Wikipedia:コメント依頼/廉 20100523
利用者:廉(会話 / 投稿記録 / 記録)の行動についてコメントをお願いいたします。
このコメント依頼を出そうと思った直接のきっかけは、利用者・トーク:みっち#執筆コンテストでのコメントについてにあるようなやり取りを利用者:みっち(会話 / 投稿記録 / 記録)さんとの間で交わしたことにあります。このやりとりはWikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテストに関連したものですが、伏線としてWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030、さらにWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワルキューレ (楽劇) 20091022、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラインの黄金 20091022などがあると考えています。伏線とは言っても、それぞれ個別にコメント依頼が出されても不思議ではないケースですので、それらについてのコメントも歓迎いたします。
私としてはこの機会に膿を全て出し切りたいと望んでいます。どのようなことを書かれたとしても逐一反応するといったことはしませんので、安心されてというのは変な表現ですが、忌憚のないご意見をお聞かせ下さい。--廉 2010年5月23日 (日) 12:19 (UTC)
経緯
[編集]Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030
[編集]Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030において、私は自分自身が新規作成した中田厚仁を良質な記事に推薦しました。利用者:Stella maris(会話 / 投稿記録 / 記録)さんと利用者:Miya(会話 / 投稿記録 / 記録)さんが反対票を投じられたのに対し私が反発したことから選考は大いに紛糾することになりました。選考の焦点は、記事の中立性についてです。この選考を境に、Stella marisさんは長期ブレイクに入られました。
Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025など
[編集]Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030に先立ち、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワルキューレ (楽劇) 20091022、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラインの黄金 20091022において、出典の明記が十分ではないという理由で反対票を投じました。いずれも推薦者は利用者:汲平(会話 / 投稿記録 / 記録)さんで、ハイデルベルクは利用者:汲平(会話 / 投稿記録 / 記録)さんが、他は利用者:みっち(会話 / 投稿記録 / 記録)さんが執筆されました。これらの記事の選考で反対票を投じたことと、上記Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030で反対票に反発したこととの矛盾を問われることになりました。
Wikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテスト、および利用者・トーク:みっち
[編集]第六回執筆コンテストに、私とみっちさんが参加しました。私が、みっちさんが協賛参加という形でエントリーされたトリスタンとイゾルデ_(楽劇)にコメントをしたことを発端として、私と利用者:みっち(会話 / 投稿記録 / 記録)さんとの間で利用者・トーク:みっち#執筆コンテストでのコメントについてにあるようなやり取りが交わされました。
被依頼者のコメント
[編集]それぞれのケースで、被依頼者の当時および現在の考えについてなるべく詳しく説明します。かなり長くなりますがご容赦ください。
Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030
[編集]今この選考を振り返ると、結果的に利用者:Miya(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの「出典が肉親やボランティア仲間の手によるものだけであるため中立性・客観性が担保されない恐れがある」、「ボランティアから非難を受けた側(UNTAC)の観点による出典や、第三者が中立的な視点から事件とその影響を客観的に分析した研究・評論がないと、「中立的な観点からの記述がなされている」とは言いにくい」というご指摘(2009年11月6日 (金) 14:53 (UTC))がまさしく正鵠を射たものであったと感じています。つまり、私の参考文献の検索が甘く、そのため記事の観点が偏ったものになっていました。しかし当時は
- 自分が探し当てた文献は十分に参照し内容に反映させた。
- 改善方法(どの箇所について、どのような文献を参照すればよいのか)について具体的な指摘がない。
といった思いが強かったためになかなか納得することができず、選考は紛糾してしまいました。
