「江戸しぐさ」の版間の差分
Himuka tachibana (会話 | 投稿記録) 「野菜スープ健康法」なるものを外部リンク接続しました。聞いたことありませんでした。ていうか、怪しいです。 |
小林和雄(芝三光)の出生について説明を追加 |
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{{Quotation|「また必戦を期して進むときは、道路の軍費必ずその是を其(その)領主に取らん。是尤(これもっとも)人心を損破するの挙にして、彼が失策の一(いつ)なるべし、又戦闘には勇威を先にす、我は至柔(しじゅう)を示して報答条理を尽さば、其区画遠謀相表裏して、英気始て撓(た)ゆらむ歟(か)、不可知(しるべからず)……」}} |
{{Quotation|「また必戦を期して進むときは、道路の軍費必ずその是を其(その)領主に取らん。是尤(これもっとも)人心を損破するの挙にして、彼が失策の一(いつ)なるべし、又戦闘には勇威を先にす、我は至柔(しじゅう)を示して報答条理を尽さば、其区画遠謀相表裏して、英気始て撓(た)ゆらむ歟(か)、不可知(しるべからず)……」}} |
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と、'''強行策を取って人心が離反すれば新政府軍の士気財政ともに圧迫され、重大な損失を招くであろう'''ことをほのめかして威嚇している(出典:『明治維新財政経済思考』1943年(昭和18年)174頁[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1061120])。<br> |
と、'''強行策を取って人心が離反すれば新政府軍の士気財政ともに圧迫され、重大な損失を招くであろう'''ことをほのめかして威嚇している(出典:『明治維新財政経済思考』1943年(昭和18年)174頁[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1061120])。<br> |
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また、新政府軍は'''財政的にもひどく困窮し、江戸の[[町人]]から[[御用金]]を取り立てることも出来ず、[[三井財閥|三井]]からの[[借金]]と京都からの送金によってかろうじて息をつく有様であった'''(同書:176-201頁)'''。'''</ref>。その虐殺たるや凄まじいもので、[[ソンミ村虐殺事件|ソンミ村虐殺]]、[[ウンデット・ニーの虐殺]]に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。<ref>越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』、第七章『抹殺された江戸しぐさ』2001</ref>。[[池田整治]]は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの殺戮は続いたと述べている<ref>http://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.asp</ref>。 |
また、新政府軍は'''財政的にもひどく困窮し、江戸の[[町人]]から[[御用金]]を取り立てることも出来ず、[[三井財閥|三井]]からの[[借金]]と京都からの送金によってかろうじて息をつく有様であった'''(同書:176-201頁)'''。'''</ref>。その虐殺たるや凄まじいもので、[[ソンミ村虐殺事件|ソンミ村虐殺]]、[[ウンデット・ニーの虐殺]]に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。勝海舟は生き残った江戸っ子数万を両国から武蔵、上総などに逃がし、彼らは「隠れ江戸っ子」として潜伏した。<ref>越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』、第七章『抹殺された江戸しぐさ』2001</ref>。[[池田整治]]は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの殺戮は続いたと述べている<ref>http://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.asp</ref>。 |
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*華族の流れを引く小林和雄は江戸しぐさの教育組織である「江戸講」の長である江戸講元の子孫だった為、昭和に入ってから江戸しぐさを復興した<ref>母方の祖父が江戸講元であったという。NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/02/</ref>。 |
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*小林の父は外交官、母は米国企業の英文タイピストであった。彼は母がカナダのバンクーバーから帰国する途中の船中で生まれたが、愛人の子であったために世間をはばかり、母方の祖父に預けられた。そこで江戸しぐさによる教育を受けたのである<ref>みやわき心太郎『江戸しぐさ 残すべし』『ビッグコミックONE』2008年4月3日号所収、単行本未収録。劇画という形式ではあるが刊行された唯一の小林の伝記である。</ref>。 |
