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Wikipedia:コメント依頼/Poh

利用者:Poh会話 / 投稿記録 / 記録さんの編集姿勢についてのコメントをお願いします。--iwaim 2008年9月7日 (日) 10:45 (UTC)[返信]

これまでの経緯

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吉兆」内の「船場吉兆」(別途「船場吉兆」という項目は存在する) についてのある記述について、「ノート:吉兆#「使いまわし」について」の節にて、吉兆グループに対する業務妨害を懸念するという意見がでました。その後の大まかな流れは次の通り。詳細は長いですが、該当議論を読んでいただければ幸いです。

  1. 吉兆グループに対する業務妨害を懸念するという意見がでる
  2. 何故業務妨害となりえるのかについての説明を求めるという意見がPohさんから出される
  3. 業務妨害となりえるか否かという検討にコミュニティのリソースを使うことよりも、該当する記述を除去し、詳細は「船場吉兆」側に任せるという案がでる。(この案は、本コメント依頼の依頼者である私自身が出した)

Pohさんは、その後、《「複数の候補から選ぶ」ではなく「編集除去」という議論はちょっと性急だったのではなかったかなというのが感想です》差分《中立的観点では編集除去ではなく併記で対処するのがWikipediaのルール》差分と述べ、その理由としては《別記事がある場合除去も視野に入れるべきというのは正論ではありますが、議論の段階では論点は中立的観点までしか挙がらず、編集除去の根拠としてはボーダーラインどころか全くかすりもしなかった、それでは併記という大前提をくずしてまで除去を検討するまでは行きません。私が両論併記に固執したわけではなく、併記を超えて除去まで議論は至らなかったということで、議題としてご提案される前にある程度先を読まれていれば、除去については提案として挙げる必要などなかったということが解かったのではないかなと思います。》差分などと述べています。また、その後も理解していただくために対話を実施しましたが、《共同作業のために公式な方針があるのですから、方針を優先し結論を導くことは当然のことです。独自の理論を展開し他人を巻き込む行為の方が問題です。》差分とまで言われてしまいました。

Pohさんは、Wikipedia:中立的な観点の両論併記に拘りすぎるあまり、該当記述の編集除去というところまでは考える必要はないという思想をお持ちのように判断しています。この点については、私以外にもArawodasさんからも指摘はあった差分のですが、未だに納得していただけていません。

また、これは私見なのですが、今回の議論を行って受けた印象としては、Pohさんは他者との合意を得るために落としどころを探るというよりも、自身の意見に拘りすぎるがあまり、議論に打ち勝つことが目的になってしまっているのではないかという点もあります。

ちなみに、本議論では結構初期の方から議論から撤退した方が多くいます。業務妨害であるという懸念を最初に示したmiyaさんも、早々にPohさんとの合意を諦めてしまいました。(ただし、議論から撤退したのは編集除去の提案よりも前)

私としては、両論併記にこだわるがあまり、編集除去まで検討しないという編集姿勢には問題があると考えていますし、もうちょっと意見が異なる他者との合意を得るための努力をしていただく必要があると考えています。

「吉兆」の項目は、この議論の過程でそれなりに妥当なところを落としどころとして、表記の変更が行われておりますが、Pohさんの編集傾向をちょっと改めていただかないと、今後も別の項目でも問題が発生することを懸念します。

そのため、今回は、該当議論の当事者ではありますが、広く意見を募集するために利用者の行為に対するコメント依頼を提出させていただきます。--iwaim 2008年9月7日 (日) 10:45 (UTC)[返信]

Pohさんからのコメント

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この案件で編集除去というものは「Wikipediaの公式な方針」にはないものであります。したがってこれはiwaimさん独自の理論であります。ですから「優先順位としては公式な方針のほうが上ですよ」と申し上げているだけです。そのことがお気に召さないのか(方針通りの結論がでているにもかかわらず)iwaimさんが私に対してクレームをつけ続けているという構図です。独自の理論をノートの場で主張し続けているということです。ちなみに「性急だったかな」と感想を述べたのは、iwaimさんが事前に方針を理解しチェックしていれば除去案は、議論するまでもなかったという理由です。

「業務妨害」についてはmiya さんの提案を読めばそれを挙げた理由は解かるはずです。それを「管理者なら一般利用者の知らない事情がある」という個人の推測だけでiwaimさんは議論の論点として挙げられました。では本当に論点として適切なのかとその根拠を尋ねたら、結果不適切だと判明したのです。これもiwaimさんが議論を振る前に検証していれば、不適切な議論を振る必要はなかったということです。

「業務妨害にあたる」という事実は、検証可能なソースが全く提示されていないので、存在が認められず、除去の理由または除去を検討する理由にはなりません。議論を振る側がこの程度の確認は最低限として、あらかじめ行っておくべきでしょう。 --Poh 2008年9月8日 (月) 07:13 (UTC)[返信]

Arawodasさんからのご指摘ですが、除去に賛成者、反対者の数における優劣を全く逆に見誤ってます。他にも間違っっている箇所は指摘可能です。間違った観点から導き出したアドバイスなので気持ちだけはありがたいですが結果は正しいとはいえません。印象だけで他人に提言するのは早いかなと思います。印象だけでの提言も可能ですがそれとは異なる内容です。--Poh 2008年9月8日 (月) 08:48 (UTC)[返信]


