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Wikipedia:井戸端/subj/他人の編集の修正について

他人の編集の修正について

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質問 ある利用者が出典を挙げたうえで記事を執筆しておられたのだが、内容が明らかに事実と異なる場合、どうすればよいかご教示いただきたい。その利用者が執筆しておられる内容は、現行法令上、明らかに事実と異なっている。また、その利用者が挙げている出典元には、そもそもそのような内容は全く書かれていなかった。私はその記事の記述を基に戻したうえで、その記事の上部の「ノート」と書かれているタブのような部分をクリックし、「Template:報告」というアイコンマークを付け、なぜこの執筆内容が問題なのかについて、現行法令上、事実と異なる記述であることと、出典元にそのような記述はないことの2点を挙げて説明させていただいた。このような対応に問題はありますでしょうか、また、より望ましい対応があるでしょうか。ご教示いただきたい。--さたでーないとふぃーばー会話2019年1月14日 (月) 05:45 (UTC)[返信]

訂正した内容も、またノートにその旨を告知したことも問題ありません。むしろ見習うべき適切な対処であったと考えます。--240F:65:8556:1:45B4:B2E1:45B2:31B3 2019年1月14日 (月) 15:01 (UTC)[返信]
訂正した内容も、ノートに告知したことも問題だと思います。あたかも旧皇族より華園氏、梶野氏、徳大寺氏の方が血統として正当性があるかのような書き方は、何らかの政治的な意図があると考えざるを得ません。いくら今上陛下と血統的に近しい方々だからといって、いちど民間人となった以上、皇位を継承することはできない。これは現在の日本のきまりです。なぜこのようなきまりになっているのか、それに明確な理由というのはありません。特定の理論があって成立したルールというものではありませんが、天皇陛下という存在そのものが理屈では説明できないことから見ても、その血統の原理を理屈で説明することはできないのはおわかりになるでしょう。旧皇族の子孫の方々よりも華園氏、梶野氏、徳大寺氏の方が今上陛下に血統が近い、などとこのようなことを公にしてしまうのは、旧皇族の子孫の方々に不利益になると考えられます。おやめください。井戸。--126.189.6.99 2019年1月18日 (金) 13:49 (UTC)[返信]
ウィキペディア「日本」版である以上、日本の常識や国柄に則った編集が必要だと思います。旧皇族の方々よりも、純粋な民間人である華園氏、梶野氏、徳大寺氏の方が今上陛下と血統が近い、などという情報を明かすことは、今上陛下をはじめとする皇室の方々の貴種性を損なうことに繋がりますし、旧皇族の方々の不利益にも繋がる行為ではないかと危惧しております。そのようなことを「ノート」というホームページに書く必要はないでしょう。井戸。--126.162.16.18 2019年1月19日 (土) 17:12 (UTC)[返信]
コメント 皆様ご意見ありがとう。人によって意見が異なるようですね。240F:65:8556:1:45B4:B2E1:45B2:31B3さん、適切な対処だとご教示いただきありがとうございます。また、126.189.6.99さんから政治的な意図があるのではとご指摘いただいているが、そのような批判は全く当たらない。私が記事を修正したのは、政治的な意図によるものではなく、記事内容が明らかに事実と異なっていることに気付いたためである。また、126.162.16.18さんから皇室の貴種性が失われると指摘いただいているが、そのような批判は全く当たらない。皇別摂家の存在は出典元をはじめ多くの書籍で既に言及されており、ウィキペディアの記事に記述しようがしまいが既に周知の事実である。広く一般に知れ渡っている事実である以上、それを記事に記述しようがしまいが皇室の貴種性に対する影響など皆無であろう。また、旧皇族の方々、あるいは、旧皇族の子孫の方々に対して不利益を齎すとの指摘が挙がっているが、そのような批判は全く当たらない。出典元をきちんと明記したうえで公知の事実を記事に記述しただけであり、それによって不利益を被る方など存在しないであろう。そもそもウィキペディアは、旧皇族の方々、あるいは、旧皇族の子孫の方々に対して利益を齎すことを目的に運営されているわけではない。--さたでーないとふぃーばー会話2019年1月19日 (土) 23:12 (UTC)[返信]
旧皇族の子孫の方々に利益をもたらすためにウィキが存在するのではない、という言い分は権利ばかり主張して義務を果たさない昨今の風潮にも重なるような理屈だと思います。利益をもたらすためではない、などと言っていますが、では逆に言えば、旧皇族の子孫の方々に不利益をもたらすためのものでもないと言えるでしょう。したがって、わざわざ旧皇族の子孫の方々に不利益をもたらすような内容を書くべきところではありませんし、それをわざわざ書くというのは何かしらの政治的意図がなければあり得ないと言えるでしょう。いくら華園氏、梶野氏、徳大寺氏が皇別摂家の子孫だということが有名だったとしても、それをわざわざ記事に書いてしまうと、今までそのことを知らなかった人たちまで記事を目にしてしまう可能性があります。華園氏、梶野氏、徳大寺氏の方が旧皇族の子孫の方々より今上陛下に血統が近い、という話が広範に広まってしまった場合、相対的に旧皇族の子孫の方々に不利益になることは火を見るより明らかでしょう。井戸。--126.183.9.224 2019年1月20日 (日) 11:26 (UTC)[返信]
何の不利益ですか?算定の方法によっては旧皇族よりも血縁的に近くなること自体は既に公知の事実です。だからといって皇位継承に何らかの影響が生じることはありませんし、かつて皇族であり、一方華園氏らはそうではなかった事実は覆りません。計算方法によっては、と但し書きのつく血縁の遠近の順番が少々前後したからと言って、旧とはいえ皇族であった人々の培ってきた歴史や伝統が価値を減ずるものでもないでしょう--240F:65:8556:1:10F3:CCFF:51FD:24E 2019年1月20日 (日) 14:51 (UTC)[返信]
コメント 126.183.9.224さんは旧皇族の子孫の方々に不利益が生じるとおっしゃるが、周知の事実を記事に書いたからといって不利益が生じるとは考えにくい。具体的にどのような不利益が生じるというのか、明確にご説明願いたい。また、240F:65:8556:1:10F3:CCFF:51FD:24Eさんからも指摘があるように、旧皇族の方々、旧皇族の子孫の方々、皇別摂家の子孫の方々、いずれもが既に民間人であり、現行の体制下では皇位継承に全く関与することはない。なお、240F:65:8556:1:10F3:CCFF:51FD:24Eさんから「計算方法によっては、と但し書きのつく血縁の遠近の順番」との発言があるが、サリカ法典式でカウントしようが民法などで一般的なローマ法式の「○親等」でカウントしようが、いかなる計算方法を採用したとしても、男系男子としては華園氏、梶野氏、徳大寺氏の方が旧皇族の子孫の方々より今上陛下に血統が近いのは明らか。また、仮に日本が先の大戦で敗れず、連合国軍占領下の皇籍離脱が発生しなかったとしても、状況は変わらないと言える。なぜなら今「旧皇族の子孫」と称されている方々は、旧皇室典範の下で制定された「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の基準に照らしたとしても、ほとんど臣籍降下の対象となるからである。したがって、今「旧皇族の子孫」と称されている方々は、仮に戦前の体制が継続していたとしても、ほとんど皇族にはとどまれない方々である。--さたでーないとふぃーばー会話2019年1月20日 (日) 16:41 (UTC)[返信]
