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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の再選考/ナザレのイエス 20100718

選考終了日時:2010年8月17日 (火) 15:08 (UTC)

  • (除去)微妙な論点(クリスチャン←→非クリスチャン、ナザレのイエスの実在問題、史料の問題、評価の問題など)を大いに含む記事であるにも関わらず、出典が明示されていない箇所が非常に沢山あり、「良質な記事」には相応しくないと思われるため。--Kinno Angel 2010年7月18日 (日) 15:08 (UTC)[返信]

コメント現時点のナザレのイエスが優れた品質を持つ記事だとは思いませんが、再選考依頼の議論について疑問があります。

まず、出典が明示されていないとのことですが、改善する努力はされたのでしょうか。また、ノート:ナザレのイエスで再選考について提起された際の論点とこちらでの依頼内容に大分隔たりがあるようですが、どういうことでしょうか。

ノート:ナザレのイエスでの議論についても疑問があります。

> 現在の記事では「史的イエス」と二本立てにする意義に乏しい

とある一方で

> 仮説段階の話が大量に書かれ

と続けて書かれています。第1に、この2つの文は相互に矛盾しないのでしょうか。前者をナザレのイエスが質的・量的に貧しい記事であるという趣旨だとすれば、「大量に」という文言と整合するのでしょうか。私の目にはいくつかの論点について、それぞれせいぜい1点か2点程度の説らしきものが述べられているだけで、「大量」というよりも「貧弱」と呼ぶべき状態にあるように思われました。

第2に、史的イエスがどの水準の研究レベルを反映しているのか私には分かりませんが、いくつか理解できたことからすると、史的イエス=ナザレのイエスに該当する人物の実在を直接証する史料はなく、「従って、近代以降の史的イエスの実像の研究が、福音書の史料批判上の評価のさまざまな仮説に基づいている」とあります。そうであるならば、「仮説段階の話」があるのは全く問題ないことのはずです。

第3に、そうした意味で言えば、

> 中立的観点にも疑問がある

というコメントにも疑問があります。ここで言う中立的観点がWikipedia:中立的な観点を指すのであれば、諸説(種々の仮説)があるならば両論併記を採るのは当然であり、逆に諸説を列記することを批判するかのようなコメントこそ逆に疑問とせねばなりません。

GA再選考で記事の評価を見直すことも百科事典を作る作業の一環には間違いありません。であれば、記事を成長・改善させるための手がかりをせめて残せるように、再選考を依頼されるべきでしょう。--ikedat76 2010年7月19日 (月) 03:57 (UTC)[返信]

コメント
前半に全体的なコメント、後半にikedat76さんの個別のコメントに対するレスを書きます。
まず、私がここで申しておりますのは「現状で良質な記事」かどうかについてのみです。「この記事を具体的にどのように改善すべきか」については当該ノートページでなされるべきですし、実際私もそうしております。但し私のリソースにも限界があり、この記事ばかりにリソースを投入する事は出来ていません。いずれにせよ、「発展・改良の余地があるかどうか」ではなく、「現状で良質な記事」であるかどうかが再選考の基準になるべきでしょう。
現時点のナザレのイエスが優れた品質を持つ記事だとは思いません
では、賛成されれば宜しいのではないでしょうか。
改善する努力はされたのでしょうか。
「再選考にかけるかどうか」は「現状で良質な記事であるかどうか」が基準であると、普通ならば解釈出来るのですが、違うのでしょうか。「それまでに依頼者がどれ位記事に貢献したかしなかったか」は関係無い筈です。
この2つの文は相互に矛盾しないのでしょうか。(中略)質的・量的に貧しい記事であるという趣旨だとすれば、
別に矛盾しません。量については当方、言及しておりませんので…。
そうであるならば、「仮説段階の話」があるのは全く問題ないことのはずです。
これについては一点納得できるところなのですが、そうかもしれません。「仮説段階の話」が掲載される事それ自体は認められるであろう、と私の見解を変更させて頂きます。
ただしそれでも「仮説」であるならば、「誰による」仮説なのか、また「通説・有力説」なのであれば「どういった領域(○○国の××学の領域など)」において「通説・有力説」なのかが書かれなければならないでしょう。Template:誰が必要なところです。そうした記述が不足しているので、やはり現状では問題である事には変わりません。
両論併記を採るのは当然であり、逆に諸説を列記することを批判するかのような
そういった趣旨ではありません。どうしてそう読まれるのか正直よく分からないのですが「仮説段階の話が大量に書かれ」は「列記」そのものを問題にはしておりません。
そもそも現状、「両論併記」になっているかどうか疑わしいのです。この記事、主に「非キリスト教の立場からナザレのイエスをみたらどのように描写されるか」に力点が置かれて居ます。キリスト教に伝統的な見解は書かれていません。それならそのような立場から書いたものであると記事冒頭にそう書けばまだしもなのですが、あたかも客観的に確定された事実のみが書かれたかのような記述になっている現状は、到底「両論併記」とは言えませんし、「諸説の列記」などとは到底言えない状況です。
どうも「列記」と「両論併記」を混同されておいでのようにも見えるのですが(多分そうではないとは思いますが念の為)「列記」したからといって「両論併記」になるとは限りません。例えばA,Bという立場の見解がある場合、大まかにAに分類される諸見解ばかり列記したところで「両論併記」にはなりません。大まかに分けてもA,B,C,Dという立場の見解があるのに、A,Bについてのみ列記するというのも同様に問題があります。
なお強調のため繰り返しますが、私が問題にしているのは「現状で良質な記事かどうか」であって、「この記事をどのように改善すれば良いか」はここでは論じていません。--Kinno Angel 2010年7月19日 (月) 05:17 (UTC)[返信]

