Wikipedia:コメント依頼/大王町観光中心の一連の利用者/検証結果
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指摘部分が不適切な行動・編集のすべてではないことにご注意下さい。また、勝手ながら敬称略とさせて頂きましたことをご了承下さい。私N yotarouの検証の誤りも多々あるかと思われますので、その点予めお詫びさせて頂きます。--N yotarou 2009年5月3日 (日) 13:35 (UTC)
伊勢・志摩関係
[編集]- 波切神社->波切神社 (志摩市)
- 修正前
- 修正後
- 議論を撹乱されたノート
- 突如現れた利用者が編集時要約欄になぜか皮肉を書いた。
- 変更内容
- 「同名の神社は宮崎県日南市の鵜戸神宮内」とあり、当初括弧なしの記事名にされていた。志摩市の波切神社の名称は明治の合祀以前には遡れず、波切の地名は伝承によれば波切不動にあやかり江戸時代ころに改称されたものらしいので、常識的には鵜戸神宮内の波切神社を優先すべきであるし、典拠が示されなければ太地町の波切神社との関連も述べてはならないはず。
- 「徒歩で半日~1日の距離に天岩戸」とあるが無関係な記述。
- 志摩国の総社とする資料は確認できない。
- 元宮内庁御用地内は幕末に日本各地の岬に作られた砲台跡の1つにすぎない(『大王町史』234ページ)。そこに明治以降に見張り所などが作られた(『三重県の戦争遺跡』221-228ページ、三重県歴史教育者協議会編、2006年8月つむぎ出版発行、ISBN 4-87668-151-1 )ようではあるが、神社とは無関係としか考えられない。
- 古くから熊野三山との繋がりがあったとする資料は確認できない。
- 志摩国では古い神社とする資料は確認できない。
- 「伊雑宮が伊勢神宮の一宮」とあるが意味不明。
- 「志摩国における神様の殆どが揃っている為、実際の総社とも目されている」とあるが小さな祠を集めた合祀の結果に過ぎないし、総社とする資料は確認できない。
- 「伊勢神宮内宮系の神社」とあったが明らかに事実に反する。要求しても典拠が示されない。Web上ではこの記述に近い内宮末社とする内容がある民宿のサイトに見られ、志摩市観光協会大王案内所にも過去にはみられたが、どちらもある業者の顧客のサイトである。
- 海難防止の為国際ヨットレースの参加者もこの神社を訪れるとする資料を確認できない。
- 神社拝殿の貼り紙には書いてあるようだが、「選挙や入学試験などに強い神様」とする資料を確認できない。
- 「この地が鰹や鰹節の名産地」とされたが、熊野灘沿岸の主要な漁港の大部分で鰹の水揚げが行なわれるが、初鰹の報道では波切の名はまず出ず、尾鷲など紀州に比べれば波切の知名度は圧倒的に低く神社の説明には不要な記述としかいえない。なお、『三重県の歴史と風土』(新三重風土記刊行会編、創土社発行)378ページには、三重県のカツオマグロ遠洋漁船は昭和45年には南勢町田曽浦46隻、尾鷲市25隻、浜島町15隻、志摩町和具3隻、四日市3隻、波切2隻などとあり、この当時は波切は規模では最下位であったようにも読め、『平成7年(1995)三重県漁業地区別統計表』28-52ページの統計でも波切はカツオの漁獲量として三重県内での最低レベルでしかなく、他地域と比較して鰹が名産といえる根拠はないと思われる。
- 「以来、信長、秀吉の行う戦、明治以降の選挙など戦う場には」とあるが、典拠不明な上に神社の説明には無意味な記述であり不適当。Web上ではこの記述に近い内容がある鰹節販売業者のサイトに見られるが、これも前出の業者の顧客のサイトである。なお「勝男武士」の語呂合わせは北条氏綱に始まるとするのが定説らしい(後記『鰹節考』201ページなど)。
- 「候補者が土を持ち帰ると選挙戦に大勝する」とする資料は確認できない。要求しても提出されない。
- 「関西方面らの参拝者に(略)持ち帰る人が多い」とする資料は確認できない。
- 「長年に渡り代々同じ砂浜の砂を使ってきたと言う為、神社の古い縁起を探る上での情報の一端となっている」は意味不明。
- 「伊勢神宮に参拝する前にこの神社に先に参拝する人も多い」とされたが、後記「ニース」で示された波切全体での観光客数は年間約600万人の伊勢神宮の1割に満たない上に、波切神社に参拝する人はその一部でしかないことから明確に事実に反する。
- 「歴史セクション」は何をいいたいのか理解困難であるが、無意味な記述であるのは間違いない。
- 調査した資料
