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== 経歴 ==
== 経歴 ==
文化10年(1813年)、[[伊勢国|伊勢]][[八田藩]](東阿倉川藩)の第4代藩主・[[加納久慎]]の世子である[[加納久儔]](後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる。[[天保]]13年([[1842年]])10月21日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで一宮藩主となる。
文化10年(1813年)、[[伊勢国|伊勢]][[八田藩]](東阿倉川藩)の第4代藩主・[[加納久慎]]の世子である[[加納久儔]](後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる。[[天保]]元年11月1日、将軍[[徳川家斉]]に拝謁した。天保9年12月16日、従五位下大和守に叙任する。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年([[1842年]])10月21日、父の[[隠居]]により[[家督]]を継いで一宮藩主となる。


[[嘉永]]2年([[1849年]]に[[大番頭]]に任じられ、[[安政]]2年([[1855年]]に[[講武所]]総裁を兼任する。安政4年([[1857年]])に[[奏者番]]に任じられ、[[文久]]元年([[1861年]]に[[若年寄]]に任じられるなど、[[幕末]]期の要職を歴任した。[[和宮親子内親王|和宮]]が[[江戸幕府]]第14代将軍・[[徳川家茂]]のもとに降嫁する際には、[[江戸]]までの警護役を務めた。
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== 治績==
== 治績==

2013年5月31日 (金) 11:35時点における版

 
加納 久徴
時代 江戸時代後期(幕末
生誕 文化10年(1813年
死没 元治元年3月22日1864年4月27日
改名 汲次郎(幼名)、久徴
戒名 徳性院勇達日徴
墓所 東京都台東区の谷中墓地
東京都新宿区須賀町の戒行寺
官位 従五位下、大和守、備中守、駿河
幕府 江戸幕府
上総国一宮藩
氏族 加納氏
父母 父:加納久儔、母:高木正剛の娘
正室:石川総佐の娘
養子:加納久成加納久恒
養女:(久儔の娘・加納久恒室)
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加納 久徴(かのう ひさあきら)は、上総一宮藩の第2代藩主。一宮藩加納家6代。

経歴

文化10年(1813年)、伊勢八田藩(東阿倉川藩)の第4代藩主・加納久慎の世子である加納久儔(後の上総一宮藩の初代藩主)の長男として生まれる。天保元年11月1日、将軍徳川家斉に拝謁した。天保9年12月16日、従五位下大和守に叙任する。後に備中守、駿河守、遠江守、備中守に改める。天保13年(1842年)10月21日、父の隠居により家督を継いで一宮藩主となる。

嘉永2年(1849年)1月28日に大番頭に任じられ、安政2年(1855年)2月に講武所総裁を兼任する。安政4年(1857年)閏5月1日に奏者番に任じられ、文久元年(1861年)7月15日に若年寄に任じられるなど、幕末期の要職を歴任した。和宮江戸幕府第14代将軍・徳川家茂のもとに降嫁する際には、江戸までの警護役を務めた。文久2年閏8月、若年寄を辞職する。

治績

藩政では、幕閣として中央政治に従い、領地の海岸に武士溜陣屋を設けて藩兵の訓練を行ない、弘化元年(1844年)には他藩に先駆けて砲台を建設するなどしている。文久3年(1863年)11月、真忠組の乱が起こると、下総佐倉藩多胡藩陸奥福島藩と協力して文久4年(1864年)1月に鎮圧するという功績を挙げた。その直後の元治元年(1864年)3月22日に死去した。享年51。

はじめに養子として迎えていた久成は文久3年(1863年)に早世したため、改めて迎えた養子の久恒が跡を継いだ。

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