木曽馬
木曽馬(きそうま)とは長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬である。岐阜県飛騨地方でも飼育されている。
日本在来種は他に北海道和種(北海道、俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)がいるが、本州の在来種は木曽馬のみである。
一時絶滅寸前であったが木曽馬保存会が中心に活動が行なわれた結果、飼育数は増加した。しかし以前のような乗用、農耕を目的とした需要はなく、現在は200頭以下という。
起源ははっきりしていないが、元々は蒙古の大陸系の馬である。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀、朝鮮半島経由で渡来したという。この馬が木曽地域という山岳地帯で飼育された影響で、木曽馬となったとされる。
特徴
- 中型馬であり、平均体高(肩までの高さ)は雌で133cm、雄で136cm。体重350kg-420kg。
- 短足胴長であり、体幅が広い。
- 性格はおとなしいと言われているが、気性の激しい馬も多い。
- 山間部で飼育されていた為、足腰が強く、頑強である。
- 後肢がX状になっている。また、蹄は外向姿勢である。そのため横への踏ん張りが効き、山の斜面の移動も苦にしない。
- 蹄が堅い。農耕に使役する程度なら蹄鉄を打たなくてもよい。
- 草のみでも飼育可能。木曽馬の盲腸の長さは洋種馬に比べ30cm程長く、太さも2倍ほどあるため。
歴史
- 飛鳥時代(6世紀頃):美濃国恵那郡(後の信濃国筑摩郡→長野県西筑摩郡神坂村、現・岐阜県中津川市)にて、馬の放牧が始まる(注:木曽地域は中世以前は美濃国恵那郡の一部である)。
- 平安時代~江戸時代:武士の馬、農耕馬、荷馬として重宝される。
- 明治時代~大正時代:乗用馬、農耕馬として飼育数が増加。しかし中型馬である為、軍用馬としては不適格とされる。国や軍は西洋種の馬の導入を進め、在来種の改良を進めた為、純血の木曽馬の数は激減する。
- 1943年(昭和18年):純系木曽馬の種雄馬は最後の1頭も淘汰され、絶滅寸前となる。
- 1946年(昭和21年):木曽馬復元活動開始。
- 1969年(昭和44年):木曽馬保存会設立。
- 1983年(昭和58年):長野県天然記念物に指定。
第三春山号
第三春山号(1951年 - 1975年)は、最後の純血木曽馬である[1](実際の血量は98.44%とされている。木曽馬において原産地では一般的に純血という表記は使わず、純系種と呼ぶ。これは少なからず明治~昭和期にかけて外来品種の影響を受けいるため)。体高は132cm、体長は158cm(体高比 119.6)、胸囲は170cm(体高比 128.7)、管囲は18cm(体高比 13.6)という馬格であった[2]。
父は「神明号」、母は「鹿山号」で、いずれも純血である[2]。父神明号は、軍用馬の馬格改良を背景とした1939年制定の種馬統制法により民有木曽純血種雄馬(種牡馬)が去勢廃用処分となっていたところ、武水別神社の神馬であることから処分を逃れており[1]、1950年に再発見され神社より払い下げを受けた上で木曽馬登録事業の本登録馬(木曽純血種)第1号として登録されるとともに種雄馬として供用されたものである[2]。
第三春山号は1953年に種雄馬の検査に合格し[3]長野県有の種雄馬(種牡馬)となるものの、山間地農耕馬としての木曽馬需要の減少から後に放出され開田村に戻る。木曽馬保存会の手により木曽馬の系統維持に当たり、木曽馬の血統の復元に貢献した。産駒は「春月号」、「春風号」、「蘇山号」等[2]。1973年に日本動物愛護協会より表彰される[3]。
1975年1月17日に馬齢25歳で安楽死処分された[1]。内臓と骨格は名古屋大学農学部に研究用標本として保管され、皮は剥製となり開田村(その後合併により木曽町)の郷土館[4]に置かれた。処分時点で第三春山号は老衰による骨軟化症や黄疸を発症しており、木曽馬のあるべき姿を標本として残すために、自然死を待たずに処分されたものである。