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NHK連続テレビ小説「花子とアン」と小説『赤毛のアン』の関連性の記述に関して
[編集]件名にもありますように、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」と、小説『赤毛のアン』の関連性の記述についてお尋ねします。
制作者側の意図が確認できる出典なしに、ドラマの内容と小説の類似点を書かれた方がおられます。こちらの差分中、最後列の「はなが奉公することになっていた材木問屋が〜」の箇所です。これを、私が「独自研究」として除去しましたところ[1]、相手ユーザーさんから「あなたの個人的見解でしょう」と言われ、更に小説からの出典を付けているので「独自研究」ではないと仰られました。
確かに制作者側は今回のドラマを、小説『赤毛のアン』のシーンがちりばめられたストーリーとしていますが[1]、他にもドラマの原案としている作品もありますし、制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは「独自研究」にあたると思いますが、皆様はどうお考えでしょうか。
第三者の方々のご意見も伺ってみたいと思い、質問をさせて頂きました。どうぞよろしくお願いします。--MEGEVAND (会話) 2014年4月21日 (月) 00:52 (UTC)
- コメントまずは、ウィキペディア日本語版の重要な方針である「Wikipedia:Wikipedia:独自研究は載せない」の「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」を案内しましょう。そのような方針が存在していること、独自研究というのは、この方針で説明されている意味において、用いられているのだということを説明してあげてください。
- 制作者側が意図的にドラマと小説を関連付けた部分であることを確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは、「発表済みの情報の合成」ではありますが、「制作者側は今回のドラマを、小説『赤毛のアン』のシーンがちりばめられたストーリーとしています」ということなら、それは「特定の観点を推進する」わけではありません。小説は検証可能ですし、ドラマのストーリーも多少は検証できるでしょうから、それらから常識的に類似している部分であれば、それを類似性を示すものとして例示することまでは否定されないと思いますが、せいぜい一つか二つであり、列挙したり、類似性の分析をする場所ではないと考えます。可能なら、製作者側から、例示がなされているエピソードを使うのがよいでしょう。--Ks aka 98(会話) 2014年4月21日 (月) 02:25 (UTC)
- まずはコメントありがとうございます。小説を読んで検証可能だと仰っておられますが、まだ疑問を感じます。今回の記述は、「野良仕事の働き手は女の子ではなく男の子」という小説の設定と、ドラマ内で女の子の主人公ではなく兄が奉公にいくシーンが結びつけられています。関連性や類似性はあると感じられるが、ドラマの設定が「たまたま小説と似てしまった」のかもしれませんし、制作者が意図してそのようにしたのかもしれません。その答えを知っているのは、制作者だけです。はっきりとした制作者側の「赤毛のアンの〇〇の具体的なシーンをちりばめよう」という意図が確認できないのであれば、このシーンに対して「特定の観点」、つまり制作者が関連性を持たせた、という考えを示すことになると思いますが、如何でしょうか。なお、制作側からのこうした関連性の発表は、Ks aka 98さんが数としてだされているように2つ3つ既にあります。--MEGEVAND (会話) 2014年4月21日 (月) 03:46 (UTC)
- 「今回の記述」がどうなのか、どのエピソードが製作者の意図であるものとして公開されているかどうか、どれを例示するのが最善かどうかといった点については、ノートで対話されるのがよいと思います。