この選考で利用者:Stella maris(会話 / 投稿記録 / 記録)さんとMiyaさんのお二人と激しくやり合うことになりました。Miyaさんとは紛糾しながらも突き詰めた議論に発展し、選考中に多くの参考文献を挙げて頂きました。そのことによって私は自分の資料検索の甘さを自覚させられ、選考の結果にかかわらず、記事を根本的に立て直すことが必要だと感じるようになりました。選考中に加筆にとりかかるのがベストでしたが、テンションを高めるのに時間を要し、実際に取り掛かったのは選考終了から3か月の後のことです。Miyaさんには選考終了後もトーク:中田厚仁で参考資料をご提示下さり、他の記事でもアドバイスを頂くなど、親身にアドバイスを頂きました。ただただ頭が下がるばかりです。Miyaさんのお陰で、記事の内容はかなり充実したと思いますし、個人的にも大変勉強になりました。一方、Stella marisさんとは突き詰めた議論に発展することがないままに終わり、結果としてこの選考を境に長期ブレイクをされています。
この選考を振り返りますと、Miyaさんの当初の反対には具体性を欠くところがあるものの、いわんとするところは理解可能ですし、Stella marisさんについても、今読み返しても依然として分かりにくいものの、部分的に理解可能なところもあります。今の私であればもう少し違った対応ができたはずで、選考があそこまで紛糾したのは、私自身の資料検索を含めた執筆能力の未熟さによるところが大きかったと思っています。Stella marisさんのブレイクの直接の原因がこの選考にあるとすれば、私の責任は重大です。Stella marisさんについては選考の場に加え、利用者・トーク:Stella marisでのやり取りや、Yassieさんの会話ページの過去ログにある、「投稿ブロック依頼提出の件について」での発言もブレイクに影響を与えた可能性があります。Miyaさんとは選考終了後も記事の加筆を通じてどうにかやり取りが続いていますが、おそらくこれはMiyaさん個人の寛容さや粘り強さ、対話能力の高さといった資質によるところが大きいと思います。--廉 2010年5月23日 (日) 12:19 (UTC)
Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025など
[編集]Wikipedia・トーク:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030においてStella marisさんが、「記事ハイデルベルクをめぐっての話」「みっち氏の複数の音楽記事を、汲平氏が推薦されたときの状況」について言及されています(2009年11月19日 (木) 11:20 (UTC) )。利用者・トーク:Sergei semenovich#質問でも、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025とWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030とのダブル・スタンダードという表現が登場します。これはつまり私がWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ワルキューレ (楽劇) 20091022、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ラインの黄金 20091022といった選考で出典の明記が不足しているという理由で反対票を投じた姿勢とWikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030で反対票に反発した姿勢との間に矛盾があるという指摘だと思います。
私は当初、前者(Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025など)については、ただ参考文献を示すだけでなく脚注を用いて出典を示したほうが検証はより容易であるというに認識の上で、ある程度以上検証が容易である必要があると考えていました。後者(Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030)については中立性が問題となりましたが、中立性についてもある程度は確保されていなければならないと考えていました。それではなぜ反対票に反発したのかといえば、指摘は具体的に、つまりどのような文献を参照にすればどの箇所についてより中立的な記述を行うことが可能であるか示してほしいと思ったからでした。選考が進む中でMiyaさんが多くの文献を挙げられ、実際にそれらを読む中で、「これは良質な記事とはとてもいえそうにない」と感じるようになりました。つまり、中立性についてMiyaさんが挙げられた文献を用いれば改善可能ということを認識し、そう感じた以上指摘が具体的でないという抗弁は成り立たなくなり、この記事は中立性について改善可能な問題点を抱えているということになると考えるようになりました。しかし記事は結果的に選考を通過しました。中立性に関する問題がかなり露わになっていたにもかかわらず大目に見て頂いたという印象でした。私はこの結果から、自分が考えていた良質な記事の基準は厳しすぎたのではないか、すべての目安について一定以上を求める必要はないのではないかと考えるようになりました。もし今、ハイデルベルクをはじめとする記事が選考にかけられたとしても、反対票を投じることはないでしょう。当時は良質な記事のとらえ方について多くの利用者との間でズレがあった可能性が高いと感じていますし、それらの記事に反対票を投じたことで利用者:汲平(会話 / 投稿記録 / 記録)さんや利用者:みっち(会話 / 投稿記録 / 記録)さんには申し訳ないことをしてしまいました。良質な記事という制度自体にも好ましくない影響を与えてしまったと感じています。--廉 2010年5月23日 (日) 12:19 (UTC)
Wikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテスト、および利用者・トーク:みっち
[編集]第六回執筆コンテストに、私は執筆者として、みっちさんはコメンテーターとして参加しました。私はコメンテーター、審査員としても参加し、でみっちさんが協賛参加という形でエントリーされたトリスタンとイゾルデ_(楽劇)にコメントをしたましたが、みっちさんは返答をされませんでした。
私がこの事実に気付いたのは、Wikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテスト/反省会でみっちさんのコメントを拝見した時です。ここで、「そういえばコメントの返事ってあったかな」と思い到りました。そこで返事がないことに気づき、みっちさんの履歴を拝見し、続いて利用者ページ、ブログと辿っていくことになりました。その過程で、良質な記事の選考を巡る過去のいきさつに気付き、「これは避けられているのかもしれない」と感じました。同時に、反省会で次回コンテストで審査員に立候補することに言及されていたため、実際に避けられているとして、もし自分の記事がコンテストにエントリーした場合にはどう対処されるつもりだろうという疑問が浮かびました。さらに履歴を調べる中でWikipedia:井戸端/subj/Wikipedia:出典を明記する の「必要があれば」の解釈で「出典について執筆者と建設的な議論をしたいなら、「同じ土俵に立て」(出典を読んでいる、あるいは別の信頼できる情報源を持っていて、対案を示せる)という執筆者の意向は無視しないのが礼儀にかなった態度だと思います」というコメントを見つけました。率直に言って、執筆者としてかなり思い上がった態度だと感じました。
とりあえずどういうことか確かめてみようと思い、コメントへの返答がないことについて尋ねてみたのですが、その返事の序盤を読み、改めて執筆者として思い上がった態度だと感じました。そのことが、かなりきついトーンでメッセージを返すことにつながったというのが現在の分析です。事前に反感を覚えていたところへ思いがけず同様の要素を持ったメッセージを目にし、この機会に強く言わねばと思ったことでテンションが高くなりました。Wikipedia・トーク:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030が原因となって私を敬遠するようになった、ということについてはどう考えても私が悪く反論する余地がありませんでしたが、Stella marisさんと思われる利用者について言及されるのを見て、ここでは詳細は書きませんが先方にはブログでの記述が原因となってブレイクを招いたことがあったはずだと思い出し、この際だからこのことも指摘しようと思いました。これには、そもそも私がブログなどWikipediaから離れた場所で、かつ自分がWikipediaの誰であるか分かる形で、Wikipediaの動きや利用者についてネガティブな発言をするという行為を嫌っていることが影響していると思います。そこまで書いて、この返答はほぼ間違いなく先方を刺激し、姿勢を硬化させることになるだろうからやりとりは長く続かないだろうと予感し、書きたいことはまとめて一気に書こうと思いました。そこで次回コンテストでの審査員への立候補について、懸念をここですべて表明しようと思いました。以上の経緯から、2010年5月21日 (金) 14:37 (UTC)のコメントとなりました。--廉 2010年5月23日 (日) 12:19 (UTC)
コメントを受けて
[編集]コメント依頼提出から約一週間が経ちました。コメントをくださった皆さん、ありがとうございます。また長文になりそうですがご容赦ください。
まず、海獺さんへの回答ですが、現在精神状態は別段問題ありません(一時的に高くなったのは確かですが)。一部の表現が気になられたようですが、「膿を全て出し切りたい」と書いたのは中田厚仁をはじめとする過去の良質な記事の選考での行動が未だに尾を引いている、傷が古傷になるどころか化膿していると実感したからです。「逐一反応」については、過去にテンションが高い状態で、かなり間隔を詰めてレスポンスをした経緯がありますので、この点を懸念してコメントを躊躇される方がおられるかもしれないということで書きました。全般的な精神状態は過去に遡れば遡るほど悪いです。ちょっとしたことでキレてばかりいました。
Hideokunさんからは気にするなというコメントを頂きました。たしかに、直近の衝突だけを考えるとおっしゃる通りかもしれません。私も、こうなった以上もう簡単には修復できそうにないと思います。しかし、中田厚仁の選考が原因となって2度同じような衝突をしてしまいました。これは我ながらいただけないですし、負のスパイラルに嵌りこんでしまっている感じがします。中田厚仁での衝突がもとで今回の衝突が生まれました。今回の衝突がまた誰かの反発を呼んでいるかもしれません。明らかに好ましくない循環に陥っている気がします。
悪循環を断つには今回、Ks aka 98さんがおっしゃるように、相手の態度を受け入れるなり対話を試みるなりすべきでした。なぜそれができなかったのか理由を考えると、「この人に公平な審査ができるのか」という疑念にとらわれたことが一番大きかったと思います。疑念はあくまでも疑念ですから、あの時点では踏み込まず、疑念が現実のものになった場合に改めて対応を考えることにするというのがベストの選択だったかな、と今は思います。しかしあの時は疑念が湧いたことでテンションが高まった直後に返答をしてしまいました。miyaさんやR.Lucyさんのおっしゃるように、即レスを避けてテンションが静まるのを待つべきでした。以前から薄々感じてはいましたが、今回一連の出来事を振り返る中でやはり対策としてはそれが一番だと強く感じました。テンションが高まると自分と相手しか見えなくなってしまうところもあるようです。中田厚仁の選考でもStella marisさんのコメントに対し、自分一人で対応しようとしたところがありました。あの場面では間隔を置き、自分自身のテンションを静めると同時に第三者の意見を待つべきでした。
