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乙未事変

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乙未事変
各種表記
ハングル 을미사변
漢字 乙未事變
発音 ウルミサビョン
日本語読み: いつびじへん
ローマ字転写:
英語
Eulmi sabyeon
Eulmi Incident
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乙未事変(いつびじへん)は、李氏朝鮮の第26代国王・高宗の王妃であった閔妃1895年10月8日暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。

朝鮮国内で行われた事件直後の裁判は、興宣大院君(高宗の父)を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争として決着させた[1][2]。ただし日本人が事件に加わったことは現在定説になっている。日本公使三浦梧楼らが親露派の閔妃を排除するため、事件に積極的に関与したとされる[3][4][5][3][4]

事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた[6])、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本との覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。

概要

興宣大院君

1894年3月28日、閔氏政権によって開化派の中心人物金玉均が暗殺された。そして5月31日、閔氏政権に不満をもつ農民が蜂起し、甲午農民戦争が勃発した。 農民軍は全州を占領したが、統治能力を失った閔氏政権は宗主国に軍の出動を要請。清の軍隊が朝鮮半島に駐留することを嫌った日本政府は、日本も朝鮮へ出兵することを決定した。閔氏政権が農民に譲歩するかたち(全州和約)で戦争は6月にいったん沈静化した。そのあいだ日本は閔氏政権に内政改革を求めたが、受け入れられず、日清戦争開戦を2日後にひかえた1894年7月23日、日本軍は景福宮を占拠した。日本は閔氏政権の失脚と興宣大院君の復権を行い、開化派金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は日本の支援にもと、甲午改革を進めた。日清戦争は日本が勝利し、1895年4月17日、下関条約が締結された。その結果、朝鮮は清からの独立を果たしたが、日本が三国干渉にひるんでいるすきに、甲午改革によって政権を追われていた閔妃とその一族はロシア公使ウェバーとロシア軍の力を借りてクーデターを行い、1895年7月6日に政権を奪回した[4]

日清戦争直後にロシア軍の力を背景に行った閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。そうした中で、1895年10月8日深夜、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された[4]。三浦らは大院君をかつぎだす[4][3]ため、屋敷から王宮へ参内させたが大院君がのらりくらりと時間を引き延ばしたため、事の露見を防ぐために夜明け前に行うはずだった作戦は破綻した[7]

日本政府の対応

三浦梧楼

10月10日、日本政府は実情調査のため小村寿太郎外務省政務局長を京城に派遣。三浦は10月24日に免官処分が下され、小村が後任となった。また特派大使として井上馨が京城に派遣された。[8]

三浦をはじめ事件に関与した容疑のある外交官、軍人らには帰朝命令が、日本人民間人には退韓が命ぜられた。軍人8人は第五師団の軍法会議にかけられ、三浦ら48名は謀殺罪等で起訴され、広島監獄未決に収監された。[8]

裁判では事件を大院君の首謀として決着させたい朝鮮政府の要望[1]もあり、首謀と殺害に関して[9]は証拠不十分で免訴となり、釈放した[10]

事件発生時、京城領事館一等領事であった内田定槌は外務次官の原敬宛に事件関連の私信8通を送っており、閔妃を殺害したのが守備隊の陸軍少尉であること(10月8日付)、「若し之を隠蔽せざるときは、我国の為め由々敷大事件と相成」ため事件への日本人の関与を隠蔽する工作を行っていること(10月11日付)を報告している[11]

また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日に木浦で釣りをしていたアリバイがあったとして、広島地裁検事局は免訴とした。

朝鮮政府の対応

閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃の王后の地位を剥奪し、平民に落とす詔勅が公布される。後に朝鮮総督府が編修した『高宗実録』は「大院君の提言による」と伝えている[12]。なおこの時、、閔妃の死亡はまだ公表されていない。

事件により政権に返り咲いた金弘集は、「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周会(前軍部協辨=次官)をはじめ、朴銑(日本公使館通訳)、尹錫禹(親衛隊副尉)[2]の3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑した[13]。また、高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べている[14]