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*江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は[[国家総動員法]]で解散させられた。<ref>[NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/01/]</ref> |
*江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は[[国家総動員法]]で解散させられた。<ref>[NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/01/]</ref> |
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*[[秘密結社]]として存続していた江戸講は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に認められ、江戸しぐさは[[5番街 (マンハッタン)|ニューヨーク五番街]]でも一世を風靡し、[[星条旗新聞|スターズ・アンド・ストライプス]]紙に掲載された。<ref>NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/</ref> |
*[[秘密結社]]として存続していた江戸講は[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]に認められ、江戸しぐさは[[5番街 (マンハッタン)|ニューヨーク五番街]]でも一世を風靡し、[[星条旗新聞|スターズ・アンド・ストライプス]]紙に掲載された。<ref>NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/</ref> |
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*戦後、[[柳田国男]]から取材の申し込みを受けたが断った。[[扇谷正造]]とは意気投合したが先方の急逝で実現しなかった。<ref>NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/04/</ref>。 |
*戦後、[[柳田国男]]から取材の申し込みを受けたが断った。[[扇谷正造]]とは意気投合したが先方の急逝で取材は実現しなかった。<ref>NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/04/</ref>。 |
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*小林和雄は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し<ref>本名・芝三光(しば・みつあきら)、芸名が浦島太郎であるという説もある。生前の芝と親交があったコンサルタントの牛場靖彦は、『浦島太郎とはもとより芸名で、本名は芝三光(しば・みつあきら)さんとのこと。それも愉快な話で、東京は芝の生まれ、芝で育ったそうで、芝は白金三光町(しろがね・さんこうちょう)が住まいだったことから、三光(みつあきら)と命名された由。』と述べている。日経BP [http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/b/01/ 江戸っ子リスクマネージャーの車座清談] 2005年7月1日</ref>、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として江戸講を復活させ、弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開して流布させたのである<ref>越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』のあとがき及び、NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/</ref>。 |
*小林和雄は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し<ref>本名・芝三光(しば・みつあきら)、芸名が浦島太郎であるという説もある。生前の芝と親交があったコンサルタントの牛場靖彦は、『浦島太郎とはもとより芸名で、本名は芝三光(しば・みつあきら)さんとのこと。それも愉快な話で、東京は芝の生まれ、芝で育ったそうで、芝は白金三光町(しろがね・さんこうちょう)が住まいだったことから、三光(みつあきら)と命名された由。』と述べている。日経BP [http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/b/01/ 江戸っ子リスクマネージャーの車座清談] 2005年7月1日</ref>、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として江戸講を復活させ、弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開して流布させたのである<ref>越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』のあとがき及び、NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/</ref>。 |
