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家康が[[1600年]]の[[関が原の戦い]]に勝利して天下人となり、[[1603年]]に[[征夷大将軍]]に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸[[大名]]の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の[[#江戸の都市計画|江戸の都市計画]]の章で述べる。 |
家康が[[1600年]]の[[関が原の戦い]]に勝利して天下人となり、[[1603年]]に[[征夷大将軍]]に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸[[大名]]の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の[[旗本]]・[[御家人#近世の御家人|御家人]]などの[[武士]]が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の[[#江戸の都市計画|江戸の都市計画]]の章で述べる。 |
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[[1657年]]の[[明暦の大火]]の後、再建事業によって市域は[[隅田川]]を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が100万人を超え、世界有数の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地域である[[上方]]と東日本を結ぶ中継市場として経済的な重要性も増した。18世紀末から[[19世紀]]始めには上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、農村からはじき出された余剰人口が江戸に流入したことは都市に貧民の階層を拡大させ、さまざまな都市問題が露呈することにもなった。 |
[[1657年]]の[[明暦の大火]]の後、再建事業によって市域は[[隅田川]]を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、[[18世紀]]初頭には人口が100万人を超え、八百八町といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地域である[[上方]]と東日本を結ぶ中継市場として経済的な重要性も増した。18世紀末から[[19世紀]]始めには上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や[[参勤交代]]を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、農村からはじき出された余剰人口が江戸に流入したことは都市に貧民の階層を拡大させ、さまざまな都市問題が露呈することにもなった。 |
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=== 江戸から東京へ === |
=== 江戸から東京へ === |
2005年3月5日 (土) 14:13時点における版
江戸(えど)は、おおよそ現在の東京中心部にあたる地域の古称である。
江戸時代には江戸幕府の所在地として、日本の政治的中心地であった。江戸城は徳川氏の将軍の居城であり、江戸は幕府の政庁が置かれる日本の事実上の首府であると同時に、自身も天領と呼ばれる所領を支配する一封建領主でもある徳川氏(徳川将軍家)の城下町でもあった。明治時代に東京と改名され、東京府、東京市、東京都へと変遷する。
江戸の町は、大きくわけて見ると江戸城の西に広がる山の手の武家屋敷と、東の隅田川をはじめとする数々の河川・堀に面した庶民の町(下町)に大別される。川・堀の水路網と蔵は江戸を象徴する町並みの特徴であり、蔵造りの町並みが残された埼玉県川越市、栃木県栃木市、千葉県佐原市などの関東の河港都市は、江戸に似た町ということから「小江戸」と呼ばれている。
歴史
徳川氏以前の江戸
「江戸」という言葉は鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見で、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられている。
地名の語源は諸説あるが、江は川あるいは入り江のこととすると、戸は入り口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力である。当時の江戸は、武蔵国と下総国の国境である墨田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入り江がのちの江戸城の間近に入り込んでいた。
江戸の開発は、平安時代後期に武蔵国の秩父地方から出て河越から入間川(現荒川)沿いに平野部へと進出してきた桓武平氏秩父党の一族によって始められた。11世紀に秩父氏から出た江戸重継は、江戸の桜田(のちの江戸城)の高台に居館を構え、江戸の地名をとって江戸太郎を称し、江戸氏を興す。江戸氏は1180年に源頼朝が挙兵したときすでに武蔵国内の最有力の武家のひとつとなっており、はじめ頼朝と対立して頼朝方の三浦氏を討ったが、のちに和解して鎌倉幕府の御家人となった。鎌倉幕府が滅びると江戸氏は南北朝の騒乱においてはじめ新田義貞に従って南朝方につき、のちに北朝に帰順して鎌倉公方に仕えるが、室町時代に次第に没落し、本拠地を多摩郡喜多見(現在の世田谷区喜多見)に移した。
