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Wikipedia:井戸端/subj/あらすじだけの記事について

あらすじだけの記事について

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以前、コメント依頼を見て、ノート:千夜一夜物語のあらすじの議論に加わったのですが、上手く意図が伝わらず、あるユーザーさんから削除主義者呼ばわりされた段階で、それ以上その場でぐちゃぐちゃ続けない方が良いと判断して、一端その議論から退いたことがあります。その後、何度か私の危惧していることを改めて伝えようかと何度か考えては、うまくまとまらずにそのままです。コメント依頼というのも考えたのですが、当該ノートでは似たようなことを繰り返すだけなので、この場を借りて皆様の御意見を伺いたく思います。

  • もともとのコメント依頼の趣旨は「この記事は大量のネタばれだから削除した方が良いと思うがどうか?」というもので、これ自体はほとんど支持されずに議論は終わりました。私も、そのことを理由にした削除には反対しました。
  • ただ、問題になると思われたのが、「あらすじだけ」で構成されるこの記事のあり方です。一般には文芸作品の記事で「あらすじ」だけというのは百科事典的では無く、もっと多面的に書くべきものだとされています。しかし、この記事は本体記事千夜一夜物語からのスピンオフだから構わないんだと、執筆者の方々は思っておられるらしい。これは私には、詭弁っぽく聞こえますし、執筆途上の千夜一夜物語のあらすじが完成した暁には、本体記事を分量的に遥かに上回ってバランスを欠いた記事が出来上がることも目に見えています。
  • そして、一番問題と思われたのが、千夜一夜物語に含まれる有象無象の挿話のあらすじをすべて記述しようとする行為です。千夜一夜物語の特殊事情として、長い時代を跨って徐々に形成された作品なので、中に入っている挿話が一定していません。そして、決定稿と言えるものもありません。欧米文化圏で知られて、影響力を持ったものに限ってもマドリョス版、バートン版、ガラン版と複数あります。加えて、『アラジンと魔法のランプ』『アリババと40人の盗賊』のような有名な挿話ですら、アラビア語版には欠けているものが多いといいます。この指摘に対する執筆者や擁護者の皆さんの見解は「マドリョス版、バートン版、ガラン版それぞれのあらすじを書けばよい」でしたが、「作品本体」という一次情報源だけを使って延々と作業を続けるのって(サブカル記事には珍しくありませんけれど)本当にウィキペディアの目指す方向なんでしょうか?
  • 加えて、千夜一夜物語に収録されている各挿話は、類型化されたものも相当に多いですし、かなり他愛も無い小噺(個人的には「歴史的おなら」という話は馬鹿馬鹿しくてとても好きです)も多いのですが、そういう話の全てのあらすじが「特筆性」でいうような二次資料で有意な言及があると確かめられるとは思えません。このあたりの執筆者と擁護者の皆様の見解は要旨として「千夜一夜物語が有名な古典文学である以上、そのあらすじは特筆性を満たす」でした。私からすると「千夜一夜物語のあらすじ」は、「シェヘラザード姫とシャーリヤハル王の物語という枠物語の中に、幾つかの有名な挿話を始めとする膨大な挿話群が入っている」という大枠と、その中の「有意な言及」が行われている有名な挿話のあらすじが紹介されれば十分で、すべてのあらすじを書き出す必要なんかどこにも無い様に思われるのです。幾つかの類型的な挿話のあらすじを載せて、「こんな話が延々と続くのが千夜一夜物語だ」と説明すれば百科事典としては十分のように思えます。

