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Wikipedia:井戸端/subj/「単一の出典」のテンプレートへの対応

「単一の出典」のテンプレートへの対応

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先だっては「特筆性のテンプレートへの対応」にアドバイスをいただき、ありがとうございました。 さて、これも似たような話なのですが、もともと私が作成した記事「竹内啓一」について、あるIP氏から要出典が多数付された後、別のIP氏から「単一の出典」のテンプレートが貼付されました。 現状でこの記事は、参考文献に挙げてある追悼集に多くを依存して記述されています。また、外部リンクに挙げられたネット上のページは、この追悼文集の一部をネット上に公開したものであり、単一の出典によっている状態というのはその通りだと思います。

その上で、この追悼集にも収録された、外部リンクに挙げられたページの内容は、その末尾に出典が記されているように、多数の既存の文献に依拠したものです。 「単一の出典」を脱却するために、ここで示されているような二次資料の諸文献を挙げても、既に挙げられている「単一の出典」の文献がその内容を反復しているのですから、意味はないように思うのですが、だからといって、経歴の個々の事項について一次資料にあたるのは独自研究になってしまいそうです。 このような場合、「単一の出典」のテンプレートに対応するためには、どのような文献を挙げていくべきなのでしょうか?

とりあえずは、現状の「単一の出典」の文献=追悼集が、その典拠として表示していない、なおかつ、それ以前に刊行された二次資料があれば、これを提示することには意味があろうかと思いますが、存命中の人物の経歴を詳細に記した二次資料文献は、そうあるものではないようにも思います。何かアドバイスをいただければ幸いです。 --山田晴通 2010年10月17日 (日) 14:33 (UTC)[返信]

何もする必要は無いと思います。そのまま単にテンプレートをはがしてもよいし、強いて何か対応するなら、要出典をつけられた箇所に対し、脚注のかたちで出典を示す程度ではないでしょうか。
その記事の主題に対し、出典(参考文献)として用いられるべき定評ある文献が多数あるにもかかわらず、特定の「単一の出典」に依存して書かれた記事ということになるとちょっと問題があるかもしれません。重要な文献が漏れていて読者に知られるべきことが脱漏するとか、対立する諸説の一方だけに従って書いてしまったり(WP:NPOV)とか、その他にも、丸写しに我知らずなってしまう(著作権侵害)等々、結構リスキーな行為だと思います。そういう場合には単一の出典テンプレートにも意味があるでしょう。
しかし、二次資料が単一のものしかないのであれば、それに頼るのはやむを得ないことです。ある分野で重要なテーマとして認識されていても少数(甚だしい場合にはただ一つ)しか文献がないということはあるものです。むしろ、今回の件について言えば、存命人物について憶測や独自研究に頼らず書いているのだから、充分ではないでしょうか。
なお、一次資料にもとづいて書くことは独自研究を含め、種々の良くない問題を含んでしまう危険があります。人物伝、歴史、人類学など人文社会系だけでなく、理工系でも原則として避けるべきだと私は考えます。--ikedat76 2010年10月17日 (日) 15:19 (UTC)[返信]
こんにちは。今、張られているのは「単一の出典」のテンプレートですが「単一の出展しかないから特筆性が無い」と誤解されて削除依頼されたりすると面倒かと思います。「竹内啓一」さんに関して書かれた二次情報はそれなりの数があるようです[1][2][3][4]。まずは、これらをノートに列挙して「特筆性は十分あるので削除しないで下さい」と書いておくと良いのではではないでしょうか。後は、これらの資料が入手できたら本文の記述を追加し、「単一の出展では無くなったので一週間後にテンプレートを剥がします」等とノートに提案し、その後に剥がせば、より穏便に物事が進むかと思います。--124.36.247.223 2010年10月17日 (日) 21:11 (UTC)[返信]
一般論として申せば追悼論文の場合には故人を敬い賞賛するものが中心になるでしょうから(もちろん例外はあります。)それを丸写ししたり、適当に抜粋するのは問題があると思います。
>利用者:ikedat76 さん
>むしろ、今回の件について言えば、存命人物について憶測や独自研究に頼らず書いているのだから、充分ではないでしょうか。
(理工系の方かもしれませんが)兄弟と間違われた(質問21参照)竹内啓氏と混同していませんか?--114.22.27.197 2010年10月18日 (月) 13:51 (UTC)[返信]
114.22.27.197さん、私への質問ということでしょうか?「存命人物」と書いたのは、確かに間違いです。山田晴通さんの2010年10月17日 (日) 14:33 (UTC)付けの発言の最終段落に「存命人物の…」とあるのに引きずられて書いてしまいました。今回の私からの回答は、あくまで一般論としてのもので、どちらの「竹内」氏も存じません。--ikedat76 2010年10月18日 (月) 15:11 (UTC)[返信]