これは大変驚きました。“不利益を与えることはない”とでも言うつもりでしょうか? 皇族の方々の人数が少なくなってきていることから、“旧皇族の復帰”や“女性宮家の創設”などいろんなアイディアが飛び交っていますよね。このタイミングで、ウィキペディア上に旧皇族の子孫の方々よりも男系男子で血筋が近い方がいるということを記事に書いてしまった場合、この議論に影響を与える可能性があるということに思い至らないのでしょうか。もしこの記事を読んだ一般の人々が、旧皇族の子孫の方々よりも男系男子で血筋が近い方がいることに気が付かれた場合、“旧皇族を復帰させずとも男系男子で血筋の近い方に皇位を継がせればいい”、あるいは、“旧皇族の子孫の方々よりも男系男子として血筋が近い方を皇族にお迎えすべきである”などといった意見が出かねないと思います。これはとりもなおさず、ウィキペディアによって一般世論に影響をあたえるということではありませんか? 世論に影響を与えるなどまさに政治的な行為との指摘が挙がる可能性が高いことであり、このようなことを記事に書くのは政治的な意図でもあるのではないかと勘繰りたくなります。皇別摂家など一般の人々が知るはずもないことを、あたかも公知などと言い張るのも不可解です。井戸。--126.198.23.242 2019年1月22日 (火) 01:01 (UTC)[返信]
◆上のやり取りを見ていて。うーん、なんというか、ただ単に竹田宮家を皇族に復帰させたくないだけではないかと思うのは私だけでしょうか……そのためには手段を選ばず、ウィキペディアにあることないこと書こうとしている、つまりそういうことなんじゃないかなと邪推してしまうことも可能です。旧皇族って、要は竹田宮家とイコールですよね? 男系男子としては旧皇族より皇別摂家のほうが今上陛下と血筋が近い、確かにそうでしょう。でも出典があるからといって、記事に何でもかんでも書いていいわけではありません。男系男子として竹田宮家よりも今上陛下に血筋が近い人は、おそらく無数にいるでしょう。でも男系男子として血筋が遠かろうと竹田宮家は女系を辿れば明治天皇の玄孫です。これは一般常識から見ても今上陛下と血筋が近いと言えるでしょう。そのうえで、皇統に連なる男系男子なのですから、十分有資格者だと思いますけどね……。皇別摂家は、しょせん今上陛下と血筋が近い男系男子だというにすぎません。それに対して、竹田宮家は男系男子としては今上陛下から血筋が離れておりますが、女系としては近親です。男系男子で皇統を繋いできたという伝統に立つならば、いくら血筋が遠かろうと皇統に連なる男系男子である竹田宮が皇位を継承すべきでしょうと思いますけどね…。ただ、上のやり取りを見ていると、竹田宮家の賛成派と反対派が互いに言い争ってるだけみたいに見えてしまいます。出典片手に相手を言い負かそうとするのではなく、もっと建設的な記事にしてほしい。記事を書くのに出典は大事だと思います。でも出典があるからといって記事に何でもかんでも書いていいわけではありません。自分に都合の良いことだけを書くのではなく、もっと相手の方に配慮して記事を書いてほしいと思います。--126.189.119.250 2019年1月22日 (火) 04:14 (UTC)[返信]
大前提として、ウィキペディア日本版である以上は日本の常識や国柄に則った編集が必要だと思います。出典があれば何を書いてもいいというわけではありません。出典があっても他者の不利益になることは書いてはいけないでしょうし、出典が無くても事実ならば書いてもいいでしょう。さたでーないとふぃーばーさんはウィキペディア日本版のルールをご存じないのでしょうか。井戸。--126.165.127.138 2019年1月22日 (火) 07:22 (UTC)[返信]
ふと気になったので、一言。ウィキペディア日本版ではありません。ここはウィキペディア日本語版であり、日本のサイトではありません--aki42006会話2019年1月22日 (火) 08:58 (UTC)[返信]
コメント 運営元のウィキメディア財団の記事をご覧になるとお分かりの通り、はるばる太平洋を超えてアメリカ西海岸に物理的に所在しているガチのアメリカ合衆国サイトです。運営者に日本国籍を持つ人間は一人も居ないそうで。なお世界38箇所に支部がありますが、日本には影も形もありません。ですのでIPさんの仰っておられる「日本語版で記事を書く際の大前提」とやらはルールに明文化されていない個人の思い込みかなあ、と感じます。なお財団コンテンツ利用規約にもそんな話は載ってないですね。WP:JPOVにも反しますし。--Nami-ja [会話 履歴] 2019年1月22日 (火) 10:54 (UTC)[返信]
126.189.119.250氏。色々盛大に勘違いしてるようですが、特に論外な点を一つ。出典がないことを書いてはいけません。そも出典なしでは事実かどうかも確認できますまい。貴方が知っているかどうかではなく、後から記事を見た人が確認できるかどうかが重要です。--240F:65:8556:1:6048:190D:4090:7356 2019年1月22日 (火) 13:59 (UTC)[返信]
コメント 126.198.23.242さんの意見について。記事を読んだ読者がどのように感じるか、どのような意見を持つかは、ウィキペディア側では関知しておらず、あくまで読者側の意思に委ねられている。世論への影響の有無と、記事の掲載の可否は、全く別次元の話であろう。126.189.119.250さんの意見について。そもそも「旧皇族って、要は竹田宮家とイコール」というのは他家の存在を無視しており明らかに誤りであり事実誤認甚だしいが、「竹田宮家を皇族に復帰させたくないだけ」「竹田宮家の賛成派と反対派が互いに言い争ってるだけ」とのご指摘は全くの言いがかりであり、同意できない。なお「男系男子として血筋が遠かろうと竹田宮家は女系を辿れば明治天皇の玄孫」とのご指摘は竹田恒泰氏らを指していると思われるが、恒泰氏は戦前の旧皇室典範下でも「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」の皇族の範囲には含まれず、仮に戦前の体制が継続していたとしても皇族ではない。外務省外交史料館の『帝国憲法改正関係一件』に皇族の降下に関する施行準則が採録されているが、併記されている図を見れば竹田宮恒徳王の長子までが終身皇族であり以降は臣籍降下対象であることがおわかりいただけるであろう。126.165.127.138氏の意見について。「出典が無くても事実ならば書いてもいい」とのご意見には納得しかねる。「Wikipedia:検証可能性」などを熟読してほしい。--さたでーないとふぃーばー会話2019年1月22日 (火) 16:04 (UTC)[返信]