- 「様々な仕掛けがあって、『赤毛のアン』に登場するエピソードもドラマの中に散りばめられている」とスタッフのブログにあるのですから、制作者側の「赤毛のアンの〇〇の具体的なシーンをちりばめよう」という意図ははっきりと確認できています。
- それぞれの背景について多少の知識を持ち、常識的な判断力を持つ人なら、小説とドラマを両方確認し、「赤毛のアンに登場するエピソード」と、「ドラマ中のエピソード」が十分類似しており、たまたま重なったありふれたエピソードではないものだと受け取ることが自然なものだと考えられるということが、複数の人によって確認されたならば、そのドラマのエピソードは「散りばめられたエピソード」なのだと推論できます。批判的な記述や、製作者ほかに偏ったイメージを与えかねないエピソードであれば別ですが、常識的な推論を排除するべきではありません。「特定のシーンについて制作者が関連性を持たせた」というのが、多くの人に受け入れられる合理的な推論であるなら、それは「特定の観点」ではありません。「そのシーンは関連性がない」という意見があるのに、関連性を持たせたとするなら、特定の観点を推進しています。
- ただし、「私(=アン)がクラスメイトのギルバートに名前の事でからかわれて石板でぶつ場面」については、製作者の意図として、『赤毛のアン』に登場するエピソードをちりばめたものの一つである、ドラマ中のエピソードだということが、スタッフによって認められているということが確認できます。ここでは、常識的な推論すら必要なく、単に書かれていることの確認によって、エピソードの関連性を示すことができます。このため、こちらのほうが、より適切に情報源を使った記述と言えるでしょう。このようなエピソードがいくつかあるのなら、例示するエピソードとして、それ以外の、推論を必要とするエピソードを用いる必要は、通常はないと考えられるでしょう。--Ks aka 98(会話) 2014年4月21日 (月) 13:18 (UTC)
- スタッフの意図が認められるものがあれば、それが一番エピソードの関連性を示すのに適切であることは分かりました。ちなみに、現在の記述はそういう類のものだけになっております。
- それでもやっぱり解せないのは、スタッフの意図が認められないものであっても、編集者だけの常識的な推論から、ドラマの特定の場面と小説の特定の場面を結びつけても良いというKs aka 98さんのコメントです(読み違いをしていたらすみません)。確かに設定として「小説のセピソードがちりばめられて」います。編集者間だけで、偶然ではない、ありきたりの場面ではないという結論がでたとしても、それはWikipediaの編集者がおこなった独自研究になるのではないかと思うのですが、、、。私の頭が堅いだけですか?
- 話題になって誰かに書かれるのを待つ、という手もありますよね。小説とドラマの関連性が社会的に話題になるのであれば、メディアや公式本などでそういうことを書く文化人も出てくるでしょうから、そういうものを出典としていくつかを紹介するというのも良いと思います。現に、「石版でぶつ」の記述では、そうした二次資料も出典にしてあります。これでしたら、Wikipedia編集者の独自研究ではなくなります。--MEGEVAND (会話) 2014年4月22日 (火) 20:17 (UTC)
- 「常識的に類似している」というのは、類似していることを認識する上で、一般に共有できないような独自の推論を必要としない、ということです。1+1=2は、「独自研究」ではない。1+1=2にも、出典をつけることはできます。小学校の教科書か、数学のエッセイか、ほんとの高等数学か。それらはあったほうがいいものもあると思いますけど、独自研究ではないですよね。ちょっとした言葉のいいかえでさえ、意味が変わったりすることもありますから、情報源を参照してまとめていくという、ウィキペディアの編集作業には、すべて編集者の独自研究が含まれます。じゃあ、このプロジェクトをあきらめますか?