私は、人様が熱心に執筆した記事を熱心に削除して回ることも、「こんな記事は削除だ」と脅かすこともやりたくはありません。そして執筆者が好きでやっていらっしゃることに目くじらを立てても仕方ないのかもしれません。(過去、何回か目くじらを立てて、それが不毛なことは思い知りました。)でも、千夜一夜物語のあらすじで行われていることはデータベース作成なのであって、百科事典編集から方向がズレてはいませんでしょうか?書いたものを「消せ」とは言わないまでも、「そっちは方向が違うから、それ以上は書かなくていいよ」と説得すべきではないか。その場合は、彼らにどう言えば良いのか。あるいは、そういう百科事典として逸脱している部分も目を瞑り、あらすじしか書く気が無い「あらすじ屋さん」にもとやかく言わず、そっとしておいてあげるのでよいのか。皆様はどうお考えでしょうか?--おーた 2011年1月24日 (月) 14:41 (UTC)[返信]

「千夜一夜物語のあらすじ」はこれは、これで1作品ですので、データベースではないですよ。また:「千夜一夜物語のあらすじ」は、:「千夜一夜物語」の衛星記事です。 それよりもやって頂きたいのは、ライトノベル・コミック・著書で、歴史的作品でもなく、国際的に著名でもなく、賞もない、取り立てて社会現象にもなっていないようなものは、作者を怒らせないように誘導して、著者のページへ統合して作品ページはリダイレクトにして行って頂ければと思います。--Gyulfox 2011年1月24日 (月) 17:39 (UTC)[返信]
私自身は、このような問題の根っこはすべて「サブカル記事」であることに起因すると考えます。つまり、おーた様が投げかけられました事象も、結局は「一次情報源だけを使って延々と作業を続ける」編集を志向される方々が生み出すサブカル記事が、百科事典であるWikipediaに必要なのかという疑問に帰結すると考えています。私は、おーた様の言葉を借りれば「『あらすじ屋さん』にもとやかく言わず、そっとしておいてあげるのでよい」という立場です。ただし、そのような記事には、出典が(基本的には)一次資料であることを明示するタグを貼るべきだと考えています。このような何らかの方法で百科事典をサブカルのページ群とカルチャーのページ群とに住み分けるべきだと考えます。サブカル対応の話しはこれ以上は脱線しすぎですので、これで失礼します。--Shigeru23 2011年1月24日 (月) 18:14 (UTC)[返信]
《この記事は本体記事千夜一夜物語からのスピンオフだから構わないんだ》というのは正しい面もあるとは思います。ただし、おーたさんの仰るように百科事典としては逸脱しているでしょう。「千夜一夜物語」に書かれるよりかはマシと諦めるか、ウィキブックスなど関連プロジェクトに受け入れてもらえるかを打診するというのが良い気はします。--iwaim 2011年1月28日 (金) 21:00 (UTC)[返信]

蛇足かも知れませんが、サブカルチャー記事に関しては、サブカル記事自体が悪いわけではなくて、ファンが多いので、

  • 平気で著作権侵害を行う。(面倒臭がってコピペで投稿する)
  • 出典を示さないで記事を書く。
  • 特筆性について全然考慮しない。
  • 自分が思ってることを気ままに書く。
  • やたら肥大化させる。 やたら作品のスタブ記事をたてる。
  • 全然こちらのいう事を聞かない。 (理屈をこねて、詭弁でごまかす)

など、行為の方に問題があるから困るのです。 特筆性についてはサブカル用のハードルの低い、現実的なガイドラインを用意してあげて、厳格に守らせるべきでしょう。--Gyulfox 2011年1月24日 (月) 18:42 (UTC)[返信]

「筆性についてはサブカル用のハードルの低い、現実的なガイドラインを用意してあげて」とするGyulfoxさんの御意見なんですが、なぜ、特筆性についてサブカル関連についてのみ甘くする必要があるのかとても不思議です。確かに、サブカル関係は二次資料が少ないために一次資料だけで「とりあえず」書くことが慣行化していますが、二次資料が求められていることには変わりはありません。問題は、かなりの項目について、遠い将来もその主題が有意であることを示す二次資料は現れないだろうという見通しにも関わらず記事が量産されていることなのではないでしょうか?
しかしながら、ここで御相談させていただいている主題は「あらすじだけの記事」なので、サブカル関連記事一般の問題点に拡散させるような話は早々に打ち切って、「あらすじだけ」あるいは、それに関連した「一次資料だけを使って書き続ける行為」に絞った話を続けましょう。--おーた 2011年1月25日 (火) 14:21 (UTC)[返信]