簡単にまとめます。

1.除去については、公式な方針はiwaim氏個人の独自の理論より優先される。独自の理論を主張される本人から何かを言われて変える類の意見ではない。

2.業務妨害については、提案の理由として挙げられた本人であるiwaim氏に、その存在が確認できる検証可能なソースを求めただけです。結果ソースは提示されず、業務妨害の可能性は存在の確認できないものとなり、除去を議論するのた理由としては不適切と判明。除去を議論する理由はほとんどないまま議論は進められた。

ノート:吉兆での議論は1項のため長引いてましたが、これはiwaim氏が独自の理論からの立場の正当性を主張し続けたためです。独自の理論を主張し続けたり、検証不可能な不適切な議案を持ち出した本人が、それを指摘した相手にコメント依頼を提出するのは価値観が逆転しているとしか思えません。--Poh 2008年9月8日 (月) 10:22 (UTC) 強調のために内部リンクを使わないでください。取り除かせていただきました。--Calvero 2008年9月8日 (月) 14:02 (UTC)[返信]


miyaさんが私との合意を諦めたことについて、私はmiyaさんの提案の中で間違いだと私自身が思うものを取り上げてコメントしてました。間違いだと思われるものが多かったためその量も増えました。もし私の意見が間違っている、あるいはmiyaさんの意見が正しいというのなら、意見を述べることは可能だったはずです。それをされなかったのは間違いを認めたのではないかと思います。

また、miyaさんの提案では圧倒的に(賛成)が多数でした。それでも提案が通らず、圧倒的少数である私の意見が通ったのには、それなりの理由があったからだと考えてます。もし、私が間違っていたのなら、いくら書き込み量が多くても相手にされないどころかSPAM扱いされていたでしょう。しかも結果についてはお「任せします」という旨を書いてます。

私は常に正論だと思うことを述べてます。正論でないところに落としどころをみつけるのは違うと思いますし、ノート等の数人の多数決で決まるものだとも思ってません。もちろん途中で自分の意見が正論でないということが解かればいつでも引く気でいます。多数意見であるには、それなりの意味はあるでしょうが、決議ではなく議論段階で「長いものには巻かれろ」で意見を変えるのであれば議論の意味すらないと考えてます--Poh


記述する必要性を考えるのは全てにおいて間違いではありませんが、特定の記述について記述する必要性を検討する場合には記述固有の理由が必要であり、検討のための議論を行う場合は議論を持ち出す側がその理由を明確にする必要があります。「吉兆グループに対する業務妨害を懸念する」という理由は除去とは別にmiyaさんから提示されました議論で一度否定されています。再度議論の理由として使うのであれば、それを再否定(=肯定)するか別の根拠が必要となります。この点でmiyaさんの言われた根拠とその後の経緯には触れられてなかったので、私はその根拠を議論の提案者であるiwaim氏に確認をしました。その時の回答が「そのためにリソースを割く必要性がない」ということでしたので、その存在を示すことは不可能ということになります。議論の理由である「業務妨害を懸念」自体が存在することを議論参加者に共通認識として持たせることが出来ないのであれば議論そのものが成立しないことになります。

記述する必要性の検討のなかで除去を検討することは一般論としては成り立ちますが、特定の記述についての検討となれば同じく固有の理由が必要となります。その場合公式な方針をチェックし除去に該当するものがなければ、その理由は方針以外の「独自の理論」ということになります。この議論においては、除去を検討するための議論の理由はiwaimさんの「独自の理論」によるものでありました。さらにWikipedia:中立的な観点が持ち出されその中での議論となった場合、中立的な観点では除去を禁止はしてませんが除去を推進または許可するものは含まれてません。また併記を推奨しております。従ってWikipedia:中立的な観点を除去理由とすることは適切とは言えません。除去を推進するものは何もないからです。したがって《中立的観点で併記が大前提》《中立的観点からでは除去は出来ない》に対して視野狭窄というのは見解の相違という次元ではなく一分の利もない完全な間違いであります。

今回のノート:吉兆での議論での問題点として、提案者のiwaimさんが議論するのための理由を自分自身として明確に持っていなかったことと、それにより議論参加者に示すことが出来なかったことにあると考えています。そのことが私が「除去を議論することは性急だったのかな」と感想を述べた理由であります。

結果そして議論において「除去すべきかどうか」までを検討するレベルにまでは至っておらず、議論としては不十分であったかなということです。そのことが「これまでの経緯」にある意見を申し上げることになった理由です。「共同作業のために(全ての利用者がまもるべき)ルールがある」と考えるのは当然であり、すべてに共通して該当する方針を確認し当てはめることは、議論を簡素化し無駄なリソースを省くことになります。それは議論を行う前の確認についても同様にいえることです。事前の詰めが甘かったように思います。