Ks aka 98さんが私の言動について「他者に対して、こうするべきだという要求が多い、あるいは高い」と感じられていることについても、レスポンスの早さが影響しているのではないかと思っています。どうもレスポンスが早ければ早いほど、よりインパクトの強い言葉や言い回しを選んでしまう傾向があるようです。直近のやり取りでも間隔を置けば、同じ内容のメッセージをするにしてももう少し穏当な言葉を選んだでしょうし、メッセージの組み立ても変わっていたでしょう(この機会に謝りたいのですが、miyaさんには最近この依頼とは全く別件でかなりきつい批判をしましたが、今振り返ると選んだ言葉がきつすぎました。その節は申し訳ありませんでした)。もちろん、より根底には海獺さんが示唆されているように白黒をはっきりさせたいという傾向やKs aka 98さんが示唆されているように自分と異なる考えに対する配慮や寛容性の問題があるのだとは思いますが。
Hideokunさんご指摘の政治的活動については、いわんとされていることはわかります。たしかに、あまりに執筆とかけ離れた事柄については本領を発揮できないでしょうし、楽しくなさそうです。そういった事柄に深く関与して時間を浪費したりストレスをため込むのは避けたいところです。Wikipediaには私やHideokunさんとは逆に政治的な場面でこそ本領を発揮するタイプの利用者もおられるでしょうから、基本的に餅は餅屋と考えればいいと思います。ただ、テーマによっては記事の書けない人(書かない人ではなく書けない人です)に決められたくないと思うことはあるでしょうね…Hideokunさんの政治的行動は数日前に知ってかなりびっくりしたのですが、そういうことですか…思いは十分に伝わったので、どうか速やかに本領を発揮できる場所へ撤収してください(よく考えると撤収する場所があること自体、かなり恵まれていますよね。政治が専門の利用者は政治的な議論で失敗をしても政治的な領域で活動し続けるしかありませんから…)。ちなみに外部掲示板については私もたまに見ていますが、批判的な書き込みの中にもまっとうな批判もあればただのヘイトスピーチのようなものもあるので、気にするべし気にするべからずといったところでしょうか。
Hideokunさんご指摘の「過信」、Ks aka 98さんご指摘の「検証可能性の原理的な推進」について考えるには、私の履歴を遡る必要があります。私が脚注を用いた出典の明記を初めて意識的に行ったのは、ナリタブライアンを秀逸な記事の選考にかけた時です。記述の信憑性に疑問を投げかけられたことを受け、記事の検証可能性を高めるためにとった措置でした。過去の選考をすべて詳細に調べたわけではありませんが、どうやらちょうどナリタブライアンの選考があった頃を境に、秀逸な記事の選考で脚注を用いた出典の明記が重視されていったようです。ナリタブライアンの選考がもう少し前にあれば、もしかすると脚注方式を採用することなく選考を通過していたかもしれません。その場合、現在とは逆に出典については参考文献を列挙するだけで十分だと考え、原理主義的な考え方に反発する側にいたかもしれません。
2008年に、脚注の活用をより徹底させたオグリキャップが秀逸な記事となり、さらにテンポイントが加筆コンクールで1位になりました。おそらく、脚注を用いて出典を明記することが記事の質の向上につながると考えるようになったのはこの頃です(とはいっても、脚注を多用しさえすればいい、脚注を多用することが優れた記事であるための十分条件だとまでは思いませんが…このあたりが今回の衝突の遠因となっているのはKs aka 98さんご指摘の通りだと思います)。翌2009年にテンポイントと岡部幸雄が秀逸な記事に選ばれました。この時点で記事を秀逸な記事レベルに仕上げるためのノウハウは大体身に付けたと、今振り返るとかなり慢心していました。最近読んだ櫻間伴馬という記事の中に「芸の向上は瓢箪の如し」という伴馬の言葉が登場しますが、この例えを借りると、この頃の自分は次の空洞の存在に気付かないまま、瓢箪の狭い空洞が満たされたのに満足していたということでしょう。その矢先に良質な記事の制度がスタートし、一連の出来事を引き起こすことになりました。ハイデルベルク他の選考では秀逸な記事の目安を重視し過ぎましたし、中田厚仁の選考では(ノウハウを大体身に付けた)自分が最善を尽くしたのだから、秀逸には届かなくても良質はクリアしているだろうという見込みの甘さ、驕りが少なからずあったのだと思います。miyaさんは「自鍛自恃」とおっしゃって下さいますが、自分自身の驕り、慢心に気付くことができたのはmiyaさんのお陰ですし、まだまだ未熟だったとはいえその時点での執筆のノウハウを身につけたのも選考やコンテストで色々とコメントを頂いたお陰です。自分一人の力ではとてもここまでやってこられなかったでしょう。最近執筆した記事の中にはまだ不十分かもしれませんが中田厚仁の選考で得た教訓を自分なりに反映させているものもあります。
山田山田山田山田さんのコメントは、ある意味一番鋭いところを突いているのかもしれません。私は事実空気が読めていないのでしょう。しかし空気が読めない人間にただ「空気を読め」と言っても効果はありません。「空気ってどうやって読むの?」という話になるからです。空気の読めない人間は、空気が読めていないと指摘されるような行動をとる原因を具体的に突き止め、修正することが必要です。私のように本能的に衝突が回避できず、むしろ衝突を生むほうへ行動しがちな人間は、失敗を繰り返さないように頭で考えて行動するしかありません。--廉 2010年6月1日 (火) 08:44 (UTC)