高宗は露館播遷時、閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)[15]禹范善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じた[16][17]。禹は、純宗が放った刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺された[18]。これに関して1907年2月4日、広島控訴院で高永根に無期、魯允明に12年の刑が言い渡され、判決が確定している。同年に統監府は趙羲淵以下六名を特赦することを決定したため、純宗は高永根も特赦するよう要求した。その際、純宗は禹について「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と述べている[19]

高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した[20]

事件の首謀者

実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされている。

事件当時、在朝鮮日本公使館一等書記官であった杉村濬は、回顧録『明治廿七八年在韓苦心録』(1904年)で自らが「計画者の中心」であると述べ、閔妃を中心とする親露派を排除するため大院君や訓練隊を利用したクーデターであったと告白している[3]。また裁判では「手段は前年7月の王宮占領に比べ、はるかに穏和で、前年の挙を政府は是認している以上は、後任公使がこれにならって行った今回の挙もこれを攻めることはできない」との内容の供述を行って[21]いる[22]

日本政府が直接関与したかについては否定的な見方が多く、秦郁彦は日本政府の関与については「証拠不足」との見解を示している[23]。背後関係について言及した近年の学説では、崔文衛が前任の公使であった井上馨の主謀論[24]金文子が井上が「更迭」され、後任として三浦が川上操六ら大本営の意を受けて送り込まれたとの説[25]がある。一方、「国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 『朝鮮王妃事件関係資料』」に基づき、当時の日本政府による計画的な策謀はなかったとの主張がある[要出典]。なお、事件当時における見方としては内田定槌が原敬に宛てた私信(前述)があり、政府の意思ではないだろう(「我政府の内意に出でたるものにあらざるべし」)が、前年の王宮占領と同様に政府が追認する可能性があるため処分について当惑していると記されている(10月19日付)[11]

内田定槌の報告書では「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」として、三浦が岡本柳之助を通じて大院君の内意を確認したとしている[26]兪吉浚はアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害を日本に要請したのは大きな間違いだ」と書いている[27]。韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した[28]。19世紀末にロシア人ゲ・デ・チャガイが編集した『朝鮮旅行記』の『1895年-1896年の南朝鮮旅行』の章に、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と発言したと記述されている。

このような「大院君を首謀者とする説」は、事件により返り咲いた金弘集政権が日本との関係から事件を穏便に解決するため、大院君を首謀者とし三浦らを従犯とする立場を取った[1]ことと、大院君首謀説に基づく報告[26]に沿って日本国内における裁判で三浦と大院君との密約が事実関係として強調された[9]ことによる。しかし、裁判の終結直後に三浦は、「何か特約でもあったことか」との明治天皇の言葉を伝えた侍従米田虎雄に対して「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と答えている[29]

なおこの事件を期に、興宣大院君と高宗の亀裂は決定的となり、興宣大院君は失脚した。3年後(1898年)に興宣大院君が亡くなったさいも略式の葬儀しか行われず、しかも高宗は父親の葬儀に参列しなかった[30]

事件を目撃した外国人

王宮に乱入した日本軍守備隊、訓練隊は侍衛隊(景福宮の警護にあたっていた近衛部隊)と戦闘を繰り広げた。侍衛隊の教官はアメリカ人将軍のダイ(William McEntyre Dye)で、ロシア人御用技師サバチン(Алексей Середин-Cабатин)とともに事件を直接目撃した。

サバチンによる事件についての報告書がロシア科学大学の教授に発見され、米国コロンビア大学において1995年10月6日付でその翻訳が公開されている[31]。サバチンの証言は以下のようなものである。

