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赤城 (空母)

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艦歴
起工 1920年12月6日
進水 1925年4月22日
竣工 1927年3月25日
喪失 1942年6月5日
位置 北緯30度30分 西経178度40分 / 北緯30.500度 西経178.667度 / 30.500; -178.667
除籍 1942年9月25日
性能諸元 (竣工時)
排水量 基準:26,900t 公試:34,364t
全長 261.2m(763呎[1]
全幅 29.0m
吃水 8.1m
飛行甲板 190.2m x 30.5m (上段)
主缶 ロ号艦本式専焼缶11基
ロ号艦本式混焼缶8基
機関 技本式タービン8基4軸 131,200hp
最大速力 32.1ノット
航続距離 8,000カイリ / 14ノット時
乗員 1,297名
兵装 50口径20cm連装砲2基4門
50口径20cm単装砲6基6門
45口径12cm連装高角砲6基12門
搭載機 三式艦上戦闘機:16機
一〇式艦上偵察機:16機
一三式艦上攻撃機:28機
合計:60機
性能諸元(近代化改装後)
排水量 基準:36,500t 公試:41,300t
全長 艦体:260.67m
水線長:250.36m
全幅 31.32m
飛行甲板 249.17m×30.5m
機関 133,000hp
最大速力 30.2ノット
巡航速度 16ノット
航続距離 8,200浬
乗員 1,630名[2]
兵装 20cm砲 6基6門
12cm連装高角砲 6基12門
25mm連装機銃 14基28門
搭載機 常用66機、補用25機
1941年12月常用機
零式艦上戦闘機:18機
九九式艦上爆撃機18機
九七式艦上攻撃機:27機

赤城(あかぎ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。同型艦は天城(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊旗艦として活躍したが、1942年ミッドウェー海戦で沈没した。

艦名の由来

艦名は赤城山にちなんで命名された。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられた理由は、後述の艦種変更に起因する。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。

建造経緯

日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」[3]という規模の天城型巡洋戦艦2番艦として呉海軍工廠で建造され、1920年(大正9年)12月6日に進水した。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった[4]。それでも巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合が続出している[5]。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった[6]。1925年4月22日、航空母艦「赤城」として進水した[7]

なお、本艦の同型艦である「天城」も同様に航空母艦に改造される予定であったが[4]関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦「加賀」が航空母艦に改造された[8]

機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている[9]。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった[10]。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなかった。セイロン沖海戦の前に本艦に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の「赤城」と近代化改装後の「赤城」の艦影が違うことに驚いている[11]

初期の艦形

建造当初の飛行甲板イギリス海軍空母「フューリアス」の第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。本来、本艦の艦橋は中段甲板の右端に設置され、左舷側にも簡素な見張り所を設け、その間を通って上部格納庫から直接発艦を行う予定だったが、それでは操艦上危険だという艤装委員からの強硬な反対で艦橋を中央に設置し、中段甲板からの発艦を諦めたのである。[要出典]着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(本艦は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中は、どの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった[12]

また煙突は右舷に設置され、重油専焼の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも赤城だけである。第二煙突からの排煙は気流を著しく乱すため、発着艦作業時に最大速力を出すことはできなかった。[要出典]また、完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである。[要出典]

上述の通り三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。

なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなり、そのままではスクリューの推進効率が落ちてしまうため、艦尾部のみ喫水が当初計画のままになるようにしたので、後ろ下がりのシルエットになった。[要出典]

近代化改装

航空機の発達にともなって飛行甲板の延長が必要となり、先に大改装を行っていた「加賀」を参考に1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠でほどこされた。その結果、総排水量は41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。

第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、右舷中央部に設置された。また艦橋を艦中央部に設置することになり、右舷のままでは煙突と干渉するため反対側の左舷中央部に設置した。航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見える[13]。一方、右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓をあけられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の異名があった[14]。煙突を艦橋と一体化し、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した飛鷹型航空母艦隼鷹」を見た赤城将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある[15]。また「赤城」では結核と赤痢を発症する兵が多く[16]、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった[17]