- 『大王町史』(平成6年8月1日大王町史教育委員会発行)
- 『大王町の年中行事』(大王町史教育委員会発行)
- 『波切の神祭り』(大王町史教育委員会発行)
- 『三重県神社誌』(平成5年10月10日三重県神社庁発行)
- 『日本の神々 第6巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊≪新装復刊≫』(谷川健一編、2000年7月5日白水社発行、ISBN 4-560-02216-X )
- 『三重県地名大辞典』(角川出版)
- その他数冊。
- わらじ曳き -> わらじ祭り (志摩市)
- 元々わらじ曳きがあったが、同じ行事に関する記事が提案なしで新規に作成され、わらじ曳きのソースが示された記述を議論なしで独断で大量に除去した上でリンクがこちらに変更されている。 ノート:わらじ曳きも参照のこと。
- 調査した資料
- 『大王町史』(平成6年8月1日大王町史教育委員会発行)
- 『大王町の年中行事』(大王町史教育委員会発行)
- 『波切の神祭り』(大王町史教育委員会発行)
- 大王崎
- 修正前
- この版の問題点
- 「海岸段丘で知られ」ていない。『大王町史』に海岸段丘との記述を見出せない。
- 「多くの書籍に海岸段丘の代表例として記載されてい」ない。
- 「先端には近代的な灯台の先駆けともなっ」ていない。関東大震災で鉄筋なしのコンクリート造から見直され鉄筋コンクリートで作られたのは事実であるが、現役の菅島灯台よりも新しいのは揺るぎない事実。
- 「多くの観光客が当地を訪れている」は後述するニースの記述を信用すれば実質年間20万人程度で、山奥の道の駅飯高駅の温泉施設のみの利用者と同等らしいので誇張された表現に思える。
- 「日本で数少ない」なら実数を明記すべきであるし、近隣の安乗崎灯台も参観灯台であることを示すべきではないか。
- 「映画撮影地のメッカでもあり、撮影本数は判明している物でも20本以上に及ぶと言われている」とあるが、2008年発行の『大王町再発見』では数本とされており、事実に反すると思われる。
- 「風景は別名、東洋のニースと呼ばれている」に関しては「ニース」で後述。
- 「この付近には大王崎古墳など奈良時代の遺跡がある」とあるとされたが、当時既に消滅していた。
- 「治承・寿永の乱にて源氏と平家が戦った舞台」とあるが『吾妻鏡』では湛増の部下を自称した大頭八郎と伊勢神宮の衝突で、平家は伊勢神宮防備に赴いていたに過ぎない(参考外部サイト、「治承五年正月大廿一日」参照)。
- 修正後
- 修正妨害:後述するように映画『喜びも悲しみも幾歳月』が撮影されたとする資料を探し出せなかったため除去したところ、 地元の噂話がWikipediaで認められる出典なしで書込まれ、燈光会への確認が要求された。
- 「出典が明記されていない研究記述削除」として『大王町史』などに書かれているだけでなく、Googleなどで検索すれば伊勢志摩きらり千選などを簡単に確認できる「波切騒動」の記述を「波切神社 (志摩市)」で要約欄に皮肉を書いた利用者により除去された。
- 調査した資料
- 『大王町史』
- 『大王町再発見』(志摩市観光協会大王支部内大王ガイドボランティア発行、2008年3月)
- 『鳥羽志摩新誌』(中岡志州編、1970年中岡書店発行)
- 『志摩国郷土史』(中岡登編、1975年中岡書店発行)
- 『三重県地名大辞典』(角川出版)
- 『三重県の地名』(平凡社)
- その他数冊。
- 熊野海賊菜切攻め
- 修正前
- 修正後
- 『吾妻鏡』には「水上合戦」とは書かれていない。他の資料は探しても見つけられない。
- 「水上戦が行われたところに有る岬を僧別当の鼻」とは『大王町史』には書かれていない。ただし秀森典嶺著『波切九鬼氏のなぞ』の39ページに『東鏡』に出るとして「僧の湛増」の名と「僧別当の鼻」の名があったが、元々史跡保存のための土地買上陳情書の内容であり、Wikipediaの記事の資料としては不適切に思われる。
- 「東海道を源氏方が制する事」になっていたのであれば墨俣川の戦いは起きなかったはず。
- 「この合戦により、熊野水軍が志摩半島南岸を制すること」にはならず、のちに頼朝が諌めたことにより一時的に治安が保たれたはず。
- 「熊野水軍の子孫の中から、愛洲移香斎久忠が出自」とあるが、伊勢国度会郡一之瀬(現度会町一之瀬)から同郡五ヶ所(現南伊勢町五ヶ所)へ進出したとするのが定説(甲斐武田の末裔との資料があるが仮冒のようにも思われる)ではないか?
