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Wikipedia‐ノート:言葉を濁さない/過去ログ2

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文言の追加の提案

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文言の追加を提案します。

「・・・と考える者がいる[1]」とある場合についてですが、脚注 [1] に具体的な出典が挙げられていれば、常識的に言ってその文献の書き手が述べているか、その文献の書き手がそういう論者を紹介しているかのどちらかであって、Wikipedia:検証可能性を満たしているものと考えられます。そして、このような表現は必ずしも言葉を濁すために用いられるとは限らず、専門家名をズラズラと本文中に組み込むことで読みづらくなることを避ける目的などで、専門家が書く一般向け概説書・啓発書で用いられるほか、(専門家名に対する予備知識を持っている読者が想定されているはずの)学術論文などでさえも使われる表現です。

また、この方針文書の冒頭では「言葉を濁すとは、ここでは意見を匿名の情報源(ソース)に基づくものとすることによって、文章に偏見を持ち込んでしまうことを指しています」と定義付けられていることからいっても、個別に出典が明記されている場合ならば、「・・・と考える者がいる」「・・・という立場もある」などの表現が全て不適切とは限らないはずです。

そこで、以下の3点を提案します。

  • 冒頭の「記述内容の裏付けを欠いた曖昧な表現」を「記述内容の裏付け(出典の明記)を欠いた曖昧な表現」に微調整する。
  • 「これらについては検証可能性に基づき信頼できる情報源によって出典を明らかにし、後述の曖昧な言い方の改善例で示されているように意見の持ち主の明示や意見の具体的な事実への置き換えによって改善が図られることが望まれます」の下線部を「出典を明らかにすべきです。また、出典の示し方によっては、本文を後述の」に置き換える。
  • 「上記のように情報源を加えることにより、読者が自分自身で情報源の信頼性を検討できるようになります」を「上記のように本文中もしくは脚注に情報源を加えることにより、読者が自分自身で情報源の信頼性を検討できるようになります」に修正。

提案意図は、出典が明記されている「・・・と考える者がいる」系の表現にまで機械的に要出典系のテンプレを貼って廻っている利用者がいるためです。この文書の本来の趣旨からすれば、それはテンプレの不適切な使用と思われますが、現状の方針文書だと一律で該当表現を禁じていると読める余地があるように思えるため、無駄な編集合戦の防止のために出典明記に重点を置いた表現の明確化をした方が良いと考えました。。--Sumaru会話2015年4月24日 (金) 14:40 (UTC)

本ガイドラインの主旨とは、出典記載有無に関わらず、WP:NPOV達成のためには、意見を述べた人物をはっきり示すことが基本的に望ましいということだと思います。そして個人的にもその意見に組します。出典の明記はWP:Vによって求められますが、WP:VWP:NPOVの主旨は、補完の関係にあるとも言われるものの、基本的には独立しています。本ガイドラインの主旨は、WP:NPOVの内、特に「偏った記述は帰属化・明確化する」と密接に関係しているかと思います。Sumaruさんの提案では、「出典の示し方によっては」という一文の歯止めがあるものの、全体としては、Wikipedia:言葉を濁さない#曖昧な言い方の典型例で示されるような表現でも出典が明記されていればOKという主旨に変わっているように思いますので、反対いたします。
「・・・と考える者がいる」という表現が、学術論文や専門書も含めてWikipedia外部で一般的であることには同意いたします。ただ、匿名不特定多数からの投稿で中立的な観点に基づく記事の完成を目標に据えるWikipediaでは、少し冗長な文章になったとしても、意見を述べた人物を明記していくことを推奨すべきと思います。また、「・・・と考える者がいる[1]」という表現では、Sumaruさんも述べられているように「その文献の書き手が述べているか、その文献の書き手がそういう論者を紹介しているか」、どちらなのか読み手には分かりません。たとえ[1]が信頼できる情報源であっても、その意見を述べているものが一般人なのか専門家なのか、その主題の分野の専門家なのか他分野の専門家なのかなどを明らかにする方が読み手にとっても望ましいと思います。
一方で本ガイドラインで望ましくないとされている表現であっても、そのように書かなくてもよいとされる事例も存在します。大きなケースとしては、WP:YESPOVで述べられている「論争の余地のない主張」に該当する場合です。あるいは日本語版には取り込まれていないようですが、本ガイドランの英語版にあたるen:Wikipedia:Manual of Style/Words to watch#Unsupported attributionsに示されている内容"The examples given above are not automatically weasel words, as they may also be used in the lead section of an article or in a topic sentence of a paragraph, where the article body or the rest of the paragraph supplies attribution. Likewise, views which are properly attributed to a reliable source may use similar expressions if they accurately represent the opinions of the source. "、すなわち「具体的に意見を述べた人物を示した文章に入っていく前の導入としての表現」や「その意見を信頼できる出典に適切に帰することができて、なおかつ、その出典がその意見を的確に代表しているといえる場合」などでしょうか。本ガイドラインで示されている表現を杓子定規に機械的に問題とする方がいるならば、上記のような場合もあるので示されている表現が一律に問題とされるわけではないことを本ガイドラインに追加する方が有意義と考えます。--Yapparina会話2015年4月25日 (土) 01:44 (UTC)
コメントありがとうございます。追加のコメント(最速でも明晩になると思いますが)の前に1点確認しておきたいのですが、英語版の「その意見を信頼できる出典に適切に帰することができて、なおかつ、その出典がその意見を的確に代表しているといえる場合」というのは、具体的にどういう記述であると想定なさっていますか。私には、本文で主張者を述べずに個別出典をつけている場合との違いがいまいち分からない(というか、個別出典をつけているだけでは具体的な主張者が断定できない、というところまでは分かりますが、英語版の「その出典がその意見を的確に代表しているといえる場合」をどうやって判断するのか、具体例が思い浮かばない)のですが。
そもそも、後段の訳のうち、if they accurately represent the opinions of the source.は直訳すれば「もしもそれらが的確にその出典の見解を代表(表現)しているのなら」ではないでしょうか。出典「が」意見を代表しているかどうかを問うているのではないようにも思えるのですが。--Sumaru会話2015年4月25日 (土) 13:40 (UTC)
失礼しました。ご指摘のとおり誤読しておりました。"views which are properly attributed to a reliable source may use similar expressions if they accurately represent the opinions of the source."を訳すと、こんな感じでしょうか。「その表現(view)の根拠の所在を的確に信頼できる情報源に帰することができていて、なおかつその出典の意見を正確に表そうとするならば、言葉を濁した表現(Weasel wordに似たような表現)は使用されてもよい。」(分かり易くするため語を補いつつ意訳を少ししているのでご注意ください。)
具体例ですが、誤読していたときの条件文の例としては、「○○○という指摘・批判もある[1]」というような記述に対して、出典[1]が意見「○○○」の代表例と判断できるような場合(第一人者によるものなど)を考えていました。
正確に理解した(つもりの)条件文の例としては、「○○○と信じられている[2]」というような記述に対して、出典[2]の中でも同じような表現で「○○○と考えられている」と記述されている場合は、わざわざ『出典[2]著者は「○○○と考えられている」と述べている』というような表現にしなくてもよい、という風に解釈しています。「大言壮語をしない」に対しても同じような議論があったと思いますが(Wikipedia‐ノート:大言壮語をしない#出典との兼ね合い)、このような、出典の表現自体がそもそも「……で知られている」や「多くの専門家は……と論じている」という表現であるならば、ガイドラインで避けるべきと例示されている表現であっても問題ないとする補足事項のようなものと考えています。--Yapparina会話2015年4月25日 (土) 15:44 (UTC)


