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「ロリータ・コンプレックス」の版間の差分

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日本において、天皇家や将軍家は政略結婚の意味から男子は十代半ばのうちに[[元服]]し10代の女子をめとることがあった。記録にもそうしたことは残されており、それらから作られた物語もよく知られ、日本で広く知られている古典に『源氏物語』がある。そこでは10代前半で結婚することが行われているがそれらは平安皇族のなかでも特殊な政略結婚であり、当時の日本の皇族や貴族や一般においてそれが通常であったことを示すものではない。少女を愛する源氏が当初から帝になれない設定であったことにも注意が必要である。同様に、帝になるべく最高の薫育をもって育てられた冷泉帝は12歳と23歳の女性が入内して23歳の女性を選ぶことにも注意が必要である。源氏の父帝にしても亡き妻に似ている者を亡き妻が生きていたらこのように年をとっただろうとして亡き妻の年を超えても愛する。総じて、10代前半の結婚は低年齢ゆえにうまくいかない描写、10代前半の出産で命を落とす描写、帝になる登場人物は少女性愛とは遠い描かれ方をしている。
日本において、天皇家や将軍家は政略結婚の意味から男子は十代半ばのうちに[[元服]]し10代の女子をめとることがあった。記録にもそうしたことは残されており、それらから作られた物語もよく知られ、日本で広く知られている古典に『源氏物語』がある。そこでは10代前半で結婚することが行われているがそれらは平安皇族のなかでも特殊な政略結婚であり、当時の日本の皇族や貴族や一般においてそれが通常であったことを示すものではない。少女を愛する源氏が当初から帝になれない設定であったことにも注意が必要である。同様に、帝になるべく最高の薫育をもって育てられた冷泉帝は12歳と23歳の女性が入内して23歳の女性を選ぶことにも注意が必要である。源氏の父帝にしても亡き妻に似ている者を亡き妻が生きていたらこのように年をとっただろうとして亡き妻の年を超えても愛する。総じて、10代前半の結婚は低年齢ゆえにうまくいかない描写、10代前半の出産で命を落とす描写、帝になる登場人物は少女性愛とは遠い描かれ方をしている。


飢饉の頻発した江戸時代後期の東北地方における2つの村の[[宗門人別改帳]]において男子が28歳女子が23歳の時点で結婚しているものが27歳と24歳の時点より増えているから東日本全体が早婚の傾向にあり、西日本は晩婚の傾向にあったなどとする人がいる<ref>[http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN2302.pdf 村山聡「記録され続けた世帯と個人の年齢」 ]</ref>が、27歳で結婚していたものたちがそのあとの一年間で離婚していなければ28歳の時点で結婚者が減りようがなく増えるのはあたりまえである。ちなみに、江戸時代、離婚することは大変なことで、縁切り寺に逃げ込んで離婚するといってもその寺も日本には2つしかなく、実質的に離婚は表向きな手続きをすることは不可能であった。すなわち、日本において東日本が早婚で西日本が晩婚であったという事実もなく、また、少女婚がごく当たり前に行われていたことも[[宗門人別改帳]]からはまったくうかがえない。
飢饉の頻発した江戸時代後期の東北地方における2つの村の[[宗門人別改帳]]において男子が28歳女子が24歳の時点で結婚しているものが27歳と23歳の時点より増えているから東日本全体が早婚の傾向にあり、西日本は晩婚の傾向にあったなどとする人がいる<ref>[http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN2302.pdf 村山聡「記録され続けた世帯と個人の年齢」 ]</ref>が、27歳で結婚していたものたちがそのあとの一年間で離婚していなければ28歳の時点で結婚者が減りようがなく増えるのはあたりまえである。ちなみに、江戸時代、離婚することは大変なことで、縁切り寺に逃げ込んで離婚するといってもその寺も日本には2つしかなく、実質的に離婚は表向きな手続きをすることは不可能であった。すなわち、日本において東日本が早婚で西日本が晩婚であったという事実もなく、また、少女婚がごく当たり前に行われていたことも[[宗門人別改帳]]からはまったくうかがえない。