- 「九鬼氏などもここから世に出て行くこと」とあるが、九鬼氏は熊野の九鬼発祥とするのが定説に思われる。
- 伊勢神宮
- 第三者による転載があったため削除されており管理者にしか確認できなくなっているが、内宮・外宮いずれか一方のみに参拝する「片参り」になぜか志摩の波切神社が記述されているなど、多くの不適切な記述があった。曖昧な記憶によれば、このコピーサイトに見られる「伊勢神宮内宮五十鈴橋」(宇治橋の誤り)、「内宮製材所」(宇治工作場の誤り)、「天岩戸(あまのいわと) 伊勢神宮神域内にある史跡」(名勝であっても史跡ではないし、神域にある天岩戸は高倉山古墳である)などの誤りのほとんどは利用者:Miketsukunibito氏によるものであった。
- 調査した資料
- 『伊勢神宮の衣食住』(矢野憲著、東京書籍、1992年)
- 『伊勢神宮の祖型と展開』(櫻井勝之進著、国書刊行会、1994年)
- 『伊勢神宮』(櫻井勝之進著、学生社、1998年)
- 『三重県神社誌』(平成5年10月10日発行、編集・発行:三重県神社庁)
- 『日本の神々 第6巻 伊勢・志摩・伊賀・紀伊≪新装復刊≫』(2000年7月5日発行、編者:谷川健一、発行:白水社)
- 『三重県地名大辞典』
- その他多数。
- 須賀利御太刀
- 志摩国
- 修正前
- 修正困難につき放置中
- 奈良文化財研究所木簡データベースで出土を確認できない「伊雑郷魚切里」の記述は、志摩市観光協会大王案内所以外では前出民宿と前出の鰹節販売業者のサイトにしか見られないことから、同一人物の記述と考えられる。
- 志摩市
- 除去済みではあるが、 2004年7月30日 (金) 09:30から2005年8月4日 (木) 13:26まで1年以上「志摩市では水道水の水源を志摩水道としている。この水道水は上流に人家の少ない川のダムや地下水から採っているため、鉱泉を水道水にしていると言う人もいる。事実、水源地の神路山では分水嶺を挟んで北側で採取した水が「五十鈴鉱泉」である」と書かれていた。神路ダムで淀んだ水を水源とする志摩水道は主に宮川付近の井戸を水源とする伊勢市や櫛田川から取水する松阪市の水よりもまずいのは地元では常識であるだけでなく、五十鈴鉱泉は昭和21年に改名したラムネの製造会社であり荒唐無稽な記述としかいえない。なお、近年開始された櫛田川からの給水で味が改善されたらしいのでやはり事実に反すると思われる。
- 江戸川乱歩の小説『孤島の鬼』は鳥羽から船に乗る表現はあっても、現志摩市に関係するような記述はみつけられない。
- 『吾妻鏡』は一般的に文学には含めないと思われる。
- 連続物の1話にしか使われなかったと思われる『はぐれ刑事純情派』や『ミラーマン』などをロケ地ではなく舞台とするのは日本語表現として不適切に思われるし、節名をロケ地に変更したとしても第何話か明記しないことには掲載は好ましくないと思われる。
- 桐垣展望台
- ノート:桐垣展望台参照。
- 伊雑宮
- 変更内容
- 一部神道系新興宗教などでは支持されている「現在の伊勢神宮を創建する前に一時期、神宮が置かれた」とされたが、偽書以外の古記にはなく、一般の神道では論外の説である。
- 『大王町史』1041ページ(第12編民族 第3章通過儀礼 三 産育)の「拾い親」で日本各地にありがちな「拾い親」の風習は確認できたが、志摩の子供達が「磯部の川で拾われた子」と呼ばれるとする資料は確認できない。そのような風習があるにしても伊雑宮との関連を示唆するソースがなければ無意味な記述。
- 関連項目に無関係な波切神社が含まれていた。
- 調査した資料
- 『磯部町史』(磯部町史編纂委員会、1997年)
- 『伊勢神宮の祖型と展開』
- 『伊勢神宮』
- 『日本の神々 第6巻 』
- その他数冊。
