Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/ウィキペディアヌス
プブリウス・ドミティウス・ウィキペディアヌス(ラテン語:Publius Domitius Vicipedianus, 193年 - 255年頃)は、古代ローマの博物学者・歴史学者・哲学者。衰退していたウィキペディウムの復興に尽くしたことで知られる。
生涯
[編集]193年、ローマ帝国の首都ローマで生まれる。父プブリウス・ウィキペディウスは資産家として、また著名な博物学者として知られた名望家であった。そんな父の影響を受け、ウィキペディアヌスは幼少期から異常なまでの知識欲を見せ、知識の習得や様々な珍品の蒐集に明け暮れて過ごした。特に、知識を求めて公共図書館のような場所であったウィキペディウムには足繫く通い、幅広い教養を身に着けることとなるほか、ウィキペディウムの理念である五本の柱に感化されたという。そして彼は、そのうち信頼に足り、なおかつ量的にも充実した書物があまりにも少ないと感じるようになり、知識・教養の総合的な蓄積を志すようになる。
彼は、210年、ギリシア・アテナイへの遊学を行い、ここでも古代ギリシアの哲学に多大な影響を受けると共に、科学分野の研鑽を行った。また、彼は各地の神話、伝承・事象・気候風土の記録に努めたが、これが後のさまざまな記録・文物の蒐集という生涯を通じての活動を始める契機となった。彼は数年後にローマへと帰郷することとなるが、その後もローマ帝国各地の自然・人文の記録・文物蒐集を続け、いつしか自邸には幾多の記録記事や各地方の品が集まった。しかしながら、その中には信憑性の怪しい記事や、何処のことを言っているものか、誰の著作を基にしたものかなど、根本的な情報が欠落した記事もあったという。
3世紀前半セウェルス朝末期、アレクサンデル・セウェルス帝がマクシミヌス・トラクスによる反乱によって殺害され、ローマ帝国は各地で反乱や皇帝位の僭称が頻発する軍人皇帝時代と呼ばれる内戦期を迎えた。彼はこの内乱で貴重な書物が散逸したり、芸術品が破壊されたという報せにあたって、知識の保存の重要性を痛感し、単なる知識の習得に留まらず、世の中のありとあらゆる知識の記録による保存を図るようになる。彼はその後、知識の蓄積・保全のための様々な仕組みを構築していくこととなる。
彼は、既に各地の都市に設置されていたものの、内乱によって衰退していたウィキペディウムを復興させ、知識の一般市民への普及に努めた。彼は、資産家として知られた養父の資産を受け継いでおり、これをもとにイタリア半島を中心とした地域のウィキペディウムの修復、再興を行った。また、ウィキペディウム復興の一環として、自邸に保管されていたあらゆる種類の膨大な量の書物の写本を各地のウィキペディウムに寄贈した。自身も多数の記事を執筆し、これらは全てウィキペディウムに寄贈した。
彼は、記事を募るにあたって、自己を含むすべての執筆者に以下の方針を遵守するように求めた。
- 文章が明快である。
- できる限り簡潔に書く。しかしそれ以上簡潔にしない。
- ルールの精神を強調する。
- 過剰なリンクを避ける。
- 相互に矛盾していない。
この理念は、後にウィキペディアの方針へと受け継がれることとなる。
彼の世の中のさまざまな知識を保存・普及させるという理念は、各地の知識人たちの賛同を集め、各地でも記事をそれぞれの都市のウィキペディウムに納める者も多くなったほか、ウィキペディアヌス本人のもとにも多数の地方の化学、自然、地理、風土、歴史、神話などに関わる記事が寄せられることとなった。それらの中には、従来の書物には敢えて記載することはないと顧みられてこなかった細かい事象を取り上げた記事も多く、現在でも古代世界の研究に役立っている。
また、彼は文字資料に留まらずに、実際の遺物や標本を幅広く蒐集した。これは、自身で発掘したものは勿論、一般市民がウィキペディアヌスのもとに寄せたものも多かった。自由に寄贈できるようにしたほか自邸で一般に公開し、複製や商用利用に一切制限を設けず、むしろ知識を広めることになると言って喜んだと伝えられている。後年、その理由について尋ねられたウィキペディアヌスは、「いかに貴重な文物であっても、人々の知識のためになるのであれば、これを惜しむことなどあってはならない」と述べたという。また、各地の一点ものの品や、風景、建築物など、自邸に取り寄せられないものに関しては、人々にそれを模写してウィキペディウムに納めることを推奨したほか、自身も各地に赴いて模写をして自邸のコレクションに加えた。このような活動は、後にウィキメディア・コモンズの基となったといわれる。
更に、前述のローマ帝国の混乱期にあって、帝国各地では反乱や情勢不安が相次いでいた。これらの情報をいち早く各地に届けるために、帝国各地での出来事をいち早く届け、人々に情報を提供するためのシステムを独自に構築した。このシステムの特徴は、各地の知識人以外にも、市井の一般市民による情報提供によって収集した点にあり、各自情勢を記事にしたためてはウィキペディアヌスに届けたため、ウィキペディアヌスのもとには迅速に情報がもたらされた。このシステムは、現代のウィキニュースの発想の基となったという。
以上のような知識の存続のための活動は、その当時の周辺人物に影響を及ぼしたのみならず、現在の知識人たちにも示唆を与え続けている。例えば、ウィキペディアの基本理念は、ウィキペディアヌスの説いた思想から刺激を受けたという。
255年、彼はガリアへと旅に出たきり戻らず、どこで没したかも定かではない。知の神となって天界へと上げられたという伝説もある。
著作一覧
[編集]- 『小史』
- 『イリュリクム』
- 『博物目録』
- 『馬術要伝』
- 『建築理論要綱』
- 『神聖禄』
日本語文献
[編集]- 卯月四郎『ウィキペディアヌス』(宇楚書房)
- 芥川九十九『プリニウスとウィキペディアヌス』(卯月書店) - 同じく古代ローマの博物学者であるガイウス・プリニウス・セクンドゥスとの対比
- 高橋空音『ローマ博物学史』(八百堂出版)
関連項目
[編集]エイプリルフールに作られた記事:この項目はエイプリルフールに作られた記事です。ジョークは楽しむためのものです。本気にしないでください。 |