥をかいたり、「この展開は面白くなさそうだし好みじゃない」と作品に対する興味を失ってしまったりするかも知れません。それは心優しい配慮からネタバレを伏せた執筆者にとっても本末転倒でしょう。
- まあ私も以前は、物語のハイライトにおける話題の中心(例えばバトルものなら、主人公とその敵対者の争点など)が明記されていれば、結末まできっちり書く必要はないと考えていたこともありました。「義憤に駆られた主人公が、人々を虐げる極悪非道な悪党に立ち向かう」といった内容なら、結末もわかりきっているので書かなくてもいいかなと。ですがその方向性で書こうとすれば、物語内で提示された争点の、結論部分を濁す形となってしまいます。一見すると結末が分かりきった前述の例でも「……だが悪党の側も、力による支配の正当性を掲げ、死力を尽くして主人公を迎え撃つ。両者の力は均衡し死闘となる」といった内容が繋がってくるのなら、その結論は読めないものとなってきますし、「そして主人公は己の青臭さを悔やみつつ悪に屈する」といった、どんでん返しの結末ならなおさらです。そこまで考えると、当初の結論も自分の中で揺らぎます。なぜなら、記事の執筆者にとっては、その物語がステレオタイプの結末を迎えるのかそうでないのか自明でも、記事の読者にとってはそうではないからです。読者は物語がそこで終わるのか、その後に大どんでん返しがあるのか、実はそこまでの内容は壮大な序章に過ぎないのか判断できないかも知れません。
- 例えば、ヒロインが事故ってオープニングムービーが始まるより以前の第1章しか書いてない『君が望む永遠』のあらすじや、アレクサンダー・ボナパルト・カスト(ABC)が犯人であるかのような誤読を誘う『ABC殺人事件』のあらすじなどは、私にそうしたことを考えさせるきっかけになりました。仮にもし、記事執筆者がネタバレを避けるための親切心、あるいは茶目っ気や悪戯心から、『指輪物語』のあらすじを「魔王サウロンは倒されたが、その力の源である一つの指輪は破壊されずに遺された。ホビット族のビルボ・バギンズは魔法使いガンダルフや13人のドワーフと共に邪竜スマウグに戦いを挑み、その過程で一つの指輪を手にすることになる。冒険の後、指輪はビルボの養子であるフロドに譲渡された」の部分で終わるような形で執筆したり、『ドラゴンクエスト』のあらすじを「勇者ロトは虹のしずくで大魔王の城に渡り、神から授かった光の玉で魔物たちを封じ込めた。アレフガルドの平和は数百年にわたって続いた」の部分で終わるように執筆したりすれば、実際にはプロローグで語られる前日譚の部分しか説明していないような宣伝的なあらすじを、結末まで書いたかのように見せかけることができてしまいます。そして実際、経験的には、ウィキペディアにはそうした記事が少なからずあると感じています。ネタバレを避けて書かれた記事と、結末まで書かれた記事が、一読しただけでは区別できない状態で混在していることは、嘘を掴まされたくはないと思っている読者と、ネタバレを知りたくない読者の双方にとって地雷原であると言えます。もちろんネタバレのガイドラインに照らし合わせる限り、優先すべきは前者ですから、私は最近、結末まで書く場合は末尾に「……という形で物語は終わる」といった宣言を入れて、その内容が結末までのあらすじであることを読み取れるように書くようにしています。--Kanohara(会話) 2015年1月10日 (土) 14:08 (UTC)
- コメント コメント依頼から来ました。個人的な考えを述べさせていただきますと、あらすじの分量に一律の規定が必要なのであろうか、と思います。さらに言えば、実際的にそのような規定が出来るものか、即しているかに疑問を覚えます。あらすじというのは作品が異なれば内容が異なるもので、いくら簡潔にしようとも長いストーリーのものはどうしても長くなるものです。それを無理に簡潔にしようとすれば本来押さえるべき内容が不足してしまうことにもなりかねません。
- 読者の目、ネタバレ回避に関しては、言葉が過ぎるかもしれませんが私としては論外であると考えます。それこそ本来伝えるべき内容が欠如しているわけですから、作品の説明としては全く以って話にならないでしょう。ただ、読者の目という言い方で感じたことなのですが、以前自分の書いたあらすじがそれなりの分量になってしまい、自分の考えるその作品の要点は他の方から見て分かるのだろうか?と感じたのを思い出しました。私の文章力の至らなさもあるのでしょうが、要点ばかり並べ立てるのが読んで分かりやすいものかも難しいものかもしれません。
- Garakmiu2さんのあらすじは、とりあえず利用者ページに書かれている三記事を見させていただきましたが、少し冗長かな、という印象を覚えました。がまあ上で触れましたとおりどうあるべきかとまで私は確信できていませんので、あくまで個人的な印象です。--はぬまん(会話) 2015年1月10日 (土) 18:54 (UTC)
- コメントおおむね同意いたします。結末まで書くかどうかは執筆者によって判断が分かれるのはかまいませんが、読者の為を思ってそれを避けるべきであると他者に勧めるは論外ですし、あらすじにネタバレ・結末が含まれていてもうまくまとめることは当然可能でしょうし、物語をよく知らない読者が百科事典を読む上で本当にネタバレを知りたくないと思っているのかはそもそも不明であり、ネタバレがあれば楽しみを損なうかどうかはあくまで個人差で価値観や善意の押し付けに他ならないと私は思います。仮にそのような人物がいたとしてもそれは当人の責任であり、当然ながらWikipedia:内容に関する免責事項を理解した上で閲覧しなければいけないでしょうね。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月10日 (土) 20:50 (UTC)
- ありがとうございます皆さまのご意見に感謝します。
- >Shiro0922さん
- ご意見ありがとうございます。あらすじに関する点では、簡潔で読みやすくというのは私も大事だと思っておりますが、問題のIP氏も同じ意見を言いながら実際の編集が方針やガイドラインを軽視したものなので、問題提起をさせてもらっています。『イングロリアス・バスターズ』は、英語版の良質な記事の翻訳で、日本語版でも良質な記事になっていますが、英語版でもとくに出典は付いていないようです。あらすじの出典についてですが、出典が必要となると、「どこかからあらすじを書いてある文書を探してきて、それを出典としてその内容をコピペしなくてはならない」と考える人がいそうで心配です(というか以前それに近いことを言う人に実際出くわしました)。余談ですが、コンピュータゲーム関連記事には秀逸な記事に選ばれたものもいくつかあるので今後の参考になるかと。
- > CHELSEA ROSEさん
- 百科事典とネタバレに関する問題点をまとめた説明をありがとうございます。『叫』の編集というのは、今現在の版ではなく私が問題としたIP氏の編集についてということでよろしいのでしょうか?
- >Afazさん
- 過去の議論の案内をありがとうございます。
- >Kanoharaさん
- 議論への参加ありがとうございます。議論の背景として挙げているのですからKanoharaさんには直接案内すべきでしたね、すみませんでした。あらすじの結末の付け方については興味深く拝見しました。今後の参考にさせていただきます。
- >はぬまんさん
- ご意見ありがとうございます。私の書いたあらすじですが、具体的にどの記事だったかタイトルを教えていただけると参考になります。--Garakmiu2(会話) 2015年1月11日 (日) 16:18 (UTC)
- ☆マークの意味に気付かず開いて読んでいましたもので、映画のあらすじと書かれている三つですね。--はぬまん(会話) 2015年1月11日 (日) 17:02 (UTC)
- ありがとうございました。その記事群については自分では短くまとめたつもりでいましたが、今後精進します。--Garakmiu2(会話) 2015年1月13日 (火) 12:48 (UTC)
- あぁ、すみません、冗長という言い方も良くなかったですかね、長さ的には件の私が書いたあらすじの方がよっぽど長い始末でありまして。どう言ったものでしょうか、ちょっと持って回ったような表現、と言えば私が感じた印象になるのでしょうか。表現の好みにもよるものだと思いますので、あまり重く受けとめていただかない方が私としても助かります。--はぬまん(会話) 2015年1月13日 (火) 16:37 (UTC)
- ありがとうございました。その記事群については自分では短くまとめたつもりでいましたが、今後精進します。--Garakmiu2(会話) 2015年1月13日 (火) 12:48 (UTC)
- ☆マークの意味に気付かず開いて読んでいましたもので、映画のあらすじと書かれている三つですね。--はぬまん(会話) 2015年1月11日 (日) 17:02 (UTC)
- コメントおおむね同意いたします。結末まで書くかどうかは執筆者によって判断が分かれるのはかまいませんが、読者の為を思ってそれを避けるべきであると他者に勧めるは論外ですし、あらすじにネタバレ・結末が含まれていてもうまくまとめることは当然可能でしょうし、物語をよく知らない読者が百科事典を読む上で本当にネタバレを知りたくないと思っているのかはそもそも不明であり、ネタバレがあれば楽しみを損なうかどうかはあくまで個人差で価値観や善意の押し付けに他ならないと私は思います。仮にそのような人物がいたとしてもそれは当人の責任であり、当然ながらWikipedia:内容に関する免責事項を理解した上で閲覧しなければいけないでしょうね。--CHELSEA ROSE(会話) 2015年1月10日 (土) 20:50 (UTC)
エピソードリストがある場合のあらすじの書き方
最近フィクション作品の記事にエピソードリストが導入されることが増えましたが、この場合あらすじはどう書くべきかガイドラインを示してもらえないでしょうか。「エピソードリストと記述が重複していてもよい」「あらすじは短くてもよい」「導入部だけでもよい」「除去してもかまわない」など。 ノート:響け! ユーフォニアムのように混乱が続いている記事もありますので。--Sazanamiya(会話) 2015年9月21日 (月) 02:06 (UTC)
- 返信 ご質問の内容に関しては、現行のガイドラインでも基本的には以下のようにカバーできていると思います。
- 「エピソードリストと記述が重複していてもよい」?
- そのエピソードリストの用途にもよる。常識的な編集判断として、単にあらすじを各話ごとに分割記載してあるだけであれば書式と文章変えただけの複数のあらすじ節を一記事の中にいくつも作ることは(さすがに非常識すぎて想定外なシチュエーションなので現行ガイドラインに明記はないですが)必要ないでしょう。あらすじ以外のリスト(各話の放送データや製作上の特記事項・批評など)の場合は当ガイドラインの守備範囲外。あらすじ節もしくはエピソードリストを独立記事化(記事分割)した場合には、作品記事側にも物語の内容が理解できる程度のあらすじを残す(したがって他記事とは重複して良い)。
- 「あらすじは短くてもよい」?
- 必要十分な内容であれば良い。一方、あまりに短すぎて必要な説明が欠落しているあらすじは良くない。
- 「導入部だけでもよい」?
- 良くない。
- 「除去してもかまわない」?
- 不要な記述は当然除去してかまわない。(動機は問いませんが、たとえばネタバレという理由で)必要な記述を除去するのはだめ。
- 提案 といったことも踏まえて、具体的な当ガイドラインの修正案としては、仮に各話のあらすじを区別して記述するケースをもう少し明確に想定しておくという意味で、次のような文言が良いかと思います。
- (現行)「第一章では・・・」「第三話以降では・・・」というふうに参照をつけることによって、具体的な作品構成に触れることもできます
- (修正案)「「第一章では・・・」、「第三話では・・・」というふうに参照や見出しをつけることによって、具体的な作品構成を示すこともできます
- 実際にエピソード単位で見出しを付けて書く際の具体的な書式については、たとえば表形式のようなものを使用するのか、あるいは " ;第1話 :〜〜〜〜。 ;第2話 :〜〜〜〜。 " のような箇条書きマークアップを使用するのか、あらすじ節内に直接連ねて書くのか、節内にサブセクションを設けるのか、別名の節を設けて書くのか等、そこはこのガイドラインの範疇ではないと思いますので他のガイドラインや編集者の良識に沿って決めてもらうしかないと思います。先述のとおり、おおよそ必要な事項は現行のガイドラインでもある程度カバーできているとは思いますが、本来エピソードリスト云々を考える上では先に地ならしをしておいた方が良い事柄のひとつではあるなと私も気にはしておりましたので、関連プロジェクト全体として問題整理と方向性確認の意味で、改めてここで提起いただけたことはありがたいです。--ディー・エム(会話) 2015年9月21日 (月) 05:21 (UTC)(誤解の無いよう括弧書きを位置修正--ディー・エム(会話) 2015年9月21日 (月) 08:59 (UTC))
- 情報 Wikipedia:お知らせとプロジェクト‐ノート:フィクションほか関連プロジェクトのノートにて当議論の告知を行いました。--ディー・エム(会話) 2015年9月21日 (月) 08:48 (UTC)
- 「エピソードリストと記述が重複していてもよい」?
