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2008年5月4日 (日) 04:57時点における版
- リエージュ司教領
- Fürstbistum Lüttich (独)
Principauté de Liège (仏)
Prinsbisdom Luik (蘭)
Principåté d' Lidje (ワロン語) -
980年 - 1795年 → リエージュ司教領の国章 (国章)
1477年のリエージュ司教領
(中央のB.of Liègeの部分)-
公用語 フランス語、オランダ語、ドイツ語、ワロン語 首都 リエージュ
リエージュ司教領(リエージュしきょうりょう)もしくはリエージュ司教君主領(リエージュしきょうくんしゅりょう、独: Fürstbistum Lüttich)は、現在のベルギーに存在した神聖ローマ帝国のライン川下流と西ドイツ低地区域(Lower Rhenish-Westphalian Circle)の国であった。この地は、現在のベルギーのリエージュ州のほとんどとリンブルフ州、および周辺の飛び地を含んだ部分から構成されていた。首都はリエージュであり、ドイツ語ではLüttich、オランダ語では、Luikと呼ばれていた。
リエージュの司教は10世紀にリエージュの教区の一部に世俗的な支配権を得た。司教区は、次々と支配権を拡大していった。1096年にはブイヨン領(lordship of Bouillon)を(ここは、1678年にフランスに割譲された)、1366年にはローン伯領(county of Loon)を、1568年には現オランダ、ウェールト(Weert)近くにあるホールネ伯領(county of Horne)を拡大した。リエージュの司教領はネーデルラント17州や南ネーデルラントの一部ではなかったが、その統治はブルゴーニュ公爵や後のハプスブルク家により影響を受けた。
司教領はフランス革命軍の征服により1795年に解体された。その領土は3つの県に分けられ、ムーズ=アンフェリユール県(Meuse-Inférieure)、ウルト県(Ourthe)、サンブル=エ=ムーズ県(Sambre-et-Meuse)となった。
司教領で重要な都市(フランス語:bonnes villes)として、以下のものが存在した。 リエージュ、ベランガン(Beringen)、ビルゼン(Bilzen)、ボルグロン(Borgloon)、ブレー(Bree)、シャトレ(Châtelet)、シネー(Ciney)、クーヴァン(Couvin)、ディナン(Dinant)、フォッス・ラ・ヴィユ(Fosses-la-Ville)、アモン(Hamont)、アッセル(Hasselt)、ヘルク・ド・スタッド(Herk-de-Stad)、ユイ(Huy)、マーセイク(Maaseik)、ピール(Peer)、シント=トルイデン(Sint-Truiden)、ストッケン(Stokkem)、チュアン(Thuin)、トンヘレン、ヴェルヴィエ、ヴィセ(Visé)、ワレム(Waremme)。
マーストリヒトは、リエージュ司教君主領とブラバント公の両方の統治を受け入れた(後にネーデルラント連邦共和国の議会が置かれる)。
起源
この司教区の最初の首都はリエージュの北にあるトンヘレンであった。この領域は当初トリーア司教区に属しており、その後ケルン司教区に変更となった。4世紀の中頃、トンヘレンの司教区は自治の権利を手に入れた。領土はシヴィタス・トングロラム(トングレン領の意、Civitas Tungrorum)と等しく、1559年まで変化が無かった。これらの領域は、北にはユトレヒト司教区、東にはケルン司教区、南にはトリーア司教区とランス司教区、西にはカンブレー司教区まで広がっていた。このように、トンヘレンの司教区はシメー(Chimay)近傍のフランスから、スタブロ(Stavelot)、アーヘン、グラドバッハ(Gladbach)、ヴェルノ(Venlo)まで、アントウェルペン近郊のスモア(Semois)やエケレン(Ekeren)から、ソレン島やムールデイク(Moerdijk)のラテン語|ラテン人からゲルマン人の領域まで広がっていた。1559年にそれらの1636個の教区は、8人の副司教領、28の地方教区、直轄地、大聖堂参事会長領にまとめられた。