かわって江戸の地には、関東管領上杉氏の一族扇谷上杉家の有力な武将であり家老であったる太田資長(のちの太田道灌)が入り、江戸氏の居館跡に江戸城を築く。江戸城は、一説には1456年(長禄2)築城をはじめ、翌年完成したという。太田資長は1478年(文明10)に剃髪し道灌と号し、1486年(文明18)に没するまで江戸城を中心に南関東一円で活躍した。道灌の時代、現在の神田川および日本橋川の前身である平川が隅田川に流れ込むあたりに城下町が形成され、江戸は関東の水運・陸運の中心地として発展を始めた。道灌の死後、扇谷上杉氏の衰亡とともに、江戸城は後北条氏の支城となった。
徳川時代の江戸
1590年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられた徳川家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定めた。同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は江戸に入府するが、このときの江戸城は老朽化した粗末な城であったという。家康は江戸城を応急措置に留めて城下町の建設を進め、山を削り、江戸湾(東京湾)を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置した。突貫工事であったために、埋め立て当初は地面が固まっておらず、乾燥して風が吹くと、ものすごい埃が舞い上がるというありさまだったと言われる。
家康が1600年の関が原の戦いに勝利して天下人となり、1603年に征夷大将軍に任ぜられると、幕府の所在地として江戸の政治的重要性は一気に高まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。一方、江戸城とその堀が幕府から大名に課せられた普請によって整備され、江戸城は巨大な堅城に生まれ変わり、城と武家屋敷を取り巻く広大な惣構が構築された。都市開発の歴史については後の江戸の都市計画の章で述べる。
1657年の明暦の大火の後、再建事業によって市域は隅田川を超え、東へと拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が100万人を超え、八百八町といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げた。人口の増大は江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場、経済的先進地域である上方と東日本を結ぶ中継市場として経済的な重要性も増した。18世紀末から19世紀始めには上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらした。一方で、農村からはじき出された余剰人口が江戸に流入したことは都市に貧民の階層を拡大させ、さまざまな都市問題が露呈することにもなった。
江戸から東京へ
1868年、戊辰戦争が起こり、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、官軍の大軍が江戸に迫り、江戸は戦火にさらされる危険に陥った。幕臣勝海舟は早期停戦を唱えて官軍を率いる西郷隆盛と交渉、最後の将軍徳川慶喜は江戸城の無血開城し降伏、交戦派と官軍の間の上野戦争を例外として、江戸は戦火を免れた。
同年、江戸は東京と名を改められ、翌1869年に旧江戸城に明治天皇が入って「皇城」とされて、かつての将軍の居住する都江戸は、天皇の居住する都、東京となった。東京の町並みが東京市、東京都へと変遷しつつ拡大してゆく過程で、かつての江戸は都心となり、その中核としての役割を果たしている。
都市
江戸の範囲
江戸の地名で呼ばれる地域は、もともとは平安時代に存在した荏原郡桜田郷(江戸城の西南)の一部であったが、やがて豊嶋郡江戸郷と呼ばれるようになっていた。
江戸時代前期頃の江戸の範囲は、現在の東京都千代田区とその周辺のみであり、江戸城の外堀はこれを取り囲むよう建造された。江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、後に地図上の朱引きで示されるようになった。明暦の大火以後、その市街地は拡大。通称「八百八丁」と呼ばれるようになる。
江戸は、江戸後期に現在の、千代田区・中央区・港区・新宿区の東側(四谷付近まで)・文京区・台東区・墨田区・江東区の辺り、のちの東京市の内十五区部分ぐらいまで広がったといわれている。
以下に江戸に含まれる主な歴史的地名をあげる。
都市計画
一般に、徳川家康が江戸に入府したとき、江戸城の一帯は海辺の寒村で荒れ野原であったという話がよく知られているが、そのような物語はまったくの伝説に過ぎないようである。実際にはすでに触れたように江戸の地は平安時代末期から関東南部の要衝であったし、太田道灌は、現在の神田川の前身である平川が、江戸城の西で現在の丸の内・日比谷一帯にあった日比谷入江に流れ込んでいたのを隅田川に流れ込むように改修、すなわち現在の日本橋川の流路を通すようにした。この改修により高橋、芝崎と呼ばれる平川の河口付近は江戸湾から海船と隅田川からの利根川・荒川水系の川船が寄港できる港町となり、江戸は南関東の交通の要衝となっていた。確かに徳川氏の記録が伝えるように、後北条氏時代の江戸城は最重要な支城とまではみなされず城は15世紀の粗末なつくりのまま残されていたが、関八州の首府となりうる基礎はすでに存在していた。