- アニメの記事においてはその多くが登場人物節にストーリーが記載され肥大化していく一方で、「あらすじ節」は不十分であることが多いです。導入部分の「あらすじ」だけを書く事は容易かもしれませんが、「ライトノベル」、「漫画」などの原作がある作品の場合、5、6巻以上刊行されているものが多くあるので、それを適切な分量で「あらすじ」節にまとめなければならず、現実的には「wikipedia:あらすじの書き方」の基準を満足させることは厳しいでしょう。それ故、このような状態になっていても長らく放置されており、加筆を促すテンプレートを貼っても十分に加筆されないと考えられます。そこで、「プロジェクト:アニメ」にて「エピソードリスト」の導入を提案しました。というのも「エピソードリスト」は、各話での更新であることやアニメの放送に伴って執筆者も急増することから、アニメのストーリー展開を記述する(登場人物節にストーリーを記述し無駄に肥大化させるのではなく)上で「あらすじ」を書くのにそこまで苦難は伴わないかと思ったためです。その中で、「甘城ブリリアントパーク」のように「エピソードリスト」形式(実際はただの表形式であり、マークアップでもほぼ同じ)を使うのも有用なものだと思います。
- さて本題に入りますが、「リッチマン、プアウーマン(良質な記事)」のように同じ原作であらすじ節とエピソードリスト節が共存しているものもあります。これについては「Wikipedia:査読依頼/リッチマン、プアウーマン 20121017」にも少し俎上に載っております。話は変わりますが、響け! ユーフォニアムにおいて、エピソードリスト節が存在しており、その時点で「あらすじ節」が不十分である状態から、後で「あらすじ節」が大幅に加筆されるのは珍しいものではないかと個人的には思います。エピソードリスト節とあらすじ節が大幅に重複しており、どちらかの除去なり縮小が必要となった場合、ガイドラインとしてではなく、個々にノートで解決を図ったほうが良いのではないかと思います。そもそも、ガイドラインにおいてどの程度で十分な「あらすじ」と見做すのかという簡単な基準(400字でも十分だと考えられることもあるし、2000字でも不十分なこともある)は作れず、響け! ユーフォニアムを参考にしても、現在の倍のあらすじは必要と考える人が居るかもしれない。
- ただし、「エピソードリスト」を免罪符として「あらすじ節」が不十分なままで良いと考えることや、「エピソードリスト」節と「あらすじ」節がお互いに牽制し合って適切な編集が妨げられるのは問題です。オリジナルアニメ等の「あらすじ節」と「エピソードリスト節」の言及する原作が同じ場合は、詳細はエピソードリストを参照とするのも記事全体を通して考えれば問題ないかと思います。かと言って、あらすじ節に導入部分しか書かれていない、要するにエピソードリストの1話目の内容と殆ど変わらないのであれば、重複することにあまり意味がないので改善すべきでしょう。まあ、英語版はほどんどそのタイプなので、エピソードリストが存在せず、「あらすじ節」のみで不十分な状態にある記事よりかは、改善すべき優先順は低いように思います。「婚活刑事、安堂ロイド〜A.I. knows LOVE?〜、広域警察、MR.BRAIN、陰の季節、実験刑事トトリ 警視庁心理捜査官・明日香、マジすか学園4、高校教師 (2003年のテレビドラマ)、アンフェア、新・示談交渉人 裏ファイル、名探偵コナン (テレビドラマ)、HERO (テレビドラマ)、匿名探偵、ガリレオ (テレビドラマ)、GTO (1998年のテレビドラマ)、リッチマン、プアウーマン」などのエピソードリストが導入されているドラマの記事の場合はあらすじ節が設けられていないのもあります。色々と書きましたが、「エピソードリスト」自体には何ら問題はなく、取り扱い危険物のようにガチガチの規制を作ってしまうと、執筆者が萎縮して書けなくなり当初の目的が果たせなくなると思うので、現状は深く考えすぎない方が良いかと。
- 「あらすじは短くてもよい」?
- 記事によります。オリジナルアニメの場合→「詳細はエピソードリストを参照」でも良いですが、原作がある場合は「アニメ版のあらすじ」と考えられるので「詳細はエピソードリストを参照」とすべきではないと思います。ほとんどのアニメは原作を全てカバーしきれていない(最初の数巻分の内容で終わってしまう)ので、「あらすじ節」は原作のものとして全巻のストーリーが記述されるべき。また、「あらすじ」節と「エピソードリスト」の書いている内容が重複しているというのなら、「エピソードリスト」がない記事は見た目では明らかなものではないかもしれないが、そもそも実質的に「登場人物」節に書かれているストーリー説明と「あらすじ」節が重複する事になる。瑣末な内容の除去に関しては個々のプロジェクトのガイドラインで対応する必要がある。
- 「除去してもかまわない」?
- 「あらすじ節」か「エピソードリスト節」のどちらかないしは両方の内容が充実していると考えられる場合→重複しているのでどちらかを除去するという安易な編集は避けるべき。ガイドラインに照らし合わせて不要な部分があればそこを除去すれば問題はなく、大抵の場合は依然として「あらすじ」が不十分なことがあるのでノートで個別に議論すべき。
--Infinite0694(会話) 2015年9月21日 (月) 17:39 (UTC)
報告 議論提起・修正案の提示から1か月経過し、特に異論が出ませんでしたので上記原案のとおり修正しました。あらすじを章ごと、話数ごとにリスト化する場合も基本は同じということで。--ディー・エム(会話) 2015年10月31日 (土) 23:19 (UTC)
著作権が切れていない作品のあらすじの書き方について
文化庁の著作権なるほど質問箱というページに以下の文章があります。
【Q】最新のベストセラー小説のあらすじを書いて、ホームページに掲載することは、著作権者に断りなく行えますか。
【A】どの程度のあらすじかによります。
ダイジェスト(要約)のようにそれを読めば作品のあらましが分かるというようなものは、著作権者の二次的著作物を創作する権利(翻案権、第27条)が働くので、要約の作成について著作権者の了解が必要です。また、作成された要約をホームページに掲載し送信する行為(複製、公衆送信)も元の作品の著作権者の二次的著作物を利用する権利(第28条)が働くので、要約の作成と同時に当該著作権者の了解を得ておく必要があります。一方、2~3行程度の極く短い内容紹介や「夭折の画家の美しくも哀しい愛の物語」などのキャッチコピー程度のものであれば、著作権が働く利用とは言えず、著作権者の了解の必要ありません。 |
しかし、ウィキペディアの現状はこの文化庁の見解と大きく乖離しており、著作権が切れていない作品についても極めて詳細に物語の要約が書かれているものが多くあります。ウィキペディアの編集者が著作権者の許諾を得ているとは考えにくいので、著作権が切れていない作品のあらすじの書き方に「それを読めば作品のあらましが分かるというような、作品を要約するあらすじは避ける」「長さは2、3行程度にとどめる」という二つを追加したく思うのですが、これにつきましてご意見頂けるでしょうか。--Pinejam(会話) 2016年2月11日 (木) 14:01 (UTC)
- ご提案の内容は事実上の「あらすじの書き方」の全否定に等しいものと言え、にわかに納得するのは難しいですね。ご案内の文化庁のページは、わかりやすく極端な事例を挙げて見せているに過ぎません。つまり、「2~3行程度の極く短い内容紹介」は「著作権が働く利用には当たらない」といっているのであって、「2~3行程度の極く短い内容紹介」でなければ「著作権が働く利用である」とは言っていません。短絡的な結論に飛びつくべきではありません。先行議論としてWikipedia:井戸端/subj/小説や映画の要約やあらすじは著作権違反でしょうか?があります。当ページもそのような議論を踏まえて現在の形の落ち着いているので、まずはよく読んでいただきたいと思います。当該議論での、郁氏の 2009年3月14日 (土) 13:43 (UTC)での指摘やGiftlists氏の 2009年3月14日 (土) 14:51 (UTC)のコメントは特に参考になるでしょう。つまるところ、ウィキペディアに現在書かれているような「あらすじ」は27条にいう翻案には当たらず、現状のような形態のあらすじが著作権上問題になることはないだろうとの解釈がひとまず受け入れられていると私は理解しています。結論としてご提案には反対せざるを得ません。--Kojidoi(会話) 2016年2月11日 (木) 16:27 (UTC)
- ご提案そのものは有意義なことだとは思います。私自身、ネタバレ隠しを主張するユーザーとよくやりあったことがあります。しかしこれまで、そういったユーザーは単純にあらすじ文の後半を削るだけで、ネタバレの免責事項を説明してもまともな議論を腰を据えて行おうとせずリバート合戦をする、捨て台詞を残してケツをまくって逃げるとお話にならない態度でしたので、正面からきちんと議論するのはよいことでしょう。ただし、私も含めたユーザーが今までに、コピーアンドペーストでの著作権を起こさないよう注意して書いた、結末の含まれるあらすじを対象にするとなると、非常に広範囲に影響が出ることになります。ネタバレのガイドラインを根幹から揺るがす提案なのですし、今までそれを参考にして多くの人が書いてきたからです。また文化庁の基準をそのままウィキペディアの現状にあてはめることが果たして正しいのか、法律に詳しい人の解釈はどうなのか、ウィキペディアの免責事項を考えた上ではどうなのか、あらすじの適切な長さはどのくらいであるべきなのか、外国映画などは日本より早く公開され、公開と同時にネタバレ含むあらすじが書かれているが、それを翻訳して日本語版に書くのはダメということになるのか、など追及すべき問題が山ほどあり、見識ある方々の幅広い意見を聞きたいということになります。しかし現状、提案者様はこのノートで提案されるだけで、元になったらしい論争のノートへの告知や、コメント依頼などを一切されていないようです。ウィキペディア全体への影響を考えたらこれは問題ではありませんか?人目につかないところでこっそり変えられてしまっていいルールではありません。--Garakmiu2(会話) 2016年2月13日 (土) 09:16 (UTC)
- ご意見ありがとうございます。とりあえず土日を挟んで一週間近く待ちましたが「あらすじの書き方」をウォッチリストに入れている人という範囲内ですと、ご意見を頂けたのはお二方だけのようです。まずはこの範囲で議論を行い、ある程度方向性が見えたならば、コメント依頼を出して広い範囲から意見を募りたいと思います。
- 最初に、私の提案の意図の説明から行います。ウイキペディアであらすじを書く人の多数がこのガイドラインを参考にしていると思われます。私も初めてあらすじを書いた時は、このガイドラインを参考にしました。ですが、このガイドラインには、あらすじを書くときに著作権上どのようなことに留意しなければならないのかという観点が不足していると気づきました。私は最近、著作権についての認識が甘かったのではないかと反省したことがあり、図書館に足を運ぶなどして自分なりに著作権について学習したのですが、その思いを強くしております。そこで、あらすじを書く上で最低限守らねばならない著作権上の留意点をガイドラインに記載して、今後あらすじを書く人や、現在書かれているあらすじを修正しようとしている人に注意を促したく思っています。
- そこでまず確認なのですが、具体的に何を書くかは置いておき、この私の意図、つまり「あらすじを書く上で最低限守らねばならない著作権上の留意点をガイドラインに記載したほうが良い」という意見自体については、反対意見をお持ちでしょうか?--Pinejam(会話) 2016年2月16日 (火) 08:30 (UTC)
- >まずはこの範囲で議論を行い、ある程度方向性が見えたならば、
- …というわずかな人数に限定した議論をたたき台にした上でなきゃ広範囲の意見を募ってはならない、という理屈がまるで理解できませんでした。普通ウィキペディアでする議論というと、広範囲に影響する議論なんだから初めから広く意見を聞くのが筋で、それを適度にまとめながら多数の人の意見を調整して、合意を取りまとめて進めていくものでしょう。というわけでコメント依頼出しておきました。
- 取り急ぎ、著作権上の留意点を加えるということですが、現状でも丸写し行為に関しては方針へのリンク付きで注意は書かれているので、作品のあらましそのものを書くことを禁止する旨を加えたい、ということでそちらさまの意見はよろしいのですね?--Garakmiu2(会話) 2016年2月16日 (火) 16:14 (UTC)
- Garakmiu2さんに同感ですね。ここで3人ぐらいの合意を形成しても何の意味もありません。どのみちコミュニティ全体の納得を得なければならない話です。最初からそのような姿勢で取り組んでもらいたいものです。最初に「それを読めば作品のあらましが分かるというような、作品を要約するあらすじは避ける」「長さは2、3行程度にとどめる」を追加するとか言っていたのは引っ込めるということですか? それならそれでもいいのですが、だからといって「具体的に何を書くかは置いておき」などと言っているようでは話になりませんよ。改訂したいとの意見をもつことは自由ですが、提案なり問題提起なり本気でするつもりなら、
- すでに現行ガイドラインでも簡潔ながら著作権への言及はあること、著作権に関するガイドラインは別途用意されていること、このガイドライン策定にあたって著作権について書くべきか否かの議論も成されていること、などをきちんと踏まえ(それぞれどんな内容なのかをキチンと把握し)、
- そのうえで、現行ガイドラインや過去議論にどのような不備があるのかを明確に指摘し、
- その不備を克服するための具体的な改定案を示す。
- 以上を全部満たす提案文を書いて提示してください。無理難題を言っているように感じられるかもしれませんが、既にコミュニティに受け入れられて数年間、多くの人が参考にし続けてきたガイドラインをひっくり返そうというからには、こうしたことをやらずして議論にマトモに応じてもらうのは困難と思ってください。申し訳ありませんが私は現行ガイドラインに特段の問題を感じていないのでお手伝いできません。これは問題を感じたあなたの仕事になります。--Kojidoi(会話) 2016年2月16日 (火) 17:36 (UTC)
- コメント案内されてる井戸端の議論でも書きましたけれど、参照しうる判例としては地裁ですがコムライン事件で「要約は、これに接する者に、原著作物を読まなくても原著作物に表現された思想、感情の主要な部分を認識させる内容を有しているもの」としています。原著作物を読まなくてもあらましがわかる、ではない。思想、感情の主要な部分を認識させる(感得させる)、です。そしてそれは著作権法の概要を理解していれば、そりゃそうだってことなので、わざわざ書くもんでもないと思います。井戸端リンク切れしてたので再掲しときます/コムライン事件[6]、第4小委員会(複写複製関係)報告書[7]。
- で、あらすじについては、それ以上の判断が示されてるわけではなく、無理に線引きをするよりも常識的に判断していくほうがよいと思いますよ。あらすじの節に書かずに登場人物のところに書き込めばいいってもんでもないですし。--Ks aka 98(会話) 2016年2月16日 (火) 17:41 (UTC)
- コムライン事件は多くの書籍に記載と解説があるので、存じています。--Pinejam(会話) 2016年2月17日 (水) 10:34 (UTC)
どのような方向にしたいのかについてですが、あらすじを記載することに関して著作権上日本社会で広く受け入れられていると認められるような判断基準をガイドラインに記載したいと考えております。ここで言う「日本社会で広く受け入れられている」とは(1)法律の条文(2)裁判所の判例(3)著作権に関する書籍の多数に記載があるもの(4)法律の専門家の発言で多数見られるもの、であり、なおかつ(5)大きな解釈の相違や学説の違いなどが特に見あたらないもの、です。具体的には著作権法27条の翻案権が最も強く関係し、著作者人格権やフェアユースの考え方などについても関わりがあると感じております。一方、複数の出典を見出せないような独自の解釈を載せるつもりはありません。--Pinejam(会話) 2016年2月17日 (水) 10:34 (UTC)
- ついでに言うと、例えば文化庁の「2、3行程度」という行数の指定は、この基準には満たない(複数の出典を示せない)のでガイドラインには載せないことになります。しかしその考え方の前提にある「十分に短いこと」という考え方は、多数の書籍、専門家の発言で見いだすことができ、それらの内容が全体として調和しており、それに反する解釈などが全くと言って良いほど見当たらないので、この方針には合致します。--Pinejam(会話) 2016年2月17日 (水) 10:51 (UTC)
- 以前の議論の時にいくらか代表的な著作権の本であらすじを扱っているものを探してみたのですが、ざっくりと短くないとダメだとかいう読者への啓蒙的な説明や前掲の判例以上に検討されているものは、見当たらなかったと記憶しています。新聞社などは要約が著作権侵害になることを喧伝していますし、ブログに書くときの注意事項のような意味で法律家が助言・説明しているようなものなら見あたるのですが、それらを百科事典の作品記事にあてはめるのは無理があると思います。もしご存知でしたら書名や論文名を示していただけますか?
