Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/笠懸 20130619
選考終了日時:2013年7月19日 (金) 14:05 (UTC)
- 除去 出典は示されていますが、出典リンクが皆無です。2009年10月からTemplate:参照方法が貼られたままです。
内容自体は悪くないと思いますがまた、主題および参考文献の量から考えて、GAとするには情報量が足りないように思います。2007年7月にGAに選出された記事のようですが、現在のGAの基準は満たしていないようです。--Uttiee56(会話) 2013年6月19日 (水) 14:05 (UTC) - 除去 出典・分量ともに現在の良質な記事の水準としては厳しいかと。--頭痛(会話) 2013年6月20日 (木) 09:39 (UTC)
- もう少し具体的に述べます。例えば導入部以下で流鏑馬との比較が書かれていますが、流鏑馬より略式になっているというだけで具体的なことが何も書かれておらず、流鏑馬を読みあわせないと違いが理解できない形になっています。歴史の流れはこれ以上詳細に書きうるものなのか私にはわかりませんが、鎌倉時代に最盛期を迎えたのであれば「各地で行われた」だけでなく、その様相がもっと(例えば文献に触れるなどして)具体的に記述されるべきでしょう。主な流派として挙げられている武田流、小笠原流についてもそれぞれどのような作法の違いがあるのか、それぞれの流派がどのように「主な流派」であるのか(どのように普及しているのか)、といったあたりはもっと記述できるのではないでしょうか。「文献での登場」節もそれぞれの文献がどのような性質の文献であるのか、あらかじめ知識がないかぎりわかりません。特に『笠懸記』は表題に笠懸とあるくらいですから「笠懸」が主題になっている書物なのだと思いますが、そうであれば引用だけでなく、どのような書物であるのか読者にわかるように記すべきでしょう。そのほか脚注形式による出典の明示が2箇所だけというのは出典の形式として明らかに中途半端であり、また後で付け加えられたところかもしれませんが『北条時宗』に触れているところでは「第○○話」と話数未記入のままにされています。これらの点を見ても全体的に未完成という印象がぬぐえず、現在の良質な記事の水準から見て厳しいかと思います。--頭痛(会話) 2013年6月23日 (日) 01:08 (UTC)
- 維持除去するべき適切な理由が示されていない。
- 「出典リンクが皆無」出典リンクが何をさしているのか意味が分かりませんが、Wikipedia:出典を明記する/個別参照法によるin-line citationだとすると、まず皆無ではありません(少ないことは否定しません)。in-line citationにおいて、特定のテンプレートを使って文献へのリンクを張ることは義務ではありませんし、そうしたテンプレートは読者の利便性に寄与するでしょうが、品質とは本質的に関係がありません。
- in-line citationの単純な多寡は品質とは関係がありません。ついていてもトリビアを書き散らかす場所と間違われていて、脚注の節がゴミため化している哀れな記事もないではありません。足りないというのであれば、どのような記述やポイントに足りないのかまで具体的に指摘できるのでなければ、単なる印象論にすぎません。そうしたものは、当然に品質評価ではありえず、「再」がつこうがつくまいが選考の理由にはなりえません。
- 一般論としてin-line citationであることが望ましいとは言えるでしょうが、一括参照法をいついかなる場合でも使ってはならない、あるいは使った場合は出典が明記されていないと見なすという合意は存在しないはずです(あればご教示ください)。どちらの方針で書かれた記事なのか、いささか中途半端の感を免れないところではありますが、記事のサイズが小さく、この記事のように限定された主題を扱っているのであれば、一括参照法を採ったとしても記述と出典との対応関係を調べるのは一般に困難ではありません。あるいはこの記事に関して、具体的に文献にあたった上で問題のある箇所があったのであれば、前項と同じく具体的に指摘し改善を求めるか、あるいはご自身で改善してもよろしいでしょう。
- 「参考文献」「出典(参考文献の意に解して)」についても同じく。文献を評価する指標として量はかならずしも適切ではありません。例えばの話ですが、寺院の記事で通俗的なパワースポット本だの観光ガイドだのを100冊ならべるても、「なんとか市史寺社編」みたいなのが1冊ある方が文献の質としては一般にはるかに質は上です。