一部の領土は、最初の一世紀トンヘレンの司教に引き継がれた。しかし、最初の司教は聖セルヴァティウス(St. Servatius)で、344年もしくは345年に任命され、リミニ地方教区(Council of Rimini)より統治(359年~360年)し、384年頃に死亡した。406年の侵攻により司教区はバラバラとなり、その回復には長い時間がかかった。フランク族の改宗は、ファルコ(Falco)の元で進められた(6世紀の最初の50年)、そしてそれは、聖ドミティアヌス(St. Domitianus)、聖モヌルフス(St. Monulphus)、聖ゴンドゥルフス(Gondulphus)(6世紀から7世紀)に引き継がれた。聖モヌルフスは聖セルヴァティウスの墓として、豪勢な教会を建設した。そして、後継者の司教がその近くに住んだ。7世紀中は、司教は異教徒との争いに取り組んでいた。聖アマンドゥス(St. Amandus、647年~650年)は、その障害により司教の椅子を捨て、修道院を建設した。聖レマクルス(St. Remaculus、650年~660年)も同様に行った。聖テオダルド(St. Theodard、660年~669年)は死亡し、殉教者となった。
聖ランベルト(ランベール、St. Lambert、669年~700年)は、異教徒の改宗を完了した。705年頃、彼は当時はレウディクス村(Vicus Leudicus)と呼ばれていたリエージュにおいて祈祷中に、教会の財産を守るために近隣の領主により殺害された。その後、彼は殉教者とされた。後継者の聖フーベルトゥス(St. Hubertus)は、彼の遺骸を安置するために、都市の中心的な建物となったバシリカを建築した。そして、その近くに司教の住居を置いた。それでも、これらの司教はトングレンの教会の司教もしくはトングレンとリエージュの司教の形を貫いていた。アギルフリドゥス(Agilfridus、768年~784年)およびゲルバルドゥス(Gerbaldus、785年~810年)は両者とも、カール大帝により司教に任命された。ヒルカール(Hirchar)は初めて司教の宮殿を建築した。ノルマン人を破ったフランコ司教(Franco)はアイルランドの詩人セドュリウス・スコットゥス(Sedulius Scottus)により絶賛された。ステファヌス(Stephenus、908年~920年)、リカルド(Richard、920年~945年)、フーゴー(Hugo、945年~947年)、フロレベルト(Florebert、947年~958年)、ラテル(Rather)は修道院から選ばれて司教となった。作家であり作曲家であるステファヌスは、カトリック教会で三位一体の儀式と祭礼を行った人物である。ラテルは自分の時間全てで学問を究めた。ヘラクリウス(Heraclius)は959年に司教の地位に着き、4つの新しい教区の教会、一つの修道院、2つの協同教会を建築した。彼は、自分の司教区でモーサン芸術(Mosan art)として知られている大きな芸術活動を始めた。
司教君主領
リエージュの教会の支配領域は、自治領主への寄進とその司教が獲得する領土によって増加していった。ノジェ(Notger、972年~1008年)は、司教の地位についている期間に、領主としての領土の保持を認められ、彼自身が自治領主となった。この地位はフランス革命まで彼の後継者により引き継がれた。8世紀中は、リエージュの司教君主は神聖ローマ帝国に属していたものの、精神的なものより世俗的な支配権をもってその支配を維持し引き継いでいった。この事実上の独立はリエージュを支配する司教に大きな権力を与えた。その司教の元、フランスとドイツの間に置かれたリエージュ司教君主領は、いくつかの情勢では国際政治において重要な役割を担った。この司教君主領の創設者のノジェは、同様に彼の司教都市の創設者でもあった。彼は、聖ランベルトの大聖堂と司教の宮殿を再建し、ヘラクリウス(Heraclius)により始められた聖ポールの協同教会を完成させ、聖クロワ(Sainte-Croix)と聖ドニ(Saint-Denis)の2つの共同教会の建設を進め、福音記者ヨハネの教会も建設した。
この司教は、都市の教区の組織を強化した。彼は、万霊節の習慣を広めた最初の1人であった。この万霊節はこの司教君主領で正式の祭礼とされた。しかし、ノジェの統治における最も特筆すべき特徴はヘラクリウスの業績に続くほどの進歩であった。彼は教育を奨励した。これは、2人の司教とワゾン(Wazon)による貢献が大きい。「リエージュは1世紀以上もの間、国々の中で決して到達できないほどの科学的な地位を占めた。」「リエージュの学校は、実際に、その期間、文学的な点に焦点が当てられていた。」ローツのバルデリック(Balderic de Looz、1008年~1018年)、ウォルボドン(Wolbodon、1018年~1021年)、デュラン(Durand、1021年~1025年)、レジナール(Reginard、1025年~1038年)、ニタール(Nitard、1038年~1042年)、ワゾン、テオダン(Theoduin、1048年~1075年)はノジェの遺産を一生懸命維持を行った。学校はたくさんの優秀な学者を作り出し、ステファヌス10世とニコラウス2世の様なカトリック教会の教皇も送り出した。