開いた口がふさがりません。“ここはウィキペディア日本語版であり、日本のサイトではありません”ですって? 日本語版なのに日本のためのサイトではないとでも言うのでしょうか。まぁ百歩譲ってウィキペディアが日本のためのサイトではなく、他国のためのサイトだったとしても、日本語のサイトである以上、利用者の多数は日本人でしょうから、日本の常識(たとえば日本の法律など)に則った編集が必要だと思います。もちろん、出典があれば何を書いてもいいというわけではありません。そこは同意してくださいますよね。(しかしウィキペディア日本語版というサイトであるにもかかわらず、日本のためのサイトではないなどと堂々と主張する人がいるとは驚きですね)。また、旧皇族の子孫の方々であっても、“戦前の体制が継続していたとしても皇族ではない”のだという主張にも驚かされます。いまはもう戦前ではないのですから、戦後の現在の体制でのことを考えるべきでしょう。仮に戦前は旧皇族の子孫の方々が臣籍降下の対象だったとしても、戦後はもうそのきまりはないわけですから旧皇族の子孫の方々であっても皇位継承できるという前提で記事を書くべきでは。旧皇族の子孫の方々と華園氏が同列であるかのように記載するのは不可解。それに皇別摂家など一般の人々が知るはずもないことを、あたかも公知などと言い張るのも不可解という指摘に対しては、どなたもお答えになれないようですね。井戸。--126.151.30.159 2019年1月23日 (水) 11:56 (UTC)[返信]
  • コメント 「一般の人々が知るはずもないこと」を記事にしていけないのならば、Wikipediaの記事はほとんどが削除対象になってしまいますよ。記事として成立するのは一般の認識度ではなく、確固とした出典の有無です。--Susuka会話2019年1月23日 (水) 13:34 (UTC)[返信]
  • コメントええ、日本語版は日本国のためのサイトではありませんよ。日本語の使用者は日本国民が多いのは確かですが、それ以外にも存在しないわけではないし、日本国外での使用が禁じられてもいません。英語版だってアメリカ(あるいはイギリス)のためのサイトではありませんし。そして、もちろん法に触れるような事(著作権侵害だとか通り魔の予告だとか)は書いてはいけないんですが、そうではない事項を書いてはならない理由などありません。皇別摂家についても、別に機密指定されているわけでもなし、諸家の系図なども普通に公刊されており、公共図書館で普通に閲覧できます。公にされている知識であり、逮捕歴だとかの不名誉記述でもありません。それを書くな知らせるなとは、どこの愚民政策ですか。皇位継承の有利不利? 現行制度上継承権を持たず、政治上具体的改定案もない現状で血縁者の継承順位を云々しても仮定に仮定を重ねたような論でしかないですが。将来的な継承について旧皇族が候補として取りざたされることもあるようですが、それは血縁関係だけが理由ですか? かつて最も近い藩屏として皇室を支え、万が一には後継を出す任も負っていた歴史をも評価してのことでしょう。単に血縁がより近い人物がいただけで覆るような安易なものなんですか? そして、仮に(あくまでも仮に)皇別摂家が議論の俎上に乗ったとして、そこで問題にすべきは継承の在り方としてふさわしいかどうかで、誰ぞの有利不利ではありません。一等賞争いじゃないんですよ。仮定の上の仮定でしかなく、問題の要でもなく、そもそも百科事典の品質にも寄与しない観点に与するべき理由は皆無です--240F:65:8556:1:8CC1:3121:DAD1:FC7F 2019年1月23日 (水) 13:51 (UTC)[返信]
コメント IP利用者さんの"126.151.30.159 2019年1月23日 (水) 11:56 (UTC)"の発言を見て、改めてWikipedia:日本中心にならないようにという文書の必要性を認識しました。日本人が利用するのは自由だと思いますが、「日本のためのサイトではない」というのは単なる事実です。その上で、特定の記事の内容について問題があると思われる場合は、記事のノートでの議論をお願いします--aki42006会話2019年1月24日 (木) 07:24 (UTC)[返信]
  • (IPv4さん宛)“ここはウィキペディア日本語版であり、日本のサイトではありません”ですよ。むしろアメリカ合衆国財団法人が年間経費200億円ほどを計上しGoogleなど世界企業が寄付金を捻出している状況で「ここは日本国在住日本国民専用サイトである、他国民は出て行け!」なんて言い出したら、そういう意識は根本からないのでしょうけども、客観視するとその行動と発言の結果はただの『泥棒』でしょう? なお、数年前に日本国外日本語話者の総数を調べたことがあるんですけど2015年頃? で400万人弱だったと記憶しています。日本国内に置き換えると、静岡県民は日本語版を読むな、と言っているも同然ですね。 / IPさんが入り混じって誰が誰やら分からないので、ここから更に議論を広げるのであればIPさんたちは当ページ議論専用で結構ですのでアカウントの作成をお勧めします。更新ブックマーク代わりのウォッチリストや作成・編集記事の変更通知メールなどが使用できるようになりますのでとても便利ですよ。--Nami-ja [会話 履歴] 2019年1月27日 (日) 03:51 (UTC)[返信]
まず、男系で血筋が遠いということ公表するというのは、竹田宮家の方々の皇位継承の可能性を低下させる行為であると思います。たしかに竹田宮家の方々は崇光天皇の男系十九世子孫です。竹田宮家は男系で19代も隔絶している子孫、かたや、華園氏は東山天皇の男系八世子孫ですから、男系男子の血のつながりという意味では華園家の方が近しい皇親であることはそのとおりでしょう。しかし、だからといって、それを百科事典に書いてよいのですか? そんな記事を読んだ読者は“旧皇族が男系で19代も離れているなら、男系で8代しか離れていない皇別摂家に皇統を繋げた方がよい”と思うかもしれませんよね。そのような情報が広まれば、旧皇族の皇位継承の可能性が低下しますよね。そのような特定の方々にとって不利になる情報を明かすということが認めらているのかといっているのです。ウィキは中立性を重んじると聞きました。ある特定の方々にとって不利になるような情報は書いてはいけないのではなかったのですか。井戸。--126.164.3.244 2019年1月27日 (日) 20:18 (UTC)[返信]
また、家系とか血筋ということは、記事で書かれている当人の技量とか能力とか努力にはかかわりがないことですよね。したがって、“旧皇族が男系では血筋が遠い”ということをわざわざ記事で明かす必要性がないと思うのですいかがでしょうか。ウィキでは、単に有名人の子孫というだけでは記事を作ってはいけない、その人物に特筆性がないと記事を作ってはいけない、と聞きました。ということは、いま記事が存在する方々は、単に有名人の子孫だからということではなく、その人物自身に特筆性があるということですよね。それならば、その人物自身の特筆性があること、たとえばその人物の技量とか能力とか努力で成し遂げた業績などには積極的に触れるのはよいでしょうが、その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思うのです。井戸。--126.164.3.244 2019年1月27日 (日) 20:20 (UTC)[返信]