- 分量についても同じく。ある程度の分量を求められることは否定しにくいですが、不必要な瑣末事を詰め込んで水増しするくらいなら、書くべきことが徹底的に精選された結果の小さなサイズであれば、それは水増しした大きなサイズに勝ります。
- 「笠懸」というキーワードで国会図書館の蔵書を検索してみた限りですが、[1](これは微妙)、旧笠懸町の資料館図録、資料館紀要もあるようですし、旧笠懸町史、三浦市の祭りや上賀茂神社の神事なども視野に入れれば、果たして成長しないと簡単には断定できないでしょう。
もちろん、GAとして品質に問題があるという指摘はよろしいでしょう。でもGAでなければ品質がどうでもいいわけでもない。再選考依頼の前に履歴に名を連ねている人たちに声をかけてみるとか、関係のありそうなポータル(Portal:日本史あたり?)に呼びかけを入れておくとか、改善のために何かした、という形跡が微塵も無いまま「品質が…」という風に言い立てるような再選考のあり方には違和感を感じます。--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 12:39 (UTC)- コメント ここは記事の「GAとして品質」を問う場ではないのでしょうか。選考参加者はもっと記事の改善努力に目を向けるべきだ、という批判はそれ自体として受け止めますが、「記事」に行うべき投票を「選考参加者の参加姿勢に対する異論や主張」を行うために利用しないでいただきたいです。--頭痛(会話) 2013年6月22日 (土) 13:19 (UTC)
- コメントご指摘の通りですので、余計であった最後の1項については抹消線を追加します。失礼しました。それ以外はすべて、品質上の問題が指摘されていないという、私の考えについて説明しておりますので、そのままにします。--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 13:42 (UTC)
- コメント 除去票の理由に少し追記しました。
Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考#投票の仕方には、現状維持票の説明として「良質な記事としてふさわしいと考えている場合。」とあります。ikedat76さんの維持票に書かれていることは「他者の除去票の説明が不十分であること」のほか、general referenceは禁じられていない、トリビアを詰め込んだ記事よりも情報を厳選した記事のほうが品質の高いものになりうる、といった一般的な事柄であり、この笠懸の記事がいかに良質な記事としてふさわしいか、といった説明がなにも書かれていません。「これから成長しうる」といったことはGAとしての記事の品質とは関係がないでしょう。GA選考へ記事を出すときに「利用可能な文献が多数あり、これから成長しうる」というような理由で推薦したりしますか。「投票の仕方」にあるように他者の投票内容に疑問があれば質問できるようになっているし、期間内に答えがなければその票は無効になります。したがって「他者の投票理由に疑問がある」からといってそれは維持票を投じる理由にはならないはずです。ikedat76さんが「この記事がいかに良質な記事としてふさわしいか」ということを追記されないのであれば私は上記の維持票の無効を主張します。--頭痛(会話) 2013年6月23日 (日) 01:08 (UTC)
- コメント 除去票の理由に少し追記しました。
- コメントご指摘の通りですので、余計であった最後の1項については抹消線を追加します。失礼しました。それ以外はすべて、品質上の問題が指摘されていないという、私の考えについて説明しておりますので、そのままにします。--ikedat76(会話) 2013年6月22日 (土) 13:42 (UTC)
- コメント ここは記事の「GAとして品質」を問う場ではないのでしょうか。選考参加者はもっと記事の改善努力に目を向けるべきだ、という批判はそれ自体として受け止めますが、「記事」に行うべき投票を「選考参加者の参加姿勢に対する異論や主張」を行うために利用しないでいただきたいです。--頭痛(会話) 2013年6月22日 (土) 13:19 (UTC)
コメント(インデント戻す)無効とお考えであり、そのように合意形成を図られるというのであれば、強いて止めませんが、みずから撤回することはしません。しかしながら、再選考では「記事の問題点は、その箇所や改善策を具体的に指摘してください」と求められています。除去票を投じられたお2人の当初の段階でのコメント内容が、当初投じられた時点で、その要請に合致したものになっていない以上、そもそも除去票として意味があるものなのか。その点に疑問ありと考え、有意な除去票が投じられていない(依頼無効)と考えました。
