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Wikipedia:井戸端/subj/出典の内容と論理に矛盾がなくても独自研究になるのか?

出典の内容と論理に矛盾がなくても独自研究になるのか?

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実際の編集においていま発生している事案です。東久邇宮稔彦の編集において利用者:Unamu会話 / 投稿記録 / 記録さんが行なった編集に対して、氏の会話ページに利用者:Pooh456会話 / 投稿記録 / 記録さんが2点注意をしていらっしゃいます(利用者‐会話:Unamu #「東久邇宮稔彦王」の編集について)。そのうち2点目については、Pooh456さんの注意内容が飲み込めませんでしたので お尋ねしたところ、一往復半のやりとりで解決しませんでしたので、場所が個人の会話ページでもあることから、Pooh456さんの提案に乗って、こちらでご意見を伺いたく思います。先掲の会話ページのやりとりがすべてですが、この場に改めますと、Pooh456さんは以下(引用)のようにおっしゃっています。

(2)中曽根康弘について、「2019年11月29日に死去した中曽根康弘は満101歳で、東久邇の持つ日本の総理大臣経験者最高齢記録には及ばなかった。」という注釈が設置され、「“中曽根康弘元首相が死去 101歳”. スポーツ報知. (2019年11月29日) 2019年11月29日閲覧。」が出典として提示されています。 しかし出典で該当しそうな記述は「元首相の中曽根康弘氏が死去したことが29日、分かった。101歳だった。歴代首相で100歳を超えたのは102歳で死去した東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)元首相と中曽根氏だけだった。」であり、「東久邇の持つ日本の総理大臣経験者最高齢記録には及ばなかった。」に該当する言及はありません。

これに対して私が最初に質問したところ、Pooh456さんは、これは独自研究であるとの見解を示されました。しかし、私が思いますに、「100歳を超えた日本の首相経験者が東久邇と中曽根の2人のみ」で、「東久邇102歳、中曽根101歳」が明らかになっているのだから、「中曽根が東久邇の持つ日本の総理大臣経験者最高齢記録には及ばなかった」は自明の理であり、個人的解釈でも分析でもないので、独自研究には当たらないと思うのですが、そのようにお伝えしてもご理解いただけないようでしたので、井戸端の皆様の解釈を伺いたいです。よろしくお願いいたします。--Socioview会話2019年11月30日 (土) 17:38 (UTC)[返信]