ありがとうございました
[編集]依頼から1か月以上が経過していること、その間十分なコメントを頂いたと判断したことから、ここで終了とさせて頂きます。コメントをくださった皆様、ありがとうございました。--廉 2010年7月3日 (土) 15:46 (UTC)
- 私自身の考えは2010年6月1日 (火) 08:44 (UTC)に述べたとおりです。そのためそれ以降に頂いたコメントには対応する形で新たなコメントを行いませんでしたが、どうかご了承ください。--廉 2010年7月3日 (土) 15:52 (UTC)
コメント
[編集]- コメントまぁ、慌てる事もないんじゃないですか?過去を取り戻すことはできませんし。廉さんの能力は執筆で生かされるものであって政治的活動(になるのかしら?)に向いてないってことだと思います。私も議論系はハッキリ言って常に不毛な形に終わる事が多いですから議論に向いてないんだろうなぁと思いながら早速、昨日やらかしてしまいましたが、すでに諦めている部分もあります。多分、廉さんは私とちがい自らに自信があるんじゃないでしょうか、それが過信となってちとキツい言動に繋がるのでしょう(まぁ、人のことを言えた義理じゃないですけどね)。また、廉さんは頭の回転がよろしいだけに反論することから誰かとぶつかることもあると思います。Wikipediaも人が増えたことにより合う人、合わない人がいると思います。無視しろとは言いませんけど、気にしたら終わりじゃないですか?みっちさんとの関係は不幸なことでしたが、私も振り返れば嫌いな利用者が居ますし、私を嫌っている利用者が居る事でしょう。しかし、Wikipediaの充実の過程において皆が仲良しこよしで進むことは実質不可能だと思います。ですので、間に人を挟んで対話することも不可能じゃないわけですから細かいことは気にしなくてもいいんじゃないですか?それに触らぬ神に祟り無しでしょう(←Wikipedia全体におけるお互いが嫌っている利用者同士の話であってこのコメント依頼に限って書いているわけではありません、念のため)。私が軍事系の執筆から手を引いたのはまぁ、そういうことです(画像貼りなどの草取り系作業はしており、完全撤退はできてないですけどね・・・)。
- 私個人としては廉さんは記事の執筆にまい進して欲しいと思います。政治的活動(でいいのかなぁ・・・)の部分は捨ててしまったらもっと名を成すのではないかと思っています。私はそんなに能力も高くなく、行動もおバカなので偉そうなことを書ける身分じゃないんですけど、廉さんの能力を認めているだけに一言だけ。--Hideokun 2010年5月23日 (日) 13:04 (UTC)一部、修正--Hideokun 2010年5月23日 (日) 13:10 (UTC)
- コメント自身に対するコメント依頼を提出して、「自分の行動はどうでしょうか」というケースはよくあると思いますが、「膿を全て出し切りたい」、「どのようなことを書かれたとしても逐一反応するといったことはしませんので、安心されてというのは変な表現ですが」というようなことを想定されているのであれば、コメント依頼などで解決するというより、すこし休んでリフレッシュされた方が良いと思いました。挙げて頂いた個々の案件はウィキペディアのような場所で積極的に活動していればよく起こりがちな、感情の行き違いや、ちょっとしたことからの誤解、語句や表現の選択ミスなどに起因する「よくある事」でしょう。相手の方がブレイクされたケースも有るようですが、たぶん「ブレイクする」と言うのは、対話やコメント依頼で解決できない部分には、ひとつの解決法として良い選択だと思います。AとBどっちだ、と、はっきりさせない方が良い事象もあると思います。G1でさえ一着同着があるじゃありませんか。勝負の世界で鎬を削る騎手の方でもお互いを笑顔で讃え合えば、見ている方も笑顔になります。まずは休んでご自身の余裕を取り戻して下さい。--海獺 2010年5月23日 (日) 13:11 (UTC)
- コメント これまで廉さんとは直接お話をしたことがありませんので、この経緯を読んだだけの印象でコメントさせていただきます。このような場所で発言することは初めてですので、失礼な文はあるかと思いますがご理解ください。
一連の経緯を読ませていただいてまず思ったことは、「何でこんなことでムキになって長々と無駄な時間を使ったのだろう」ということです。
一般社会で良好な人間関係を築くために何よりも重要なことは「空気を読む」と言うことだと思います。先方さんは「なるべくあなたとは関わりたくありません」とはっきり申されているのですから、「そうですか」と下がるのが大人の対応でしょう。あなたがここで下がればこれ以上問題は広がりません。審査の方でも暗黙の了解でお二人が関わらなければ、表面上何も問題はありません。
執筆された記事はどれも素晴らしいものですし、廉さんの力は皆さんとてもよくご存知かと思います。こんなことで自らの格を落とさないでください。無駄な時間だと思いませんか?私がこの文を打っている時間も時間の無駄遣いそのものですが、こんな糞みたいな人間と同じように時間を無駄にしているわけですよ。推奨されていない無理な三段論法を使えば「糞は無駄な時間を過ごしてばかりです。廉さんも無駄な時間を過ごしてますよね。じゃあ廉さんも糞そのもですね。」となりますね。勿論そのような方ではないと思いますが。