またこれとは別に、iwaimさんは議論において「合意のために落としどころを探る」「合意のために努力をする」ということを私に要求してます。ご自身においては下記の「2008年9月13日 (土) 05:34 (UTC)」のコメントにおいて「一方ではPohさんは、それを記述すべきということを他者に納得させることができていませんでした」と述べられてますが、これはご自身の納得のことであり(みっちさんは合意している)ご自身では未だに「落としどころを」見つけていないからでありまして、ご自身の言行不一致による矛盾には気づかれていないようです。このように「落としどころは個人によって違うもので他人に強要するものでない」ということをノートでも申し上げましたが、iwaimさん自身は理解することなく強要を続け、さらにはこちらの「コメント依頼」を提出する理由の一つになったということです。

ノート:吉兆での議論というより議論後のアフターが長引いたのは、以上に述べたような問題点をiwaimさんに理解していただくのに時間がかかった、というより現在もこちらで続いている状況であります。--Poh 2008年9月17日 (水) 12:29 (UTC)[返信]


まとめに入ったほうがいいかと思います。iwaimさんは記述する必要性みしくは除去を考えることが、記述全般に対しての場合→特定の記述について考える場合→公式な方針にそれが無い場合→Wikipedia:中立的な観点というように置かれている状況が変わった時に、それの持つ意味合いが変化していくことを理解されていなかったように思います。結果として議論の場においては公式な方針とiwaimさんの持論との比較になっていることを理解できなかったようです。

私が述べた記述する理由は簡単に言えば「百科事典として記述に則した内容である」ということですが、それを否定するのには(除去理由がないのであれば)それが違うということ、または根拠が希薄であるといったことを説明しなければなりません。iwaimさんはそれが出来ず「納得させられていない」「自分としては(記述or除去が)どちらでもよい」と述べられただけで、これでは単なる主観的な意見としか言わざるを得ません。

またiwaimさん本人がこれらのことを理解できていないために私に問題があると誤解して、私の議論の進め方にクレームをつけてきたということです。そのことについては既に書いたとおりでありますが、iwaimさん自身の理解不足によりノート:吉兆での議論後が長引き無駄なリソースが使われ、かつこちらのコメント依頼至ったということです。

下記の参考例にもあるように、今まで私との議論で長引いていたのは、相手の理解を超えたところで、相手に理解させるためにリソースを割いていたということです。普通の人なら投げ出すところを根気よく相手が理解するまで私は続けていたということです。<依頼者についてはここまで>

またコメント依頼を受けて何人かの方にコメントを頂きました。そのことについてはありがたく思っています(本来なら依頼者であるiwaimさんが先にお礼を言うべきだとは思いますが)。ただ、やはりその中には、私から見て違っていると思われるものが数多くありました。もちろん私が全て正しいとは思ってませんがその分は割り引いて考える必要はあると思います。利用者によってはほとんど全てが否定され、その後反論もされてない方もいます。

改めてはっきりさせておいたことがよいと思うことを述べて見ます。《(逆側のコメントを記述することは)禁止されていることではないので》《(実際には推奨されていることです)》については、方針文書に間違いがない限り、推奨されているものは必ず禁止されていることだはないので、誤解ではないですし、言葉不足や表現上の間違いではありません。誤解だと思われる方に責任があります。

また、好意的でないかどうかについては、自分の意見が否定されればそのように思うのも人の真理だとは思いますが、自分の意見が正しいかどうかは議論の相手によって左右されるものではないでしょう。正しいことを議論の場で証明することを不毛だと思うこと自体、それが間違いであることの証明のように思います。

参考のための内部リンクが貼られましたが、最近のもので私が間違いであるのなら差し戻しも可能でしょうけれど、今のところそれはされてません。私の利用者ページについては除去しましたが、更に何か処分があるのならお願いいたします。--Poh 2008年9月23日 (火) 10:08 (UTC)[返信]