ikedat76さん、コメントありがとうございました。

それに続けてのIP124.36.247.223氏のコメントは、山田に向けられたものかと思います。 このIP氏は、やはり山田が最初に記事を作った稲葉三千男について、こちらが意図を測りかねる「雑多な内容の箇条書き」のテンプレートを貼られていますし、わざわざ山田が書いた文章へのリンクを設けたり、山田が書いたものではない(同姓同名の別人が名乗って書き込んだか、第三者が山田を騙って書き込んだ)コメントを引き合いに出して「兄弟と間違われた」云々という話に言及されている方です。匿名の方による同様の行為はこれまでもあちこちで遭遇しているので、個人的にはなれっこですが、とりあえず、このようなIP氏の山田個人に対する粘着でコミュニティにご迷惑をかけるのは本意ではありません。

本題に戻って、諸々の資料に基づいて著された追悼文がほぼ単一の典拠となっている状態で、(1)その追悼文のもとになった資料を列挙すること、(2)追悼文の発表後にそれを踏まえて著された文献を列挙することに意味があるかという点について、ご意見をいただければ幸いです。--山田晴通 2010年10月20日 (水) 05:31 (UTC)[返信]

(本題とずれますが、IPは124.36.247.223 じゃなくて 114.22.27.197のようです[5]。--Ks aka 98 2010年10月21日 (木) 06:51 (UTC)[返信]
失礼しました。ご指摘の通りです。申し訳ありません。--山田晴通 2010年10月21日 (木) 09:09 (UTC)[返信]
(1)(2)とも意味が無いでしょう。「単一の出典」の問題に対する回避に過ぎないと思います。
以下は山田氏への会話のページですべきことと思いますが後学のためここに記載します。(当然ながら以下への反論はご自身の会話ページなどでされても結構です)
>わざわざ山田が書いた文章へのリンクを設けたり、山田が書いたものではない(同姓同名の別人が名乗って書き込んだか、第三者が山田を騙って書き込んだ)コメントを引き合いに出して(引用者注:以下略)
この書き込みも「意図を測りかねる」ように思います。そもそも貴方が山田晴通教授と同一人物であることを前提に書かれていると思います。どれが「山田晴通」の書き込みでどれが偽物の書き込みは区別しろというのは無理な要求です。仮に「第三者が山田を騙って書き込んだ」可能性があるというのならばwikipediaで東経大の教授と同姓同名を名乗っている貴君 にもそれは言える事です。(勿論本名が山田晴通という以外がwikipediaで「山田晴通」という名前を使ってはいけないという意味ではありません。)
なお各種テンプレの追加や要出典の追加等は特定個人に粘着している行為ではなく、不十分な記述に対して当該行為を行っている結果で有ることは認識して下さい。
(要は「IP氏」が「山田個人に対し」て、「粘着」しているようにみえるのは、山田氏の立稿している記事に出典不明な記述や、個人の主観・感想などが多くある結果に過ぎません。)
なお、Wikipediaでは、むしろ関係者による記述は推奨されていません。「Wikipedia:自分自身の記事をつくらない」(山田氏への教育のためあえてリンクしません)をご確認ください。
いずれにせよWikipediaの基本的なルールを理解することを要望します。--114.22.35.174 2010年10月21日 (木) 15:00 (UTC)[返信]
「wikipediaで東経大の教授と同姓同名を名乗っている貴君 」つまり利用者:山田晴通が「東経大の教授」山田晴通であることは、こちらの「山田の個人的な「十大」ニュース」の5をご覧ください