私は糞でも糞なりに思うのです。そんな人に関わりたくないし、その様な人も多かろうと。だって人間だもの。--みつを 2010年5月23日 (日) 13:46 (UTC) - コメント基本的にみっちさんの会話ページの件のみ。えーと、わざわざ言うことではないですが、ひょっとしたら廉さんは、見ていないかもしれないので書いておくと、過去、ぼくとみっちさんは、比較的意見が対立していることが多いので、廉さんはこれを心情的な擁護とは受け取らないで欲しい。
- 廉さん自身、自分が冷静さを欠いた行動をとったという事実があり、そのことが原因となって、みっちさんが廉さんに対し、関わりあいになりたくないという感情を抱いていて、その点については廉さんの不徳の致すところという認識がある。そして、コメンテーターとしてみっちさんが廉さんの記事にコメントをしていないのも、恐らく同様の理由によるものなのだろうと推察しているならば、コメントがつかなかったことを受け入れるか、そのような経緯を踏まえて、過去のそれはそれとしてコメントを「お願い」するか、過去の経緯を精算すべく話し合いをするか、でしょう。
- みっちさんが、コメンテーターとして廉さんの記事にコメントをしないのは自由です。まあ子どもっぽいと思わなくはないですが、廉さんの記事にどうしてもコメントをしたくないからコンテストに関わらないとするよりは、廉さんの記事にはコメントしないけれど、これだけのコメントを残すという選択の方がコンテストには貢献していると言えるでしょう。対立がある中で、共同作業の場で一報を排除しない一策ではあります。
- そして、廉さんがエントリしない分野で審査をしようとしていたのかもしれませんし、本当は読みたくないかもしれないけれど審査員の立場として廉さんの記事を、できるだけ公正に審査しようと考え、審査員となることに言及しているのかもしれません。審査員と言う立場に立った時にも、今回と同じようにコメントを残さないというのは推測、記事にろくに目を通すことなく審査を行ったと将来の廉さんが思うのは疑義に過ぎず、みっちさんが廉さんへの忌避感が審査の姿勢に影響する可能性を感じているという仮定も「ご自分の推測や仮定にすぎないこと」です。廉さんが疑念を抱くことを断言するのは、廉さんの自由です。しかし、その疑念が妥当かどうかを判断するのは廉さんではありませんし、審査員に立候補すべきではないと、廉さんが言うべきではありません。ここでのやりとりから廉さんに必要なことは、「しばしば詰問調を取り、あるいは他のコメント者と比較して出来がいいとか悪いとか論じたり、果てはコメントの無効を言い立てたりされるのを目にしてきました」ということへの説明、あるいは反省の表明でしょう。
- 内容について、いくらか説明してみます。このへんの先行研究を読んだことはないですが、「光りあれ」が創世記にどういった形で登場するのか、ということを執筆者が独自に書く場合には、執筆者が選んだ場所や要約が、トリスタンとイゾルデという作品との関わりにおいて重要である、有意であるという執筆者の主張にもなりえます。ワグナーのこの時期の作品は、背景となる思想の部分でもけっこうややこしい話があるので、執筆者として、抑制的に書くと言う判断はあるのだろうと思います。「掛留和音」ほかは、和音の一種、という以上の説明は、ここでは不要だと思いますよ。多義性や緊張感という特性は書かれていますし、和声の理論的なところがわからない読者には、「ここは和声学的な説明がある場所で、なにやら重要らしい」と伝わればいい(むしろ「解決」が意味するところは説明が要るかもしれないとは思いました)。その記事ですべてがわかる必要はないし、百科事典ですべてが分かる必要もない。専門用語や専門的な解釈について専門知識のない読み手でも理解できるよう手を尽くす、という場合の、手を尽くす程度や範囲というのは、記事にも拠りますし、執筆者の考えにも拠ります。「意味するところを知りたければ自分で調べてくれたまえ」という態度ではないし、「専門誌に投稿されればよい」内容ではないし、その難解さを記事の深さと言ってのけているわけではないでしょう。そして、今まさにここで廉さんが書かれていること自体が、まさしくみっちさんが廉さんのコメントにコメントを返さなかったと判断している理由だと思うのです。
- ぼくの印象では、廉さんは、他者に対して、こうするべきだという要求が多い、あるいは高い、というふうに感じるところがあります。ウィキペディアにはいろんな参加者がいます。かけてもいいと考えている労力は人によって違う。自分が提供できる、提供すべきと考えている記事の水準も違う。知識があったとしても、百科事典としてはこういうふうに書くのがいいと考えて抑制している人もいる。分野によっては、書き方も違う。そういう点を踏まえ、それぞれの関与の仕方を尊重することも重要です。記事の未熟さを指摘する上では忌憚なく批判することも大事ですが、執筆意欲を損なわせてしまっては、執筆者を失うことに繋がります。その批判が、これまで廉さんが書いてきた記事の分野では正当であっても、他の分野でも正当とは限りません。そのことを、もう一度考えてみていただけますでしょうか。コンテストやコンクール、その他の執筆支援周辺のことでは、廉さんもみっちさんも、あるいは、汲平さんやR.LucyさんやY Tanbeさんといった方々も、深刻な対立なく、関わって欲しいと思っています。--Ks aka 98 2010年5月23日 (日) 14:18 (UTC)
