Wikipedia:コメント依頼/あら金
利用者:あら金(会話 / 投稿記録 / 記録)さんの、無期限の投稿ブロックを受けた利用者に対する発言についてコメントをお願いいたします。--Pastern(会話) 2012年6月19日 (火) 10:41 (UTC)
依頼理由
[編集]あら金さんは昨年5月末、ある無期限の投稿ブロックを受けた利用者に対し、「別名で参加されればよろしかろうとは思います。CUも技術的限界により、しらを切りとおせば相手は証明は不可能ですから。」とコメントされました[1]。私はこのコメントについて、相手にブロック破りを推奨するものではないかと感じ、そのことを質問しました[2]が、直後にあら金さんはウィキブレイクに入られました[3]。
なお、あら金さんの発言の直後から、無期限の投稿ブロックを受けた利用者のブロック破りとして投稿ブロックを受けることになるアカウントが複数作成されています(こちらを参照)。
今年に入りあら金さんが活動を再開され、正式にウィキブレイクを解除された[4]ことを受け、私は今後このような発言は控えた方がいいと申し上げました[5]が、あら金さんの回答は
- ブロック破りをしたと疑われた利用者がその利用者本人であるという証明に瑕疵がある
- ブロック破りを疑われる事象の発生が、私の発言が原因であるという証明ないしは物的証拠が示されていない
というものでした[6]。
これに対し私は、あら金さんの当該発言の是非の問題は、ブロック破りをしたと疑われた利用者が事実その利用者本人であるかどうかとは関係がないと指摘し、改めて今後このような発言は控えた方がいいと申し上げました[7]。
それに対するあら金さんの回答は、
- あなたのご意見は承りましたが、同意に値する根拠が無いので特に留意することは無いです
- どのような見解を持つかというのは内心の自由に属する問題
- 「そそのかした」というのには因果関係に関する(証明は必須ではなく)因果関係を判断できる証拠が必要かと存知ます
というもので[8]、今後ブロック破りを推奨していると受け取られるような発言は控えた方がいいという私の意見には同意できないとのことでした。さらにあら金さんは、
- 「ブロック破りを教唆した」「妥当性を欠く」という印象をもたれることについては「内心の自由」ですからどうでも良いと考えております[9]
- 貴君の印象がどうでもよいのと同様に任意の第三者が所持するの印象についてもどうでも良いです[10]
と、自身の発言がどのように受け取られるかについては「どうでも良い」と発言されました。
このようにあら金さんと私との間で冒頭の発言に対する見解が大きく異なり、さらにあら金さんが自身の発言がどのように受け取られるかについて「どうでも良い」と突き放した対応をとられ、対話が成立し難い状況となったため、第三者のご意見を伺うべくコメント依頼を提出することにいたしました。コメントをお願いしたいのは、無期限の投稿ブロックを受けた利用者に対する「別名で参加されればよろしかろうとは思います。CUも技術的限界により、しらを切りとおせば相手は証明は不可能ですから。」というあら金さんの発言に関し、
- ブロック破りを推奨していると受け取られる可能性があるかどうか
- 無期限ブロックを受けた利用者に対する発言として適切なものであるかどうか
- 今後あら金さんは同様の発言を行うことを控えたほうがいいか
という点についてです。(あら金さんが「任意の第三者が所持するの印象についてもどうでも良い」[11]と発言されていることから、不安もありますが…)
参考リンク
[編集]被依頼者コメント
[編集]私個人の思想・門地・価値観についてはどのように弄っていただいてもかまいませんが、それらに関して私の見解を求められてもご回答できません。私は私自身でしかないからです。言い換えれば自己に対して質問で主観と客観が相違すればそれは「うそつき」にほかなりません。したがって見たままのとおりですので回答はいたしません。あるいは依頼者または第三者個人の思想・門地・価値観について私の見解を求められてもご回答できません。なぜなら私以外の他人の内心を代弁する権利や能力は私は持っていないからです。--あら金(会話) 2012年6月19日 (火) 11:19 (UTC)
もうひとつ不可解な点はPasternさんがどういう権利と能力をもって私と談合したがっているか不明な点です。これはPasternさんの行為に私がなにかをしたというわけではないので、二人の間の合意形成では意味がないことは明確です。つまり、ことの本質は私とコミュニティ全体との関係に属する事柄ですが、合意相手でPasternさんが相手で妥当かという点です。それも提示されていないので無権利無能力者と約束したことが一人歩きしても困ります。Pasternさんがコミュニティ全体から何かしらの約束をする代表として選出されたのか、あるいは管理者から全権委任されたとか有効な権能をもつ交渉相手なのかどうかも、議論する前提として明確に提示していただきたい点です。--あら金(会話) 2012年6月19日 (火) 13:59 (UTC)
コメント
