Wikipedia:井戸端/subj/小説は出典に使えますか
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小説は出典に使えますか
[編集]ノート:ジャングル大帝で、ある小説が出典に使えるか否かで意見が分かれています。その小説は半自伝的小説で、著者の後書きによれば、プライベートはフィクションだが、仕事関係はほとんど事実というものです。「ほとんど事実」ということで、プロのライターも資料として重要視しており、研究書で引用しているものなのですが。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 11:22 (UTC)
- この場合の出典は、検証可能性を挙げるために示すものであるため、「ほとんど事実」は言い換えれば「何処にフィクションがあるのかは読者には判らない」と言う意味で、「ワイン一杯の樽にナンか嫌げな汁をちょっぴりたらしたもの」と「樽一杯のナンか嫌げな汁にワインをちょっぴりたらしたもの」が等しく「樽一杯のナンか嫌げな汁」であるように、どちらも意味を成さないかと。ただ、客観的事実として、件の小説がそういった性質にあることを述べた上で、同小説中に斯く斯く云々という描写があることを述べることは、作中の描写は事実なのかフィクションなのか読者が判断すべきことに出来るとおもいますけどね。ただ、それをもってその作中の描写が事実だったと断ずることは、「小説の描写がセミフィクションである」と言う事実と、「その小説中に斯く斯く云々という描写がある」という事実を合成した独自研究の一種に成ると思いますが。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 12:16 (UTC)
- たとえば、アニメ研究者の津堅信之氏は、「ほとんど事実」という部分にひっかかりを感じつつ、「それでも、虫プロの仕事と混乱の状況について、最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく、虫プロと、アニメ作家としての手塚治虫研究には必須の文献である」と文献としての価値を非常に高く認めています。その他のライターにも、(仕事関係については)その分野では史実であるとして扱われているのが現状です。参考リンク→[1][2][3]。逆にノンフィクションとして出版されている手塚治虫の自伝は、逆に嘘や誇張、作りが入ってることが研究者から指摘されているんです(自伝に限らず、手塚治虫の発言は鵜呑みに出来ないことが常識となってる)。作者が「ほとんど事実(何処にフィクションがあるのかは読者には判らない)」と言っている小説は、仕事分野に関しては第3者から情報源として定評があるのに対して、作者が「自伝」と銘打ったノンフィクションは逆に無条件に信頼することの出来ない資料と見られている、という逆転現象が生じているのです。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 12:47 (UTC)
- それは、それら研究者らが各々示している意見であって、客観的には「定評と言う水準で妥当性が論じられている」ため、その定評と位置づけを合成して無条件で事実だとすることには飛躍(「論理的ではない短絡」と言い換えてもいい)があるように思います。それはあくまでも件の小説がそういう性質(仕事関係ほとんど事実だと評されている)の域を超えるものではないでしょう。そういった性質を小説の属性として説明することは問題はありませんが、そういう性質から斯く斯く云々という描写を事実だと断ずることはやめたほうがいいと思います…余りにも危ういので。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 12:55 (UTC)
- Wikipedia:検証可能性によれば、著作者の「これは小説です」「これは自伝です」という自己申告はさして重要ではないように思われます。ソースについては「事実確認と正確さについて定評のある、信用できる第三者情報源」に基づいて書くように指導されており、その点で津堅さ氏「最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく」と評価しております。また、真実かどうかよりも検証可能かが重視されるとあるのですが、その点はいかがでしょうか。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 13:25 (UTC)
- 単純に「小説にはこれこれこういう記述がある」と示すことはできると思いますが、それを以って事実の証明に使えるかといえば、難しいと思います。あくまでフィクション混じりの小説にはこう記載されていた、と書ける(事実を提示するのみである)のがウィキペディアの限界だろうと思います。適切な但し書きを添えた上で、です。--草薙 2009年3月18日 (水) 13:40 (UTC)