- 以下は、このコメント依頼向け。たぶん周囲との対立の根源となっているのは、脚注/情報源についてだと思う。Wikipedia:秀逸な記事の再選考/オスマン帝国で書こうかどうか迷っていたことですが。「オグリキャップ」の記事を書く上では、査読付きの学術論文ほどに十分信頼できるとはいいきれない複数の資料から断片的に事実を引き出し、インラインで逐一参照させていく必要がある。それが結果として、脚注方式の重視に繋がっていると思うんですね。それはそれで悪いことじゃない。ところが、項目の主題について、ほぼ網羅的に概観する情報源が存在し、それらを複数用いて書かれたような場合は、必ずしもインラインで対応する情報源の記述を指示する方法を採用する必要はないと思います。研究の蓄積がある記事であれば、原著論文まで示すことが理想ではあるし、既存の百科事典ではなくウィキペディアの方針を原理的に推進していくことで達成できるかもしれない可能性の部分ではありますが、重要な論文の書誌情報を本文で示すことはあっても、いちいちその記述の内容の初出となる原著論文を挙げていく必要が、百科事典の項目の中で必須というわけでもないでしょう。もちろん、ある程度の長さの記事になるなら、いずれ記述内容と個別に対応させていく作業が必要となってくるし、百科事典の記事としては、概観する情報源では足りない、別の視点からの記述が必要になってくることもあるのだけど。「完璧な記事」としては、すべての記述される要素に付いて、初出となる原資料とそれに直接言及する諸論文を挙げ、項目全体の中での位置づけを示す概観的な二次資料と、その要素について基本的な情報を得ることができる入手が容易でわかりやすい参照文献をインラインで示すべきかと思います。では、それを(完璧な記事ではなく)秀逸な記事の水準として求めるのか、良質な記事ではどうか、ということを段階的に考える必要がある。詳細な情報源の提示というのが必須の記事もあれば、そこまで求められない記事もあるわけです。「中田厚仁」では、情報源の信頼性の評価や中立性に目が行き届かなかった。「ハイデルベルク」では、ドイツ語版の考え方を受け入れなかった。それらについての意見は、翻訳記事における検証可能性の評価についてや出典掲示方法による検証可能性の評価についてで述べられている。あとは、それを廉さんが、どう受け止めるか、だと思います。記事や分野ごとの事情を踏まえて、それでもなお、検証可能性の原理的な推進を重視すると言うのならば、それは一つの立場です。ぼくも、どっちかというと、それに近い立場考えを持っているところがある。でも、それは方針が求めるものでも、当たり前のものとして共有されているわけでもない、ということを理解しておいて欲しい。--Ks aka 98 2010年5月23日 (日) 15:05 (UTC)
- コメント主として中田さんの記事関連でコメントします・・・Stella marisさんの2009年11月6日 (金) 13:42 (UTC)「それなりに信頼の置けるとされているジャーナリストがルポルタージュとして記した書籍なら、信頼性はより高いでしょう。しかしそれでも、信頼性に疑問があります。この場合は、国連や日本政府がどういう見解であったか、事件に関する事実関係はどういうことなのか、複数のジャーナリズムや歴史家の証言などが出典として必要でしょう」というコメントに対して、あのときはたちまちこう反発なさいましたが、今ならGA選考当時に比べて幅広い参考文献に目を通されて、Stella marisさんの真意もご理解いただけていると信じます。あの時、推薦をいったん取り下げて、書き直してから再推薦していただければよかったのでしょうが、当時はとてもそのような気持にはなれなかったのだとお察しします。思うに、廉さんはとても頭の良い方なのでしょう。なまじ頭の回転が速く自鍛自恃の念が強いため、反発したら速攻で反駁される傾向があるのかなと思います。僭越ながら、ご自分が理解できなかったり反発せずにはいられないコメントを受け取ったら、反応を急がず、数日、できれば1週間くらい返事を保留なさって、他の人の意見をお聞きになることをお勧めします。--miya 2010年5月24日 (月) 02:41 (UTC)
- コメント私信みたいなもんで本来は廉さんのトークページに書く方が相応しいのかもしれませんが、この件に絡んでここのところ行動していましたのでこちらに書かせていただきます。私は以前、廉さんに政治的な部分に関わるなとこちらで発言しました。それなのに私は政治的な部分に関わっています。これは言うなればダブルスタンダードであり、廉さんには政治的な部分に関わる能力がないけど、俺にはあるといった風に見えていることだと思います。しかし、私が勝手に考えたことなのですが、この行動は政治的な部分に触れて紛糾している姿というものを廉さんに見てもらいたいと思って行動させていただきました(廉さんはもっとスマートな議論ができているのので私では役不足なのですが…)。廉さんは執筆能力も高く、また、高い行動力をお持ちの方です。ですので、Wikipediaには素晴らしい貢献をなさっていると思います。しかし、Wikipediaは執筆だけで回るものではなく政治的な部分があります。そこには難しい部分があり、「十人十色」的な意見が噴出する中々一筋縄でいかないものです。私は廉さんの堅い意思は尊敬に値するものだと感じていますが、やはりそこは難しいところなもので堅い意思というものは政治的な部分では自ずと対立構造を生み出してしまうと思います。ですので、私の身をもってそれが廉さんに伝わればと思い、今回、あえて議論や政治的な部分に足を突っ込み、まぁ、言うなれば能力不足なのに突撃かましたというところです。これまで私が参加したものは問題があると考えてはいましたが、なんとかならないかなぁという漠然とした思いをもっているだけで積極的行動をする気はありませんでした。もちろん、このコメント依頼はきっかけに過ぎず、当該議論が変な方向へ向かっているとすれば私の能力不足であり、また、私が勝手に行動しただけですので、廉さんには全く責任はありません、これは強調しておきたいと思います。外部掲示板で弄られる姿や議論で疲弊していく私の姿を見て滑稽だな、と思っていただければ本懐であります(勝手なことして何、恩着せがましこと言ってるんだよバーカ程度でお願いします)。ただ、廉さんはすでに色々とお気づきのようです、私の行動が無駄であったならばさらに本懐と言えます。廉さんのさらなる活躍を祈っております。--Hideokun 2010年5月31日 (月) 01:07 (UTC)