上記のように低年齢結婚は歴史的にもごく少数の限られた例しかなく、日本のみならず諸外国でも一部の王家の政略結婚などは低年齢で行われたがそれが一般的であったなどという事実はない。フランス・ロシア・ドイツ・イギリスなどの王政宮廷時代において政略結婚上10代前半から半ばでの結婚が見受けられそれらがよく知られているが、その夫婦仲はよくなかった、あるいは男より年上の愛妾との関係性のほうがよかったなどとして記録されているものが多いことにも注意が必要である。
上記のように低年齢結婚は歴史的にもごく少数の限られた例しかなく、日本のみならず諸外国でも一部の王家の政略結婚などは低年齢で行われたがそれが一般的であったなどという事実はない。フランス・ロシア・ドイツ・イギリスなどの王政宮廷時代において政略結婚上10代前半から半ばでの結婚が見受けられそれらがよく知られているが、その夫婦仲はよくなかった、あるいは男より年上の愛妾との関係性のほうがよかったなどとして記録されているものが多いことにも注意が必要である。


イスラム教は性愛に対する戒律が厳しいが、人生の範たる教祖[[ムハンマド]]が人助けの意味合いで9歳の少女と結婚したという故事があり、それをもって、少女婚に関しては例外的に寛容であると語られることがあるが、そのことは少女性愛に寛容であることとは別である。現代人口増加政策を掲げる政府によって早婚が奨励されたことがある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101121/mds1011212210005-n1.htm イラン大統領が早婚奨励 「女性は16歳がベスト」(産経新聞2010.11.21配信)]</ref>が、これは16歳以上の結婚を意味しており、少女性愛や少女婚のすすめとは必ずしも一致しない。精神的に未熟な少女の子育ては困難大きく、育児放棄や虐待につながりやすいともされる。現代の先進国では高等教育を受けないと経済的な基盤が不安定であるため、学業を中断することになる早婚が好ましいとはされない傾向がある。
イスラム教は性愛に対する戒律が厳しいが、人生の範たる教祖[[ムハンマド]]が人助けの意味合いで9歳の少女と結婚したという故事があり、それをもって、少女婚に関しては例外的に寛容であると語られることがあるが、そのことは少女性愛に寛容であることとは別である。現代人口増加政策を掲げる政府によって早婚が奨励されたことがある<ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/mideast/101121/mds1011212210005-n1.htm イラン大統領が早婚奨励 「女性は16歳がベスト」(産経新聞2010.11.21配信)]</ref>が、これは16歳以上の結婚を意味しており、少女性愛や少女婚のすすめとは必ずしも一致しない。精神的に未熟な少女の子育ては困難大きく、育児放棄や虐待につながりやすいともされる。現代の先進国では高等教育を受けないと経済的な基盤が不安定であるため、学業を中断することになる早婚が好ましいとはされない傾向がある。


== ロリコンと社会 ==
== ロリコンと社会 ==

2011年11月17日 (木) 20:10時点における版

アリス・デーなどで少女愛運動の象徴とされるアリス・リデル(不思議の国のアリスのモデル)

ロリータ・コンプレックス (英語: Lolicon) とは、幼女少女への性的嗜好恋愛感情のこと。略して「ロリコン」とも称される。俗称。性的倒錯の一つとしてとらえられることもあるが、後述のようにそこに性愛を志向する意図があるかどうかは意見がわかれる。また、性的嗜好である感情を意味する「少女性愛」をさすものであり、社会的制度の形を意味する「少女婚」とは別。

