Wikipedia:井戸端/subj/第三者の評価を出典を明記して載せるのは宣伝か
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第三者の評価を出典を明記して載せるのは宣伝か
[編集]ある製品の記事で実際に起きていることについて質問させてください。
ある製品の記事にその製品の評価が第三者の出典を明記して記述されていました。その記事に対してある大学教官の管理者が宣伝的というテンプレートをつけましたが、作成者が嫌がらせとして外しました。そうすると他の方が勝手なタグはがしとして多数のテンプレートをつけて削除依頼を出しましたが、別の方が根拠がないとして削除依頼以外のテンプレートを外しました。削除依頼ではある大学教官が勝手に宣伝テンプレートをはがした者が悪いと問責し、ある管理者が宣伝記事なので書き直す必要があると断定しました。
私はここまでのやりとりを見て記事にある出典を確認したところ、記事の表現は第三者の出典に書いてある内容だったので問題ないと思い出典を確認しないで議論をするのはおかしいと意見したところ管理者と大学教官の2人から個人攻撃だと糾弾されたので謝罪しました。その後出典と記事の内容を出して出典に書いてある内容だから問題ないと意見しましたが管理者と大学教官の方からは現在まで返事がなく具体的にどの表現が宣伝か指摘しないで記事は宣伝だから書き直す必要があるという意見に固執したままです。
議論が進展しないので「第三者の出典に書いてある評価を記事に載せたら宣伝なのか」「出典が明記してあるのに確認しないでつけられたと思われるテンプレートは外してはいけないのか」についてウィキペディアの方針ではどうなっているのか教えてください。お願いいたします。--怪しいお米(会話) 2015年12月30日 (水) 04:03 (UTC)
- コメント Wikipedia:削除依頼/オルガスターの件だとすれば、怪しいお米さんのおっしゃる、「宣伝記事なので書き直す必要があると断定した管理者」というのは私のことでしょうか。私は既に「「○○となった」⇒「××という出典によれば、○○となった」の形式の文面にすればかなり記述も改善するでしょう。」とコメントしているように、第三者の評価は「第三者の評価であることを明記すること」によって「Wikipedia:中立的な観点」や「Wikipedia:大言壮語をしない」や「Wikipedia:言葉を濁さない」を遵守できるのではないかと考えます。--Damena(会話) 2015年12月30日 (水) 04:16 (UTC)
- 出典が明記されているので「××という出典によれば」と書かなくても第三者の出典によっているのは明らかです。WP:INCITEには本文に埋めないで脚注が望ましいと書いてあります。管理者がガイドラインを無視した主張をしないでください。--怪しいお米(会話) 2015年12月30日 (水) 04:31 (UTC)
- いいえ。ガイドライン「WP:SUBSTANTIATE」には「偏った記述は帰属化・明確化する」とあります。ガイドライン「曖昧な表現を支持する出典を添える」にも「この出典の内容自体が主流とは言えない偏った意見に該当すると思ったら、やはり次のように文中にその意見の持ち主を明示してください」と補足説明されています。--Damena(会話) 2015年12月30日 (水) 04:45 (UTC)
- 出典が明記されているので「××という出典によれば」と書かなくても第三者の出典によっているのは明らかです。WP:INCITEには本文に埋めないで脚注が望ましいと書いてあります。管理者がガイドラインを無視した主張をしないでください。--怪しいお米(会話) 2015年12月30日 (水) 04:31 (UTC)
- コメント WP:Vは「出典さえあれば何でも出典元に書いてある通りにそのまま書いて良い」という免罪符ではありません。商品紹介記事を出典に用いるならば出典元の内容には閲覧者に与える印象がより良くなるようにさまざまな謳い文句などの大言壮語(WP:APT)が含まれるのは至極当然のことですが、これらの宣伝的文言はウィキペディアの方針Wikipedia:中立的な観点に従い、大言壮語を除去するかまたは「○○の出典では『XX』という評価で紹介されている」といった中立的な記述に書き換える必要があります。でなければ、ウィキペディアが特定商品の宣伝文言に太鼓判を押している状態になり、ウィキペディアの中立性が損なわれます。WP:V、WP:NOR、WP:POVの三大方針はそれぞれ、どれか一つさえ守っていれば他は無視して良い、といった執筆者の恣意的な運用が許されている方針ではありません。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月30日 (水) 06:46 (UTC)
- コメント以下のように思いました。
- 「宣伝」タグの貼り付けがまず不適切でした。宣伝的な表現は含まれていません。
- メタボちゃんさんの一連の編集[1]や怪しいお米さんの修正[2]は、「実地証明」(Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#考えは議論の場で—実地証明は無用]])として不適切な編集だと思います。
- 「評価と影響」について、表現としては大げさですが、情報源が示されており、なかには複数の情報源が示されているものもありますから、これらの表現が不当に大げさなものとは限らず、実際に高く評価されていて当を得ている表現である可能性も否めません。出典にある評価と異なることを確認するか、そうでなくとも当該分野の知識からそれほどの評価ではないことを知っているかでなければ、大言壮語タグを貼るのも好ましくないと思いますし、このへんのちゃんとした書き方は、たぶんまだ共有されてないので、そこは説明が必要だったと思います。--Ks aka 98(会話) 2015年12月30日 (水) 07:18 (UTC)
- コメントなんというか、記事の編集でもめて、削除依頼(さらにノート)や井戸端に飛び火している状況なのに、肝心の記事のノートは作成すらされておらず、記事の改善そのものについての話し合いもされていません。(関係者の会話ページでは話題にはなっていますけど、記事の中身についての直接的な突っ込んだ話し合いになっていません。)そこらへんがちょっとヘンです・・・。この件に限った話ではないですが、Wikipedia:削除依頼のSTEP.0が軽視されている感じはします。(義務ではありません、てことになっていますけどね。)
- (「事実とは何か」みたいに突き詰め始めると難しくなっていくのですが)シンプルな事実を説明する場合には、「○○によれば」は不要だと考えます。たとえば「プラスチック製である」とか「球状である」というような。これに対し、「評価」というような主観が左右するような記述の場合には「○○によれば」はあったほうがいいでしょう。
- 主題や記述、話の流れによって、「シンプルな事実」なのか「評価」なのかはケースバイケースです。たとえば「緑色である」というのは、ふつうの文脈では「シンプルな事実」側でしょうけど、美術評論なんかで「Aさんは緑色とみたが、Bさんは黄緑とみた」という場合には「評価」側になっていきます。「硬い」「大きい」というような表現も同様です。でどころが違う複数の出典が口をそろえて同じことを言っていれば、それは「客観的っぽい」「確からしい」「主題を説明する上で核心的なな記述」ってことになるし、1つの出典でしか確認できないような記述は「重要度が低い」「主観的かも」と考えることもできます。
- すぐにガイドラインにとびついて単純化して線引しようとせず、主題にあわせて柔軟に考えると良いと思います。それが他の編集者と意見が相違するようになれば、話し合いをすればいいのです。--柒月例祭(会話) 2015年12月30日 (水) 08:26 (UTC)
報告 利用者:怪しいお米(会話 / 投稿記録 / 記録)さんはこの依頼によりWP:SNOWで無期限ブロックとなりました。--Nami-ja (会話 / 履歴) 2015年12月30日 (水) 12:40 (UTC)