武装面では、予算の制約から[要出典]、旧式の一〇式45口径12cm高角砲を新式の八九式40口径12.7cm高角砲に換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。三段空母時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した計6門の20cm砲は近代化改装後も装備していた。若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と揶揄している[18]ミッドウェー海戦で「赤城」は20cm砲最低54発を発射しているが[19]、飛行甲板への影響については不明である。96式25mm機銃の数は中型空母「蒼龍」と同じで「飛龍」よりも少なく、4万トン級という船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所がある[20]。さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた[21]

二段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、搭載機数は「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」より少なかった。大蔵省の記録では、戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120(加賀は、戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)となっている[22]太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機18機、艦上爆撃機18機、艦上攻撃機27機。加賀、翔鶴、瑞鶴はいずれも艦戦18、艦爆27、艦攻27である。航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった[14]

各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから30.2ノットに低下した(実速29ノット前後という報告もある)。航続距離もそれほど延長されなかったので、真珠湾攻撃作戦の計画段階では、やはり航続距離の短い蒼龍、飛龍とともに作戦から外されることが検討された時期もあった。[要出典]

赤城の近代化改装期間は加賀より長く、予算不足によって工事が遅々として進まなかったようである。[要出典]

戦役

ハワイ真珠湾に向かう赤城 後に蒼龍飛龍他、金剛型戦艦が続いている
択捉島単冠湾からハワイ真珠湾に向かう赤城 後に加賀翔鶴瑞鶴蒼龍飛龍、が続いている


赤城甲板上で出撃する真珠湾攻撃の第2次攻撃隊第1制空隊の零戦

支那事変

第一次上海事変発生時には予備艦とされて一部改装工事を受けており、支那事変で空母部隊に出番のあった序盤も近代化改装を受けている最中だったため、ほとんど出番はなかった。1939年、日本本土に戻った空母「加賀」と入れ替わるように第一航空戦隊旗艦となり、1月に横須賀軍港を出港[23]。佐世保軍港で九七式艦上攻撃機を搭載したのち、駆逐艦「追風」、「疾風」に護衛されて中国へ進出する[24]。2月3日、香港島万山諸島万山湾に投錨した[25]。南支方面艦隊(近藤信竹中将[26]、第五艦隊 重巡洋艦青葉)を支援し、2月10日の海南島制圧作戦[27]に参加する[28]。「赤城」は海軍陸戦隊の支援任務を行った。「赤城」の出番はこれで終わり、その後有明湾に帰投して飛行機隊の訓練に従事した。

太平洋戦争

「赤城」にとって、太平洋戦争(大東亜戦争)の真珠湾攻撃が本格的な初陣となった。1941年11月9日から14日にかけて、重油の入ったドラム缶900本を搭載し、内火艇などもすべて陸揚げした[29]。11月19日、全乗組員に真珠湾攻撃が訓示され、11月22日に千島列島択捉島単冠湾に入港する[30]。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日単冠湾を出港し、第一航空艦隊(南雲機動部隊)旗艦として一路ハワイ真珠湾へと向かった[31]

真珠湾攻撃時、板谷茂少佐が搭乗した零戦21型 機体番号AI-155 胴体の赤線1本と尾翼の黄線が空母赤城所属、尾翼の複数の黄線が指揮官機を表す
艦橋脇の九七式艦上攻撃機。魚雷はダミー。艦橋の白い部分はハンモック(マントレット)

ト)]]

1942年4月5日、インド洋にて発進する九九式艦上爆撃機

赤城からの真珠湾攻撃参加機[32]
第一次攻撃隊
九七式艦攻27機(水平爆撃隊15機=指揮官:飛行隊長淵田美津雄中佐、雷撃隊12機=指揮官:飛行隊長村田重治少佐)、零戦9機=指揮官:飛行隊長板谷茂少佐
第二次攻撃隊
九九式艦爆18機=指揮官:分隊長千早猛彦大尉、零戦9機=指揮官:分隊長進藤三郎大尉