概説

名称はウラジーミル・ナボコフの小説『ロリータ (Lolita)』に由来するとされる。この小説において、若き日に恋人を亡くした男性が、中年になってからそのかつての恋人の面影のある少女を見つけ特別な感情を抱くのであるが、その少女の呼び名がロリータである。ただし、この中年男性は若き日に若き己と年相応である相手へ恋愛感情を抱いた経験があり、その後その恋人と死別した経験が背景にあり、そうした特殊な事情の上で特定の少女に執着するものであって「単純に年の離れた者を性愛する嗜好」をもっていた例とはいえない。通常の成熟した人間の精神活動であれば、己が年をとるにしたがって、自分とともに生きていたとすればかつて愛した人もまた自分と同様に嬉しいこと悲しいことを重ねて自分と同様に年を重ねているだろうと、己と同じ人生経験を経た姿の恋人を思い描いて愛し続けるという選択肢も持つのであるが、この小説では死別が男の10代前半の時点で起きたこともあいまって、若き日の恋人の時をその時点でとめたイメージのまま抱き続けるという選択をし、その結果、恋人に似ている特定の少女に執着することになるものである。

しかし、現代日本においては、ロリータ・コンプレックスの男性といった場合、年相応の相手への恋愛感情を持てない男性、あるいは己とは年の離れた不特定多数の少女へ嗜好を向けることを意味する。

日本では1970年代後半頃から用いられ始め、1980年頃から急速に広まった。1960年代に欧米で流行したロリータ・シンドロームを日本ではロリータ・コンプレックスの名称で受け入れた。この名称の転換は、シンドローム(症候群)という言葉には当時きかれるようになった青い鳥症候群などのように意図せずにそうなっている状態をさすものという語感があり、大人の女性もいる中で意図して少女を志向する者を語る用語としてそぐわないこと、また、エディプス・コンプレックスなどと同じ類の精神分析用語としてとらえられたこと、そして、性的倒錯の一つという意味合いで劣等感(コンプレックス)という語感を当てたこと等による。当然、英語圏ではロリータ・コンプレックスという用語は使われていなかったが、2010年を過ぎて日本語でのrorikonを英語化した「lolicon」の語で海外でも使われるようになってきているという人がいるが、それは定かではない。

そのロリータ・コンプレックスという言葉が日本で使われるようになったきっかけは明確には判明していない。言葉自体は1969年に出版された『ロリータ・コンプレックス』(ラッセル・トレーナー)の邦訳が日本での初出とされているが、それは「少女が中年男性に関心を抱く」という意味で用いられているものであり、ここで説明している概念とは正反対のものである。1974年和田慎二が『キャベツ畑でつまずいて』のなかでロリータ・コンプレックスという言葉をすでに用いており、これが初出とは判明していないが、ここで説明している概念を表すものとしては初期の用例とされている[1]。また1972年澁澤龍彦は『少女コレクション序説』でロリコン現象を少女視点ではなく男性視点で捉えるべきではという意見を述べていて、これを現在の用法の発祥とする見解もある[1]

ロリコンは俗称であり明確な定義はなされていないが、一般に侮蔑語、差別語として使用されている傾向がある[2]。また実年齢による定義もないため、身体的に成熟しているかは主観的な判断をともない、ロリコンの対象と見なされる年齢は、新生児から成人以上にまで及ぶ可能性がある。例えば、日本ユニセフ協会は、インターネット・ホットラインセンターに寄せられた児童ポルノ関連の通報は「現行法の定義では『児童ポルノ』とされないものがその殆どと伺っております。」と報告している[3]

近年では、成人男性が未成年を性の対象とする傾向の総称として呼ばれている。

ロリコン・ブーム

ロリコンの対象となる幼女(少女)キャラクター

1970年代に少しずつ現れた少女ヌード写真集が一般書店の店頭に並べられ、1979年の『プティ・フェ』(石川洋司)や『Little Pretenders』(山木隆夫)のような話題作が発表されるようになる。