追加コメントありがとうございました。それを踏まえて、当初の提案理由の修正をした上でいくつか説明します。まず、
>「出典の示し方によっては」という一文の歯止めがあるものの、全体としては、Wikipedia:言葉を濁さない#曖昧な言い方の典型例で示されるような表現でも出典が明記されていればOKという主旨
についてですが、私は当初そのつもりで提案しておりました。誤解のないように最初に念押ししておきますが、これは「推奨」ではなく「一応の許容」の確認の意図でした。その意味で出典提示のハードルを徒に下げようという提案ではありません。
もともと、この方針文書の冒頭では「言葉を濁すとは、ここでは意見を匿名の情報源(ソース)に基づくものとすることによって、文章に偏見を持ち込んでしまうことを指しています」とあるだけで、これは信頼できる情報源によって検証可能性が担保されていれば、匿名性からは解放される(すなわち、どの情報源に当たればそのような見解を見出せるのかが明らかになる)からです。言い換えると、「本ガイドラインの主旨とは、出典記載有無に関わらず、WP:NPOV達成のためには、意見を述べた人物をはっきり示すことが基本的に望ましいということ」というYapparinaさんの解釈が、冒頭の定義から直接導けるのだろうかという点に賛成しかねるものがありまして、私は自分の提案が本文書の趣旨を変えるものとは認識しておりません。
その情報源の著者が言ったのか、著者が異論として取り上げたのかの判断はつかない場合がありますが、後者であっても第三者的言及のある意見(つまり専門家が採り上げるに値する見解として紹介した意見)として、取り上げること自体は問題ないと考えられ、完全な「匿名」の場合とは事情が異なります。もちろん、情報源の中で「まあ、中にはこんな箸にも棒にもかからない愚論を展開している奴もいるんだけどね、ハハハ」という取り上げられ方のトンデモ説を、それを出典としてさも有力な異説であるかのように取り上げれば問題ですが、それはそもそも言葉を濁すか、濁さないかという以前の問題であり、どのような表現を使っている文章でも問題になる(=つまり、そのような編集は、この文書で「出典さえあれば最低限OK」と示されていても、どのみち他の文書との関連によって拒絶される)と考えました。
また、Yapparinaさんからご提示いただいた英語版の事例ですと、「……で知られている」が本当に出典中の表現なのかどうか(=つまり加筆者が出典の著者が言っていることだけから飛躍しているかもしれない)は、やはり出典に直接当たらねば確認できないのですから、外形的には「・・・という者もある[1]」とあまり大差ないように感じました。この点がどう違うのかは、今もよく分からない点です。
それと逐一発言者を本文中に明記していくと「少し冗長」どころではなくなる主題もあり、最近私が加筆したテサロニケの信徒への手紙二などはその例と考えます。私はその記事では、冒頭に近い「著者」節以外で「真筆と見る論者の中には・・・とする者もいる[1]」式の記述を意図的に多用しています。この主題は真正書簡説と擬似書簡説がほぼ真っ二つに200年以上にわたって議論してきた背景があり、決着するどころか、どちらが多数派(有力)なのかさえ、依拠する文献によって言うことが180度違い(「著者」節に引用してあります)、その中の論者たちの立場も様々で、それぞれの立場の代表者を挙げるのもまず不可能です。この記事において、論点ごとに(とりあえず今使っているだけでも)10人以上(近いうちにさらに加筆予定あり)の人名を挙げていったところで読者はかえって混乱するだけではないでしょうか。「田川は・・・、松永は・・・、山内は・・・」とやるよりも、「擬似書簡側には・・・と見る者もいる[1] 田川、2015、p.**」とやれば、詳しくない読者にもどちらサイドの見解なのか一目瞭然ですし、記事冒頭で真筆側が誰で擬筆側が誰と(全部ではありませんが)挙げてあるので、検証しようという人も、出典は擬筆側の著書なのだから、著者自身かそれと近い立場の見解だろうと見当はつきます。こうした例の場合、いちいち発言者をその都度特定するまでもないと考えています。
もちろん、これはやや特殊かもしれませんが、しかし、白黒付けやすい主題とはいえない場合、本文中での発言の帰属を徹底することが同様の可読性を著しく下げるリスクを背負い込むことは考えられます。
という辺りが、当初の提案時点の認識でしたが、反面、現状の文面を逆手にとって暴走する人がいるのと同様、改訂された文面を出典提示のハードル下げと曲解する人が出るリスクは確かにあると思います。
その意味で、もしも上の提案をそのまま堅持するとしたら、例示にも手を入れつつ、注意書きも加えるとか、もう少し大掛かりな改訂にしないといけないのだろうか、とも考えています(少なくとも現状の「著名な音楽学者」云々の例は、どういう出典を添えるべきなのかまで案内しないと、大言壮語を煽っているようにも読めます)。
もちろん、ケースバイケースである、ということがはっきりと示されれば、Yapparinaさんがおっしゃるように基本の文面はこのままで注意書きだけ加える、という方向もアリかなと考えているのですが、この辺りはまだ十分に意見が固まっていません。--Sumaru会話2015年4月26日 (日) 14:35 (UTC)
ご返答ありがとうございます。発言を一部引用しながら返答してみたいと思います。
> もともと、この方針文書の冒頭では「言葉を濁すとは、ここでは意見を匿名の情報源(ソース)に基づくものとすることによって、文章に偏見を持ち込んでしまうことを指しています」とあるだけで、これは信頼できる情報源によって検証可能性が担保されていれば、匿名性からは解放される(すなわち、どの情報源に当たればそのような見解を見出せるのかが明らかになる)からです。言い換えると、「本ガイドラインの主旨とは、出典記載有無に関わらず、WP:NPOV達成のためには、意見を述べた人物をはっきり示すことが基本的に望ましいということ」というYapparinaさんの解釈が、冒頭の定義から直接導けるのだろうかという点に賛成しかねるものがありまして、私は自分の提案が本文書の趣旨を変えるものとは認識しておりません。
現在のガイドラインの文章がはっきり・明確になっていない点は同意します。本ガイドラインの内容からそのような主旨であると考え、また、WP:NPOVWP:Vでのそれぞれの要求範囲を考えて本ガイドラインはそのような立ち位置にあるものと考えました。Wikipedia:検証可能性#中立性にも『複数の出典間で見解が異なる場合、テキスト中で主張者とその言説を表記し、「ジョーン・スミスはXを主張し、一方でポール・ジョーンズはYであるとしている」などと記してください。』とあります。出典の有無とは独立に本文中での主張者明記が基本的には望ましいというのが、現行ガイドラインや方針類の解釈としては妥当だと考えています。ただ、私の解釈が正しいかどうかいずれにしても、本ガイドラインの要求範囲をもっと明確に変更されるべきであり、その認識においてはSumaruさんと同じだと思っています。
> また、Yapparinaさんからご提示いただいた英語版の事例ですと、「……で知られている」が本当に出典中の表現なのかどうか(=つまり加筆者が出典の著者が言っていることだけから飛躍しているかもしれない)は、やはり出典に直接当たらねば確認できないのですから、外形的には「・・・という者もある[1]」とあまり大差ないように感じました。この点がどう違うのかは、今もよく分からない点です。
英語版ガイドラインの適否はちょっと置いておかせていただいて、このガイドラインで達成したいことを考えると、既に述べたとおり結局はWP:NPOVだと考えています。WP:NPOVの達成は、WP:Vの達成に比べても極めて難度が高いものと思っています。「中立的な観点」を高いレベルで達成するには、その主題に関する外部情報源ほとんど全部を確認し、理解して、意見の勢力関係を適切に把握した上で、表現・文量などを決めていく必要があります。なので、このガイドラインのように具体的表現をずらずら並べて、これは良い、あれは駄目というように一律な規制はできないと個人的にも思います。しかしある程度の例も必要と思います。もし一律な基準というものを考えるならば、第一は、その記述はWP:YESPOVにおける「論争の余地のない主張」に該当するのか、WP:SUBSTANTIATEにおける「偏った記述」に該当するのか、という基準だと思います。この点は本ガイドライン中でもっと触れるべきかと思います。
所望されている答えとは違うかもしれませんが、例示されている2つの表現の適否を考えてみます。まず、「……で知られている」は全体的なコンセンサスを表す表現だと思います。出典Aの中で「……で知られている」と表現されていて、なおかつ、その意見が正しい、すなわち出典Aの独自意見というようなものでなければ記事中で「……で知られている出典A」としてよいと思います。「論争の余地のない主張」に該当する場合です。逆に、出典Aの中で「……で知られている」と表現されていても、その意見が出典Aの独自意見であれば記事中で「出典Aによると……で知られている[出典A]」とすべきと思います。これは「偏った記述」に相当する場合です。