コメントまず、列記と両論併記という2つの書き方をしたのは失敗でした(同じ趣旨です)ので、両論併記に読み替えていただければありがたいです。

>主に「非キリスト教の立場からナザレのイエスをみたらどのように描写されるか」に力点が置かれて

それで何の問題があるのでしょうか。記事冒頭に「歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています。」とあり、その他の側面についてはそれぞれに別の記事を参照するように、誘導がなされています。したがって「キリスト教に伝統的な見解」(キリスト教信仰の立場からの見解と理解します)からの記述は別の記事(イエス・キリスト救世主イエス・キリスト新約聖書とイエスの歴史的受容等)に譲ればよい。逆に歴史的人物としてのイエスについて述べているのであって、信仰の対象としてのイエスについて述べているのではないとわざわざ明記している記事に対して、「キリスト教に伝統的な見解」が無いから中立的でないという批判はあてはまらないと考えます(逆に「キリスト教に伝統的な見解」POVであると言い得るでしょう)。

>あたかも客観的に確定された事実

この文言は「客観的」の語の意味次第でどうとでも理解できてしまう、実は非常に曖昧な文言です。「歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究」とあることを手がかりに、客観的=科学(歴史学)的=反証可能性というラインを引くのであれば、歴史学的な研究において出てきた学説である以上は反証可能です。しかし、反証可能でないことをもって「客観的」の定義とするのであれば、この記事それ自体(=イエスに関する歴史的・科学的研究)の存在を否定することになります(そしてこの立場をとるのであれば、「「仮説段階の話」が掲載される事それ自体は認められる」というご自身の発言と矛盾します)。

Kinno Angelさんが再選考にかけるべき論拠としてノートページで挙げていた議論は、主として内容面にかかわるもので、どちらかといえば「キリスト教に伝統的な見解(が足りない)」に類する趣旨と理解しました。しかし、当初依頼理由として挙げられていた理由は主として形式面(=出典の明記の不足ないし欠如)であって、隔たりがあるように見受けられました。私としては、何を真の問題と考えておられるのか分かりかねました。また、そのように2つの理由を使い分けるかに見受けられる行為を何故するのかについても疑問を抱きました。

言うべきことではないのを承知の上で敢えて申しますが、キリスト教のインサイダーが・非キリスト教的観点からのキリスト教研究への批判的意見を述べること自体に、(もちろんその自由は認めるけれども)キリスト教アウトサイダーの人間としては何か警戒するような感覚を感じざるを得ないのです。

このような記事の編纂にあたって採るべき方向性につき、過去の議論の中であった「無神論者のパンフでもなく、キリスト教徒による伝道書・啓蒙書でもない「事典」を作る」(Kliment A.K.さん、2009年5月1日 (金) 02:02 (UTC))という指摘はウィキペディアの諸方針の優れたパラフレーズたり得ていると私は考えます。しかし、「キリスト教に伝統的な見解」が無いから非中立的という見解、あるいはノートページでの発言は、Kliment A.K.さんの発言の後半に向けて傾斜したものと見え、肯定的に聴くことは難しいです。だから、GAに該当する品質かどうか疑問があるにもかかわらず、賛成しにくいのです。

Kinno Angelさんがそうした傾斜を持つ方だと断定するつもりはありませんが、非キリスト教的観点からのキリスト教研究についてキリスト教的観点から批判的意見を述べるのであれば、そうした立場と百科事典記事を作ることとの間の緊張関係について自覚して頂きたいというのが個人的希望です。--ikedat76 2010年7月19日 (月) 06:11 (UTC)[返信]