ヴェルダンのアンリ(Henri de Verdun、1075年~1091年)の治世に、神の平和条約の違反を判断するための裁判所(tribunal de la paix)が設立された。オベール(Otbert、1091年~1119年)は国土の拡大を行った。彼はハインリヒ4世に忠実であり、ハインリヒ4世は、彼の客人として死亡した。ナミュールのアンリ(Henri de Namur、1119年~1121年)の非業の死は、彼を殉教者として崇拝されるようになった。ユーリヒのアレクサンドル(1128年~1134年)はリエージュで教皇(インノケンティウス2世)と神聖ローマ帝国皇帝(ロタール3世)と聖ベルナルドゥスの3人を歓迎した。ツェーリンゲンのラウールはベギン修道会の創設で名を残したベギンのランベルトによる記録が残されている。リエージュの学校がパリ大学に移動する時がやってきた。司教区はその大学に最初の博士を供給した。サン=ティエリーのギヨーム(Guillaume de Saint-Thierry)、リエージュのジェラール(Gérard de Liège)、フォンテーヌのゴドフロワ(Godfrey de Fontaines)、リエージュのアルジェ(Alger of Liège、1055年~1131年)はクリュニーのアルジェ(Alger de Cluny)あるいはアルゲルス・マギステル(Algerus Magister)として知られており、その時代の有名な知識人であった。彼はリエージュの聖バルトロマイ教会の助祭に任命され、最終的にはクリューニーの修道院へ退いた。
アルベロン1世(Alberon I de Louvain)は1191年のリエージュの司教に選ばれた、しかし、ハインリヒ6世は選挙に疑惑があるという口実を使い、ホッホシュターデンのロテール(Lothaire de Hochstaden)に謁見した。アルベロンの選挙結果は教皇により認められたが、1192年にランスにおいて3人のドイツ騎士に暗殺された。皇帝がこの暗殺に関与していると考えられており、この犠牲者は聖人に加えられた。1195年、キュイクのアルベール(Albert de Cuyck、1195年~1200年)はリエージュの人々の特権を正式に認めた。12世紀には、大聖堂の参事会は、司教との関係において重要な位置を占め、この国の歴史において重要な役割を果たした。
上流階級と下層階級の間の争いは、司教君主がしばしば介入し、13世紀と14世紀の間に拡大し、15世紀には司教都市の略奪と破壊で最高潮に達した。トゥロットもしくはラングルのロベール(Robert de Thourotte (Langres)、1240年~1246年)の治世に、リエージュのコルニヨン(Cornillon)の修道女である聖ジュリアーヌは、神の啓示により、聖餐のパンの祭礼を行うことべきだと進言した。いくらかのためらいがあったが、司教はこの考えを採用し、特別の儀式が行われた。しかし、司教の死はこの祭礼を定めることができなかった。この制定は、リエージュのドミニコ会の以前の修道院次長が司祭になるまで待つことになった。この人物は、ローマ教皇の使節として都市に戻ってきたサン=シェールのユーグ(Hugues Saint-Cher)であった。1252年ユーグはこの祭礼を彼の使節の権限により、義務の1つとみなした。トロワのジャン(Jean de Troyes)はリエージュでの副司祭の後、ウルバヌス4世の教皇に選ばれ、聖トマスにより作られた儀式を制定し、全ての教会でキリストの聖体の儀式を守ると言うことに拡大したリエージュにおける他の副司祭は、グレゴリウス10世の名の教皇の元で、地位にふさわしくないゲルデルンのアンリ(Henri de Gueldres、1247年~1274年)を退けた。ラ・マルクのアドルフ(Adolphe de La Marck、1313年~1344年)の治世、1316年に署名されたPeace of Fexheは、司教君主とその臣民の関係を調整した。それにもかかわらず、内輪もめは継続した。ホールネのアルノー(Arnould de Hornes、1378年~1389年)司教は、民衆の派閥の勝利により選ばれた。1366年ルーン伯領は、現在のリンブルフ州の大部分を含む司教君主領に併合された。ブルボンのルイ(Louis de Bourbon、1456年~1482年)は、司教君主領を欲しがっていたブルゴーニュ公の政治的な陰謀により司教位に就いた。シャルル突進公による1466年のディナン(Dinant)の破壊と1468年のリエージュの破壊は民主主義の優勢を終結させた。