コメント

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  • (コメント)直接のコメントは避けますが、被依頼者についてはエル・カンターレの編集Wikipedia:削除依頼/仏法真理ノート:幸福の科学#外部リンクが中立的な観点違反しているノート:ヌーディズム#外部リンクについても参照していただきたい。-- 2008年9月7日 (日) 12:22 (UTC)[返信]
    • (コメント)経緯にも書きましたが、被依頼者については「Wikipedia:中立的な観点の両論併記に拘りすぎるあまり、該当記述の編集除去というところまでは考える必要はないという思想をお持ち」と判断していましたが、「ノート:ヌーディズム#外部リンクについて」では中立的な観点を満たさないという理由でコメントアウトを実施しているようですね。ということは「ノート:吉兆」では議論の戦略としてあのような立場を取ったということかな。郁さんにご紹介いただいたものは大半が幸福の科学関連のものですが、他の履歴も精査した方がいいのかなぁ、という気はしてきました。私はそういう時間が取れそうにないのですが……。--iwaim 2008年9月7日 (日) 18:29 (UTC)[返信]
    • (コメント)コメントアウトと除去ではちがいます。ちなみにノート:幸福の科学#外部リンクが中立的な観点違反しているで中立的観点から(あくまでも利用者の選択肢として)除去を口にしてみたら「乱暴」「暴言」「暴論」というご意見をたくさん頂いています。iwaimさんのノート:吉兆での除去案も同じような反響が出ても不思議ではないくらいなものだとも言えるでしょう。--Poh 2008年9月8日 (月) 07:23 (UTC)[返信]
  • (コメント)私もノート:幸福の科学でPohさんと議論をしましたので、第三者の方にはその辺は割り引いて読んでいただきたいのですが、Pohさんに欠けているのは、方針文書を運用する際には必ずなんらかの解釈が入り込む、という観点ではないかな、と思います。Pohさんが何度も「自分は公式な方針に基づいているのに」とおっしゃるときの「公式の方針」とは、実は公式な方針に対するPohさんの解釈でしかない、ということに気づいていただかなければならないのだと思います。同じ方針文書に対して、PohさんにはPohさんの、iwaimさんにはiwaimさんの、私には私の、それぞれの解釈があって、おそらくそれはどれもそれほど間違っていなければ、どれもそれほど正しくもないのだろうと思います。だからこそ、そのそれぞれの解釈がどのようなものであるか、というのをきちんと詳らかにし、それらをすり合わせていかなければならないのだと思います。それこそが、wikipedia編纂のために求められる「議論」なのではないかと思います(これも私の解釈ですが)。それを、Pohさんにはそのような視点が欠けていらっしゃるので、まずそもそもそれをすり合わせなければならないという発想が生じず、他の方との軋轢が生じている、ということなのではないかと思いました。それは、他の方にとっても、Pohさんにとっても、ウィキペディアにとっても、何にとってもhappyでないことだと思います。--123.224.169.131 2008年9月8日 (月) 11:30 (UTC)[返信]
    • (コメント)私自身の方針解釈であることは理解しているつもりです。ただiwaimさんの除去案は方針に沿ってなされたものではないですよね。そこに違いがあります。--Poh
  • まず、吉兆に「食べ残し」という記述を残しても良い、あるいは残すべきだという主張は、別段不合理だとは思いません。
    しかし、ルールを適用しなければ編集除去はできないというルールはないでしょうし、Wikipedia:中立的な観点はすべての場合に両論併記を要求しているわけでもないように思います(間違っていればご指摘ください)。とくに、仮にノート:吉兆の争いにWikipedia:中立的な観点が関係するとして、Wikipedia:中立的な観点#争いのある主題についての長い記事には、すべての関連するページに詳細な両論併記は必要ないと書かれています。Wikipedia:中立的な観点が両論併記という解決を強調していることは事実ですし、私自身も両論併記という解決に魅力を感じることは少なくありませんが、両論併記は中立性を確保するための一つの方法であって、どのような種類の記事でも、あるいはどのようなテーマでも従わなければならないルールだとは言えないでしょう(論争そのものが主題であるような場合は、両論併記しか選択肢がないでしょうが)。
    したがって、「中立的観点では編集除去ではなく併記で対処するのがWikipediaのルール」(Poh, 2008年8月14日11:00(UTC), ノート:吉兆[1])といったことは支持できません。--mizusumashi(みずすまし) 2008年9月8日 (月) 12:24 (UTC)[返信]
    • (コメント)ルールの中の一つという意味です。強調したつもりはないですが、そう感じられたのでしょうか。「」内は短くまとめたらそうなりましたが、それのみが私の主張ではありません。また現実には併記で対処できましたので、併記が困難なほど長い文章だとは思えません。--Poh 2008年9月9日 (火) 11:09 (UTC)[返信]
      • ノート:吉兆にかぎって言えば、Pohさんが他のルールをさしおいてWikipedia:中立的な観点を強調なさっている、と感じたわけではありません。
        ただ、「中立的観点では編集除去ではなく併記で対処するのがWikipediaのルール」(Poh, 2008年8月14日11:00(UTC), ノート:吉兆[2])を文字通り読めば、また前後の文脈や他のご発言を踏まえても、「ルールを適用しなければ編集除去はできない」「Wikipedia:中立的な観点はすべての場合に両論併記を要求している」ということを考えられているように読めました。--mizusumashi(みずすまし) 2008年9月9日 (火) 11:35 (UTC)[返信]
        • 了解いたしました。私の書き方に問題があったと思います。中立的な観点では併記が推奨されているので、推奨以外の方法である除去をするには更に理由が必要ではないかと考えています。--Poh 2008年9月10日 (水) 11:36 (UTC)[返信]
          • (コメント)中立的な観点以前の問題として、その記述が必要であると考えるならば、その理由が必要となります。今回はたまたま先に記述することの必要性が明確化されていない該当記述があっただけです。Pohさんは除去するための理由を求めていましたが、一方ではPohさんは、それを記述すべきということを他者に納得させることができていませんでした。その点は念頭に置いておくべきでしょう。なお、除去する理由としては、「必須ではない記述の表現方法やその記述が引き起こす問題の懸念 (ここでは業務妨害) を議論するためのリソースを割くことは無駄である」という点を挙げています。--iwaim 2008年9月13日 (土) 05:34 (UTC)[返信]