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2013年10月28日 (月) 07:16時点における版
江戸しぐさ(えどしぐさ)は「特定非営利活動法人江戸しぐさ」が普及を促進している、江戸町人に由来するとする行動哲学[1][2]。当該法人が「紙類,文房具類,印刷物」「セミナーの企画・運営又は開催,書籍の制作,電子出版物の提供,教育・文化・娯楽・スポーツ用ビデオの制作(映画・放送番組・広告用のものを除く) 」に関し、商標権を有している[3]。
2004年[4]、また翌2005年にも公共広告機構(現・ACジャパン)で江戸しぐさが取り上げられた[5][6]。企業の研修や学校などにおける教育でも使用され、小学校の道徳の題材に使われている事もある[7][8][9]。また、2012年(平成24年)度から、育鵬社が公民の教科書に取り入れている[10]。
概略
- 『江戸しぐさ』が現実の江戸時代に存在していたとする文献的証拠はまったく存在しない[11]
江戸しぐさの信奉者たちは、江戸しぐさが現代になって巷間に突然出現した理由を以下のように説明している。
- 元来江戸しぐさは商売繁盛の秘伝であり、あまり公にされたものではなく、江戸商人の組織していた「江戸講」で口授されるものだった[12]。
- 江戸開城の時、「江戸講」のネットワークを恐れた新政府軍が江戸しぐさの伝承を失わせ、江戸しぐさの伝承者である江戸っ子たちを虐殺した[13]。その虐殺たるや凄まじいもので、ソンミ村虐殺、ウンデット・ニーの虐殺に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。勝海舟は生き残った江戸っ子数万を両国から武蔵、上総などに逃がし、彼らは「隠れ江戸っ子」として潜伏した。[14]。池田整治は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの殺戮は続いたと述べている[15]。
- 華族の流れを引く小林和雄は江戸しぐさの教育組織である「江戸講」の長である江戸講元の子孫だった為、昭和に入ってから江戸しぐさを復興した[16]。
- 小林の父は外交官、母は米国企業の英文タイピストであった。彼は母がカナダのバンクーバーから帰国する途中の船中で生まれたが、愛人の子であったために世間をはばかり、母方の祖父に預けられた。そこで江戸しぐさによる教育を受けたのである[17]。
- 江戸しぐさを伝えていた種々の江戸講は国家総動員法で解散させられた。[18]
- 秘密結社として存続していた江戸講はGHQに認められ、江戸しぐさはニューヨーク五番街でも一世を風靡し、スターズ・アンド・ストライプス紙に掲載された。[19]
- 戦後、柳田国男から取材の申し込みを受けたが断った。扇谷正造とは意気投合したが先方の急逝で取材は実現しなかった。[20]。
- 小林和雄は戦後の風俗の退廃を憂い、芝三光・うらしまたろうと称し[21]、社会教育団体「江戸の良さを見なおす会」として江戸講を復活させ、弟子の越川禮子・和城伊勢に江戸しぐさを伝授した。1999年、芝の病没のあと、越川が門外不出の秘儀であった江戸しぐさをマスメディアに公開して流布させたのである[22]。
批判
- 秘伝の商人のマナーであるはずの江戸しぐさがなぜ一般庶民にまで伝播していたのか。
- 明確な時間意識のない[23]江戸時代に「時間を奪う」という発想がなぜ存在するのか。
- 「喫煙禁止」という張り紙が江戸時代にあったのか[24](江戸時代の喫煙には煙草盆がそこにあることが必須だった)。
- 年始の挨拶は直接顔をあわせて行っていた時代になぜ「年賀状のマナー」があるのか[25]。
- 「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれた江戸の人々が本当にこれらのマナーを体系化していたのか[26]。
- 三田村鳶魚・子母澤寛・杉浦日向子をはじめとする西暦2000年以前に活躍した江戸文化研究家がまったく江戸しぐさに触れていない[27]。
- 江戸しぐさ虐殺説が主張する諸々の事件が史料に全く残っていないのは何故か。
- (大村益次郎の東下前の新政府軍は江戸の治安を維持する力さえ無く、逆に彰義隊士に殺害される事例が度々起こった[28]、さらに、東叡山に赴き、彰義隊解散を説いた山岡鉄太郎の言葉を一蹴した覚王院義親は、彰義隊での強硬派であるにも拘わらず、「新政府軍による虐殺」について一言も触れていない[29])
- 江戸時代から続く商家は東京都内に多数現存するが、それらが江戸しぐさ関連団体と一様に無関係なのはなぜか。
など、江戸しぐさは現代の創作であることを比定させる要素が多々存在する。[30]。
文明史家の原田実は、日本トンデモ本大賞2013にて「駕籠のマナーだったとされているものはタクシー普及以降のもの」「煙草のマナーだったとされているものはマッチと紙巻き煙草が普及した以降のもの」「"断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れる"のを戒めるのは電話と時計が普及した時代以降のもの」であり、伝奇ロマンかSF(SF商法)であると結論している。[31]
江戸しぐさの例
- 傘かしげ
