コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

Wikipedia:井戸端/subj/キャラクター個別の記事

安易にキャラクターの記事が作られてないか

[編集]

「他言語版でもあるから」「他でも行われているから」という安易な理由でキャラクター個別の記事が目立つ。大きな人気のある作品の主要キャラならまだしも、ヌゥガッシュ (クロノ・トリガー)のような脇役キャラの細かい点に至るまで書いてみたり、コビー (ONE PIECE)のような情報量の少ない(成長は見込まれるが、今までのペースから見ると当分先のことと思われる)キャラまで独立させてみたりと、どうかと思うような記事も見かけるのだが。何らかのガイドラインも必要ではないかと思うのだが。名探偵コナンの登場人物でも揉めているようだし。--チョココ 2007年3月11日 (日) 07:26 (UTC)[返信]

他で行なわれているはさておき、他言語版で存在するというのはそれなりに妥当な理由と思います。実在の人物と架空の人物で基準を変える必要もありませんし。--Tiyoringo 2007年3月14日 (水) 15:45 (UTC)[返信]
「他言語版」にあるのはむしろ常識のある一般人が修正・削除依頼するかどうか判断できないぐらいマイナーだから放置されているという可能性もあります(日本語版でそういう記事を結構書いてるので実感有り)。一人でも熱心なファンがいれば記事はどんどん書かれていきますが添削はそれなりに精通した他者がしないといけませんから。ただし他言語版で編集合戦にもちこむぐらいならそれこそ「触らぬ神に祟りなし」で放置するのが次善策となっている状態の項目を安易にこっちに持ち込むことは厳に慎むべきでしょう。単に「他言語版にあるから」ではなく、その項目の履歴やノートを見てStableかどうか、日本語版に作成することが有用かどうか見極めてからでも項目を作成するのは遅くはない。--SeyfertSluw 2007年3月16日 (金) 02:33 (UTC)[返信]
実在の人物でも、特に活躍のないアイドルや予備校講師の場合、記事が作られても削除されている。果たして、一ゲームキャラがそれ以上の存在価値を持つかどうか。Google検索で「マールディア」は千件以下。--チョココ 2007年3月17日 (土) 11:59 (UTC)[返信]
無名人物が消去されているのは書籍に取り上げられていない独自研究であるからであろう。国内限定どころか全世界的に流通しているフィクションの登場人物にはそれなりの存在価値がある。マイナーだとは無礼にもほどがある。開発者と海外版製作者そして全世界のファンに謝罪を求める。--Sionnach 2007年3月26日 (月) 01:46 (UTC)[返信]
昔ならともかく、最近だとどうだか。ましてやゲーマーでない人に知られているかどうか疑わしいが。それにその理屈でいくとデビルサマナー 葛葉ライドウ 対 超力兵団の葛葉ライドウについて記事を作っていいということになるが?--チョココ 2007年3月27日 (火) 11:44 (UTC)[返信]
どうぞ作って呉れ給え。オリジナルな研究とならぬ範囲で。--Sionnach 2007年3月27日 (火) 12:20 (UTC)[返信]
フィクションの登場人物については明確な基準はないと思います。一個人が作ったオリジナルキャラの記事であれば独自の研究として削除対象になりますが、Sionnachさんが言うとおり世界に流通している以上、たとえマイナーであっても削除の対象になりえないと思います。そのことから、架空の人物をそのまま実在する人物の基準に当てはめることは出来ません。ただ、キャラクターの独立記事が次々と作られている以上、それなりのルールが必要になってくるではないでしょうか。--にゃんぴー 2007年3月26日 (月) 11:43 (UTC)[返信]

検証可能であって、それなりの記事量があるのであれば、サブカルであろうが独立記事として問題ないでしょう。メジャー・マイナーで区別することにはpovが入るので賛成できませんが、独自の研究の基準、記事量の基準を明確にすることは必要かと思います。--シャルル 2007年3月27日 (火) 06:26 (UTC)[返信]

実在の人物について、特に活躍のないアイドルや予備校講師等は一般人と判断されてプライバシーの問題がでてくる場合もあるので一概に比較はできないでしょう。上記の葛葉ライドウ某の事例なんかでいえば独立記事には量が不足しているんじゃないかなと思います。ポケモンの個別記事の時にスタブの山を築いた過去の例がありましたので、独立基準は欲しいところですね。なにか他の分野で基準等あるものがあれば参考になるのでないでしょうか。ジャニーズなんかはどうなんでしょうね。--シャルル 2007年3月27日 (火) 12:52 (UTC)[返信]
一言いわせてもらうが、「スタブの山を築いている」じゃないのか?テンプレートがなければ大した中身のない記事も少なくないが。それと、単純に記事の量で判断するのは問題ありかと。「某アイドルが他愛もないひとことを言った」程度の中身で埋められてもしょうがないから。しかも判断がしにくいときたもんだ。--チョココ 2007年3月28日 (水) 11:15 (UTC)ちなみにライドウなら資料集とかもあるしそこそこ書けるよ、某キャラよりも。誰かさんじゃないからやらないけどさ。[返信]
ポケモン記事も前よりはまだ見られるようになった気がしますが、なかなか手厳しいですね。まともな記事が少ないのは同意しますが、単に削除していくのも乱暴ですしねぇ。で、機械的に記事の量で図るのが一番簡単な判断基準になるでしょう。Wikipedia:ページサイズ準用でもいいかと。「某アイドルが他愛もないひとことを言った」については疑問ですね。ジョン・レノンのアイドル時代のキリスト発言は興味のない人にとってはどうでもいいことですが、60年代洋楽事情に興味のある人にとっては重要な発言であるように、中身については中立的な観点が絡むから単純に判断できないんですよね。
  1. 単純に量を書く
  2. その分野に詳しい人たちによる推敲(←これがないと駄目だけどね)
  3. それでも量があれば分割の議論
があるべき流れでしょうし、坊や達にもわかりやすいんじゃないかね。IPユーザーがジョジョ関連の個別記事でもやらかしていてますけどね。--シャルル 2007年3月28日 (水) 12:03 (UTC)[返信]

