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Wikipedia:井戸端/subj/ロビー活動団体の主義主張をそのまま記事内に引用することは、中立的と言えるでしょうか?

ロビー活動団体の主義主張をそのまま記事内に引用することは、中立的と言えるでしょうか?

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Rienziと申します。

シュタイナー教育」という記事に、現在、とあるユーザーさんが大量の批判的記述を書き込んでおります。

このユーザーさんがおっしゃるには、「アメリカで、あるNPOがシュタイナー学校批判を行っており、中立的な観点から見て、彼らの主張を大量に引用することは適当である」ということですが、私には大きな疑問があります。

以下の点について、皆様のご意見をいただきたく、こちらで話題提起させていただきました。

  • 1:ロビー活動団体の主義主張を、その団体のサイトから直接引用することは、NPOVに照らし合わせて適切かどうか。
  • 2:批判的記述の引用を行う場合に、「具体的な事実の提示」ではなく、単なる「ロビー活動団体の意見」を引用することは、NPOVに照らし合わせて適切かどうか。
  • 3:ロビー活動団体の主義主張を引用する際に、あたかもその団体が「特定の団体だけを批判の対象にしている」かのように装うなど、活動内容を歪めて紹介することは適切かどうか。
  • 4:ロビー活動団体の主義主張を引用する際に、その団体が訴訟活動で必ずしも成功してないことを秘匿するのは、適切かどうか。
  • 5:引用手法およびその内容が「独自研究」の可能性が高い場合は、当該記述の削除は適切かどうか。
  • 6:ロビー活動団体の主張そのものに明らかな事実誤認・誤謬があり、それを記事内に引用している場合は、事実誤認と誤謬の証拠を提示した上での当該記述の削除は適切かどうか。

純粋に、「ウィキペディアの記事の品質を保つ」という観点から、皆様のアドバイスをいただければ幸いです。

よろしくお願いいたします。--Rienzi 2011年10月22日 (土) 15:04 (UTC)[返信]