それから「山田氏の立稿している記事に出典不明な記述や、個人の主観・感想などが多くある」というのは、それこそ要出典の記述のように思います。建設的に議論されるおつもりがあるのなら、捨てIP(たとえば特別:投稿記録/114.22.23.131特別:投稿記録/114.22.22.48)で、山田が執筆した記事に集中して、具体的な問題点をノートで指摘することなどもいっさいしないまま、むやみにタグを付けるようなことをされるより、それぞれのノートで具体的な問題点の指摘をされる方がよろしいのではないでしょうか。
さて、ご主張のように、一律に「(1)(2)とも意味が無い」と考えるのであれば、通常、先行する文献を参照して記述することが多い学術文献のスタイルで書かれたものは、引用参照関係で結ばれているものすべてが「単一の出典」になるということになりかねませんが、この点については、どうお考えなのでしょうか?--山田晴通 2010年10月22日 (金) 02:29 (UTC)[返信]
本筋からずれるレスで失礼。"それから「山田氏の立稿している記事に出典不明な記述や、個人の主観・感想などが多くある」というのは、それこそ要出典の記述のように思います。"というのはどうかと思います。実際に山田氏の記事には「要出典」つけられ実際にそれに要出典の対応してます。捨てIPと称する書き込みの要主典が不適切というのならばなぜご自分で出典をつけたりしているんですか?またほかのユーザーも要出典に対応していますがそれは要出典に対応する必要があると考えたからだと思います(、少なくとも自分はそうです)。むろん初めから出典を明記して書けばこういう行為はせずに済みます。また要出典をつけることが不適切とおっしゃるのなぜ要出典・要検証に対応できずに放置されている記事があるのですか?ご自分で出典を示すことができない記事を多く書いてる証左に思います。今度は気をつけてください。--60.45.61.221 2010年10月22日 (金) 11:17 (UTC)[返信]
60.45.61.221さん コメントありがとうございます。
項目を立ち上げる場合であれ、加筆する場合であれ、執筆者にとっては、自明のことであり、読者にもそう了解されるだろうと思えば、いちいち出典を付さない場合が普通です。もちろん、それを読んだ読者から、出典が必要だという主張が出てくれば、それに対応する出典としてふさわしい文献を探すということになります。例えば、実際に「」にある「極地以外で太陽が昇る方位であり」という記述には出典がありません。それは執筆者に取って、出典を要しないことがらだからです。また、(少なくとも現時点では)要出典が付されていないということは、読者の誰もがこれを要出典と判断していないということです。もしこれに要出典が付されたとしたら、誰かが既存の文献でこれを裏付ける記述を探すことになるかもしれませんが、ただタグが剥がされて終わりになる可能性もあると思います。
しかし、実際には、執筆者や多くの読者にとって自明であり、了解されるとしても、誰かにとっては出典がなく検証されていないと思うような記述はいくらでもあります。そうした記述について、「要出典」が付けられれば、可能な範囲で対応することは適切なことだと思います。仮に自分の書いた記事で要出典がたくさん貼られたからといって、それに対応することは不適切なことでもなんでもありません。また、出典に相当する裏付けの文献を探すことは、簡単ではありませんから、時間はかかります。「要出典・要検証に対応できずに放置されている記事がある」というのは、当然起こる状態です。そうした記事は、この記述に出典が必要だと思う人もいるのだ、だが改善の可能性があると思われているから記述がのこされているのだ、というメッセージを帯びてそこに残っているわけです。
もし、あなたが、そのような事態を不適切とお考えなら、記事自体の削除を求めるなり、具体的な議論をノートで提起されればよいかと思います。また、もし、私に限らず、「自分で出典を示すことができない記事を多く書いてる」ことが問題になるユーザがいるなら、コメント依頼などを利用されることもお考えになられてはいかがでしょうか。私としては、自分に可能なペースでしか、記事の執筆も、加筆も、要出典への対応もできません。そのスピードが遅いといったことでコミュニティに受忍限度を超えるご迷惑をかけるようであれば、コミュニティから排除されても仕方ないと思っています。--山田晴通 2010年10月23日 (土) 21:59 (UTC)[返信]