            • (コメント)書いた後に別の立場もあることに気づいたので書いておきます。先に、私は「中立的な観点以前の問題として、その記述が必要であると考えるならば、その理由が必要」と書きました。これは私の立場です。ただ、「中立的な観点」や「検証可能性」などを満たした上で、その記述が必要であるか否かの検討を行う場合もありますね。いずれにせよ、百科事典のその項目に於いて、どのような記述が必要なのかということは考えるべきです。記述が必要か不要かという場面で「中立的な観点」の検討が必要であるのは、その記述がなければ、中立的な観点を満たすことができない場合だけであるべきでしょう。Pohさんの言う《中立的な観点では併記が推奨されている》ということを、今回のケースに当てはめること自体が過ちであると考えています。--iwaim 2008年9月13日 (土) 05:46 (UTC)[返信]
        • (コメント)iwaimさんの1つ目のご意見に。記述することの必要性については最初に述べております。除去または除去を議論する必要性が述べていないのとでは全く違います。「記述が引き起こす問題の懸念が理由」と考えても、それが具体化されていない、すなわち存在または存在の可能性を示すソースが提示されていないのでは理由があることにはなりません 。記述の必要性納得させられていないのは、意見の異なる方と、未だ合意に至らず議論が継続している段階においては当然のことで、あえて持ち出すほどのこととは思えません。2つめのご意見で「記述が必要か不要かという場面」というのは、記述の理由が出されていて、除去の理由が出されてない段階ではiwaimさん個人の中だけの問題に過ぎません。また中立的な観点の議論は、みっちさんが除去の理由として中立的な観点を挙げられた段階で申しております。現存しているものを存続させるか除去するかというのがその時の場面であります--Poh 2008年9月13日 (土) 13:06 (UTC)[返信]
  • 特定の記述に関して、その妥当性を「Wikipedia:中立的な観点」のみに求めるという姿勢は Wikipedia:コメント依頼/Meltbeen の例と類似しているように思います。「中立的な観点」を忠実に守ろうとするのであれば、単に除去が不可能なことを主張するのではなく、ある記述を除去するべきであると主張する人に対して、彼らが納得できるような形での記述の仕方を提案する、というのが協同的な編集姿勢といえるものであると考えます。「(逆側のコメントを記述することは)禁止されていることではないので」というご発言(2008年8月11日 (月) 23:16 (UTC))から見ると、やはり方針を誤解なさっているように見受けられます(実際には推奨されていることです)。また瑣末なことですが、単語の選択について、ある単語に不適切な点があるので別の単語を使うように提案されたところで、その別の単語にもよくない点があることをもって、もとの単語の正当性の根拠としたことは、論理に誤謬が含まれていたと考えます。両者の利点・欠点に関する比較考量がなされていないためです。全体的に、ご自分の意見を通すために方針を参照しているという印象を受けます。方針にこだわり、反対意見に対してそれらにそった応答をするのではなく、ただ「方針ではこうだ」と主張し続けるのはウィキ弁護士と称されるものではないでしょうか。--Calvero 2008年9月8日 (月) 13:59 (UTC)[返信]
    • (コメント)除去案を提唱された方が同時に残す場合の「記述の仕方」も示されてまして、それに私は賛成してます。また「推奨されていること」は当然「禁止されてることではない」(集合でいえば内包されている)ので解釈間違いではありません。miyaさんのご提案では、言葉選びではイメージより正確さを優先し意見を述べました。比較考量を書くことは必須事項とは思ってませんし、他に比較考量を書かれてる方も見受けられません。また方針に重点が移ったのは本題で意見を通すためではなく、結論が出た後にiwaimさんとの応酬になってからです。議論中は相手の方が中立的な観点を持ち出された時だけです。--Poh 2008年9月9日 (火) 11:09 (UTC)[返信]
  • なお、本コメント依頼の内容とは直接関係がありませんが、非依頼者の利用者ページ 利用者:Poh はウィキペディアと直接関係のない個人的主張を展開するものであり、利用方法として不適切であると考えます(Wikipedia:利用者ページ#利用者スペースでできないこと)。2008年8月18日 (月) 12:14 (UTC) でのコメントも、ご自分の議論の上手さをひけらかすものであって、紳士的でない振る舞いであるといわざるを得ません。議論のうまい人間の意見だけが採用される世界は、ウィキペディアでは好ましくないと考えます。Wikipedia:礼儀を忘れないWikipedia:ウィキケット の再読を望みます。--Calvero 2008年9月8日 (月) 13:59 (UTC)[返信]
    • (コメント)利用者ページについては、もともと指摘があればいつでも直すつもりでいたので、お言葉を受けてそれまでのものは全て除去しました。--Poh 2008年9月9日 (火) 11:09 (UTC)[返信]
  • (コメント)ノート:玄倉川水難事故Wikipedia:井戸端/subj/2ちゃんねるでの「祭り」をトピックとして記述すること利用者‐会話:Poh#時津風 (相撲)についてノート:時津風 (相撲)も参考事例として挙げさせて頂きます。--Arawodas 2008年9月9日 (火) 02:44 (UTC)[返信]
  • (コメント1)長くなったので、3つのコメントに分けます。私がノート:吉兆に首を突っ込んだのは、「食べ残し」を一面的に事実だと断じていることがWikipedia:中立的な観点から問題がある、という認識からでした。この偏りを修正するためには、当該表現を除去する、または中立性・正確性に留意しながら加筆する、という二つの方向性があります。船場吉兆が別に記事としてある以上、ここでは加筆よりも除去の方が適切だというのが私の判断であり、同時に、Pohさんを除く議論参加者のおそらく全員が一致できる妥当な結論でもありました。しかし、Pohさんお一人がどうしても「食べ残し」の記述を残すことにこだわったため、次善の手段として後者の加筆で対応しました。私から見た事実経過はざっとこのようなものです。--みっち 2008年9月9日 (火) 10:18 (UTC)[返信]
  • (コメント2)「中立的な観点」で考えなければいけないのは、記述が特定の観点に偏っていないか、あるいは事実が客観的・多面的に捉えられているかどうかであり、両論併記が方針に沿っていて除去はそうでない、などということではありません。手段としては両方あり得ます。しかし被依頼者は、議論のもととなった「食べ残し」の表現自体に問題があることにいまだに気づいておられないか、でなければ気づいていないふりをしておられます。この前提で食い違っているため、「食べ残し」の除去を受け入れられないのでしょう。一方で、「食べ残し」はネガティヴだからいけないというような指摘は、率直に言ってPohさんとは対極的な意味で中立的でないと思いますし、依頼者が展開された「検証可能性」もこの場合にはあまり適切とはいえず、かえって収束を難しくしたと思っています。とくに、事実と真実を「等価」として混同される依頼者の方針理解には、面食らったという以上のものがあり、下に述べるPohさんの編集姿勢も合わせて考慮すれば、所期の目的を達したからには長居は無用だと判断して手を引きました。--みっち 2008年9月9日 (火) 10:18 (UTC)[返信]