- (203.91.164.37さんへ)検証可能性の観点に立てば、その情報の出自の性質が問われるのは前提レベルの話だと思います。津堅信之氏はそのリンク先でもセミフィクションで何処までが事実なのか判らないとしている以上、その津堅信之氏の文章一つもっても事実として断ずることは出来ないでしょう。出典の提示は、「これは事実だ」と所定の資料を示すことではなく、その資料が存在することおよび資料の中に斯く斯く云々の記述が存在するところまでを検証可能な事実として証明するに過ぎません。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 13:59 (UTC)
- えーと、ですから、事実として提示するのでなく、山本暎一「虫プロ興亡記」にはこう書いている、と示せばいいのですね、ネタかどうか判断に迷うような東京スポーツやお笑いタレントの発言を出典元とするときと同様に。で、事実かどうかを編者は読者に押し付けるのでなく、読者が参照先として挙げられた「虫プロ興亡記」を読んで判断すればいい、と。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 14:13 (UTC)
- そうですね、客観的に確認可能な事実として扱えるのは、その範疇だと思います。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 15:12 (UTC)
- えーと、ですから、事実として提示するのでなく、山本暎一「虫プロ興亡記」にはこう書いている、と示せばいいのですね、ネタかどうか判断に迷うような東京スポーツやお笑いタレントの発言を出典元とするときと同様に。で、事実かどうかを編者は読者に押し付けるのでなく、読者が参照先として挙げられた「虫プロ興亡記」を読んで判断すればいい、と。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 14:13 (UTC)
- (203.91.164.37さんへ)検証可能性の観点に立てば、その情報の出自の性質が問われるのは前提レベルの話だと思います。津堅信之氏はそのリンク先でもセミフィクションで何処までが事実なのか判らないとしている以上、その津堅信之氏の文章一つもっても事実として断ずることは出来ないでしょう。出典の提示は、「これは事実だ」と所定の資料を示すことではなく、その資料が存在することおよび資料の中に斯く斯く云々の記述が存在するところまでを検証可能な事実として証明するに過ぎません。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 13:59 (UTC)
- なお、(証明方法がしっかりしている)論文や100%事実しか書かれてない自伝を引用元として使う場合でも、「これこれこういうこと『だから』こうである」と、書き手によって考えられた新たな論をWikipedia内に展開する事は「独自研究」になります。念のため。詳細はWikipedia:独自研究は載せないにて。これは気をつけていてもありがちな行為です。--草薙 2009年3月20日 (金) 04:04 (UTC)
- それは、それら研究者らが各々示している意見であって、客観的には「定評と言う水準で妥当性が論じられている」ため、その定評と位置づけを合成して無条件で事実だとすることには飛躍(「論理的ではない短絡」と言い換えてもいい)があるように思います。それはあくまでも件の小説がそういう性質(仕事関係ほとんど事実だと評されている)の域を超えるものではないでしょう。そういった性質を小説の属性として説明することは問題はありませんが、そういう性質から斯く斯く云々という描写を事実だと断ずることはやめたほうがいいと思います…余りにも危ういので。--夜飛(話/歴) 2009年3月18日 (水) 12:55 (UTC)
- たとえば、アニメ研究者の津堅信之氏は、「ほとんど事実」という部分にひっかかりを感じつつ、「それでも、虫プロの仕事と混乱の状況について、最も多くの事実を伝えている資料であることは間違いなく、虫プロと、アニメ作家としての手塚治虫研究には必須の文献である」と文献としての価値を非常に高く認めています。その他のライターにも、(仕事関係については)その分野では史実であるとして扱われているのが現状です。参考リンク→[1][2][3]。逆にノンフィクションとして出版されている手塚治虫の自伝は、逆に嘘や誇張、作りが入ってることが研究者から指摘されているんです(自伝に限らず、手塚治虫の発言は鵜呑みに出来ないことが常識となってる)。作者が「ほとんど事実(何処にフィクションがあるのかは読者には判らない)」と言っている小説は、仕事分野に関しては第3者から情報源として定評があるのに対して、作者が「自伝」と銘打ったノンフィクションは逆に無条件に信頼することの出来ない資料と見られている、という逆転現象が生じているのです。--203.91.164.37 2009年3月18日 (水) 12:47 (UTC)