- 「独自の推論」を必要とする場合や、他の解釈がありうるような場合なら、「常識的に類似している」とはいえないでしょう。類似しているとしても、特定の視点を推進するものを意図的に選ぶようなことも独自研究となります。モンゴメリの少女観に特定の志向性があることを印象付けようとするとか。
- ここの境界は、はっきりしたものではありません。目安としては、方針の例文をきちんと読めば参考になるでしょう。常識だとしても、そうおうの知識や経験を必要としなければ理解が難しいような場合もありますし、そこのところで間違いや意図的な誘導がなされる可能性はありますが、一方で、常識と言うのはそれを主題として、わざわざ明文化されないものだったりもします。いかにもなトンデモさんもたまには来ますけど、今回のような例は、ただちに独自研究だと言って排除するべきではないです。
- 原作と小説を読みさえすれば、独自の解釈を含んでいるのか、意図的な選択がなされているのかということは分かります。それは、事象の地平線みたいな突飛なことを理解するために一般相対性理論を理解しろ、というほど難しいものではない。
- スタッフの意図として、類似させた部分かどうかははっきりしないのなら、「意図的に散りばめられている」と、エピソードをどういうふうに書くのが最適なのか、考えて見ましょう。「意図的に、ほげほげのようなエピソードが散りばめられている。」ではダメですが、「散りばめられている。ほげほげのようなエピソードには原作との類似が見られる」なら、マシになりますよね。
- 論点となっているなら、それについての知識をウィキペディアの外で得て、文章を書く立場として表現を工夫して、記事の質を向上させることを第一に考えましょう。そうしたことの積み重ねが、方針やガイドラインを理解することに繋がるのですし、善意でも適切ではない編集をしてしまう人が、どういうところで困っているか、どういうところで誤解をしているか、といったことを理解することにつながります。他人の編集に口を出すなら、そういう経験の蓄積が必要。
- 「話題になって誰かに書かれるのを待つ」のは、誰が待つのでしょうか。今書く、なら、多くの読者に有用ですし、類似点を具体的に書くことができているのですよね。それらを差し置いて、「待ったほうがいい」という主張をするなら、待つべきだ、という主張をしてもいいと思います。それは、ノートで合意形成、ですよね。待たなければならないという方針やガイドラインはない。
- 誰かが書くとは限りませんし、どこで書くか、いつ書くかもわかりません。将来発売されたなら、そのときに、該当する部分を「修正」したり、情報源を加えたりすればいいのではないでしょうか。そういうものが既に出てきていて、それを知っているのなら、それを使って書いてください。二次資料があるなら、そっちを使ったほうがいい。
- こうすればよりよくなる、ということは、たくさんあります。それをやるには、時間や労力や費用がかかります。自分でやる、ということなら、素晴らしいですが、それを他人に強制することはやめましょう。やっちゃいけないことはダメといわないといけないけど。--Ks aka 98(会話) 2014年4月24日 (木) 10:52 (UTC)
- 「1+1=2」の件は、今回のケースを考える上では適切な譬えではないと思うんですよね。それでももって、「このプロジェクトをあきらめるか」という極論を仰られても困ります。
- 「散りばてられている。〇〇のようなエピソードには小説との類似がみられる」という書き方なら、確かに受け取り方が変わってくると思います。--MEGEVAND (会話) 2014年4月24日 (木) 13:39 (UTC)
- これまでのように、即独自研究として除去するのは改めたいと思います。つきましては、当該ドラマのノートで記載可否に関する議論を開きましたので、一応お知らせしておきます。--MEGEVAND (会話) 2014年4月24日 (木) 13:49 (UTC)
- 制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは「独自研究」にあたらず、
- 制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ、これを製作者側が意図した類似するシーンだと記述することは、独自研究です。
- 「制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに」、「意図的に散りばめた」という情報源と、ある特定のエピソードが「類似している」ということから、「類似しているエピソードは意図的に類似させたものとして散りばめられたものだ」と演繹するのが、典型的な独自研究でしょう。
- 差分[2]では、情報源にスタッフブログを用いて「劇中、小説『赤毛のアン』を基にしたエピソードが数々仕込まれている」とした上で、類似するエピソードを列挙しているなかに、類似するエピソードを追加しているのですから、上の二つのどっちなのかは、微妙なところですから、独自研究かどうかも微妙なところ。
- 前の書き込みで例示したように、より丁寧に製作者意図と類似していることを切り分けることができるなら、そうしたほうがいいです。
- 「1+1=2」の件は、今回のケースを考える上では適切な譬えではないのは、なぜでしょう?