私の考えでは基準は記事の容量と、どれくらいその項目が参照されるか、といったところでしょうか。そのキャラクターの記事が他の記事から参照される事が多く、記事の内容もスタブでないなら単独で存在していてもいいと思います。そういう意味では有名かどうかというのも参考にはなると思います(有名が客観的に計れるか、基準を作れるかは微妙だが)。マイナーな作品のマイナーなキャラクターであっても、それなりに記事の分量が確保できるならあっていいでしょうし、そうでないなら統合した方が便利だと思います。スタブ的な記事なら記事元の項目に統合、あるいは「~の登場人物」という形で統合すればいいんじゃないでしょうか?赤リンクが嫌ならリダイレクトを使う方法もありますし。--MIK 2007年3月28日 (水) 11:47 (UTC)[返信]

「誰かさんじゃないからやらない」などの発言は個人攻撃と受け取られかねないので、控えた方がいいと思います。ガイドラインが必要だということには賛成ですが。--Himeta 2007年3月29日 (木) 00:42 (UTC)[返信]

キャラクターの記事については有名・無名にとらわれず検証可能性を満たしていれば削除対象になりえません。(cf.Wikipedia:削除依頼/ポケモンの個別記事Wikipedia:削除依頼/クロノ・トリガーの登場人物)ただし、中立な観点に基づき著作権を侵害しないという条件下で個別記事として相応しい分量に達するのが難しいと感じるなら統合を検討する価値はあると思います。--にゃんぴー 2007年3月29日 (木) 12:07 (UTC)[返信]
MIK氏の「マイナーな作品のマイナーなキャラクターであっても、それなりに記事の分量が確保できるならあっていいでしょう」には反対する。Wikipedia:ウィキペディアは何でないか#ウィキペディアは単なるナレッジ・ベースではありませんには「家系図や人名録ではありません」とある。それに検証可能性を盾にとっているようだが、9.7の決戦はそれを満たす部分もあったにもかかわらず、編集で対応とも統合とも言われず削除されている。--チョココ 2007年4月2日 (月) 12:46 (UTC)[返信]
メジャー、マイナーの線引きは不可能でしょう。自分の世代ではワン・ピースや女神転生を知っているものは皆無ですが、だからといってマイナーな作品では無いのでしょう?しかし検証不可能の部分やエッセイ的な部分を除去する等、推敲を重ねることは必須ですよね。知識のないものが見ても役に立つ記事にしてもらわないと百科事典として意味が無いと思うのですが現状では微妙ですね。自己満足の為にデータを並べても意味が無いことを理解してもらいたいものです。--シャルル 2007年4月4日 (水) 09:00 (UTC)[返信]

メジャー、マイナーの線引きはシンプルに数字にすれば良いと思います。例えばゲームなら出荷枚数、実際の販売枚数。ある程度の目安になると思います。まだまだ未完成の項目が多いので、まずは数字の大きい=ニーズのある情報から整理していくことが百科事典にとって最も大事なことなのではないでしょうか。--通りすがり 2007年4月7日 (土) 01:30 (UTC)

その目安となる数字を決める議論もメジャー、マイナーを直接線引きするのと同じ位大変だと思うのですが・・・。--Himeta 2007年4月10日 (火) 08:42 (UTC)[返信]
それに、作品がメジャーでもキャラの方で書くことがあまりないというパターンもあるかと。極端な話で言えばドラゴンクエストシリーズの主人公とか。--チョココ 2007年4月10日 (火) 11:41 (UTC)[返信]

メジャーな情報の集合体を目指すのであれば、わざわざWikiPediaを参照せずとも情報は十分に集まるわけで、魅力は感じられなくなる。マイナーな情報が集合するほどに魅力的なものになっていくと私は考えるのですがいかがでしょうか。また、メジャー・マイナーで話をするのであれば、「キャラクター」に限定した話題でもないと考えます。--Sekku 2007年4月11日 (水) 02:46 (UTC)[返信]

