コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia:井戸端/subj/社会問題と世直し

「社会問題」というカテゴリ

[編集]

ノート:キー局で議論があったのですが、その中に「Wikipediaで世直しをしないでください」という書き込みがありました。

しかし、社会問題の記事を読んでみると、基本的にはどれも世直しなんですよね。「社会をよくする」考えがまったくないならば、記事そのものが存在しないはずです。

社会問題で「中立」など大量のテンプレを貼り付ける人は、「社会問題」というカテゴリがなぜ存在するのか、わかっているのでしょうか?

大体、対立する問題の大部分は思想が入るもの、主義主張の違いでしょう。そのため、気に入らない記事をつぶしたい一方の人が感情的になるのが現状と思います。

今後は社会問題についてはどのように編集すべきかガイドライン、あるいはプロジェクトなんて必要かもしれません。--たぬき 2007年6月19日 (火) 07:28 (UTC)[返信]

さて参考になるかわかりませんが。日本海呼称問題をポインタとして置いてみます(個人的には、社会問題の中では、よく纏ってる記事だと思います)。 Wikipedia:中立的な観点にあるように『事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな』というのが一番分かりやすい例だと思います。--秋月 智絵沙 2007年6月19日 (火) 07:56 (UTC)[返信]
  • (コメント)もし、「社会問題の記事」が「基本的にはどれも世直し」だと言うならば、それらのすべてを速やかに適切な表現、状態に改めるか、削除すべきです。Wikipediaは演説の場所ではありませんし、中立的な観点を目指す面で重大な疑義が生じると推測されますから。具体策としては、上述の秋月 智絵沙さんが挙げた例に倣うのが適切でしょう。 --DEN助 2007年6月19日 (火) 08:07 (UTC)[返信]
  • (コメント)WikipediaのガイドラインとしてはWikipedia:自分自身の記事をつくらないがありますが、汎社会的な現象について一つの意見ないし主張を持っている場合は、それ自体が自身が当事者であることの証明だと思います。気になること・注目していることに対して記事を作るというのはWikipedia参加者の大半の在り様かとは思いますが、その現象なり動向なりに関与したいということであれば、Wikipediaで記事を書くべきではないかもしれません。せめてAという(公的に発せられている・記述者自身の耳朶に心地よい)意見に関して書くのであれば、その意見Aに対して別の見方が出来ないかや、或いは対抗する意見Bが存在していないか調べる必要があるかと…「巧言令色鮮し仁」とかいいますんで。両方書けば少なくとも釣り合いが取れて記述も増えてラッキーっぽいです(ヲイ)。--夜飛/ 2007年6月19日 (火) 08:24 (UTC)[返信]

ふと思ったのですが、たぬきさんは、前回の井戸端での議論の際に提示されたガイドラインはお読みになられたんでしょうか?もしお読みになられたのであれば、そういったお話は2度出ることはないだろうと俺は思うのですが。参考のために貼り付けておきます。既読されていたら失礼をお詫びします。が、今一度お読みになられることをお勧めはしておきます。

少なくとも、キー局に関しては満たされているとは思えません…(時間がかかることであるとたぬきさんもおっしゃられているので、この点の認識はノートでも一致していると思います)。--ish-ka -s.i.b!- 2007年6月19日 (火) 08:32 (UTC)[返信]

社会で何か問題が起こって、批判が出ているから「社会問題」が成り立つんですよね。何も問題がなければ記事そのものが存在しないでしょう。よく問題になるのがマスコミ関係です。一方の当事者の意見のみが報道されることが問題とされます。市井の一般庶民は「表現」という手段を持ちません。ブログでもここでは「個人である」ことを理由に無視されます。マスコミ問題は「中立にする」ために「報道という一方の発言のみを並べる」という矛盾が存在することもあります。「日本海~」は中立にしやすいでしょう。どの陣営も報道という味方がいるといえます。もちろんマスコミ問題でも中立は保とうとしていると考えます。しかしTBSの一連の不祥事のことがJ-CASTで報道されていますが、他の報道機関を無視、一般の視聴者が気づかずスルーしているがリテラシーのある人なら知っている[1][2][3]のような例もあります。一般の視聴者が中立だと信じているだけで真実は違うしかし報道されない例等どうしましょうか?事実を書いても「事実の暴露をする場でない」と否定されたりしますし。
上記のガイドラインは読みました。しかしマスコミ問題は当てはめると無理が出ますし、そのためにプロジェクトが必要かもと書いたのです。--たぬき 2007年6月19日 (火) 08:38 (UTC)[返信]
であれば、その批判を載せている雑誌・新聞・書籍を基にして記述すべきです。例えばマスコミの諸問題についてであれば、メディアリテラシーについての書籍はたくさんありますから、その立場から記述すれば良いですし、J-CASTで報道されているなら、「J-CASTでは○○を××としている」といった風に記述した上で、脚注に当該記事へのリンクを張るなどの方法があります。
別にルールを絶対視するわけではありませんが、例えばキー局においては、ルールを気にしなさすぎではないでしょうか。だからこその{{要出典}}{{中立な観点}}添付なんだと思いますよ。現時点では。--ish-ka -s.i.b!- 2007年6月19日 (火) 08:52 (UTC)[返信]