コメント

  • 皇位継承は、利権ではありません。「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」と断言するのでしょうか。
  • 「特定の方々にとって不利になる情報」ならば、記載してはならないのでしょうか。Wikipediaは、特定の方々を忖度する場ではありません。
  • 件の人物は「宗教法人真宗興正派門主」という肩書を持っています。「単に有名人の子孫」だから記事になっているわけではありません。

--Susuka会話2019年1月28日 (月) 10:17 (UTC)[返信]

まずお聞きしたいのですが、“件の人物は「宗教法人真宗興正派門主」という肩書を持っています”とのことですが、“「宗教法人真宗興正派門主」という肩書”に特筆性があるのですか? 井戸。--126.162.84.37 2019年1月30日 (水) 03:13 (UTC)[返信]
次にお聞きしたい、というか、小言です。“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」と断言するのでしょうか”という質問は、問いの立て方がおかしいと思います。 “「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」”のか? というご質問をなさっていますが、「皇位継承の可能性が低下する」なら「皇位継承に不利になる」のは当たり前でしょう。議論の余地はありません。断言するのは当然でしょう。「皇位継承の可能性が低下する」のに「皇位継承に有利になる」わけがありませんし、「皇位継承の可能性が低下する」のに「皇位継承に有利にも不利にもならない」なんてこともないでしょう。ばかばかしい。「皇位継承の可能性が低下する」なら「皇位継承に不利になる」のは当たり前ですし、もしSusukaさんが疑問をお感じなら「皇位継承の可能性が低下する」のに「皇位継承に有利になる」ような事態が理屈として起こり得るのか少し考えてみたらいいでしょう。なぜ記事に書いてはいけないのかとか記事に書くと可能性が低くなるのかとか記事に書くと不利になるのかという質問とかなら意味は分かりますが、Susukaさんの可能性が低くなると不利になるのかという質問は意味のない質問でしょう。井戸。--126.162.84.37 2019年1月30日 (水) 03:27 (UTC)[返信]
南北朝時代ならいざ知らず、現代において皇位継承を有利不利で語り、特定の誰ぞが継承し易いような忖度を要求すること自体が皇位を利権の争奪扱いしていて不適切、という意味ではありませんか--49.239.70.248 2019年1月30日 (水) 05:05 (UTC)[返信]
それならば“皇位継承について有利不利で論ずるのは不適切ではありませんか?”と質問すべきでしょう。Susukaさんの“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」と断言するのでしょうか”という原文から、上記のような質問意図を捻り出すのは困難かと。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 12:12 (UTC)[返信]

コメント 「有利・不利」の定義を「皇位継承順位が高いか低いか」で語るなら、本記事の存在は旧皇族の方々にとって「不利」(控えめに見て、有利にはならない)でしょう。しかし、皇位継承順位の点での「有利・不利」と、当人が社会で生活を行う上での「有利・不利」は異なります。皇位は利権ではありませんし、その地位には大きな責任が伴います。それを前提として、「皇位継承順位を下げかねない記述である」→「だから書くべきではない」というのは、短絡的ではないでしょうか。--Susuka会話2019年1月30日 (水) 10:55 (UTC)[返信]

それならば“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「社会生活を送るうえで不利になる」と断言するのでしょうか?”と質問すべきでしょう。ふざけているのでしょうか。Susukaさんの原文では“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」と断言するのでしょうか”としか書かれていません。「社会生活を送るうえで」なんてどこにも書かれていませんよ。ふざけているのでしょうか。常識的に考えれば、Susukaさんの原文を読む限り「皇位継承の可能性が低下すると、皇位継承に不利になるのはなぜか」という質問だと理解するのが妥当でしょう。Susukaさんの原文を読んで「皇位継承の可能性が低下すると、社会生活上で不利になるのはなぜか」という質問だと理解するのは不可能でしょう。もしそんなことないよというなら、きちんとこの場で説明してください。ふざけているのでしょうか。どこから「当人が社会で生活を行う上での有利・不利」についてという話が出てきのか。きちんとこの場で説明してください。ふざけているのでしょうか。私の理解力が足りないとでも言うのかな。ふざけているのでしょうか。Susukaさんの原文を読んでも社会生活上有利か不利かを論点にしていると思しき箇所は全く見当たらないが、どこでそんなことが論点になっていたのか、原文を引用し具体的に提示してきちんとこの場で説明してください。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 12:12 (UTC)[返信]
なお、Susukaさんがただ単に言い逃れしようとして、後出しで「当人が社会で生活を行う上での有利・不利」という話を持ち出しているだけなのであれば、いい加減にしてほしい。矛盾を突かれたからといって言い逃れしようとして苦し紛れに嘘をつかれても困ります。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 12:15 (UTC)[返信]