- 「常識的に考えれば誰でも類似していると思えるようなエピソード」というのは、おおよそ「1+1=2」のようなものとして扱えるような類似だということです。
- そうではなく、「「1+1=2」ほど確実ではないような類似に過ぎず、編集者間で合意が得られていないようなエピソード」なら、それは独自研究でしょうね。「未発表の事実、データ、概念、理論、主張、アイデア、または発表された情報に対して特定の立場から加えられる未発表の分析やまとめ、解釈など」であり、「その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合」として、独自研究とみなされます。
- まあ、アインシュタインの方程式からシュバルツシルト解を導くようなものは、数学として解けるもので、「1+1=2」の積み重ねですが、結果としてとっぴですし、常識的に理解しろといわれても難しいでしょう。こういう場合は、二次資料が必要です(Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる)が、この事例は、それほど難しいものではない。
- 「編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述すること」を、「その情報源を曲解して利用したり、その情報源によって直接的かつ明示的に支持されない観点を推し進めようとした場合」ではなく、「多くの人に受け入れられる合理的な推論」であるのに、「独自研究」とみなして排除する、というのは、他の同様な推論を排除することに繋がります。それではこのプロジェクトが成り立たない、というのは極論ではないです。--Ks aka 98(会話) 2014年4月25日 (金) 12:09 (UTC)
- 「1+1=2」の件ですが、「常識的に考えれば誰でも類似していると思えるようなエピソード」といっても、数式ほど明白に「1+1」と「2」の関連性を断言できないということです。赤毛のアンを読んだ人からすれば「似ている」と思ったシーン(そう思わせてワクワクさせるのが今回のドラマの狙いでもあるでしょう)が、はっきりと「オマージュだ」と言い切るには、やはり制作側の意図を確認できる資料は必要です。それは、Ks aka 98さんが「制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ、これを製作者側が意図した類似するシーンだと記述することは、独自研究です」と仰ることと同じだと思っています。これは、状況が違いますが、Wikipedia:井戸端/subj/個人サイトのドラマロケ地情報は資料として用いれるか?でも似たようなケースを確認できると思います。いくら三井本館の建物が誰の目からも見て常識的にドラマで出てきたものと違わなかろうと、いくら万博公園のオブジェ(太陽の塔)みたいなものをドラマ中に確認できようと「万博記念公園近くにある団地」に住んでいると断言できません。今回のドラマはもちろん、設定というより仕掛けとして、小説のエピソードがちりばめられていることがスタッフの証言として分かりますが、「製作者側が意図した類似するシーンだと記述することは」できません。
- ですから現在の『花子とアン』に記事ページにあるように、「オマージュ」であるとしているところへ今回の差分[3]の3つめ、奉公のシーンを入れることは、どちらかというと独自研究にあたりますよね。でも、これを「オマージュ」ではなく、「小説との関連性」として「以下のようなものに関連性が認められる」とすれば、ドラマと小説で十分検証可能性を担保できるから、独自研究にはあたらない。そういう意味で、前回のコメントでKs aka 98さんのコメントに呼応するように「『散りばてられている。〇〇のようなエピソードには小説との類似がみられる』という書き方なら、確かに受け取り方が変わってくると思います」と言いました。
- これからドラマの記事ページがどのように変わっていくのかは分かりませんが、ドラマと小説のみで検証可能性を担保しようとされる方が出てこられたら、上記のような「レイアウト」の変更を提案させて頂けばよいと思っています。ですが、今のところ私個人的には「オマージュ」で良いと思っているので、私の方から進んで変更しようとは思っていません。--MEGEVAND (会話) 2014年4月26日 (土) 08:20 (UTC) (修正 --MEGEVAND (会話) 2014年4月26日 (土) 08:23 (UTC))