こうして1980年頃から幼少女への性愛を扱った表現が人気を集め、ロリコンという言葉は急速に一般化した。日活が「にっかつロマンポルノ」作品として1983年に『ロリコンハウス おしめりジュンコ』(青木琴美主演)を製作したことがある。漫画では内山亜紀の『ロリコン・ラブ』、あるいは吾妻ひでおが関わっていたことでも知られるロリコン系同人誌「シベール」の発行もこの頃である[4]。吾妻ひでおは内山亜紀と並んでしばしばロリコン漫画の旗手として称され、大塚英志もロリコン漫画の「テンプレート」をつくりあげた彼の功績を強調している[5]

この1980年頃から1984年頃までは「ロリコン・ブーム」と呼ばれ、多くの写真集・雑誌・特集本などが出版された。少女愛をおおぴらにすることはそれまでタブーとされていたが、このロリコン・ブームによってそれが「解禁」された。吾妻や米澤嘉博は漫画ファンの間ではロリコンという言葉がたびたび用いられていたと証言している[6]。劇画が主流となり可愛らしい少女キャラクターやラブコメにページが割かれることの少なかった時代にあって、ロリコンというテーマのもとでかつての正統的な少年漫画が「復権」した、と米澤はいう[6][7]。その一方で、それまで半ばタブー視されていたロリコンという言葉(あるいは概念)が表舞台に登場し、「金バッジのように」堂々と自分がロリコンであると宣言する人間まで現れるようになった[6]。ロリコンという概念が、今日でいう「萌え」に非常に近い、少女を精神的に愛しむ感覚のことを指していたのである[8]。例えば「アニメージュ」1982年4月号の付録は「ロリコン・トランプ」だった。ナボコフやキャロルといった文学を引き合いに出すことも可能なロリコンという言葉は、ある意味で「トレンディ」なものだったのである[9]。また、米澤によればこの言葉がアニメファンの間で流行したのは、宮崎駿監督作品「カリオストロの城」のヒロインであるクラリスの人気が非常に高まったことによるものであり[10]、具体的には1980年に発行されたファンジン(同人誌)「クラリス・マガジン」がその発端であるという説もある[10]

日本で最初のロリコン漫画雑誌は1981年12月創刊の「レモンピープル」(あまとりあ社)だとされている[11]。当時の主力作家はやはり内山亜紀と吾妻ひでおであった。米澤が注目するのは同誌の1982年8月号である。この号では、読者による誌上討論という形で「ロリコンにエロは必要か」というテーマの是非が争われていたのだ。ただし、ここでの「エロ」とはそれまで主流であった劇画調のエロティシズム描写のことである[12]。大塚英志はロリコン漫画とエロ劇画との最大の違いを「犯す主体」の喪失だとしている[13]

『レモンピープル』とともにそのようなロリコン誌として知られた『漫画ブリッコ』が1983年、それまで毎号掲載してきた少女ヌードの写真グラビアを読者からの不評によって廃止した。さらにはリアルな写実劇画からも決別して、より記号的な漫画をメインとする創作誌となっている。

漫画やアニメの幼女・少女キャラクターを自由に物語化して表現することも同人誌活動の間で普及していく。こうした現象は評論家の注目をひき、1983年、中森明夫は後に有名になる『おたくの研究』(『漫画ブリッコ』掲載)において、おたくを本質的にロリコンと評し、そのなかでも生身のアイドル少女に執着するものと、漫画やアニメの創作キャラクターなどに執着するグループに分けている。

少女性愛と少女婚

少女性愛

身体的な意味において

第一次性徴期・第二次性徴期の幼女・少女への性的嗜好は概ね小児性愛という異常性愛として考えられている。対して性的に成熟した女性への性愛は概ね、精神医学では性嗜好障害とされていない。外見的性的特徴のあらわれる時期を指すのが性徴期ということばであり、あらわれるとは特徴がみえはじめることを指すものであってすなわち性徴期は成熟にいたる段階であって成熟したことを示す呼び名ではない。生物学的には国や地域や時代においてかなりの差異があるものの、現代の先進国においてはほぼ十代後半の時点では女性の過半数は生理が始まっており、出産のための準備の開始が肉体的に始まっていることを示す。しかし、その時点では骨盤も小さく子宮も成熟したとはいえず、乳房に関しても20代になっても発育するなど身体的にも内臓的にも成熟途上にある。低年齢出産は高齢出産に比べて先天的な障害がおきにくいなどという人がいるがそれに医学的な根拠はまったくない。