「世直し」はする必要がないと思います。信頼できる事実を並べることで、世直しをしたい人の役に立つことはあるかもしれません。しかし、ウィキペディアとしては、「どうすれば世直しになるか」という判断をするべきではないでしょう。ある事件で、どういうことが起こったかを、できるだけ信頼の置ける情報を元に書く。ある出来事について、対立があって社会問題となっているのであれば、対立している両陣営の意見を、それぞれの陣営の意見として書く。まずは、そこです。

「一般の視聴者が中立だと信じているだけで真実は違うしかし報道されない例」について、まずは、報道されない「真実」があるとして、それを真実と信じるに足る証拠がないのであれば、もはや真実ではありません。何が真実かを決定するのは、特定の個人ではなく、またウィキペディアンの一人ではなく、個々の当事者の胸の裡と、せめて事実を積み重ね真実を探ろうとするジャーナリストであり、前者はわれわれの及ぶところではなく、後者であれば何らかの形で発表されるはずですから、それを待つというのが、ウィキペディアの姿勢です。どのメディアも取り上げないのであれば、多くの場合、そのジャーナリストの仕事は不完全だったか、取り上げるに足るニュースバリューを持たないかであって、それを百科事典に掲載する価値はないでしょう。より小規模なメディアで報道があるのであれば、それを書くこと自体は禁止されません。大きなメディアにとって、それは扱うほどではない情報かもしれませんし、何か都合が悪いのかもしれませんが、なぜ取り上げなかったかという理由を勝手に推測することはできません。

キー局を拝見しましたが、ほとんど出典が示されていません。ウィキペディアでは、出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます編集者の個人的観点や政治的意見、また発表済みの情報の個人的分析や解釈、そして自分の支持する観点を押し進めたり自分の提唱する論証や定義を支持するような形で発表済みの情報を解釈・合成するようなことも排除します。まずは、たぬきさんが、これらの方針に合致した記述に修正するところから、はじめていただき、なお残る困難については、その後に改めて考えるということでいかがですか?--Ks aka 98 2007年6月19日 (火) 09:19 (UTC)[返信]

私だけの文章ではないので、私だけの責任で処理すべきではなく、そのために他に執筆者がいて、よければ一部は下駄を預けられる人がいればと思います。そのためにプロジェクトをと考えたのです。私も一応文献探しはしていますが、力不足です。マスコミ関係の記事は書きなぐりでなく責任を持ってほしい、しかし内容がおかしいとは思わないので工夫が必要、そのために多数の協力が必要です。
私が考える「世直し的記事」とは上記の「信頼できる事実を並べることで、世直しをしたい人の役に立つことはあるかもしれません。」につきます。
日本のメディアがジャーナリズムとして機能しているかはWikipedia‐ノート:独自研究は載せないでも議論がありましたが、いまいち機能不全のまま議論が詰まってしまいました。--たぬき 2007年6月19日 (火) 09:32 (UTC)[返信]
  • (コメント2こめ)小生は過去に社会問題という記事を書きましたが、社会問題を記述することと世直しは関係しない(むしろ「両立しない」と言うべきか)と考えます。世直ししたけりゃコンビニ前に落ちているお子様を扇動して石の投げ方か箒の使い方を教え込んでたほうが、まだ現実的かもしれません。Category:社会問題とこれに属する各々の記事の存在意義は、記事として取り上げた社会問題に対して、公正かつ広範囲からの視点で現象の全体像を描くことにあり、ある特定言説を持って扇動することでは無いと考えます。偏った記述をするよりは、むしろ「書かないこと」のほうがWikipediaの掲げる「中立的であること」に沿ったことだと考えられます。例えそれが「僕の考えた素晴らしい解決方法」であったとしても。--夜飛/ 2007年6月19日 (火) 09:42 (UTC)[返信]

自分が書く部分、自分が書いた部分に、出典を記すことは、一人で、今からでも、はじめられることです。それを見て、見習おうとするほかに編集者がいれば、それに越したことはありません。他の人が書いた部分でも、対応する情報源を確認して出典を記すこともできるでしょう。何かを加えたり、何かを削除することは、それが百科事典の項目での記述としてふさわしいものであれば、歓迎されますし、著作権上の問題も生じません。たぬきさんの責任で何かをする必要はありません。同時に、他人に何かを求めることも、うまくいかないことが多いです。自発的に何かをしようという人が複数いれば、自然と対話が生じ、いい打開策を共に考えることもできると思いますよ。--Ks aka 98 2007年6月20日 (水) 16:48 (UTC)[返信]

いま頭を冷やしているところです。ただ気になったのは、上の夜飛さんのように「社会問題の記述」≠「世直し」ではないかということです。テレビ離れでも同じことがいえましょう。感情的に削除を求めたりテンプレを大量に貼り付けることへの疑問はあります。そのため、出典があっても、それが正しいかどうかでもめる可能性もあります。しかしマスコミの問題は関東中心、東京一極集中であることもいえます。そのため関東人と地方の視聴者・読者で感覚が違うといった問題も出ることがあります。ローカル話は検証の問題も出ます。--たぬき 2007年6月21日 (木) 00:51 (UTC)[返信]