  • (コメント3)ここではノート:吉兆に限らず、Pohさんの編集姿勢全般に対するコメントを求められていると解していますので、以下に触れます。他の項目において「両論併記がされていない」という理由で外部リンクや記述を封じようとしておられることは、Pohさんにとっての「中立的な観点」は、単にご自分の支持する観点・記述の正当化、支持しないものの排除に都合のよいところだけを短絡的に参照していると感じます。また、ウィキペディアは共同作業でもありますから、ご自分の主張があるからといって果てしなく議論をつづけることは推奨されません。記事のノートで心がけるべきは、当面する相手を言い負かすことではなく、後からノートを読む第三者のために意見をまとめることでしょう。さらに、かつてヌーディズムを長期保護に追い込み、その後も含めて延々と続いた論争(ノート:ヌーディズムの過去ログ1-6参照)の主要参加者のおひとりがPohさんであることやPohさんの過去の利用者ページを拝見するに、なにか非常に強い「正義感」あるいは「使命感」のようなものが編集の背景にあることがうかがえます。しかし、これは「中立的な観点」からはおよそかけ離れた姿勢といわねばなりません。ウィキペディアは社会正義を振りかざして悪を断罪する場所でも戦いの場所でもありません。依頼にある「今後も別の項目でも問題が発生することを懸念」というのは、すでにあちこちで顕在化している事実だと認識しています。--みっち 2008年9月9日 (火) 10:18 (UTC)[返信]
    • (コメント1)反対が私のみという旨が書かれてますが、賛成もみっちさん1人です。miyaさんの案に賛成された方で反対と意見を書かれた方は1人もいません。想像だけでそのように書かれるのは「印象操作」の危険性もあるかと思います。(コメント3)長くなります。「今後も別の…すでに…顕在化している…」は時系列がおかしいです。コメント依頼が出されてからみっちさんが書かれるまでの間、特に大きな動きは出ていません。過去、現在、未来が混同されています。議論が長引くのは必ず相手があってのことです。例えばノート:玄倉川水難事故Wikipedia:井戸端/subj/2ちゃんねるでの「祭り」をトピックとして記述することでは「方針の適用する際に独自の理論を方針にこじつければよい」と考えている利用者がいて、違うということを理解していただくためにノートの全てと井戸端の大半を費やしています。方針の適応方法を知らなければ議論以前の問題ですし、もし私が妥協すれば、議論において間違った考えにより除去されたという事実が残ります。ノート:幸福の科学では「公式な方針はすべての利用者が従うべきだと考えられています」ということをご存じない利用者がいて、ご理解いただくのに結構労力を使いました。これも議論の土俵に載せるための下準備です。ノート:吉兆でもiwaim氏が上にあるPohからのコメントの罫線□部分の内容で主張を続けていたので付き合っていたということです。またご指摘の「正義感」などは昨日除去した私の利用者ページでは出すことはなく、中立的観点を考慮した編集に努めています。保護以前のヌーディズムにおいても他の観点があることを前提に片方の観点を編集してました。外部リンクのコメントアウトでは幸福の科学では既に公式及び公認サイトが多数貼られており、私がそれに見合った数の併載をすれば「外部リンクは最小限にとどめること」というWikipedia:外部リンクの選び方の基本方針からさらに外れる事になります。また過去の議論の経緯からいっても、一度考え直したほうがいいかなと考えて行ったものです。ヌーディズムでも私が貼ることは出来なくないですが、リンクなしの状態のときに既にご注意申し上げていたことなので、あえてコメントアウトという方法を選びました。(幸福の科学とダブルスタンダードだという批判も関係してますが)。--Poh 2008年9月10日 (水) 11:36 (UTC)[返信]
  • そういえば、まだどなたも挙げておられませんでしたが、Wikipedia:Do not disrupt Wikipedia to illustrate a pointという文書があります。Pohさんにぜひお読みいただきたい。--123.224.169.131 2008年9月13日 (土) 12:15 (UTC)[返信]
    • (コメント)読ませていただきました。ところで何処での議論や編集でどの項目が私に該当するとお考えでしょうか?--Poh 2008年9月13日 (土) 13:06 (UTC)[返信]
      • (コメント)それをPohさんご自身にお考え頂き、ご自身について虚心に振り返る手掛かりにして頂きたい、というご趣旨と推測します。123.224.169.131さんが具体的に指摘する必要はないと考えます。--Arawodas 2008年9月13日 (土) 13:26 (UTC)[返信]
  • (お問い合わせに答えてコメント)ノート:吉兆において私が早々に議論から撤退したことに関して、Pohさんが真逆の誤解をなさっておられるようなのでコメントします。Pohさんは「私の意見が間違っている、あるいはmiyaさんの意見が正しいというのなら、意見を述べることは可能だったはずです。それをされなかったのは間違いを認めたのではないかと思います。(2008-09-13T11:06:58の版)」と書いておられますが、これについては明確に否定します。私は自分の意見が間違っていたと考えて撤退したわけではありません(間違っていたと思ったらその場でそう認めます)。そうではなく、この方とは議論しても無駄なのだという諦念があったから撤退したのです。ヌーディストに関するノートでの議論、および特定ヌーディストクラブのリンクをPohさんがわいせつ児童ポルノ児童虐待被虐待児症候群ショタコンペドフィリアエポフィリア少女愛少女愛運動女性少女愛運動ロリータ・シンドロームロリータ児童エロチカ少女ヌード写真集女性少女愛児童買春少年愛淫行条例児童福祉法児童虐待の防止等に関する法律不健全性的行為国際女性少女愛協会・・・に貼って回った行為、およびその理由を述べた彼の理屈(ノート:淫行条例2006-02-21T03:24版参照。この直後にspammerとして1日ブロック)から、私にはPohさんはウィキペディアを暴露・告発の場だととらえておられるように感じていました。特定ヌーディストクラブに対するなんらかの恨みをお持ちなのかと思っていましたが、ヌーディスト以外の項目をめぐっても同じような傾向が見受けられて、どうやら「正義感」あるいは「使命感」により告発的な加筆を主張しておられるらしいと思いました。たしかに議論は巧みですー言葉では私は到底及びませんし、またどれほど私が言葉を尽くしても、「好意的に書く」ことに同意してもらえることはないだろうと思いました。もう、ヌーディストのときのような不毛な議論にはこりごりだったので、Pohさんとは編集も議論もできないと、吉兆のことは気に掛けながらも早々に撤退したのです。--miya 2008年9月13日 (土) 15:22 (UTC)[返信]
    • (コメント)miyaさんのお考えはわかりました。撤退理由、私や私との議論をどのようにお考えになるかはご自由ですが、ご意見が正しいかどうかについては、ご自身で実証されなければ誰にも伝わらないでしょう。--Poh 2008年9月14日 (日) 11:35 (UTC)[返信]