90年代まで、少女グラビアやいわゆるポルノビデオなどでは10代と銘打っていても実際には法的なことともあいまって20代半ば以降の者がその仕事をしていた。つまりは、見る方は、タイトルとしての少女を見て、実際には身体的には成熟しきった女性を見ていたのである。2000年代においてイラストやフィギュア人形などで少女とタイトルづけて形作られる造形も、ムンクの描いた思春期の少女のような骨盤が成長し始めたばかりのくびれが少しできはじめたけれども乳房の未発達な少女体形や、骨盤と乳房が未発達ゆえのウエストがまっすぐな寸胴の幼児体型ではなく、成熟しきった乳房と発達した骨盤をもちウエストが著しくくびれた大人の女性の体形である。上のイラストで幼女(少女)とタイトルがつけられているものも、胸はふくらみ(ふくらみはじめといわれる段階ではあのように衣服をあきらかに持ち上げてわかる大きさであることはない)ウエストはくびれた、幼児とは似つかない体型である。

本来は幼児体型といった場合は寸胴であることを意味し身長や頭身は関係のない言葉であった。人体について、よく中世西洋美術の成人の理想である8頭身という言い方をするが、実際にはそれらはあくまで理想であって、西洋成人であっても5~7身がふつうである。メディアに出てくるような者は一般成人より理想にちかい自負をもっているのであって当然のごとく6~9頭身で一般成人よりは中世西洋美術の理想に近いといえる。人体研究においてなされてきた「幼児は成長したその人よりも身長における頭部の比率が大きい」という定義(すなわち、人間は、生まれてきた形をそのまま等倍して大きくなるものではないということ。わかりやすくいうと、現在身長180センチの成人がいるとする。その人が身長100センチの幼児だった時点の写真を1.8倍に拡大印刷しても、180センチのその人の体の比率にはならない、という研究。あくまで同じ人物における成長比率の定義である。)が、「他人より頭身が低いのが幼児である」という意味に誤用され、2000年代に、幼児体型とは背の低いもの、頭身の低いものという誤用が広まり始めた。そして、絵や人形で頭身を6頭身につくって8頭身でないから少女であるとしたり(実際には成人の平均が6頭身ほどである)、骨盤や乳房の発達した大人の体型を少女であるとして形づくることが行われ始めた。グラビアなどでも少女体型ではなくあくまで10代の年齢とされる者のうちの成人女性と変わらない体型のものが相変わらず支持されている。

精神的な意味において

高度化する現代社会において18歳未満の少女は精神的に未熟で、結婚し子供を産むという人生の岐路に立つには早すぎるとみなされている。先進国では、子供を労働力として見なさず、長期の義務教育を提供し(教育を受けさせる義務は日本において保護者にある)、その上の教育課程に進むことも半ば常態化しているため、18歳未満の女性を性欲の対象とすることには社会的な圧力がかかる。

少女婚

日本において、天皇家や将軍家は政略結婚の意味から男子は十代半ばのうちに元服し10代の女子をめとることがあった。記録にもそうしたことは残されており、それらから作られた物語もよく知られ、日本で広く知られている古典に『源氏物語』がある。そこでは10代前半で結婚することが行われているがそれらは平安皇族のなかでも特殊な政略結婚であり、当時の日本の皇族や貴族や一般においてそれが通常であったことを示すものではない。少女を愛する源氏が当初から帝になれない設定であったことにも注意が必要である。同様に、帝になるべく最高の薫育をもって育てられた冷泉帝は12歳と23歳の女性が入内して23歳の女性を選ぶことにも注意が必要である。源氏の父帝にしても亡き妻に似ている者を亡き妻が生きていたらこのように年をとっただろうとして亡き妻の年を超えても愛する。総じて、10代前半の結婚は低年齢ゆえにうまくいかない描写、10代前半の出産で命を落とす描写、帝になる登場人物は少女性愛とは遠い描かれ方をしている。