たしかに品質が基準に満たない記事を除去するのは結構。しかし、除去するのは「記事の問題点は、その箇所や改善策を具体的に指摘してください」とわざわざ明言するように、改善への道筋無しのただのケチ付け大会をするためではありません。具体的な問題の指摘なしには、どちらであっても可であり有用であるような記事の書き方や性質を、指摘なしに「Aになってないから(品質に欠陥あり)」と主張することが再選考としてなんの役に立つのでしょうか。
例えば、in-line citationを、私はある時期以降に書いた記事ではもれなく採用していますが、無いと(特に記事サイズとの相関関係で)Wikipedia:出典を明記するの技術的実現方法として実効性がないという考えにいたったから、採用しています。しかしながら、in-line citaionでなければ出典の明記がなされていない、とまで主張するのは行き過ぎで、限定された主題で限られた数の文献により書かれた記事であれば、充分な実効性を持つでしょう。in-lineでなければダメなのだとすれば、具体的にどこ(なに)に足りないのか、そこまで言わなければ単に主観的な好み(「主観を交えず、出来る限り客観的な批評を行ってください」)を言っているのと選ぶところがありません。分量も同じ。いちおう、この場も査読なのです。漠然と分量が、と記しただけの査読なんてリアルワールドにありえません。
GAにしてもひいてはFAにしても、記事の品質に関して目指すべき指標をいわば例示するためにやっているのだから、選考(の反対票)だけではなくその逆(再選考の除去)においても、同様に具体的に指摘がされるのでなければ、何もありがたくないです。頭痛さんは具体的な改善点について書いてくださいました。再度GAになるかどうかはともかく、これら具体的な指摘は生地の後日の改善に役立つ指標となるでしょうから、感謝申し上げます。しかし、いまおひとり、Uttie56さんは、依然として具体性のない指摘を維持されておられる以上、依頼無効ないし除去票無効であるがゆえに現状を覆す理由が存在しないという意味で維持票を維持します。--ikedat76(会話) 2013年6月23日 (日) 03:08 (UTC)
- コメント 私が除去票を投じた理由は「Template:参照方法が貼られているから」という単純明快なものです。新規のGA審査であればTemplate:参照方法が貼られている記事が通過することはあり得ないでしょう。記事の品質向上に努力している筆者であれば、このような記事の品質に疑問を呈するテンプレートが貼られれば、それを除去できるように改善に務めるのが当然で、それを何年も放置している記事をGAに置いておくことは、GAを目指して記事の品質向上に努力している人たちをバカにしているようなものです。情報量については、もっと書けることがあるのではないかと何となく思っただけなのですが、それが正しいことはIkedat76さん自身が「『笠懸』というキーワードで国会図書館の蔵書を検索してみた」で始まる発言で証明してくださっています(記事の成長余地がある=まだ書けることがある)。なお、WP:GENREFで検証可能性を満たせるのは、参考文献の量が少なくて(雑誌記事1つなど)、記事の記述が参考文献のどの場所に基づいているのかが自明である場合に限られると思います。この場合は当然記事に書けることも少なくなります。GAレベルの記事であれば、記述量がそれなりに多くなる上に、検証可能性を満たしていない記述が記事に存在しないことを証明しなければなりませんので、概要部のように記事のほかの部分で検証可能性が担保されている記述を除けば、事実上WP:INCITEでなければ検証可能性を満たすことは不可能だと思います。
- なお、この場は品質レビューの場であると思いますので、記事をGAの品質基準に照らして、記事の何がGAの品質基準に満たないのかを指摘できていれば、レビューの指摘事項としては十分であると考えます。この場ではそうではないのかもしれませんが、品質レビューの一般論として申し上げますと、指摘された問題点をどう除去するかはレビュー対象の成果物の作成者の裁量に任されています。レビュワーが改善方法を提案することは歓迎されますが義務ではありませんし、レビュワーの改善提案にレビュイーが従う義務もありません。--Uttiee56(会話) 2013年6月23日 (日) 06:18 (UTC)