Gyulfoxさんは「「千夜一夜物語のあらすじ」はこれは、これで1作品」と仰いますが、千夜一夜物語を通読、あるいは10%くらいでも読まれたことはあるのでしょうか。かなり特異な見解のように私は思います。あそこに収録されている各挿話は相当にバラけており、「一本」というのは相当無理があります。主人公も場所も時代も変わるのですから、『ドラえもん』の各挿話以上に独立性がある説話群と言ってよろしいかと思います。おまけに「一本」だからといって、「あらすじだけ」の記事であることには変わりはありません。で、『千夜一夜物語』以上に「一本」感の強い『ドラえもん』の原作漫画の各挿話全てのあらすじだけを延々と書いた記事が現れた場合のことを考えていただきたいのです。そうした場合でも、wp-jpの皆さんは「あらすじ屋」さんの好きにさせておくのかなあ、というのが私の素朴な疑問です。

そうした物語ごとの「あらすじ」なり概要なりを並べた資料が無価値だと私は言いたい訳ではありません。私自身はまだ手にとって見たことはありませんが、近世文学の分野では膨大な説話群をあらすじに要約して並べた研究資料というのがあって、うろ覚えの記憶から作品を探しだす時など、その分野の研究者が調べ物をする上では結構便利なものなのだそうです。ただ、そういうデータベース製作は研究資料としては(すごく少数の研究者にしても)有用でも、Wikipediaのプロジェクトとはズレていませんか。Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは情報を無差別に収集する場ではありませんには、「フィクション作品におけるあらすじのみの解説」はWikipediaの求めるものではないとされています。この項目の意図するところが、すごく蔑ろにされているように見えるのですが。--おーた 2011年1月25日 (火) 14:21 (UTC)[返信]

