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「孟子」の版間の差分

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=== 四端 ===
=== 四端 ===
孟子は人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳をに根拠付けた。
孟子は人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳を誰もが持っている4つに根拠付けた。


その説くところによれば、人間には本性として「四端」(したん)が存在する。「四端」とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間のつの徳に到達すると言うのである。だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性があると主張する。
その説くところによれば、人間には誰でも「四端」(したん)が存在する。「四端」とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると言うのである。だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性があると主張する。


ここから、為政者が自分の家族を愛する心をもっと遠くにまで及ぼして、国家の親として家臣や人民にまで仁政を心がけさえすれば国が良く治まると言う主張となり、すなわち'''徳治主義'''が統治として最適であると考える。逆に君主たるもの必ず仁政を目指さなくてはならないのであって、それを怠る君主は人の上に立つ資格がないことになる。これが、革命すら肯定する民本思想につながる。
ここから、為政者が自分の家族を愛する心をもっと遠くにまで及ぼして、国家の親として家臣や人民にまで仁政を心がけさえすれば国が良く治まると言う主張となり、すなわち'''徳治主義'''が統治として最適であると考える。逆に君主たるもの必ず仁政を目指さなくてはならないのであって、それを怠る君主は人の上に立つ資格がないことになる。これが、革命すら肯定する民本思想につながる。
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=== 王覇 ===
=== 王覇 ===
孟子は古今の君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると説いた。


孟子によれば、覇者とは武力によって仁であるかのように見せかける者であり、そのため大国でなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者について全否定はしないものの、「[[春秋五覇|五覇]]は[[三王]](夏の禹王と殷の湯王と周の文王または武王)の罪人なり。今の[[諸侯]]は五覇の罪人なり。今の大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて5人の覇者や当時群雄割拠していた諸侯たちを痛烈に批判し、堯・舜や三王の「先王の道」(王道)を行うべきだと主張したのである。
=== 仁内義内 ===


== 孟子と荀子 ==
== 孟子と荀子 ==

2007年3月12日 (月) 14:18時点における版

孟子
生誕 紀元前372年?
死没 紀元前289年
時代 中国・戦国時代
地域 東洋哲学
学派 儒教
研究分野 政治哲学、倫理学、他多数
主な概念 仁義、性善、四端、王覇
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孟子もうし 紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代中国儒学者子輿。あるいはその言行をまとめた書。儒教では孔子と並ぶ重要な人物であり、そのため儒教は別名「孔孟の教え」とも呼ばれる。性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した。

書名は『毛詩』と区別するため「もうじ」と発音し、人名は「もうし」と発音するのが日本での習慣だが、近年は書名の場合でも「もうし」と発音することが多い。なお現代中国語では、「孟子」は「Meng zi」、『毛詩』は「Mao shi」と発音する。

経歴

孟子はの人で、その母が孟子を育てた時の話が有名である。最初は墓地の近くに住んでいたが、やがて孟子が葬式の真似事を始めたので母は家を移した。移った所は市場の近くで、やがて孟子が商人の真似事を始めたので母は再び家を移した。次に移った所は学問所の近くで、やがて孟子が学問を志すようになったので母はやっと安心したという。この話は孟母三遷として知られ、史実ではないとされているが、子供の育成に対する環境の影響に関して良く引き合いに出される。他にも孟母断機の故事で知られている。

母の元を離れて孔子の孫の子思の門人の下で学んだ。子思に直接学んだという説もあるが、それだと年代に少し無理がある。後に、などで遊説して回ったが、その言説は君主には受け入れられず、郷里に戻り弟子の育成に努め、併せて著作活動に入った。

孟子の思想

仁義

孔子はを説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。魏の恵王に国を強くするのにはどうすれば良いかと聞かれたときに、孟子は「仁者は無敵なり」と言った。君主が仁政さえ行なえば、相手がどんなに大国でこちらが小国であろうとも負ける事は無いと説いたのである。

性善

詳しくは性善説参照のこと。

その名の通り、人間は生まれながらにして善であるという思想である。

当時墨家告子は、人の性には善もなく不善もなく、そのため文王武王のような明君が現れると民は善を好むようになり、幽王厲王のような暗君が現れると民は乱暴を好むようになると説き、またある人は、性が善である人もいれば不善である人もいると説いていた。これに対して孟子は、「人の性の善なるは、猶(なお)水の下(ひく)きに就くがごとし」と述べ、人の性は善であり、どのような聖人も小人もその性は一様であると主張した。また性が善でありながら人が時として不善を行うことについては、この善なる性が外物によって失われてしまうからだとした。そのため孟子は、「大人(たいじん、大徳の人の意)とは、其の赤子の心を失わざる者なり」(離婁章句下)、「学問の道は他無し、其の放心(放失してしまった心)を求むるのみ」(告子章句上)とも述べている。

四端

孟子は人の性が善であることを説き、続けて仁・義・礼・智の徳を誰もが持っている4つの心に根拠付けた。

その説くところによれば、人間には誰でも「四端」(したん)が存在する。「四端」とは「四つの端緒」という意味で、それは「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(譲ってへりくだる心)・「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)と定義される。この四端を努力して拡充することによって、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達すると言うのである。だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性があると主張する。

ここから、為政者が自分の家族を愛する心をもっと遠くにまで及ぼして、国家の親として家臣や人民にまで仁政を心がけさえすれば国が良く治まると言う主張となり、すなわち徳治主義が統治として最適であると考える。逆に君主たるもの必ず仁政を目指さなくてはならないのであって、それを怠る君主は人の上に立つ資格がないことになる。これが、革命すら肯定する民本思想につながる。