王妃の居住する王宮の一角には、おおよそ20人から25人程度の日本人が詰め掛けていた。
彼らは奇妙なガウンを羽織っており、サーベルで武装していた。そのうち何人かはサーベルを鞘から抜いていた。
…複数の日本人兵士が宮殿のあちこちを捜索し、他の者は女王の居住区域になだれ込み、その場で見つけた女たちに襲い掛かっていた。
…私は…日本人が王妃の居住区域で物をひっくり返したりしているのを観察し続けた。
二人の日本人が女官たちの一人つかんで建物から引きずり出し、そして彼女を引っ張って階段を駆け下りた…
また、日本人のうち一人は、私に向かって、英語で『王妃はどこだ? 答えろ!』と繰り返し聞いてきた。
…私が謁見の間を通り過ぎたとき、私はその場所が日本人兵士と将校、そして韓国人の高級官僚の協力によって包囲されていることが分かった。
しかし、その中で何が行われていたのかは、私には知る由も無かった。[32]

この証言は、イザベラ・バードの「朝鮮紀行」における王妃暗殺事件の描写の情報源となっている[33]

事件の影響

壮士らに朝鮮式の服装をさせるなど「日本人の関与を明らかにしない」作戦は、多くの外国人に目撃されたこと、日本人壮士らが堂々と凱旋する有様だったことから、「日本人は関与していない」という日本公使館、金弘集内閣の言い分を信じる外交官は誰一人として存在しなかった。ロシアはソウルに水兵100名を上陸させ、日本と諸外国の緊張が高まる中、ダイらアメリカ兵、ロシア代理公使ヴェーベルも関与したカウンタークーデター事件春生門事件が発生。翌年の露館播遷へとつながっていく。

閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたが、日本では事件後ことさら閔妃を誹謗し、事件を閔妃と大院君との権力闘争の帰結として面白おかしく描くような言説が流布された。こうした情報操作には福澤諭吉の関与[34]も指摘される。[35]

「殺人犯」の子孫の謝罪

2005年5月10日、暗殺に関わったとされる日本人(家入嘉吉、国友重章)の子孫が「明成皇后を考える会」の会員10人とともに事件のドキュメンタリーを制作しているプロデューサーのチョン・スウンの要請で入国し、皇后が埋葬されている洪陵を訪れ、土下座(「洪陵の前で地面に膝をついて3回お辞儀するのは韓国での仕来りなので、そうして欲しい。」と事前に伝えられていた[36])して謝罪をしている姿を韓国の報道機関は伝えた。墓地を訪れていた皇后の曾孫と面会したが、謝罪の言葉を受けた王妃の曾孫は「謝罪を受ける、受けないは、自分がすることではない。政府レベルの謝罪がなければならない」と語った[37]

「明成皇后を考える会」は2004年に熊本出身の元教師を20人によって結成された組織で、閔妃殺人犯の後裔を捜し出して関連記録を調査、殺害事件の真相究明をしている会であるという[38]

また、韓国の市民団体が櫛田神社に対して、玄洋社藤勝顕が1895年に『之れ韓王妃を斬つて爾後埋木となつたものなり』と奉納した肥前刀を、韓国に差し出すか、処分するかを要求している[39]また、この市民団体は「明成皇后が暗殺され、その凶器が日本の神社に保管されている事実を日本社会に広く伝え、日本の戦争犯罪を糾明し、誤った歴史認識を正すべきだ」とも主張している[40]

