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しかし[[慶長]]18年([[1613年]])、幕命により[[改易]]となった。表向きの理由は[[富田信高]]と[[坂崎直盛]]の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・[[坂崎左衛門]]が出奔したのを匿ったためとされている。身柄は長男・左京と共に[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主・[[立花宗茂]]にお預けの処分となった。 |
しかし[[慶長]]18年([[1613年]])、幕命により[[改易]]となった。表向きの理由は[[富田信高]]と[[坂崎直盛]]の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・[[坂崎左衛門]]が出奔したのを匿ったためとされている。表向きとは別に徳川政権になりつつある頃に、徳川幕府転覆の騒動 [[大久保長安事件]]が起きた、長安と縁戚になる大名はかなりの粛清を受けた、高橋元種も縁戚になることから改易になった。身柄は長男・左京と共に[[陸奥国|陸奥]][[棚倉藩]]主・[[立花宗茂]]にお預けの処分となった。 |
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[[慶長]]18年([[1613年]])12月~同19年([[1614年]])7月の間、[[縣藩]]は[[幕府]]預かりとなり、幕府上使の[[臼杵藩]][[稲葉氏]]と[[人吉藩]][[相良氏]]の管理下におかれる。 |
2008年9月12日 (金) 10:42時点における版
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
生誕 | 元亀2年(1571年) |
死没 | 慶長19年10月9日(1614年11月10日) |
別名 | 九郎(幼名)。右近大夫(通称)。知白、行長(別名) |
戒名 | 知伯宗進大居士 |
墓所 | 福島県東白川郡棚倉の常隆寺 |
藩 | 日向縣藩(延岡藩)主 |
氏族 | 秋月氏→高橋氏 |
父母 | 父:秋月種実、母:田原親広の娘 養父:高橋鑑種 |
兄弟 | 秋月種長、高橋元種 |
子 | 高橋左京、高橋長吉、高橋おかね |
高橋 元種(たかはし もとたね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。日向縣藩(のちに延岡藩)主。
生涯
元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生まれる。天正6年(1578年)に高橋鑑種の養子となる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐で降伏し、日向国縣(延岡)に5万3千石を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは兄・秋月種長と行動を共にして、9月15日の本戦で西軍が敗れると東軍に内応し、徳川家康から所領を安堵された。その後、縣城(有馬氏以降は延岡城)築城などを行なって藩政の基礎を固めることに尽力している。
しかし慶長18年(1613年)、幕命により改易となった。表向きの理由は富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれ、このときに直盛の甥・坂崎左衛門が出奔したのを匿ったためとされている。表向きとは別に徳川政権になりつつある頃に、徳川幕府転覆の騒動 大久保長安事件が起きた、長安と縁戚になる大名はかなりの粛清を受けた、高橋元種も縁戚になることから改易になった。身柄は長男・左京と共に陸奥棚倉藩主・立花宗茂にお預けの処分となった。
慶長18年(1613年)12月~同19年(1614年)7月の間、縣藩は幕府預かりとなり、幕府上使の臼杵藩稲葉氏と人吉藩相良氏の管理下におかれる。
慶長19年(1614年)10月9日、棚倉で死去。享年44。墓所は、棚倉流村常陸(隆)寺。五輪塔と位牌あり。法名は「知伯宗進大居士」。
長男の高橋左京(後に一斎)は、初め棚倉藩立花氏、次いで二本松藩丹羽氏に仕え、子孫も代々丹羽氏に仕える。貞享1年(1684年)年5月23日、82歳にて没。墓所は真言宗摩尼寳山遍照寺、法名は「萬休宗誾大居士」。次男の高橋長吉(七郎右衛門)は、留守家老花田備後守らと共に薩摩島津氏に身を寄せて家臣となり、後の鹿児島高橋氏の祖となる。娘(おかね)は立花宗茂旗本の本多内蔵介に嫁して2子をなし、離別の後、立花宗茂の養女となって家臣矢島左馬介に嫁いだ。
藩政
- 天正15年(1587年) 8月5日 豊臣秀吉、日向国諸藩に大名を再配置し、高橋元種には土持院300町など1787町を宛行う。
- 天正15年(1587年)11月 豊前国香春岳城(福岡県香春町)より高橋元種(17歳)が縣松尾城へ入る。
- 天正19年(1591年) 9月27日 中山城に拠る三田井氏・三田井親武を家老甲斐宗摂の協力を得て征服、高千穂地方の支配完了。続いて、岩戸大野原亀山城、河内鬼頭山城を落城させる。
- 文禄1年(1592年)4月12日 豊臣秀吉の第一次朝鮮出兵(「文禄の役」)に毛利吉成指揮下の第四軍(1万4000人)として慶尚道金海に上陸。
- 文禄3年(1594年) 石田三成、日向・大隅・薩摩を検地。高橋元種領、53000石となる。
- 慶長3年(1598年) 第二次朝鮮出兵(「慶長の役」)に参戦。延岡兵600名など、日向国全体では兵200名、黒田長政指揮下の第三軍(三番備え、1万人)に編成。
- 慶長5年(1600年)9月 関ケ原の戦いに西軍(石田三成)に属すして参戦するも、美濃国(岐阜県)大垣城守備時、東軍(徳川家康)に寝返り本領安堵となる。
- 慶長6年(1601年)縣城(現在の延岡城)建設に着工、慶長8年(1603年)秋に完成、更に縣城下町建設に着手する。
関連項目
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