- 慣習としてどうなっているかを確かめるために、書評ではない論文などで「あらすじ」を書いているものを眺めてみました。比較的長いもの、おそらく権利が生きているものだと、こういう感じでしょうか[8][9][10][11][12]。だいたいこれくらいの量と質であれば、「原著作物を読まなくても原著作物に表現された思想、感情の主要な部分を認識させる内容を有しているもの」ではない、と個人的にも思います。一方、「十分短い」という表現が、ウィキペディアの執筆者にとって、これらのあらすじ部にあてはまるかと認識されるかというと、そうではないでしょう。なので、Pinejamさんがやろうとしていることは、今の日本の著作権をめぐる状況下では、ちょっと無理筋じゃないかなあと思うのです。--Ks aka 98(会話) 2016年2月17日 (水) 16:09 (UTC)
- 「翻案は著作者の許可がなければ作成してはならない」というのは著作権上反論の余地がありません。そして要約が翻案であるということも、ほぼ全ての書籍で共通して見られる指摘なので反論の余地がないようです。ですので翻案に当たらないような書き方、または要約に当たらないような書き方するにはどうすれば良いのかということが、あらすじを書くときに著作権を守る上で重要になってきます。「十分に短くなければ翻案に該当する恐れがある」という指摘は、判例の引用とともに多数の書籍などで見つかり、それは広く社会に受け入れられている考えだと言えるので、それをガイドラインに掲載したく思っております。
- 百科事典の作品記事にあてはめるのは無理、とのご指摘ですが、その指摘は広く社会で受け入れられているものでしょうか。そうであるならば、その出典を示して頂けますか?仮にあなた個人や、他のウィキペディアの編集者などによる内輪の考えに留まるようであるならば、著作権に関して広く社会で受けれいれられてる考え方を否定するようなものだとは思えませんが、いかがでしょうか。--Pinejam(会話) 2016年2月18日 (木) 03:42 (UTC)
- コメント「翻案は著作者の許可がなければ作成してはならない」というのは著作権法上反論の余地がありません。しかし、ある要約が「翻案」にあたるかどうかに議論の余地があります。その境界が「原著作物に表現された思想、感情の主要な部分を認識させる」ですよね。条文と既存の判決から、確かと言えるのは、ここまでです。
- 「翻案は著作者の許可がなければ作成してはならない」けれども、「原著作物に表現された思想、感情の主要な部分を認識させる」ものでなければ「翻案」にはあたらない。それを誰にどう伝えるか、というところで、いろんな表現が出てきます。百科事典の記事を一般の人が書くという事態はウィキペディアがもたらしたものですから、期待されるような出典はないですよ。同様に、ご覧になった情報源で百科事典の執筆を想定して書かれているものもないのではないですか? 実務的には、書いてみてクレームがきたら削除すればいいとか、不安なら数行に収めておけば問題にならないだろうとかいうことにもなりますし、そういう視点で後者のような助言をすることは考えられますけれど、それは正確な境界線ではないです。
- 「十分に短くなければ翻案に該当する恐れがある」というのは正しいかもしれませんが、それは「十分な短さ」や「おそれ」の確度次第ですから、とてもぼんやりとした中身しか持ちません。そこそこ短くて翻案に該当するものや長くても翻案に該当しないものがあっても、この文は真になります。十分な短さとは、量なのか、原著作物との比率なのか。原著作物の8割の長さなら、かなりの程度で翻案に該当するでしょう。1行なら(短歌や俳句でなければ)該当しないでしょう。もっともらしく、安全な範囲に抑制するための表現です。
- そのような助言に従うのなら簡単ですけど、それでは百科事典の記事として不十分ですし、そこまでリスク回避する必要もないということで、ウィキペディアのコミュニティは、完全な安全を確保するよりも、より真摯に検討して安全と思われる範囲で質を担保することを選んできました。百科事典で取り上げられている作品記事や前掲諸論文に見られるようなあらすじのありようは慣習として存在しているのですから、これらが認められる範囲と仮定するのは無理のないところでしょう。おおよそこれくらいなら、翻案に該当するおそれがそれほどないと思われる程度に短い。これは認めていただけますか? それとも、これらは翻案権侵害で、こんなことが横行している日本の学術界はけしからんというご意見でしょうか。
- そして、翻案権を持ち出さずとも、前掲諸論文を超えるような長さのあらすじは、百科事典に掲載される筋書きとしても長くなりすぎます。この文書で長さについて書かれていることを踏まえてあらすじを書くなら、そのような長さにはならないでしょう。また、前掲諸論文くらいの長さを、わたしたちは「十分に短い」とは言わないと思います。「十分に短く」と、この文書に書き加えることは、ミスリードになります。--Ks aka 98(会話) 2016年2月18日 (木) 06:03 (UTC)
- 私は法律の専門家ではありませんし、Ks aka 98さんもおそらくそうでしょう。そうであるならば、不確かな個人の考え方を述べるのではなく、確かな出典に基づいた議論をするべきではないでしょうか。私は私個人の考えをガイドラインに記載したいわけではなく、多くの出典に認められるような、世間で広く受け入れられていると思われる専門家の発言をガイドラインで紹介したいと思っております。仮に、私が紹介するような出典に反論したいとお考えでしたら、Ks aka 98さんの主張に沿うような出典を示して頂ければと思います。
- 翻案権は保護されねばならぬ著作者の権利であり、著作権を守ることはウィキペディアの編集者に課された基本的な使命であることはKs aka 98さんにもご同意いただけるでしょう。もし、その観点がガイドラインからは欠落しているのであれば、それを補うというのはごく自然で当然な考えであり、それ自体を阻止しようというのはKs aka 98さんの表現をお借りすれば「無理筋」と言えるのではないでしょうか。
- 私は本格的に著作権の調査を始めてからまだ日が浅く、目を通した書籍もまだ50冊に届かない程度に過ぎません。さらに幾つかの図書館に足を運んで多くの書籍や新聞、雑誌などの報道、判例に目を通して出典を揃え、それを根拠として上にあげた案よりも具体的な文案を示したいと思っております。もしKs aka 98さんがそれに関わりたいとお考えでしたら、確かな出典に基づいたお考えを整理しておいて頂ければ幸いです。--Pinejam(会話) 2016年2月19日 (金) 03:27 (UTC)
- Pinejamさんがこの節の冒頭で提示された文化庁のQ&Aの内容について、「2~3行程度の極く短い内容紹介」は著作権が働く利用ではない、という解説ではありますが、「2~3行程度でないと著作権が働く利用となる」とは読み取れません。そのあたりが上記Ks aka 98さんコメントのある要約が「翻案」にあたるかどうかに議論の余地がありますにもかかるのではないかと思います。
- また、同じくKs aka 98さんが提示された地裁判決の原著作物を読まなくてもあらましがわかる、ではない。思想、感情の主要な部分を認識させる(感得させる)、です。については明確な否定をなされていないようです。
- これらに関してPinejamさんはどうお考えでしょうか?--Kubou(会話) 2016年2月19日 (金) 04:26 (UTC)
- 返信 (Kubouさん宛) Kubouさんによる『「2~3行程度の極く短い内容紹介」は著作権が働く利用ではない、という解説ではありますが、「2~3行程度でないと著作権が働く利用となる」とは読み取れません。』とのご指摘ですが、これに関して私も同意します。なぜなら、2〜3行を超えれば翻案権が働くとは言い切れませんし、逆に、2〜3行程度ならば働かないとも断言はできないからです。新たに作成された著作物が、原著作物の翻案と認められるには、幾つかの要件があります。多くの判例が出ていますが、共通しているのは「既存の著作物の表現上の本質的特徴の直接感得」です。文芸作品における「本質的特徴」とは、基本的な筋・構成であり(東京地裁H08.09.30 江差追分・北の波濤に唄う事件 第一審)、原著作物を知っているものが、それが原著作物の翻案であると容易に認識できる程度に、原著作物における特徴的・個性的な内容表現が再現されている(東京高裁H08.04.16 妻たちはガラスの靴を脱ぐ事件)ものです。ですので、たとえ何十行あろうとも、それらが読者に感得できなければ翻案であるとはいえず、逆に2〜3行であろうとも、それが感得できてしまえば翻案に該当すると言えます。しかし、ごく常識的に考えて、そう言った感得を持つ表現を行うにはある程度の長さの文章が必要であり、文化庁はその点を考慮して具体的に「2〜3行」という例を示したのだろうと思われます。
- 次に『ある要約が「翻案」にあたるかどうかに議論の余地があります』についてどう思うか』についてですが、これについては議論の余地なく翻案に該当します。なぜなら、どの書籍にあっても、要約が翻案であることは、例外なく指摘されているからです。そもそも、翻案とはどういったものかをある程度理解していれば、要約が翻案であることは比較的簡単に理解出来ることだと思います。なぜなら、そもそも要約というのは、その性質上、明らかに原著作物に依拠したものであって、なおかつ原著作物の内容の主要な部分を読者に感得させるために作られたものだからです。--Pinejam(会話) 2016年2月21日 (日) 12:07 (UTC)
具体的な案がない状態で、長文をぶつけ合って議論するのは、とてももったいないと思います。Pinejamさんは、ガイドラインの修正案を作るとおっしゃっているわけですから、それを待ってみませんか。案を見せていただいたら、1)そのまま採用、2)採用せず(現状維持)、3)別案・修正案を採用、のどれかを、コミュニティに諮ればよいでしょう。「不確かな個人の考え方を述べるのではなく、確かな出典に基づいた議論をするべき」というのは、専門家/非専門家によらず、ウィキペディアにおいて望まれる態度としては、まさにその通りだと思います。「世間で広く受け入れられていると思われる専門家の発言をガイドラインで紹介」(あとはコミュニティで考えて判断しろ)というのも、ガイドライン作りのアプローチとしては良いと思います。関連書籍を「50冊に届かない程度に過ぎません」と表現できる程度に読み込まれているのであれば、それなりの説得力のある修正案が出てくると思いますので、現段階で議論するのではなく、とにかく待ってみませんか。--ZCU(会話) 2016年2月19日 (金) 09:33 (UTC)
「50冊に届かない程度」+「多くの書籍や新聞、雑誌などの報道、判例」を根拠とした修正案ですか、それはとても楽しみですね。ではなぜ毒にも薬にもならない、文化庁のアレを最初に持ってきたのかが不可解ですが。--Hisagi(会話) 2016年2月19日 (金) 13:36 (UTC)
- 返信 (Hisagiさん宛) 文化庁は日本の文化振興を任務とする日本の中央省庁の一つであり、その当局が公に発表している見解には、その立場にふさわしい説得力があると言えるので、一私人が説得力のある根拠を何も伴うことなく、勝手に軽視して良いものではありません。--Pinejam(会話) 2016年2月21日 (日) 12:16 (UTC)
- 軽視ではなく、ここでの議論には「役に立たない」と言っています。むしろこうして悪用されている以上、毒にはなっているのかもしれませんが。で、ウィキペディア上の記事が問題であるという「根拠」はまだですか? まだ脳内ルールしか提示されていませんけど。「50冊に届かない程度」と「多くの書籍や新聞、雑誌などの報道、判例」を根拠とした素晴らしい文案はまだですか? --Hisagi(会話) 2016年2月21日 (日) 13:05 (UTC)
- 案が出てから話を進めるという流れのようですが、その前に「ガイドラインが変わることで起きる懸念」を挙げておきます。
- 今の状態のガイドラインに合わせて書いている以上、今あるあらすじ文は、著作権上で問題があると考えられる立場からは「違法状態」となるわけです。そうすると、新ガイドラインから見て問題があるとされるものについては、精査の上Wikipedia:削除依頼に出すということになりますね。単純な数だけでも相当のものになりそうですが、さらに「違法状態」でなかった時にまでさかのぼって版指定削除という形になります。履歴を精査するだけでも相当な負担をユーザーに与えます。その上で、削除依頼に出す側に対しては、現行あらすじを単純に削るべきなのか、新ガイドラインに合わせた「違法でない」あらすじに書き変えをするのかという選択も出てきます。
- 正直なところ、「あらすじ記述」はモラルの欠落したユーザーによるコピペ行為が後を絶たないことからも分かるように、コピペでない自分で考えた文章で書くということはある程度の知的技術を必要とする高度な編集行為にあたります。今回の新ガイドラインはそれにさらに上乗せした高度さをユーザーに要求するということになりまして、昨日今日参加したばかりだけど映画やドラマの記事を書いてみたい、というような若年ユーザーの子たちにかなり難しい要求を飲ませるということになり、ウィキペディアの高い敷居がますます上がるということになるでしょう。正直言って、かなり慣れたユーザーのうちに入る私でも、今まで自分が書いたあらすじを修正する羽目になったらどうすべきか全く見えてこないので、若年ユーザーでも理解できるような、具体的かつ平易なガイドラインを示してもらいたいと希望します。