一方の「……という者もある」という表現は、全体的なコンセンサスというよりも、個別の意見の存在を示す表現と思われます。ですので、「論争の余地のない主張」/「偏った記述」どちらに相当するか言えば「偏った記述」に見なされる(見なされてしまう)と思います。よって、出典Aの中で「……という者もある」と表現されていも、記事中では「出典Aによると、……という者もある[出典A]」としておくのが無難だと思います。
> それと逐一発言者を本文中に明記していくと「少し冗長」どころではなくなる主題もあり、最近私が加筆したテサロニケの信徒への手紙二などはその例と考えます。
ご例示いただいた記事に関していえば、「著者」節以降で、「擬似書簡側には・・・と見る者もいる」、「真正書簡側には・・・と見る者もいる」という形式で書かれていることは、本ガイドラインの主旨と照らし合わせても問題とは感じませんでした。そのように感じた理由は、Sumaruさんがおっしゃっているように、「著者」節で擬似書簡側が誰で、真正書簡側が誰なのか前置きしているからだと思います。これにより出典の著者がその論者であることが推定できます。このような工夫は十分許容範囲内だと思います。
私が出典掲示をもって意見の出所が明確になったとは言えないと考える理由は、繰り返しになりますが、一般的な出典情報の示し方である<「・・・と考える者がいる[1]。」脚注 ^ ○○、2015、p.**>では、「文献[1]の書き手が述べているか、文献[1]の書き手がそういう論者を紹介しているか」、どちらなのか読み手には分からないという点に集約されます。どちらなのかは読み手が自分でその文献にあたって判断してくれ、というのは悪手かと思います。逆に言えば、脚注出典のみでも上手く論者が特定できるならば良いと思います。今のところスマートな書き方は思いつきませんが、例えば次のような書き方なら冗長さを避ける工夫の1つとして許容されると思います。<「・・・と考える者がいる[1]。」脚注 ^ ○○による主張(○○、2015、p.**)>
> その意味で、もしも上の提案をそのまま堅持するとしたら、例示にも手を入れつつ、注意書きも加えるとか、もう少し大掛かりな改訂にしないといけないのだろうか、とも考えています(少なくとも現状の「著名な音楽学者」云々の例は、どういう出典を添えるべきなのかまで案内しないと、大言壮語を煽っているようにも読めます)。
> もちろん、ケースバイケースである、ということがはっきりと示されれば、Yapparinaさんがおっしゃるように基本の文面はこのままで注意書きだけ加える、という方向もアリかなと考えているのですが、この辺りはまだ十分に意見が固まっていません。
私が、意見の出所を文章中で明記を基本推奨としつつ、ケースバイケースである旨を補足する格好が望ましいと思うのは、多くの記事では、テサロニケの信徒への手紙二のような記事全体を使いながら出所の明記と可読性の配慮を両立するというような、上手なやり方ができると思えないからです。Wikipedia上で実際になされる編集は、追加したい内容の一文あるいは数行を記事のどこかに追記するだけという場合が多いと思います。このような実情からも、「論争の余地のない主張」に該当すると言えない場合は、まずは「意見の出所を文章中で明記」を基本とすべきではないかと思います。--Yapparina会話2015年5月1日 (金) 14:19 (UTC)
まず誤解のないように、基本線としてはYapparinaさんの主張は納得のいくものであるということと、スピード違反の論理を振りかざすつもりはないということを申し上げておきます。その上で、ですが。
『「……で知られている」が・・・、外形的には「・・・という者もある[1]」とあまり大差ないように感じました』という以前のコメントは、「外形的には」がポイントのつもりでした。書く側の問題ではなく、第三者が見た場合にそれが問題のある出典提示かそうでないかは、どちらの記述についても判断がつかないのではないか、ということです。
同様に、Wikipedia:検証可能性#中立性は語尾に左右されない問題であると認識しています。牧会書簡を例に挙げます(近日中に大幅改稿予定なので、現時点の最新版にリンクしておきます)。これは単一の出典に依拠しているという点を除くと一見問題のない記事に見えます(記事での断定、推定の区別は出典の通り忠実であることを確認済み)。しかし、根本的に問題のある記事です。生前に「パウロが記した」という冒頭の断定が特定の教派の立場にすぎないからです(要するに出典の選定自体にバイアスがかかっています)。こうしたものは言葉尻に関係なく、非中立的な記述といえます。
つまり、より上位の方針で違反が明記されているものについて、個別にあまり踏み込んだ縛りをかけることにいささか疑問を抱いています。それはYapparinaさんがおっしゃるように、「書く人が書くときに心がけるべきこと」という点ではまったく正しいです。しかし、現状のこのガイドラインは、誰に対して直すように要請しているのかが曖昧で、現状のガイドラインに補足するにしても、どういう方向性でいくべきなのかがどうにも定めづらいと感じます。「書くときに心がけるべき」と「第三者が見つけたら直すべき」は方向性が似て異なるものであり、後者は出典がない表現についてはかなり議論の余地なく適用が可能かもしれませんが、出典の付け方にまで踏み込んで直すべき事例を挙げうるものでしょうか(というか、挙げようと思えば挙げられるのは分かるのですが、言葉尻に限らない問題点をこのガイドラインで逐一事例まで挙げるのが妥当でしょうか)。--Sumaru会話2015年5月3日 (日) 02:57 (UTC)
私も、最初のコメントでは現状内容のまま補足を少し足すだけで良いというような代案を出しましたが、Sumaruさんと議論をする過程で色々調べて考える内に本ガイドラインは多くの問題があるという認識に至っています。私も言葉尻だけの問題ではないので判断基準はWP:NPOV一本で十分だと思ってます。ただ、このガイドラインは、百科事典的にいかにも権威あるように書こうしてなんとなく書いてしまいがちな「~~で知られている」というような表現を根拠なく書くのは良くないということ、それに対する具体的な改善例を示しているという点で有用だとも思っています。「本ガイドラインの主旨とは、出典記載有無に関わらず、WP:NPOV達成のためには、意見を述べた人物をはっきり示すことが基本的に望ましいということ」という考えは変わってないですが、少し補足するようなものではなく全体にわたっての大きな変更が必要だと考えています。今の認識では、少なくとも以下のような点が変更される必要があると考えています。
  1. 文中内での意見の出所明記ではない所謂「出典」による意見の出所明記と、本ガイドラインが求める文中内での意見の出所明記との関係を明記する。(私の意見では上記のとおりです。)
  2. 本ガイドラインで例示されている表現が一律で禁止・排除されるわけでないことははっきり明記する。上位方針のWP:NPOVが達成されることが第一であることを明記する。
  3. 「この文書の要旨」での単に断定形の表現に置き換えればいい思わせるような文章は修正する。本文中にそのようにしていいのは「論争の余地のない主張」といえるようなものだけであることを明記する。
  4. 逆に「論争の余地のない主張」といえないようなもののみが本ガイドラインの対象範囲であることを明記する。
  5. 本ガイドラインで示されているような「言葉を濁した表現」であっても、出典を尊重してそのように書くの許容されるとする。ただしその出典自体が偏った意見である場合は、やはり文中内での意見の出所明記を行い、その内容を個別に帰属させることとする。
  6. 本ガイドラインに例示されているような表現になっているが出典が備わっているものに対しては、#Template:言葉を濁さないなどを使って改善を求める場合は、上記5もあるので、出典の内容を確認している上で改善を求めるか、自分がその主題についてよく知っており、出典が備わっているがそれでもなお問題があると言える場合のみ改善を求める(テンプレを貼る)ように注意する。
  7. それ以外のケースでTemplate:言葉を濁さないなどを使って改善を求める場合も、言葉尻だけを捉えて改善を求めない(テンプレを貼らない)ように注意する。上記2が大事であることを繰り返す。
あと、改善例の「著名な音楽学者」あたりも要改善でしょうか。もし、方向として賛同いただければ具体的な文案を作ってみたいと思います。あと、そろそろこの議論の告知を出そうかと思います。議論が行き詰ったとは感じていませんが、他の方からの意見も伺いたいので。--Yapparina会話2015年5月4日 (月) 12:45 (UTC)
方向性についてはまったく異論ありません。では文案につきましては、せっかくの連休中に申し訳ありませんが、お願いいたします。コメント依頼への掲出も妥当なものと思います(当初の微調整で済むという見通しから乖離しはじめた時点で、遅かれ早かれ告知は必要と感じていました)。--Sumaru会話2015年5月4日 (月) 16:02 (UTC)