ラ・マルクのエラール(Érard de La Marck、1505年~1538年)の治世は回復の期間であった。彼は芸術に対する聡明な保護を行っていた。彼は、宗教改革に対する抵抗を行い、彼の後継者もそれを引き継いだ。その宗教改革に対する抵抗で有名なのは、グルスベークのジェラール(Gérard de Groesbeek、1564年~1580年)である。この宗教改革に対する抵抗を助けるために、教皇パウルス4世は1550年5月12日の大勅書である "Super Universi" により、低地諸国に新たな司教領を設立した。この変更は、リエージュ司教領の財政に大きく影響を及ぼした。たくさんの教区がルールモン(Roermond)、ボワ・ル・デュク(Bois-le-Duc、現在のセルトーヘンボス('s-Hertogenbosch))、ナミュール司教領全体やメヘレンやアントウェルペンの司教領の一部を形成するために引き抜かれた。それによりリエージュの大聖堂参事会長領は13まで減少した。
17世紀の司教のほとんどは外国人であり、またほとんどは同時に司教区を統治した。彼らの頻繁な不在は、シルー(Chiroux)とグリニュー(Grignoux)の確執に自由な余地を与えた。それは、マクシミリアン・ハインリヒ・フォン・バイエルン(バイエルン公アルブレヒト6世の子、ケルン大司教、1650年~1688年)が1681年の勅令で停止させた。18世紀の中ごろ、フランスの百科全書派の考えがリエージュにおいても受け入れ始められていた。フェルブリュックのフランソワ=シャルル(François-Charles de Velbrück、1772年~1784年)は、布教を奨励し、リエージュ革命(Revolution Liégeoise)の基礎を作った。このリエージュ革命は、フンスブルックのセザール=コンスタンタン=フランソワ(César-Constantin-François de Hoensbroeck、1781年~1792年)の統治下の1789年8月18日に司教都市において爆発したものであった。
近代の司教領
最終的に司教君主領はフランスに併合され、他のベルギーの州と同じ運命を共有した。司教区も革命により姿を消した。司教君主の不均衡さは、1801年にナポレオンと教皇ピウス7世の間のコンコルダートにより確認された。新たな司教区は1802年4月10に設立され、フォレ県(フランス語:Forêts département)の教区と共にウルトとムーズ・インフェリウールの2つの県を含んでいた。1818年にリエージュはプロイセンに一部の領土を割譲して失った。ネーデルラント連合王国の成立後、司教区はリエージュとリンブルフより構成された。1838年5月6日、ファン・ボメル司教(Mgr Van Bommel)はリエージュ司教区を2つの司教区に分割した。1839年、司教区はリンブルフの教区を失った。ここには、1967年にオランダ語を話す人々により、新たなハッセルト(Hasselt)教区が創立された。現在のリエージュ司教区は、メヘレン=ブリュッセル大司教区に属しており、543人の司祭による525の教区(parish)からなり、2003年時点で1,023,506人の人口を持つ、そのほとんどがフランス語を話すワロン人で、ドイツ語を話すドイツ人は少数派である。現在の司教区の領域はリエージュ州と同一である。
リエージュの司教の一覧
リエージュの司教(315年頃 - 971年)
- マテルヌス(Maternus, 約315年)
- 聖セルヴァティウス(St. Servatius, 342年 - 384年)
- アラヴァティウス(Aravatius)
- ファルコ(FalkoもしくはFalco, 約498年 - 約512年)
- 聖ドミティアヌス(St. Domitianus, ? - 560年)
- エブリギスス(Ebrigisus)
- 聖モヌルフス(St. Monulphus, 549年 - 588年、リエージュの教会の創設者)
- 聖ゴンドゥルフス(St. Gondulphus, 589年 - 614年)
- 聖エブレギスス(St. Ebregisus, 614年 - 627年)
- 聖ヨハネス1世アグヌス(St. Johannes I Agnus, 627年 - 647年)
- 聖アマンドゥス(St. Amandus(647年 - 650年)
