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'''千住'''(せんじゅ)は[[東京]]の地名である。江戸時代の頃から[[日光街道]]の'''千住宿'''が整備され発展した。 |
'''千住'''(せんじゅ)は[[東京]]の地名である。(せんじゅう)とは発音しない。江戸時代の頃から[[日光街道]]の'''千住宿'''が整備され発展した。ちなみに芸術家三兄妹として知られる千住(せんじゅ)博・明・真理子は足立区千住とは関係がなく、佐賀市にかつて存在した千住村に由来する。佐賀市のほうは「せんじゅう」と発音した。 |
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2006年9月17日 (日) 13:07時点における版
千住(せんじゅ)は東京の地名である。(せんじゅう)とは発音しない。江戸時代の頃から日光街道の千住宿が整備され発展した。ちなみに芸術家三兄妹として知られる千住(せんじゅ)博・明・真理子は足立区千住とは関係がなく、佐賀市にかつて存在した千住村に由来する。佐賀市のほうは「せんじゅう」と発音した。
範囲
現在の東京都足立区の千住から荒川区の南千住までの範囲を指すほか、足立区千住(周辺の「千住○○町」なども含む)のみを千住という場合もあるが、足立区千住は北千住と呼ぶのが一般的である(地名としては、南千住は正式なものだが、北千住は地名としては存在せず、あくまでも通称である)。南千住のみを指して千住ということはあまりない。荻生徂徠の『政談』によれば当地が「大江戸八百八町」の北限であった。
歴史
江戸時代頃から日光街道の宿場として発展した。江戸から一つ目の宿場であり、江戸四宿のひとつとしても数えられた。南北千住を結ぶ千住大橋の北岸を北組(千住1~5丁目)・中組(掃部宿)の二つに分け、橋南に南組(小塚原町・中村町)を設けこれら3組を合して千住宿と称した。北組・中組・南組が公的な地名となるのは明治になってからである。
いわゆる「岡場所」であり、当時の船頭たちが歌った「千住節」の一節「千住女郎衆はいかりか綱か 上り下りの舟とめる」というのはこれを指している。また江戸市街の喉もとで奥州街道、陸前浜街道の始点として、日光・東北方面への旅人で賑わったといわれている。
松尾芭蕉の奥の細道の出発点であり、見送りの門弟たちとの別れを「行く春や 鳥啼き 魚の目は泪」と詠んだ。彼が発ったのは、南千住なのか北千住なのかは不明。
また、練馬の大根、目黒の筍、尾久の牛蒡などとならんで葱の名産地として有名であった。
明治になり南組は東京府北豊島郡南千住町に、北組、中組は同府南足立郡千住町となる。『経済及統計』(内務省・明治23年2月)によれば、1883年(明治16年)の千住宿の売娼妓数374、買客数43,000、1888年(明治21年)にはそれぞれ466、65,000との記録がある。いずれも二廓四宿においては内藤新宿、板橋宿を上回っていた。1881年(明治14年)10月11日、三条実美、岩倉具視が当宿に東北巡幸帰還中の明治天皇を迎えて、大隈重信の免職と国会開設の聖断を受けている(明治14年の政変)。
また水利の好条件を生かし、官営千住製絨所・隅田川駅(貨物駅)・千住火力発電所などが置かれ、もって舟便のよいことが近在農村に広く知られるようになり、昭和20年代まで青物、川魚の朝市が毎朝のように開かれた。
現在では、東京の代表的な下町として有名である。
街
千住の町並みは、北千住駅を中心に広がる商店街や住宅街が入り交じった作りである。 千住周辺はドラマ3年B組金八先生の収録現場にもなっている。 大手スーパーイトーヨーカドーの事実上の1号店は千住店である。