サブカルチャーの出典については、理想的に高いものを求めるのは無理です。 守れないものを相手に要求しても守れるわけがないという事です。 ルールを蔑ろにされないためには現実的なものでないと困ると思っているのです。 千夜一夜物語は、元はバラバラだったと思われているのですが、現代においてはいくつかのバージョンに収束したものです。 厳密には違うにせよ、この形成形態はいわば聖書や古事記に近いものと考えて下さい。 古典とテレビ番組とは分野が違いますので一緒に考えるのは乱暴でしょう。 また、一時資料に基づいてあらすじを書くことは禁止行為ではありませんし、先ほども述べましたが、あらすじだけの項目と考えるのではなく、項目名から考えても、本体の成長によって衛星記事になったと考えるほうが自然です。 将来おーたさんの奮闘で、国際的にも権威ある素晴らしい二次出典が見つかって、あらすじの各節に専門家の解説を加えた上で、それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょうという建設的な話なら大賛成です。 このような状況になると、もはやあらすじのページは役目を終えてインデックスとなるでしょうから、本体への吸収が妥当かも知れません。 それから相手を「あらすじ屋さん」と簡単におっしゃいますが、あらすじをそつなくまとめるには、かなりの能力と訓練が必要ですので、もっと評価されるべきでしょう。--Gyulfox 2011年1月25日 (火) 16:24 (UTC)[返信]
あと網羅について心配されているようですので、念のため書いておきます。おーたさんも半分わかっていらっしゃるようですが、これだけは理解して欲しいところがあります。 それは『千夜一夜物語』は歴史的な古典文献であって学術対象になっており、頭から尻尾まで、全部特筆性を持っているということです。ここがサブカル作品群と決定的に違うポイントです。全部特筆性があるのですから、結果的に網羅したところで、ガイドラインに違反してるわけではないという事です。堂々と網羅して大丈夫ですから安心して下さいということをお知らせしておきます。(網羅しないでというのは、例えば何々地下街という記事を作るときに、特筆性のない店も含めて一律に店舗を網羅するような編集は違反ですよという方針です。)--Gyulfox 2011年1月26日 (水) 03:29 (UTC)[返信]
えーとですね。それでは、千夜一夜物語の中にある「歴史的おなら」が学術対象になっているという、二次資料を出していただけますか?それから、Gyulfoxさんは、以前の投稿で「千夜一夜物語のあらすじは全体で一本と考える」と仰ったのに、「それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょう」なんてことも仰る。「一本」なんでしょうか、挿話集なんでしょうか?「ドラえもん」だって学術研究で取り上げられている例はある筈ですが、あのマンガ原作の全ての挿話のあらすじで一つの記事を書くことも許容されるんでしょうか?私から見ると、その場その場で、アドホックに理屈をつけているようにしか見えないのですが。--おーた 2011年1月27日 (木) 15:36 (UTC)[返信]
個別の事は知りませんが、収録されたそれぞれの話はどこにルーツがあるのかという調査があるようです。まともな研究者であれば、この話の内容は馬鹿馬鹿しいからパスしますというような研究態度を取るとは思えず、「歴史的おなら」を含めて(全話のルーツが判明したかどうかはさておき)、一通り学術的な対象にされてきたと考えるのは常識的判断です。 何度も言いますが「ドラえもん」と一緒くたにするのは話の脱線です。 仮に「ドラえもん」が学術研究対象になって、研究論文が出ても量的に考えて本体記事に載せるだけで十分です。また仮に最終回がクローズアップされて、学会記事のボリュームが増えても、独立したページを作るのは最終回だけで十分です。 データベース禁止のルールにしろ、対象は1個であって、量はあっても無限増殖的な編集とも違い、批判は当たっていません。 量については紙ではないので制限すべきでないと言われています。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 06:47 (UTC)[返信]
まず、「Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか」については、これは英語版からの翻訳であることは、おーた氏なら重々承知だと思いますが、現在の文面は変わっています。あらすじ(プロット)の簡潔な要約は通常、百科事典的な記述の範囲に入ると書かれている。もう1つ、英語版において、ある作品の記事群が形成されていて、その子記事はほとんどある1話のあらすじだけってのは多いです。(これは私の類推でしかありませんが)それは親記事との関係を持って認められている。前にも言いましたが、この記事は単独で成立しているのではなくて、千一夜物語という親記事とセットです。だから、ここで言うあらすじのみしか書かれていないという指摘は、間違ってると考えます。
まあ、簡潔な要約と、簡潔じゃない要約と、要約じゃないあらすじの違いって何なのかで、また個々に価値観の相違とかあると思いますし、前から対立点でもあった1話1話の扱いの問題もあるので難しいところですが、少なくとも私は、現状の記事は、(前にも述べたように)1話あたりは簡潔な要約になっていると思います。ただ話が多いから全体として膨大になる。--EULE 2011年1月25日 (火) 18:18 (UTC)[返信]

不毛なルール解釈競争に陥らないための議論を

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えー、この話題を当該ノートで蒸し返すのを避けて、わざわざ井戸端に持って来た理由は、ノートでやっても記事を守りたい人が、ルール解釈競争の体力勝負に持ち込むことが目に見えていたからです。でも、井戸端でも似たようなことになってしまいました。私の見込みの悪さで貴重なリソースを浪費させてしまたことを申し訳なく思います。

