ドーハの悲劇
ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日、カタールのドーハで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの国際試合(1994年アメリカワールドカップアジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まった事を指す日本での通称である。
概要
最初に「ドーハの悲劇」というフレーズを使ったのは夕刊フジと言われている。日本でのテレビ中継(地上波)はテレビ東京が行い、視聴率は日本時間では深夜帯にも関わらず、同局史上最高の48.1%を記録した。実況は久保田光彦アナウンサー、解説は前田秀樹。テレビ東京のスタジオにはゲストとして日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一がおり、試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても頭を抱えて何も言う事が出来なかった。岡田武史は、NHK BS1の解説で試合後言葉に詰まっていた。
その後、岡田は1998年フランスワールドカップの最終予選中に急遽、日本代表監督を引き継ぐこととなりワールドカップ初出場を決める(ジョホールバルの歓喜)。日本のサッカーファンにとって、メキシコシティオリンピック3位、アトランタオリンピックの「マイアミの奇跡」、「ジョホールバルの歓喜」と共に忘れられない出来事の一つに数えられる。
試合の経過
最終予選第4戦まで
日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6ヶ国の総当たりリーグ戦で、上位2ヶ国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。
日本は初戦のサウジアラビア戦を 0 - 0 で引き分け、第2戦のイラン戦を 1 - 2 で落とした。イラン戦では途中出場した中山雅史が、度重なる失点で無気力となりボールを追いかけなくなったラモス瑠偉とは対照的にボールをゴールライン際まで追いかけ、角度0に近い位置からゴールを決め1点を返した。ゴール後、イランのゴールキーパーからボールを奪い取りセンターサークルまで走って試合再開を促し、味方を鼓舞した姿はサブに甘んじてきた中山を一躍全国区の有名選手にした。一時は最下位になったが、第3戦の北朝鮮戦を 3 - 0 で勝利し、続く第4戦で宿敵韓国に三浦知良(カズ)のゴールで 1 - 0 で勝利し、韓国に代わり首位に立った。
それまで日本にとって大きな壁だった強敵韓国を試合内容でも圧倒して、W杯と五輪のアジア予選では初勝利し、しかも本戦出場に王手をかけたため、日本のファンは大いに盛り上がった。
各国は最終戦を残して、順位は以下のとおり。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 日本 | 5 | 2 | 1 | 1 | +3 | 5 |
2 | サウジアラビア | 5 | 1 | 3 | 0 | +1 | 4 |
3 | 韓国 | 4 | 1 | 2 | 1 | +2 | 6 |
4 | イラク | 4 | 1 | 2 | 1 | 0 | 7 |
5 | イラン | 4 | 2 | 0 | 2 | -2 | 5 |
6 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 2 | 1 | 0 | 3 | -4 | 5 |
- (当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
- 勝ち点が同じ場合、まず得失点差、次いで総得点の優劣で順位を決した。)
最終戦の組合せは、
となっており、北朝鮮以外の5ヶ国に本大会出場のチャンスがあったが、首位の日本は勝てば文句なく出場権を得られ、引き分けでも、サウジアラビア、韓国が共に勝利するのでなければ出場権をほぼ得られるはずで、日本はかなり有利な条件で最終戦に臨んだ。一方の韓国は日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は、結果にかかわらず本大会出場ができない状況にあった。
最終戦
最終戦、日本は、後半ロスタイムまで 2 - 1でリードしていたが、終了間際にイラクはコーナーキックのチャンスを得る。時間がないので通常はそのままセンタリングかと思われたが、イラクは意表を突くショートコーナー。カズがあわてて対応に走る。しかし、イラクはカラフがカズのディフェンスをかいくぐってセンタリング、そしてオムラムがヘディングシュート。ボールはゴールキーパー松永の頭上を放物線を描いて越えていき、ゴール。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手は皆、愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、ワンプレーのみを行い、日本はロングボールを出すが、ボールがタッチラインを割ったところでホイッスルが鳴らされ試合終了。 2 - 2 で引き分けとなった。
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、サウジアラビア 4 - 3 イラン、韓国 3 - 0 北朝鮮だったため、最終順位は以下のとおりとなり、得失点差で韓国に及ばず3位となった日本は本大会への出場権を逃した。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | サウジアラビア | 7 | 2 | 3 | 0 | +2 | 8 |
2 | 韓国 | 6 | 2 | 2 | 1 | +5 | 9 |
3 | 日本 | 6 | 2 | 2 | 1 | +3 | 7 |
4 | イラク | 5 | 1 | 3 | 1 | 0 | 9 |
5 | イラン | 4 | 2 | 0 | 3 | -3 | 8 |
6 | 朝鮮民主主義人民共和国 | 2 | 1 | 0 | 4 | -7 | 5 |
登録メンバー
選手の所属クラブ名は当時のもの。
ゴールキーパー | ||
---|---|---|
1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
ディフェンダー | ||
2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
5 | 柱谷哲二 | ヴェルディ川崎 ※主将 |
6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
ミッドフィルダー | ||
8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
15 | 吉田光範 | ジュビロ磐田 |
17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
フォワード | ||
9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
16 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 |
20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
監督 | ハンス・オフト | |
コーチ | 清雲栄純 | |
GKコーチ | ディド・ハーフナー |
- 2008年現在、現役の選手は三浦知良(横浜FC)、中山雅史(ジュビロ磐田)の2人。
評価
この後、1998年のFIFAワールドカップフランス大会からは出場国数が増加しアジア枠がこの時の2から3.5へ増設され、その恩恵を受けて日本はW杯初出場を成し遂げた。しかし、出場枠が増加したにもかかわらず苦戦した仏W杯予選の代表と違い、この当時の代表は土壇場で3位に得失点差で転落しただけに「このチームでW杯に出ていれば」という声も多い。
一方で、この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている。日本でも捕らえ方によっては「ドーハの奇跡」や「ドーハの喜劇」と呼ぶことがある。
この試合においてイラクが敗北した場合、当時のイラクスポーツ協会会長であるウダイ・サッダーム・フセイン(サッダーム・フセインの息子)から全員笞刑に処されることになっていた、と元イラク代表が語っており、むしろ本当の悲劇はイラクのほうだったかもしれない。また、そもそも湾岸戦争から間もない時期に、イラクがアメリカでの本大会に出場しては事と考えたFIFA側が、露骨にイラクに不利な判定を繰り返していたという指摘もある(ドーハの悲劇)。
関連項目
- パリの悲劇
- ヤウンデの悲劇
- ジョホールバルの歓喜 (1998 FIFAワールドカップ・アジア地区第3代表決定戦 「日本vsイラン」)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表