- それから以前のコメントでも挙げた疑問点もクリアしてもらいたいと思います。--Garakmiu2(会話) 2016年2月19日 (金) 17:26 (UTC)
- 返信 (Garakmiu2さん宛) 誤解しないでいただきたいのですが、私がガイドラインに加えようとしていることは新たなルールではありません。日本社会に存在する著作権というルールであって、私が指摘しようと指摘しまいと、著作権は厳然として社会に存在し、我々にはそれを守る義務があります。そもそも、著作権を無視しようとか軽視しようと言ったガイドラインが存在するはずもないので、著作権に関する注意事項をガイドラインに記載したとしても、ガイドラインには何の変更もないことになります。--Pinejam(会話) 2016年2月21日 (日) 12:24 (UTC)
- ウィキペディア上のガイドラインに変更を加えるのであれば、たとえそれが現実世界の法令等に基づく変更であれ、あなたがどういう言い訳をしたところで、「変更」でしかありません。--Hisagi(会話) 2016年2月21日 (日) 13:05 (UTC)
- 返信 (Garakmiu2さん宛) 誤解しないでいただきたいのですが、私がガイドラインに加えようとしていることは新たなルールではありません。日本社会に存在する著作権というルールであって、私が指摘しようと指摘しまいと、著作権は厳然として社会に存在し、我々にはそれを守る義務があります。そもそも、著作権を無視しようとか軽視しようと言ったガイドラインが存在するはずもないので、著作権に関する注意事項をガイドラインに記載したとしても、ガイドラインには何の変更もないことになります。--Pinejam(会話) 2016年2月21日 (日) 12:24 (UTC)
具体的な文案ですが、数週間以内に提示しようと思います。要点としては以下のことを記載しようと思っています。結果としては、文化庁の見解と大差が無いものになりそうです。
- 翻案物を作成することや公開することは著作者の権利であり、他人がそれを行うには著作者の許諾が必要になること。
- 映画やテレビ番組・漫画などの著作物を、ストーリー展開や具体的出来事といった、作品の本質的な特徴部分が読者に伝わるように文章に作り直すことは、翻案に該当すること。
- 言語作品を要約することも翻案に該当すること。
- 翻案権を侵害しないようにするためには、あらすじを書く際には対象となる著作物が何を表現しているのかを紹介する程度に抑え、具体的なストーリー展開など、作品のあらましが伝わるような書き方は避けること。
以上の観点について、今、出典や判例などを揃えて、具体的な文案を練っています。ただ著作権について調査すればするほど、作品のおおよその内容が伺い知れてしまうような文章が翻案に該当することは、議論するまでもなく明白だという感触を得ています。なぜなら、書籍において判例で紹介されているような事件の多くが、原著作物への依拠性があると言えるのか、共通している部分が単なる事実と言えるのか創作性のある表現かなど、かなり微妙な部分について争っているのに対して、ウィキペディアのあらすじが原著作物に依拠しているのは明白であり、そこに記述されているのは事実ではなく、作品のストーリーや具体的な出来事などを伺い知ることのできるような、創作性が非常に高い情報だからです。 私が出す案に対して、曲解や拡大解釈、誤解と言えそうな部分が無いか、または異論が存在するかどうか、といった観点で判断して頂きたく思うのですが、その際には単なる個人の感想ではなく、何らかの出典に基づいた形での意見を出して頂きたいと思います。具体的な根拠を伴わない個人的見解は、この問題においては価値が低いと言えるので、そのレベルでの議論は避けたいと思っているからです。ですので、著作権に関する書籍などに何冊か目を通し、出典に基づいた意見をそれまでに整理しておいて頂ければ幸いです。--Pinejam(会話) 2016年2月21日 (日) 13:11 (UTC)
- 信頼できる出典の情報に基づいて議論するのは大変結構だと思いますが、「出典に基づく」という意味では、出典の情報に素人の勝手な分析や解釈を加えた議論は役に立ちません。また、出典から抜き出した断片的な情報を素人が勝手に合成した議論も、あまり価値がありません。素人であることを自認されているPinejamさんとしては、資料を読んで自分が理解した(と思っている)ことを主張してもコミュニティを納得させるのは難しい。ウィキペディアの記事に出ているような「あらすじ」が著作権を侵害していると、解釈が紛れる余地を残さず直接的に言い切っている出典を見つけてこないことには、議論にならないと思います。
- 後ついでに言うと、出典に使うのは、いわゆる「判例・通説」でお願いします。最高裁でひっくり返された下級審の判決とか学説レベルのものは、学術的な議論の材料としてなら何ら問題ありませんが、実務上の指針を決める根拠としては、ちょっと使えません。--Dwy(会話) 2016年2月21日 (日) 14:40 (UTC)
- 一番上で紹介している文化庁の文書は言い切っています。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 08:33 (UTC)
- 文化庁の文書は、どの程度のことが分かれば「あらましが分かる」と言えるのか、具体的な判断基準を何も論じていません。--Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 11:43 (UTC)
- 具体的な基準がないならば、どんなに詳細なあらすじを書いても著作権上問題がない、とでも主張なさりたいのでしょうか?--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:37 (UTC)
- 文化庁の文書は実務上の指針を決める根拠として使えないと申し上げています。上でHisagiさんも「毒にも薬にもならない」「役に立たない」とおっしゃっていますが、理解できませんか?(同意しろとは言わないが、そういう考え方があることはしっかり理解してほしいものです)-Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 23:22 (UTC)
- 文化庁は日本の文化振興を任務とする日本の中央省庁の一つであり、その当局が公に発表している見解には、その立場にふさわしい説得力があると言えるので、一私人が説得力のある根拠を何も伴うことなく、「役立たない」などとレッテルを貼って勝手に軽視して良いものではありません。文化庁の見解を否定したいならば、それを否定するに足る根拠を示してください。ただ、そのようなものがあるとは思いませんが。--Pinejam(会話) 2016年2月29日 (月) 12:50 (UTC)
- 文化庁の文書は実務上の指針を決める根拠として使えないと申し上げています。上でHisagiさんも「毒にも薬にもならない」「役に立たない」とおっしゃっていますが、理解できませんか?(同意しろとは言わないが、そういう考え方があることはしっかり理解してほしいものです)-Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 23:22 (UTC)
- 具体的な基準がないならば、どんなに詳細なあらすじを書いても著作権上問題がない、とでも主張なさりたいのでしょうか?--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:37 (UTC)
- 文化庁の文書は、どの程度のことが分かれば「あらましが分かる」と言えるのか、具体的な判断基準を何も論じていません。--Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 11:43 (UTC)
- 一番上で紹介している文化庁の文書は言い切っています。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 08:33 (UTC)
- コメント 最高裁判決での翻案の定義です。「最高裁平成13年6月28日判決では「江差追分」事件(判例時報1754号144〜148頁、判例タイムズ1066号220〜229頁)では、『言語の著作物の翻案…とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。」と判示されている。」( 作花文雄『著作権法 制度と政策』(第3版)発明協会、2008年4月、96ー97頁頁。ISBN 978-4-8271-0890-3。 からの又引用。) --Yhiroyuki(会話) 2016年2月21日 (日) 16:37 (UTC)
- 判例の解釈に当たって「個人見解」は価値が低いとおっしゃっているわけですから、ウィキペディアの記事に書かれているような「あらすじ」が当該最高裁判決が言う「翻案」の定義に該当するということについて、解釈の余地がないくらい直接的に言い切った出典(判例・通説レベルのもの)が必要です。--Dwy(会話) 2016年2月21日 (日) 21:57 (UTC)
- 最高裁の定義では「新たに思想又は感情を創作的に表現」という要件がありますが、Wikipediaの目的にかなうように記述すると、必然的に要約による引用となり新たに表現することはないため、翻案権侵害にはならないと思います。ただし、細部の描写まで拾いすぎているあらすじを見かけますので、今のWikipediaに問題がないとは言えませんので、個別対処は必要かと思います。--Yhiroyuki(会話) 2016年2月22日 (月) 00:31 (UTC)
- 著作権の本を何冊かお調べになれば直ぐにお分かりになると思いますが、言語作品の要約は翻案とされています。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 07:52 (UTC)
- 翻案とみなされる場合でも、引用と評価される場合は本案件侵害が成立しません[13]。なので、Wikipediaのあらすじは一律に良いとも悪いとも言えず、個別評価になります。 --Yhiroyuki(会話) 2016年2月28日 (日) 10:52 (UTC)
- 「血液型と性格事件」の判例については私も詳しく存じております。その判決に関しては複数の書籍で異論が見受けられます。「詳解著作権法 作花文雄 第3版 ぎょうせい ISBN4-324-07517-4」によれば次のように指摘されています。『要約による引用(32条1項)に関し、そのような利用は43条2号に含まれ、適法であるという裁判例が出されている(東京地判平成10年10月30日)(「血液型と性格」要約引用事件)この判決には専門家の間でも批判が強く、また同様の内容の判決がその後高等裁判所や最高裁判所で出されているわけでもなく、地方裁判所レベルにおいても同様の内容の判決が出ているわけではないため、裁判所全体の見解か否かは明確ではない。』また「編集者の著作権基礎知識[第四版] 豊田きいち著 ISBN4-88888-320-3」に於いても『要約引用は疑問。要約は翻案である。要約引用は一般の場合にはNOと考えることにする。』とあります。ですので、著作権における定説というレベルには至っておりません。さらに、ウィキペディアに記載されているあらすじについては、そもそも「引用」を成立させるのに必要な諸条件が成立するものは稀でしょう。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:10 (UTC)
- どんな本を読まれたのか知りませんが、「言語作品の要約は(全て)翻案とされている」のような単純な議論にはなっていないはずです。言葉は文脈次第で様々な意味を持ちうるものですから、仮に「言語作品の要約は翻案とされている」と書いた本があったとしても、そこで言う「要約」はどういう意味で使われているのかというように、更に検討を進めて議論の余地がないところまで突き詰めていかないことには、実際の問題解決の指針になりません。--Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 11:43 (UTC)
- 「はずです」ではなく、要約が翻案でないと指摘している書籍があるならば、それを示して頂けますか?--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:13 (UTC)
- そうやって素人談義に引きずり込もうとしないで下さい。
- 「要約は翻案に当たる(出典付き)」+「ウィキペディアのあらすじは要約(素人の解釈)」=「わあ、問題だぁ!」などというのには付き合いきれません。
- 理論構成や議論の途中経過はどうでも良いので「ウィキペディアのあらすじ(あるいは世間の百科事典によく書いてあるようなあらすじ)は著作権侵害に当たる」と言い切っている出典を提示して下さい。--Dwy(会話) 2016年2月28日 (日) 23:22 (UTC)
- 私は、著作権上広く受け入れられている考え方をガイドラインに記載したい、と考えています。要約が翻案に当たる、という考え方は広く受け入れられているということはDwyさんにもご理解頂けたと思います。どのようなあらすじが要約にあたるのかは、個々の編集者が常識的に考えて判断すればそれで問題はありません。--Pinejam(会話) 2016年2月29日 (月) 12:50 (UTC)