コメント 地球以外(太陽・月・惑星など)での「東」の定義というのは「極地以外で太陽が昇る方位」で合ってるんですかね(こういうのはプロジェクト:天体に投げた方が良いのかしら……)。--ラッキースター・キッド ◆Luck.w.AEQ 2010年10月26日 (火) 21:32 (UTC)[返信]
ウィキペディアは特定の責任者が記事の校閲をしているわけではないので、記事が除去されずに残っている事情は様々です。全ての記述が積極的に存続を支持されているわけではありません。従って、「P が載っているなら Q も載せよう」という論法は、確かに一見とっつき易いのですが、ウィキペディアでは却って話をややこしくしてしまうようです。初心者には奇異な作法に思われるかもしれませんが、あくまでガイドラインが示す目線に立って執筆してください。--118.243.235.239 2010年10月24日 (日) 03:59 (UTC)[返信]
老馬身からWikipedia:個人攻撃はしないに反しない範囲でコメントします。
(1)「執筆者にとっては、自明のことであり、読者にもそう了解されるだろうと思えば、いちいち出典を付さない場合が普通です。」とありますが「読者」については学会の出席者ではなくあくまで「百科事典の読者(利用者)」であることに十分に注意してください。
出典が必要な箇所については様々な方法がありますが「編集者の間で真偽を巡り対立が生じると思われる記述を見つけた時には、ノート欄で指摘し、話し合ってみてください。」ともありますから対立が生じる蓋然性がない限り「要出典」を付ける対応で何ら問題がありません(読み手は勿論、ルールを理解遵守している限りは執筆者側にも何も不都合ありません)。
また今回「要出典」のご指摘があった箇所について、「出典に相当する裏付けの文献を探すことは、簡単ではありませんから、時間はかかります。」と正直に告白していますが要するに「検証可能性」において不十分な記述をしていたことに他なりません。
(2)「もし、あなたが、そのような事態を不適切とお考えなら、記事自体の削除を求めるなり、具体的な議論をノートで提起されればよいかと思います。」というのは意味不明です。強いていえば記事や行為そのものが「不適切」と解しているわけではなく(検証可能な)出典のない記述のオンパレードになっていることが「不適切」なだけです。
仮にですが「山田晴通は帰化しているが在日朝鮮人だ」と『執筆者にとっては、自明のことであり、読者にもそう了解されるだろうと思』っても検証可能な出典がないまま(少なくともwikipediaには)書いてはいけませんし、「出典に相当する裏付けの文献を探すことは、簡単ではありませんから、時間はかかります」として要出典をつけた側を攻撃してはいけません。
念のためですが「コミュニティから排除」する気はありませんし(その権限もありません、)むしろ良い百科事典を作るために必要と思ってのコメントです。--114.22.22.32 2010年10月24日 (日) 13:19 (UTC)[返信]
(山田晴通さんへ) 124.36.247.223です。本題に関しまして。まず「引用参照関係で結ばれているものすべてが「単一の出典」になるか」に関しましては、そんな事はないと思います。Wikipedia:独自研究は載せない#信頼できる資料をご覧いただきたいのですが、そこでは信頼できる資料は「評判の良い第三者による(つまり自費出版ではない)発行物として発表され、ウィキペディア以外のウェブサイトや公共図書館を通じて閲覧者が閲覧できる」とされており、ここで言うところの評判の良い第三者とは、その資料を公表してる団体(集団)のことです。公表している団体の評判によって、その資料がWikipediaの出展として利用できるか否かが分かれるのであり、もし「引用参照関係で結ばれたら単一の出展としなければならない」とすると、この団体ごとの評価が行うことができなくなり不都合です。