終了提案

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  • (コメント)Pohさん以外からのコメントは出尽くしたようですので、Pohさんの編集を含め、一週間ほど更新がなければ終了しようかと思います。--iwaim 2008年9月24日 (水) 10:44 (UTC)[返信]
  • (コメント)すでに意見は述べており、Pohさんの「反論」にレスポンスする気はありません。Pohさんはご自分に都合の良いところだけ反論しておられますが、だからといってこれ以上Pohさんとの「対話」をつづけても、ノート:ヌーディズムノート:吉兆などの繰り返しになることは見えています。第三者にそれぞれのコメントを読んでいただいて、どちらの主張が的を射ているか判断してもらえばよいでしょう。すでに指摘のあるとおり、吉兆以外の項目でもトラブルになっていること、方針の恣意的解釈やノートページの濫用を指摘されてもこれを受け入れず、今後改善する見込みがないことを憂慮するものですが、私も半ば当事者であることから、後のことは第三者の判断に委ねたいと思います。--みっち 2008年9月25日 (木) 09:29 (UTC)[返信]
    • (コメント)反論できないというのは、ただ単に意見が間違っているというだけです。もし本文編集であったなら反論できなければ、その意見は本文編集には全く反映されません。第三者にジャッジを委ねたところで、賛同するのは同じ間違いをしている人だけです。先のご意見では、除去に賛成した人が自分1人しか居ないにもかかわらず、だれもが除去に賛成していると勝手に妄想していたように、他の項目でトラブルになっていると言った所でそれも妄想だといわれても否定の仕様がないでしょう。私が自分の都合の良いところにだけ反論しているというのなら、私の都合の悪いところやご自分の都合のいいところで反論することは可能です。また方針が恣意的解釈だというのなら、どの部分が恣意的かを指摘すれば結果を覆すことも可能です。反論せずに相手のせいにするのは姑息なだけです。--Poh 2008年9月29日 (月) 10:53 (UTC)[返信]