脚注

  1. ^ a b c アジア歴史資料センター「十月八日王城事変ニ関スル犯罪人処分方ニ付朝鮮政府部内ノ意向」レファレンスコードB08090168700 明治28年12月26日付機密第53号
  2. ^ a b GK17289_00I0006韓国官報 資料請求番号 奎17289 GK17289_00I0006 開國五百年十一月十四日  號外 1. 裁判宣告書 http://e-kyujanggak.snu.ac.kr/GAN/GAN_SEOJILST.jsp?ptype=list&subtype=02&lclass=17289&mclass=&xmlfilename=GK17289_00I0006_0015.xml http://147.46.103.182/OIS/GAN/VIEWER.jsp?xmlfilename=GK17289_00I0006_0015&tablename=KYS_GAN_N_TBL
  3. ^ a b c d 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.86,p.87
  4. ^ a b c d e 山田朗『世界史の中の日露戦争』(戦争の日本史20)2009年、吉川広文館p.38,p.39
  5. ^ 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
  6. ^ 興宣大院君#略歴と年表
  7. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.305-p.308
  8. ^ a b 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』P872,P983
  9. ^ a b 日韓外交史料 第五巻 韓国王妃殺害事件 市川正明編 原書房刊 文書番号353
  10. ^ 新聞集成 明治編年史 第九巻 日清戦争期 時事 1986年1月23日記事
  11. ^ a b 『原敬関係文書』第1巻
  12. ^ 『高宗実録 乙未(三十二)年八月二十二日』
  13. ^ 高宗は露館播遷後に朴銃、尹錫禹に関しては無罪として、補償金200円を出している(閣議決定案 第317号 1896年 4月 25日 第317号)。 別紙로 法部大臣이 청의한 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒贈과 그 恤金에 관한 건은 朴銑은 무고하므로 伸寃이 가하고, 尹錫禹는 무고에 의한 것으로 그 官을 복귀하고 褒贈과 恤金은 內閣總理大臣이 별도 供議하기로 결정됨이 가함. 朴銑의 伸寃과 尹錫禹의 褒恤 건은 각의 결정한 취지가 있어, 尹錫禹의 恤金은 200元으로 그 유족에게 下付하고 復官 후 貤贈之典은 上裁를 삼가 청하므로 각의에 供함
  14. ^ 1906年 統監代理長谷川好道韓皇謁見始末報告 顧れば今を距る十二年、我国独立問題の為日清干戈を交へ、其結果日本の勝利に帰し、我国独立の基礎を確立するに至りしは、我国民の日本に向て深く感謝する所なり。然るに、不幸にも中頃王妃殂落事件の生ずるあり。夫れ此事たる、勿論我臣僚中不逞の徒、之を行ひたるも、其背後に日本の勢力を恃んで此に出たるが故に、国民の感情、自然融和を欠き、日韓両国の情誼稍々阻隔を致すに致りて、又止を得ざりし次第なり。最近に及び、露国の勢力漸進し来りて、我国の独立を危くせんとするに当り、日本は再び戈を執って之と交戦し、結局其勝利に帰し、東洋の平和を克服するに至りしは、之亦我国に於て多大の謝意を表する所なり。
  15. ^ 高宗實錄 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽曆) 3번째기사
  16. ^ 電受第75号 「1. 明治29年2月12日から明治29年2月20日(韓国王露公使館ヘ播遷関係一件)」レファレンスコードB03050313400
  17. ^ 高宗實錄 34卷, 33年(1896 丙申 / 대한 건양 (建陽)1年) 2月 11日(陽曆) 6번째기사
  18. ^ アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』
  19. ^ 1907年8月31日付・往電第31号
  20. ^ 、アジア歴史資料センター「朝鮮事変ノ公報ト称スル書類ニ関シ京城駐在一等領事内田定槌ヨリ報告ノ件」レファレンスコードA04010025000 明治29年5月19日付公信第98号
  21. ^ 伊藤博文/編「秘書類纂 朝鮮交渉史 中」p.526-p.535(1970年に原書房より復刻)
  22. ^ 原田敬一『日清・日露戦争』(岩波新書)
  23. ^ 朝鮮の皇后・閔妃殺害事件 日本政府高官の手紙見つかる - 朝日新聞2008年6月28日付
  24. ^ 崔文衛『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社、2004年
  25. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.98-p.141,p.358,p.359
  26. ^ a b アジア歴史資料センター「明治廿八年十月八日朝鮮王城事変之報告」レファレンスコードB08090168300 明治28年11月5日付機密第36号
  27. ^ 鄭容和, <文明の 政治思想: 兪吉浚の 近代韓國(문명과 정치사상:유길준과 근대한국)> (文学と知性社, 2004) 93
  28. ^ 鄭容和, <文明の 政治思想: 兪吉浚の 近代韓國(문명과 정치사상:유길준과 근대한국)> (文学と知性社, 2004) 93
  29. ^ 『観樹将軍回顧録』
  30. ^ 朝鮮王朝実録 高宗35年2月22日以降を参照
  31. ^ [http://koreaweb.ws/ks/ksr/queenmin.txt コロンビア大学 韓国リサーチセンターでの1995年10月6日付け英訳全文
  32. ^ Imperial Russian Legation, Seoul 1895, Telegram 211, Appendix VI:
  33. ^ 「朝鮮紀行」(講談社学術文庫)p353):
  34. ^ 安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』2000年高文研、p.193
  35. ^ 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年高文研、p.345
  36. ^ テレビ朝日 テレメンタリー「114年目の氷解~反日感情の原点、閔妃暗殺を見つめた5年~」
  37. ^ “明成皇后殺人犯の子孫が謝罪”. 中央日報. (2005年5月10日). http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=63394&servcode=200§code=200&sectcode= 
  38. ^ 2005年5月9日 朝鮮日報
  39. ^ 聯合ニュース
  40. ^ [聯合ニュース http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2010/03/26/0200000000AJP20100326003600882.HTML]