- コメントテンプレートが貼られているのは確かですし、具体的な議論無しに撤去するのは不適切とされていますから、強いて撤去はしませんでした。しかしながら、テンプレートがあるからというのは「その箇所や改善策を具体的に指摘してください」が求めている具体性とは異なるでしょう。再選考の規程が求めているのは記事そのもの(記事であってテンプレートではありません)に即した指摘であると考えます。何より「指摘してください」と求められている以上、テンプレートを貼り付けるという以上の緻密で具体的な指摘が出来ないのであれば、選考の場を設ける意味がありません。テンプレートが貼られているから、という以上指摘が出来ないであれば、(もちろんそのようなことは無いと信じますが)内容を読まずに選考に出すことも出来るでしょう。そうしたことが品質と何の関係があるのでしょうか。読んだのであれば、内容に即して指摘が出来るはずですし、頭痛さんはそれに応えてくださいました。
- また、繰り返し申し上げますが、単純に分量のみを斟酌することはGAとしての品質とは関係がありません。成長余地があることはGAであることを否定するものではありませんし、いうならばFAとてWikipedia:完璧な記事でありえない以上、成長余地があることが品質の否定材料となるのであれば、いかなる記事も選考を通過さえられえないでしょう。私は確かにいくつかの可能性を指摘しましたが、それらはどれも可能性に過ぎません。もとより、私自身も現物を実見したわけでも何でもありませんから、本当に何もないのかあるのか分からないという宙吊りの状態にあるというのが適切な表現かもしれません。
- ウィキペディアでのレビュー体勢は査読誌のそれとはちがい、レビューされる側とする側が一意に完全に分離されているわけではありません。選考の是非に意見を述べながら、自分で手を出したこともないではありませんし。それゆえ、ご自身で取り組まれてもよろしいでしょう。なぜ、評論家の体で落とすことにばかり関心があるのか、私にはよく分かりません。--ikedat76(会話) 2013年6月23日 (日) 07:21 (UTC)
- コメント品質レビューなのですから中身を理解しなくてもある程度は形式的にチェックすることは可能であり、中身を見るのは形式的なチェックに通過した後の話です。この場合は品質に疑問を呈するテンプレートが3年以上も貼られたままなのですから品質に問題があると形式的に判断でき、それ以上は読む必要がないのは当たり前です。ちなみにテンプレートを貼ったのは私ではありません。
- なお、記述に対する出典を呈示することによって記事に独自研究がないことを証明する義務は、記事を書く側にあるのであって、読む側にあるのではありません。記事を読む側が、記述に対応する文献の記述がどこにあるのかを調査しなければならないというのであれば、レビューなど不可能です。逆に、すべての記述に出典が明示されていることが確認できれば、記事を書く側に悪意や錯誤がないかぎり、独自研究が混入していることはないだろうと推定できます。
- 私は評論家を気取っているわけではなく、自分自身もGAに値する記事を書こうとしている者として、自分が理解しているGAの基準と比べて、この記事はGAの基準を満たしていないのではないかと言っているに過ぎません。ピアレビューとはそういうものだと思います。これからGAに値する記事を書こうとする者は、すでにGAに認定されている記事をベンチマークにして記事を書くのですから、GAに認定されている記事が玉石混交では困るのです。別に私は落とすことにばかり関心があるわけではなくて、優れた記事を見つけたらGAに推薦しようという意志も持っています。残念ながら今のところは、私が見つけた優れた記事は、記事に不備が見つかるなどしてGA一歩手前という感じであり、GAに推薦するには至っていませんが。--Uttiee56(会話) 2013年6月23日 (日) 09:51 (UTC)
- コメント 私もスタブ記事などではgeneral reference方式をしばしば使用しますし、脚注が使われていなければ出典が明記されていることにはならない、などと考えているわけではありません。しかし現在の良質な記事の選考では「脚注によって各記述の典拠がわかるようなかたちで出典をつける」ことはまず必須の要件となっているように思います。「どちらであっても可であ」るというのは単に記事としてはそうでしょうが、良質な記事の選考の場では必ずしも該当しないでしょう。「分量」についてはともかく「脚注を使って各記述に対して典拠を示すべき」という指摘に対して具体的に改善すべき点が指摘されていない、と主張するのは無理があると思います。--頭痛(会話) 2013年6月28日 (金) 17:00 (UTC)