- 雨の日に互いの傘を外側に傾け、ぬれないようにすれ違うこと[7]。
- 肩引き
- 道を歩いて、人とすれ違うとき左肩を路肩に寄せて歩くこと[2]。
- 時泥棒
- 断りなく相手を訪問し、または、約束の時間に遅れるなどで相手の時間を奪うのは重い罪(十両の罪)にあたる。
- うかつあやまり
- たとえば相手に自分の足が踏まれたときに、「すみません、こちらがうかつでした」と自分が謝ることで、その場の雰囲気をよく保つこと[32]。
- 七三の道
- 道の、真ん真ん中を歩くのではなく、自分が歩くのは道の3割にして、残りの7割は緊急時などに備え他の人のためにあけておくこと
- こぶし腰浮かせ
- 乗合船などで後から来る人のためにこぶし一つ分腰を浮かせて席を作ること[33]。
- 逆らいしぐさ
- 「しかし」「でも」と文句を並べ立てて逆らうことをしない。年長者からの配慮ある言葉に従うことが、人間の成長にもつながる。また、年長者への啓発的側面も感じられる[33]。
- 喫煙しぐさ
- 野暮な「喫煙禁止」などと張り紙がなくとも、非喫煙者が同席する場では喫煙をしない[33]。
- 三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる(江戸の養育法)
- お心肥やし(おしんこやし)
- 打てば響く
- 三脱(さんだつ)の教え
- ゆびきりげんまん、死んだらごめん[32]
- 江戸ソップ
- 1990年代前半に流行した野菜スープ健康法の如きもの。
脚注
- ^ お心肥
- ^ a b 飯能教会 土橋誠 「江戸しぐさ」というのは、越川さんによると、江戸商人のトップに立つ人、つまり江戸商人のリーダーたちの考え方や生き方、口の聞き方、表情から身のこなし方などについての美意識や感性のすべてを包含した、体系化された商人道ともいうべき生活哲学ということです。
- ^ [1] 特許電子図書館 2013年7月6日閲覧
- ^ 2004年度作品「当時の人々が、快適な社会生活を営んでいくための知恵としてまとめられたのが「江戸しぐさ」です。ルールや決まりごとなどという強制的なものではなく、「しぐさ」としたのが江戸っ子たちのイキなところ。」
- ^ 2005年度作品 続・江戸しぐさ
- ^ 参考 : 日本のマナー 江戸しぐさ 東京都民の先輩、江戸っ子の「傘かしげ」や「腰うかし」といった“江戸しぐさ”になぞらえ、公共の場でのマナーを“イキ”な生活の知恵として紹介 *
- ^ a b 朝日マリオン 江戸しぐさ 今に通じる「都市」の知恵
- ^ 栃木県総合教育センター「最近、さまざまな場面で取り上げられている「江戸しぐさ」を紹介する教材」
- ^ 「傘かしげ」「時泥棒」・・・今に生きる思いやり 「江戸しぐさ」道徳教材に|最近の新聞記事 6年生・社会 2006年4月7日 読売新聞東京本社 朝刊
- ^ [2]平成24年度『中学社会 あたらしいみんなの公民』:育鵬社
- ^ 山陰新聞社「マナーうんちく話496≪一般庶民と江戸しぐさ≫」平松幹夫
- ^ 越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』、第七章『抹殺された江戸しぐさ』2001
- ^ 実際の新政府軍には、そのような圧倒的な力があった訳ではない。勝海舟は江戸開城において、
「また必戦を期して進むときは、道路の軍費必ずその是を其(その)領主に取らん。是尤(これもっとも)人心を損破するの挙にして、彼が失策の一(いつ)なるべし、又戦闘には勇威を先にす、我は至柔(しじゅう)を示して報答条理を尽さば、其区画遠謀相表裏して、英気始て撓(た)ゆらむ歟(か)、不可知(しるべからず)……」
と、強行策を取って人心が離反すれば新政府軍の士気財政ともに圧迫され、重大な損失を招くであろうことをほのめかして威嚇している(出典:『明治維新財政経済思考』1943年(昭和18年)174頁[3])。
また、新政府軍は財政的にもひどく困窮し、江戸の町人から御用金を取り立てることも出来ず、三井からの借金と京都からの送金によってかろうじて息をつく有様であった(同書:176-201頁)。 - ^ 越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』、第七章『抹殺された江戸しぐさ』2001
- ^ http://www.funaiyukio.com/ikedaseiji/index_1206.asp
- ^ 母方の祖父が江戸講元であったという。NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜【上】http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/02/
- ^ みやわき心太郎『江戸しぐさ 残すべし』『ビッグコミックONE』2008年4月3日号所収、単行本未収録。劇画という形式ではあるが刊行された唯一の小林の伝記である。
- ^ [NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/01/]
- ^ NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/
- ^ NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/04/