スポーツ報知では総理大臣経験者最高齢記録について言及していないので、その注釈であれば「満101歳で」の直後にrefを入れ、以降の文章ににかからないようにした方が良いと思います。以降の記述については最高齢記録について触れている出典を持ってくる必要があります。
もっとも、そもそも論として「東久邇宮稔彦王」の記事に「中曽根が及ばなかった」という注釈を入れる必要はない気がします。記録が破られたなら書く意味があるでしょうが、及ばなかったなら記録保持に変化はないわけですから。高齢の類例を挙げるにしてもギネス記録と絡める必要がなく、これを投稿した時点での最新版のように100歳を超えた事例として並べれば十分だと思います。--ButuCC+Mtp 2019年11月30日 (土) 18:28 (UTC)[返信]
ButuCC+Mtpさん、ご見解を頂きありがとうございました。これは後にコメントいただく方にも補足しておきたいのですが、ButuCC+Mtpさんの「そもそも論として」以降のお話は同様に認識しております。ただ、主題は「出典の内容と論理に矛盾がなくても独自研究になるのか?」という点です。これに限定して答えをくださいというつもりでもないのですが、投稿した意図だけ念のため説明させて頂きました。--Socioview会話2019年11月30日 (土) 20:07 (UTC)[返信]
一般には出典とした資料が記述していることを解釈・発展させてここに記述するべきではないと思います。文章というものは論理的に同じ内容を表すのならどの文章も同値であるということにはなりません。
ぶしつけながらこのトピックがいい例になると思います。私が理解するところでは、Pooh456さんは中立的観点という点からと独自研究という観点から問題がある説明しておられます。それをことさら独自研究にのみのフォーカスして議論をすることはPooh456さんが注意を喚起された意図に沿っていないであろうと思います。まさにそのことを避けるのが中立的な観点の方針であり、独自研究禁止の方針であると私は考えています。
ただし、その種の解釈を記述しないことには文章全体のまとまりが付かないということは普通にあります。ですから、私の意見としては、必要最低限に、最大限に注意深く、ということにります。例えはスポーツ報知にあるという記述を、単に論理に矛盾がないというだけの全く別の表現に置き換えることは、まったく必要性のないことですし避けるべきでしょう。--Bo-ci-an会話2019年12月1日 (日) 07:14 (UTC)[返信]
Bo-ci-anさん、コメントありがとうございます。念のためですが、私はまさにトピックの内容について、局地的に関心があってスレ立てしただけです。Pooh456さんと対立している意識も、氏の編集姿勢がどうだとか言うつもりでもありません。単純に「この場合の解釈はどうなるんだろう」と思ったことについて、他の方にも聞いてみたいと思った次第です。故に井戸端を使わせて頂きました。井戸端を勧められたPooh456さんもそのような意図ではないかと(私は)理解しておりますが。それ以外のご指摘部分は繰り返し読ませて頂きました。ありがとうございます。自分の理解についてはまだ確たるところまで行っておりませんが、他の方からもコメント頂けることを期待しつつ、それらを合わせて理解を進めたいと思います。--Socioview会話2019年12月1日 (日) 19:22 (UTC)[返信]
出典の内容と論理的に矛盾がなくても、出典にない新しい観点を持ち込んでいるならそれは普通に独自研究でしょう。論旨としては「特定の観点を推進するような、発表済みの情報の合成」に抵触する話です。
そもそも出典の提示は「事実性の担保」が目的という考えから生じる錯誤で、出典が保証しているのは単に事実性なだけではなく、観点(論点)も保証しているんです。どれだけ、二次資料を揃えようとも、いずれの二次資料でも言及されていない新しい観点や着想を文章の主旨として書けば、それは残念ながら独自研究に該当する。たとえ情報源と論理的矛盾がなかろうと独自研究は独自研究。今回の中曽根の例は特に実害もないし単純な例だから、却ってわかりにくいのかもしれませんが。
ただ、分野の慣習や慣例などとして、そうした観点の説明や文章があって然るべきと考えられているなら、別に出典自体が直接、その観点を目的としていなくても、執筆者が新たな観点を創りだしたわけではないので問題ないと判断されるとか、ケースバイケースでの判断部分もあるかとは思います。--EULE会話2019年12月2日 (月) 15:31 (UTC)[返信]
  • (コメント)何ら問題ありません。英語版にはen:Wikipedia:Counting and sorting are not original researchという文書があり単純な数値比較は独自研究ではないと明記されています(これとen:Wikipedia:About valid routine calculationsがなかったら近代オリンピックでの国・地域別メダル総獲得数一覧はとっくの昔に削除でしょう)。--6144会話2019年12月3日 (火) 12:19 (UTC)[返信]
  • 程度問題ですが、ご提示の例でいえばとくにそこまで問題がないと思いますけどね。記述「2019年11月29日に死去した中曽根康弘は満101歳で、東久邇の持つ日本の総理大臣経験者最高齢記録には及ばなかった。」に対して、ソース「元首相の中曽根康弘氏が死去したことが29日、分かった。101歳だった。歴代首相で100歳を超えたのは102歳で死去した東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)元首相と中曽根氏だけだった。」は、記述の事実関係の保証を成していると思いますよ。また、そのパラフレーズに、WP:SYNTHESISと指摘するほどの何かの観点を推進している問題も感じません。一般的に独自研究を避けることは編集上の重要な注意点ですが、出典の表現ほとんどそのままの記述を持ち込んで自分の言葉で表現し直すことができていないのもそれもそれで大きな問題ですよね♪ --Yapparina会話2019年12月4日 (水) 09:59 (UTC)[返信]