12月8日午前1時30分、淵田中佐率いる第一次攻撃隊は「赤城」から発進した。日本軍航空隊の奇襲により、米軍太平洋艦隊は潰滅した。赤城第一次攻撃隊は零戦1機を喪失し、10機が被弾、戦死者2名を出した[33]。赤城第二次攻撃隊は九九艦爆4機を喪失し、13機が被弾、戦死者8名を出した[34]。「赤城」は日本への帰路につき、12月24日、日本本土に到着した[35]。1942年1月下旬ラバウルを攻撃し[36]、2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィン空襲[37]、3月5日チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦する[38]。3月26日、セレベス島を出港し、インド洋へ進出する[39]セイロン沖海戦では、他の空母とともにイギリス海軍重巡洋艦「ドーセットシャー」、空母「ハーミーズ」を撃沈するなど破竹の進撃を続けた[40]。一方で「ハーミーズ」攻撃直前、英軍のウェリントン爆撃機(著作や戦闘詳報ではブリストル・ブレニム爆撃機)から攻撃され、10発近い爆弾が「赤城」の艦首附近に落下する[41]。対空警戒警報も出されず、爆撃されてからはじめて高高度を飛行する英軍機の存在に気づき、高角砲を撃ち始める有様だった[42]。この時、飛行甲板の下の格納庫では、九七艦攻の装備を対地攻撃用の爆弾から艦艇攻撃用の魚雷に変更している最中だった[43]。インド洋作戦中の1942年(昭和17年)4月1日、「赤城」の常用搭載機数は、艦戦18、艦爆18、艦攻18に減らされ、中型空母の「蒼龍」、「飛龍」と同じ航空攻撃力しか持たなくなった。4月24日、母港横須賀港に戻る[44]

ミッドウェー海戦

回避行動中の空母「赤城」

そして「赤城」は1942年6月に生起したミッドウェー海戦に参加する。ミッドウェー島占領後、基地航空隊の司令となる予定の森田大佐、飛行隊長、整備員達が「赤城」に乗り込み、士官室は手狭になった[45]淵田美津雄中佐(赤城飛行隊長)や村田重治少佐(雷撃隊隊長)ら飛行搭乗員達は、山本五十六連合艦隊長官と戦艦大和」が南雲機動部隊の300浬後方をついてくることに「戦争見物でもするつもりか」と怒りを隠さなかったという[46]。5月27日の海軍記念日に「赤城」以下南雲機動部隊は日本を出撃する[47]。6月4日、艦橋の周辺にハンモックを丸めたマントレットを装着した[48]

日本時間6月5日午前1時30分、日本軍南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地に攻撃部隊を発進させた[49]。「赤城」からは零式艦上戦闘機9機(空中戦で1機喪失[50])、九九式艦上爆撃機18機が発進した。空中攻撃隊総指揮官を務めるはずだった淵田美津雄中佐は盲腸手術からの回復期で出撃できず、飛行甲板から攻撃隊を見送った[51]。その彼の足元の航空機格納庫では、魚雷を搭載した九七式艦上攻撃機が米軍機動部隊出現に備えて待機している[52]。第一次攻撃隊発進後、魚雷を搭載した第二次攻撃隊の九七艦攻が飛行甲板に揚げられた[53]。午前4時、ミッドウェー基地攻撃を終えた第一次攻撃隊が『第二次攻撃の必要性あり』と伝達する[54]南雲忠一司令官は兵装転換を各艦に命令、第一航空戦隊(赤城、加賀)では飛行甲板の九七艦攻を格納庫に戻して魚雷を外し、陸用爆弾に転換する作業が始まる[55]