記事の内容はかなり専門的な様ですので、生兵法で踏み込まず、あくまで一般論でお答えします。
  • 1 Wikipedia:中立的な観点で定められるバランスの範囲であれば適当です。その団体がどれくらいの規模で、どれくらいの発言力を持っているかによるでしょう。時折ニュースを賑わす有力・大規模な団体なのであればそれなりの紙幅を割くべきですし、吹けば飛ぶような誰も知らない団体なのであれば、せいぜい数行で済ますべきです。無名の一般人の論であれば、省みる必要が無いケースもあります。ですが、基本的には二次資料を主に用いるべきですので、適宜修正していくべきです(その団体が有力なのであれば、二次資料がありますが、あまり有力でない場合は、ろくな二次資料は出てこないでしょう。これも判断基準のひとつとなります)。今回の翻訳サイトがWikipedia:信頼できる情報源に値するかどうかについては私は判断できません。原文サイトにも並行的にリンクを張っておくこともご検討下さい。また、一見して雑多な箇条書きになっております点は、改善されるべきでしょう。
  • 2 この場合は「○○と言う団体が××と批判している」が事実です。批判の内容がまっとうなものであるか、頓珍漢なものであるかはあまり関係ありません。○○と言う団体の規模や権威、発言力、およびその批判がもたらした社会的影響力などのみを評価すればよいでしょう。ただしウィキペディアは演説の場ではなく、またその記事も○○と言う団体の記事ではないのですから、踏み込みすぎない様にしてください。より詳しくは出典か、ウィキペディア内のその団体の記事、またはWebサイトを当たって下さい、でよい場合も多いです。逆に記事の主題(この場合でしたらシュタイナー教育の権威)側の情報は、比較的多く盛り込まれるべきでしょう。主題を踏み外さず気を付けつつ、読者のニーズについても配慮できると最高です。
  • 3 ○○と言う団体がこの件以外にどの様な活動をしているのかは、読者がその情報の性格を判断するために有益な情報です。それ専用の記事がない場合はそれなりに簡潔に、それ専用の記事がある場合には相応に簡潔に、説明しておくとよいでしょう。ただしそれについても、Wikipedia:検証可能性を満たして下さい。
  • 4 ○○と言う団体に批判が集中しているなど、読者が情報の性格を判断するために有益かつ重要な情報なのであれば、検証可能性を満たしつつ、3と同じように処理すべきです。
  • 5 恣意的な引用・抜粋・取捨選択が見られる場合には、適切な形に修正するか、除去してください。出典を示しつつ出典と違うことを書いているのは、読者にとって最悪です。
  • 6 3.4.ともかぶりますが、「○○と言う団体が××と批判している」のが事実ですので、特に掲載に問題はありません。ただし、その批判について△△という研究者が□□と事実誤認を指摘した場合は、それも加えて良いでしょう。全体的によいバランスを保って下さい。
いずれのケースにおいても、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:信頼できる情報源は絶対に守って下さい。これを守らぬ編集合戦は、泥沼にしかなりません。ウィキペディアはルールが多くまた検証可能性については特に厳格ですが、それを満たす限り、その先は「両論併記」「言葉を濁さない」「中立性」となりますので、往々にして記事は玉虫色で、若干ふくれあがり気味になる様です。ウィキペディア編集者は、ただの在野の、一般の、サラリーマンであったり主婦であったり高校生であったりします。余程の事が無い限り、真偽について決裁は下しません。確たる出典に基づく情報であればそれを読者に紹介します。各論併記してある場合、読者は読者の責任で取捨選択を行ないます。--Hman 2011年10月22日 (土) 16:17 (UTC)[返信]
コメント 私も似た様な疑問を持っていました。中立性と出典の信頼性がバッティングした時に、どちらが優先されるのだろうと。例えば対立する論点に於いて、肯定派が多数派で出典も多く、否定派が少数派でダブロイドレベルでしか出典が得られない場合などです。ルールを見る限りでは、信頼性に於いて「ダメな基準」は明確に示されていますので、その基準を満たしてあれば「採用は可」で有って、後は記述方法や記述量などで信頼性の差別化を計りつつ、両論併記で中立を計るべきと受け取れますが、この点、上のHmanさんの認識と同じですかね?
そこでHmanさんにお聞きしたいのですが、ルール上では「中立性・検証可能性・独自研究の排除」の三原則は基本的に優先度に関する記述は無い様に思え、むしろ三原則総論を見渡す限り「等価的にバランス良く考えてね」に感じているのですが、Hmanさんは示されたルールの優先度はどこから出てきたのでしょう?
--Toshi999 2011年10月23日 (日) 00:49 (UTC)[返信]
コメント それぞれの原則は、互いに対立するものではなく、従って優先度で悩むことはないのではないかと思います。百科事典ですから、検証可能性の厳守が求められます。検証可能性は二次資料であるところの出典が存在することを基本としますので、その時点で独自研究は排除されます。さりながら、二次資料を出典とする複数の「事実」の可能性が存在するケースはあります。その場合に、記述が一方に偏しないよう、中立性の原則に基づいてバランスをとります。このようなプロセスにあっては、ある方針が他の方針を犠牲にすることはありませんし、相互の間の優先順位もありません。しかし、事実として検証できていないものを、中立性の対象としてとり上げることは、できません。「科学」と「疑似科学」は対等ではありませんし、その間で「中立性」を考慮する必要はありません。たとえ後者の支持者が多数存在したとしても。「社会的信頼を有する報道機関」と「ゴシップ記事満載のタブロイド」は対等ではありませんし、その間で「中立性」を考慮する必要はありません。たとえ後者の読者が多数存在したとしても。従って、一般論のレベルでは、悩まれる必要はないのではないかと思います。現実の問題としては、何に信頼性を認めるかで百家争鳴になることも事実ですが。--J Stalin 2011年10月23日 (日) 10:51 (UTC)[返信]
コメントアメリカのあるNPOによるシュタイナー学校批判が、シュタイナー教育を巡る議論全体の中で重要な位置を占めるのでなければ、その批判を大量に掲載することは中立的観点から好ましい編集ではないでしょう。
主義主張をそのサイトから直接引用すること自体は、大きな問題ではないと思います。
