Wikipedia:井戸端/subj/「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」について
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「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」について
[編集]ノート:GDPデフレーターでIP編集者に以下の説明を受けました(部分部分抜粋です)。
「検証可能性」とは客観的事実に基づくのかということであって、出典があれば客観的事実に反していても記載しても良いということではありません。 客観的事実に反する事が記載されている書物やHP記載は沢山あります。
— User:122.23.196.1
客観的事実についてここに政府が発表している資料などを示してそういった客観的事を実示しても良いですが、これは誰でも調べられるものなので特に必要ないと思います(インターネットでも公開されています)。
— User:122.23.196.1
>くどいですが「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」です。< これは先に言いました通り、第三者が客観的に確認出来るかどうかということであって、出典があるかどうかではありません。著名な方の著作などの出典があっても客観的検証に反するものは信頼性に足る出典足りえませんし、個人サイトのものであっても、公的資料などを元にした検証可能なデータであれば信頼性に足ると考えています。「独自研究」が避けられるのはその研究元のデータが独自データに基づくなどで検証出来ないものであるなどの場合であると思います。そうでないと出典の信頼性の有無が著名かどうかになってしまいますから。 但し客観的検証とは別のことなどの場合は特筆すべきニュース性などが基準となりますので、この限りではありませんが。
— User:114.144.118.35
客観的な説明であれば出典に拠らなくても説明の文章としてあるべきではと思うのですが。 そのような説明にまで独自研究と噛み付かれると、引用の寄せ集め以外何も書けなくなる。(中略)解説を入れて出典を問われても、いや前提となる話のつながり的にそのようにこちらで説明を書きましたとしか言い様がない。 それを避ける為に引いてくると、逆にどこまでが引用の範囲になるのかという話になる。 そういう自縄自縛に陥ってしまう。 本来客観的な説明・解説はこちら側で書いて、それを補足・裏付けなどをするために出典のある引用を行うというのが自然な形のはずです。 wikipediaでよく見かけるのがある方向からの引用を羅列しあって、編集合戦に陥るという現象です。 「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」の、「検証可能かどうか」が出典があるかどうかの出典至上主義だと自然とそうなる。 あくまでも「検証可能かどうか」というのは客観性があるかどうかであって、「真実かどうか」ではなく、というのは真実(であると思われること)であっても客観的検証ができないものは書かれるべきでないということだと考えるべきではないでしょうか。 そういう意見・主張があったというのは、その内容ではなくその意見・主張自体に意味がある場合にのみ限定されるべきではないでしょうか、出典があっても。
— User:114.144.118.35
この項目の様な学術的な説明では誰が言ったかというよりも、客観性が重要になります。誰の見解であるかよりも、客観的説明がされているかが重要になるでしょう。その説明が客観的に見て理に叶った説明ならば、出典元が必須というわけでもない。寧ろ引用はあくまでもそれを補足・裏付ける範囲のものに留めなければ、著作権上の引用の範囲を超えてしまうでしょう。 だから一律に判断基準があるわけではない。
— User:114.144.118.35
相手の方は自身の「客観的事実」「客観的説明」を根拠としてあれこれ話を進める傾向があり、「客観的事実」「客観的説明」ではないから出典の有無に関係なくダメだ、また逆に「客観的事実」「客観的説明」だから出典(このケースでは脚注でした)は要らないといった感じです。相手があくまで「客観的事実」「客観的説明」とするものに対して出典(このケースでは脚注)を求めることは間違いなのでしょうか(因みに○○という議論があったという記述に対してです)。私自身は脚注が無いよりかはあるほうが良いと認識しています。--チンドレ・マンドレ(会話) 2015年1月11日 (日) 03:10 (UTC)
- 信頼できる出典がないことには「客観的事実」「客観的説明」なのか否かすら検証できませんし、「著名な方の著作などの出典があっても客観的検証に反するものは信頼性に足る出典足りえません」のように出典の内容を評価することはウィキペディアの編集者がやってはいけないことのはずです。--Claw of Slime (talk) 2015年1月11日 (日) 03:33 (UTC)
- 何点かコメントいたします。
- ウィペディア上では、「客観的」とか「科学的」とかどんな形容詞をつけたとしても、出典のない記述に関してはWikipedia:独自研究に区分されます。以前にあった事例(ノート:うま味調味料)を思い出しました。
- Wikipedia:中立的な観点/FAQ#客観的な視点など存在しないにありますように、ウィキペディアでは「客観性」という観点は採用されていません。代わりに、「論争に参加するのではなく、論争を描写するべくベストを尽くすべきだ」というのがWikipedia:中立的な観点に基づき、とるべき立場です。