その最中、南雲機動部隊はミッドウェー基地から飛来した米軍航空機の空襲を受けた。「赤城」は攻撃を全て回避し[56]、直衛の零戦を発進させて米軍機の攻撃を撃退した[57]。午前4時40分、重巡洋艦「利根」の零式水上偵察機が予期せぬ米軍部隊の存在を報告したため[58]、南雲司令部は兵装転換を45分に一時中止する。5時20分に詳細が入り敵空母の存在を確認。5時30分、ミッドウェー基地への攻撃をとりやめ、米軍機動部隊を攻撃するため魚雷兵装転換命令を出す[59]。さらに南雲機動部隊上空に帰還した第一次攻撃隊の着艦や、直衛戦闘機の燃料・弾薬補給の着艦・発艦を優先させた。「赤城」の格納庫では兵装転換を終えていた6機の九七艦攻への魚雷再装着作業が始まる[60]。格納庫には、取り外された爆弾が乱雑に転がっている状態となった[61]

「赤城」は第一次攻撃隊27機の収容を優先し、午前6時18分に収容を終える[62]。その後も米軍は南雲機動部隊に波状攻撃を行い、直掩の零戦隊は米軍のTBFアベンジャー雷撃機に対応するため海面付近に降下した[63]。各艦の注意が低空に向いていた日本時間午前7時26分、「赤城」はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」から発進した艦載機SBD ドーントレス急降下爆撃を受ける[64]。面舵にて回避に努めたが、2発が命中、1発が至近弾となる[65]。至近弾となった最初の1発は艦橋左舷数十mで炸裂[66][67]、命中した2発は1発目が中部エレベーター付近に命中し[67]、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂[64]。2発目が左舷後部甲板縁で炸裂[64][67]を破壊した。「赤城」飛行甲板にいた牧島カメラマンによれば、初弾が左舷艦橋附近至近弾、次発が飛行甲板中央、三発目が艦尾至近弾となり、飛行甲板後部がめくれあがったという[68]。艦橋にいた橋本信号兵曹も、三発目は命中弾ではなく至近弾と回想している[69]。当時、「赤城」の飛行甲板上では直衛戦闘機の発艦準備中で、零戦1機が発艦を終えた直後だった[70]。滑走中だった二番機は甲板中央で逆立ちとなり、炎上した[71]

「赤城」の格納庫内には3機の零戦、魚雷装備艦攻18機、第一次攻撃隊として着艦収容したばかりの艦爆18機があった[72]。特に九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった[73][64]。午前7時42分、「赤城」は舵故障により洋上に停止[74]。乗組員は炎上する飛行甲板にいられず、前部錨甲板か後部甲板に追い詰められてしまう[75]。艦橋にも炎に追われた乗組員が逃げ込んだが、その艦橋にも逆立ちとなった炎上零戦から延焼し[74]、南雲中将や草鹿龍之介参謀長ら司令部は艦橋前面の小窓から飛行甲板に下りた[76]。彼らは艦首前甲板に移り、短艇で「赤城」を脱出した[77]源田実航空参謀は「(珊瑚海海戦で損傷・消耗した)翔鶴瑞鶴」がいれば…」とつぶやき[78]、その後は南雲中将以下、全員が無言だったという[79]。午前7時46分、南雲忠一第一航空艦隊司令長官と司令部人員は軽巡洋艦長良」(第十戦隊旗艦)に移乗した[80][81]。駆逐艦を経由したかどうか諸説あるが、牧島カメラマンや橋本の回想では「長良」に直接移乗している[82]。橋本によれば、駆逐艦「」(第四駆逐隊司令艦)が「赤城」左舷後部至近距離に停泊して南雲司令部の移乗を待っていたところ、「赤城」左舷前方500mに停泊した「長良」からも迎えの短艇2隻が来たため、水雷戦隊の旗艦である「長良」に移乗艦を変更したらしい[83]戦闘詳報では、この時接近した駆逐艦を「野分」と記している[74]