「具体的な事実」ではなく、意見を引用することも、問題ではないでしょう。ただし、「ほげほげというNPOがこれこれという批判をしている」という「具体的な事実」を書くべきであり、「シュタイナー教育にはこれこれという問題点がある」という記述にしてはいけません。
どのような団体のどのような意見であっても、装ったり歪めたりしてはいけません。ただし、「装ったり歪めたり」しているのかどうかは慎重に判断してください。
成功しなかった訴訟活動と、批判内容に関係があるのならば、訴訟活動を含めて記述したほうがいいと思いますし、その団体の活動・主張の妥当性自体の問題となるほど成功していないのならば、とるにたらない主張として排除することも考えられるでしょう。
独自研究の可能性が高いならば、除去は妥当ですが、適切な版があるならば削除の必要はないでしょう。
主張そのものが事実誤認・誤謬があるとしても、その主張が十分知られており、影響力を持つのであれば、記述を残すことも考えられます。「事実誤認・誤謬」というのが単に立場の違いであることも考慮する必要があります。
ウィキペディアの品質を考える上で、批判的な意見があるならば、それをバランスよく掲載することは、品質の向上です。しかし、影響力を持たなかった、持っていない批判を掲載するのは、品質の低下であり、百科事典の目的を逸脱するものです。同様に、まっとうな批判を排除することも、品質の低下であり、百科事典の目的を逸脱するものです。
対立する意見や、批判的記述を書くというのが執筆の動機であるとしても、全体のバランスをとりながら「敵のために書く」ことを守っていれば、百科事典としての質は保てます。そのバランスを保とうという姿勢が見られないならば、ウィキペディアの目的外利用として、ブロック依頼も検討してみてください。
なお、優先の順位としては、まず「情報源の有無」があります。情報源が示されなければ、信頼性も多数派/少数派もわかりませんから。そこから先は、ケースバイケース。そこでは、示されている情報源の、信頼性だけではなく、性格や立場も考慮して、記述のあり方を考えていくことになる。中立性を担保するための情報源、恣意的な合成ではないことを示すための情報源などを挙げながら、中立的観点や独自研究は(ryといった方針から外れないように編集することになります。ジャーナルを情報源にした異端説や「間違った科学」と、啓蒙書を情報源にした定説、みたいなことも生じるでしょうし。--Ks aka 98 2011年10月24日 (月) 04:02 (UTC)[返信]
Ks aka 98さん、私の疑問へのご配慮感謝致します。
総論的にKs aka 98さんの仰る事と私の解釈はほぼ一致しています。
たまたま見かけた議論でノート:平清盛_(NHK大河ドラマ)が有り、ここで取り上げられているチャンネル桜の立ち位置と、この井戸端質問で挙げられているロビー活動団体の立ち位置が、だいぶ近いのかなぁ・・と言う気がしているのですけれども、平清盛議論を見ているとジャッジしにくい微妙な問題なのかなぁ・・と思う反面、Wikipedia:中立的な観点/FAQ#疑似科学と科学を対等に扱うのかに準じた記述(つまりはKs aka 98さんが仰る記述方法)で落とし所を探るべき問題なのかなぁ・・と言う気持ちの方が大きいのですが、議論上、複数人がその様な落とし所を求める中、一人だけが一方の主張の排除を求めている場合、これはまぁ、コメント依頼とかブロック依頼でケリが付きやすいと思うのですけれど、二人以上の「勢力」となってしまうと、もう議論に収拾が付かなくなってグダグダになるのが常で、そんな勢力に対してコメント依頼やブロック依頼を仮にしたとしても、議論中に勢力争いが発生する案件の場合は傍観者側も勢力争い的に賛否両論分かれたりするケースが多いと思い、そうなるともうルールなんて関係無いよね・・ってな世界に突入してしまったり、特に日本語版では論争を仲裁・裁定する仕組みが未熟で、せいぜい井戸端とかコメント依頼程度しか有りませんし、そこで合意が計られる事も難しく、グダグダになってしまったら、若しくはグダグダになる事を阻止する為にはどうしたら良いのだろう?と言うのが私の目下の懸念どころだったりします。Wikipedia:中立的な観点/FAQ#疑似科学と科学を対等に扱うのかを改定して、もっと具体的且つ分かりやすく例を交えた説明にすると言うのが、この井戸端質問への根本解決にもなって良いのかな・・と言う気もしますし、または管理者アカを持っている人たちが、(義務では無くて可能な限りと言う前提でも良いのですが)仲裁を受け持つ仕組みを導入してルールの誤用を正す様にするのも一つの案になるのかなとは思います。(もちろん管理者アカを持ってる人には、ふざけんな!そんな余裕無いわ!って案だとは思いますが)
--Toshi999 2011年10月24日 (月) 06:25 (UTC)[返信]
管理者はそのような役割を持つ立場ではありません。管理者にできる仲裁は、管理者権限を持たない利用者にもできる仲裁です。保護やブロックという権限の行使が必要ならば、そのように依頼をすれば、誰かが対処するはずです。
複数が同じ主張をしているのならば、その主張が必ずしも排除すべき主張ではないということを考慮する必要もあります。自分たちが方針にそぐわない排除をしようとしている、方針の悪用をしているのかもしれません。その複数の利用者が、いずれも方針にそぐわない主張をしているのならば、そのようにコメント依頼やブロック依頼で判断されるでしょう。--Ks aka 98 2011年10月24日 (月) 07:51 (UTC)[返信]
そうですね、私の懸念は多分に推論の上での懸念が勝ち過ぎている面が大きいと思いますので、まずはコメント依頼やブロック依頼でケリが付くものなのかどうかやってみて、それでもダメだったら言うべき事だったかも知れません。
ただ私が直接参加していない議論に関するトピック上で「自分たちが方針にそぐわない排除(以下略)」と申された事に関しては、何か私に対する予断を感じますし、過去私のブロック基準への理解が浅かった前科からそれも致し方無しとも思いますが、「複数が主張してるなら排除すべきでは無い可能性」と言うグレーな状態を極力少なくする為への懸念で有った事は一応申し上げておきたいと思います。(特にそう言う意図が無かったのでしたら流して下さい。)
いずれにせよ、他方の勢力の理不尽な排除を極力少なくする為にも、何か簡潔にまとめた過去事例集とかFAQを充実させるのも一つの手かも知れませんね。
--Toshi999 2011年10月24日 (月) 09:44 (UTC)[返信]