[編集]コメント たしかに、何を考えようがそれは個人の自由ですし、何かを「考えて」いることについて他人が口出しはできません(というか、わかりようもありません)。ただ、考えを表明した以上は、その発言に対する結果と責任を負うこととなります。
あら金さんの当該発言ですが、「投稿ブロック中の利用者がブロックを回避するためにソックパペットを利用することは許されません」(改定前のWikipedia:多重アカウントより)という文書が公知されていたこのコミュニティ内では、その発言がブロック破りのきっかけになったかどうかとは無関係に、いや具体的な例と対応しない抽象的な発言であったとしても、不適当なものであると考えます。このような発言を仮に続けていった場合、たとえあら金さん自身が気にしなかったとしても、コミュニティ内で不利益を受ける方向へ向かってしまうのではないかと、私は心配しています。
あと、このコメント依頼へのあら金さんのコメントの後半部分についてですが、コメント依頼はコミュニティ(の第三者)に対して、ある事象についてのコメントを求める場です。Pasternさんは単にこの事象をコミュニティに提起しただけで、それ以上の特別な役割を持つわけではありません。「Pasternさんが(中略)有効な権能をもつ」わけでも、ましてやこのコメント依頼が「Pasternさんが(中略)私と談合」するための場だというわけでもありません。--Jkr2255 2012年6月22日 (金) 11:14 (UTC)下線部を挿入--Jkr2255 2012年6月22日 (金) 11:17 (UTC)
コメント Jkr2255様に賛同致します。不適切な発言以外の何物でもありません。--JapaneseA(会話) 2012年6月23日 (土) 15:43 (UTC)(主アカウント:利用者:Sutepen angel momo(会話 / 投稿記録 / 記録))
コメント 私はあら金さんの内心を代弁する能力はもちろんなく、推測する能力があるのかもよくわかりませんが、外からの見え方として、ご依頼の3点につきましてコメントさせていただきます。
- ブロック破りを推奨 - 言葉通りにとらえるならば、他の意図に解釈することは困難でしょう。しかしながら、あら金さんとここでの被ブロック者は長きにわたってブロック破りの利用者 (LTA) に対応していました。したがって、両者はともにブロック破りについて他者がどのように感じるのか・ウィキペディアの発展にどのように影響を及ぼすのかについてはよくわかっていたと思います。そのような事情を背景として、あえてブロックされたあとの選択肢の一つとしてブロック破りを提示するのは、黙っていてもそれを選ぶ可能性のある人に対し、先に口に出してしまうことで客観性を増し、良心の呵責に訴える、平たく言えば釘を刺すようなものであったかもしれないと思います。「よろしかろうとは思います」の「は」に、何か単純にブロック破りを推奨するのではないものがあると、私には感じられました。
- 発言として適切か - 絶望的な状況に置かれたと思われる被ブロック者に対して共感を示し、落ち込んだ心に慰めを与える意図があったと思います。被ブロック者は相当にウィキペディアに入れ込んでおり、それへの参加を絶たれることにより精神的に大きな打撃を受けたことは明らかであり、被ブロック者の多大な貢献も考えあわせると、何か肯定的な言葉をかけることも必要であったのではないかと思います。もちろん、もっと良い言い方もあったかもしれませんが、さまざまな要素を考慮した上で、こう言うのがよいとあら金さんは判断したのだと思います。
- 同様の発言は控えたほうがいいか - ここでの被ブロック者と同様の行動をとる別の利用者があらわれ、同様の経緯をたどって同じようにブロックされることがない限り、あのようなことはもう言わないと思います。そのような場合にしても、同じようなことをいうとは限らないと思います。控えたほうがいいかと言われればそうですが、被ブロック者であってこそのコメントであったのでしょうから、念を押されるまでもなく、もう繰り返すことはないと思います。誰にでもあんなことを言うわけではないでしょう。
以上です。正直に言えば、ここでの被ブロック者が、たとえば議論ではなくて記事を書く形でこっそり参加するのであれば、私は見て見ぬふりをしようと当時思っていました。--Calvero(会話) 2012年7月2日 (月) 13:57 (UTC)
コメント 無期限ブロックはいわばウィキペディアでの刑罰にあたるでしょう。その刑罰を受けた利用者にブロックをかいくぐる方法、つまりブロック破りについて教えるのは脱法行為について教えるのと同じと思います。そのため無期限ブロックを受けた利用者に対する発言として不適切でしょう。これは無期懲役を受けている人に「脱獄という選択もありますよ」と教えるのようなものです。よって今後は同じような発言は控えたほうがいいと思います。--ネイ(会話) 2012年7月24日 (火) 22:48 (UTC)