飢饉の頻発した江戸時代後期の東北地方における2つの村の宗門人別改帳において男子が28歳女子が24歳の時点で結婚しているものが27歳と23歳の時点より増えているから東日本全体が早婚の傾向にあり、西日本は晩婚の傾向にあったなどとする人がいる[14]が、27歳で結婚していたものたちがそのあとの一年間で離婚していなければ28歳の時点で結婚者が減りようがなく増えるのはあたりまえである。ちなみに、江戸時代、離婚することは大変なことで、縁切り寺に逃げ込んで離婚するといってもその寺も日本には2つしかなく、実質的に離婚は表向きな手続きをすることは不可能であった。すなわち、日本において東日本が早婚で西日本が晩婚であったという事実もなく、また、少女婚がごく当たり前に行われていたことも宗門人別改帳からはまったくうかがえない。

上記のように低年齢結婚は歴史的にもごく少数の限られた例しかなく、日本のみならず諸外国でも一部の王家の政略結婚などは低年齢で行われたがそれが一般的であったなどという事実はない。フランス・ロシア・ドイツ・イギリスなどの王政宮廷時代において政略結婚上10代前半から半ばでの結婚が見受けられそれらがよく知られているが、その夫婦仲はよくなかった、あるいは男より年上の愛妾との関係性のほうがよかったなどとして記録されているものが多いことにも注意が必要である。

イスラム教は性愛に対する戒律が厳しいが、人生の範たる教祖ムハンマドが人助けの意味合いで9歳の少女と結婚したという故事があり、それをもって、少女婚に関しては例外的に寛容であると語られることがあるが、そのことは少女性愛に寛容であることとは別である。現代人口増加政策を掲げる政府によって早婚が奨励されたことがある[15]が、これは16歳以上の結婚を意味しており、少女性愛や少女婚のすすめとは必ずしも一致しない。精神的に未熟な少女の子育ては困難が大きく、育児放棄や虐待につながりやすいともされる。現代の先進国では高等教育を受けないと経済的な基盤が不安定であるため、学業を中断することになる早婚が好ましいとはされない傾向がある。

ロリコンと社会

法的にはEUの一部のように法規制が緩やかな国もあれば、イギリスアメリカ合衆国カナダのように小児への性犯罪に厳しい態度(クリントン署名による法定強姦罪厳密適用令などで、かなりの州で18歳未満の児童との性交を強姦とみなすなど)をとる国まで、広がりがある。

ただし、禁忌の度合いと法規制は必ずしも直接的な関係にあるわけではない。これは、違法性において法益侵害と規範逸脱のいずれを重視するかが国により異なること、すなわち法体系の相違に起因する。例えば、日本では法益侵害を重視する学説が優勢であり、社会通念上重大なタブーである近親姦もこれ自体を犯罪として取り締まる法律はなく、近親婚を不許可とするのみである。それに対しコモンローを法基盤とする英米では社会規範からの逸脱を重く見る傾向がある。

日本における扱い

日本国外での流れを汲み、日本においても1980年代頃から次第に規制へと世論が傾きはじめた。1984年、国会で少女誌『ギャルズライフ』を取り上げ、少女向け性情報へ警戒を強めた。1985年から初期のPCゲームの性表現が批判され、ロリコン漫画も折に触れて批判を向けられた。直接の規制を被ったのは、まず、一般紙のグラビアに載るほどメジャーになっていた写真分野(少女ヌード)であって、1985年警察による無修正写真の禁止、1987年には雑誌『プチトマト』発禁事件、児童福祉法の強化による摘発で弱体化していった。