コメントインデント戻します。 Rienziです。皆様から、沢山のコメントをいただき、感謝申し上げます。

私が想像していた以上に、「中立的な観点」と「検証可能性」の問題は奥が深いということを実感しました。

皆様からいただいたコメントを拝見させていただきながら、「シュタイナー教育」の記事を読んでいて、やはり、現状のままでの引用にはいささか問題があると感じました。「PLANSという団体が、合衆国憲法修正第1条の国教禁止条項に違反しているとして、アメリカのシュタイナー学校を批判している」「前述の理由から、シュタイナー学校への公的資金注入差し止めを求める訴訟を提起し、その一部は裁判所によって却下されている」というのは、二次資料があまりないという弱みを除いては「事実」と見なせるかと思いますが、「PLANSはシュタイナー教育は○○だと批判している」という記述は、やっぱり検証可能性が著しく弱いと思うのです。

例えば「○○年○月○日の○○新聞の報道によれば、○○州の○○というシュタイナー学校で○○という教師が、生徒に対し学校外活動への参加を禁じたり、家庭内でのテレビ視聴を禁じたりしていたことが判明した。これについて、合衆国憲法修正第一条国教禁止条項違反の学校に対して抗議行動を行っているカリフォルニアのNPO『PLANS』は、『○○である』という声明を発表して厳しく批判している」という記述なら、(個人的には)検証可能性も、また、第三者からの情報という点でのある程度の客観性も満たせると思いますし、歓迎したいと思います。

