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Wikipedia:井戸端/subj/コンピューターソフトの出力結果の情報源としての評価

コンピューターソフトの出力結果の情報源としての評価

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オリジナルのソフトウェアではなく、著名なメーカーによって広く市販されているソフトについての質問です。「入力データ」、「操作手順」、「出力結果」が明示されていた場合、これは信頼できる情報源となりうるでしょうか。なお、使用するソフトウェアの機能にはアットランダムな要素が無く、同一操作で一意の出力結果が得られるものとします。--Andras 2011年10月25日 (火) 05:51 (UTC)[返信]

問い掛けに具体性が無いため、何を指しているのか判じかねるところではありますが、データの扱いを誤れば大変危うい結果を招くことも予想されます。例えば、表計算ソフトのExcelにあるグラフ化機能をつかって、数値の推移を視覚化したとしましょう。その上で、グラフが右肩上がりなので「増加している」とか「拡大している」と文中に書く…と仮定して、元になったデータの扱いに誤りがあった場合に、事実誤認(ないし作意として)特定視点に対して誘導的となってしまう問題が付きまといます。
この仮定をやや具体的に表現する上で、例えば特定の社会現象を扱ったとしましょう。ある社会における、現象の発生件数の推移をグラフ化し、右肩上がりなので「現象の発生件数は増加している」と書いた場合、社会全体の母数が増加していることを無視していたら、あるいは全体に見る発生比率は下がっているのに、あたかも現象が起こりやすくなっているかのように誤認させてしまえることに繋がります。また、母数を考慮に入れたとしても、その社会の構造変化を考慮しなければ、やはり偏った視点に陥る可能性も考えられます。
ガイドライン独自研究は載せないの考え方としては「情報の合成」として示されているような、公表されている客観的なデータ同士を独自に組み合わせることも(データの取捨選択や組み合わせ方にも記述者の錯誤や作意が働いてしまうため)芳しくないように感じます。
まあAndrasさんがどのようなケースを想定しているのか判じかねる以上は、小生の懸念は的外れなのかもしれませんが…。
ただ、そのボーダーとしては「データ処理エンジンとしてのプログラム」とその操作にデータを扱う側の作意は介入せず、またデータは単独(複数を合成するという要素を含まない)、結果は常に同一である…など、厳しい要件があるように思います。して、そういうのを一例として説明することはできるかもしれませんが、それのみをもって「赫々云々は○○である」などと記述者が結論してしまうことは(記述者の作意としてそういう結果を導出した懸念がなくならないため)芳しくなく、ただ「結果はこうなった」とのみ例示するだけに留めるのが中立的な視点の上では妥当な範疇かと思います。
逆に、あまり問題とは考えられない例としては、所定のフィルタリングソフトウェアに幾つかのデータ群を与え、フィルタ自身の動作として「通過した・通過しなかった」を書いたり、特定の画像処理エンジンに所定のデータを与え、その出力結果を例示する…って辺りかと(出力結果にソフトウェアライセンス上の問題が無い場合に限る)。
考え方としては、記述者の価値観が処理に介在する(介在しうる)のは非常に拙く、複数のデータが処理の過程で合成されあうのは危うく、またその結果をもって特定視点へと誘導的なのは独自研究に過ぎない…ってことなんじゃないかなあと愚考する次第です。--夜飛/ 2011年10月25日 (火) 08:48 (UTC)[返信]
ご回答ありがとうございます。質問の仕方が悪かったようでお手数をおかけしました。
特定の画像処理エンジンに所定のデータを与え、その出力結果を例示する…って辺りかと(出力結果にソフトウェアライセンス上の問題が無い場合に限る)。
確認したかったケースはこれに相当すると思います。たとえばこちらのような比較画像[例1][例2]に使用ソフトの情報を加えれば信頼できる情報源になりうるのではないかと考えて質問を書かせていただきました。結果そのものへの価値判断の記述は差し控えて、同一と思われる画像が出力されたという記述に留めれば問題ないでしょうか。--以上の署名のないコメントは、Andras会話投稿記録)さんが 2011年10月25日 (火) 10:48 (UTC) に投稿したものです。[返信]
その比較画像の話に限ってなら、Wikipedia:独自研究は載せないに明確に違反しているため議論の余地はないと思います。
Andrasさんのおっしゃりたいことというのはつまり、ソフトによる比較画像作成の方法を記せば検証可能性を満たしているから信頼できる情報源になるよねってことでしょう。
しかし、Andrasさんの言っている検証可能性とWikipedia:検証可能性は異なります。ウィキペディアの方針としての検証可能性とは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」可能性です。
比較画像を自ら作成してそれを検証可能な形であると主張しても信頼できる情報源とはなりません。WP:V#SPにあるように、ウェブサイトを作ったり本を自費出版したりした上で、自分がある分野の専門家だと主張することは誰にでもできるのです。Andrasさんのあげた比較画像は、それと同じことをしているに過ぎません。--リネン 2011年10月25日 (火) 11:32 (UTC)[返信]
小生の見解としても、リネンさんと大きく違わず「その処理結果をもって似ているかどうかを論じることはできない(独自研究になってしまうため)」と考えます。また、件の検証用画像なのですが…趣旨が全く解りませんでした(全体がノイズによって攪乱されているのかブラウザの問題なのかも判らない)。更にいえば、処理前の画像が判別可能な誰かの著作物であるなら(著作権侵害にも掛かるため)掲載は拙いと思います。いずれにせよ、所定の画像処理エンジンの記事で、そのエンジンの性質を説明するために、著作権をクリアした元画像を使って動作を説明することはできるかとは思いますが、他者の著作物を元画像に使ったり、あるいはある画像を所定の処理エンジンを通すと赫々云々の作品に似てしまうために赫々云々の作品はオリジナルじゃないと人物または作品の記事に書くことはWP:BLPの上から見ても大変問題のある記述になりますし、また似ているかどうかの評価以前で止めたとしても画像を掲載した時点で特定視点への誘導になりがちなため、芳しいことだとは考えられません。こと剽窃などの問題が絡む場合は、公的なメディアで報じられたなどの妥当な出典を示すといった配慮がWP:BLP上で欠かせないと思います。--夜飛/ 2011年10月25日 (火) 12:27 (UTC)[返信]
リネンさん夜飛さんご回答ありがとうございました。Wikipediaは責任の所在が曖昧になりやすいからこそ、責任を問われやすい性質の言論については主体を明確にする必要があるということですね。了解です。--Andras 2011年10月25日 (火) 23:37 (UTC)[返信]
Wikipediaでは基本的に、一次資料(事実)は情報源として評価対象になりません。Wikipediaは情報を無差別に収集する場ではありませんので、事実を書き連ねることはやめて下さい。「これこれのソフトで何々したらこうなった」と言われても「そうですか、良かったですね」としか答えようがありません。そしてその後に「故に云々である」「出典を出せ」「出典はこれだ」となって漸く「それが信頼できる情報源か否か」を判断することになるのです。思うにAndras氏は、検証可能性を満たすことと信頼できる情報源であることとに関して混乱しているのではないでしょうか。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月26日 (水) 03:48 (UTC)[返信]