※なお、『高宗実録』は朝鮮総督府によって編修されたもので、編纂委員には事件の容疑者だった菊池謙譲の名もある。

参考文献

  • 近世朝鮮史林泰輔著)(早稲田大学出版部 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
  • 金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』2009年、高文研
  • 木村幹『高宗・閔妃』2007年、ミネルヴァ書房
  • 「閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母」(角田房子著)ISBN 4101308047(新潮社のち新潮文庫)
  • 「朝鮮紀行―英国婦人の見た李朝末期」(イザベラ・バード (Isabella L. Bird) 著、時岡敬子訳、講談社学術文庫) ISBN 4061593404 
  • 「朝鮮奥地紀行」(イサベラ・バード著、朴尚得訳、平凡社東洋文庫全2巻、1994年) 
  • 「明治100年厳書 288巻 日韓外交史料5 閔妃殺害事件」 (市川正明編、原書房)
  • 有馬頼寧関係文書目録」 国立国会図書館専門資料部 (1989/01) ASIN: 4875822294
  • 「朝鮮旅行記」 『1895―1896年の南朝鮮旅行』の章(ロシア参謀本部中佐カルネイェフ著、ゲ・デ・チャガイ編、井上紘一訳) ISBN 4582805477(平凡社東洋文庫)
  • 「朝鮮王妃事件関係資料」 国会図書館憲政資料室(憲政史編纂会編) マイクロフイルム 整理番号546
  • 「法制局参事官石塚英蔵傭聘ニ付朝鮮政府ヨリ依頼ノ件」朝鮮問題5(公信類) 陸奥宗光関係文書 国会図書館憲政資料室  資料番号 77-2
  • 「新聞集成明治編年史 第九巻 日清戦争」(新聞集成明治編年史編纂會編、財政経濟学会) 昭和33年  
  • 「梅泉野録 近代朝鮮誌・韓末人間群像」(黄著、朴尚得訳、国書刊行会) ISBN 4336031584
  • 「訳注梅泉野録」 (黄著、朴尚得訳、文学と知性社 (mun-hak-kwa ji-seong-sa) 3巻) ISBN 89-320-1565-1
  • The tragedy of Korea'' (Mackenzie, Frederick Arthur著、原書出版: London,Hodder and Stoughton 1908) LC Call Num: DS916 .M2.(邦訳:『朝鮮の悲劇』、訳注:渡部学、平凡社東洋文庫222)ISBN 4-256-80222-3.
  • 武田範之とその時代(滝沢誠著、三嶺書房) ISBN 491490649X
  • 「近代外交回顧録(第5巻) 近代未刊史料叢書 (5) 」 (広瀬順晧著、ゆまに書房) ISBN 4897149908
  • 「閔妃は誰に殺されたのか 見えざる日露戦争の序曲」(崔文衡著、彩流社) ISBN 4882028786
  • 강준만, 《韓国近代史散歩 1》 (인물과사상사, 2007)
  • 黃玹, 《梅泉野錄》 (허경진 옮김, 한양출판사, 1995)
  • 朴殷植, 《韓國痛史》(김승일 역, 범우사. 1997)
  • 정용화, <문명의 정치사상: 유길준과 근대한국> (문학과지성사, 2004)

関連項目

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