現在のような引用方法では、批判の対象が「全てのシュタイナー学校」であるかのように見えていると思いますが、PLANSの意図はそのようなものではないのではないかと思いますし、この点においては、日本語訳のサイトにも大きな問題があると思います。それから、PLANS=シュタイナー学校批判団体としているのも、やはり問題でしょうね。

また、現在「批判」ばかりにウエイトが置かれた記事になっている一因の一つとして、客観的視点からの「肯定的評価」がまったく書かれていないということも、あるかもしれません。(ただまぁ、これをやると、PLANS寄りの思想の方々からは「ほ〜ら、シュタイナー教育関係者はすぐ有名人の名前を持ち出すんだから〜」と言われると思いますけど)

シュタイナー教育に対して、様々な角度から厳しい批判が寄せられているのは一応事実ですし、しばらく前までは社会的にも受け入れられ、賞賛の対象になっていたヨーロッパ地域の学校も、閉鎖に追い込まれたりしているとききます。ですが、「肯定的評価」も「否定的意見」も、著しく二次資料に乏しいのが現状だと思います。特に、日本語で得られる情報に関して言えば。こうした状況から鑑みると、むしろ「肯定的評価」も「否定的意見」も紹介せず(必要があれば別途に記事を立ち上げるか、外部サイトへリンクを貼って読者を誘導し)ただ「こう言う思想のもとにこう言う教育をやっている」「こう言う科目をやっている」「8年+4年の12年制を採用している」などといった「教育活動に関する客観的・検証可能な事実」のみを記載する方が、適切なのかもしれません。ずいぶんと素っ気ない記事になってしまうとは思いますが、「肯定的評価」「批判」について書き始めると、落としどころが見つからなくなるタイプの記事ではないかと思います。(シュタイナー教育絡みでは、過去に批判的記述をめぐって大論戦があり、結果として「ヴァルドルフ学校」という記事が「シュタイナー教育」へ統合されました。関心のある方はノート:ヴァルドルフ学校をご覧ください。

記事のノートにおいて、当該記述の記載を希望しておられるユーザーさんとの対話を試みておりますが、正直に申し上げてあまりうまくいっていないのが現状です・・・。

ノートで対話を続けながら、うまく「検証可能性と中立性」を両立させたい(いや、両立させてるのが当たり前ですよね)と思います。今後も、様々な角度から、皆様のご意見を賜りたく存じます。今後ともよろしくお願いいたします。--Rienzi 2011年10月25日 (火) 13:11 (UTC)[返信]

