Wikipedia:井戸端/subj/記事の大幅な改編
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元記事の大幅な改編について
[編集]こちらは初めて利用します。最近気になるのが「記事の大幅な改編です」上の方も指摘していますが、元記事を活かさず全面的な改訂をする項目が見受けられます。恐らく、長く編集しているベテランの方か、通りすがりの名無しの方がやってらっしゃるのかも知れませんが元記事を書いた人が懸命に集めた情報に対し、それを活かさず次の人が全面的に変えてしまうと言うのは如何なものでしょう。
元記事を見て可笑しな部分があっても、あくまで「その部分」だけの加筆や消去・改訂をするのが「編集」では無いでしょうか。全面的に変えてしまったら「書き直し」になってしまいます。
仮に、全面的な書き直しが必要な項目が露見したら、まずはその前項を書いたユーザーに対し書き直さなければ行けなかった致命的な欠点の説明などをしてあげた方が、前項を書いたユーザーの今後の編集作業の為にも良いと思うのです。
とりわけ、私が心配なのは「新規ユーザー」や「小・中学生」などに対する扱いです。まだ、記事が書きなれない新人さんや、小中学生の記事には不十分な点があるのは私も幾つか確認してます。しかし、その様な方の記事を全面的に変えてしまったら新規の方や学生の方が近寄り難くなってしまうと思うのです。老若男女だれでも参加できるのがウィキの良い所ですし、ベテランだけの寄り合い所帯になってはウィキの本質が失われてしまうと思うのです。
ウィキペディアをより多くの方に利用して頂く為にも、当たり前ですが「書き直し」ではなく「編集」すると言う気持ちを顧みて欲しいと思うのです。ただ、「俺の(私の)記事の構成の方が見易いから全面的に変更したい」と言う気持は誰でも持つと思いますし、私も少なからずありますし、ただ、「よほど酷い記事で無い限り」それをグッと押さえて必要な部分の編集だけに抑える事が今のウィキペディアの編集さんに求められる事では無いでしょうか。年齢に関係なく精神が成熟している方なら出来る筈です。忌憚のないご意見をお聞かせ願えれば幸いです。--木村まこと 2007年4月14日 (土) 20:02 (UTC)
木村まことさん、おはようございます。修正に関しては、2つの視点があると思います。1つは、表現の手直し。つまり、文法上の誤りを正したり、誤字を修正したり、Wikipediaの編集スタイルに直すことや難解な文章を平易な文章に変えることです。もう1つは内容そのものの修正。
文法上の誤りを正したり、誤字を修正したりすることは、大きな問題はないと思います。Wikipediaの編集スタイルに直すものも大きな問題はないと思います。難解な文章を平易な文章に変えることは、少々ややこしいです。難解だとする基準が人によって異なるからです。平易すぎる文章が幼稚に見えることもあるでしょう。この場合、書き換えたい人は、元の記事を書いた方と合意する必要があると思います。
さらに、問題となるのは、内容そのものの修正です。元の記事に、きちんと検証可能な出典が明示されている場合、Wikipedia:検証可能性からみて、まず内容を書き換えることは無理だと思います。例え、記事内容と異なる内容の載った検証可能な出典が見つかったとしても、元の記事が誤っているとは限りません。この場合、元の記事と異なる意見が存在することを立証したに過ぎないのです。どちらが正しいのかは、その段階ではわかりません。もし、書き換えられるとしたら、「元の記事の内容は誤りである」と記述された検証可能な出典が見つかった場合のみだと思います。これが出てこないことには、元の記事が誤りであることを、立証できたとは云えません。せいぜい、対立する2つの意見を併記することしかできないと思います。
元の記事に、出典が明示されていない場合。逆に元の記事が正しいのかどうかが、第三者にもわかりません。この場合は、Wikipedia:検証可能性からみて、書き換えたい人が検証可能な出典を明示さえすれば、元の記事をどんなに書き換えようとも問題ないと思います。ただ、書き換える人も、いきなり書き換えるのでなく、まずは元の記事を書いた方に検証可能な出典の提示を求めるべきです。
また、検証可能な出典に関する問題もあります。例えば、ラジオ番組やテレビ番組での発言を根拠にする場合です。これは第三者の検証が極めて困難です。偶然、第三者が録画とかしていればいいのですが。基本的に、これらを、検証可能な出典にあげない方がいいと思います。--竜造寺和英 2007年4月14日 (土) 23:19 (UTC)