修正案

[編集]

修正案を作成しましたので上程いたします。案の定、全体的に修正を加えることになりました。自分としてはそれなりに妥当なものができたかと思いますが、ご意見お願いします。--Yapparina会話2015年5月5日 (火) 19:57 (UTC)

コメントを受けて修正。変更点は差分:prevを参照ください。--Yapparina会話2015年5月9日 (土) 02:16 (UTC)
議論を反映して再修正。変更点は(差分:prevを参照ください。--Yapparina会話2015年5月11日 (月) 15:15 (UTC)
現行 改訂案
言葉を濁すとは、ここでは意見を匿名の情報源(ソース)に基づくものとすることによって、文章に偏見を持ち込んでしまうことを指しています。言葉を濁すことにより、意見の出所が信頼できるものかどうかを読者の判断に委ねることなく、文章を権威づけることができます。もしもある文章が言葉を濁さずには成り立たないのであれば、その文章は中立的な観点に欠けているおそれがあります。このような場合には、意見の出所を見つけるか、またはその意見を削除するべきです。

記述内容の裏付けを欠いた曖昧な表現は、実際には中立的な観点をもたらしません。それは単に噂を広めるだけか、個人的な見解をほのめかすだけです。ある意見を匿名の情報源によるものとするよりも、その意見を述べている主体の名前や姿をはっきりさせることが望ましいやり方です。また、以上のような中立的な観点とは別に、言葉を濁すことによって、記述内容が希薄なものとなったり、記述内容が複雑で難解なものとなって読者に混乱を招いたりするおそれもありますので注意が必要です。

言葉を濁すとは、意見や主張を記事中に書くときにその意見の論者を明確にせずに一般的なことであるかのように表現にすることを、ここでは指します。論争の余地がない主張や意見であれば、そのような表現で記述して構いません。しかし、記述する意見が主流とは言えない偏った意見に該当すると思ったら、主張する論者(意見の持ち主)を文中に明記した上でその意見を書いてください。

言葉を濁す表現により、意見の論者を不透明にさせて、その意見が一般的であるかのように権威づけてしまうおそれがあります。中立的な観点に沿って記事を作っていくために、意見の論者を示さないで良いかは上記の基準に沿って慎重に判断してください。明確に論争の余地がない主張や意見であると根拠を持って示せないのであれば、その意見を述べている主体の名前や姿をはっきりさせることが望ましいやり方です。また、中立的な観点とは別に、言葉を濁した文章では、記述内容が希薄なものとなって読者にとって有用な文章とならなかったり、記述内容が複雑で難解なものとなって読者が混乱するような文章になるおそれもあります。

以上のような点とは別に、検証可能性の方針に従って、その文章の根拠を示す信頼できる情報源による出典を明記する必要もあります。意見の論者を文中で明記するかどうかの判断とは別に、その文章の根拠としての出典は示してください。

== 曖昧な言い方の典型例 ==

中立的な観点から記述内容の裏付けが曖昧である場合に問題となる表現には次のようなものがあります。これらについては検証可能性に基づき信頼できる情報源によって出典を明らかにし、後述の曖昧な言い方の改善例で示されているように意見の持ち主の明示や意見の具体的な事実への置き換えによって改善が図られることが望まれます。

  • 「……と言っている」「……と言われている」「……であると言われている」「……と言う人もいる」「……との言い方もされている」
  • 「……は……であると広く考えられている」「……は……であると広く見なされている」
  • 「……と信じられている」「……であると信じている人もいる」
  • 「……という声・話もある」
  • 「……という可能性もある」
  • 「……という指摘・批判もある」
  • 「……と見る向きもある」
  • 「……で知られている」
  • 「……と思われる」
  • 「……ようである」
  • 「なぜか……である」
  • 「言わずと知れた……である」
  • 「(主流の・多くの)専門家・評論家・学者・科学者・研究者・歴史家は……と論じている」
  • 「伝えられるところでは……」
  • 「……という印象を持たれてしまった」
== 言葉を濁した表現の典型例 ==

中立的な観点から問題となりえる言葉を濁した表現には次のような例があります。後述の曖昧な言い方の改善例で示されているように、意見の持ち主の明示や意見の具体的な事実への置き換えによって改善が図られることが望まれます。ただし、これらの表現が一律で禁止されたり、排除されたりするわけではありませんので注意してください。冒頭に述べたように、その意見の位置づけを考慮して妥当な表現を決めてください。

  • 「……と言っている」「……と言われている」「……であると言われている」「……と言う人もいる」「……との言い方もされている」
  • 「……は……であると広く考えられている」「……は……であると広く見なされている」
  • 「……と信じられている」「……であると信じている人もいる」
  • 「……という声・話もある」
  • 「……という可能性もある」
  • 「……という指摘・批判もある」
  • 「……と見る向きもある」
  • 「……で知られている」
  • 「……と思われる」
  • 「……ようである」
  • 「なぜか……である」
  • 「言わずと知れた……である」
  • 「(主流の・多くの)専門家・評論家・学者・科学者・研究者・歴史家は……と論じている」
  • 「伝えられるところでは……」
  • 「……という印象を持たれてしまった」
== 曖昧な言い方の改善例 == == 言葉を濁した表現の改善例 ==
=== 意見の持ち主を明示する ===

以下の一文は、とある曖昧な書き方の例です。

偽作とされるモーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」には、真作であると強く主張する声もある。

次の一文は、曖昧さという点では同じです。

モーツァルトの「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」の偽作説に懐疑的な人々は、この曲がモーツァルトの真作であるとの説を支持している。

こういうことを言う人は誰もが、「その定義から」もともと懐疑的なのです。これは、循環論法です。著者は、その意見の情報源を探し以下のように加えるべきです。

たとえば、著名な音楽学者のフリードリヒ・ブルーメは、「作品のどの部分にも明瞭にモーツァルトの手が認められる」とし、偽作説を「早まった疑問だ」と牽制している。

上記のように情報源を加えることにより、読者が自分自身で情報源の信頼性を検討できるようになります。

=== 意見の持ち主を明示する ===

以下の一文は、とある曖昧な書き方です。

新約聖書』のうち、パウロの偽名書簡とされるテトス書には、パウロ本人の作品であると強く主張する声もある。

次の一文は、曖昧さという点では同じです。

『新約聖書』のテトス書が偽名書簡であることに懐疑的な人々は、パウロ自身の書簡であるという説を支持している。

こういうことを言う人は誰もが、「その定義から」もともと懐疑的なのであり、意見の論者を示していることになりません。このような観点からの意見を記事に書き加えたい人は、その意見の情報源を探し以下のように加えるべきです。

たとえば、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』では、偽名書簡とする根拠の数々はパウロ自身が書いたことを決定的に覆せるものではないとして、パウロ本人の作品とする立場がとられている[1]

出典

  1. ^ 泉田昭ほか編『新聖書辞典いのちのことば社、1985年、pp.856-858。宇田進ほか編『新実用聖書注解いのちのことば社、2008年、pp.1715&1740。

上記のように意見の持ち主を明示することにより、読者が自分自身で意見の妥当性を検討できるようになります。

=== 意見を具体的な事実に置き換える ===

また、大言壮語を含む文章は、しばしば曖昧な言い方を使って書き換えられます。例えば、

ニューヨーク・ヤンキースは、大リーグを代表する強豪チームである。

という文章は、

ニューヨーク・ヤンキースは、大リーグを代表する強豪チームとされている。

という文章で置き換えられがちです。確かに、ヤンキースのファンやヤンキースに対して高い評価を下す野球専門家が多いのは事実でしょう。しかし、そういった人々の証言を集めずとも、大言壮語を取り除き、次のように記述すれば充分なのです。

ニューヨーク・ヤンキースは、ワールドシリーズを27回制覇している。これはヤンキースに次ぐセントルイス・カージナルスの11回を大きく引き離すものである。

具体的で事実に基づく情報を記述することによって、個人的な意見を述べずに済むことになります。ただし、明確な意見の表明を含まない記事であっても依然として偏ったものでありうること、例えばどの情報を示すのかという選択自体において偏っているかもしれないことにも注意してください。

=== 意見を具体的な事実に置き換える ===

また、大言壮語を含む文章は、しばしば曖昧な言い方を使って書き換えられます。例えば、

ニューヨーク・ヤンキースは、大リーグを代表する強豪チームである。

ということを示そうとするとき、

ニューヨーク・ヤンキースは、大リーグを代表する強豪チームとされている。

という文章で表現されがちです。確かに、ヤンキースのファンやヤンキースに対して高い評価を下す野球専門家が多いのは事実でしょう。しかし、そういった人々の証言を集めずとも、大言壮語を取り除き、次のように記述すれば充分なのです。

ニューヨーク・ヤンキースは全チーム中1位のワールドシリーズ27回制覇を成し遂げている[1]。これは全チーム中2位のセントルイス・カージナルスの制覇回数を16回上回るものである[1]

出典

  1. ^ a b World Series History: Championships by Club”. MLB.com. 2015年5月10日閲覧。

具体的で事実に基づく情報を記述することによって、個人的な意見を述べずに済むことになります。ただし、意見ではなく事実を書き示す場合でも偏ったものになり得ること、例えばどの情報を示すのかという選択自体が偏っているかもしれないことにも注意してください。

=== 曖昧な表現を支持する出典を添える ===

文章を書くときの論拠とする出典の表現自体が曖昧な書き方になっている場合は、この出典の内容との整合性を優先し、言葉を濁した表現の典型例のような表現になっても許容されます。その場合は、その出典を示した上で例えば以下のように書いてください。

……は……であると広く見なされている[1]