コメント わかりました。最初の質問の不備によりご迷惑を掛けましたので、改めて私の意見を述べます。「皇位継承の可能性の低下」が「社会で生活を送るうえで不利になる」と断定することはできません。また、仮に不利になるとしたところで、それのみを理由に該当者に忖度をして記述を保留することは認められません。--Susuka会話2019年1月30日 (水) 12:29 (UTC)[返信]

なるほど、つまりSusukaさんの“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「不利になる」と断言するのでしょうか”という質問の不備を認めたうえで、あらためて“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「社会生活を送るうえで不利になる」と断言するのでしょうか?”という意図で質問をなさりたい、つまりそういうことなのでしょうか。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 13:16 (UTC)[返信]
Susukaさんへ。この下に↓ご回答をいただければありがたいと思います↓。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 14:18 (UTC)[返信]
Susukaさんへ。ご回答いただけないのはなぜでしょうか。この一階層下の段落に↓ご回答をいただければありがたいと思います↓。井戸。--126.151.11.232 2019年2月2日 (土) 15:49 (UTC)[返信]
コメント 質問の意図はその通りです。--Susuka会話2019年2月2日 (土) 16:27 (UTC)[返信]
Susukaさんへ。“質問の意図はその通りです”とのご回答、どうもありがとうございます。そうしますとSusukaさんの質問は“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「社会生活を送るうえで不利になる」と断言するのでしょうか?”ということですね。井戸。--126.162.111.107 2019年2月2日 (土) 22:10 (UTC)[返信]
さて、Susukaさんからの“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「社会生活を送るうえで不利になる」と断言するのでしょうか?”という質問ですが、これもまたおかしな質問ですよね。なぜなら“「社会生活を送るうえで不利になる」と断言”している人など、この場には一人もいないからです。ふざけているのでしょうか。私はそんなこと断言したことは一度もありませんし、他の方もそんなこと断言してる人はいませんよね、この井戸端のぺーじにおいては。もしそんなことないよというなら、きちんとこの場で説明してください。ふざけているのでしょうか。どこから「当人が社会で生活を行う上での有利・不利」についてという話が出てきのか。きちんとこの場で説明してください。ふざけているのでしょうか。私の理解力が足りないとでも言うのかな。ふざけているのでしょうか。この井戸端のぺーじにおいて社会生活上有利か不利かを論点にしていると思しき箇所は全く見当たらないが、どこでそんなことが論点になっていたのか、原文を引用し具体的に提示してきちんとこの場で説明してください。井戸。--126.162.111.107 2019年2月2日 (土) 22:18 (UTC)[返信]
つまり、Susukaさんからの“「旧皇族の皇位継承の可能性が低下」することが、なぜ「社会生活を送るうえで不利になる」と断言するのでしょうか?”との質問に対する回答としては、“そんなこと断言してる人はひとりもいませんよ。何をふざけた質問してるんですか?”でしょう。Susukaさんがただ単に言い逃れしようとして、誰一人として論じていなかった「当人が社会で生活を行う上での有利・不利」という話を持ち出して誤魔化そうといるだけなのであれば、いい加減にしてほしい。矛盾を突かれたからといって言い逃れしようとして、苦し紛れに訳の分からない質問をされても困ります。井戸。--126.162.111.107 2019年2月2日 (土) 22:22 (UTC)[返信]
Susukaさんへ。この件については、この一階層下の段落に↓ご回答をいただければありがたいと思います↓。井戸。--126.162.111.107 2019年2月2日 (土) 22:24 (UTC)[返信]

コメント (掲載場所と発言順番が前後してややこしいので節分けしました。)ご返答ありがとうございます。上述の126.162.111.107さんのコメントとあわせて、

  • Wikipediaにおいて執筆を行う場合、その執筆内容が任意の人物の皇位継承の可能性が増減する(皇位継承について有利・不利が作用する)場合であっても、執筆内容および執筆を行う行為は該当人物が「--Susuka会話2019年2月3日 (日) 09:52 (UTC)社会で生活を行う上での有利・不利」に直接結びつくことは(現時点においては)断言されていない[返信]

という認識が共有できたとみてよろしいでしょうか。
以下は、その通りであるという前提の話になります。126.183.9.224さん(IPは違いますが「井戸」と署名されているので同一人物ですよね?)は「相対的に旧皇族の子孫の方々に不利益になる」(2019年1月20日 (日) 11:26 (UTC))などとおっしゃっています。つまり、126.162.111.107さんは

  • Wikipediaにおいて執筆を行う場合、その執筆内容が任意の人物の皇位継承の可能性が増減する(皇位継承について有利・不利が作用する)場合がある場合、その記載については慎重であるべきだ

ということを主張されているのでしょうか。--Susuka会話2019年2月3日 (日) 09:52 (UTC)[返信]