改変許可はだしているのだから、それ以上でもそれ以下でもないでしょう。もし、話合いの上での編集がお好みなら、Citizendiumなどにいかれてはいかがでしょうか。
P.S.両者ともスタイルを編集させてもらいました。--ゆきち 2007年4月14日 (土) 23:30 (UTC)
ウィキペディアの記事はたくさんの執筆者の編集の積み重ねですから、出来るだけ原文を残した訂正で済ませています。一回全部白紙にしてもう一度新規執筆しているような方もいますが、そういうのを見ると、自分がまったく関わっていない記事だとしても、正直いい気持ちはしません。--61.196.7.91 2007年4月14日 (土) 23:34 (UTC)
ゆきちさん、おはようございます。「改変許可」とはWikipediaのどのルールでしょうか。どこを読めば、確認できるのでしょうか。それはWikipedia:検証可能性に矛盾しています。Wikipedia:検証可能性では、元の記事に加筆修正を加える場合、検証可能な出典の明示を求めています。これは、「検証可能な出典を明示できなければ、元の記事に修正を加えてはならない」と云うルールです。ゆきちさんは、何か誤解をされているのではないでしょうか?Wikipedia:検証可能性のルールに従えば、元の記事の表記1つ修正するにしても、修正の論拠となる検証可能な出典の明示が必要と云うことになります。元の記事を勝手に書き換えていいと云うルールなど存在しないと思いますよ。--竜造寺和英 2007年4月14日 (土) 23:40 (UTC)
- GFDLです。--ゆきち 2007年4月15日 (日) 00:31 (UTC)
- ゆきちさん、おはようございます。GFDLを読みましたが、「検証可能な出典の明示なしに、元の記事を加筆修正していい」などとは、どこにも書かれてありません。再度、ご提示をお願いします。Wikipedia:検証可能性のルールが誤りであるとするならば、どのWikipediaのルールによるものでしょうか?--竜造寺和英 2007年4月15日 (日) 00:41 (UTC)
- 僕は出典や検証については、言及していません。それから、それを補間するルールがあるとしたら、WP:IARでしょうか。--ゆきち 2007年4月15日 (日) 00:46 (UTC)
- WP:IARを読みました。冒頭に「この文書はウィキペディアの公式な方針あるいはガイドラインの草案です。現時点ではまだ拘束力はありません」と書かれています。さすがに、まだ草案のものを論拠にはできないと思います。このような矛盾が起こるのは、ルールに上位概念と下位概念を持たないことにあると思います。GFDLは上位概念です。Wikipedia:検証可能性は下位概念です。つまり、上位概念により、「この文書を無断で改変してよい」ことが保障されています。しかし、何でも無断で改変しても良いかと云うと、そうではありません。下位概念による制約があるからです。つまり、「検証可能な出典の明示がなければ、元の記事に加筆修正してはいけない」と云うルールです。Wikipediaのルール体系は、こうなっているのではないのでしょうか?--竜造寺和英 2007年4月15日 (日) 00:58 (UTC)
- 初めて聞きました。--ゆきち 2007年4月15日 (日) 01:06 (UTC)
- 仮定法で論証します。仮に、GFDLのルールとWikipedia:検証可能性のルールが同列だったと仮定します。すると、GFDLのルールとWikipedia:検証可能性のルールが矛盾します。よって、、GFDLのルールとWikipedia:検証可能性のルールは同列でないことがわかります。次にどちらが上位概念かと云うことですが、Wikipedia:検証可能性のルールの方が制約が厳しいために、Wikipedia:検証可能性のルールが下位概念とならなければ、ルール体系自体が矛盾します。ゆきちさんの誤解は、上位概念と下位概念を同列に扱ってしまっていることだと思います。--竜造寺和英 2007年4月15日 (日) 01:16 (UTC)
- 「検証可能な出典を明示できなければ、元の記事に修正を加えてはならない」は、いつのまにか「元の記事に、きちんと検証可能な出典が明示されている場合」という前提が抜けてませんか?