出典

  1. ^ 著者A 『曖昧な表現の避け方とは』 ○○出版、2015年、200頁

しかし、この出典の内容自体が主流とは言えない偏った意見に該当すると思ったら、やはり次のように文中にその意見の持ち主を明示してください。

著者Aの意見によれば、……は……であると広く見なされている[1]

出典

  1. ^ 著者A 『曖昧な表現の避け方とは』 ○○出版、2015年、200頁
== 改善を求める場合 ==

言葉を濁した表現になっている記述あった場合、発見した人がそれを改善例のように書き直すのが理想的です。しかしそれが難しい場合は、言葉を濁した表現の修正を求めるテンプレート類(Template:言葉を濁さない[誰?][誰によって?]など)で改善を求めることもできます。ただし、表面上曖昧な言い方の典型例のようになっているというだけで機械的にテンプレート類を貼り付けていくような編集はしないでください。その意見の位置づけを考慮して、表現の妥当性は決まります。記事全体にわたって中立的な観点に沿った内容を実現することが大事です。

特に、曖昧な表現だが出典が備わっているものに対しては、曖昧な表現を支持する出典を添える改善例のように出典との整合性を優先してそのような表現にしてある場合もあります。このような文章に修正を求める場合は、出典の内容を確認して妥当性を検討した上で改善を求めるか、自分がその主題についてよく知っており、出典が備わっているがそれでもなお問題があると言える場合のみ改善を求めるようにしてください。

コメント まずはせっかくの連休中にお疲れ様でした。おおむね賛成ではありますが、細かい点で3点だけ。
  • 冒頭の「主張する論者を文中に明記した上でその意見を書いてください」の「文中」を削りませんか。出典がついていればOKという主張ではありません。以前、Yapparinaさん自身も一案として挙げておられたように、脚注中で主張者をはっきりさせる記述もありうるからです。ですから、どこに明記するかまであえて冒頭で限定しなくても良いのでは、と思います。
  • 「著名な音楽学者」の「著名」は削った方が良いと思います。この形容詞をつけるのであれば、求められる出典は音楽学者自身の著書ではなく、その人物を著名と位置づけた上で意見を引いている別の専門家の文献でなければならないはずです(訳者あとがきで著名と紹介されているとか、音楽学者自身の著書でも許容されるケースもあるでしょうけれど)。そうしたこまごまとした点の説明を省くのであれば、ミスリードを避けるために、「著名」はないほうがいいと思います(『修正前』の方では「著名」が削られているので、この辺、何かのミスかもしれませんが)。
  • 良い対案が浮かばないのですが、「しかし、この出典の内容が主流とは言えない偏った意見に該当する可能性があれば、やはり次のように文中にその意見の持ち主を明示してください」は、ちょっと表現が強い気がしなくもないです。以前おっしゃられていたように、ウィキペディアはそれこそ1行、2行程度の加筆も多いです。聖書学のように先行研究が膨大で立場が多彩な場合、(私のような非クリスチャンは勿論、たぶんクリスチャンでさえ)ちょっと調べた程度ではどの見解がその立場で一般的なもので、どの見解がその立場の中でも特定の論者が主張しているだけなのかの識別は非常に困難です。しかし、1、2行程度の加筆の背景としてそれをクリアするだけの膨大な調査を要求するのは酷ですし、現実的ではありません。こういう場合に安全策をとって逐一意見者を明記すると、かえってWP:YESPOVの「論争の余地のない主張を単なる意見として記さない」に抵触するリスクが出てしまうのではないでしょうか。じゃあどうするんだ、と訊かれても対案がないので困ってしまうのですが。
以上です。--Sumaru会話2015年5月6日 (水) 03:34 (UTC)
コメントありがとうございます。改定案(差分:prev)を修正しました。1点目。「言葉を濁す表現」=「文中に論者の明記が無いもの」と定義してしまうのは、たしかに強過ぎる気がします。この冒頭から外しました。2点目。「著名な音楽学者」についてはご推測のとおり書き損じです。改訂案の方から「著名な」を外しました。3点目。「該当する可能性があれば」を「該当すると思ったら」に変更しました。表現の落としどころを悩みましたが、「思ったら」というマイルドな表現にして編集する人の主体に任せようかと思います。この表現であれば、いわゆる悪魔の証明的な「可能性のないこと」を証明することを要求されているような印象にはならないかと思います。もっと良い表現がありましたらご提案ください。--Yapparina会話) 2015年5月9日 (土) 02:12 (UTC) 差分追記--Yapparina会話2015年5月9日 (土) 02:16 (UTC)
賛成 お疲れ様でした。骨子に対する異論は全くありません(ただし、ブルーメ氏の例示の部分は、下の議論によって変更されることもありうると思いますが)。賛成票をどこにぶら下げたらと少し迷いましたが、とりあえずこの位置におきます。--Sumaru会話2015年5月9日 (土) 13:40 (UTC)
コメント モーツァルトの例は私が引っ張ってきたので、一応コメントしておきます。
ブルーメが「著名」であることは、「論争の余地のない主張」だと思います(手元にある、音楽之友社、平凡社の音楽辞典に項目がある)。そして、本当に問題なのは、「誰が言ったか」ではなく、「どういう立場の人が、どのような趣旨で発言したか」だと思うので、その意味で、発言者について読み手になんらかのヒントを提示するのは必要かと考えます。つまり、一介の学者の発言ではなく、著名な学者の発言であるところにも意味があると。
そもそも、検証可能性について、wikipediaでは、「広く信頼されている発行元からすでに公開されている事実~」と定義しているわけですが、「広く信頼されている発行元」は限定されておらず、判断に主観が入り込むことは避けられないでしょう。修正案に反対するわけではありませんが、そういった矛盾は取り除くことはできず、むしろ、読み手側のリテラシーに依存してしまうのが本質かと思います。--JasmineTea会話2015年5月9日 (土) 07:48 (UTC)
そのジャンルごとに、それを研究する上で絶対に外せない(知らないということはありえない)人物がいる等ということは理解していますし、その意味で「著名」かどうかに争いがない研究者が確かにいるということ自体は同意します。
ですが、Wikipedia:カテゴリの方針#カテゴリの内容で「著名人」が不適切とされているように、ウィキペディアでは著名かそうでないか、というカテゴライズは、中立性を保ちづらい分類として歓迎されないものであるように思います。一介かそうでないか、という区分は線引きが難しいと思いますし、読み手は結局(予備知識がない限り)「著名」という評価の重みを判断できないという点で、「音楽学者」を「著名な音楽学者」としたところで、受け取る情報量の変化はそう大きくないのではないでしょうか。それならば「○○研究で博士号(または学会賞)を取った」など、その人の研究の専門性が第三者から一定以上認定されていると客観的に判断できる一言を添える方が有益ではないでしょうか。
私は音楽に疎く、ブルーメ氏もウィキペディアの記事以上の情報は持ちませんが、「著名な音楽学者」の代わりに、そこから何かチョイスするとすれば、「キール大学教授であった音楽学者」とか「『MGG音楽百科事典』編集主幹であった音楽学者」などでしょうか。
なお、ブルーメ氏の経歴を読むまでまったく気づいていなかったのですが、現状のこの文書にも使われているブルーメ氏の発言らしき「 」部分は著作権的にOKなんでしょうか。1975年没ということは没後50年にもなっていませんし、日本語文献からの引用ならばもちろん、オリジナルの発言をウィキペディアンが翻訳した場合にも、出所の明示は必要になると思うのですが。--Sumaru会話2015年5月9日 (土) 13:40 (UTC)
返信有難うございます。
>「著名人」が不適切とされているように、
>「ウィキペディアでは著名かそうでないか、というカテゴライズは、…
「著名人」がカテゴリーとして不適切であることと「著名な音楽学者」という表現が適切かどうかには、関係がありません。


>一介かそうでないか、という区分は線引きが難しいと思いますし、
線引の難しい問題は無数に存在します。それだけでは排除する理由にはならないと思います。


>「音楽学者」を「著名な音楽学者」としたところで、受け取る情報量
>の変化はそう大きくないのではないでしょうか。
反対論は、多かれ少なかれどこにでも存在するわけです。その声がどこから発せられているのかは、重要な情報です。反対論を唱えているのが、単なる愛好家の1人なのか、名もない一介の研究者なのか、著名な音楽学者なのか、情報として重要と考えます。


>「著名な音楽学者」の代わりに、そこから何かチョイスするとすれば、
>「キール大学教授であった音楽学者」とか
>「『MGG音楽百科事典』編集主幹であった音楽学者」などでしょうか。
キール大学が音楽の世界でどのような位置付けなのか、MGG音楽百科がどのような辞典なのか、具体的ではあるものの、読み手にはさらにわかりにくい表現だと思います。