次に「諸々の資料に基づいて著された追悼文がほぼ単一の典拠となっている状態で、(1)その追悼文のもとになった資料を列挙すること、(2)追悼文の発表後にそれを踏まえて著された文献を列挙することに意味があるか」に関しまして、Wikipediaでは「もとになった資料」と「ほぼ単一の典拠」と「それを踏まえて著された文献」とを駆使して記事を作成すべきだと思います。なぜならこれらは「その資料を公表してる団体」が異なり、それぞれが別の編集方針に基づいて作成された資料であり、Wikipediaの記事の出典としての評価も異なり、また、それぞれが偏った観点を持つだろうと推定されるからです。たとえば、今回のような研究者の記事の場合、「○○年に生まれた」「○○年に教授になった」といった具体的な事実を記載するときは、「もとになった資料」のうち、本人のエッセイや、教授になったときの大学が公表した資料を出典としたほうが正確な場合があります。一方「○○に貢献した」「○○の分野で業績があった」といった評価を記載するときは、できるだけ本人とは独立した団体によって公表された資料を出典とすべきであり、今回の場合、多分本人を大変に慕う弟子たちの集団である「竹内啓一先生追悼集編集委員会編」により編纂されたであろう追悼集よりも、業績のあった学会の学会誌に載せられた追悼論文のほうが(それが上記で言う所の「それを踏まえて著された文献」に相当する内容の劣ったものであったとしても)Wikipediaの記事の出典としては、優るとも劣らない価値があると思います。
ところで上記の様なことは、「もとになった資料」と「ほぼ単一の典拠」と「それを踏まえて著された文献」で、異なる評価が行われている場合には判りやすい話なのではないかと思います(それぞれが偏った観点であると推定できWikipedia:中立的な観点に基づいて、それぞれが利用されるからです)。しかしながら、多分山田晴通さんが懸念しているのは、「もとになった資料」も「ほぼ単一の典拠」も「それを踏まえて著された文献」も(記述の密度は異なるにしても)同じ内容を記載しているため、個々の出典を挙げても記事の内容自体は変わらないし偏った観点も解消できないにもかかわらず、ばらばらの出典を挙げるべきかという点かと思います。この場合でも、ばらばらに出典を挙げるべきだと思います。なぜなら「ほぼ単一の典拠」しか出典としていない記事があった場合、それが「「ほぼ単一の典拠」しか見ていないからそうなっている」のか「他の出典も参照したが結果として「ほぼ単一の典拠」の記載に包含された」のかが判らないからです。そのため、読者のためにも、後に記事を加筆・校正しようとする編集者のためにも、「「ほぼ単一の典拠」の記載に包含されてしまう内容の記事であっても意図的に異なる最適の出典を利用する」のが望ましいと思います。
最後に、上記のような「意図的に異なる最適の出典を利用する」所まで初版の作成者がやらなければいけないのか、記事を作成し十分な内容を記載したのにもかかわらず、そこまで面倒を見なければならない義務があるのかという点もあるかと思いますが、そこは「可能な限り自分でやるつもりで記事を書き始めるのが素晴らしいことですが、他人の力を借りるのも悪くないことであり、また、他人が助けやすいようにするのもまた素晴らしいことだ」と思います。そこで前回、「無理に「単一の出典」テンプレートを剥がさず、ともかくは追悼集とは異なる集団により公表された資料をノートに記載し、特筆性の欠如による削除を回避しつつ、余力のあるときに記事を向上させる」ことを提案させて頂きました。こうしておけば、心ある人がテンプレートとノートの文献を見て記事に出典の記述を追加してくれる場合もあるわけです。--58.0.45.205 2010年10月24日 (日) 16:13 (UTC)[返信]