まとめ

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皆さん、コメントありがとうございます。被依頼者であるPohさんからも含め、コメントは出尽くしたようですから、今回のコメント依頼はこれで終了したいと思います。

まず、Pohさんの意見と対立した時点で合意形成への参加自体を諦めてしまう方が複数人いたことが判明しました。ウィキペディア日本語版は共同作業の場であるわけですから、この事実は重く受け止めていただくべきであると考えます。方針の解釈については、それぞれの解釈に揺れがあることは当然ありうることでしょうが、Pohさんが恣意的な解釈を行っているという指摘があったことも心に留めておいてください。また、Pohさんが (Pohさんなりの) 「正義感」や「使命感」を持ってウィキペディア日本語版に参加しているという考察もありますが、その考察が仮に事実であるとすればWikipedia:中立的な観点に反することであります。好意的に解釈すると、たまたまそのように見えてしまうこともあるということだとは思うのですが、そのような考察をする方がいらっしゃったことは今後の活動の糧としていただければと思います。--iwaim 2008年10月14日 (火) 12:13 (UTC)[返信]


片方の意見だけをまとめられたようです。私の意見を書く場所は別に設けられているのでいいのですが。

「編集のための議論」は編集の「結果」が全てを物語っています。結果に承服できない場合もあるでしょうが、その場合やはり通らなかった意見には間違いがあったということです。承服できないいかなる理由があるにしても、それはあくまでも主観的な自己弁護にしか過ぎません。(意見のみならず議論を持ちかける側についても同様のことは言えます)--Poh 2008年10月15日 (水) 10:59 (UTC)[返信]

Wikipedia:中立的な観点については反論してなかったので書いておきます。Wikipediaにおいてはどのような思想的立場から書くことは認められていることであり、例えば幸福の科学においては信者と思われる利用者が書いてますが、それもまたWikipedia:中立的な観点からはかけ離れた思想的立場であります。問題は記事における記述が中立を保たれているか否かであり、個人の思想が問われている訳ではありません。私がどのような立場であろうと、またどのように見られようと憲法で保障されている思想信教の自由の範囲内のことであります。まとめにわざわざそのような文を入れること自体、全くの蛇足、駄文としか言いようがありません。(ちなみに私は幸福の科学では信者と思われる方々が中立からかけ離れた編集を行っていたのを戻す方向で編集しています。ヌーディズムにおいても同様であります。)--Poh 2008年10月16日 (木) 10:40 (UTC)[返信]
先日、ひさかたぶりに記事「吉兆」に対するPohさんによる編集がありましたが、その編集自体は小さなものだったとはいえ、これまでのPohさんの各記事に対する編集姿勢を考慮すると、その編集も、Pohさん御本人の個人的主張が強調された偏向ぎみの表現になっていると判断し、rvさせていただいたのですが、予想していたとおり、Pohさん御自身により再rvされておりました。今回のこの編集について私としては放置させていただきますが(「編集合戦」になるという以前の幼稚な問題)、これまでのPohさんの発言傾向として、放置されたものは「自分自身に対しての賛成」と勝手に拡大解釈なさってしまう傾向があるようなので、ねんのために、私の「放置」は、けっしてPohさんに賛同したものではなく、どうしようもなく「救いようが無い」という理由で放置させていただくことを、ここに明記させていただきます。--しまあじ 2008年11月6日 (木) 21:40 (UTC)[返信]
何でこちらに書かれるんでしょうね。しまあじさん、ノート:吉兆でのmiyaさんの提案に続き、吉兆の編集でもまた読み間違いをされてますね。今回の編集にかかわるみっちさんのコメントをよくよく読み返して何を言われているか考え直してみてください。私は先延ばしになっていたものを、みっちさんの文を生かしながら正しく編集し直したというだけです。それとこちらでも私の傾向性に対して勝手な妄想を書いているようですが、私のどこに「放置されたものを賛成と解釈している」という根拠があるのでしょうか?少なくとも、すぐ上で私が書いている「結果に承服できない」という言葉はあなたの妄想とは全く逆の意味です。これだけ何度もまた間違った解釈で物を言われる方は珍しいですね。私は編集合戦など望んでませんし、そのためにノートでの議論を重視しています。編集に意義を唱えるのなら「救いようが無い」などとPOV丸出しの捨て台詞を吐いて逃げるのではなく、常識人として恥じることのないまともな議論を行ってからにしてください。--Poh 2008年11月7日 (金) 12:32 (UTC)[返信]
「何でこちらに書かれるんでしょうね」という御質問にお答えするなら、各記事個別の問題ではなく、Pohさん御本人個人の編集姿勢のみに関する些細な問題にしかすぎなから、です。--しまあじ 2008年11月7日 (金) 23:24 (UTC)[返信]
あたたがそのように思われたのなら2008年11月7日の件は結構ですが、他人のコメントの誤読による行動が多いことには気を付けられたほうが良いかと思います。--Poh 2008年11月8日 (土) 10:26 (UTC)[返信]