1985年頃から『週刊女性』など女性週刊誌、また一般誌ではロリコン表現に対して「少女がロリコンの欲望の餌食に」といったバッシング記事が載るようになっている。1980年代には「新人類」という言葉に象徴される世代間文化の断絶、自らの嗜好やファンタジーを突き詰めて「内閉的」とみえる文化を作り上げた特定の若者層への、一般社会からの漠然たる不安があった。

1989年以降、漫画・ゲームとも沙織事件のような実際の摘発事件も含めて、規制圧力と自主規制に公然と晒されるようになった。批判に対抗するため漫画表現を守るための団体も作られ、長く論議が続くことになる。写真分野は決定的な打撃を受け、1989年以降日本国内での生産が困難になり東南アジアロシアに撮影の場所を移したが、結局1999年児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律で壊滅、以降は性的な表現のないジュニアアイドル産業に場を譲った。しかし、小学生に小さなTバックの水着を着せてローアングルから撮影した「水着写真集」と名乗るDVDが販売されたりレンタルされた。児童ポルノと認定され摘発された事件もあり、一部店舗から撤去されたが、インターネットで流通が続いている。 それが機ともなり、法的整備を要求する声が起こり、ロリコン表現に対する法的規制が整備されつつある。また、規制が甘いと考える立場も少なくは無い。

一方、そういった社会的認識と動きに対して、マスコミによる否定的な放送は偏見であるという指摘が各所よりなされた。また統計的観点から、ロリコン表現が出現する以前の方が性犯罪被害児童の数はずっと多かった事を理由に、表現への過度の規制が批判されている[16][17]

脚注

  1. ^ a b 高月靖著(2009年) p.6, pp.32-33
  2. ^ 三浦 耕吉郎 『構造的差別のソシオグラフィ』 世界思想社、2006年。
  3. ^ 日本ユニセフ協会 お問い合わせ「本キャンペーンが規制を求めている『子どもポルノ』の具体的な定義について」を参照。
  4. ^ ただし「シベール」はすぐに廃刊となり、追随するファンジンは多く現れたものの、主流は「美少女もの」や「アニパロ」ジャンルになっていく 「おたくの本」別冊宝島(104)、1989年 p.105
  5. ^ 大塚(2004年) p.94
  6. ^ a b c 「月刊アウト」1982年3月号 p.60
  7. ^ 劇画からアニメへとヒロイン像が移行していた時期であった 「おたくの本」別冊宝島(104)、1989年 p.106
  8. ^ 米澤(2010年) p.279
  9. ^ 米澤(2010年) p.280
  10. ^ a b 「アニメージュ」徳間書店1982年5月号 p.126
  11. ^ 米澤(2010年) p.261
  12. ^ 米澤(2010年) p.275
  13. ^ 大塚(2004年) pp.92-94
  14. ^ 村山聡「記録され続けた世帯と個人の年齢」
  15. ^ イラン大統領が早婚奨励 「女性は16歳がベスト」(産経新聞2010.11.21配信)
  16. ^ http://kangaeru.s59.xrea.com/G-youjyoRape.htm
  17. ^ 警察庁「犯罪統計書」によれば、戦前のピーク時と比べて1990年前後には10分の1以下へと激減傾向であったが、表現の法的規制の強まりに合わせて2005年まで微増傾向に転換していた。

参考文献

  • 吾妻ひでおインタビュー「月刊アウト」3月号、みのり書房、1982年
  • 別冊宝島『おたくの本』(104)、1989年
  • 米澤嘉博『戦後エロマンガ史』青林工藝社、2010年
  • 大塚英志 『「おたく」の精神史 1980年代論』 講談社現代新書 2004年
  • 澁澤龍彦『少女コレクション序説』中公文庫、1985年ISBN 978-4122012004
    • なお、この書籍の元原稿は芸術生活に投稿されたエッセイであり、初出は1972年9月に遡る。
  • 高月靖著『ロリコン』バジリコ、2009年ISBN 978-4-86238-151-4

関連書籍

関連項目

性愛

文化

その他

外部リンク

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