コメント繰り返しになるかもしれませんが、in-line citationによる出典の明記が明確に条件となってはいませんし、問題なのは形式や方法ではなく、出典の明記という目的が充足される方法が採られているかどうか、です。in-line citationは、それ自体としては決して目的にはなりえない。「記述に対する~記事を書く側にある」というのは半分くらい正しいけれど、半分くらい微妙。ウィキペディアの参加者は読者ではなく利用者(user)と呼ばれているのですよね。利用者と読者という言葉でどの範囲を区分するかによるでしょうが、こういう場で意見を言うのはもはや(ウィキペディアの記事に純粋に受身であるという意味での)読者ではない、というのが私の考えです。この場にいるもはや読者ではない人たちが改善に手を出したっていい。本当に救いようのない、重大な問題ならやむをえないかもしれないし、そうであればこういう風に異論を唱える気はない。だけれども、限られた分量だしある程度文献も示されているのであれば、問題があると感じる人が手を出してみてもいいのではないか。もちろん、是が非でも自分で何とかしろということではなく、加筆依頼でもポータル等への呼びかけでも、この記事の場合は見込みがないけれど執筆者に訊いて見るとか、人の力を頼っても問題ない。それらが一切なしで、品質が…というクレームを申し立てるのは違和感がある。まあ、おたがい意見は充分に言っているし、どこで食い違うのかも明らかになっただろうとも思います。頭痛さんやUttiee56さんと私とで短期的に合意に達するとは思えない以上、あとは第3者の意見を待つということではいけませんか。--ikedat76(会話) 2013年6月28日 (金) 17:28 (UTC)
- コメント 現在「良質な記事の目安」に明確な条件として挙げられているものは
- 項目に記述されるべきトピックがある程度網羅され、検証可能性が信頼できる情報源によって担保されている。
- 独自研究になっていない。
- 中立的な観点からの記述がなされている。
- Wikipedia:スタイルマニュアルに沿った文章スタイルが取り入れられている。
- 以上の点が全て満たされている。
- これだけです。単にこれに当てはまるかどうかというだけの話で選考が行われているわけではないことは少し選考の様子を見るだけで誰でもわかるでしょう。脚注による(各記述に対する)出典の明示は一般に「記事」(本文だけでなく)の質を高める方法として認識されているはずです。意図的に「出典が明示されている/いない」という問題に話をずらすのはやめてください。私もUttiee56さんもそういう次元の話はしていません。
- 私は「記事」に行うべき投票を「選考参加者の参加姿勢に対する異論や主張」を行うために使うのはやめてくれと書きました。左の意図はあまり伝わらなかったようです。ここは笠懸の再選考の場ですよね。他者の票に不備があるのであればコメントで指摘するべきだし、笠懸が良質な記事の基準を満たしていると考えているのであればその点を主張したうえで維持票を入れるべきです。そのついでに他者の参加姿勢に対する批判をつけくわえるくらいは投票者の裁量の範囲でしょうが、記事内容をそっちのけにしてその話をメインにしたいのであればノートページで行ったうえで再選考の運用方法見直しを提案するとかそういった方法をとるべきでしょう。
- 私としては、加筆には加筆依頼、修正には修正依頼が別にあり、良質な記事の選考だって何度でもかけられるのだから、選考参加者に加筆・修正に対する負担を課す必然性はないと考えています。どちらかといえば各依頼の役割をクリアにしてしっかり分担させたほうが全体のサイクルとしてはうまく機能するんじゃないでしょうか。選考の参加者は選考だけやってるわけではないでしょうし、意味なく参加のハードルを上げるべきではないでしょう。再選考に参加するにあたって自分で加筆修正を試みる、というのは個人の行動の指針とするなら尊敬すべきものでしょうが、他人に強いはじめれば単なる個人的な見解の押し付けです。少なくとも特定の記事の再選考の場で繰り返し主張するようなことではないし、これ以上繰り返されるのであれば審議妨害にもなりうるものと思います。--頭痛(会話) 2013年6月29日 (土) 11:46 (UTC)
- 良質な記事の基準に合致しないという判断が不適当だから消極的に現状維持、と言う判断は当初から変わりません。これ以上議論してもここでは無駄だからあとは第3者の判断に委ねよう(2013年6月28日 (金) 17:28 (UTC))と申し上げたばかりなのですが、にもかかわらず審議妨害といわれるのは残念です。--ikedat76(会話) 2013年6月29日 (土) 11:56 (UTC)