コメント 「陰茎は自分のを見るか異性に性交の際見せてもらえばいいので画像は不要」と強弁して削除により多大な不要な版の追加を招きながら、管理者Hmanが画像を掲載すると、それには異議を唱えていない。この事実をかんがみるに、百科事典としての理念ではなく、自己主張のために利用している側面があると考えられる。猛省がない限り、プロジェクトに不要な人材と見られよう。--絶壁(会話) 2012年7月28日 (土) 03:11 (UTC)
- とのコメントをしたところ、すかさず被依頼者が逆恨みして過去の編集にケチをつけてきており、「自己主張のための利用」の証左となっている。法務省のサイトには「法令検索の利用について ・・・・・ なお、これらの翻訳は公定訳ではありません。」と明記されているのを知らないはずがない。誤魔化しているのである。大多数の辞書(JSTなど)に従えばよいことを、本当はわかっているのに、意地でやっているのである。http://ejje.weblio.jp/content/%E8%96%AC%E4%BA%8B%E6%B3%95 --絶壁(会話) 2012年7月28日 (土) 11:34 (UTC)
- 各種辞書の情報を集めたものが↑で貼られたにも関わらず、都合の悪い情報から目をそらして、薬事法のノートで編集合戦を予告している。共同作業の障壁でしかない。--絶壁(会話) 2012年7月29日 (日) 01:25 (UTC)
コメント 第三者です。「利用者‐会話:あら金」のみを拝見してのコメントです。(1)被依頼者の、他編集者との従来の対話には、特に問題が見受けられない (2)依頼者が最初に問題とした発言は[12]、厳密には不適切だが、自分のノートページ内での知人への真偽不明な内容の発言で、それほど重大や悪質な発言には思えない(よくある雑談) (3)当発言の結果、ウィキペディアの運営に実害が出たかは推測で、因果関係があると断定まではできない (4)しかし、依頼者から指摘された後の被依頼者の対応([13]や、当コメント依頼での対応)は感心できない。例えば「それほど悪い発言だったとは思わなかったが、誤解を招くというなら、今後はちょっと注意するよ」程度で済むと思われる事を、延々と自説の強弁を続けているのは、ヒートアップされ続けているのか、これでは「コミュニティを疲弊させるユーザー」とみなされても仕方が無い。(5)被依頼者の方には、Wikipedia:善意にとる、Wikipedia:礼儀を忘れないなどの再読をお勧めしたい。--Rabit gti(会話) 2012年9月1日 (土) 13:48 (UTC)
コメント 篠岡(会話)と申します。まったくの第三者の観点でコメントしたいと思います。(1)ブロック破りを推奨していると受け取られる可能性があるかどうか、ですが、これは答えるならば、「人それぞれ」だと思います。「それぞれ」であるからこそ、被依頼者は少々言い過ぎたかな、という印象があります。どっちとも取れる可能性はありますからね…。(2)無期限ブロックを受けた利用者に対する発言として適切なものであるかどうか、ですが、これは無期限ブロックされた複数の人間に意図的に流布したものならば、不適切だと思います。ただ被依頼者の発言は特定の人物に向けた発言であり、今回は依頼者がそこに割って入って発言の真意を無理矢理問い質そうとしたフシもあります。今回に関しては、状況的には問題はなかったと感じています。(3)今後あら金さんは同様の発言を行うことを控えたほうがいいか、ですが、(既知の問題であるものの)今更他人にわざわざ広めなおす必要もなかろうと思えるので、あまりしないほうがよいのかな、と思います。ただこれは悪意があって、それを正すのではなく、あくまでもコミュニティとして他の方と整合性をとってうまくやっていくに当たってこうしたほうがよいのかな、というひとつの意見だと思ってください。--篠岡(会話) 2012年9月11日 (火) 19:04 (UTC)
コメント 「失言でした、ごめんなさい><」で済む話だったと思うのですが…。発端の件は「古参同士の私信」であり「身内でのキツイ冗談・軽口の一種」に過ぎない程度と思います。が、ノートでの私信とはいえ常に誰にでも開かれたコミュニティです。公然の場です。相手や第三者は(常に)存在するので、内心の自由がある=だから何をやってもいい、というふうにはいかないものです。言い方を変えると、同じ事をしても相手や第三者への対応ひとつで大問題になったり許されたり問題にすらならなかったりします。例えば一国の首相が隣の席の仲間と政敵について「あいつバカだよなー。◯ねばいいのに。」とヒソヒソ話をしたところでバレなければ何の問題もないのですが、それがうっかりマイクに拾われてテレビで流されてしまったら、釈明とお詫びをしなければならなくなります。その釈明の場で『「◯ね」って言ったことといじめ問題に因果関係があるとは証明されてないのだから俺は悪くない』とふんぞり返ったら問題は拡大するでしょう。印象大事。コミュニティですから。裁判所ではないので。論証に瑕疵が~、物的証拠が~と常に勝利を目指す必要はないのでは。「ごめんごめん、悪かった」とすることもできた(できる)はずです。--零細系統保護協会(会話) 2012年9月16日 (日) 01:33 (UTC)