利用者:Sekkuさんに同意です。記事自体のクオリティがそれなりの物となっており、投稿の基準を満たしているなら、ジャンルに関わらず記事は残った方が、知識の集合体としては魅力が有ると思います。私の書いている記事だって、必要としてくれてる人と、要らないって思ってる人が居ると思いますが、残す事に意味が有ると思って書いていますから。--Ice-upperlake 2007年4月14日 (土) 12:10 (UTC)[返信]
残すか消すかというのならばそりゃ残せばいいと思うのですが、問題は単独項目として立てるか否かです。キャラクター単独項目を立てるよりも、作品の項目や、登場人物一覧項目にまとめたほうが読みやすい例ってのはいくらでもあるわけで。--しゃっふる。 2007年4月15日 (日) 13:30 (UTC)[返信]
この項目を立てた方の意図は「読みやすいかどうか」という所ではないように思えます。また「読みやすいかどうか」というのは結局個人の主観による所が大きく、それを理由にルールを改訂するのはいかがな物かと思います--Ice-upperlake 2007年4月21日 (土) 22:31 (UTC)[返信]

とりあえず、記述量が多ければOKかというのはさておき、Wikipedia:削除依頼/三千院帝Wikipedia:削除依頼/機関車スカーローイのように記述量の少ないものは反発も強く、「一定の記述量がなければ独立不可」とした方がいいのではないかと。--チョココ 2007年4月20日 (金) 16:01 (UTC)[返信]

小谷賢、著『日本軍のインテリジェンス』を読んで目からウロコですが、Wikipediaで載せる『情報』とはインフォメーション(生情報、データーといった加工されない情報)か、インテリジェンス(分析、加工された情報)のどちらを指して言ってるのかによるのではないかと思います(日本語ではどちらも『情報』と称してしまっているようですが)。加筆・分割を叫ぶ人の言い分は前者の状態でも、とにかく「量」を重んじるのに対して、統合・整理を叫ぶ人の言い分は後者の状態にして「質」を高めないとダメというもので、ここが決まらないと議論は平行線だと思います。似た議論に「作品のサブタイトルは載せるべきか否か」があります。架空の人物、特に絵によるキャラクターの場合、メディアミックスの関係で「~版ではこういう行動」「~ではこういう設定」という細かい差異まで言級すると一定の記述量はすぐさま超過します。下記で話題になっているファンサイトのネタも拠り所にしたらさらに増えます(事実これが出典という記事もある)。さりとて出典明記・独自研究禁止がモットーのWikipediaでは情報の加工には限度があるので、どこまでを出典と認めるか、どの位の範囲を記載するのが妥当かを決める必要もあるんじゃないかと思います。--べっ甘七みつ・たけタカひろ 2007年4月21日 (土) 08:56 (UTC)[返信]
仮にチョココさんの述べておられる通りにしたとします。上手くするとチョココさんの基準によって不要だと考えられる記事が減る、かもしれません。しかし、Wikipediaで提唱されている部分以外での記事の質については、多分に主観が伴う物です。そもそも、記述量が一定量に達していない、記事としての体をなしていない=質に問題が有るなら、即時削除にかける事が出来る筈です。即時削除の基準に無いなら削除の方針に則って削除を行えば良く、それが不可能なら、議論を行えばよいのです。また、記事の内容について、数値基準を定めたなら定めたとします。そうすると新たな問題が起こることになります。特に、有名・無名の問題についてはそれが顕著です。何故なら、その基準をルールによって定める事自体が、情報の意図的な取捨選択または宣伝行為に繋がるからです。たとえば、マンガについては10万部以上発行された単行本のみを紹介の対象とする、というルールを新たに定めたとしましょう。その場合一部雑誌の人気作品以外は記事に出来なくなるのは明白です。記事の参照量、実売数、外部リンク、外部からのリンクの数についても、同様の現象が起きます。そうなると、他作品が紹介される機会を奪い、特定の作品のみを紹介している事になります。情報の寡占が起こる訳ですから、それは宣伝行為となります。以上の理由から、数値的基準を設ける事は、それ自体がWikipedia:ウィキペディアは何でないかの―Wikipediaは広告の場では有りません―に抵触しかねない行為だと考えられます。全てのコンテンツが同程度の需要しかなく、記事を載せる事で有利不利が発生しないというのならば問題ありません。しかし、人気のコンテンツとそうでない物が存在する以上、金銭を支払えば購入できる物=販売ルート上に乗っているという以外に公平な基準を設けるのは不可能なのです。さらに、「反発を招くから」という理由ですが。これについても、反発の論拠が即時削除削除の方針に見合ったものなら、削除は行われるはずです。Wikipedia:ウィキペディアは何でないかWikipediaは民主主義の実験ではない―という精神が存在しますから、どれほど反発の声が大きく、そして多くとも、「要らないから要らない」という多数の声が理由で削除される事はWikipediaの精神に沿わないのではないでしょうか。そして、そういった意思に沿ってルールが改訂されるのも望ましくはいのではないでしょうか。ただ、べっ甘七みつ・たけタカひろさんが述べられている「どこまでを出典と認めるのか」という事についてはWikipedia:検証可能性の観点から考えなければならないと思います。--Ice-upperlake 2007年4月21日 (土) 22:31 (UTC)[返信]