Wikipedia:井戸端/subj/Wikipedia記事内の強調(太字)は必要なのか
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Wikipedia記事内の強調(太字)は必要なのか
[編集]記事内の強調文は必要なのか疑問に思っているのでご意見を頂きたいです。現在Wikipediaを見ていると、度々編集者の言いたい事を強調するために使用されている例が見受けられます。 そもそも記事内の太字は必要でしょうか? 中立性の点から題など以外への太字の使用は避けるべきだと考えますがいかがでしょうか。--219.111.116.163 2011年10月2日 (日) 12:57 (UTC)
- 「」、””、などと同じで、前後の文章から単語を際だたせたい例と、IPさんは恐らくこちらをご指摘なのでしょうが、かくの如き言いたいことを強調したいために丸丸太字にする・・・テキストサイトでの色違えや倍角フォントなどを想定したと思われし例の2種類が考え得ると思います。まあ議論の場などでは後者は有力ですし、私も時折使いますが、記事の方では少々きついかもしれませんね。Wikipedia:表記ガイドでは、うすぼんやりと、余り使いすぎない様に的な感じで述べられていますね。まあ百科事典という特性上、そういうその、思いの丈が文章に込められてしまうのはあまり、馴染まないのでしょうし、読みにくい例も多いでしょうね。気になる様なら、編集で「普通」にしてしまって良いと思います。ただし差し戻されましたら、ノートに議場を移して協議してみてくださいね。編集合戦にご注意を。--Hman 2011年10月2日 (日) 13:06 (UTC)
- 一応、前にもWikipedia:井戸端/subj/文章を太字で強調させる意味なんてのがありましたが、基本的に様々な用途があるので一律で縛るようなことには反対します。もっとも、219.111.116.163さんが懸念されているのは、特に酷い例だと『聖☆おにいさん』あたりのような物だと思いますし、こういうものは私は是正されていった方が良いと考えています。--EULE 2011年10月2日 (日) 13:21 (UTC)
- コメント例えばツルレイシの項のように地域に拠って異なる呼び方があるとか、その項で扱われた事物の別称を強調させるとかでは、全く問題は無いと思います。また、不発弾の項に見られるように同じ項の中で平行して扱われているが概念的に別々のものである場合や、また親日#対日感情と地域のようにある種のキーワードを挙げて言及するなどする場合には、強調も必要かと思います。しかし中には、記述者の価値観の上で主張したい(または衆目を集めたい)がために明らかに用法を履き違えて強調しているケースがあり、そしてそれは記述者の価値観が強調されたがために中立性を損ない読者の視点では胡散臭さが鼻に付くように思います。また、エンドアの戦いの例に見るように、いかなキーワードを目立たせるためだとは言え、文節全体などが過剰に強調された結果、全体的に散漫になりすぎ、記事の内容としては折角の論点が印象に残らなくなるような場合も。まあ…中立性を損なう強調は論外としても、「エンドアの戦い」の例のような「説明が散漫になる無闇な強調」は記述者/読者のセンス(視覚的な?)の問題でもあり、難しいところで。--夜飛(話/歴) 2011年10月2日 (日) 13:25 (UTC)
- コメント たしかに、やたらと強調(特に、長いもの)を使うと見づらいものです。なお、強調がよく使われるものとしては、
- などがあります。--Jkr2255 2011年10月2日 (日) 13:26 (UTC)
- Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#文字飾りには凝りすぎないには「文中で太字を多用しないでください。」とあります。「多用しない」なので、全面禁止では無く、どこまでが「多用」かは例によって記事の種類や内容や執筆者の個人的認識にもより、明確な基準は無いと思います。ただ、ここで皆様が書かれているような例は、ほとんど同感です。一般社会の資料も、過剰な修飾は却って見づらくて逆効果な場合が多いと思います。私自身、自分が思い入れのある記事では最初は「これは重要、これもポイント」と思ってつい多用してしまい、後で反省して修飾を減らして回った事が結構あります。MS-DOS、DOS/Vなどは今でも少し多すぎですね。--Rabit gti 2011年10月2日 (日) 15:14 (UTC)
- コメント ガイドラインで原則使わないことにして、「様々な用途」のうち妥当そうなものは例外として認めるくらいでよいように、私としては思います。太字での強調のよろしくない点はみなさんが挙げられている点に同意です。「記述者のセンス」とか「執筆者の個人的認識」で太字にするのはやめるべきだと思います。紙の書籍などで太字が使われるのはまずないことで、教科書くらいではないでしょうか。ですので読む側の感覚としても、かなり違和感があります。キーワードを確保する目的であっても、「」で囲めばよく、太字はやりすぎに感じます。項目の別名や、直接かつ深く関わる名称は、Wikipedia:スタイルマニュアル#別名にもありますし、例外としてよいと思います。あと化学の分野では化合物番号を太字にするという習慣がありますが、そういうものとか、テンプレートや表などの場所に限るのがよいように思います。--Calvero 2011年10月2日 (日) 16:29 (UTC)