- 「類似している」が明らかではない、ということなら、類似してるかどうかについて検証して、話し合えばいいんじゃないでしょか。それは独自研究かどうかじゃなくて、そのエピソードが適切かどうか、正しいかどうかの問題です。
- 数学のように厳密なものは数学以外にはないですし、数学の世界では数学自体も厳密なものかどうか問われますし、認識論とかに踏み込むともっとわけわからなくなりますよ。程度問題。
- 最初の問いかけは「制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ記述することは「独自研究」にあたると思いますが、皆様はどうお考えでしょうか。」MEGEVAND (会話) 2014年4月21日 (月) 00:52 (UTC)というものでした。ぼくは、基本的に、これに対して答えています。それを独自研究にあたるとは考えないで欲しい、と。
- 度々差分で示されているものは、「踏まえたものである」と書いているから、「制作者側の意図したドラマと小説の関連性を確認できる資料無しに、編集者自らが小説を読んで類似のシーンを見つけ、意図的に関連付けたものだと記述すること」ですから、このままでは「不確かな情報」です。「踏まえたものである」という部分に、確かに「踏まえたもの」とする情報源が必要。
- 執筆者が、「スタッフの意図が確認できていて」「明らかに類似している」のだから、「意図的に挿入されたエピソードだとしか考えられない」と主張するなら、独自研究。
- しかし、「踏まえたものである」を、「についても類似が見られる」などに改めれば、独自研究ではなくなる。独自研究ではなくなったとしても、他のエピソードとの比較から、加える必要性には乏しいため、除去、ですね。なお、「『花子とアン』#6 第1週「花子と呼んでくりょう!」(1)」[4]では、「そこには、様々な仕掛けがあって、『赤毛のアン』に登場するエピソードもドラマの中に散りばめられているんですよ。」としか書かれていないので、ここの節で「オマージュ」を使うのは適切ではないと思います。
- Wikipedia:井戸端/subj/個人サイトのドラマロケ地情報は資料として用いれるか?は、ここではあんまり関係ない。--Ks aka 98(会話) 2014年4月27日 (日) 09:25 (UTC)
- 毎回丁寧にコメントありがとうございます。(1)「オマージュ」ではなく他に適切な節タイトルがあるか、(2)「踏まえたものである」を「類似が見られる」という表現で例の記述を復帰するかどうか、について当ドラマのノートに持って帰って議論してみようと思います。ただ、現在はスタッフの証言が認められるものだけに絞るほうが良いだろう、という意見をおひとり表明されていること、私もどちらかとそっち寄りですので、議論によっては項目1だけを変えるにとどめるかもしれませんし、項目2も盛り込むかもしれません。そこは、議論の成り行きということで。
- ただ上記のコメントに対して再び疑問が、、、、、。「執筆者が、『スタッフの意図が確認できていて』『明らかに類似している』のだから、『意図的に挿入されたエピソードだとしか考えられない』と主張するなら、独自研究」というのが良く分かりません。『スタッフの意図』が確認できているのに『意図的に挿入されたエピソード』であると主張するのがなぜ独自研究なのでしょうか。むしろ、『明らかに類似している』だけで『意図的に挿入されたエピソード』と主張することの方が独自研究ではないでしょうか。これは、今回問題となっている「奉公は男の子で」という記述、「踏まえたものである」、というのが「独自研究である」ということにつながります。ですからこれを、「類似が見られる」に表現を変えて、その他の類似シーンも記載するかについては、先に述べましたように議論として持ち帰ります。
- 数学の喩えは、数学のエピステモロジーの話とかを言っているつもりは全くありませんが、数学がもつ明証性のレベルでもって、プロジェクトをあきらめるのですかという話は、やっぱりどう考えても突拍子もないように思えます。ですが、もうこのあたりの解釈についてはここまでにしておきましょう。