便宜上節を分ける

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白熱しているところ申し訳ない。とりあえず、頭からザッと目を通したけど、結局、IP氏の主張って何のウィキペディアの方針文書にも基づいてないでしょ。JPOVの無理解とか、結局、自身の主観的根拠を並べて盾いるだけで、何の論証もできていない(問題箇所は見てないけど、出典に基づいて独自研究にも反していないなら問題ない。逆にそこに違反しているなら、それを根拠にするべきで、個人の単なる想いを主張されても、「うん、わかった。それはウィキペディアじゃないところなら良いかもね」としか言いようがない)。ウィキペディアの方針文書と無関係のところで議論を続けても無駄です。これ以上、IP氏が方針文書や信頼できる情報源を根拠にして主張しないのであれば、Wikipedia:雪玉条項の適応をし、議論を打ち切った方がいいと思います。--EULE会話2019年1月30日 (水) 13:33 (UTC)[返信]
IP氏へ。ここはウィキペディアですので、何か信頼できる出典を根拠に意見を述べてください。--EULE会話2019年1月30日 (水) 13:33 (UTC)[返信]
ウィキでは、単に有名人の子孫というだけでは記事を作ってはいけない、その人物に特筆性がないと記事を作ってはいけない、と聞きました。これは方針文書に基づいていますよね。ウィキでは、単に有名人の子孫というだけでは記事を作ってはいけない、その人物に特筆性がないと記事を作ってはいけない、と聞きました。ということは、いま記事が存在する方々は、単に有名人の子孫だからということではなく、その人物自身に特筆性があるということですよね。それならば、その人物自身の特筆性があること、たとえばその人物の技量とか能力とか努力で成し遂げた業績などには積極的に触れるのはよいでしょうが、その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思うのです。家系とか血筋ということは、記事で書かれている当人の技量とか能力とか努力にはかかわりがないことですよね。したがって、“旧皇族が男系では血筋が遠い”ということをわざわざ記事で明かす必要性がないと思うのですいかがでしょうか。“件の人物は「宗教法人真宗興正派門主」という肩書を持っています”との反論が寄せられていますが、“「宗教法人真宗興正派門主」という肩書”に特筆性があるのですか。その人物に特筆性がないと記事を作ってはいけない、と聞きました。これは方針文書に基づいていますよね。井戸。--126.183.58.204 2019年1月30日 (水) 14:18 (UTC)[返信]
>その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思うのです
それは氏の個人的な考えで何の根拠にもなりません。信頼できる情報源において、血筋が書かれているのであれば、それは一般に「特筆性がある」と考えられるから、信頼できる情報源上で参照できるんです。もしそれが社会的に、一般常識において、不要な情報なら、そもそも信頼できる情報源に書かれてないでしょう。でも、信頼できる情報源で血筋について書かれている以上、それはウィキペディア上で言及することは何も問題ないです。「宗教法人真宗興正派門主」という肩書に特筆性があるか、といえば、それが信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある(言及する価値はある)としか言いようがありません。
(補足)記事の新規立項基準としての「特筆性」と、既に記事の特筆性が認められた記事・主題の中での、個々の記述の特筆性(言及する価値)は別概念です。それ単独では、記事の立項基準に満たない情報だからといって、それを理由として、基準を満たす記事の中で言及される価値のない情報と断言するのは論理の飛躍としか言いようがありません。--EULE会話2019年1月30日 (水) 14:34 (UTC)[返信]
それはEULEさんの個人的な考えで何の根拠にもなりません。“信頼できる情報源において、血筋が書かれているのであれば、それは一般に「特筆性がある」と考えられる”のですか? “信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”のですか? 本当ですか? この井戸端というのを検索してみたところ、信頼できる出典で参照ができ、なおかつ、有意な言及というのが条件のようですが……。たとえば、新聞の中でも特に一般紙は“信頼できる出典”とみなせる場合が多いと思いますが、それではその新聞の単なる交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報、などといった記事に“特筆性はある”のですか? “信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”と断言するのはあまりにも極論ではないでしょうか。井戸。--126.189.36.3 2019年1月30日 (水) 22:26 (UTC)[返信]
もう一度もうしあげますが、EULEさんは単純に「特筆性がある」というのと「検証可能性をみたしている」というのとを混同しているように思います。“信頼できる情報源において、血筋が書かれているのであれば、それは一般に「特筆性がある」と考えられる”“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある(言及する価値はある)”というのは極論でしょう。“信頼できる情報源上で参照できる”というのは、「検証可能性というのはみたしている」と言えるでしょう。でも検証可能性をみたしているからといって、イコール“特筆性はある(言及する価値はある)”とはいえないでしょう。井戸。--126.189.36.3 2019年1月30日 (水) 22:34 (UTC)[返信]
また、 EULEさんの“もしそれが社会的に、一般常識において、不要な情報なら、そもそも信頼できる情報源に書かれてないでしょう”とのことですが、それも極論に過ぎると思います。たとえば、新聞の中でも特に一般紙は“信頼できる出典”とみなせる場合が多いと思います。新聞としては、単なる交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報、などといった情報は“不要な情報”ではないと判断して、これらの記事を掲載しているものと思います。しかし、新聞にとって“不要な情報”ではないからといって、ウィキにとっても“不要な情報”ではないとは言い切れないでしょう。新聞と事典では記事として載せる掲載基準が違うでしょうし、新聞の考える「必要な情報」と事典としてのウィキが考える「必要な情報」とでは異なるでしょう。井戸。--126.189.36.3 2019年1月30日 (水) 22:40 (UTC)[返信]
いずれにせよ、EULEさんの“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”という発言は極論だと思います。私が思いますに「信頼できる出典で参照できるのであれば、検証可能性は充足している」とは言えると思います。しかし「信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性は充足している」とは断言できないと思います。いかがでしょうか。2019年1月30日 (水) 14:34のEULEさんの“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”という発言は、極端に過ぎませんか。お答えください。井戸。--126.189.36.3 2019年1月30日 (水) 22:44 (UTC)[返信]
私個人の考えではありません。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを御覧ください。無意味なオウム返しは止めてください。