- 「第3者の判断」がかかるのが除去票・維持票の内容の是非ならもちろん問題ないと思いますが、加筆依頼やポータルへの呼びかけ、というような点についてはここでやるのはやめて欲しいということです。--頭痛(会話) 2013年6月29日 (土) 12:31 (UTC)
- ご理解の通り、選考に係る票について第3者の票を待つ、という趣旨です。当方の発言不明瞭であったら申し訳ない。--ikedat76(会話) 2013年6月29日 (土) 12:37 (UTC)
- 「第3者の判断」がかかるのが除去票・維持票の内容の是非ならもちろん問題ないと思いますが、加筆依頼やポータルへの呼びかけ、というような点についてはここでやるのはやめて欲しいということです。--頭痛(会話) 2013年6月29日 (土) 12:31 (UTC)
- 良質な記事の基準に合致しないという判断が不適当だから消極的に現状維持、と言う判断は当初から変わりません。これ以上議論してもここでは無駄だからあとは第3者の判断に委ねよう(2013年6月28日 (金) 17:28 (UTC))と申し上げたばかりなのですが、にもかかわらず審議妨害といわれるのは残念です。--ikedat76(会話) 2013年6月29日 (土) 11:56 (UTC)
コメント ひとつお聞きしたいのですが、ikedat76さんは、もしこの記事が新規で良質な記事の選考にかけられたとすると、通過できるとお考えでしょうか?--Uttiee56(会話) 2013年6月29日 (土) 12:49 (UTC)
- コメントそれはこの記事の再選考と関係がないでしょう。他の場所でどうぞ。--ikedat76(会話) 2013年6月29日 (土) 12:57 (UTC)
- コメント いえいえ、関係は大有りです。良質な記事の再選考とは「現在の良質な記事の選考の基準にあわせて再考する」場であると私は思っていましたし、現に導入部にそう書いてあります。これは即ち、記事が新規の(=現在の基準での)選考に耐えうる品質を保っているかどうかを審査する場であるという意味にしか解釈できませんが。--Uttiee56(会話) 2013年6月29日 (土) 13:15 (UTC)
- コメントその通りです。そして問題があるのであれば具体的に指摘するように、とも求められています。頭痛さんの2度目のコメントくらいの具体的な問題点の指摘ならともかく、「脚注がない」では具体的な指摘になっていない(何に?どこに?どのように?)。この記事を新規で選考にかけたらどうなるかという仮定の話と、この記事の品質(上の問題)と、それを適切に指摘できているかどうかは、それぞれ別の問題です。
- それから新規の選考の件。選考は静態的な場ではなくて、推薦者や執筆者、選考参加者が選考でのやり取りに応じて記事に手を入れ、時には記事が大きく姿を変えることもある(ないことも、もちろんある)。私自身、つい先ごろ選考に出した記事に対して手を入れるためにいくつかの図書館を往来したばかりですし、選考参加者の方々からもたくさん助けていただきました(Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/玉置神社 20130403)。だから、どうなるかという問いはやってみなければ分からないという以上にも以下にも答えようがない。申し訳ないけれど、あまり意味のある質問ではない、というのが感想です。--ikedat76(会話) 2013年6月29日 (土) 13:36 (UTC)
- コメント いえいえ、関係は大有りです。良質な記事の再選考とは「現在の良質な記事の選考の基準にあわせて再考する」場であると私は思っていましたし、現に導入部にそう書いてあります。これは即ち、記事が新規の(=現在の基準での)選考に耐えうる品質を保っているかどうかを審査する場であるという意味にしか解釈できませんが。--Uttiee56(会話) 2013年6月29日 (土) 13:15 (UTC)
- 除去 出典が第三次資料だし、参考文献節でポンと本を投げ出して「この中のどこかに書いてあるよ」と言われても事実上検証不可能です。--ぱたごん(会話) 2013年7月19日 (金) 12:39 (UTC)
選考期間終了時点で除去票 3票、維持票 1票。除去票が3票以上かつ2/3以上を満たすため除去となります。--ぱたごん(会話) 2013年7月19日 (金) 19:51 (UTC)