沈没

「赤城」は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという[84]。午前8時、機関部との連絡が途絶[85]。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は脱出連絡が間に合わず、全員戦死した[86]。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から飛行甲板前部に移ると[87]、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる[88]。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた[89]。午前9時3分、「赤城」はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた[90]。午前10時38分、昭和天皇の写真(御真影)を駆逐艦「野分」に移す[91]。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で再び大爆発が起きた[92]。午後1時、青木艦長は「赤城」は一部の乗組員を駆逐艦「野分」や「嵐」に移乗させた[93]。それでも青木は「赤城」を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、ガスと熱気のため作業不可能であった[94]

午後4時20分、赤城機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は総員退去を決定[95]。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した[95]。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、駆逐艦「嵐」、「野分」に移乗を開始する[96]。午後7時、「嵐」に約500名、「野分」に約200名が移乗した[97]。ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦大和」に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官から「赤城の処分は待て」と命令が入る[80][97]。午後7時30分、青木艦長は第四駆逐隊の有賀幸作司令官(後の戦艦「大和」艦長)と三浦中佐(赤城航海長)の説得により「嵐」に移ったため[98]、「赤城」は無人のまま第四駆逐隊の各艦と共に漂流を続けた。

午後11時55分、空母「飛龍」の喪失により勝敗が決したことを悟った山本長官は、連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる[99]。日本時間6月6日午前1時50分、山本長官は魚雷による「赤城」の処分を命令した[80][100]。第四駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが[100]、この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、「赤城」は焼け焦げた姿で漂流していたという[98]。一方、未だ誘爆が起きていたという証言もある[101]。午前2時「赤城」の右舷に対し、第四駆逐隊各艦(萩風野分舞風)から各1本が発射される[100]。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中。1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、「赤城」は艦尾から沈んでいった[80][102]

ミッドウェー海戦時の「赤城」に乗り組んでいた実員は不明である。これはミッドウェー基地占領時、同島基地に進出するための基地要員や兵員が便乗していた為である。「赤城」の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した[103]。機関科員が閉じ込められた「加賀」、「蒼龍」と異なり、その多くが救出されたため人的被害はこの二艦ほど多くはなかった。同海戦における赤城搭載機搭乗員の戦死者は機上3名、艦上4名の合わせて7名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻2名)で[104]、淵田中佐、板谷少佐、村田少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。「赤城」炎上後も、数機の零戦が空母「飛龍」に着艦したが[105]、その後の戦闘や「飛龍」沈没によって全機が失われた。

艦歴

歴代艦長

艤装員長

  1. 海津良太郎 大佐:1925年12月1日 -

艦長

  1. 海津良太郎 大佐:1927年3月25日 -
  2. 小林省三郎 大佐:1927年12月1日 -
  3. 山本五十六 大佐:1928年12月10日 -
  4. 小林省三郎 大佐:1929年10月8日 -
  5. 北川清 大佐:1929年11月1日 -
  6. 原五郎 大佐:1930年10月26日 -
  7. 和田秀穂 大佐:1930年12月1日 -
  8. 大西次郎 大佐:1931年8月28日 -
  9. 柴山昌生 大佐:1931年12月1日 -
  10. 近藤英次郎 大佐:1932年12月1日 -
  11. 塚原二四三 大佐:1933年10月20日 -
  12. 堀江六郎 大佐:1934年11月1日 -
  13. 松永寿雄 大佐:1935年11月15日 -
  14. 寺田幸吉 大佐:1936年12月1日 -
  15. 茂泉慎一 大佐:1937年8月27日 -
  16. 水野準一 大佐:1937年12月1日 -
  17. 寺岡謹平 大佐:1938年11月15日 -
  18. 草鹿龍之介 大佐:1939年11月15日 -
  19. 伊藤皎 大佐:1940年10月15日 -
  20. 長谷川喜一 大佐:1941年3月25日 -
  21. 青木泰二郎 大佐:1942年4月25日 -