- GFDLは上位概念というよりも、いろいろな人が編集に参加できるようにすること(Wikipedia:編集方針あたり)を保証するための著作権関連の仕組みに過ぎないと思いますが、「誰でも改変できる」と「検証可能なことのみ書く」の関係は仰るような関係だと思います。実際、ちゃんと出典まであって正当な内容で書かれている記事は大幅に改変をうける可能性は低いわけで、改変されたとしても、元に戻されるだけの話だと思います。改変前、改変後のどちらも間違いでない場合は、他の参加者の意見(編集)に委ねれば、自ずと百科事典としてふさわしい内容になっていくと思うので、別に神経質にならなくてもよいかと思いますし、改稿前でも改稿後でもたいして変わらないような全面改稿をする方には、「はぁ、ご苦労様」と思えばいいだけではないでしょうか?Fuji 3 2007年4月15日 (日) 07:36 (UTC)
はじめまして、Ariesmarineと申します。私はほかの方々とは別の観点から木村まことさんのお考えを拝読しました。以下は自分でも反省しながら意見を申し上げます。私自身も既存の記事を大幅に加筆・改訂した経験があります(例:欧州司法裁判所)。この作業の際に、既存の版の内容や文章の表現をどのように使えばよいのか、自分の作業とどのように整合させればよいのかということに大きく時間を費やした覚えがあります。
確かに投稿する際には、アカウントユーザであれIPユーザであれ、GFDLやウィキペディアのルールの下で(投稿する際に表示される注意書きの文句を借りると)あなたの文章が他人によって自由に編集・配布されることに同意することが求められています。また過去の版は履歴を見ればよいということもいえます。ですが私は、ルールを守れば何をやってもよい、記事の充実のためなら何でもやってよい、というものではないと考えています。ルールとウィキペディアの充実という大義名分を翳すだけで、思慮なく既存の版に手を加えるのは、木村まことさんが懸念されているとおり、(新規・既存やアカウントの有無を問わず)ウィキペディアというプロジェクトへの参加者の障壁になりかねません。共同作業である以上、他のユーザに対して配慮すること、他のユーザの成果とそれにかけた労力と時間に敬意を持つことは欠かせないと思います(もちろん荒らしやいたずら、権利侵害などといった投稿は論外ですが)。
念のため誤解されないように申し上げると、ルールを守らなくてもよい、ウィキペディア百科事典の充実を躊躇えと主張しているのではありません。ウィキペディア日本語版が大きく成長している今のこの時期に、他のユーザに対して配慮すること、他のユーザの成果とそれにかけた労力と時間に敬意を持つことが当たり前になれるような風土作りや、あるいはそれを啓発する動きがないと、ウィキペディアの将来に影を落とす結果になりかねないという危機感を申し上げたいのです。すでにそれらについてのガイドラインや方針が存在しているとはいえ、実際にそのとおりになっているかどうか、ウィキペディアコミュニティの全体を見渡すと、少なくとも私は(私自身を含め)十分に浸透していないのではないかと思います。"Wikipedia:新規参加者を苛めないでくださいをご理解ください、Wikipedia:ページの編集は大胆にを読めばそこに書いてある。"と言うだけのコミュニティが主流となってしまえば、ウィキペディアは編集合戦に明け暮れたり、削除依頼や投稿ブロック依頼が大幅に増えてしまい、プロジェクトに成功を期待することはできないと思います。--Ariesmarine 2007年4月15日 (日) 00:23 (UTC)
必要な事は、「ルールはこうである」「話合いをするべきである」ということではなくて、より有益な結果を選択し、作り出していくことです。「○○をしてはいけない」ではなくて「○○は有益でない(ある)」ということを選択していくことです。なので、「大胆な編集禁じる」のではなくて、その編集結果が適切かどうかを確認していくことが重要だということです。ルールで縛るのが鉄則になったら、wpの進展は阻害されるでしょう。
ちなみに、今まで他言語版のユーザーから「日本語版(日本人)はよくノートを使う」という発言を二三聞いています。こうした現象は、一種ローカルなものであることを申し沿えておきます。--ゆきち 2007年4月15日 (日) 01:06 (UTC)
他のユーザーへの配慮は、相手の行為を尊重するだけでなく「自分の文章を他の方が自由に改変しても一向に構わない。もっと良くなるなら全部消しても構わない。どうぞご自由に」と言う方向には向かわないんでしょうか。文章の自由な改変と、他の方への敬意や配慮は全く別の問題です。目的はより良い記事を作ることであって、自己の発表(敢えてこう言う表現を使ってみます)を尊重させたり他人の発表を尊重することではありませんから。確かに行き過ぎな例もたまにはありますが、だからと言って慎重になりすぎることもないでしょう。最悪の場合は以前の版に戻すことだって出来ます。誰かが編集した記事は最新版ではなくても永遠に残るのですから。--かにぱん 2007年4月15日 (日) 01:30 (UTC)
