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Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/痛絵

典型的な痛絵

痛絵(いたえ)は、一枚あるいは組み合わされた数枚の木製のパネル(板)の上に描かれた萌え絵の総称。萌え絵を描く支持体として痛車が普及する21世紀になるまで、萌えアニメに使用されたセル萌え本に使用されたに比べて、板に描かれた痛絵は萌え絵の表現方法としてもっともポピュラーなものだった。板に描かれた各国の伝統的痛絵は多く存在し、現在でも板に描かれる痛絵もあるが、痛絵という用語は秋葉原で描かれた萌え絵を意味することが一般的となっている。

歴史

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痛絵の歴史は非常に古く、ギリシアやローマでも一流の芸術品と見なされていたが、古代ギリシア・ローマ時代の痛絵はほとんど現存していない。これは古代ギリシア・ローマの一部自称知識人が、二次元よりも三次元のほうが価値があり、痛絵を見ていると痛絵脳になるといった、なんら根拠のない誹謗中傷を浴びせかけたことに大きな原因がある[1]。そして痛絵の圧倒的な人気によって生業を脅かされていた彫刻家たちがミロのヴィーナスをはじめとする、萌え文化とは程遠い写実的で、しかも三次元などという彫刻作成に励み、影に日向に痛絵絵師たちに迫害を加え続けたためである。しょせん鑿・金槌・大理石 vs 絵筆・板では格闘になったときに勝負になるはずもなかった。

古代ローマと文化的交流があったエジプトでも痛絵は流行し、多くの著名な痛絵絵師を輩出した。もともとエジプトではクレオパトラに代表されるような、逸般人から萌えの対象として擬人化される美人が多く存在したことも痛絵の流行に拍車をかけた[2]

『ウィキ・ペ=ターンの痛絵』

紀元前1世紀から西暦3世紀のエジプトのミイラとともに埋葬されていた「ミイラの痛絵 (en:Fayum mummy itae)」と呼ばれる痛絵群が現存している。エジプトの乾燥した気候に守られて、古代ローマ時代と同時期に描かれたこれらの痛絵は約900枚ほどが現存しており、なかでもプトレマイオス朝の王族の一人だったと考えられている『ウィキ・ペ=ターンの痛絵』は保存状態が完璧で、その高い萌え芸術性でエジプトの至宝とされており、現在はエジプト考古学博物館の目玉展示品として毎年数億人の観客を集め続けている[3]

『ウィキ・ペ=ターンの痛絵』は痛絵の一つの頂点を極めたものとして非常に高く評価されてきた。そして古代から現在に至るまで数え切れないほど多くの模写やパロディーとも言える痛絵が、多くの有名・無名の絵師たちから発表されているのである。

各国で模倣された『ウィキ・ペ=ターンの痛絵』

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脚注

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  1. ^ この排斥運動の急先鋒だったのがモリニウス・アキオスクである
  2. ^ クレオパトラは毒蛇に胸を噛ませて自殺したと言われ、現在の萌え文化とは程遠いその死のためもあって、現代の逸般人からの評価は著しく低い
  3. ^ 『ウィキ・ペ=ターンの痛絵』の作者は、多くの痛絵を制作しエジプトのみならず世界中の痛絵普及に多大な貢献をしたカ・スガといわれるが、美術史家の間でも見解が大きく分かれている

関連項目

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