- 変更内容
- 賢島駅
- 修正前
- 修正後
- 変更内容
- 「2つ手前の鵜方浜(鵜方駅)を終点とする計画」は複数の資料に確認されたが、「大王町の波切へと路線を延ばす計画」があったとする資料は確認できず、21世紀に作られた鉄道忌避伝説に思われる。
- 「元々、特急車両の車内サービスなどでワゴンを出し入れ」とされているが、昭和45年の改修で特急列車に対応したとのことなので史実に反すると思われる。
- 調査した資料
- 『阿児町史』(阿児町史編纂委員会、2000年3月15日発行)
- 『図説伊勢・志摩の歴史 下巻』(伊勢・志摩の歴史刊行会編、1992年8月15日郷土出版社発行)
- 『大正期鉄道史資料 第二集第11巻』(野田正穂ほか編、1983年日本経済評論社発行)収録の「志州電軌鐵道計畫趣意書」には波切と逆方向の浜島方面へ延長をほのめかす記述はあったが、波切は計画賛同者の住所以外にはみつけられなかった。
- その他数冊。
- 阿胡行宮
- 修正前
- 修正後
- 修正前は阿胡行宮の説明ではなく英虞湾の観光案内になっていた。ここで誤記された「我妹子を いざ見の山の 高見かも 大和の国見えぬ 遠見かも」は前出の業者作成のサイトでの同じ誤記が確認された。誤記の結果575-77が崩れているので和歌の素養があればありえない誤記と思われる。
- 「「須賀」と呼ばれ神宮用語でもある」と意味不明な記述があったが、複数の資料に須賀利がジガバチ類の古名で、その蜂のように美しいので須賀利御太刀と名付けられたと推測する記述はあったが、蜂の意を抜いて「美しい」と誤解すると同時に「神宮用語」とする記述が志摩市観光協会大王案内所で確認された。
- 阿胡の浦
- 伊勢商人
- 松阪屋->松阪屋 (屋号)
- ノート:渡鹿野島
- 根拠を示さない議論妨害が行なわれた。なお、誤読したという岡賢著『大王崎の地名私見』という書籍は示されているものの国会図書館および三重県図書館総合目録システムでは存在が確認できない。
- 『大王町史』に『大王崎の地名私見』が記載されているのを発見したが、渡鹿野島と誤読するような内容ではなかった。
- 根拠を示さない議論妨害が行なわれた。なお、誤読したという岡賢著『大王崎の地名私見』という書籍は示されているものの国会図書館および三重県図書館総合目録システムでは存在が確認できない。
- 薬師堂->堂の山薬師堂
- 志摩温泉郷
- 伊勢うどん
- 修正前
- 修正後
- 「志摩市では田舎うどんと呼ぶ」とされたが、『大王町史』997ページにだし汁を刺身溜りとソーダ節で作り、麺は手で打つとしか記されず伊勢うどんとの関係は示されないことから、大王町での「田舎うどん」は標準語でいう「素うどん」に近いものであり、三重県の示す伊勢うどんのたれのレシピとは明確に異なるとしか考えられない。
- あのりふぐ
- 手こね寿司
食文化
[編集]- 鰹節
- 修正前
- 修正後
- 調査した他記事に比べればさほど問題ではないような気がするものの、前出の鰹節販売業者のサイトの記述に酷似。その業者のサイトでは行司が指導とあるが、志摩の初という職人が焼津などに「土佐切り」を伝えたという話はあっても、明確に波切から職人が指導に他所に赴いた記録は見出せなかった。
- 調査した資料
- 『大王町史』422ページに天保12年の『鳥羽領経緯記』で「製法粗放ナルガ故ニ其鰹節下品ナリ」、『志陽略誌』で「土佐・紀伊ノ産ヲ以テ上品ト為 志摩ノ産是次也」と書かれたとある。425ページでは明治41年の「大日本水産貝第1回鰹節即売品評会」において「東の焼津節・西の土佐節と技量を争う気概を」と進言されたと記されている。志摩での本枯節製造は明治末期に焼津節を研究してからと読める。