上の方でも指摘しましたが、私が「版によって含まれる挿話が大きく異なっていて、無名のどうでも良いような類型的な挿話群のあらすじを全部書く必要は無い」と言えば、この物語は「全部で一本」と考えると反論し、そのすぐ直後に「それぞれの物語の記事に独立させてゆきましょう」と矛盾することを平気で続け、おそらくは千夜一夜物語全部を読んだことも無く、その学術研究の実際も知らないのに、堂々と「学術対象だから頭から尻尾まで全部特筆性がある」なんてことを主張する。(そういうことは是非、「歴史的おなら」を読んだ上で言っていただきたいと個人的には思います。)「あらすじだけの記事は公式ルールの記述に反していますよね」と言えば、本体記事からのスピンオフ記事(衛星記事)だから構わないと言い、これはまだ書いていませんが「本体記事に比して桁違いに大きくなっているのは、バランスを崩していますから、「バランスよく記述する」に反しますよね」と書けば、(おそらく)「だから記事を分離したんでしょ」と返って来る。分離した別記事とまとめて議論するのか、別々に議論するのか、その時々に応じて使い分けるこの種の詭弁めいた不毛な議論は、あちこちで繰り返されていますから、私としては井戸端でやるのは無駄だと思っています。

その記事に愛着のある方々、そして同種の記事に関わったので「ここで踏ん張っておかないと、削除屋の便利な道具を与えてしまう」と考える方々のお気持ちも分からなくはないのですが、削除する意図はもともと無かった私を当該ノート上で削除屋扱いしたEULEさんなどを見ていると、「百科事典を作る」という目的が蔑ろにされて「そのとき目につく便利なルール」を使いながらディベートして相手を叩いておくという、悲しい風潮になっているように思います。

私が問いたいのは「百科事典としてどうなのよ?」です。千夜一夜物語の全ての挿話のあらすじは、確かにデータベースとしてある種の学術的な価値はあります。現時点での当該記事は、記述スタイルが一定せず、マドリョス版しか見ていないし、資料批判の手続きが全くないので学術的な価値はまだまだ低いですが、そこは参加者次第で改善できるでしょう。でも、そういうデータベースは百科事典が抱え込むべきものなのでしょうか?「その分野のことをよく知らない人でも、一読すればおおよその概要が掴める」のが百科事典の役割だと思っている私としては、そこは疑問だと思う。別に「歴史的おなら」のあらすじを知らなくても、千夜一夜物語がどんな話なのか概要を掴むことは出来ますから。

ただし、二次資料を読みこなして記事を執筆する能力には欠けるけれども、執筆者の手元にある作品本体だけであらすじを延々書くことだけを楽しみにしておられる方々の篤志をどう扱うかというのは別の問題としてあると思います。そういう方々を小馬鹿にしたり、「ゴミをまき散らすんじゃねぇ、この阿呆が」と罵って削除主義に走るような方々もかつては多数いらっしゃいましたが、大方は無期限ブロックされたり自ら愛想を尽かされてウィキペディアを去ってゆかれました。それでも、私はそういう方々の篤志に対しては、「有り難いですが、プロジェクトの目指す方向とは異なります」と丁寧に説明さし上げるべきだと思っています。たぶん、分かってもらえないでしょうし、そういう方々の記事を無理に削除して問題をこじらすよりは、そのまま置いておくという現実的な方策をとることになるとは思います。

それでも「百科事典としてどうなのよ?」というスタンスは崩すべきではないと思いますし、「ルールに合致しているから百科事典」という本末転倒な議論をするべきでもないと思います。「百科事典」を目指すために導入された各種のルールですから、それらを守れば百科事典としてのありかたをクリアする確率は高いでしょう。でも、無理矢理な理屈でルールに合わせたものが百科事典としてすべてオーケーとは言えません。ボーダーラインのややこしい案件というのはいくらでもあるのです。そういうのを、ルール解釈競争でごり押しするのは避けたいねというのが、私のささやかな提言です。--おーた 2011年1月27日 (木) 15:36 (UTC)[返信]