著作権について心配していらっしゃるようですが、wikipedia内からの引用ですので、それについては、該当記事「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」のほうでご確認ください。


さて、今回の修正の趣旨は、『出典が明記されている「・・・と考える者がいる」系の表現にまで機械的に要出典系のテンプレを貼って廻っている利用者がいる』ことを回避したい、つまり、このページを根拠として言葉狩りが行われている実態を改善したい、ということと理解しました。とするならば、「著名な」という言葉を内容に配慮することなく削除するという行為は言葉狩りに当たらないのか?ということです。適切な例ではない、ということでしたら、まるごと差し替えるべきと考えます。--JasmineTea会話2015年5月9日 (土) 16:28 (UTC)
>つまり、このページを根拠として言葉狩りが行われている実態を改善したい、ということと理解しました
「つまり」の前で的確に引用なさっている「出典が明記されている」を省かないでください。その意味で、何の出典も挙げられていない「著名な」の排除とは同列でありません。
「キール大学」がどのような大学であるかわからずとも、アカデミック・ポストに就いている音楽学の専門家、というだけでも、何の裏づけもない「著名な」よりは信頼性は向上するのではないでしょうか。
>「著名人」がカテゴリーとして不適切であることと「著名な音楽学者」という表現が適切かどうかには、関係がありません。
なぜ関係ないと断言なさることができるのでしょうか。カテゴリにおいて中立的な分類が難しいとされる表現を記事でも何の出典の裏づけもなしに使えば、Wikipedia:大言壮語をしないにも抵触します。
ただし、「著名な」云々以前の話として、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲には要出典をつけました。残念ながら、現状の記事では引用の要件を満たせていません。加筆なさった方は何年も前に引退なさっているようなので、すぐに対応がなされる見込みは少ないかもしれませんが。
そしてWikipedia内の引用であろうとWikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記の手続きが必要ですが、履歴を確認する限りではその手続きがなされていませんでしたから、Wikipedia:削除依頼で版指定削除が必要になるはずです(さすがに現状の文面では、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲への内部リンクがあるからといって、そこからの引用と解するのは難しいでしょうから)。
半文盲云々という差別的とも取れる例示の改訂をなさったこと自体は全くもって正しかったと思いますが、引用箇所の著作権がグレーであり、履歴不継承の可能性もあるとなれば、全面差し替えの上で、その後に版指定削除に出さざるをえないように思います。--Sumaru会話2015年5月9日 (土) 17:38 (UTC)
すばやい返信有難うございます。書くべきことは書きましたので、これ以上議論するつもりはありません。修正案で適切な例をご提示ください。--JasmineTea会話2015年5月9日 (土) 17:46 (UTC)
(JasmineTeaさん宛て)これ以上返信される気もないでしょうが、一応、私としての「著名な」除去の意図を説明しておきます。まず、「著名な」という表現は、「Wikipedia:大言壮語をしない」で是非が述べられる類の表現となります。それに対して、本ガイドライン「Wikipedia:言葉を濁さない」は、「言葉を濁した表現の典型例」で示されている「……と言われている」というような類の表現の是非を述べています。実際の記事加筆時においては「著名な」という表現が一律で禁止されるということはないはずです。「Wikipedia‐ノート:大言壮語をしない#出典との兼ね合い」で議論されているように、「著名な」としてある出典をきちんと用意できれば問題ないじゃない、という意見もあります。ただ、本ガイドラインは「言葉を濁した表現の典型例」で示されている類の表現について述べるものなので、「著名な」という表現を肯定も否定もしたくない。その是非は「Wikipedia:大言壮語をしない」で述べるようにして、議論を混ぜたくないということです。「改善例」としてあるところに「著名な」と書いてあると、そういう風に書いていい/書くべきと誤誘導する可能性はありますが、「改善例」に「著名な」と書いてないからといって、「著名な」とかの類の表現が禁止されているとは思わないはずです。--Yapparina会話2015年5月10日 (日) 10:08 (UTC)
もう書かないつもりでしたが、名指しになっているので。
>「著名な」と書いてないからといって、「著名な」とかの類の表現が禁止されているとは思わないはずです。
はじめから書いてなかったのなら、そうでしょう。しかし、現在あるものから削除すれば、また違った解釈が生まれます。
>「著名な」という表現が一律で禁止されるということはない
にもかかわらず、議論もせずに削除するという行為は、『「著名な」という表現は無条件で削除すべき』という、間違ったメッセージとして伝わる危険があるのではないかということです。
削除理由がおっしゃるようなことであろうことは、想像はつきました。先にも書いたように、まるごと差し替えるなら問題ないと思います。この件を議論する意味はなくなったと思いますので、これで最後にします。作業大変だと思いますが、よろしくお願いします--JasmineTea会話2015年5月13日 (水) 04:36 (UTC)

モーツァルトの例の差し替え

[編集]

履歴不継承に対する反論がない以上、削除依頼に出すことを前提に話を進めざるをえませんが、差し戻すとすると半文盲云々になってしまうため、暫定的な差し替えとして以下を提案します(例示部分のみ列挙)。

  1. 新約聖書』のうち、パウロの偽名書簡とされるテトス書には、真筆であると強く主張する声もある。
  2. 『新約聖書』のテトス書が偽名書簡であることに懐疑的な人々は、パウロ自身の書簡であるという説を支持している。
  3. たとえば、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』では、偽名書簡とする根拠の数々はパウロの真筆性を覆す決定的なものではないとして、パウロの真筆とする立場がとられている。

特定宗教の例は好ましくないという批判などもありうるでしょうが、咄嗟にうまい例が思いつかないので、ほかにうまい例が挙がればそれでいいです。あくまでも、削除依頼を見据えて迅速に対処せざるを得ないという事情からの弥縫策です。

上記Yapparinaさんの修正案とこの暫定差替案に反対意見がない場合、本文をそれらに差し替えた上で、版指定削除依頼を提出するという運びになるかと思います。--Sumaru会話2015年5月10日 (日) 02:03 (UTC)

とりあえず改善例の変更についてですが、例文の置き換えについては良いと思います。ただ、真筆性という言葉が難しいので、もしよしければ嘘の無い範囲で簡単な表現にしてもらえればと思います。
そして、この際なので「意見の持ち主を明示する」の改善例についても、「意見を具体的な事実に置き換える」の改善例についても、出典を示すようにしませんか?ニューヨーク・ヤンキースの例についてはこちらで出典を見つけました。「大きく引き離す」という表現も控えめにして以下のような改善例でどうでしょうか。
合わせてSumaruさんの方で用意しようとしている「意見の持ち主を明示する」の改善例についても出典を付けるようにしませんか。今回の内容変更の主旨とは外れるかもしれませんが、改善例には出典を付けといた方が色んな意味で無難な気がしました。3例とも出典付きになれば、上記の改定案の「以下に言葉を濁した曖昧な書き方の具体的な改善例を示します。いずれの改善例であっても、検証可能性の方針に従って、その文章の根拠を示す信頼できる情報源による出典の明記は必要とされます。」という文言は蛇足になるので消そうかと思います。
英語版「大言壮語をしない」の改善例でも出典付きで改善例を示しているように、このガイドラインが設立された頃ならともかく、今のwikipediaにおいては、この手の例文であっても出典掲示のお手本を示すのが適切でしょう。正にWP:Vの意図通り、後々の人が例文が正しいかを検証できますし。--Yapparina会話2015年5月10日 (日) 11:34 (UTC)

ニューヨーク・ヤンキースは全チーム中1位のワールドシリーズ27回制覇を成し遂げている[1]。これは全チーム中2位のセントルイス・カージナルスの制覇回数を16回上回るものである[1]

出典

  1. ^ a b World Series History: Championships by Club”. MLB.com. 2015年5月10日閲覧。
コメント 全ての例に脚注をつけることについては、(自分自身はもう何年もそれが当たり前のスタイルとなっているので)個人的には何の異論もないのですが、反面、思うところあって全面賛成かというと微妙な部分もあります。ただし、著作権がらみの案件になっているだけに、個人的なこだわりで議論の遅滞を招く事態は断固回避したいですし、全ての例に脚注をつけることにも賛成します。↓とりあえずこんな形で(ISBNまで含めた詳細な書誌情報は改稿済みの牧会書簡の参考文献欄にあります。略した書誌で十分と判断しましたが、不足があれば、そちらをご利用ください)。--Sumaru会話2015年5月10日 (日) 13:21 (UTC)
  1. 新約聖書』のうち、パウロの偽名書簡とされるテトス書には、パウロ本人の作品であると強く主張する声もある。
  2. 『新約聖書』のテトス書が偽名書簡であることに懐疑的な人々は、パウロ自身の書簡であるという説を支持している。
  3. たとえば、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』では、偽名書簡とする根拠の数々はパウロ自身が書いたことを決定的に覆せるものではないとして、パウロ本人の作品とする立場がとられている[1]

