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Wikipedia:井戸端/subj/ウィキペディアについてウィキペディア内で検証可能なら独自研究にはならないのか?

ウィキペディアについてウィキペディア内で検証可能なら独自研究にはならないのか?

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ウィキペディアへの批判意見をまとめた標準記事「ウィキペディアへの批判」についてです。2020年12月23日からおそらく同じ利用者だと思われるip利用者が日本語版への批判の節に加筆を行なっています。掲載された文章を見ると、日本語版ウィキペディアの問題点について多言語と比較して書いていますが、その信頼出来る情報源からの出典が一切提示されていません。そのため、私は節に{{出典の明記|date=2021年1月|section=1}}を貼りました(差分)。 すると、加筆者からは

  • ほとんどはリンク先読めば誰でも読み取れることなんだが」(差分)
  • 検証可能に、タグ取る」(差分)

と誰でもウィキペディアで検証出来るから信頼出来る情報源は必要ないと批判されました。しかし、加筆した文章の中には

ほかにはCategory:翻訳直後Category:翻訳中途Category:改訳が必要なページなどに見られるとおり低質な翻訳記事も多く、この事情はコンテンツ翻訳ツール(インターフェースに組み込まれた機械翻訳)の導入によってさらに悪化している[1]

脚注

  1. ^ このことは新着記事を「contenttranslation」のタグで検索([1])して読めば誰でも検証できる

など完全に独自研究のものもあります。これはWP:NORで述べられている「ウィキペディアは信頼できる媒体において未だ発表されたことがないものを発表する場ではありません」「独自研究の排除は記事にのみ適用され、ノートページプロジェクトページには適用されません」の文章と矛盾していると思います。しかし、ウィキペディア内で数値など検証出来る部分も確かにあるので、独自研究として完全に除去することも出来ないと考えました。なので、誰でもウィキペディアで検証出来るから信頼出来る情報源は必要ないのか相談したいと思い、ここに書かせていただきます。--舌先現象になります会話2021年1月26日 (火) 01:41 (UTC)[返信]