真珠湾攻撃時の零戦搭乗員と機体番号および転帰

第1次攻撃隊制空隊

第2次攻撃隊制空隊

※転帰空欄は被害なく帰還

ドイツへの技術供与

1935年に英国との海軍協定を締結したナチス・ドイツ海軍は、2隻の空母建造を計画した。

空母建造の経験を持たない同海軍は同年、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の帰途にあった大日本帝国海軍中将山本五十六ベルリンで会談、日本から空母建造に関する技術提供を受けることで合意した[106]。その後日本からは赤城の航空艤装の図面がドイツに提供されたほか、同年にはドイツ高官、さらにドイツからの来日技術調査団が赤城の視察を行っている。これら赤城の技術を参考して建造が開始されたのが、ドイツ空母「グラーフ・ツェッペリン」(1936年末起工)であった。

さらに、第二次世界大戦勃発後には赤城の設計図が九五式酸素魚雷などと共にドイツに届けられた(遣独潜水艦作戦)が[107]、空母「グラーフ・ツェッペリン」は遂に完成されることはなかった。

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
    • Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
    • Ref.C04015099100「赤城建造予算減額の件」
    • Ref.C04015098800「4月16日附進達呉工機密第182号14航空母艦赤城工事予定概括表の件」
    • Ref.C05034244800「第1168号 10.3.22 横厰工第29号の56航空母艦赤城艦橋見張所新設の件」
    • Ref.C08050174000「軍艦尾張製造の件」
    • Ref.C04015628700「赤城艦隊編入に関する件」
    • Ref.C04015274000「教練運転成績表 赤城」
    • Ref.C08051350900「軍艦赤城」
    • Ref.C04015069300「航空母艦赤城満艦飾不施行の件」(三段空母時代の図面付。艦側面図、機密保持のため消去)
    • Ref.C08051579600「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」
    • Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」
    • Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」
    • Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」
    • Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」
    • Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)」
  • アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)
    • Ref.A09050370500「飛行機格納数」
    • Ref.A06031028400『週報 第122号』
    • Ref.A06031028500『週報 第123号』「海南島攻略の新展開」
    • Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」
  • 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社、1971年)
  • 澤地久枝『記録ミッドウェー海戦』文藝春秋社、1986年5月。 
  • 橋本敏男田辺弥八ほか『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-x{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 松田憲雄『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9 
    松田は九七式艦上攻撃機電信員。ミッドウェー海戦後、嵐に救出され、翔鶴に転属。
  • 小林昌信ほか『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』光人社、1995年。 
    • 渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(著者は整備科。1938年12月17日、赤城配属。1940年5月10日転勤)
  • 亀井宏『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7 
  • 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8 
    橋本は南雲司令部信号兵、艦橋勤務。1938年12月15日「赤城」配属。回想中に牧島貞一も登場する。
  • 牧島貞一『炎の海 報道カメラマン空母と共に』光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2 
    牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦を体験。
  • 牧島貞一『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』光人社、2002年。ISBN 4-7698-2339-8 
    『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。前作は南太平洋海戦まで収録。
  • 相澤淳『海軍の選択 再考 真珠湾への道』(中央公論新社、2002年)
  • 淵田美津雄『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5 