- ^ 本名・芝三光(しば・みつあきら)、芸名が浦島太郎であるという説もある。生前の芝と親交があったコンサルタントの牛場靖彦は、『浦島太郎とはもとより芸名で、本名は芝三光(しば・みつあきら)さんとのこと。それも愉快な話で、東京は芝の生まれ、芝で育ったそうで、芝は白金三光町(しろがね・さんこうちょう)が住まいだったことから、三光(みつあきら)と命名された由。』と述べている。日経BP 江戸っ子リスクマネージャーの車座清談 2005年7月1日
- ^ 越川『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』のあとがき及び、NPO法人「江戸しぐさ」シリーズ 江戸しぐさの誕生とその系譜 http://www.edoshigusa.org/about/genealogy1/03/
- ^ 時計が一般町民に普及していないため、時鐘堂なる建物があった(→岡山の時鐘堂)。
- ^ 禁煙令自体がなかった訳ではない。ただ、それは治安維持及び米作から煙草栽培への転換を防ぐためであって、今の禁煙とは異なる。[4]
- ^ ただし、江戸時代に年賀状が全くなかったとも言えない[5]し、書状の書き方の教育もなされていた。
- ^ 公式HPの「銭湯づきあい」の情景として、式亭三馬の『浮世風呂』が挙げられている。[6]
ただ、実際の『浮世風呂』の描写は大意こそ「熟(つらつら)監(かんが)みるに銭湯ほど捷径(ちかみち)の教諭(おしえ)なるはなし…」と綴り始めているが、「……後の観月(つきみ)の芋を食つて、屁の如き小冊成る」で終わっていることから判るように、諧謔であり、本文には喧嘩の描写がかなり見受けられ、また寝転がって煙草を吸う姿の挿絵(36-37頁)が見受けられる。本文の喧嘩の描写の例は以下の通り(48-49頁)。
……いう折からうしろの人、立っていておか湯をあびる。途端の拍子に、又一人の男小桶へ水を汲んでさげ来りしが、辷(すべ)って転ぶと生酔の頭からざっぷり
酔(客)「オヽひやッこいホイホイ、コレハコレハ、ヤイあちらの男、ナゼ立っていて、はねをかけた。まだあるある、ヤイこちらの男、ナゼ転んで水を浴びせた」
酔(客)「イヤ笑うな、可笑しくないぞ。人に水をかけて是がほんの水かけ論だ。二人ながら俺が対手(あいて)だぞ。コレ此の通り水瓶が鼠に落(おっこ)ちたように十分濡(ずぶぬれ)だ。了簡(りょうけん)ならぬ。二人ながら待って居ろ。コレ番頭、先刻(さっき)から喧嘩の対手が欲かッたが、漸々(ようよう)の事(こっ)て二人一時(ふたりいちどき)に出来た。とてもの事に笊(ざる)を貸せ、湯の中を探して見たら、最(も)う二三人はあろう。サアサア皆覚悟しろ。今の二人迯(に)げるな。迯がしては番頭相手だぞ。今見おれ」
「ハイ御免なさい。どうも麁相(そそう)だ、仕方がねえ」
酔(客)「ナニ麁相だ。コレ、そッちの転ぶは麁相でも済もうが、おれに水をかけて麁相で済むか、湯をくぐらせた上で、水をかけるとは野郎の素麪(そうめん)と思うか」
「ハヽヽ」
- ^ NPO法人「江戸しぐさ」では三田村の研究を「史料価値が低い」と全否定している。しかしながら、三田村が戦中戦後を通じて「江戸輪講」を主催し、八丁堀の竹問屋の出身だった三村竹清らと江戸研究を行っていた史実(朝倉治彦『鳶魚江戸学』中央公論社)についてNPO側は一切無視している。
- ^ 1968年(慶応4年)5月9日付の三条実美から岩倉具視宛の書簡によると、
「梅雨之節、先以聖上益御機嫌克被為渉(まずもってせいじょうますますごきげんよくわたらせなされ)、恭悦奉存候(きょうえつぞんじたてまつりそうろう)、当府格別相変候儀無御座(とうふもかくべつあいかわりござなくそうろうのぎ)、先無事(まずはことなし)、併(しかし)旗下(きか)之賊徒彰義隊ト唱候者抔(となえそうろうものなど)、頻(しきり)ニ暴動ヲ働キ、薩藩肥前藩士ヲ及殺害(さつがいにおよび)、官軍方ニモ大ニ憤怒ヲ生ジ、甚以(はなはだもって)鎮定ニ至兼候(いたりかねそうろう)、猶(なお)市中ニ於(おい)テ無辜之者ヲ殺害シ金策等ヲ致(いたし)、大ニ人民ヲ苦メ、凶暴之所業相止(あいや)ミ不申(もうさず)、今日ノ勢(いきおい)迚(とて)モ是儘(このまま)ニ平定不仕候間(へいていつかまつらずそうろうのあいだ)、大村西郷トモ相談(あいだん)ジ、近日弥(いよいよ)官軍ヲ以(もって)、討伐可致事(とうばついたすべきこと)ニ軍議内決仕候(ぐんぎのうちにきめつかまつりそうろう)、今一戦争(いまいっせんそう)ハ不得止(やむをえず)相(あ)ハシメ候間(そうろうのあいだ)此段内々申上置候(このだんうちうちにもうしあげおきそうろう)」
とある(出典:『明治戊辰 文明協会創立二十周年記念』1928年(昭和3年)164頁[8])。
- ^ 山岡鉄舟の手記によれば、覚王院義親の言葉は以下の通り。
(出典:『明治戊辰 文明協会創立二十周年記念』1928年(昭和3年)164頁) ※「蜂腰」とは、蜂のようにくびれた女性の腰のこと。
- ^ 捏造された「江戸しぐさ」(偽史・ウソ)
- ^ 東京カルチャーカルチャー Ustreamチャンネル 日本トンデモ本大賞2013
- ^ a b 「江戸しぐさ」に学ぶマナー
- ^ a b c 江戸しぐさの授業
- 参考資料(「BOOK」データベース)
- 桐山 勝 (著)、越川 禮子 (監修) 「江戸しぐさ事典」ISBN 9784883205660 420を超える重要キーワードを網羅!史上初の江戸しぐさ事典
- 越川 禮子、 林田 明大「江戸しぐさ」ISBN 9784413008976 日本人なら忘れてはならない「気づかい」「心づかい」
- 越川 禮子「暮らしうるおう江戸しぐさ」ISBN 9784883203758 今こそ役に立つ、江戸の心と感性
関連項目