- 「50冊に届かない程度」+「多くの書籍や新聞、雑誌などの報道、判例」を根拠としたすごい修正案を期待していたのに、結局最後は「常識」ですか?がっかりです。
- 個々の編集者が常識的に判断するということであれば、過去に充分議論を尽くして既にコミュニティとしての結論が出ています。新しい論点の提示がないようなら、これ以上議論する意味もありませんから、これでお終いにしましょう。--Dwy(会話) 2016年2月29日 (月) 13:20 (UTC)
- 個々の日本語の単語の意味については、常識的に判断すればそれで問題ない、と申し上げております。例えば「あらまし」や「要約」という単語です。しかし、どのようなあらすじを書くと著作者の権利を侵害する恐れがあるかについては、そのような単純な判断には馴染まない問題なので、広く世に受けれいれられていると言えるような著作権上の考え方を、ガイドラインで示したいと考えています。--Pinejam(会話) 2016年2月29日 (月) 14:02 (UTC)
- 私は、著作権上広く受け入れられている考え方をガイドラインに記載したい、と考えています。要約が翻案に当たる、という考え方は広く受け入れられているということはDwyさんにもご理解頂けたと思います。どのようなあらすじが要約にあたるのかは、個々の編集者が常識的に考えて判断すればそれで問題はありません。--Pinejam(会話) 2016年2月29日 (月) 12:50 (UTC)
- 「はずです」ではなく、要約が翻案でないと指摘している書籍があるならば、それを示して頂けますか?--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:13 (UTC)
- 「著作権の本を何冊かお調べになれば直ぐにお分かりになる」というのは書籍名や内容等の具体性が皆無でPinejamさん自身が価値が低く避けたいと言われているレベルの発言と思います。Pinejamさんにおかれましては、逐一出てこずに、具体的な根拠を多数伴う客観性の高い基準と文案の作成に集中された方がよろしいのではと思います。さもないと無駄に長引くだけかと。--Sureturn(会話) 2016年2月28日 (日) 12:51 (UTC)
- 翻案について記述がある書籍ならば、大抵は「要約は翻案である」という指摘が伴っています。例えば「著作権法逐条講義 加戸守行 社団法人著作権情報センター ISBN4-88526-040-X C3032」には『要約という形である程度の長さの著作物を短くまとめるという行為は翻案に該当する』とあります。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:24 (UTC)
- Pinejamさんには、独り合点ばかりしていないでもっと人の話をちゃんと吟味することを強く求めます。 Dwyさんが指摘しているのと同じことを私はこのスレッドの最初の方(2016年2月11日 (木) 16:28)で指摘したはずです。分かってもらえたのかと思っていたのですが何時の間にか話が元に戻ってしまっています。このレベルにとどまるつもりなら、議論は平行線のままでしょう。
- 同時に、Pinejamさんには、論拠をちゃんと出すことを求めます。「言語作品の要約は翻案とされています」ということを貴方はここまで繰り返し述べています。しかし、どの本のどの箇所を読んでそう判断したのか他の人には全くわかりません。貴方にとって当然の解釈かもしれませんが、他の人にとってもそうだとは限りません。私は、貴方が「全体」と「部分」の区別をつけられない人である可能性を疑っています。一つでもいいですから貴方の読んだ「著作権の本」の該当箇所を示してみてください。繰り返し他の参加者に「出典に基づいた議論」を要求していますが、それ以前に、言い出しっぺである貴方に先ず立証責任があるはずです。
- ここまで書いて投稿しようと思ったら編集競合でした。Sureturnさんの指摘とも被った内容ですが、そのまま投稿します。同じ問題を感じている人が一人ではないということを示す意味はあるでしょうから。--Kojidoi(会話) 2016年2月28日 (日) 13:08 (UTC)
- そもそも要約が翻案であることは「どの本に書いてあるのか?」と問われるような話ではありません。なぜなら「どの本にも書いてある」という程度にありふれた記述だからです。ただ、上の方で幾つか例を出しました。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 13:30 (UTC)
- 翻案とみなされる場合でも、引用と評価される場合は本案件侵害が成立しません[13]。なので、Wikipediaのあらすじは一律に良いとも悪いとも言えず、個別評価になります。 --Yhiroyuki(会話) 2016年2月28日 (日) 10:52 (UTC)
- 著作権の本を何冊かお調べになれば直ぐにお分かりになると思いますが、言語作品の要約は翻案とされています。--Pinejam(会話) 2016年2月28日 (日) 07:52 (UTC)
- 最高裁の定義では「新たに思想又は感情を創作的に表現」という要件がありますが、Wikipediaの目的にかなうように記述すると、必然的に要約による引用となり新たに表現することはないため、翻案権侵害にはならないと思います。ただし、細部の描写まで拾いすぎているあらすじを見かけますので、今のWikipediaに問題がないとは言えませんので、個別対処は必要かと思います。--Yhiroyuki(会話) 2016年2月22日 (月) 00:31 (UTC)
- 判例の解釈に当たって「個人見解」は価値が低いとおっしゃっているわけですから、ウィキペディアの記事に書かれているような「あらすじ」が当該最高裁判決が言う「翻案」の定義に該当するということについて、解釈の余地がないくらい直接的に言い切った出典(判例・通説レベルのもの)が必要です。--Dwy(会話) 2016年2月21日 (日) 21:57 (UTC)
著作物の要約についてですが、著作権上「翻案」に該当すると考えられている、というのは説明したとおりですが、調べてみると著作物の要約に対して「法的手段を講じることもある」と宣言している出版社が結構あるようです。小学館講談社徳間書店扶桑社文藝春秋--Pinejam(会話) 2016年3月1日 (火) 13:13 (UTC)
- コメント加戸の逐条(6訂新版)には筋・仕組み・主たる構成という原作における思想感情の流れを取り入れて、原作を感知するような作品を作成する行為が翻案になるとか、ダイジェスト(要約)という形である程度の著作物を短く縮めるという行為は翻案に該当し、何を書いているか紹介する程度のもの、例えば、新聞・雑誌の図書紹介とか、図書目録に記載するための要旨などは、そもそも利用とは言えない性格の行為と観念されるために翻案とは言えないとかいうことは書かれています。その違いは、要約が原作品を読まなくても原作品が表現している著作者の思想・感情を読者に感得させるものであるのに対し、要旨は原作品を読む意欲を起こさせる刺激剤ではあっても原作品の表現を読者に受け止めさせるに由ない性格のもの、とされています。つまり、筋書きなどを短くまとめる行為のうち、翻案権を侵害する要約と、侵害しない抄録または要旨がある、と。加戸の言葉の使い方にならうなら、当然「要約が翻案である」ということになりますし、要約は翻案権を侵害するのですから、出版社や著者が法的手段を講じることもあるでしょう。新聞・雑誌は例示であり限定列挙ではありません。百科事典においても、その主題となる著作物が何を書いているか紹介する程度のもの、要旨などは、そもそも要旨とは言えない性格の行為と観念されるならば、翻案ではない、ということになります。加戸はそこで翻案か要旨かの境界を長さではなく、原作品の思想・感情を読者に感得させるかどうかで説明しています。他の版は確認していませんが、加戸の逐条の説明と、Pinejamさんがおっしゃっていることには、乖離があるように思いますが、いかがでしょうか。--Ks aka 98(会話) 2016年3月1日 (火) 16:47 (UTC)
- 「著作権法逐条講義 加戸守行 社団法人著作権情報センター ISBN4-88526-040-X C3032」のP207の記述を指しておられると思うのですが、何を書いているか紹介する程度のもの、つまりストーリーの基本的な筋・構成を短くまとめたものではなく、どういった物語なのかを、物語のあらましがわらかない程度の表現で説明するような「要旨」ならば翻案権の侵害にはならない、という考えは、著作権の一般的な考え方に合致すると思います。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 00:32 (UTC)
- 加戸はその主題となる著作物が何を書いているか紹介する程度のもの、原作品の思想・感情を読者に感得させないものを「要旨」としています。ストーリーの基本的な筋・構成を短くまとめたものがすべて「要約」だとはしていませんし、物語のあらましがわからないことを「要旨」の要件にしているわけでもありません。著作権の一般的な考え方として、または著作権の専門家の意見として「物語のあらましがわらかない程度」(原文ママ)が「要旨」だとしているものはありますか?--Ks aka 98(会話) 2016年3月2日 (水) 03:40 (UTC)
- それを読めば物語のあらましが読者に伝わるような要約は翻案です。一番上で紹介した文化庁の文書にもそれは示されています。もし、ストーリーの基本的な筋・構成が読者に伝わるような要約であっても翻案に該当しない例外的なケースがある、というような主張をなさりたいのであれば、その主張に沿うような出典を私は見たことがありませんし、Ks aka 98さんにも、ご自身の主張に沿うような出典は恐らく見つけられないでしょう。そもそも、加戸氏の同書籍のP207では、基本となる原作の筋・仕組み・主たる構成などの内面形式を母体として派生的著作物を作成し、原作を感知させるような作品を作成する行為を翻案であると指摘しています。その彼が「その主題となる著作物が何を書いているか紹介する程度のものなら問題がない」と言うのであれば、それが原作の筋・仕組み・主たる構成を読者に感知させるようなものであるはずがないということは、ごく自然に解釈できることではないでしょうか。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 08:00 (UTC)
- 返信 (Ks aka 98さん宛) その後返信がないようですが、要約が翻案であることはご理解いただけたでしょうか?Ks aka 98さんの主張の中に、もしかするとKs aka 98さんが著作権に対して大きな誤解をしているのではないかと思い当たる点があるので、それを指摘しておこうと思います。
- Ks aka 98さんは次のような主張をしました。『原作品の思想・感情を読者に感得させないものを「要旨」としています。』しかし、この発言と矛盾するような主張もしています。『物語のあらましがわからないことを「要旨」の要件にしているわけでもありません』私には、なぜこのような矛盾した発言をKs aka 98さんがするのか分かりませんでした。恐らくKs aka 98さんは、ご自身の発言の矛盾には気づいていないように思えます。
- ここで思い当たったのですが、もしかするとKs aka 98さんは次のように考えてはいませんか?
- 例えば「ある著作者が『愛の大切さ』を表現するために、ある著作物を生み出した。その著作物を読んだ読者も『愛は大切だ』と感じることができる。たとえ、その著作物のあらすじにおいて、ストーリ・筋・構成などが読者に伝わったとしても、『愛の大切さ』が伝わらないようであるならば、原作品の思想・感情が読者に感得されたとは言えない」というような考えです。
- もしそうであるならば、ここには著作権に対する、大きい誤解があります。著作権は表現を保護するものであって、表現の背後にあるような「抽象的な思想」は保護の対象にはなりません。例えば「著作権法講座 作花文雄 社団法人著作権情報センター ISBN4-88526-043-4」のP135には次のように指摘されています。『文芸作品におけるテーマとは同作品における基本的な筋、構成によって表現されているものである以上、基本的な筋、構成と一体として翻案の判断をなすべきであり、そのような基本的な筋、構成と離れて抽出される抽象的なテーマ自体はアイディアとして著作権の保護範囲外にある』ですから、例で示したような「愛の大切さが、あらすじの読者に伝わるかどうか」は、著作権が問題にすることではありません。
- では、加戸氏が言う「思想・感情」とは何かというと、これは「著作物」のことです。著作物とは「思想又は感情を創作的に表現したもの」(著作権法第2条)だからです。そして文芸作品では、著作者の「思想・感情」は、物語の基本的な筋や構成で表現されています。(『文芸作品におけるテーマとは同作品における基本的な筋、構成によって表現されている』)ですから、その著作物を特徴づけるような基本的な筋、構成が読者にはっきりと伝わるようであるならば、それは「原作品の思想・感情が読者に感得された」と言えます。
- つまり、Ks aka 98さんの発言は、次のように言い換えることができます。「加戸は原作品の思想・感情を読者に感得させないものを「要旨」としています。物語の思想・感情がわからないことを「要旨」の要件にしているわけでもありません。」これは矛盾していますよね?