まず、議論の相手を名指しで批判するような言動は良いこととは思えません。そういうことをしてしまうと、たとえ正しいことをおっしゃっていたとしても、ご自身の立場を悪くしてしまいます。
さて、本題の「あらすじだけの記事について」ですが、僕も一読して問題を感じなかったわけではありません。あらすじというのは、一貫した流れのあるストーリーに対しては理解の一助になると思いますが、千夜一夜物語のような説話集にはふさわしくないと感じたからです。もちろん各説話のあらすじをすべて記述すれば膨大なものになり、可読性も失われます。読者にそれほどの文章を読ませるのなら、直接作品を手をとっていただく方がよいとも思えます。
記事が発展して行き、発展的に分割が行われる事は望ましいことです。しかし、情報を整理せずに、ただ長くなったから隔離するという事はよくないことだと思います。分割された記事が、単独で諸方針やガイドラインを満たさなければいけないかどうかは議論のあるところだと思います。ただ、もし分割先の記事を独立した記事として考えないのであれば、記事のバランスという点でも分割元と合わせて考えるものだと思います。--有足魚 2011年1月27日 (木) 18:54 (UTC)[返信]
コメント 著作権の切れていそうな古い日本語訳版をウィキソースあたりに載せておけばある程度解決しそうですけどねえ。古書市行ったり国会図書館通いしたりは面倒だしその国会図書館も古書デジタル化作業中で微妙に不便だったりするので、私はやりませんが。--Starchild1884 (LuckyStar Kid) 2011年1月27日 (木) 22:16 (UTC)[返信]
コメントおーたさんは、ここに第三者的な意見や考え方を聞きに来たのではなかったのでしょうか? それとも井戸端をうまく利用して味方を増やしたかっただけなのでしょうか? 前者なら、期待していたのと別の見解が示されたところで、詭弁めいた議論だの無駄な議論だっただのと、爆発するのはやめましょう。 非常に残念で不愉快です。 私からみたら、おーたさんの方がよほどルールに縛られているように見えます。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 22:57 (UTC)[返信]
もう一度言いますが、古典文学は学術対象です。ドラえもんと一緒ではありません。 元バラバラのものが現在一つになってるのは聖書を考えたら不思議じゃないでしょう? 例えあらすじの衛星記事であっても、権威のある学者の見解が見つかったら、おーたさんが努力して節ごとに入れていったら良いだけじゃないですか? そのように見解が増えて分量が増えたら記事として独立させていったら、理想的に完成して行くだろうという考え方を示すのが、どうして矛盾や詭弁でしょうか。 全く不愉快です。 さらにこの話題のタグがサブカルチャーのタグになってるのもどうかしています。--Gyulfox 2011年1月27日 (木) 22:57 (UTC)[返信]
タグ付けについて不快にさせてしまったようで申し訳ありません。弁明しておくと、議論の中でサブカルチャーに触れた部分があったのでタグを付けただけで他意はありませんでした。井戸端タグは議論の主題をカテゴライズするものではなく、要素が含まれている・関連する議論を探しやすくするだけの機能ですので、ご理解いただければ幸いです。--cpro 2011年1月28日 (金) 02:45 (UTC)[返信]
こちらこそ、勢いでつまらない事を言ってしまいました。私は井戸端の議論のタグ付けは、やったことがありませんでしたので、理由がわからず違和感を感じたというだけのことです。Cproさんのご説明で理由がわかりました。それからゆくと、特筆性やあといくつかのタグが追加されても良い様ですね。サブカルチャーのタグは改めて追加してくださって結構です。 古典文学のカテゴリーを作りましたので、他の議論でも該当するものがあれば、有効にご利用下さい。--Gyulfox 2011年1月28日 (金) 03:23 (UTC)[返信]
コメント私は基本的なところでおーたさんに共感する部分があります。文芸作品について記事を書く予定はいまのところありませんが、もし私がこの分野で執筆する場合には、おそらく次のようなことを期すと思います。
  • 作品の成り立ちやその時代背景、作家のなかでの位置づけや文学史上で果たした役割・インパクトを書く。