脚注

  1. ^ 「航空母艦赤城満艦飾不施行の件」p.2
  2. ^ 『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』
  3. ^ 「軍艦尾張製造の件」pp.17-19
  4. ^ a b 「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
  5. ^ 「赤城艦隊編入に関する件」pp.6-7
  6. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」p.2-3
  7. ^ 「軍艦赤城」p.14等
  8. ^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
  9. ^ #続 炎の海16頁
  10. ^ 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」pp.5,29
  11. ^ #続 炎の海24頁
  12. ^ 「赤城建造予算減額の件」p.7-8
  13. ^ #続 炎の海41頁
  14. ^ a b #炎の海149頁
  15. ^ #続 炎の海51頁
  16. ^ #続 炎の海38頁
  17. ^ #続 炎の海39頁
  18. ^ #続 炎の海42頁
  19. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10
  20. ^ #続 炎の海30頁
  21. ^ #炎の海147頁
  22. ^ 「飛行機格納数」(航空隊設備関係説明資料)
  23. ^ #橋本信号員47頁
  24. ^ #大和檣頭下に死す214頁
  25. ^ #橋本信号員48頁
  26. ^ 『週報 第123号』p.17
  27. ^ 『週報 第122号』p.17「大本営陸海軍部公表、昭和14年2月10日、海南島奇襲上陸に成功せり」
  28. ^ #大和檣頭下に死す215-217頁、#橋本信号員47頁
  29. ^ #橋本信号員64頁
  30. ^ #電信員遺稿11-12頁
  31. ^ #電信員遺稿14頁
  32. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.1-3
  33. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.1-2
  34. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.3-4
  35. ^ #電信員遺稿30頁
  36. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.10-29
  37. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.30-36
  38. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.2-5
  39. ^ #炎の海155頁
  40. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.17-24
  41. ^ #橋本信号員98頁。#炎の海184頁
  42. ^ #橋本信号員99頁。#炎の海185頁
  43. ^ #電信員遺稿109-110頁
  44. ^ #橋本信号員102頁
  45. ^ #炎の海198頁
  46. ^ #続 炎の海58頁、64-65頁
  47. ^ #橋本信号員108頁
  48. ^ #続 炎の海97-98頁
  49. ^ #橋本信号員108頁。「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6
  50. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.46
  51. ^ #淵田自叙伝197-198頁
  52. ^ #電信員遺稿114頁、#続 炎の海112頁
  53. ^ #電信員遺稿115頁
  54. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7
  55. ^ #電信員遺稿117頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9
  56. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38
  57. ^ #橋本信号員123-126頁
  58. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.20
  59. ^ #橋本信号員130-131頁
  60. ^ #電信員遺稿121頁
  61. ^ #電信員遺稿122頁
  62. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.17
  63. ^ #橋本信号員136頁
  64. ^ a b c d 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39
  65. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26
  66. ^ #橋本信号員137頁
  67. ^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.20
  68. ^ #炎の海256頁、#続 炎の海151頁
  69. ^ #橋本信号員138頁
  70. ^ #電信員遺稿123頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32
  71. ^ #電信員遺稿123頁、#炎の海255-256頁、#橋本信号員139頁
  72. ^ #橋本信号員139頁
  73. ^ #続 炎の海154頁
  74. ^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28
  75. ^ #橋本信号員143頁
  76. ^ #炎の海259頁、#続 炎の海155-156頁
  77. ^ #電信員遺稿129頁、#炎の海261頁
  78. ^ #続 炎の海161頁
  79. ^ #炎の海262頁
  80. ^ a b c d 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40
  81. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.29
  82. ^ #続 炎の海165頁、#橋本信号員147-148頁
  83. ^ #橋本信号員147-148頁
  84. ^ #続 炎の海158頁
  85. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30
  86. ^ #続 炎の海219頁
  87. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.31
  88. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.32
  89. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33
  90. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.35
  91. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.41
  92. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.43
  93. ^ #電信員遺稿130頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.46
  94. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.2
  95. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.5
  96. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.6
  97. ^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.8
  98. ^ a b #橋本信号員171頁
  99. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14
  100. ^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.14
  101. ^ #電信員遺稿131頁
  102. ^ #電信員遺稿132頁、#続 炎の海221頁。#亀井戦記515頁
  103. ^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.47
  104. ^ #澤地記録
  105. ^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32
  106. ^ 相澤『海軍の選択』
  107. ^ 吉村昭 『深海の使者』

関連項目

外部リンク

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