- もし、Ks aka 98さんが、このような誤解をされていなかったのであれば、失礼しました。--Pinejam(会話) 2016年3月4日 (金) 23:39 (UTC)
- 加戸はその主題となる著作物が何を書いているか紹介する程度のもの、原作品の思想・感情を読者に感得させないものを「要旨」としています。ストーリーの基本的な筋・構成を短くまとめたものがすべて「要約」だとはしていませんし、物語のあらましがわからないことを「要旨」の要件にしているわけでもありません。著作権の一般的な考え方として、または著作権の専門家の意見として「物語のあらましがわらかない程度」(原文ママ)が「要旨」だとしているものはありますか?--Ks aka 98(会話) 2016年3月2日 (水) 03:40 (UTC)
- 「著作権法逐条講義 加戸守行 社団法人著作権情報センター ISBN4-88526-040-X C3032」のP207の記述を指しておられると思うのですが、何を書いているか紹介する程度のもの、つまりストーリーの基本的な筋・構成を短くまとめたものではなく、どういった物語なのかを、物語のあらましがわらかない程度の表現で説明するような「要旨」ならば翻案権の侵害にはならない、という考えは、著作権の一般的な考え方に合致すると思います。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 00:32 (UTC)
難しい話はよくわかりませんが、現状の「あらすじの書き方」+「それを読めば作品のあらましが分かるというような、作品を要約するあらすじは避ける」「長さは2、3行程度にとどめる」というルールだとかなり難易度が高い編集になりますよね。この議論の発端は天空の城ラピュタのノートでPinejamさんの提案が否定された事ですよね。例えばラピュタだと、どういうあらすじになるのでしょう?そういう例題があれば理想のあらすじのイメージが伝わるのではないでしょうか。--STamEnsshon(会話) 2016年3月2日 (水) 02:02 (UTC)
- 私は広く世に受け入れられていると言えるような著作権上の考えをガイドラインで編集者に紹介したいと考えていますが、私の個人的な意見に基づいた「理想のあらすじ」をガイドラインで示すべきだとは思っていません。出典に基づかないような私独自の考えには責任が持てないからです。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 08:00 (UTC)
- 素朴な疑問ですけど、提案者すらそれに従った例示ができないようなガイドラインを設けることに一体全体何の意味があるんですかね?百歩譲ってPinejam氏の著作権理解・翻案権理解が適切なものだと仮定して、それに基づいた判断が容易でないのであれば、現行の状態と何が変わるんでしょう。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 10:00 (UTC)
- 著作権侵害していない翻案の具体例、というものは、どのような書籍においても私は見たことがありません。かといって、そのような例を示さないならそれらの書籍の存在に意味がない、とは言えません。翻案権は日常生活では馴染みがないものであり、それを紹介することは、著作者の権利を侵さないように配慮を持ってあらすじを書くように編集者に注意を促すことになるので、意義があることだと思います。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 10:15 (UTC)
- いや、そんな複雑なことじゃなくてですね。ガイドライン化を目指すということは、必ずしも必須ではないにせよ、その指示に従って記述することを促すわけですよね?そのガイドラインを読んでも(一番意図を理解している筈のPinejam氏ですら)適切なあらすじを書いたという責任が持てないようなものをWikipedia上のガイドラインとして新たに設けることに何の意味があるのか、ということをお尋ねしているわけです。単に配慮を持って、というのであれば「具体的な書き方」節になるべく短くとか著作権に対する注意とかは既に書かれているわけです。ですので、新たに付け加えるというのであればある程度具体性・実効性がある内容だと早合点していたものでして。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 11:04 (UTC)
- 誤解を防ぐために追記しますが、「権威ある書籍等に記載されている、著作権を侵害しないとされるあらすじの具体例」ではなくて、「新たに付け加えようとしているガイドラインに沿った記法でのあらすじの具体例」が知りたいわけです。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 11:07 (UTC)
- 何よりも重要なのは、著作権の基本的な考え方をガイドラインで示すことだと考えております。現在のガイドラインにもあらすじの具体例はありませんし、著作権の書籍にも著者が自ら例を示しているものはありません。ご自分でもお気付きの通り、必須なものではないでしょう。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 12:58 (UTC)
- いや、あらすじの具体例はぜひ書いていただきたいですね。ガイドラインの見本をこれから書かれるならそれと一緒に。そのぐらいの具体的ヴィジョンを示してもらわないと、今まで出てきた、口先ではご高説を垂れつつ、あらすじ文後半をぶっちぎってネタバレ隠ししただけの方々と差がありません。私は「先生のお手本」に期待しているのですが。--Garakmiu2(会話) 2016年3月2日 (水) 13:55 (UTC)
- 私は私独自の考えをガイドラインに示したいわけではなく、広く世に受け入れられていると言えるような著作権上の考え方を示そうとしているだけです。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:36 (UTC)
- 「必ずしも必須ではないにせよ」が例示にかかると読めるのであれば、読解力に著しく難がありますね。で、その「Pinejam氏の理解に基づく」著作権の基本的な考え方をガイドライン上に示すことで、具体的にどのような利点が見込めるので?提案者がその指針に沿った例示を出すこともできない指針が存在することで執筆の手助けとなると、よもや本気でお考えで?--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 14:01 (UTC)
- はい。翻案権についての知識が乏しい編集者に、翻案権を侵害しないようなあらすじを書くための注意を払わせることができると考えています。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:36 (UTC)
- 文章の読解力がないのか意図的に曲解しているのか分かりませんが、やはり話が通じていない。注意を払った結果どのようなものを書くべきか、まで盛り込めないのなら一切の役に立ちません。「翻案権とはこういうものだから気をつけようね」とだけ書いてあって、どのようなあらすじを書くべきか書いていないのであれば、誰もそのガイドラインに従ったあらすじの記述などできやしません。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 23:14 (UTC)
- 「言語作品を要約すると翻案に該当する」「ストーリー展開や具体的出来事といった、作品の本質的な特徴部分が読者に伝わるように文章に作り直すと翻案に該当する」これだけで十分に注意が促せるでしょう。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:23 (UTC)
- だから、それを示して、それに留意した上で、どのようなあらすじを書けというガイドラインなんですか。例えばラピュタで言えばどの程度であればそのガイドラインに抵触しないで物語の概要を説明するための「あらすじ」が書けるのですか。結局、貴方は貴方の独断に基づいて「現状に問題があると思う」「それが必要だと思う」と言っているに過ぎません。それがガイドラインとして必要だとも有効だとも思えません。--126.0.234.196 2016年3月3日 (木) 12:37 (UTC)
- 著作権について注意を払わなければならないという考えは、私個人の考えでは全くありませんよね。著作権上どのような問題点があり得るのかをガイドラインに盛り込むと、どうあらすじを書いて良いのかわからなくなるので、著作権については放置しましょう、と貴方は主張しているように見えます。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:52 (UTC)
- だから、それを示して、それに留意した上で、どのようなあらすじを書けというガイドラインなんですか。例えばラピュタで言えばどの程度であればそのガイドラインに抵触しないで物語の概要を説明するための「あらすじ」が書けるのですか。結局、貴方は貴方の独断に基づいて「現状に問題があると思う」「それが必要だと思う」と言っているに過ぎません。それがガイドラインとして必要だとも有効だとも思えません。--126.0.234.196 2016年3月3日 (木) 12:37 (UTC)
- 「言語作品を要約すると翻案に該当する」「ストーリー展開や具体的出来事といった、作品の本質的な特徴部分が読者に伝わるように文章に作り直すと翻案に該当する」これだけで十分に注意が促せるでしょう。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:23 (UTC)
- 文章の読解力がないのか意図的に曲解しているのか分かりませんが、やはり話が通じていない。注意を払った結果どのようなものを書くべきか、まで盛り込めないのなら一切の役に立ちません。「翻案権とはこういうものだから気をつけようね」とだけ書いてあって、どのようなあらすじを書くべきか書いていないのであれば、誰もそのガイドラインに従ったあらすじの記述などできやしません。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 23:14 (UTC)
- はい。翻案権についての知識が乏しい編集者に、翻案権を侵害しないようなあらすじを書くための注意を払わせることができると考えています。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:36 (UTC)
- いや、あらすじの具体例はぜひ書いていただきたいですね。ガイドラインの見本をこれから書かれるならそれと一緒に。そのぐらいの具体的ヴィジョンを示してもらわないと、今まで出てきた、口先ではご高説を垂れつつ、あらすじ文後半をぶっちぎってネタバレ隠ししただけの方々と差がありません。私は「先生のお手本」に期待しているのですが。--Garakmiu2(会話) 2016年3月2日 (水) 13:55 (UTC)
- 何よりも重要なのは、著作権の基本的な考え方をガイドラインで示すことだと考えております。現在のガイドラインにもあらすじの具体例はありませんし、著作権の書籍にも著者が自ら例を示しているものはありません。ご自分でもお気付きの通り、必須なものではないでしょう。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 12:58 (UTC)
- 著作権侵害していない翻案の具体例、というものは、どのような書籍においても私は見たことがありません。かといって、そのような例を示さないならそれらの書籍の存在に意味がない、とは言えません。翻案権は日常生活では馴染みがないものであり、それを紹介することは、著作者の権利を侵さないように配慮を持ってあらすじを書くように編集者に注意を促すことになるので、意義があることだと思います。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 10:15 (UTC)
- 素朴な疑問ですけど、提案者すらそれに従った例示ができないようなガイドラインを設けることに一体全体何の意味があるんですかね?百歩譲ってPinejam氏の著作権理解・翻案権理解が適切なものだと仮定して、それに基づいた判断が容易でないのであれば、現行の状態と何が変わるんでしょう。--126.0.234.196 2016年3月2日 (水) 10:00 (UTC)
ここまでの議論で結局どういうあらすじが適正なのかがよくわかりません。今のガイドラインだと作品記事はわかりやすく解説するであったり、販売促進法のような物語のいちばん肝心な部分をぼかす必要はないであったり、Pinejamさんが追加したいという「それを読めば作品のあらましが分かるというような、作品を要約するあらすじは避ける」「長さは2、3行程度にとどめる」といったルールと反対のように見えます。ルール改定ならわかるんですが追加という事なので、どういうあらすじを書けば良いのかイメージがわかないので教えて欲しいです。わからないという事は編集できないという事ですから、私みたいに編集できない人が増えないようにお願いします。--STamEnsshon(会話) 2016年3月2日 (水) 15:01 (UTC)
- 個人が独自に考えたような目安を、この問題で示すべきではないと思っております。私にできるのは、出典が伴うような著作権上の考えを読者に示すことです。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:36 (UTC)
- 一つ補足すると、現在のガイドラインはすでに著作権が切れた作品にのみあてはまる基準だと私は考えています。なぜなら、著作権に関する観点が欠如しているからです。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:45 (UTC)
- コメント それは違います。著作権が切れていない作品でも、極力このガイドラインに沿って宣伝的な表現方法は避けつつ、極端に長くならないよう、必要であればネタバレを躊躇せず物語の全体的な流れを理解できるように記述してください。
- 草案検討時にこのガイドラインから著作権に関する言及([14])をあえて省くことになった理由については「#作成意図および議論」節の過去議論を参照してください。--ディー・エム(会話) 2016年3月3日 (木) 11:50 (UTC)
- 率直に感想を言うと、著作権についての議論を避けるために、著作権の全てに対して目をつむりました、という印象を受けます。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:16 (UTC)
繰り返しますが、最も重要なのは、著作権上、世の中に広く受け入れられていると言えるような考えを編集者に示すことです。それは、著作権の知識がないまま、意図せずに著作者の権利を侵すようなあらすじを編集者が書かないように注意を促す必要があるからです。--Pinejam(会話) 2016年3月2日 (水) 15:28 (UTC)
- 著作権との関係を考えた時、あらすじをざっくり次のように分類できると思います。
- 誰から見ても著作権に抵触するはずのない要約(白)
- 誰から見ても著作権に抵触する翻案(黒)
- にわかには白とも黒とも判別しがたいもの(グレー)
- 当ガイドラインは、今まさに編集窓を開いてあらすじの編集を始めようとしている人への羅針盤として設定されているので、「グレー」をどう考えるべきかが重要なポイントになります。この点を補強するという話なら改訂議論にも意味があるでしょう。
- しかし、これまでのやり取りを見る限りその方向で実りのある議論は難しそうだと考えざるを得ません。文化庁のテキストは「どう見ても黒」なものと「どう見ても白」なものの典型に言及しているだけでグレーについては何も説明していません(以前に指摘済み)。私は読んでいませんがKs aka 98さんのコメントを見る限りでは「加戸氏の書籍」もだいたい同じようなフォーカスのようですね。ところがPinejamさんは黒とグレーをどうも区別していないようです。文化庁のテキストを拡大解釈して、白以外は書かないようにしようという提起であれば受けいれる余地はありません。一方、著作権なり翻案権なりの概念を紹介したいだけで結局あらすじをどう書けばいいのかという手がかりを与えないのであれば、本ガイドラインには必要ない記述です。それはWikipedia:著作権あたりで議論すべき話でしょう。