- 聖レマクルス(St. Remaclus, 652年 - 662年)
- 聖セオダルドゥス(St. Theodardus, 662年 - 669年)
- 聖ランベルトゥス(St. Lambertus, 669年 - 705年前後、司教領を守った聖人)
- 聖フベルトゥス(St. Hubertus, 705年前後 - 727年、都市を守った聖人)
- フロリベルトゥス(Floribertus, 727年 - 736年もしくは738年)
- フルカリウス(Fulcharius, 736年もしくは738年 - 769年)
- アギルフリドゥス(Agilfridus, 769年 - 787年)
- ゲルバルドゥス(Gerbaldus, 787年 - 809年)
- ヴァルトカウドゥス(Walcaudus, 809年 - 831年)
- ピラルド(Pirard, 831年 - 838年もしくは840年)
- ヒルカール(Hirchar, 838年もしくは840年 - 857年)
- フランコ(Franco, 858年 - 901年)
- ステファヌス(Stephenus, 901年 - 920年)
- リカルド(Richard, 920年 - 945年)
- フーゴー1世(Hugo I, 945年 - 947年)
- フロレベルト(Florebert, 947年 - 953年)
- ラテル(Rather, 953年 - 955年)
- バルデリック1世(Baldrick I, 955年 - 959年)
- ヘラクリウス(Heraclius, 959年 - 971年)
リエージュの司教君主(972年 - 1794年)
- ノジェ(Notger, 972年 - 1008年、リエージュの司教君主の創始者)
- バルデリック2世(Baldrick II, 1008年 - 1018年)
- ウォルボドン(Wolbodon, 1018年 - 1021年)
- デュラン(Durand, 1021年 - 1025年)
- レジナール(Reginard, 1025年 - 1037年)
- ニタール(Nithard de Liège, 1037年 - 1042年)
- ワゾン(Wazon, 1042年 - 1048年)
- テオダン(Theoduin de Bavière, 1048年 - 1075年)
- アンリ1世(Henry I de Verdun, 1075年 - 1091年)
- オベール(Otbert, 1091年 - 1119年)
- フレデリック(Frédéric de Namur, 1119年 - 1121年)
- アルベロン1世(Albéron Ier de Louvain, 1122年 - 1128年)
- アレクサンデル1世(Alexandre Ier, 1128年 - 1135年)
- アルベロン2世(Alberon II de Chiny-Namur, 1135年 - 1145年)
- アンリ2世(Henri II de Leez, 1145年 - 1164年)
- アレクサンデル2世(Alexandre II, 1164年 - 1167年)
- ツェーリンゲンのラウール(Raoul de Zaehringen, 1167年 - 1191年)
- リエージュのアルベール(Albert de Liège, 1191年 - 1192年)
- ホッホシュターデンのロテール(Lothaire de Hochstaden, 1192年 - 1193年)
- リンブルクのシモン(Simon de Limbourg, 1193年 - 1195年)
- キュイクのアルベール(Albert de Cuyck, 1195年 - 1200年)
- ピエルポンのユーグ(Hugues de Pierrepont, 1200年 - 1229年)
- エッペスのジャン(Jean d'Eppes, 1229年 - 1238年)
- サヴォワのギヨーム(Guillaume de Savoie , 1238年 - 1239年)
- トゥロットのロベール(Robert de Thourotte , 1240年 - 1246年)
- ゲルデルンのアンリ(Henri de Gueldre, 1247年 - 1274年)
- アンギャンのジャン(Jean d'Enghien, 1274年 - 1281年)
- フランドルのジャン(Jean de Flandre, 1282年 - 1291年)
- シャロンのユーグ(Hugues de Chalon, 1295年 - 1301年)