- (コメント)みっちさんの会話ページでのコメントは、ちょっとひどいです。miyaさんが提案されているように、摩擦が起きそうな対話については一旦ローカルに下書きしてみて、一日置いて読み返してみるなど、即座に反応せずに、冷静になれる時間を取って頂くのが一番ではないかと思います。私も幾度か、対話で頭が沸騰しそうになった(あるいは沸騰した)ことがありますので、あまり人のことは言えませんけれども・・・。いずれにせよ、お互い、史上最大の百科事典を作り上げるという目標のもとに集った仲間ですから、より良い関係でいられることを願っております。--R.Lucy 2010年5月31日 (月) 14:57 (UTC)
- コメント Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/中田厚仁 20091030については私も少し関わりましたが、選考の可否には直接意見を述べず主に第三者的な立場から関わった(つもりの)私から見ても、#被依頼者のコメントで述べられている状況認識には違和感はありませんでした。この件をめぐっては当初かなり熱くなっておられたようですが、十分に時間をおけば自分を取り巻く状況を冷静に把握できる方なのだと思います。ですからmiyaさんやR.Lucyさんのいわれるように、ローカルで下書きをしたり、議論のペースを意識して遅らせたりといった対応をとることでかなりトラブルを防ぐことができるのではないかと思います。私自身も決して十分に実践できているわけではないのですが、ぜひ今後そういった努力をしてみることをお薦めします。
Wikipedia:執筆コンテスト/第六回執筆コンテストには全く関わっていませんでしたが、関連するやりとりを見て、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025の件でみっちさんに不快な思いをさせてしまったという自覚があったのなら、会話ページに書き込む際に最初に一言お詫びの言葉を述べておけば、その後のやりとりが幾分かでもスムーズにいったのではないか、ということをまず感じました。トリスタンとイゾルデ_(楽劇)についての議論に関しては、私はみっちさんの考えの方に近いですが、廉さんに廉さんなりの考え方があるのは構わないと思います。ただ、当然みっちさんにもみっちさんの考えがあっていいわけで、廉さんもそれを尊重した上で建設的な意見交換をすることが求められると思います。
私はこの種のコンテストとか賞の類にはあまり関わっていないのですが、こうした企画の主な目的には、参加者のモチベーションを相互に高め合っていくということがあると思います。ところが、Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/ハイデルベルク 20091025などでもそうなのですが、こうした件での廉さんの発言には、どうも記事の粗探しをしているかのようなニュアンスがあって(おそらくご自分ではそういうつもりはないのでしょうが、少なくともはたで見ているとそう感じられてしまう)、逆に参加者の意欲を沮喪させているように見えます。どうすればお互いに記事の改善に気持ちよく取り組んでいくことができるか、ということにもう少し配慮していただければ、と思います。
いうまでもありませんが、ウィキペディアはボランティアによるプロジェクトであり、私たち参加者にとって記事の品質を高めることは努力目標なのであって、義務ではありません。善意で記事を投稿している立場の方のこうした発言を「思い上がった態度」と感じるというのは、どこかそのあたりを誤解されているのではないかと思います(みっちさんの態度を「正しい」とまで言うつもりはありませんが、資料を調べたり文章を練り上げたりといろいろと苦労を重ねてできた結果を投稿した立場として、そのように考えるのは少なくとも自然なことだとは言えると思います)。
基本的に、廉さんはこうした多少なりとも政治的な性質を帯びた案件に関わるのは、あまり得意ではないのだと思います。執筆者としてはコミュニティの誰からも一目置かれるだけの実績を積んでおられるのですから、得意でないことに無理に関わってご自分の評判を貶めてしまうのは、はたで見ていて非常にもったいないと思います。これを機会に、ウィキペディアに関わる重点の置き方を少し考え直してみるのもいいと思いますよ。--sergei 2010年6月2日 (水) 16:31 (UTC)
コメント 廉さんと他利用者の方々との議論自体についてはコメントしません。というより、僕はこのようなコメント依頼の使い方自体、あまり感心できません。論争の解決を求めるならそれぞれのケース毎にコメント依頼をすればよろしい。論争の予防法については、自分の心の制御の問題なのだからそもそも他人に聞くのは筋違いです。反省を示すのなら行動で示すべきです。そう考えていくと、今回のコメント依頼は、実は廉さんの「懺悔室代わり」で、僕は個人的な心の洗濯や自己研鑽に付き合わされているのではないか? という疑念がどうしても湧いてしまうのです。もちろん、ウィキペディアの活動の中で成長していくことができれば素晴らしいことでしょう。ですがもしそれが目的だとしたら、不特定多数の人間に労力を強いるコメント依頼というやり方は、結局は他人への甘えを残すことになると思うのです。何かに執着する気持ちを切り替える方法は、執着の対象から一旦離れることしかないと思いますよ。--チャボ 2010年6月24日 (木) 17:40 (UTC)