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'''菊池 武勝'''(きくち たけかつ、[[享禄]]3年([[1530年]])- [[慶長]]11年([[1606年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての武将。[[菊池氏]]の末裔。[[越中国]][[射水郡]]・[[阿尾城]]主。 |
'''菊池 武勝'''(きくち たけかつ、[[享禄]]3年([[1530年]])- [[慶長]]11年([[1606年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての武将。[[菊池氏]]の末裔。[[越中国]][[射水郡]]・[[阿尾城]]主。 |
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別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、[[入道]]後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守。子は[[菊池安信|安信]]。また[[陸奥国]][[糠部郡]]・[[鶴ヶ崎順法寺城]]、[[田名部館]]城主 |
別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、[[入道]]後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守。子は[[菊池安信|安信]]。また弟に[[陸奥国]][[糠部郡]]・[[鶴ヶ崎順法寺城]]、[[田名部館]]城主の[[菊池正義]]がいる。 |
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== 人物 == |
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2022年9月30日 (金) 20:12時点における版
菊池 武勝(きくち たけかつ、享禄3年(1530年)- 慶長11年(1606年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。菊池氏の末裔。越中国射水郡・阿尾城主。
別氏は屋代(八代)。通称は右衛門尉、入道後は右衛門入道。別名は義勝。官位は伊豆守。子は安信。また弟に陸奥国糠部郡・鶴ヶ崎順法寺城、田名部館城主の菊池正義がいる。
人物
永禄4年(1561年)頃、越中国射水郡阿尾城主として上杉謙信に仕える。謙信の死後は織田信長に属した。天正8年(1580年)3月16日、信長より屋代十郎左衛門尉・菊池右衛門入道宛てに知行を安堵する朱印状が与えられている[1]。翌年2月、信長は征服途中にあった越中の一職支配権を佐々成政に与え、武勝はその与力となった。
本能寺の変後、佐々成政が羽柴秀吉や同じ信長子飼いでありながら秀吉と同調姿勢を取るようになった前田利家と不仲になると、武勝は秀吉・利家側に付くことを選択、天正13年5月には前田勢を阿尾城に迎え入れた。この際、入城した前田勢の1人に傾奇者として知られる前田慶次がいた[2]。その後、7月には阿尾城への居城と知行1万石を安堵されたものの、ほどなく武勝は山城国柴野へ退去し、嫡子安信も慶長元年(1596年)に没すると、その子大学が相続したものの、遺知1万石は明知となり、代って新知1500石が与えられ、以降、菊池氏は代々加賀藩に仕えた[1]。また阿尾城は安信が亡くなってほどなく廃城となったものと考えられる。
2012年には武勝から数えて16代目に当る子孫が阿尾城跡にある榊葉乎布(さかきばこふ)神社を訪れて春祭りに参加している[3]。
脚注
- ^ a b 『氷見の山城』氷見市教育委員会、2001年。
- ^ “前田慶次は阿尾城にいた!? 氷見で勉強会”. 北日本新聞. (2015年10月20日) 2020年5月29日閲覧。
- ^ “城主子孫招き初交流 氷見・阿尾城、春祭りで住民ら”. 北日本新聞. (2012年4月15日) 2020年5月29日閲覧。