Wikipedia:井戸端/subj/事件関連記事の削除方針について
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事件関連記事の削除方針について
[編集]過去ログ化されてしまいましたが、実質、私の主張だけで、結局、何の結論も出ず仕舞でした。これは異議無しということになるのでしょうか? それとも議論するに値せずという意味でしょうか? 或いは、私の懸念する通り、責任逃れを決め込んでおられるのでしょうか。特に、ことあるごとに緊急削除を投票される方からの、ご自身の意見を強く望みたいのですが。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 01:29 (UTC)
- 「緊急削除を投票される方」ではないので、横レス的コメントですが。前回の議論は、正直なところ、٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんが何を問題にしたくて、「最終的にどうなるのが理想だ」と思っているのか、サッパリ分かりませんでした。とりあえず「被害者名の伏字は彼らの人権を損なうもので、伏字にして問題解消した気になっているのは思考停止の事なかれだ」という感じですか?そこら辺が不明なのですが、とりあえず(私などがWikipedia界の大先輩に言うまでもなく)Wikipediaはいじめ問題について討議する場でも糾弾する場でもないし、我々は人権問題を裁く陪審員でもありません。あくまで淡々とした百科事典の記述者です。果たしていじめ事件を記載する上で(被害者にしろ関係者にしろ)特定個人名を出す必然性があるのでしょうか?何が起こったかだけ書けば十分では(そもそも事件の記載が必要か)?ドライな意見かも知れませんが、百科事典はある人物が生きた証を残す場でも、誰かの無念を晴らす場でもないはずで、百科事典の必要性に則った結果にしかならないのではないか、と。まぁ、本当に٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんが「最終的にどうなるのが理想だ」と思っているのか、サッパリ分かりないので、何ともコメントのしようがないのですが…--はま 2007年1月19日 (金) 03:15 (UTC)
- いじめ問題だとか、何だとか、そういう局所的なことでは無いのです。また討議も糾弾も陪審も関係ありません。「特定個人名を出す必然性があるのでしょうか」はそのまま「特定個人名を覆い隠す必然性があるのでしょうか」と返されます。どうするのが理想だ、というよりも、何を以って削除されているのかが見えません。人権侵害の名の下に削除される方は、人権侵害とは何かを考えた上で行っているとは到底思えないのです。
- 「何故にそれを書くのか」と「何故にそれを消すのか」は表裏です。「書く必要が無いから消す」は「消す必要が無いから書く」と表裏です。従ってはまさんの仰る話はまったく意味を持ちません。はまさんが「サッパリ分かりない」と思われるのは、この表裏に気付いてらっしゃらないからではないでしょうか?--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 03:46 (UTC)
- 「特定個人名を覆い隠す必然性があるのでしょうか」と返されます。⇒ありますよね。プライバシーの問題であったり、百科事典として何が相応しいかの議論であったりによって。検証可能性で「書き加えたいと思う側がソースを出すべき」との方針があることを考えれば、書き加えたい側が記述の妥当性・必要性を証明する必要があるとなるはずで、「消す必要が無いから書く」というのは詭弁に過ぎませんよ。そもそも「消す必要がない」という根拠自体が、ただの鸚鵡返しの強弁に過ぎませんし。で、結局、٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんが、最終的に何を理想と考えているのか、サッパリ分かりません。--はま 2007年1月19日 (金) 04:14 (UTC)
- ですから、「鸚鵡返し」の裏返しも「鸚鵡返し」なのですよ。気付いておられる訳では無いのですか?
- 「プライバシーの問題」「検証可能性」、これは結構です。では、塗り潰された名前は人権侵害にはならないのか、ということを言いたいのです。まして、削除依頼の度に伏字でその名を書くなぞ、その人物に対して踏み躙っているにも等しい。もしかしたらはまさんは、被害者だろうと加害者だろうと「その名は全て塗り潰せ、たとえそれによって関係者が傷付こうとも、ウィキペディアの方針に則ったまでであって俺には責任なんか無い、知ったことでは無いさ、当該人の心情よりもウィキペディアのルールがより重い!!」と考えてらっしゃるのかもしれませんが、それが正しいのか、と言っているのです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 04:43 (UTC)
- どうして「当該人の心情」がお分かりになるのか、という気もしますが、その「心情」は場合によって様々でしょう。一律に隠すべきでない、というのなら分からなくもありませんが、具体的な事例でないと良し悪しは語りようがありませんよね。どうも話が見えないんですが。 -- NiKe 2007年1月19日 (金) 05:10 (UTC)
- もちろん「当該人の心情」は判りません。そして、それは書くのも消すのも、また同じなのです。「一律に隠すべきではない」、その通りです。
- 「具体的な事例」→Wikipedia:削除依頼/いじめ 20070105他をご覧願います。
- …ところで、大変勝手で唐突ですが、この件については一旦、自ら矛を下ろさせて頂きます。こうした削除案件に掛かる「緊急削除を投票される方」の中でも特に話を伺いたかった方達がブロックされている事に、今、はじめて気付きました…。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 05:44 (UTC)