- 『鰹節 ものと人間の文化史』(宮下章著、法政大学出版局発行、2000年、ISBN 4-588-20971-X)
- 番付表の行司は生産をやめたか、衰退したかなどと考察されるだけで生産量・品質ともに言及されない。319ページに番付表の評価がされているが、波切節はそこでの「多数の無名産地」の1つに過ぎないのではないかと思われる。
- 『鰹節考』(山本高一著、筑摩書房、1987年ISBN 4-480-01307-5)
- 103ページに明治24年から2年間、三重県が高知県から志摩に指導者を招いたとの記述あり。志摩を代表するらしい波切節が高品質であったなら高知県から志摩への指導は仰がなかったと思われる。
- 115ページでは「第二回水産博覧会」出品時の評価で高知の山崎氏100点、鹿児島の羽生氏98.8点、静岡の森氏98.3点に続き三重県の田岡与右衛門氏が92.3点とに示されているが、この時には北牟婁郡と志摩郡からの出品がなかったとあるので南牟婁郡あるいは度会郡からの出品の評価であって、波切節の評価ではなさそうである。
- 317ページに「古代から伊勢神宮へ堅魚を貢納した慥柄浦をはじめとして」とあるが波切の名は出ず、351ページで番付表に記載された現三重県の生産地の説明があるが旧紀伊国のみで勢州・志州は説明されない。
- 328ページに「志摩の初」が鳥羽の国崎でスカウトされた山際初次郎で、御前崎から伊豆西浦まで「土佐切り」を伝え、天保3年(1832年)に死去したと記されている。
- 『鰹節製造試験臨時報告』(三重県水産試験場発行、明治45年):三重県が明治44年度に行なった試験に関する報告書で、明治42年度に静岡が日本国内1位、三重県は6位であったなどが記されていたが、熊野節の評価はあっても波切節などが高く評価されたとは書かれていない。
- ほか数冊
- 結果として、鰹節記事中の波切節の記述は不当広告のリファレンスとしてWikipediaが利用されたとしか考えられない。
- 壺焼き->壺焼き (三重県志摩地方)
- 修正前
- 「壺焼き(つぼやき)とは、三重県志摩地方の海人小屋で食されているサザエの壺焼き」で、「昭和の初め頃、鳥羽市鳥羽町に「西井きし」という女性がおり、鳥羽の駅前にて屋台で売り始めた事が土産物店での販売の最初である」とされたがソースは示されなかった。史実では大正末期にすでに二見にサザエの壷焼きを売る店が並んでいた(『目で見る伊勢・志摩の100年』82ページ、1990年郷土出版社発行、ISBN 4-87670-015-X)ので昭和初期では最初にはなれず、後段の「後に二見などでも多くの屋台が並ぶ様になった」も明確に史実に反する。
- 皿鉢料理
- 修正前
- 修正後
- 詳細はノート:皿鉢料理/過去ログ1参照。
- イセエビ
- 修正前
- 修正後
- 詳細はノート:イセエビ参照。なお、Wikipediaに書かれた元の名は志摩海老、伊勢商人が売り歩いたと同様の説明が前出の民宿に確認されるが、寛政11年(1799年)『山海名産図会』からは産地を示す意味で志摩海老と呼ばれたことは読み取れても、元の名が志摩海老だったとは読み取れない。
- 志摩海老
- シマエビ
- 日本の郷土料理->日本の郷土料理一覧へ分割
- チェリオ (飲料)
- 修正前
- たまたま近くの銭湯がチェリオを売っていただけだろう。
- 修正前
地理など
[編集]- ニース
- 修正前
- 修正後
- 修正された問題点
- 「日本を代表する映画監督の一人、小津安二郎氏は同地の風景を東洋のニースと表し」たとする資料は1959年(昭和34年)撮影の映画であるにもかかわらず、2004年7月18日付の志摩市観光協会大王案内所による観光案内以前に遡れない上に、事実であったとしてもニースの記事には不要な記述。なお、2ちゃんねる掲示板国内旅行板「伊勢志摩の事何でも聞いて~9」スレ(過去ログ)で必死で利用者:Miketsukunibito氏と前出業者が別人であると説いていたID:JI6l7HY/0 が>>511で「近鉄関係に投稿しているのもこの業者さん。これは請われて投稿したもの」と書いていた。