- チンドレ・マンドレさんへの意見ですが、わざわざ井戸端に上げなくても、コメント依頼でよかったのではないか、とも思いました。--Jkr2255 2015年1月11日 (日) 03:45 (UTC)
- コメントありがとうございます。IP氏がwikipediaはこうであるべきだ、或いは方針はこう解釈されるべきだ的な大きなテーマを持ち出してきたので、その認識が本当に一般的なものなのかちょっと確認してみたかったというのがありました。--チンドレ・マンドレ(会話) 2015年1月11日 (日) 08:34 (UTC)
引用された該当文章を書いた者です。 >「客観的事実」「客観的説明」だから出典(このケースでは脚注でした)は要らない< などとは主張しておりません。 引用でない文章作成した部分は、既に出典のある説明がされた後、それを踏まえて次の引用につなげる為に書いたものです。 元の出典ある説明を超えた説明文章の挿入などしていません。 それが「客観的説明」ということです。 また「客観的事実」については政府が発表している統計データ資料に拠ると言っています。 >「客観性」という観点は採用されていません<という指摘がありますが、私がコメントアウトした出典ある引用は、専門家の著述からのものですが、ある意味太陽が西から登ったレベルの明白な誤りであり、政府の公的データに照らして否定され得るものです。 つまり それを出典ある引用だからといって説明として記載しておくのは、wikipedia以前の百科事典として成立していません。 (端的に言うと「インフレ時は好況・デフレ時は不況」というものでしたが、そうでないケースが多々あることは公的資料からみても、他のwikipedia内の項目に於ける説明からしても明らかというものでした。) 見解に於ける客観的視点は存在しないというのは理解できますが、データに上昇が見られる、下降が見られるなどということは、客観性そのものです。 例えば政府の発表しているGDP資料を加工など一切せずに引用して提示して、この期間GDPは上昇していた等の説明を加える事は独自研究に当たらないと思われます。 誰にでも自明に説明出来ることだからです。 見解や主張と、誰にでも自明な客観性は別けて扱われるべきです。 独自研究や 「真実かどうか」が排除されるのは、誰でも自明にすることができる「検証可能かどうか」に拠るものです。 この「検証可能かどうか」が一定の著名な立場の者の著作などからの引用であるかどうかであるのならば、著名な立場の無謬性を前提にしていることになります。 勿論そのようなことはありませんから、それを明確に否定しうる客観性を持った資料を提示すれば学術的な説明としてはその記載は削除されるべきでしょう。 (特筆すべき取り上げるべき理由のある見解であれば、学術的な説明とは別にトピックとして取り上げるべきでしょう。) 勿論>疑似科学と科学を対等に扱うのか<の様なケースもありますが、それはケースとして取り上げる特筆性がある事が前提になっています。 「独自研究」自体は元々排除されているのですから。 つまりトピックとしての提示であり、それ以上のものではありません。 科学的説明がつかないことを「疑似科学」というのですから。 だから学術に於ける客観的な説明と、客観性を持たない見解は混ぜて書かれるべきではないでしょう。 政治やニュースなどでは客観性は存在しないのでいつどこで誰が何をしたかがどう伝えられたかが重要ですが、学術に於ける基本的な説明は客観性の提示そのものです。 だからと言って出典元そのものをそのまま引き写せば著作権が認める引用で無くなりますから(例:既存辞典の説明そのままとか)それを踏まえてwikipediaなりの説明をする必要が有る。 そうなると参考にした元の提示は出来ても、引用出典はできません。 本来著作権が認める引用とは、 >公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内< ですからそのまま引き写して説明とするというのは適当ではない。 何故なら主たる文章に対して従の関係に有るのが引用だからです。 wikipediaという百科事典という立場でしたら、説明の文章に対する裏付けや補足として引用が用いられるのが適当であると思われます。 説明文章が丸のまま引用で構成されているなど著作権的にはかなり危ないと思われます。 「検証可能かどうか」を出典至上主義のそのまま引き写したもの、と捉えることは基本としてズレていると思われます。
>コメント依頼でよかったのではないか<
私もそう思い
>個別のケース事に議論をしながら適当な記載を探っていくしかない<
とそう申し上げました。
--180.5.155.27 2015年1月25日 (日) 20:15 (UTC)
- 何点かコメントします。
- 経済学は各種の学説が対立を続けながら共存を続けている分野であり、学説を越えて「客観性」を得られているような見解というのは限られています。どの学説・学者の見解かも触れずに「客観的」と繰り返したところで、第三者から見れば「あなたが客観的だと思っている」に過ぎません。
- 政府資料をもって「GDPが上昇していた」ということはもちろん可能ですが、それ以上の意味をWikipedia執筆者が与えることは、独自研究の一種とされます。
- Wikipediaは、他の資料に基づいたことしか書けない場所です。ただし、丸写しではなく情報だけを取り出す必要があります。
- 「この『検証可能かどうか』が一定の著名な立場の者の著作などからの引用であるかどうかであるのならば、著名な立場の無謬性を前提にしている」わけではありません。その資料が適当ではないというのなら、別の資料をもって否定すればいいだけの話です。ウィキペディアン自身の判断で否定するのは独自研究です。
- --Jkr2255 2015年1月25日 (日) 22:23 (UTC)