- どうして「当該人の心情」がお分かりになるのか、という気もしますが、その「心情」は場合によって様々でしょう。一律に隠すべきでない、というのなら分からなくもありませんが、具体的な事例でないと良し悪しは語りようがありませんよね。どうも話が見えないんですが。 -- NiKe 2007年1月19日 (金) 05:10 (UTC)
インデント戻します。 「塗り潰された名前は人権侵害にはならないのか」「伏字でその名を書くなぞ、その人物に対して踏み躙っているにも等しい」かどうか、それは重要な話題ではあるけれど、その結論を出すのがWikipediaの場が相応しいのか、ということです。「一律に隠すべきではない」というのはそうだけど、じゃあ個別に審査するとなれば、我々は陪審員なのか、ということです。٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんの仰る問題意識は、ヒューマニズムとしては正論であるし、それを考える「責任」は我々にはあるんでしょう。しかしWikipadiaはその場ではないし、その意味ではWikipadiaという場においてのみは、むしろ「ウィキペディアの方針に則ったまでであって俺には責任なんか無い、知ったことでは無いさ」とドライに割り切るべきなのではないかと。個々人がルールより個人的主観に基づく心情で行動してしまったら、収集がつかないですよね。少なくとも我々で勝手に推測した「当該人の心情」ってヤツに基づいて個人主観で行動することが、本当に「人権に対する責任」を果たしたことになるのか、単なる自己満足の免罪符を求めているだけではないか、と私は感じます。--はま 2007年1月19日 (金) 06:19 (UTC)
- Wikipadiaが考える場では無いのは確かです。しかし、「ドライに割り切る」となれば、ウィキペディアのルールとは何なのか、ということが見えなくなります。本来、人権以外も含む諸権利問題に対するものとしてルールが作られている筈であるのに、それが逆転しているのは泡沫顛倒ではありませんか? 私のヒューマニズムの是非などどうでも良いのです。極論、例えば私が何らかの事件や事故に巻き込まれるなり、巻き込むなりという時には、私の人権をウィキペディアのルールに則って踏み躙じる記事を書けば宜しい。踏み躙る削除案件文面を掲げれば宜しい。それがはまさん側の「免罪符」であるならば尚の事です。それでも私ははまさんがそうした場に直面しても「は○という名」などという書き方はしたくは無いし(無論、あなたがそう書いてくれと仰るなら話は別ですが)、書くべきでは無いし、そうした記述をこそむしろ削除して然るべきと考えるのです。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 06:41 (UTC)
- 脇から失礼します。お二人の議論に何か決定的なズレがあるように感じます。
- ٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんが問題にしておられるのは、たとえば、「ウィキ太郎」という個人名を「×××××」と、塗りつぶしてまで表記することの是非であり、はまさんが問題としているのは、「ウィキ太郎」という個人名そのものをウィキペディアに表記することの是非についてではないですか?
- 最後に、個人的には٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥さんがおっしゃる個人名の「×××××」表記には意味がないし、冒涜であるとも思うので、本人が公の行動をしている方か、遺族が故人の本名を公表している場合以外の個人名の表記には反対です。事件名に個人名を入れることも、世間一般的な事件名でなくなる気がしますので反対です。--218.251.125.114 2007年1月19日 (金) 07:19 (UTC)
- 連続投稿、失礼します。
- 『百科事典として、「ウィキ太郎」という個人名を「×××××」と、塗りつぶしてまで表記することの是非』と、『百科事典として、(公でない可能性のある)個人名を表記することの是非』と解釈し直しました。合ってますか・・?--218.251.125.114 2007年1月19日 (金) 07:26 (UTC)
ええと、まず、まずは、法律と、人権問題への意識という部分を切り離す必要があると思います。法的に問題ない範囲を確認した上で、ウィキペディアでどこまでなら記述が可能かということがわかるガイドラインを作り、これを前提として、個々の項目では、それぞれの事案についてどの程度まで記述するかを、後に削除しなければならなくならないように配慮しながらノートで議論し、本文に反映させるという形にするということで、削除関係の方針やガイドラインを再考することはできるかもしれません。同時に、削除依頼・審議の場ではどうするか、ということもガイドライン化するということになるでしょう。最終的にウィキペディアでどうするか、ということを視野に入れないのであれば、ウィキペディアで議論する必要はないと思います。実名か○○か、という話に傾いていますが、人名ではなく地名や事件のキーワードなどを事件を特定する名として用いる、報道機関などでの対応をなんらかのかたちで基準化するなどという方法も検討してみる必要があるようにも思いました。あるいは、事件についてはウィキニュースにまかせて一定期間を経なければ記事にしないとしてしまうという、豪快に蓋をする手もあるのかな。