- おそらくこのままではPinejamさんの努力は九分九厘徒労に終わるでしょう。自分の出した結論まずありきでは議論になりません。みんなで同じような疑問を異口同音に繰り返し表明しています。上っ面だけ読んで流さないでください。これらの疑問を全部解消できるような説明をPinejamさんにはお願いします。すぐさま返信しなくて結構です。2週間でも3週間でも考えてください。--Kojidoi(会話) 2016年3月2日 (水) 17:27 (UTC)
- 私はグレーについては議論するべきではない、と考えています。なぜなら、そのような微妙な判断を、法律の専門家でもない我々が下すわけにはいかないからです。仮に我々が独自に考えた基準により、その基準に従った編集者が訴えられた場合、我々にその責任が取れますか?取れるはずがありません。ですので、ガイドラインでは著作権における一般的な考え方を紹介し、具体的にどう書くのかは書く編集者が自分の責任で考えるのが最も望ましいと考えます。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:06 (UTC)
コメントPinejamさんのあらすじに対する考え方はノート:天空の城ラピュタを見れば良いと思います。というより、必ず見て欲しいと思います。例えば、「言葉の選択は多大な労力と時間をかけてその記事の作成に努力した者の自由であるはず」というように自分の編集が優遇されるべきなのだという独善的な考えが顕著です。他にも、他の編集者を「その記事の作成に貢献したわけでもない他者」などと表現するなど、つまるところ自分以外はあらすじに手を出すな、という事なのです。今回のガイドライン提案は、そういった自分の行動を正当化する為の布石に過ぎないとしか思えません。さらに言うなら、この方は自分勝手に議論を振り回した挙句に、最後はなんの音沙汰もなく議論を投げ出してここに来ています。Pinejamさんは議論を収束させる責任感すら持っていない方なのです。--RANWAM(会話) 2016年3月3日 (木) 07:20 (UTC)
- 全く見当違いも甚だしいですね。その議論で私は他人の意見を何一つ放置していません。逆にRANWAMさんは、私の問いに対して最後まで逃げ続けて結局答えませんでしたよね。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 12:45 (UTC)
コメント 私はPinejamさんの危機感には概ね同意ですけど、ガイドラインには、プロット・キャラクター・テーマの三要素に関わらない記述、広く知られた特徴でない記述は省略すると書かれているので、システム的には多少カバーされているのかなと思います(ただしなかなか守られていない気も)。この規定を守っていれば、多くの現代作品のあらすじは実際に数行に収まるんじゃないかと思いますし、法的なグレー状態も多少「漂白」されるんじゃないかと思います。--Floe~jawiki(会話) 2016年3月3日 (木) 17:05 (UTC)
コメント 問題を感じていない人が多いようなので、とりあえず少数派としての私自身のノーミソの中を明らかにするという意味で、私論を書いておきます。これは提案ではないので、議論を深めたり、問題について考えるための肴にして欲しい。明らかに間違っていることがあればお手柔らかに指摘して欲しいけれども、これは提案ではないので私を説得するためではなく、それはひとつの意見として書いて欲しい。
- 一次資料の観点から
-
- 現代作品のあらすじは権利保護された一次資料を基にして書く、慎重を要する作業である。
- 一般的な一次資料と違い、内容は事実(著作権保護の対象外)ではない。
- このような悪条件下での執筆を許容する慣習はWikipedia上でも他にほとんど例がない。そして「あらすじの執筆」の文脈の中ではこの悪条件は決してレアケースではない。
- このような難しい作業を案内する明文化したガイドラインがあるなら、その困難さについて書くべきである。
- 基準の提示ができなくとも、少なくともWikipedia:著作権やWikipedia:ガイドブック 著作権に注意に案内すべきである。
- 翻案権の観点から
-
- アナと雪の女王のあらすじを例に取る。これは現行のガイドラインをきちんと守った例として挙げている訳ではないことに留意して欲しい。
- これはプロットの面でそれなりの量が書かれている。許容派の人は、これは本編よりもずっと単純化されており、映画で描かれた映像や台詞、演技、細かいエピソードなどの情報量と比べればずっと少なく、本質を直接感得できない(翻案でない)、と主張するかもしれない。しかし、これと同じくらい単純化されたコンテンツ(例えば児童向けのストーリーブック教材[15]のようなもの)が公式に出版された場合、その内容はほとんど一致するおそれがある。
- 翻案権はこういった将来的なコンテンツの短縮・延長もリザーブする権利なのであり、「そのあらすじと同じ程度のコンテンツが出版されていても単なる事実として問題なく扱える程度」でない限り、プロットの記述は避けるべきである。
- 上の例において、もちろん我々は先行権を主張できる立場ではない。
- 内容において重複しながらもセーフとされた判例の「江差追分事件」や「血液型と性格要約引用事件」では、表現目的や主従関係が原告作品とは異なることもセーフの理由に挙げられている。原典に基づいて書かれるWikipediaでは、独自の表現目的や主従関係が常に成立する(成立するように書いてもらう)と期待するのは難しい。
- 日本にはフェアユースの慣習がない。英語版Wikipediaは真似すべきでない。
- Wikipediaの観点から
-
- Wikipediaは第三者が自由に扱える公然の事実について要約することで読者の役に立とうとするプロジェクトである。
- 事実として作品の位置付けを伝える目的を超えて、第三者に公然と言及されているかどうかわからない、フィクションの内容に踏み込んで伝える必要のある場面は稀である。
- 著作権のあるコンテンツの紹介には外部リンクという方法がある。Wikipedia:著作権#著作権保護下にある情報へのリンクにも映画内容について外部リンクすることは許容されると書いてある。
- 「世間の資料を読んだって詳しく書いてないし、Wikipediaにもっと詳しく書けば読者が助かる」といった考え方はリスキーである。
--Floe~jawiki(会話) 2016年3月6日 (日) 09:37 (UTC)
- コメント 「問題を感じていない人が多い」というのは必ずしも正確でなく、このノートの議論参加者だけをみてもそのあたりの過去議論や関連ガイドライン(草案)の取りまとめ、翻案権侵害を理由とした削除案件などに関わった方々が多数おられ、潜在的な問題意識はそれなりに共有されているものと思います。
- ただ、そういった著作権関連の問題を理論立てて説明しようとするには、Floe~jawikiさんが上記「翻案権の観点から」で指摘されている事柄が絡んでくる関係上そう単純にいかない面があることから、編集実務に資する助言・解説としては著作権に直接言及しない説明方法を意図的に採用したいというのが大方の現実的な判断ではないかと思います。
- 例えば、「一次資料の観点から」で指摘されているような事柄をガイドラインで言及しようとすると、「翻案でないまとめ文章の投稿は可ですが要約引用は不可です」みたいな説明にならざるをえないかと思いますが、他方で、このノートの過去の議論参加者である枯葉さんが以前に提出されているハリー・ポッターシリーズの削除依頼(存続終了・削除依頼者の利用者ページに当結論へのコメントあり)を拝見すると、その依頼提出の判断基準が文章の単純な長短ではなく本文との主従関係にあることは明らかであり、そこの整合性をうまく取らないとかえって混乱しかねない気がします。私は実務上の判断(あくまで実務上の保険としての一基準)としてはこの枯葉さんの方向性を支持しますが(大昔に私も似たようなことを言ってたり[16]、上記でYhiroyukiさんが述べているご意見も問題意識の所在は同じということになると思います)、ただし法律論としてその根拠を具体的・明示的に説明するのはなかなか難しい面があり、将来的に削除などの対応を検討するとしても法律案件としてのルール策定ではなく、実務上のローカルルールとしてWikipedia:スタイルマニュアル (フィクション関連)に基づく特筆性の削除基準とするなどの工夫をする方が現実的には扱いやすい気がします。そのあたり、要約引用などのウィキペディア上での扱いについては既に「Wikipedia:著作権で保護されている文章等の引用に関する方針」(試験段階の草案)で示されており、同ガイドラインの主執筆者であるZCUさんやKs aka 98さんなどは少なくともPinejamさんが反論されているような事柄(2016年2月28日 (日) 13:10 (UTC)のコメントなど)も含めて詳細に認識されている筈ですが、議論拡散を避ける意味で現時点ではあえて言及を控えられたのだろうと思います。また、「Wikipedia‐ノート:ストーリー紹介の在り方についての解説素案」の過去議論でも郁さんから翻案権に関する問題提起があり、同文書を中心的に取りまとめられたKojidoiさんもそのあたりはこの場であえて言及していないだけで、問題認識は持たれているものと思います。そういったこともありつつ、今この場で直接的な言及がないからといって安易に各編集者が「問題を感じていない」とみなされるのは必ずしも正確でないと思います。
- あともう一つの方向性として、エモーショナルなあらすじ文は避けるということも重要な助言になるかと思います。これはFloe~jawikiさんも先にご指摘の通り、既に「Wikipedia:あらすじの書き方#あらすじの文体」の2段落目におよそ反映されているものと思います。一例として「魔法少女まどか☆マギカ」の物語節などは全部で約3千字超、「ストーリー展開」節だけでも1700字超の文章量ですが、この内容で法律案件となるような問題があるとも思えません。ですので、本ガイドラインを十分に活用しさえすれば、Floe~jawikiさんが「Wikipediaの観点から」で述べられているような抑制案はやや過剰に思います。
- ただ、私個人のこれまでの執筆経験でいえば、必ずしもそこまできちんとできていないところもあり、いろいろ見直す機会として問題提起をいただけたことは率直にありがたいです。とはいえ実際に現実視点の文章で内容説明を作文しようとすると二次資料の出典がないと厳しい面もあり、さじ加減が難しいですが、過去の関連議論の内容なども十分に踏まえていただいた上で、現行の当ガイドラインよりもさらに具体的なあらすじ作文のノウハウを検討いただけるなら今後の編集の助けにはなると思います。--ディー・エム(会話) 2016年3月6日 (日) 15:31 (UTC)
- 返信 なるほど、大変貴重なご意見ありがとうございます。勉強になります。過去の議論など未見のものがありました。著作権の観点からはなかなかまとめるのが難しい、時間がかかるだろうという流れのようですね。「魔法少女まどか☆マギカ」の例などは単にフィクション含み=コンテンツ的体裁ではない好例だと思いました。--Floe~jawiki(会話) 2016年3月6日 (日) 16:26 (UTC)
- コメント今日はもうFloe~jawikiさんやディー・エムさんの意見にコメントを返す余裕がないのですが、よく内容を理解した後に数日中にはコメントをしようと思います。--Pinejam(会話) 2016年3月7日 (月) 13:51 (UTC)
- 返信 (ディー・エムさん宛) のご意見を読みました。
- 他人の著作物を自分の言葉で表現し直すには、著作者の権利を侵害してはならないという大前提がまず存在し、その範囲内で「あらすじの書き方」があるはずですが、現状のガイドラインでは著作権の内容を理論立てて説明するのが難しいというような理由で、重要であるはずの大前提が消えてしまっているのが問題だと感じています。
- 過去に翻案権について声を上げている方がいるという実例は興味深く読みました。問題なのはそれらの声が「あらすじは翻案にはならない」というような、具体的な根拠を伴わない個人の思い込みの声によって、掻き消されてしまっていることだと思います。枯葉さんの利用者ページに『ここまで中身のない結論を出されるとは』との声がありますが、まさにその通りだと感じました。
- その、枯葉さんの削除依頼についてですが、ディー・エムさんが言う『依頼提出の判断基準が文章の単純な長短ではなく本文との主従関係にあることは明らか』とありますが、これが具体的に何を指しているのか、どのような理由で明らかなのかが、私には分かりませんでした。ただ、もしそれが要約引用を考慮したものであり、引用の要件である主従関係のことを言われているのであれば、要約引用については著作権上一般的に認められているとは言えない現状にあり、またウィキペディアのあらすじを「引用である」と言える程度に、あらすじで示されている内容について詳しく論じるような記事は稀であることからも、今この議論で取り上げるような問題では無いのではと感じます。
- 『エモーショナルなあらすじ文は避けるということも重要な助言になる』というのも、この議論の本質とは外れているように感じました。読者の感情に訴えかけるかどうかは、それが翻案と言えるかどうかの判断とは無関係だからです。--Pinejam(会話) 2016年3月10日 (木) 17:33 (UTC)
- コメント 「問題を感じていない人が多い」というのは必ずしも正確でなく、このノートの議論参加者だけをみてもそのあたりの過去議論や関連ガイドライン(草案)の取りまとめ、翻案権侵害を理由とした削除案件などに関わった方々が多数おられ、潜在的な問題意識はそれなりに共有されているものと思います。
- 返信 (Floe~jawikiさん宛) のご意見を読みました。
- 一つ目の「一次資料の観点から」については、この問題の本質的な部分が述べられていると感じました。小説や漫画・映画などの「創作性が極めて高い」ものの内容を、著作権に触れない範囲内で読者にわかりやすく伝えるには、ウィキペディアの他の記事の執筆には無いような特別な慎重さが求められる作業です。
- 二つ目の「翻案権の観点」については、翻案に対する認識の違いを感じました。例で示されている「アナと雪の女王」のあらすじについて「本質を直接感得できない」という考え方は、まず成立しないだろうと思います。私は「アナと雪の女王」を観たことがないので断言はできませんが、恐らく同作品を観たことがある人であれば、疑うことなく直接同作品を思い浮かべる程度に、物語を特徴づけるようなストーリー・筋・構成が、はっきりと記述されているのではないでしょうか。「これがアナと雪の女王を文章化したものだなんて気づきませんでした」という人は、恐らくいないでしょう。将来的に児童向けのストーリーブック教材と重なる恐れ、というのも少し奇妙な議論に思われます。映画を児童向けストーリブックに書き改めることは映画の翻案に当たりますが、そのようなストーリブックが実際に登場しなくとも、映画の内容を児童向けストーリーブックに書き改めたようなあらすじであるならば、そもそもそれは最初から翻案だと言えるからです。
- 三つ目の「Wikipediaの観点から」については、まさしくその通りだと思います。私も最初は「物語の本筋を、わかりやすく読者に伝えれば、役立つはずだ」という考えであらすじを書いていました。しかしそれは、物語の本質的特徴を短く省略した文書で読者に感得させることを目的としたものであり、翻案権に抵触する危険性が高い考え方だったと今では思います。--Pinejam(会話) 2016年3月10日 (木) 17:01 (UTC)
終了提案
提案 この話、ひとまずお終いにしませんか? 本当に出すのかどうかわからない「数週間後の具体的な文案」まで同じやりとりを続けますか? 問題点を指摘しても理解も納得もできないようですし、現状 Pinejamさんの主張は採用に値しないという点での合意はできているものとみて良いでしょう。これ以上は無駄です。「具体的な文案」とやらが出るまで放置、出てから(まぁこの調子なら)却下、それ以上問題を起こすようなら適宜対応、でいかがでしょう。--Hisagi(会話) 2016年3月3日 (木) 12:28 (UTC)
節を分けました。みなさま、当面(次の段階に移るまで)相手をしない・返事をしないよう、よろしくお願いいたします。--Hisagi(会話) 2016年3月3日 (木) 13:22 (UTC)
- 賛成 もともとラピュタの議論の意趣返しのために出されたような提案に思えるのでいったん終了し、提案者様は具体的な修正文面案と修正案に従って作られた具体的なあらすじの例ができあがったら再提出なさってください。議論はそれからでしょう。--こち(会話) 2016年3月3日 (木) 12:59 (UTC)