シュタイナー教育」とは代替教育のひとつらしいので、代替医療疑似科学と同様、常識的な感覚を持つ人からは批判があるだろうことは想像にかたくないです。記事を見てみましたが、分量的にも内容的にも、特に「批判ばかりにウエイトが置かれた記事」となってはいないように思われました。
「PLANSはシュタイナー教育は○○だと批判しているという記述」は、信頼できる情報源があり、それが一次資料であるということを除いて考えるなら、「検証可能性が著しく弱い」ということは、ありません。Wikipedia:検証可能性 は情報源における表現の様態を問題としておらず、「ウィキペディアに掲載してよいかどうかの基準は「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」(真偽よりも検証可能性)なのです」。また、「PLANS=シュタイナー学校批判団体としているのも、やはり問題でしょうね」とのことですが、PLANSの公式サイトには "...to educate the public about the reality behind Waldorf's facade of progressive..." とありますので、批判の対象がヴァルドルフ/シュタイナー教育/学校であることは明らかです。また語義を見るに「ロビー活動団体」というのは適切な表現ではないように思います(そういう言い方が許されるなら、シュタイナー学校は「カルト団体」です)。
このように、特定の観点を自ら持っている利用者には、時として事実をありのままに受け入れがたいとか、(あるいは無意識のうちに)自分の都合のよいように受け取ってしまうということもあるかと思います。しかし、「敵のために書く」ことを心に留め、相手にも充分な配慮をもって、議論に参加していただきますようお願いいたします。--Calvero 2011年10月26日 (水) 20:04 (UTC)[返信]
Calveroさんこんにちは。Rienziです。コメントいただきありがとうございます。う〜ん、分量的にも内容的にも、Calveroさんには「批判ばかりにウエイトが置かれた記事とは思われない」のでしたら、それはそれで一つの観点ということで、いいんじゃないかと思います。PLANSのロビー活動対象は、確かに、シュタイナー学校が「中心である」と認識していますが、合衆国憲法修正第一条違反の学校全般が活動対象であると認識しています。これについてはもう一度私自身勉強し直したいと思っています。
・・・私は、シュタイナー学校への公的資金注入差し止め訴訟を提起することを活動の柱にしているという点で、PLANSはロビー活動団体であるという認識を現時点で改めるつもりはございません。ただ、私はロビー活動そのものには否定的ではありません。ロビー活動=悪、などという認識をもっているわけではないことははっきりさせておきたいと思います。逆に『ヴァルドルフ学校批判団体』『カリフォルニアのNPO』などという位置づけは、PLANSの活動性質や目的を歪める(あるいは紹介の仕方に不足がある)ことになるのではないかと思います。また、シュタイナー教育が「オカルト」であるということは、否定はしません。ただ、それについて積極的に紹介しようとは思いませんが・・・。
ともかくも、当該記述の記載を希望しておられる利用者さんと、ゆっくりと対話を進め、ウィキペディアの記事にふさわしい体裁を整えて「批判的評価」「肯定的評価」について、バランスよくまとめてゆきたいと思っております。--Rienzi 2011年10月27日 (木) 00:20 (UTC)[返信]
どうも誤解を招くようなことを書いてしまい、申し訳ないです。「観点」とは辞書によると「物事を考察・判断するときの立場」だそうですが、別にRienziさんや私の立場を明らかにしたかったわけではないですし、私は批判者の立場をとるわけでもありません。なおシュタイナー教育をオカルトとみなす人もいるようですが、PLANSは「カルト」といっています。こちらのほうが、より激しい表現ではないかと思います。情報収集には労力と困難が伴いますが、うまくいくよう祈っています。--Calvero 2011年10月27日 (木) 16:50 (UTC)[返信]
Calveroさん、お返事いただきありがとうございます。ついアツくなってしまって、すみませんでした・・・シュタイナー教育関連の情報は、「主観」「感情論」に支配されているものが非常に多いので、百科事典の出典としてふさわしい情報を探すだけでも、かなりの苦労があるかな・・・と思います。肯定的評価の側は「手放しの賞賛」「シュタイナー本人は自らの提唱した教育思想のドグマ化を嫌っていたにもかかわらず、シュタイナーの言葉を神の言葉の如く扱う」「いたずらに、既存の公教育などとの比較・対立を煽る」「閉鎖的である」などの問題がありますし、批判的意見の側は「シュタイナーの思想云々以前に、教師個人が原因で起きた問題を、教育思想そのものの問題にすりかえる」「根拠のない誹謗中傷と、建設的批判の線引きができない」「教育思想の詳細に関して調べないまま批判を繰り広げる」「シュタイナーの著書や講演録などから、自分たちの主張に都合のよい文言だけを切り貼りして、人種差別主義者、カルト、などのレッテルを貼る」などの問題があります。ぶっちゃけた話、「肯定的評価」の側も「批判的評価」の側も、一次資料に関して言えばほとんどの場合「○○はこう言っている」以外の検証可能性をもたず、たとえ、幾ばくかの検証可能性を持っていたとしても、ウィキペディアの記事の出典にはふさわしくないと考えています。--Rienzi 2011年10月27日 (木) 23:32 (UTC)[返信]