出典

  1. ^ 泉田昭ほか編『新聖書辞典いのちのことば社、1985年、pp.856-858。宇田進ほか編『新実用聖書注解いのちのことば社、2008年、pp.1715&1740。
改訂案を修正しました(差分:prev)。表の中で多用しているせいか表示がおかしくなったのでTemplate:SquoteTemplate:Quotationに変更しました。--Yapparina会話2015年5月11日 (月) 15:15 (UTC)
◆野球と政治と宗教の話はしない方が良いと言われているので………
  1. アルベルト・アインシュタインが創始した相対性理論には、非現実的な妄想の産物であると強く主張する声もある。
  2. アルベルト・アインシュタインが創始した相対性理論に懐疑的な人々は、相対性理論はSF的な内容であり現実を反映した理論ではないという説を支持している。
  3. たとえば、天動説を体系化したクラウディオス・プトレマイオスは著書『アルマゲスト』で「円運動の組み合わせだけで説明できる現実のシンプルな宇宙で「時空が歪む」などという複雑怪奇な現象が起こっているはずがない」[1]として、また地動説で異端裁判にかけられたガリレオ・ガリレイも二回目の裁判の直前に発行した『天文対話』の中で地動説論者、天動説論者、中立者のすべてに「地が動いているにせよ天が動いているにせよ、同じ時間が流れていることに間違いはない」と合意させる[2]などして、アルベルト・アインシュタインが創始した相対性理論は現実を反映した理論ではないとする立場をとっている。

出典

  1. ^ クラウディオス・プトレマイオス 『アルマゲスト』第1巻 浮目痔亜子訳、浮目出版〈浮目部苦s 〉、147年、9999版、pp.99&9999-10001。
  2. ^ ガリレオ・ガリレイ 『天文対話』 浮目痔亜子訳、浮目出版〈浮目部苦s 〉、1630年、9999版、pp.99&9999-10001。
え、例文自体の検証可能性って重要ですかね。形式としてあった方が良い(=フルセット全部あるべき)とは思いますが、無駄に事態を深刻にすることを避ける意味でも明瞭にする意味でも、衆目に極端に明らかとなる捏造の方が却って良いのではないかと考えるのですが。出典に書かれている内容をどのように執筆に使用するかの例示ではないわけですし。
とは言え、「検証可能性を満たしてる方がwikipediaらしいよね」とか言われれば返す言葉も無いわけですが。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月14日 (木) 14:29 (UTC)
ゆるやかに反対です。
「特定宗教の例は好ましくないという批判などもありうるでしょうが」云々と当初述べていた通り、代案があればそれでいいですし、著作権問題が絡んでいる以上、合意形成が長引く事態は避けたいと思いますが、以下の点で世界最狂の魔法使いCray-Gさんの案には賛成しかねます。
  1. 虚偽出典を挙げることで、Wikipedia:出典を明記するを歪めて理解される懸念。・・・まあ、さすがに小中学生ユーザーでもこの誤解はないと信じたいですが。
  2. Wikipedia:独自研究は載せないで禁じられている情報の合成に当たる懸念。ある説の否定論者にその説の登場以前の論者を持ち出すのは、明らかに情報の合成に当たります。ジョークだからというのなら、中途半端に史実にすり合わせるのではなく、いっそ相対論を否定するガジェットを使っているSFの登場人物でも出す方がまだマシに思えます。
  3. Wikipedia:中立的な観点の「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」に抵触する懸念。ジョークであれなんであれ、相対性理論の肯定・否定の立場の叙述で天動説を持ち出すのは・・・以下、2点目と同じような話になるので省略。
要するに、言わんとすることはわからなくもないですし、部分的に首肯できる部分もなくはないのですが、いくつもの誤解を招きうる(あるいは誤解を招かないようにしようとすると冗長になる)ジョークをわざわざ例文に持ち出す必然性がいまいちよく解りませんし、「明瞭にする」という意図にはむしろ反しているように思います。
自分が出した擬似パウロの例はあくまでも至急の差し替え案なので、別にこだわるつもりはありません(差し替えて数週間と経たないうちに別の差し替え案が通っても全然構わないです)が、たぶん「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」などに抵触しない簡潔な例を出そうとすると、人文科学系の白黒つかない論評の類からの方が、自然科学よりも無難ではないか、と感じています(社会科学でもいいですが、集団的自衛権は合憲か違憲かとか、近経とマル経で正しいのはどっちかなどといったトピックは多分パウロ書簡の例以上に荒れるでしょうし)。
ともあれ著作権がらみで長引かせたくないので、(前述のように例文に出典をつけることにも全肯定ではないのですが)ひとまずは「検証可能性を満たしてる方がwikipediaらしいよね」との立場を明記させていただきます。--Sumaru会話2015年5月15日 (金) 14:30 (UTC)
要約すると「wikipediaらしい方が色々と面倒が少なそうだよね」ということですね。理解しました。私自身の意見は基本変わっていないので、SFの登場人物は「マシ」どころか「とても良い案」だとは思いますが、ともかく理解しました。
となると、例えばモナ・リザあたりが異論が多発しているわりに各論者が強硬な態度を取らないので懸念も無く都合が良いのではないでしょうか。
  1. モナ・リザ』は、レオナルド・ダ・ヴィンチの自画像であるとする説もある。
  2. モナ・リザ』のモデルとなった女性が誰かには諸説あり、中にはレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像である可能性があるという主張もある。
  3. モナ・リザ』のモデルとなった女性が誰かには諸説あり、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記を書いた作家セルジュ・ブラムリーは1994年に「モデルといわれる人物は、妥当か否かはともかくおよそ12名程度は存在する。なかには、モデルなどは存在せず、レオナルドが理想の女性を描いたと主張する者もいる」としている[1]。またベル研究所のリリアン・シュワルツは、『モナ・リザ』をデジタル解析した結果『モナ・リザ』の女性の表情と自画像のドローイングの表情とが一致したとして、『モナ・リザ』は実質的にはレオナルドの自画像ではないかと主張している[2]

出典

  1. ^ Bramly, Serge (1994), Leonardo:The artist and the man, Penguin Books, pp. 362-363, ISBN 0-14-023175-7 
  2. ^ Antoinette LaFarge (1996), “The Bearded Lady and the Shaven Man: Mona Lisa, Meet Mona/Leo”, Leonardo, Fourth Annual New York Digital Salon (The MIT Press) 29 (5): 379-380, doi:10.2307/1576403 
前半は出典が(コメントアウトして)ありますが、後半には出典がありませんでした。中途半端に出典があると「言葉を濁さない」の例としては良くても、「言葉を濁さなければ無出典で書いてもいい」とか曲解出来そうなので中途半端は良くないかな、と考えて出典無しで作ってみました。出典必須ならモナ・リザ以外を当たる方が良いかも知れません。他に日本で著名というとミロのビーナスあたりかな?
いづれにせよ、著名な美術関係は有名でインパクトのある異論が多いわりに強硬な態度をとる者も居ないので、そのあたりから探してくるのが良いのではないかと。他には「邪馬台国はどこにあったか」問題も有名で日本語の出典も多いですね。強硬な態度をとる者が居ないわけではないのはアレですが。
世界最狂の魔法使いCray-G会話) 2015年5月16日 (土) 00:49 (UTC)出典追加--世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月16日 (土) 07:17 (UTC)
まず、例文としてより良い話題はないか、についてですが。モナ・リザの例の方が一般的にも知られているのでより良いと思います。偽名書簡の例文でも特に問題はないですが、例文としては誰でも知っているような話題がよりベターかなと思います。もちろん取り急ぎ例文を用意いただいたSumaruさんには感謝しております。
次に、(一般論としてガイドラインのお手本に出典を付けた方が良いかの是非は置いておいて)、ご提示いただいたモナ・リザの例文に出典があるべきかどうか、についてですが。まず、セルジュ・ブラムリーの方の「」部分は出典からの直接引用のようですので、適法な引用の要件を満たすために出典の明示は必須となります。一方で後半にも出典がないとバランスが悪いのはおっしゃる通りと思います。調べてみたところ、この論文のpp.379-380が出典とできることを確認しましたのたで、これを出典として例文に付与すれば問題ないのではないでしょうか。
まとめますと、セルジュ・ブラムリーの記述には元記事モナ・リザにあった「Bramly, S. (1994). Leonardo: The artist and the man. Penguin Books. pp. 362–363. ISBN 0-14-023175-7.」を出典付し、リリアン・シュワルツの記述には上記論文を出典付する形にした上で、Cray-Gさんにご提示いただいたモナ・リザの例文を採用で良いのではないか、というのが今の改訂案の例文をどうするかに対する私の意見になります。--Yapparina会話2015年5月16日 (土) 02:58 (UTC)
提示の出典を付与してみました。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月16日 (土) 07:14 (UTC)
喜び勇んで出典を付与してみましたが、良く見たら第二例と第三例の間の文も変えなきゃ意味が通らなくなるので「差し替え」になっていませんでした。間の文の文案も考えようかと試してみたのですが、「取り急ぎ」という大義名分があれば許容出来るだろうと見込まれる程度でさえ合意の得られそうな文案が思い付きません。(その為の「差し替え」案だってのに………)
これを避けるには第二文が「~~説に懐疑的な人々は、~~説を支持している。」の形でなければならず且つ、前と後との説が相互否定(真作vs贋作のような)でなければなりません。つまり前半を否定する人は必ず後半にならなければ「循環論法」にはならないのです。
この為、第二文を「~~モデルとなった女性の実在論に懐疑的な~~」などに替えても、自画像論の循環論法が成り立たないので使えません。
出典まで探してもらっておいて何なのですが、差し替え案としてはこのままのモナリザ案は使えません。なので(面白味は無くなりますが)再提案を試みます。
  1. モナ・リザ』には、モデルなしに描かれたとする説もある。
  2. モナ・リザ』のモデルが実在する説に懐疑的な人々は、レオナルド・ダ・ヴィンチが理想の女性を描いたものだという説を支持している。
  3. モナ・リザ』のモデルとなった女性が誰かには諸説あり、レオナルド・ダ・ヴィンチの伝記を書いた作家セルジュ・ブラムリーは「モデルといわれる人物は、妥当か否かはともかくおよそ12名程度は存在する。なかには、モデルなどは存在せず、レオナルドが理想の女性を描いたと主張する者もいる」としている[1]