しかし、江戸が都市として発展するためには、平川の南、日比谷入江の東、隅田川河口の西にあたる江戸前島と呼ばれる砂州を除けば、城下町をつくるために十分な平地が存在しないことが大きな障害となる。そこで徳川氏は、まず江戸城の大手門から平川(のちの呉服橋門付近)まで道三堀を穿ち、そこから出た土で日比谷入江の埋め立てを開始した。道三堀は墨田川河口から平川を経て江戸城の傍まで、城の建造に必要な木材や石材を搬入するために活用され、平川と道三堀の左右に舟町が形成された。また、元からあった平地である平川の北岸、常盤橋門外から日本橋の北に最初の町人地が設定された。これが江戸本町、今の日本銀行本店や三越本店がある一帯である。さらに元からあった周辺集落である南の芝、北の浅草や西の赤坂、牛込、麹町にも町屋が発展した。
江戸は「の」の字形に設計されたことが一般の城下町と比べて特異であるといわれる。つまり、江戸城の本城は大手門から和田倉門、馬場先門、桜田門の内側にある本丸、二の丸、西の丸などの内郭に将軍、次期将軍となる将軍の世子、先代の将軍である大御所が住む御殿が造られ、その西にあたる半蔵門内の吹上に将軍の親族である御三家の屋敷が置かれた。内城の堀の外は東の大手門下から和田倉門外に譜代大名の屋敷、南の桜田門の外に外様大名の屋敷と定められ、西の半蔵門外から一ツ橋門、神田橋門外に至る台地に旗本・御家人が住まわされ、さらに武家屋敷地や大名屋敷地の東、常盤橋・呉服橋・鍛冶橋・数寄屋橋から隅田川、江戸湾に至るまでの日比谷埋立地方面に町人地が広げられた。これを地図で見るとちょうど大手門から数寄屋橋に至るまでの「の」の字の堀の内外に渦巻き上に将軍・親藩・譜代・外様大名・旗本御家人・町人が配置されている形になる。
家康の死後、2代将軍徳川秀忠は、江戸の北東の守りを確保するため、小石川門の西から南に流れていた平川をまっすぐ東に通す改修を行った。今の水道橋から万世橋(秋葉原)の間は本郷から駿河台まで伸びる神田台地があったためこれを掘り割って人口の谷を造って通し、そこから西は元から神田台地から隅田川に流れていた中川の流路を転用し、浅草橋を通って隅田川に流れるようにした。これが江戸城の北の外堀である神田川である。この工事によって太田道灌以来の平川下流であった一ツ橋、神田橋、日本橋を経て隅田川に至る川筋は神田川(平川)から切り離され、江戸城の堀となった。この堀が再び神田川に接続され、神田川支流の日本橋川となるのは明治時代のことである。さらに3代将軍徳川家光はこれまで手薄で残されてきた城の西部外郭を固めることにし、溜池や神田川に注ぎ込む小川の谷筋を利用して溜池から赤坂、四ッ谷、市ヶ谷を経て牛込に至り、神田川に接する外堀を造らせた。全国の外様大名を大動員して行われた外堀工事は1636年に竣工し、ここに御成門から浅草橋門に至る江戸城の「の」の字の外側の部分が完成した。
城下町において武家地、町人地とならぶ要素は寺社地であるが、江戸では寺社の配置に風水の思想が重視されたという。そもそも江戸城が徳川氏の城に選ばれた理由のひとつには江戸の地が四神相応にのっとっていたことがあるとされるが、関東の代表的な怨霊である平将門を祭る神田明神は大手門前(現在の首塚周辺)から、江戸城の鬼門にあたる駿河台へと移され、江戸惣鎮守として奉られた。また江戸城の建設にともなって城内にあった山王権現(現在の日枝神社)は裏鬼門である赤坂へと移される。さらに家康の帰依していた天台宗の僧天海が江戸城の鬼門にあたる上野忍岡を拝領、京都の鬼門封じである比叡山に倣って堂塔を建設し、1625年に寛永寺を開山した。寛永寺の山号は東叡山、すなわち東の比叡山を意味しており、寺号は延暦寺と同じように建立時の年号から取られている。
江戸は海辺を埋め立てて作られた町のため、井戸を掘っても真水を十分に得ることができず、水の確保が問題となる。そこで赤坂に元からあった溜池が活用されるとともに、井の頭池を水源とする神田上水がつくられた。やがて江戸の人口が増えてくるとこれだけでまかないきれなくなり、水の不足が深刻になってきた。このためにつくられた水道が1653年完成の玉川上水である。水道は江戸っ子の自慢のものの一つで、「水道の水を産湯に使い」などと言う言葉が人口に膾炙する。
1640年には江戸城の工事が最終的に完成し、江戸の都市建設はひとつの終着点に達した。しかし、1657年に明暦の大火が起こると江戸の町は大部分が焼亡し、江戸城天守閣も炎上してしまった。幕府はこれ以降、火事をできるだけさまたげられるよう都市計画を変更することになった。これまで吹上にあった御三家の屋敷が半蔵門外の紀尾井町に移されるなど大名屋敷の配置換えが行われ、類焼を防ぐための火除け地として十分な広さの空き地や庭園が設けられた。
大名屋敷が再建され、参勤交代のために多くの武士が滞在するようになると、彼らの生活を支えるため江戸の町は急速に復興するが、もはや外堀内の江戸の町は狭すぎる状態だった。こうして江戸の町の拡大が始まり、隅田川の対岸、深川・永代島まで都市化が進んでいった。南・西・北にも都市化の波は及び、外延部の上野、浅草が盛り場として発展、さらに外側には新吉原遊郭が置かれていた。
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