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Wikipedia:井戸端/subj/「指摘」か「述べた」か

「指摘」か「述べた」か

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ノート:アベノミクス#「述べる」「指摘する」の使い分けで、議論となったのですが、井戸端向けと判断し、こちらに提起します。例えば、出典で「民主党議員の〇〇が~と指摘した」と記載されていた場合、Wikipediaの記事には、どのように記すべきでしょうか?正確には「××新聞では、民主党議員の〇〇が~と指摘した、と報道している」となるかと思いますが、冗長に感じます。以下、私見です。指摘という言葉を使うと、それがまるで正しい意見のように聞こえます。見解の分かれるものに対して、「指摘」という語は使うべきではなく、「民主党議員の〇〇が~と述べた」の方が良いかと思います。皆様の御見解はいかがでしょうか?--JapaneseA会話2016年4月20日 (水) 13:01 (UTC)[返信]

コメントこの差分[1]で言うと、総理大臣なり与党なりの政策や発言について、その一部について、「海江田万里は」「枝野幹事長は」それを欠点だとして「指摘」している。ウィキペディアあるいはウィキペディアの編集者が指摘しているのではなく、「指摘」しているのは発言者であり、発言者は「欠点であると捉えている」のですから、記事中で「指摘」という表現を使うことに問題はありません。「述べた」とすることで、「欠点であると捉え、それを批判している」ということが曖昧になりますから、出典で「指摘した」を「述べた」とするのは基本的には適切ではないでしょう。「指摘」という言葉を使うことで、見解が分かれているということが読者に伝わるのです。指摘に対して反論した、詭弁だとあしらった、などと書いてあるときに、そこに見解の相違があることは分かりますが、指摘している方が正しいというニュアンスは出てこないと思いますよ。
一般論としては、それほどこだわるところではない、ということになると思います。指針としては、情報源で指摘とあるなら、「誰が」論点の抽出と批判を行っているかを明らかにするようにして「指摘」と書く。国会などの議論が交わされる場所、政策に関わることなど意見の対立があってしかるべき事柄について対立する立場からの論点の抽出と批判であれば、情報源で「指摘」と書かれていれば「指摘」でしょう。ただし、立場によって「欠点」かどうかが分かれるような論点で、話者が欠点とみなしていないと思われるような場合など、ある論点を取り上げているその状況によっては、メディアが「指摘」という表現を用いていても「述べる」のほうが適切なこともあるとは思います。
なので、「指摘」という語は使うべきではなく、「民主党議員の〇〇が~と述べた」の方が良いという意見には反対し、基本的には情報源で使われていなくとも文脈に応じて「指摘」を使うべき場合には使えばよく、情報源で用いられているのならなおさらなのだけれど、述べると書いた方がいいこともあるので、そのように考えるなら、「述べる」を用いたいと考える方が、そのように考える理由を説明して、合意を形成する必要がある、だと考えます。逆に情報源で「述べた」を「指摘した」に直しているなら、その主語を明らかにし、論点の抽出と批判がなされているという説明が必要でしょう。--Ks aka 98会話2016年4月20日 (水) 13:48 (UTC)[返信]
コメント ウィキペディアは出典を以って記述する原則がありながら、著作権問題から出典をそのまま転記できない。これは、執筆をする一般的な利用者なら感じる大変なジレンマで、一手段として表現を変える方法はよく使っている。「それがまるで正しい意見のように聞こえます」はただの主観。「指摘する」は(その人物の)行動を示す単語で「述べる」「言及する」「主張する」などと特に差異は無い。例えば「誤った指摘」「ピント外れな指摘」などの表現を考えてください。
記事測定から引用しますが、
奥義において重なり合っている部分が多いため厳密に区分できるものではなく、VIMは逆に区分することで表現が枯渇するような事態にならないよう推奨している。
とあります。「指摘」か「述べた」か など、表象でしかない事で制約を持たせる行動は、ウィキペディアへ記述する熱意を枯渇させてしまう事態に繋がりかねません。無意味です。--59.135.84.132 2016年4月22日 (金) 18:41 (UTC)[返信]
英語版ではen:WP:SAYのようなガイドラインがあって、「述べる」「主張する」「指摘する」等のニュアンスの違いに注意して、中立的な記事を書きましょうということになっていますが、日本語版にはそこまで具体的なガイドラインは無いのでしょうか?
私の理解では、「指摘」とは「指差し、つまみ出す」の意味ですから、指摘の対象(指差され、つまみ出されたもの)が現実に存在しているイメージを湧き立たせます。JapaneseAさんは「それがまるで正しい意見のように聞こえます」とおっしゃっていますが、私の感覚からすれば、「それがまるで事実のように聞こえます」ということになります。いずれにしても中立的でない表現になりやすい言葉ですから、ニュアンスについて異論が出たときには、他の言葉で書き換えることを考える方が建設的だと思います。--Dwy会話2016年4月23日 (土) 00:03 (UTC)[返信]