>それではその新聞の単なる交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報、などといった記事に“特筆性はある”のですか?
ごめんなさい。何が言いたいのかわかりません。今回の「宗教法人真宗興正派門主」の情報源は、交通事故や善行表彰の記事でしか存在しないものなのですか?(なんで、ここで「地方面の一般人の訃報」が出てくるのか本当にわからない) そうでなく「信頼できる情報源でも、交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報では特筆性があるとは言えない」ゆえに「信頼できる情報源を基にしても血筋のことは特筆性があるとは認められない」と言いたいなら、詭弁としか言いようがないです。そもそも、ウィキペディアとして血筋を載せてはいけない理由を聞いているのです。信頼できる情報源なら何をしてもいいのか、みたいな方向に引っ張ろうとしても、その前に個人の主観的理由ではない「血筋を載せてはいけない根拠」をお示しください。
前回の通り、新規記事の立項基準としての特筆性と、個別記事の中の言及する価値は別概念です。新規記事の立項基準としての特筆性を言うのであれば、Wikipedia:独立記事作成の目安に「有意な言及」が必要とある通り、「交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報」は「有意な言及」ではないでしょうね。「地方面の一般人の訃報」で、新規記事が作れるなんて誰も言っておりません。しかし、既に有名人が、交通事故や火事、善行表彰にあったという時、その記事で、それらについて言及する価値はあるでしょう。
さて。根拠を示さず、相手の言葉尻を捉えて「でも、こういうパターンもあるかもしれないから、あなたの主張は根拠にならない」という主張しかする気がないなら、これ以上の議論は無駄だと考えます。結局、血筋を書いてはいけない根拠は、「その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思う」というあなたの主観的理由だけですし、取り合う必要性を感じません。--EULE会話2019年1月30日 (水) 23:07 (UTC)[返信]
(追伸)他の方々へ。IP氏には「血筋を書いてはいけない根拠」だけを求めればいいのです。--EULE会話2019年1月30日 (水) 23:07 (UTC)[返信]
EULEさんから“「宗教法人真宗興正派門主」の情報源は、交通事故や善行表彰の記事でしか存在しないものなのですか?”とのご質問がありましたが、宗教法人真宗興正派門主の方のくだんの記事には系譜や続柄といった血筋についてそもそも出典なき箇所が多いのはご覧のとおりです。EULEさんはこれだけ“信頼できる出典”について言及されておられるのに、いまだになぜ出典なき血筋を書いてはいけないのかが理解できないとは不可解です。有名人ですから“血筋や門地”について明かされることをプライバシー侵害とまでは言うつもりはないですが、「存命人物の伝記」ページにも出典なき記述はよくないと書いてあるように思うのですが、違うのですか……。まさか問題になっている記事を確認しないで、この場のノリで適当に発言しておられるのでしょうか。井戸。--126.146.55.165 2019年1月31日 (木) 00:38 (UTC)[返信]
EULEさんから“「信頼できる情報源でも、交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報では特筆性があるとは言えない」ゆえに「信頼できる情報源を基にしても血筋のことは特筆性があるとは認められない」と言いたいなら、詭弁としか言いようがない”との指摘がありましたが、私が言いたいのはそんなことではありません。「信頼できる情報源でも、交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報では特筆性があるとは言えない」ゆえに「EULEさんの“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”という主張は誤りである」ということを申し上げています。「信頼できる情報源でも、交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報では特筆性があるとは言えない」ゆえに「信頼できる出典で参照できたばあい、検証可能性はみたすが、特筆性があるかどうかはケースバイケース」が正しいと思うのです。逆にEULEさんにお聞きしますが、2019年1月30日 (水) 14:34のEULEさんの“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”という主張について、本気で正しいとお考えですか? 信頼できる出典で参照できたとしても特筆性がないことなんて、いっぱいあると思うのですが。「存命人物の伝記」ページにも出典があるからといって何を書いてもいいわけではないことが書かれていると思うのですが……「存命人物の伝記」ページの例では“有名で検証可能でしかもその記事にとって重要なことですか?そうでなければ、除去してください”と書かれているとおり、検証可能性だけではダメだと思うのですが。井戸。--126.146.55.165 2019年1月31日 (木) 00:49 (UTC)[返信]
◆「Wikipedia:存命人物の伝記」には「存命人物の伝記は、慎重に、かつ当該人物のプライバシーに配慮して書くべきです」とされており「ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要で記載するに値するものであり、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしい」とされています。有名人ですから“血筋や門地”について明かされることをプライバシー侵害とまでは言うつもりはないとの意見が挙がっていますが、著名人であっても血縁関係はかなりセンシティブな情報ですから、プライバシーに該当しうると考えて慎重に記載する方が無難でしょう。また、血縁関係が「本人の業績にとって重要」かどうかは議論が分かれるところでしょうが「有名で」ありそれが「記載するに値する」場合に限っては、「信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されている」以上は記載することに特に問題ないでしょう。くだんの記事には系譜や続柄といった血筋についてそもそも出典なき箇所が多いとのことなので、常識的に考えれば記載不可と看做すのが妥当でしょう。EULEさんはIP氏には「血筋を書いてはいけない根拠」だけを求めればいいのですとおっしゃっていますが、それは逆で、通例は記載しようとする側に立証根拠があるんじゃないかな……。なぜEULEさんは血縁関係を記載しても問題ないとお考えなのか、逆に質問してみたらよいのではないでしょうか。--126.188.124.37 2019年1月31日 (木) 01:10 (UTC)[返信]
  • コメント 126.146.55.165さんは「出典なき箇所が多い」とおっしゃっていますが、件の記事は月刊誌の特定の記事を参考文献として掲げています。件の記事のどこが「出典なき箇所が多い]」のでしょうか。--Susuka会話2019年1月31日 (木) 10:18 (UTC)[返信]
返信 申し訳ないですが、人の話をよく聞いてください。一番最初に「出典に基づいて独自研究にも反していないなら問題ない。逆にそこに違反しているなら、それを根拠にするべき」や、方針文書を根拠にして論証するなら問題ないと言っていますでしょう? そこを外して、反論や批判されても、意図的にやっているのであれば、論点ずらしの詭弁を弄していると判断するしかありません。
>宗教法人真宗興正派門主の方のくだんの記事には系譜や続柄といった血筋についてそもそも出典なき箇所が多いのはご覧のとおりです。(中略)いまだになぜ出典なき血筋を書いてはいけないのかが理解できないとは不可解です