削除審議やノートでの議論に参加する人が、かならずしも人権問題を理解し、配慮していないことを考慮する必要があると思います。犯罪などの関係者の氏名表記については、人権よりも情報の正確さ、あるいは加害者からの自己防衛のために実名表記を求めるというような意見もあるでしょう。悪戯の一つとして実名や個人情報を書き込むケースもあります。そうでなくとも、人権に配慮したつもりで、人権を侵害してしまうというようなこともあるでしょう。ウィキペディアで意見を述べるに際して、人権問題について議論する上で最低限の知識を持ち、その発言の責任を負う覚悟と共に自らの意見を述べることを、すべての参加者に求めるのは難しいと思います。
他方、個々の事例で対象となっている事件関係者が、自分の情報についての扱いについてどのように感じるかというのは、一様ではありません。被害者であれ加害者であれ容疑者であれ、できるだけ触れないで欲しいと思う人もあれば、自分の意見を広く伝えたいと思う人もいます。個々の事例について、判断できる程度の情報を得なければ、判断が難しいことも多いでしょう。また、判決確定後は実名での活動に触れられたくないということも考慮する必要があると思います。--Ks aka 98 2007年1月19日 (金) 07:58 (UTC)
- 被害者が死亡された場合は特に考える必要があります。生前意思の確認が取れないので法律で守れず常に問題になっている部分です。もちろん触らぬ神に祟りなしといった方針も考え方の一部ではあります。以下は私なりの価値観ですが塗りつぶすぐらいなら、被害者と書け、被害者名を書くならISBNが振られているとか国立国会図書館に収められるレベルの出典を出すべきと考えています。さて、それよりもさらに厳しいのが事件名でしょう。例えば「○○さん殺人事件」を「○○学校殺人事件」と書いたとしても、学校法人であれば法人格として人格が認められているので、関係者名が出されているから問題なのと実は同じ問題を抱えています。しかしそれを考えると事件名に何も書けなくなってしまうジレンマが発生します。これに対する私が持っている解決案はO・J・シンプソンを参考に、たとえマスメディアで騒がれたとしても、知名度の高い人物(それこそwikipediaに個人としてページが作成できるぐらい)が被害者なり加害者なり関係者でなければ事件を一切取り扱わないという案です(そもそも事件を主軸に置くらこのような問題が発生するのです)。--Chiether 2007年1月19日 (金) 09:58 (UTC)
- >IPユーザー218.251.125.114さん
- 私は両方を指しています。人権を叫ぶくらいならば最初から記事を立てない方がまだ宜しい。記事ができた以上は、それが真面目な記事であれ荒しであれ煽りや祭りであれ、編集するせよ削除するにせよ接したならば覆い隠さず、目も背けず。また、ウィキペディアは社会に対して提議する位置のものではありませんが、その上で、加害者に対して有利になる結果を齎すものは、内容であれ結論であれ中立とは言えないという点は忘れるべきではないと心得ます(加害者叩きの記事で良い、という意味とは全く違うので誤解の無いように)。
- >Ks aka 98さん
- 「事件についてはウィキニュースにまかせて一定期間を経なければ記事にしないとしてしまうという、豪快に蓋をする手」…これはある意味、無難な路線だと思います。また、速報性を求めず、過剰な編集の嵐を避けたいウィキペディアにあっては正解という気もします。どの程度の間、記事にしないのかはまた別議論。
- >Chietherさん
- 「塗りつぶすぐらいなら~」…同感です。
- 「○○さん殺人事件」「○○学校殺人事件」…これは一般に使われている呼び名を使うのが相当と考えます。それが仮に人名などの固有名詞であったとしても、一般にそう呼ばれている以上、他の名前を使うことのほうが「百科事典として歪」でしょう。まして、リダイレクトまで作って他の項目名にするくらいならば、そのままにした方が良いです。
- --٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 10:57 (UTC)
- (追記)
- 事件名繋がりではノート:ベトちゃん=ドクちゃんで「敬称をつけない」原則を理由に「吉展ちゃん誘拐殺人事件」を「村越吉展誘拐殺人事件」や「台東区誘拐殺人事件」にするという話も出ています。一般に使われない項目名を造語してまで、何を求めるのかという気がしてなりません。まぁ、直接的には関係無いと仰るでしょうが、一応、事件名の話題繋がりということで。
- --٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月19日 (金) 11:03 (UTC)
- Chietherさんのご意見で一点だけ気になったので。法人は人格権を持てないと思っておりましたが、違うのでしょうか?参照すべきポインタなどありましたら、ご教示いただければ幸いです。--Masao 2007年1月20日 (土) 01:30 (UTC)
- すみません、感情的に口走ってしまったので正しい知識を持っていませんが私が(間違っているにしろ)持っている知識として法人が法人格(権利能力)を有しているのであれば、人格権が認めていられるもんだと私は思い込んでいましたが……(法人が記事内容に名誉棄損だと提訴したこともありましたし)。--Chiether 2007年1月26日 (金) 08:05 (UTC)
具体的に名前を挙げることはしませんが、どうもこの手の記事で、矢鱈と緊急削除をされる方の多くが「荒らし」であったようなのは、かなり愕然という感じでいます。既にお3方(ソックパペットは纏めて1人と数えて)がブロックされているか、ブロック審議が行われているようです…。何というか、いかに「ご自身の意見」というものが存在しないのかを見た気がします。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2007年1月24日 (水) 15:44 (UTC)
- 本人の意に反して公開されたものは削除されるべき。--N.C 2007年2月11日 (日) 06:52 (UTC)