- 賛成 グレーを受け付けないという考え方は認めますが、ウィキペディアの運営は、誰か一人の意見で決まるものではなく、コミュニティのラフコンセンサスによって進められるものです。ここまでの議論あるいは対話において、Pinejamさんの提案は受け入れられておらず、グレーを受け付けないということであれば、これ以上ご意見を伺ったとしても、意見を翻す利用者が現れることは考えにくいですから、ここでの議論を終了とすることに賛成します。グレーの判断はされないということでしたら、あらすじにとどまらず、事実を記載することについても著作物性に関してグレーとなりますから外部の著作物を参照して記事を書くこともできなくなりますよ。Pinejamさんの提案はさておくとして、著作権的な説明が必要という意見があるようでしたら、別に節を立てていただければ(別の文書のほうがいいのかもしれません)検討します。--Ks aka 98(会話) 2016年3月3日 (木) 13:00 (UTC)
- コメント 著作権を無視しましょう、というコンセンサスは、そもそもあり得ませんよね。私が今後出す提案については、それが他の編集者の気にいるかどうか、などというような観点ではなく、それが著作権上妥当な考えだと言えるのかどうか、という観点でお願いしたいと思っています。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:16 (UTC)
- コメント はい。著作権を無視しようというコンセンサスはなく、現状でもそれなりに妥当に配慮されており、先の提案を受け入れる必要は無く、これ以上、先の提案を検討する必要もないだろう、というコンセンサスが、今形成されようとしている、ですね。もし出して頂けるのなら、妥当かどうかで判断しますよ。そこで、Pinejamさんの妥当かどうかの判断の仕方自体も問われることになるかもしれませんが。--Ks aka 98(会話) 2016年3月3日 (木) 13:24 (UTC)
- コメント 現状でもそれなりに妥当に配慮、とは具体的に何を指しておられるのでしょうか?例えば要約が翻案であり、出版社によっては法的に対処するとまで宣言しているということは、あらすじを書こうとしている編集者に最も伝えなければならないことだと思いますが、そのような配慮があるようには私には見えません。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:30 (UTC)
- コメント 要約が翻案であり、出版社によっては法的に対処するとまで宣言しているということは、あらすじを書こうとしている編集者に最も伝えなければならないことだと思っているのは、Pinejamさんだけってことじゃないでしょうか。そしてせめて新しい提案が無ければそれを話し合う価値が無いというのが終了提案ですから、以後は提案を待ちます。--Ks aka 98(会話) 2016年3月3日 (木) 13:47 (UTC)
- コメント それすらも配慮が不要というのであれば、Ks aka 98さんが言う「それなりに妥当に配慮」とは一体何のことなのでしょうか?翻案権への配慮なんて、現状は全くありませんよね?全く存在しないものが、どうして「妥当」と言えるのでしょうか。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:55 (UTC)
- 僕の理解がどうなってるかは後でいいですから、新しい提案をお願いします。--Ks aka 98(会話) 2016年3月5日 (土) 06:55 (UTC)
- 返信 (Ks aka 98さん宛) ご自身でも説明ができないような主張であれば、最初からしないのが宜しいのではないでしょうか。あなた自身が説明できないように、全く妥当ではありません。このガイドラインが生まれた当時のノートを読めばわかる通り、著作権については目がつむられています。また、Ks aka 98さんは、私に対して要約が必ずしも翻案とは言えないという主張をご自身から投げかけておきながら、私の返答を放置しているようです。これは議論する者として誠実な態度と言えるのでしょうか?私の説明に納得頂けたのか、納得はできないが根拠を伴う反論を見出せないのか、それとも反論を準備中なのか、何らかの返答を、まずはお願いします。--Pinejam(会話) 2016年3月6日 (日) 01:21 (UTC)
- 僕の理解がどうなってるかは後でいいですから、新しい提案をお願いします。--Ks aka 98(会話) 2016年3月5日 (土) 06:55 (UTC)
- コメント それすらも配慮が不要というのであれば、Ks aka 98さんが言う「それなりに妥当に配慮」とは一体何のことなのでしょうか?翻案権への配慮なんて、現状は全くありませんよね?全く存在しないものが、どうして「妥当」と言えるのでしょうか。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:55 (UTC)
- コメント 要約が翻案であり、出版社によっては法的に対処するとまで宣言しているということは、あらすじを書こうとしている編集者に最も伝えなければならないことだと思っているのは、Pinejamさんだけってことじゃないでしょうか。そしてせめて新しい提案が無ければそれを話し合う価値が無いというのが終了提案ですから、以後は提案を待ちます。--Ks aka 98(会話) 2016年3月3日 (木) 13:47 (UTC)
- コメント 現状でもそれなりに妥当に配慮、とは具体的に何を指しておられるのでしょうか?例えば要約が翻案であり、出版社によっては法的に対処するとまで宣言しているということは、あらすじを書こうとしている編集者に最も伝えなければならないことだと思いますが、そのような配慮があるようには私には見えません。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:30 (UTC)
- コメント はい。著作権を無視しようというコンセンサスはなく、現状でもそれなりに妥当に配慮されており、先の提案を受け入れる必要は無く、これ以上、先の提案を検討する必要もないだろう、というコンセンサスが、今形成されようとしている、ですね。もし出して頂けるのなら、妥当かどうかで判断しますよ。そこで、Pinejamさんの妥当かどうかの判断の仕方自体も問われることになるかもしれませんが。--Ks aka 98(会話) 2016年3月3日 (木) 13:24 (UTC)
- コメント 著作権を無視しましょう、というコンセンサスは、そもそもあり得ませんよね。私が今後出す提案については、それが他の編集者の気にいるかどうか、などというような観点ではなく、それが著作権上妥当な考えだと言えるのかどうか、という観点でお願いしたいと思っています。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:16 (UTC)
- コメント「グレー」について少しだけ。一口に「グレー」と言いますが、「グレー」にもいろいろあります。
- 一般的に受け入れられてる基準で厳密に判断すると「黒」だが、著作権者が一々権利を主張しないために事実上黙認されているもの
- 一般的に受け入れられてる基準で厳密に判断すると「白」だが、著作権者がダメ元・ハッタリで権利を主張しているもの。
- 参考になる先例が存在しないため、細かいところに入っていくと基準そのものが存在しない、あるいははっきりしないもの。
- この辺りはちゃんと区別して議論してほしい。
- そもそも、著者に著作権があるなら、利用者にも表現の自由がある。グレーゾーンというのは著作権と表現の自由がせめぎ合っているところです。著作権側から見て「著作権侵害のおそれがある」であっても、反対側から見れば「表現の自由を不当に妨害しようとしているおそれがある」ということになる。「グレー」はどちから見てもグレーなのだから、どちらかが一方的に悪いわけではない。少なくとも、これまで裁判等で直接問題になったこともないようなことについて、こちらが一方的に引く必要など全くありません。--Dwy(会話) 2016年3月6日 (日) 12:58 (UTC)
- 返信 (Dwyさん宛) 私の言い方も良くなかったので、誤解を受けているかもしれませんが、私は「誰が見ても絶対に白」というあらすじしか許容しないという考えではなく、または「厳密に判断すると黒」というあらすじをウィキペディアから一掃したいわけでもありません。著作権上、どこまでの表現ならば許されて、どこまでならダメなのかは、最終的には編集者が判断するべきことだと思います。しかし、そもそも著作権上の「一般的に受け入れられてる基準」が分からなければ、編集者には判断のつけようがありません。あらすじの書き方によっては著作権侵害になりうることを知らない・気づいていない編集者は人は多いと思います。以前の私もそうでした。それどころか「あらすじ」と銘打ちさえすれば、まるで著作権フリーであるかのように事細かに物語の全容を書き出す人もおり、中には「あらすじは翻案にはならない」と言い切る人もいるくらいです。
- しかし日本の著作権法は非常に厳しく、仮に著作権者が訴え出れば、そのようなあらすじの編集者が裁判で勝てる見込みは、まず無いと思います。
- 例えば、翻案権において最も有名な裁判である「江差追分事件」では、281ページある書籍を参考にしてつくられた、わずか3行程度のテレビのナレーションが翻案権侵害であるとして最高裁まで争われました。しかもこの作品は、小説のような創作性の高いものではなく、著作権の保護範囲が狭くなる「事実」を取り扱ったドキュメンタリー作品です。その裁判では、その3行の中から著作権では保護されない「事実に関する記述」をそぎ落とし、残った表現が原著作物を感得させるものかどうかの判断が行われ、そこまでしてようやく翻案権侵害は無いと結論づけられました(文化庁が示している"2-3行"という目安は、恐らくこの裁判を根拠にしていると思います)。著作権では保護されない「事実」を取り扱った文章を要約しても、その要約文に含まれる「事実」の「選択の仕方」に創作性があり、原作を感得させるとの判断がなされて、翻案権の侵害が認められたこともあります。日本の著作権法は、その程度までに厳しいものです。
- 一方、ウィキペディアで多く見られるような、物語のストーリがハッキリとわかってしまうような詳細なあらすじはどうでしょうか。それらの原著作物は「事実を取り扱った作品」ではなく、創作性が高い漫画や小説です。そのあらすじが原著作物に依拠しているのは言うまでもなく、文章量も豊富であり、そこに書かれている文章は、原著作物で表現されているストーリー・筋そのものです。物語の全容がつかめるくらいに詳しく書いてあるならば、その文章が翻案であるかを争う必要すら無いでしょう。例えるなら、実際の裁判が「女性の胸元をチラ見したら猥褻行為か?」という極めてシビアなレベルで争っているのに対して「女性の胸を鷲掴みにしたら猥褻であるかを裁判で争った例が無い」というようなものです。
- 現状は単に「まだ訴えられていない」というだけに過ぎません。それなのに、他人の著作物を著作権フリーであるかのように扱い、著作者の商業的利益を侵害するようであるならば、やがては訴えられて、その編集者のみならずウィキペディアが深刻な影響を受ける可能性は、決して低くはないでしょう。
- ですので、著作権上の一般的な考え方をガイドラインで示し、編集者が著作権に何も思いを致さないまま不用意なあらすじを書いてしまうような事態が避けられるようにしたいと考えています。--Pinejam(会話) 2016年3月7日 (月) 13:37 (UTC)
- コメント「グレー」について少しだけ。一口に「グレー」と言いますが、「グレー」にもいろいろあります。
- 賛成 他人の話を聞かない(聞くつもりがないのか理解する能力がないのか分かりませんが)人との議論は一切徒労です。具体例がないままヒートアップしても意味がないことを今更ながら反省しております。上でRANWAMさんの指摘に対し他人の意見を放置していないと述べていますが、相手の発言内容を汲まずに壊れたラジオのように自己主張するだけの応答を議論とは呼びませんよ。ラピュタの議論の際も「力づくで議論を破壊するのは辞めてください」とか宣っていましたし、本終了議決後の応答次第では提案の利用者のコメント依頼に進むべきかと。--126.0.234.196
- コメント 他人の話はちゃんと汲んでいますよ。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 13:36 (UTC)
- 賛成 全レスしする暇があったらガイドラインと見本書いてください。--Garakmiu2(会話) 2016年3月3日 (木) 13:46 (UTC)
- コメント ガイドラインの文案は当然書きます。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 14:02 (UTC)
- 賛成 ウォッチリストで大体は追いかけてきていましたがこれじゃあラピュタの議論と同じではありませんか。もし具体的文案が出されたらその時新たに議論を建ててください。--Mirinano(会話) 2016年3月3日 (木) 13:53 (UTC)
- コメント 私は他人の意見や反論に対してお答えしているだけなので、控えていただければ私も作業が捗って助かります。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 14:02 (UTC)
- 賛成 Pinejamさんの他人の意見を理解しているのかどうか疑わしい言動は相変わらずですね。この提案も全く意図が見えてきませんし、文案も示さずして一々意見しているだけで話が進展していません。どんな文案が出来るのか割と気になっていただけに残念です。このまま長々と続けるくらいなら一度区切った方が良いと思います。それで具体的な文案が出来上がったらその時にまた議論をすれば良いと思います。あと、RANWAMさんのコメントで思い出しましたがラピュタでの私のコメントは理解出来ましたでしょうか?あれ、以降返事がないと思ったらこの議論に移られていました。少なくとも理解出来たのであればそれで良いですが。--赤羽さん(会話) 2016年3月3日 (木) 15:18 (UTC)
- コメント いえ、赤羽さんの意図はわかりません。私には、何か赤羽さんが誤解に基づいた発言をしていたように感じられました。ただ、赤羽さんには積極的に説明する気が無いように見受けられましたし、私にも赤羽さんの発言にはさして興味がなく、赤羽さんが私の回答を必要としているというものでもなかったので(私が答えていない質問はありますかと赤羽さんに確認を取って、特に無いようだったので)あえてそれ以上は聞きませんでした。--Pinejam(会話) 2016年3月3日 (木) 16:40 (UTC)
- 賛成 ラピュタや銀河英雄伝説での記事破壊に始まり、ここでも他の方がどれだけ説明しても耳を貸さず自分の意見に固執しており、これ以上まともに議論を続ける意味はないでしょう。「具体的な文案」とやらとそれに基づく実例の一つでも出てこない限りは終了で。--Claw of Slime (talk) 2016年3月3日 (木) 23:44 (UTC)
- Wikipedia:コメント依頼/Pinejamを提出したことをお知らせいたします。--Vigorous action (Talk/History) 2016年3月6日 (日) 03:01 (UTC)
- 報告 上の提案およびこの終了提案から、現状 Pinejamさんの提案は議論できる段階にないという点で合意できているものと判断し、表の議論告知テンプレートは除去しました。--Hisagi(会話) 2016年3月7日 (月) 13:47 (UTC)
- 要約が翻案であり、要約に該当するようなあらすじを書くことは著作権侵害である、ということについての反論は今のところKs aka 98さん以外にはないようですが、こちらについては他に反論はないでしょうか?--Pinejam(会話) 2016年3月10日 (木) 18:05 (UTC)
- 情報 この議論は終了しました。相手をしない・返事をしないよう、よろしくお願いいたします。--Hisagi(会話) 2016年3月10日 (木) 18:30 (UTC)
- 返信 (Hisagiさん宛) 具体案を出すのはいいですが、そもそもこのレベルで意見の齟齬があったら具体案を出しても意味がありませんよね?--Pinejam(会話) 2016年3月14日 (月) 11:56 (UTC)