- 「同氏を含め数多くの映画監督が同地で映画撮影を行っている。同地でロケされた映画はこの世の花、君の名は、喜びも悲しみも幾年月、浮草など、20本以上を数える日本に於ける映画撮影地のメッカともなっている」とされたが、大王町発表では前述の通り数本であり、『喜びも悲しみも幾年月』が撮影されたという資料はみつけられない。
- 「三島由紀夫氏はこの地から見える神島を見ながら、この地の老人から海女などの話を聞き、潮騒を書きあげた」とされたが、前出『大王崎の地名私見』では昭和33年とされており、事実であるにしても昭和29年発表の作品を昭和33年に聞いた話から書き上げることは不可能であるし、三島由紀夫は水産省に勤めていた父に教えられた神島を『潮騒』の舞台に選んだことを手記などで何度も公表しているので明確に事実に反すると考えられる。
- 「フランスのニース同様、観光都市ともなっている」とされたが、 数字が示されていた版では近隣の鳥羽市・伊勢市の1/20程度に過ぎない年間「20~30万人以上と言われている」(ソース不明な推測に思われる)で、年間40万人としても観光都市と呼ぶのは誇大であるし、志摩市の一集落のみを「都市」と呼ぶのは明らかにおかしい。
- 同様の記述が志摩市観光協会大王案内所のサイトに確認できた。
- 海食洞
- 岬
- リアス式海岸
- 修正前
- 編集妨害
- 修正後
- リアス式海岸は「リア式式海岸」になってしまう誤記とされた。同様の誤った主張は志摩市観光協会大王案内所のサイトで確認できたが、「川と緑と海が出会い1つに溶け合う」との文学的ではあるものの典拠と意味が不明な説明も付属している。蛇足になるが『大王町史』5ページ・6ページに「リアス式海岸線」の記述があり、「リアス式海岸」が間違っているという主張は『大王町史』が間違っているという主張に繋がる。
運輸・交通
[編集]歴史・宗教・民俗など
[編集]- 日本の古墳一覧
- 太一
- 天白神
- ダイダラボッチ:波切の伝承のダンダラ法師がダイダラボッチ伝説の代表であるかのように編集され、多くの伝説で片目片足であるとされた。ノート:ダイダラボッチ参照。ある程度対処したところに利用者:るーぼん(会話 / 投稿記録 / 記録)氏により編集された。
- ダンダラボッチ:ダンダラボッチをダイダラボッチの代表にするのを諦めたのか、利用者:グムグム(会話 / 投稿記録 / 記録)氏が波切のダンダラ法師はダイダラボッチと別であると言い出した。ノート:ダンダラボッチ参照。抗議を受けダンダラボッチから転記としつつダンダラボッチから除去した「志摩市大王町では、片眼片足の大男とされ、同市阿児町、志摩町、鳥羽市畔蛸町では単純に大男とされている」が「何れも志摩市の大王崎の先にある大王島に住むとされ、足跡が窪地、糞が岩、運んできた土が和具大島になったと伝えられている。片眼片足の大男とされ、人を浚うなど悪さをする」と別の文章に置き換えられた上に、なきり文化研究会『波切のわらじ祭り資料集』だけであった出典が『大王町史』と『阿児町史』に置き換えられていた。しかし、『大王町史』および『阿児町史』では「何れも(略)大王島に住む(略)片眼片足の大男とされ、人を浚うなど悪さをする」は確認できなかった。
- 多比理岐志麻流美神:利用者:グムグムによりタキリビメへのリダイレクトとして 作成されたが、利用者:胡亂堂(会話 / 投稿記録 / 記録)によれば別の神だという。
- 麻績天長白羽神:利用者:グムグムにより 作成され編集が重ねられたが、 不正確な内容から脱することはなかった。