コメント
全体的に言って、正直、穿ち過ぎと思います。何もそこまで何らかの悪意を想定しなくても良いのではありませんか。私はこれまで様々なところで「イエス・キリストはこのように教えた」といった、事典的ではない記述を含む膨大な量の記事に修正をかけています。
記事冒頭に「歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています。」とあり
端的に言って不十分です。記事本文冒頭には何の断り書きもありませんし、全体的にそうした断り書きが不足しています。
この文言は「客観的」の語の意味次第でどうとでも理解できてしまう、実は非常に曖昧な文言です。
では、私の意図についても、「矛盾する」とまで言う必要はありません。矛盾しない意味で言ったのだと御理解下さい。
(内容面・形式面)2つの理由を使い分けるかに見受けられる行為を何故するのかについても疑問を抱きました。
非キリスト教的観点からのキリスト教研究についてキリスト教的観点から批判的意見を述べるのであれば、
どうも信仰をバックにした「悪意」(善悪の問題ではなく、法学用語的な意味でとって頂けると宜しいかと思います)にとっていらっしゃるようですが…この記事自体には殆どリソースを投入した事がなく(記事履歴を看ればそれはすぐお分かりの筈です)、正直申しまして、「内容についてどのような指摘をしていたか、覚えていなかった」というのが正直なところです。これについては一定程度責められても仕方ありませんがー_ー;、少なくとも「内容で指摘していたけど、ムリっぽいから形式で攻めてやろう」といった悪意の動機はありません。キリスト教プロジェクトの方を御覧頂ければ判りますが、本当に内容に問題があると判断し、大幅に修正をかけようとするならば、私は正攻法で記事改善に取り組む者です。
有体に申せば、「良質な記事」ではなく「一般の記事」というレベルであれば、自分の投入しようとするリソースを向ける優先順位は低いのです、この記事。そもそも「正教会」関連の記事ではないのは一目瞭然ですし、自分の得手とするものではありません。ですから「良質な記事」でなければ、そしてマークが付かなければ放置していたところです。
内容面と形式面という事について言えば、後者の方が「良質な記事」かどうかを判断するには緊急性が高いと判断しました。形式面を強調したのはそれ以上の意味はありません。
で、少し疑問なのですが、私の指摘内容自体にはikedat76さんはあまり異議を唱えておいでのようには見えません。私の動機が賛否についてそこまで重要なのでしょうか?しかもその動機についての指摘も、何だかWikipedia:善意にとるから随分外れたものに思えるのですが。
仮に私の悪意についての疑いが払拭出来なかったとして、それでも指摘が間違っていなければ、賛成もしくは容認するべきではないかと思うのですが、いかがでしょう。--Kinno Angel 2010年7月19日 (月) 06:54 (UTC)[返信]
コメント …というより、「動機」を問われ、それに対して応える義務・道義上の責任は無く、必要も無いように思えてきました。あくまで本記事が微妙な論点を大いに含む記事であるにも関わらず、出典が明示されていない箇所が非常に沢山ある現状で、「良質な記事」として維持されるべきかそうでないか、これのみ論じる場所でしょう。--Kinno Angel 2010年7月19日 (月) 07:11 (UTC)[返信]
「歴史的な人物としてのイエスの経歴とその研究について説明しています」の趣旨を記事冒頭に付け加えるくらいは、と思うのも過剰な要求でしょうか・・・
確かに依頼対象記事に貢献せずとも、どう改良するか提示せずとも、…GA該当せずと指摘することに問題はありません。とは言うものの、この件に関しKinno Angelさんの発言を読む限り、どう改善するべきかの手がかりになると思われるポイントを理解した上でGAに該当せずと言っておられると私は理解しました。であれば、それを他の執筆者が生かせるように残しておくことは、GA再選考を単にマイナス評価の場だけにしない上で有益だと考えるからこそ、どこが問題なのか整理しておいて欲しいと思ったのですが、その意思がないということであれば無理に労力を割くよう強いることはしません(出来ません)。
GAとしての品質に該当しないという結論については別に異論はありません(出典の明記が不充分なのは事実です)。結論は賛成できますが、結論に至る過程が、「除去に賛成」と言い切るには迷いを感じさせるものだ、ということです。ただ、「結論に至る過程」に触れる上で、確かにWikipedia:善意にとるからすると自分でもどうかと思う発言があったのは否定できません。失礼な発言については謝罪します。また、謝罪を受け入れていただけるとありがたく存じます。これ以上は議論の妨げになるので、求められない限り発言は控えます。--ikedat76 2010年7月19日 (月) 07:15 (UTC)[返信]
コメント
丁寧な返信をありがとうございます。
どこが問題なのか整理しておいて欲しいと思ったのですが、その意思がないということであれば
冒頭に申し述べた事以外については、再選考理由は(少なくとも現時点では)ありません。リソースに余裕が出て来れば、ある程度、改善の道筋もつけようかと考えてはおりますが、今、具体的なその為の予定は組んでおりません。
失礼な発言については(中略)謝罪を受け入れていただけるとありがたく
正直、愉快ではありませんでしたが、謝罪を頂く程とは思っておりませんでしたので、どうか御心配なく。こちらこそ幾つか不愉快さを出してしまったレスにつき、謝罪させて頂きます。--Kinno Angel 2010年7月19日 (月) 12:49 (UTC)[返信]
  • (除去)上の議論については考慮していません。単純に脚注付が少ない上に脚注としても物足りないことから賛成します。-- 2010年8月6日 (金) 14:40 (UTC)[返信]

除去票2票のみで除外の条件を満たしませんでしたので、維持で終了とします。--Tam0031 2010年8月29日 (日) 15:48 (UTC)[返信]