- ヴァルデックのアドルフ(Adolphe de Waldeck, 1301年 - 1302年)
- バールのティエボー(Thiébaut de Bar, 1302年 - 1312年)
- ラ・マルクのアドルフ(Adolphe de La Marck, 1313年 - 1344年)
- ラ・マルクのアングルベール(Englebert de La Marck, 1345年 - 1364年)
- アルケルのジャン(Jean d'Arckel, 1364年 - 1378年)
- ホールネのアルノー(Arnold of Hornes, 1378年 - 1389年)
- バイエルンのジャン(Jean III de Bavière, 1389年 - 1418年)
- ヴァランロードのジャン(Jean de Walenrode, 1418年 - 1419年)
- ハインスベルクのジャン(Jean de Heinsberg, 1419年 - 1455年)
- ブルボンのルイ(Louis de Bourbon, 1456年 - 1482年)
- ホールネのジャン(John of Hornes, 1484年 - 1505年)
- ラ・マルクのエラール(Érard de La Marck, 1505年 - 1538年)
- ベルゲのコルネイユ(Corneille de Berghes, 1538年 - 1544年)
- オーストリアのジョルジュ(Georges d'Autriche, 1544年 - 1557年)
- ベルゲのロベール(Robert de Berghes, 1557年 - 1564年)
- グルスベークのジェラール(Gérard de Groesbeek, 1564年 - 1580年)
- バイエルンのエルネスト(Ernest de Bavière, 1581年 - 1612年)
- バイエルンのフェルディナン(Ferdinand de Bavière, 1612年 - 1650年)
- バイエルンのマクシミリアン=アンリ(Maximilian Henri de Bavière, 1650年 - 1688年)
- エルドランのジャン=ルイ(Jean-Louis d'Elderen, 1688年 - 1694年)
- バイエルンのジョゼフ=クレマン(Joseph-Clément de Bavière, 1694年 - 1723年)
- ベルゲのジョルジュ=ルイ(Georges-Louis de Berghes, 1724年 - 1743年)
- バイエルンのジャン=テオドール(Jean-Théodore de Bavière, 1744年 - 1763年)
- ウルトルモンのシャルル=ニコラ(Charles-Nicolas d'Oultremont, 1763年 - 1771年)
- フェルブリュックのフランソワ=シャルル(François-Charles de Velbrück, 1772年 - 1784年)
- フンスブルックのセザール=コンスタンタン=フランソワ(César-Constantin-François de Hoensbroeck, 1784年 - 1792年)
- メアンのフランソワ=アントワーヌ=マリー(François-Antoine-Marie de Méan, 1792年8月18日 - 1794年7月20日)
リエージュの司教(1802年 - 現在)
- ジャン=エヴァンジェリスト・ザッフェル(Jean-Évangéliste Zäpfel, 1802年 - 1808年)
- 空位(1808年 - 1829年)
- コルネイユ・リシャーヌ・アントワーヌ・フォン・ボメル(Corneille Richard Antoine von Bommel, 1829年 - 1852年)
- テオドール・ジョゼフ・ド・モンペリエ(Theodor Joseph de Montpellier, 1852年 - 1879年)
- ヴィクトル・ジョゼフ・ドゥテルルー(Victor Joseph Douterloux, 1879年 - 1901年)
- マルタン=ユベール・リュタン(Martin-Hubert Rutten, 1902年 - 1927年)
- ルイ=ジョゼフ・ケルホフ(Louis-Joseph Kerkhofs, 1927年 - 1961年)
- ギヨーム・マリー・ヴァン・ジュイラン(Guillaume Marie van Zuylen, 1961年 - 1986年)
- アルベール・ウシオー(Albert Houssiau, 1986年 - 2001年)
- アロワ・ジュスタン(Aloys Jousten, 2001年 - )