民本

これは孟子の「民を尊しと為し、社稷がこれに次ぎ、君を軽しと為す」という言葉によく表れている。つまり政治にとって人民の生活が最も大切で、次に社稷(王朝)が来て、その時の君主などは軽いと宣言しているのである。上に述べたように、孟子は「仁政を行なってこその君主である」という考えを持つ。だから仁政を行なわないで私利私欲に走る君主は、孟子によれば家臣から見て「寇讎」(仇か敵)であるとさえ言う。そのような君主は、殷の紂王のように討伐されても仕方がないとまで断言するのである。これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主達に孟子の思想が受け入れられない原因となった。絶対的な権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分達の地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかった。しかし、孟子は君主の地位ですら家臣に乗っ取られる下克上の時代において、君主が下の者によく配慮しなければ危ないという指摘をしたまでである。孟子の革命肯定思想は、後世において王朝交代を神秘論的に根拠付けた易姓革命説に発展する。

革命

孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の革命説の原型をなしている。

孟子によれば、は天下を天から与えられて天子となったのであり、から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下を遣り取りすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断されるのである。

また、(商)の湯王桀王を追放し、武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜならば、いくら桀紂が天子の位にあったとはいえ、仁義のない「残賊」にすでに天命はなく、ただの民と同じだからである。

このように、孟子の天命説は武力による君主の放伐さえも容認するものであった。しかしながら、孟子は革命の首唱者であっても革命家ではなかった。その天命説も放伐を煽動するのではなく、むしろ規制するためのものであったといえるだろう。

天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、が崩ずると賢者のでなくその子が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐・虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。

孟子が湯武の放伐を正当化したのは、あくまでそれが天命によってなされたからであり、もし天命によっていなければ、つまり君主が不仁不義でなければただの簒奪となる。周王室の力が衰え、各地で君主が臣下に国を乗っ取られる乱世にあって、孟子はその下剋上に道徳性を求めたと見るべきだろう。

王覇

孟子は古今の君主を「王者」と「覇者」とに、そして政道を「王道」と「覇道」とに弁別し、前者が後者よりも優れていると説いた。

孟子によれば、覇者とは武力によって仁であるかのように見せかける者であり、そのため大国でなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者について全否定はしないものの、「五覇三王(夏の禹王と殷の湯王と周の文王または武王)の罪人なり。今の諸侯は五覇の罪人なり。今の大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて5人の覇者や当時群雄割拠していた諸侯たちを痛烈に批判し、堯・舜や三王の「先王の道」(王道)を行うべきだと主張したのである。

孟子と荀子

孟子の対立思想として、荀子性悪説がよく挙げられる。しかし孟子は人間の本性として先の「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(きんじゅう。ケダモノの意)同然の存在だと言う。決して人間は放っておいても仁・義・礼・智の徳を身に付けるとは言っていず、そのため学問をして努力する君子は禽獸同然の人民を指導する資格があるという主張となる。一方荀子は人間の本性とは欲望的存在であるが、学問や礼儀という「偽」(こしらえもの、人為の意)を後天的に身に付けることによって公共善に向うことができると主張する。すなわち、両者とも努力して学問することを通じて人間がよき徳を身に付けると説く点では、実は同じなのである。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な人間中心主義に終始したのに対して、荀子は君主がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによってそのまま法家思想となっていった。

後世の評価

以下は、中国語版ウィキペディアからの引用。

孟子は儒家の最も主要な代表的人物の一人である。しかし、孟子の地位は宋代以前にはあまり高くなかった。中唐時代に韓愈が『原道』を著して、孟子を戦国時代の儒家の中で唯一孔子の“道統”を受け継いだという評価を開始し、こうして孟子の「昇格運動」が現れた。以降孟子とその著作の地位は次第に上昇していった。北宋時代、神宗煕寧4年(1071年)、『孟子』の書は初めて科挙の試験科目の中に入れられた。元豊6年(1083年)、孟子は初めて政府から“鄒国公”の地位を追贈され、翌年孔子廟に孔子の脇に並置して祭られることが許された。この後『孟子』は儒家の経典に昇格し、南宋時代の朱熹はまた『孟子』の語義を注釈し、『大学』、『中庸』と並んで「四書」と位置付け、さらにその実際的な地位を「五経」の上に置いた。代の至順元年(1330年)、孟子は加えて“亜聖公”に封じられ、以後“亜聖”と称されるようになり、その地位は孔子に次ぐとされたのである。

書物としての孟子

書としての『孟子』は儒教教典の四書五経の1つで、孟子とその弟子達によって著されたとされている。七篇よりなる。

日本における孟子

日本にも『孟子』は持ち込まれたが、「易姓革命」の概念が受け容れられず、あまり流布しなかった。これは、移り変わっていく中国の政権と異なり、日本の天皇家は政治体制の変動にもかかわらず(形式だけでも)頂点にあり続けたために、矛盾が発生してしまうためであると考えられる。俗に「『孟子』を乗せた船は、日本につく前に沈没する」とも言われていたと伝わる。

しかし江戸時代には朱子学が官学とされたことによって『孟子』の研究は盛んに行なわれ、伊藤仁斎などが優れた注釈を行なっている。幕末の志士の吉田松蔭は『孟子』を深く研究し、講義書として『講孟箚記(こうもうさっき)』を著した。ただし松蔭は、孟子の易姓革命論を否定したことはもちろんである。

なお赤穂浪士のひとり、武林唯七は孟子の子孫であると伝わる。豊臣秀吉朝鮮出兵の際にの従軍医であった孟二寛が日本に連行され、武林氏を名乗ったものである。

外部リンク

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