出典

  1. ^ Bramly, Serge (1994), Leonardo:The artist and the man, Penguin Books, pp. 362-363, ISBN 0-14-023175-7 
この場合、出典は一次資料ではなく二次資料であるので、出典の例示としても文句は無いと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月16日 (土) 09:42 (UTC)
賛成します。関連する話を次節で。--Sumaru会話2015年5月16日 (土) 13:49 (UTC)

とりあえず

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本日をもって、全体の差し替え案については提案からすでに1週間が経過しています。その間、モーツァルトの例文部分の議論はあったものの、全体への反対意見は見られません。そこで、とりあえず全体の差し替え(モーツァルト部分は上のモナリザに)を行い、過去版への版指定削除依頼を出すようにしてはどうかと思いますがいかがでしょうか。モナリザの例示部分については事後承諾的な合意形成期間を設定し、その間異論がなければ成立、あれば議論の上で削除依頼対処後に『議論の結果成立した案』に差し替え、というようにしてはどうかと思います。

何年も誰も気付かず放置されていた著作権案件にいまさら迅速に対応しようというのも滑稽かもしれませんが、気付いた以上はさすがに棚上げしてダラダラと先送りというわけにはいかないと思うのです(特に、方針文書という性質上、さすがにモナリザの話が標準的合意形成期間を経過するまでのさらに1週間かそれ以上、依頼提出が先送りになるのはさすがにどうかと)。ですので、上記の通り提案します。ただモーツァルトの例示が上のyapparinaさんの文案にもある以上、本文への転記はYapparinaさんにしていただいてから、該当する文案を上から除去していただいた上で、本文とあわせて版指定削除依頼を行う、という形が望ましいかと思います。

そのあたりはYapparinaさんのご都合しだいですが、1、2日程度で異論が出なければ、上記のような手順で進めて頂くのが望ましいと考えます(転記と上の文案の除去までやっていただけば、削除依頼は私の方で出します)。--Sumaru会話2015年5月16日 (土) 13:49 (UTC)

議論のまとめありがとうございます。私もそろそろ改訂案の反映実行を宣言しようかと思ってたところです。削除依頼についてですが、Sumaruさんの版指定削除依頼を妨げる意図はないですが、以下のように考えています。
ややこしい状況を整理すると、現在以下の3つについて著作権侵害の虞が存在していると思います。
  1. 外部著作物 → オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲
    • (フリードリヒ・ブルーメの見解の転載、(記事に加筆した方のオリジナル日本語翻訳でない場合)モーツァルトの手紙の翻訳の転載)
  2. 外部著作物 → Wikipedia:言葉を濁さないおよびWikipedia‐ノート:言葉を濁さない
    • (フリードリヒ・ブルーメの見解の転載、1の成立に伴って成立する)
  3. オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲 → Wikipedia:言葉を濁さない
    • (CC-BY-SA 3.0/GFDLライセンスのための履歴継承不足)
これら3つが削除依頼に出された場合ですが、たまに削除依頼で意見をつけるぐらいの立場から個人的意見を言えば、1と2については外部著作物侵害の虞が極めて強いものの、転載元の外部著作物を特定できていないので削除支持を表明しづらいです。3については、このときの編集で発生したものだと思いますが、「」内の部分は外部著作物なのでそれを差し引くと、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲のコピペでなく適度に要約されていますので履歴継承が要求される加筆とは考えづらく、3についても削除を支持しづらいです。実際にどう判断されるかは依頼を出してみないと分かりませんし、安全側に倒して削除するという考え方もあると思います。
いずれにしても現在のモーツァルトの例文は著作権侵害の虞が存在しているので、差し替えるという判断は間違ってないと思います。ただ、削除依頼はまだ行わずに、Wikipedia:言葉を濁さないについては編集除去対応すなわち例文差し替え、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲についてはWikipedia:著作権問題調査依頼などで転載元を知っている方の協力を呼び掛けるという対応ではいかがでしょうか。--Yapparina会話2015年5月17日 (日) 00:36 (UTC)
あー、なるほど。私の見解としては
  • 1、2は出典を特定できていなかろうが、著者の著作権保護期間内なので、引用の要件を満たしていない時点でほぼアウト(著作権保護期間内の評論の無断転載なのが明らかなので)。ただし、記事のほうは投稿者による出典追記の可能性および次項を満たす可能性がゼロではないのでテンプレ貼り付けのまましばらく放置。こっちは転記者が出典追記の意志を示しておらず、改善の見込みがないので削除依頼。
  • 仮に「著者が例外的にパブリックドメインにおいた発言」を投稿者が翻訳していた場合、1、2は成り立たないが、3でアウト。「 」部分にも翻訳者の二次著作権が発生するので、こっちへの転記の方は履歴不継承が成り立つ。
という理解でした。しかし、
  • 著作権者と翻訳者がともにパブリックドメインにおいた記述を投稿者が転載した可能性
もゼロではないと気付きました。まあ、限りなくゼロに近い可能性だと思いますが、それでもそういう可能性が存在する以上、安全側に倒すという判断でまとまる保証はないですし、削除依頼が膠着する可能性もありますね。ですので、ひとまずYapparinaさんのご対応を支持します。--Sumaru会話2015年5月17日 (日) 01:29 (UTC)

改訂反映

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上記でSumaruさんがまとめてくださったとおりですが、最初の改訂案の提案からすでに1週間以上(12日間)が経過しており、その間例文については細かい議論はあったものの改訂の主旨自体に反対は見られなかったことから、もう1日待って異論なければ、現在の#修正案に掲示しているものにCray-Gさんの2015年5月16日 (土) 09:42 (UTC)のモナ・リザ例文を反映させ、それをもって表の本文に反映させたいと思います。--Yapparina会話2015年5月17日 (日) 01:02 (UTC)

賛成 上の節にコメントしたついでに、念のため、賛意を明確にしておきます。--Sumaru会話2015年5月17日 (日) 01:29 (UTC)
賛成 同じく念の為に。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月18日 (月) 04:18 (UTC)
報告 反映いたしましたので報告します。差分:prev。議論にお付き合いいただいた皆さんありがとうございます。--Yapparina会話2015年5月18日 (月) 14:52 (UTC)
お疲れ様でした。モーツァルトの件はその記事の全然別の場所で挙げられている文献が出典の可能性もゼロではないので、図書館で確認した上で、違うときにはとりあえず著作権問題調査に出します(スケジュールの都合もあるのですぐにとはいきませんが1週間前後くらいをめどに)。--Sumaru会話2015年5月18日 (月) 15:10 (UTC)
◆お疲れ様でした。--世界最狂の魔法使いCray-G会話2015年5月19日 (火) 07:08 (UTC)