- 牛頭天王神社:天王神社と別に作成されたのでリダイレクトに変更した。
- 倭姫命
- 修正前
- 修正後
- 瀧原宮を差し置いて伊雑宮を記述。
- 皇大神宮別宮倭姫宮を差し置いて伊雑宮の近辺で祀られていると記述。
- 「美し国」を志摩まで拡大。『倭姫命世記 皇大神宮別宮倭姫宮御鎮座八十年記念 口訳デジタル化』では「これ、神風の伊勢国は、即ち常世の浪の重浪帰す国なり、傍国の可怜国(うましくに)なり、この国に居らむと欲ふ」以外には確認できず、志摩は「うまし」とはされない。観光案内では志摩も「うましくに」と宣伝されるが昭和後期に考案された三重県全域のキャッチコピーにすぎない。
- 櫛田川に倭姫命が櫛を投げ入れ氾濫を鎮めた伝説を創作。櫛を落とした地を櫛田と命名、そこに定めた櫛田社(前記外部リンク『倭姫命世記』参照)の近くだから櫛田川とするのが一般的。
- 日本各地の天白信仰を無視して天白神と同一視し志摩市を強調。なお天白信仰は伊勢国発祥が定説、現在残る信仰は長野県が中心なので同一視する説があるにしても伊勢国・長野県を差し置いて志摩を記述する理由はない。
- 志摩市の波切神社の名が出たが、志摩市大王町波切と倭姫命を結びつける記述は志摩市観光協会大王案内所のサイト以外には見出せない。
- イザナミ
- 武田信虎
- 修正前
- 「志摩国に渡り、九鬼氏と地頭の争いで地頭側に軍師として参戦」と史実のごとく書かれた。『志摩海賊記』(吉田正幸著、1978年伊勢新聞社)と『志摩国郷土史』(中岡志州編、1975年中岡書店)に確認されたが、『志摩国郷土史』では正史としては扱われていなかった。
- 九鬼嘉隆
- 前述の武田信虎軍師の記述があったほか、遺体が朝熊山に葬られたなど、史実に反すると思われる記述が見られた。
その他
[編集]- 日本三大一覧
- 編集合戦の結果2年4か月ほど保護され、不適切な記述の修正を妨げられた。
- 三大鰹節に勢州・志州とあったが、江戸時代は紀州・伊豆以下で、明治以降は焼津以下なので勢州・志州が含まれてよいはずがない。なお、鰹節が考案された江戸時代以降、尾鷲は紀州であって勢州でも志州でもなかった。
- 保護の間に「勢州・志州」の誤りがWikipediaから広まってしまったため、史実を示す必要があると「土佐」へ修正したものの、「波切神社 (志摩市)」編集時に要約欄に皮肉を書き、「大王崎」で波切の過去の不祥事を除去した利用者により典拠不明として除去され、ノートでは出典を示さず業界ではと掲載を拒否されている。
- 三大御饌地はウェブ上ではWikipediaからと思われるサイトしか検索結果に出ないので造語と思われる。
- 三大茶出荷量を認めると様々な産品が追加されてしまうので認めがたい。
- 三大リアス海岸もウェブ上ではWikipediaからと思われるサイトしか検索結果に出ないので造語と思われる。本当に「地質学者により選定された」のであれば典拠を示せたはず。
- 小さき勇者たち〜ガメラ〜
- 喜びも悲しみも幾歳月
- 修正前
- 修正後
- 大王崎との関係を裏付ける資料は調査した範囲では最古でも2004年10月の近鉄の沿線案内のアーカイブで、志摩市観光協会大王案内所提供の情報である。
- オレンジ色
- 在来・外来の違いとして理解できなかったのか橙色とは違う色とされてしまった。統合が必要であろう。
- 三河屋:削除依頼で典拠を示せばよいとの意見が多数で存続になったが1年以上何ら典拠は示されず、辞書を探しても歌舞伎の市川の屋号としかなく、創業から現在までに業種変更があり過去より割合が低下している可能性が否定できないものの、iタウンページで各都道府県を調べても埼玉県の10/15以外は最大でも1/3程度の割合でしかなかった。