「岸田忠氏」の版間の差分
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2018年5月17日 (木) 10:29時点における版
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元和元年12月2日(1616年1月20日) |
別名 | 晴澄 |
墓所 | 光林寺 |
官位 | 伯耆守 |
主君 | 筒井順慶→定次→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→南部利直 |
岸田 忠氏(きしだ ただうじ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。大和国岸田領主。
生涯
はじめ大和の戦国大名・筒井順慶に仕え、2,000石を領したが、筒井定次の代に伊賀国へ転封となると、大和を治めた豊臣秀長や養子・秀保に仕えた。
秀保の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大和山辺郡岸田1万石を賜る。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方に属し、8月11日に東軍を撹乱するために三河国藤川に放火を試みるが失敗し、町民に武装を解除され、家臣の岸田弥右衛門が処刑された[1]。9月15日の関ヶ原本戦では、豊臣秀頼配下の黄母衣衆として織田信高、伊藤盛正らと小西行長の陣営に加わり戦ったが敗れたため、改易となり、慶長6年(1601年)11月に陸奥国盛岡藩主・南部利直に預けられた。
元和元年(1616年)、死去。享年70余。光林寺[2]に葬られた。子孫は盛岡藩士として存続した。