  • 作品の解説、意義などを述べるにあたって、必要に応じてストーリーにも簡潔に触れるが、網羅はせず、あらすじやオチなど、作品を読めばわかることは、それだけのためには書かない。
なぜ「読めばわかること」は積極的に書かないかというと、文芸記事の説明として重要なのはそこではないと思うからで、逆説的になってしまいますが、力点を置くべきは、「読んだだけではわからないこと」ではないかと考えるからです。
また、ネタばれとの関係で別の場でコメントしたこともありますが、物語の時代・場所・主たる登場人物といった設定や条件を述べることは差し支えないとしても、「あらすじ」については、作品のどの部分を「あらすじ」として取捨選択するか、という点で、独自解釈のおそれがつきまといます。言い換えると、「あらすじ」は作品の一解釈であって、だれもがそういう「あらすじ」として読むとは限らない、ということです。それがすべてではないのに、「あらすじ」を読むことで作品そのものを読んだつもりになられてしまうという危惧があります。文芸作品は、そのストーリーが鑑賞上のとくに大きな要素を占めるため、そこにはいろんな仕掛けや工夫がこらされているわけで、それを味わいたければ、作品そのものを読んでください、というのが望ましい姿勢ではないかと思うのです。この点で、いわゆるプロットとストーリーを区別して、ストーリーは書かないが、プロットは紹介する、という方向なら理解できます。
ところで、私はこれまでクラシック音楽のオペラ記事やギリシア神話の登場人物記事などを書いていて、それらの中では劇の進行や物語についても節を立てて書いたりしています。これらも同様なことがいえるのではないかと自問しています。直接的には、参考文献がそれを重視したスタイルを採っている、ということがあるんですが。現在の自分の中の整理としては、舞台で上演されるオペラや劇は、どう演じられるかという点が鑑賞上の主たる興味の的で、劇の進行・台本はその前提知識となるものであり、また、神話の場合は人物記事としての要素もあり、形成された物語自体がひとつの典型あるいは歴史に近い特筆性を持つのではないかと考えているところです。
このように、記事に求められるものは、分野や作品ごと、当たれる文献によっても違うようなので、一概に「あらすじ」が必要とか不要とかは判断できないと思っています。「千夜一夜物語」についてはよく知らないのですが、古典作品としてとらえて個々のエピソードまでを特筆的と考える立場もあるのかもしれません。すでに述べたように、解説や分析と一体的でない「あらすじ」のみというのは、自分ならそうはしないだろうと思うことです。ウィキペディアは「あらすじ」集だとは思わないし、一読者としても、「あらすじ」だけ読むくらいなら原典を読むでしょう。それは本記事だろうと衛星記事だろうと同じです。しかし、昨今は「あらすじ」を必須とされる方もおられるようで、そうした方の希望をつぶしてまで書くな、と主張する気にはなれないところです。--みっち 2011年1月28日 (金) 23:54 (UTC)[返信]
コメント 個々人が抱く「ウィキペディア フリー百科事典」のあるべき姿の具体像が異なり、また、個々人が抱くものであるが故に、個々人に対し特定の唯一の具体像を抱くよう強要するのも困難(というよりも不可能)です。その為、その個々人が抱く「ウィキペディア フリー百科事典」のあるべき姿の具体像を合意形成によって集約した最大公約数を一応の基準とせざるを得ないし、従来、少なくとも曲がりなりにもその様な運用がなされてきたとも思います。
また、合意形成に議論を用いている宿命として、例えば、雄弁家の主張に口下手な主張が言い負かされるなど、主張の正しさとは異なる要素に結論が支配されることもあるでしょう。但し、「雄弁家の主張に口下手な主張が言い負かされる……」との指摘自体もメタレベルの指摘でありながら、そのことを主張した時点で「メタレベル」の下位レベルの「議論のパワーゲーム」に包摂されるものです。本節「不毛なルール解釈競争に陥らないための議論を」も同様に、メタレベルの指摘でありながら、下位レベルの「議論のパワーゲーム」(ルール解釈競争)に包摂されるものです。
例え、部分的にでも議論を合意形成の手段として用いるのであれば、ルール解釈競争は回避不能と思います。
蛇足ですが、本コメントももちろん「議論のパワーゲーム」に包摂されます。--4行DA 2011年1月29日 (土) 04:44 (UTC)[返信]