↑非論理的、ウィキペディア自身についてはWP:CIRCULARで明示的に認められてる、英語版ならさらに明確。マザーテレサとか外部の事物とは別で出典有効。記事の趣旨違い、という指摘は一理あるが事実をウィキペディア日本語版の記事に書こうにも半保護の上ノートページで更新を要請しても誰も拾わないという惨状でやむなく「批判」の記事に書いただけ--220.145.151.99 2021年1月27日 (水) 00:40 (UTC)[返信]
提案 それなら、半保護の記事を編集出来るようにアカウント作成すればいいのではないですか?要請しても誰も拾わないという惨状なら自分でやる方が早いですし、非登録のIPユーザーの比率を下げることにつながるのでは?登録しない理由があるなら別ですが--舌先現象になります会話2021年1月27日 (水) 01:22 (UTC)[返信]
コメント - 既にLudwigSKさんによって解説されていたので省きましたが、WP:CIRCULARによって使用されるウィキペディアに関する出典は一次情報源です。例えばウィキペディア日本語版#成長の軌跡にある統計グラフがWikipedia:日本語版の統計のデータに基づいていたり、Bicholim conflictにおけるFA選考や削除依頼の記録を明示したりといった使い方です。これらは「xxxx年yy月zz日の総記事数は○○項目」「FAに推薦された(そして却下された)、削除依頼に出された(そして削除された)」という固定化された数値あるいは結論を一次情報源として扱い、「解釈を含まない事実」としてだけ出典として用いています。それがWP:CIRCULARです。
それに対し、本件事例の『新着記事を「contenttranslation」で検索して読めば検証できる』という脚注、およびそこから「多い」「導入による悪化」という解釈を含ませることは様々な問題があります。
  • 表示結果は検索するたびに異なるため、情報源の内容が固定化されていない。ただ単に新着記事の一覧を見せられているだけで「翻訳直後」「翻訳中途」「改訳が必要なページ」に該当するような記事が抽出されているわけでもなく、コンテンツ翻訳ツールによる翻訳記事のペースを示す以外の意味を持たない。
  • 具体的な翻訳の質の良し悪しの判断を読者に投げている。全ての読者は翻訳の専門家ではないし、その時表示された新着記事の対象について造詣が深いわけでもないので、その時検索で出てきた新着記事を読ませることで質の低さを認識させるというのは無理がある。少なくともどんな新着記事が出ても、どんな知識レベルの人でも明らかにおかしいと思わせる程度の難易度でないと検証可能とは言えない。
  • 具体的な数が把握できないので「多い」という解釈は加えられない。例えば統計データのように複数の時間軸を比べて記事の増加量を比べたりしないと数の多寡について表現のしようがない。
  • 翻訳記事の低質さとコンテンツ翻訳ツールの使用との因果関係が説明できていない。例えば「改訳が必要なページ」に含まれる記事のうちコンテンツ翻訳によるものはどれだけあるかとか、コンテンツ翻訳の導入以前・以後と比べて問題記事数の増加に変化があったかなどといったことを明示できなければ記事翻訳の現状とツールとの関係を説明できず、只々コンテンツ翻訳の新着記事を提示するだけでは出典たりえない。
挙げた問題のほとんどは「識者からの批判」にあるような外部からの二次出典(つまり外部の者がウィキペディアの翻訳記事の現状を分析し、批判を発信したもの)が明示できれば解決できます。一次情報源として用いる域を超えてあなた自身が分析しているから問題なのです。WP:CIRCULARには使用の際には一次資料のポリシーに従えともあります。そこにはハッキリと「あなた自身が分析・合成・解釈・評価などをしてはいけません」(WP:PSTS)とあります。
また「ウィキペディア日本語版」に書こうとしたと仰いますが、そこはますます趣旨違いでしょう。すでに提示した通り、ウィキペディアンが自己批判するためのページとして「Wikipedia:なぜウィキペディアは素晴らしくないのか」があります。これはWikipedia名前空間にある(ウィキペディアンが意見を発信することが許された)「私論」ですので、そこに記事翻訳の課題を書くことはありでしょう。
なお、「検証可能なこと」と「独自研究を展開する」ことは両立できます。前者はWP:V、後者はWP:NORの領域であり、片方はクリアしている状態というのはあり得ます。いわゆる「情報の合成(WP:SYN)」というやつで、本件事例の脚注はまさにこれをやってしまっています。なので表題にある「検証可能なら独自研究にはならないのか?」というのは本件に限定せずとも答えはNOです。検証可能な情報の組み合わせで独自研究は生まれ得るからです。--ButuCC+Mtp 2021年1月27日 (水) 12:21 (UTC)[返信]
時間を取ってくれてありがとう。私が書いた中には事実と意見が混じっていることは認める。なら意見のところに{{要出典}}貼るか、細かいところは編集すればいいだけなのに、有効な出典ある事実(管理者数の部分など)まで全文削除は行き過ぎ。たとえば上の例だと機械翻訳が問題をもたらすことを示す二次情報源を出典として加えれば改善できるのに全文削除に巻き戻しまでされてはそういう段階的改善もできない。やり方が雑すぎないか。あとは記事のノートに書く。--61.210.209.77 2021年1月28日 (木) 01:20 (UTC)[返信]
意見の部分について{{要出典}}を貼って様子見するか、ただちに除去するかは対応する人や内容によって違うでしょうね。しかし、機械翻訳の低質さを問題提起する文言それ自体が問題を抱えていては言葉に説得力を失うので、批判する側の文章は隙がない方が良いとは私は思います。
全文削除というのが「この版の追加内容」のことを指すのであれば、識者からの批判を主とした現在の版を支持します。再三申し上げた通り、この記事は貴方が発見した「事実」を発表する場ではないので、事実かどうかは掲載の可否を決めるポイントではありません。それをやるべきページも既に紹介しました。
この記事は「ウィキペディアの問題点」をすべてカバーしているわけでも、カバーすることを目指しているわけでもありません。多々ある問題の中で特にどのようなことが外野から批判を受けたかを紹介したものです。ですので二次出典(外部からの批判)が得られるまで載らない問題点は本件以外にも多くあります。でもそれはこの記事は「ウィキペディアの問題点」ではなく「ウィキペディアへの批判」だから何の問題もありません。問題点を列挙する記事ではなく、受けた批判を列挙する記事だからです。--ButuCC+Mtp 2021年1月28日 (木) 18:31 (UTC)[返信]