- 皆様ご紹介の太字頻発記事を読んでみましたが・・・読みの抑揚を強制されるため、若干疲れますね(笑)。まあ数は抑えめにして、単語相手の場合「カギ括弧」も強調文字も両方あるところですが、どちらにせよどうしても強調したい時は、どちらを使うかは好みなのでしょうかね。個人的には一旦止まって欲しい時はカギ括弧、続けて読んで欲しい時は強調にしているような、いないような、です。--Hman 2011年10月2日 (日) 17:30 (UTC)
別に強調文字を使ってもいいと思いますが、強引で語彙が乏しい印象を与えるので、表現の技巧での強調に差し替えていくのが好ましいですね。これは普通の文章でもそうなのですが、強調文字はここぞという時に使うから強調できるのであって、乱用は美しくありませんね。文章を書き慣れていない人という印象を受けます。--Littlefox 2011年10月3日 (月) 00:24 (UTC)
- コメント 執筆者にとって強調したい部分はそれぞれあるとは思いますが、記事のどの部分を強調したいかは各々の執筆者により意見の分かれるところであり、客観性に欠けると考えます。結局自己主張的な意味合いを持つとも捉えられ勝ちですので、本文での多用は差し控えた方がよろしいでしょう。表題や別名程度に留めるのが望ましいと考えます。--As6022014 2011年10月4日 (火) 09:40 (UTC)
- コメント何を強調すべきかという読者との合意が必要になると思います。教科書で言うならテストに出るような重要単語、アンサイクロペディアで言えば面白さを引き立たせるためみたいに、強調すべきことについて合意がなされている場ならどんどん使えばいいと思います。Wikipediaではいろんな立場の人が居ますからなかなか難しいと思います。そもそもどういう意図で、強調されているのか読み手が迷う曲面も多いでしょう。そのため、強調文字という直接的で押し付けがましい方法よりも、よく文章を考えて印象づける方が好ましいと思います--Littlefox 2011年10月4日 (火) 11:28 (UTC)
- アンサイクロペディアはこの際関係ないでしょうに…まあ、双方に関与している立場から言わせて貰えば、たとえアンサイクロペディアにおいても、無闇な強調が記事をスポイルしている事例は枚挙に暇が無く、ただ淡々と・しかし理路整然と常識を解体して奇妙奇天烈に再構成する記事にあって、強調された主観的主張が挿入されてしまったがために、折角の「百科事典上の記事の体裁をもって笑いをとる」という形式が破壊され、強調箇所がただの蛇足にしかなっていないことのほうが多い気がする。その意味ではアンサイクロペディアは兎も角としても、百科事典の記事は「ただ事物を客観的視点で淡々と説明する」というものでしかなく、そこに主張や記述者の価値観に立つ印象付けの必要性なんていうのは、蛇足にしかならないし邪魔なだけだと思いますがね。--夜飛(話/歴) 2011年10月4日 (火) 12:03 (UTC)
- 読んでる人が誤解しないようにに手短に説明すると、アンサイクロペディアは面白ければ何やってもいいので、特殊な字体で面白さを表現する芸が盛んなんです。そのかわり、面白くなければ差し戻されれますから、生き残ってるのはそれなりに面白いやつです。さて文章の強調の必要性にもどります。文章というやつは百科事典だろうが何だろうが、わかりやすく読みやすい文章である事が大前提です。そのためにはその文章の主題や目的を読み取りやすいことが大切であり、それらに重点をおいた形になります(よくいう5W1Hとか)。言い換えれば、重点を強調することが必要なわけです。かといって強調文字のような直接的な方法は好ましくないので、私は他の方法が思いつかない場合の最期の手段ぐらいに考えてます--Littlefox 2011年10月8日 (土) 05:44 (UTC)
- アンサイクロペディアはこの際関係ないでしょうに…まあ、双方に関与している立場から言わせて貰えば、たとえアンサイクロペディアにおいても、無闇な強調が記事をスポイルしている事例は枚挙に暇が無く、ただ淡々と・しかし理路整然と常識を解体して奇妙奇天烈に再構成する記事にあって、強調された主観的主張が挿入されてしまったがために、折角の「百科事典上の記事の体裁をもって笑いをとる」という形式が破壊され、強調箇所がただの蛇足にしかなっていないことのほうが多い気がする。その意味ではアンサイクロペディアは兎も角としても、百科事典の記事は「ただ事物を客観的視点で淡々と説明する」というものでしかなく、そこに主張や記述者の価値観に立つ印象付けの必要性なんていうのは、蛇足にしかならないし邪魔なだけだと思いますがね。--夜飛(話/歴) 2011年10月4日 (火) 12:03 (UTC)