出典がないなら「出典がない」という理由で除去すべきです。血筋がどうとか関係ないです。血筋はおろか、出身地も生年月日(年齢)も本名すら書いてはいけません。出典が無くても血筋を書いて良いなどと私は一言も言ってません。それを、氏が、ウィキペディアの方針文書に則った「出典がない」という理由ではなく、「その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思う」という主観的な理由を根拠にしているので、それは理由にならないと最初から言ってます。
「宗教法人真宗興正派門主」の情報源は、交通事故や善行表彰の記事でしか存在しないものなのですか?”とのご質問がありましたが、宗教法人真宗興正派門主の方のくだんの記事には系譜や続柄といった血筋についてそもそも出典なき箇所が多いのはご覧のとおりです
その上で、これ自体が論点ずらしです。「交通事故や善行表彰」を反論の材料に持ち出したのは氏です。そもそも「出典がない」なら「出典がないので除去する」で終わりです。
「信頼できる情報源でも、交通事故や火事、善行表彰、地方面の一般人の訃報では特筆性があるとは言えない」ゆえに「EULEさんの“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”という主張は誤りである」ということを申し上げています
それが詭弁であると申し上げています。これは3点において詭弁です。第一に、文脈を無視して、私の主張を「信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある」の一点に矮小化している点です。私は、氏が血筋には特筆性がないと思う、という個人的な考えに対して、信頼できる情報源に載っているということは、それが一般に必要な情報と考えられているという論旨で述べてます。「血筋には特筆性がない」ということが、氏の個人的な考えではなく、社会通念的に合意されていることなのであれば、信頼できる情報源にはそもそも血筋なんて記載されていないと言っているのです。そうした前提を踏まえた上で、さしあたって「信頼できる情報源で血筋について書かれている以上、それはウィキペディア上で言及することは何も問題ない」と言っているんです。もちろん「存命人物の記述」などの方針文書を踏まて、信頼できる情報源に記載されていても、載せるべきではない情報もありますが、そういう高度なレベルの話を私はあなたとしてません。この点において、氏が論証や反論しなければならない論点は「血筋には特筆性がないことは、氏の個人的な考えではなく、一般社会や社会通念上の合意か」という点です。それをせず、文脈を無視して私の一言に論点を持っていこうとしたのは典型的な論点ずらしです。
第二に、既に指摘している点と少し被りますが、私は最初に方針文書を根拠にすると明言しております。当然、「存命人物の記述」の規定などに照らして、信頼できる情報源に載ってはいても、記載するべきでない情報があることは否定しません。おっしゃる通り、検証可能性を満たすことと、特筆性の有無はそのまま一致する概念ではありません。だから、そのズレの部分についてもウィキペディアの各種方針文書で「こういう場合は信頼できる情報源でも使用の不適当な例になる」と言及されているんです。地方面の一般人の訃報に特筆性が認められないという結論も、普通に方針文書から引き出せます。ところが、そこで「地方面の一般人の訃報は特筆性があると言えない」だから「血筋が載っていても特筆性があるとは言えない」というのは、論理の飛躍です。ここで、「私はあくまで血筋だけではなく信頼できる情報源を基にした場合の一般論について話している」という話であれば、なお問題があります。「血筋」どころか、あらゆる記述が特筆性はあるとは言えないということになります。方針文書で、森羅万象の個々の事象について「これは特筆性がある」と定義しなければ、それは特筆性があると認めらないという話になり、ある特定の事象について論証しようとして、一般的な事象すべてに展開される形になってしまうのは詭弁の典型的な特徴の一つです。
第三に、前回時点で述べていますように、氏は記事自体の特筆性と、既に特筆性が認められた記事内での個々の記述の特筆性を混同しており、話になりません。
存命人物の伝記」ページの例では“有名で検証可能でしかもその記事にとって重要なことですか?そうでなければ、除去してください”と書かれているとおり、検証可能性だけではダメだと思うのですが
結局、最初の方の話に戻るのですが、「その記述が記事にとって重要でないこと」を個人の主観的理由ではなく、合理的に説明できるのであれば構いません。例えば、ゲームの攻略本を基にして、その攻略情報について書いてはいけないのは、それが百科事典の趣旨とは異なる内容の記述だからだし、代理店のアルバイトが痴漢して捕まったからといって、それを大手新聞社の不祥事として載せるのは、その大手新聞社の理解にまったく資さないから不要といえる。血筋の情報が、その信頼できる情報源上で、論旨とは無関係に、言ってみればトリビア程度に書かれているようなものなら(その内容がマルっと本から削除されていても等価で成り立つ程度なら)、それは不要でいいんじゃないですか。しかし、血筋の記述が重要なポイントとして書かれている出典の場合に、それをただ氏個人が不要と考えている一般定義で不要だと言ったところで、意味はないです。
(最後に)氏が意短くも「特筆性があるかどうかはケースバイケースが正しい」とおっしゃってますが、まさしく、その通りです。だから、そこで「その人物自身の技量や能力や努力には全くかかわらない血筋や門地について積極的に触れるのはおかしいと思う」という主観的な理由で、血筋は記載するべきはないという主張に肯定すべき点がないです。--EULE会話2019年2月2日 (土) 04:41 (UTC)[返信]
◆ いままで「信頼できる情報源において、血筋が書かれているのであれば、それは一般に「特筆性がある」」「信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある(言及する価値はある)」と主張していたEULEさんが、その後、一転して意見を変えて「「特筆性があるかどうかはケースバイケースが正しい」とおっしゃってますが、まさしく、その通り」と主張し始めたので、これで解決ではないかな。過去にも検証可能性と特筆性とを混同する方が度々出現してるし、間違いやすい人も多いということだろうけど、出典に基づいて独自研究にも反してないからといってそれだけでは記事に書いてよいとは限りません。ウィキペディアの方針である「Wikipedia:存命人物の伝記」には「存命人物の伝記は、慎重に、かつ当該人物のプライバシーに配慮して書くべきです」とされており、そのなかに「ある記述や事件が有名で本人の業績にとって重要で記載するに値するものであり、信頼できる公表済みの情報源できちんと文書化されているものなら、たとえ否定的なもので当の本人が嫌がろうと、記事に含めるにふさわしい」と明確に記載されているとおり。信頼できる出典があることだけでは不十分であることは方針に明確に定められています。EULEさんのように「出典に基づいて独自研究にも反していないなら問題ない」と勘違いしている人もまだまだ多いようですが、これを機に言動を改めていただければいいんじゃないかと。--126.146.6.249 2019年2月2日 (土) 09:39 (UTC)[返信]
EULEさんから“「特筆性があるかどうかはケースバイケースが正しい」とおっしゃってますが、まさしく、その通り”との回答がありました。当初はEULEさんは“信頼できる出典で参照できるのあれば、特筆性はある”と断言していたわけですが、この自身の発言の誤りを認識し「信頼できる出典で参照できたとしても、特筆性があるかどうかはケースバイケース」ということが理解できたようですから、反省しているならそれでよいかと思います。井戸。--126.151.11.232 2019年2月2日 (土) 15:49 (UTC)[返信]