- で、今回の問題は、物事をどの角度で捉えるかということで、それが「独自研究」にもなり、ならないということを勉強したように思います。ですので、私の冒頭の質問に対しKs aka 98さんが「それは独自研究ではない」と仰ったことは、今は良く理解できますし、納得もしています。--MEGEVAND (会話) 2014年4月27日 (日) 10:01 (UTC)
- 「踏まえたものである」を「類似が見られる」という表現にしたら、独自研究じゃなくなるから、独自研究を理由とした除去はできませんよね、ということが言いたいわけです。スタッフの証言が認められるものだけに絞るほうが良いだろうと思いますよ。
- 「スタッフの、赤毛のアンに類似したエピソードを散りばめているという意図が確認」できていて、(そのエピソードが確かに意図を反映したエピソードであることは確認できないまま)「意図的に挿入されたエピソードだとしか考えられない」、と主張するなら、独自研究。
- 常識的に合意ができるようなものの例示として「1+1=2」を用いたところ、数学がもつ明証性のレベルで受け取っているのはMEGEVANDさんですよ。程度の話ですよ、と言っている人に対して、「やっぱりどう考えても突拍子もないように思えます」と言い、「ここまでにしておきましょう。」と言われて、はいそうですか、とは、なかなか言いにくい、ということはご理解しといてください。--Ks aka 98(会話) 2014年4月27日 (日) 12:27 (UTC)
- コメントありがとうございます。多分、Ks aka 98さんの仰っていることが、2層的(2つの異なるレベル、といった方がいいのか)に並行していたので、その理解に私の頭が追いついていなかったと思います。1層目は「何を独自研究とするのか、しないのか」という説明。2層目は「花子とアン」の編集としてどうあるべきかというところ、だと認識しています。
- 「『スタッフの、赤毛のアンに類似したエピソードを散りばめているという意図が確認』できていて、(そのエピソードが確かに意図を反映したエピソードであることは確認できないまま)『意図的に挿入されたエピソードだとしか考えられない』と主張するなら、独自研究」であることは、分かりました。そして、「スタッフの証言が認められるものだけに絞るほうが良いだろう」ということですね。
- 「1+1=2」の喩えですが、私の今の認識が間違っていないとすれば、常識的に類推することは独自研究でないということを仰りたいということですよね?で、今回の件と関連させると、「ドラマ中の『奉公は男の子』というのは、小説中の〇〇の部分と類似が見られる」とすることは独自研究ではないが(A)、「ドラマ中の『奉公は男の子』というのは、小説中の〇〇の部分を踏まえたものである」とするのは独自研究ということ(B)ですね?で、Ks aka 98さん的には、(B)は論外で、(A)として編集するのは独自研究にはならないけれども、どちらかというと「スタッフの意図を確認できる」方法を選んだ方がいいということを仰っている、そういうことでしょうか?確認させてください。あと、類推を独自研究として除去することはしない、ということも仰っていましたが、では今回の場合にはどうしておいた方が良かったと思われますか?私はKs aka 98さんと同じ(だと思う)ように、「スタッフの意図を確認できる」方法を選びましたが、その理由を「独自研究だから」とするのがいけなかった、ということでしょうか。これも確認させてください。よろしくお願いします。
- あと、コメント依頼も出したのですが、出来れば、ドラマのノートで直接今回の編集のことでコメントして頂けませんか?--MEGEVAND (会話) 2014年4月27日 (日) 13:28 (UTC)
赤毛のアンでは、女の子ではなく男の子を希望していた(つまり望まれていない子だった)というのはこの物語の重要な点であって、花子とアンにもその共通のシーンがあり、かつ製作者側から元ネタが赤毛のアンですよと宣伝されているのなら、そんなに目くじらを立てる必要がないと思います。キッパリと独自研究というよりは、むしろ編集者の裁量の範囲(つまり多様性を)超えるものではないと思いますよ。--Gyulfox(会話) 2014年4月23日 (水) 03:37 (UTC)
- ご意見ありがとうございました。でも、なんでしょうか。まだスッキリはしないんですよね。ですから、今後は見つけても独自研究と決めつけて自分から除去することはなくとも、静観したいと思います。--MEGEVAND (会話) 2014年4月24日 (木) 07:03 (UTC)