私自身は投稿する際に、自分が投稿する文書を他者に自由に編集されても良いし、それが記事の充実につながるのならばぜひとも手を加えていただきたいと思っています。ただその一方で自分が他者の文書に手を加えるときに、どうすれば既存の版を活用しつつ、この記事をより良くすることができるだろうかというところに神経を使うことが多いのです。私が申し上げたいのは、過去の版を最大限に活用しつつ、その一方で記事を充実させる方法が推奨されるべきだというものです。確かに記事の充実と過去の投稿者の貢献に対する尊重は、それだけとってみれば別物です。しかし、私が懸念しているのはウィキペディアという1つのプロジェクト全体を見れば、この両方のバランスが取れていないと、プロジェクトが破綻する虞があるのではないのかということです。その観点からすれば両者はジレンマになっていると感じています。私はウィキペディア百科事典の基本的な発想は「三人寄らば文殊の知恵」で表現されると考えています。多くの人間が編集に携わるから良い百科事典ができていくと考えています。しかし記事の充実だけを最優先にして、他者に対して配慮することなくただただ排除するだけのやり方は、「三人寄」ってこない状況を作り出す可能性を含むのではないでしょうか?あるいはせっかく「三人寄」っているのにリタイアする者が出てきてしまうのではないでしょうか?つまり記事充実至上主義だけの観点しかなければ、プロジェクトがごく限られた人間にしか参加できない結果を作り出す虞があることを申し上げたいのです。だからこそウィキペディアには編集に関する方針と、コミュニティに関する方針の両方があるのだと思います。--Ariesmarine 2007年4月15日 (日) 02:10 (UTC)
(追記)もちろんこれは極論です。実際には、ウィキペディアにはこれらに対するさまざまな調整機能があります。しかし最近の傾向を見ていると、どうも記事の充実を錦の御旗にしている雰囲気があるようで、他ユーザに対するリスペクトが希薄であると感じることが多いのです。もちろんこのように感じているのは私だけかもしれません。しかしこのような思慮は共同作業の円滑な進行を促す効果があることを申し上げておきます。参加者が多くなると方針の対立が生じやすくなりますし、現にアカウントユーザがここ1,2年で急増している状況を踏まえればなおさら必要なことだと思います(私もアカウントを取得したのは昨年の8月です)。--Ariesmarine 2007年4月15日 (日) 02:34 (UTC)
- まず、最初の質問にお答えするなら、ウィキペディアは百科事典を作ることが目的であり、コミュニティの維持・拡大が目的ではないはずです。また、執筆者の事情ではなく、百科事典を読もうとしている閲覧者の事情を考えてみてください。ひどいとはいえないが優れてもいない記述を残すことよりは、優れた記述におきかえたほうが、閲覧者にとっては有用であることは、明らかでしょう。小中学生が書いたものでも、百科事典の記述として、またその項目の記述としてふさわしいものであれば、百科事典として信頼できる情報源を参照し、かつ出典を示している内容については、そうそう除去されることはないと思います。しかし、その内容が不十分であれば、除去されるか、編集で書き替えられるかするでしょう。その判断基準は百科事典の記述としてどうか、という点にあり、小中学生が頑張ったから残すこともなければ、優れた記述だけど小中学生が書いたから除去することもない、ということになるでしょうか。逆に、専門家の記述がわかりにくいということで、やるきのある中学生が内容を損ねることなく全面書き換えをすれば、そちらのほうが歓迎されるということもあるでしょう。元記事を書いた人が懸命に情報を集め、それを出典として示し、その記述全体が有用であるような項目が、全面的に書き替えられるような事例は、あまり無いように思います。
- 竜造寺さんがおっしゃるルールの体系で言うと、GFDLは著作権に関するルール、検証可能性は百科事典を書く上でのルールということで、それぞれに独立していると捉えるのがよいと思います。GFDLは、著作権者の許諾を得ずに自由に改変することをあらかじめ許諾するというライセンスで、著作権法上のいくつかの問題をこれで回避することができます。だからといって、どのような改変をしてもいい、というわけではなく、ウィキペディアは百科事典なのですから、百科事典を作る上で、適切な改変であることが望まれます。改変が、大きなものであれ小さなものであれ、百科事典を作る上で適切であれば、新しい版は受け入れられるでしょう。まったく百科事典を作る上で貢献しない、悪戯であれば、受け入れられずにリバートされます。しかし、その改変が適切かどうかがはっきりしないようなこともあります。改変の規模が大きかろうが小さかろうが、そのような場合は、ノートなどで議論することが望ましいです。適切かどうかの判断として、検証可能性はひとつの方針と位置づけられるでしょう。検証可能性を満たさない記述の除去は、情報を減じますが、百科事典の正確さを保証する上で有効であり、情報を減じることよりも正確性を担保することが優先されるべきですね、というのが、検証可能性です。これは、常に守られているものではありませんから、強引な編集除去は論争を招くこともありますが。
- Ariesmarineさんの苦悩も、もっともなものだと思います。あまり考えずに、元の筆者への敬意を、文章を残すことで表明することが、多大な労力を必要としたり悩んでしまったりするくらいなら、思い切って書き替えてしまえばいい、というのが、「編集は大胆に」という文書が意味することだと思います。Wikipedia:編集方針を完全に守って編集することは、そうとう難しいですし、Wikipedia:礼儀を忘れない、Wikipedia:ウィキケットといった方針もあります。「編集は大胆に」というのは、強引な編集を正当化するためにではなく、編集を躊躇する人に向けて書かれていると、考えます。その書き換えが、全面的なものであっても、内容を発展させるものであれば、過去の執筆者も理解してくれるでしょうし、過去の執筆者の批判と受け取られかねないという不安があるのであれば、ノートに編集意図を残し、異論があれば編集合戦を避けて対話を進めることで、かなり問題を解消できると思います。--Ks aka 98 2007年4月15日 (日) 07:12 (UTC)