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Wikipedia‐ノート:合意形成/「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案

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「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案

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英語版のen:Wikipedia:Consensusでは、「合意とは何か」に相当する節の冒頭に、次のような記述があります。

Decision by consensus takes account of all the legitimate concerns raised. All editors are expected to make a good-faith effort to reach a consensus that is aligned with Wikipedia's principles.
Consensus is not necessarily unanimity. Ideally, it arrives with an absence of objections, but if this proves impossible, a majority decision must be taken. More than a simple majority is generally required for major changes.
(試訳)合意による決定は、適正に表明されたすべての意見を考慮に入れて行われます。全ての編集者は、ウィキペディアの原則に則った合意に達するために、真摯な努力を払わなければなりません。
合意は必ずしも全会一致である必要はありません。反対がない状態での合意が理想ではありますが、もしもそれが不可能な場合には、多数決で決定を行わねばなりません。最善の努力を尽くしてもなお全会一致の合意に至らない場合には、やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあります。ただし、重要な変更については、通常は単純多数(過半数)ではなく、より多数の賛成が必要です。

英語版で上記の記述が導入されたのは、一人またはごく少数の人が頑固に妥協を拒否したときに、物事が何も進まなくなるのはおかしいという問題意識からだったようです。全会一致は確かに理想ですし、少数意見といえども切り捨てるべきではありませんが、すべのの意見を充分に検討した上で、妥協点を見出すために真摯な努力を尽くしてもなお合意に至らない場合には、あくまで「全員一致」にこだわるのではなく、より現実的に物事を進める手段を考えるべきです。そしてそういう場合に、もし一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう。この辺りはバランスよく記述するべきですが、現状の日本語版のWikipedia:合意形成ではかなり「全員一致」偏重の記述になっていると思います。そのあたりを是正する意味で、上記の英語版の記述を日本語版にも導入することを提案します。--Dwy 2011年8月12日 (金) 16:16 (UTC)(試訳の表現を修正--Dwy 2011年8月18日 (木) 15:26 (UTC)

本音と建前の文化を持つ日本人が主要な利用者である日本語版に敢えて必要な記述だとも思えないのですが。どうせそういう少数派は「いつまでも「納得」しない利用者」とか「コミュニティーを疲弊させる利用者」とかのレッテルを貼って数の暴力で排斥しちまうわけですし。
そんな記述が無くとも現状で充分に機能していると思います。少数派を楽に手早く効率的に切り捨てる為の『銃』は無くてもいいでしょう。自説を通す為に時期尚早な内に『とっとと撃ち殺したい』と思う人には欲しくて堪らないものかも知れませんがね。
日本はそもそも多数決や裁判が標準の文化ではないし、だからこそ逆に法にあることは「葵の御紋」や「御法度」として機能する文化でもあります。私の名前からDwy氏にも心当たりがあるであろう「誰か」のような輩に、さらなる「武器」を与えるような真似はやめておいた方が良いのではないかと思うのですが。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月13日 (土) 15:17 (UTC)
「すべての意見を考慮に入れて…合意に達するために、真摯な努力を払わなければなりません」という大前提がありますから、「合意に向けての努力がまだまだ足りない」とか「Wikipedia:論争の解決の手順を尽くせ」という反論は常に可能です。「手早く効率的に切り捨てる」のは、そんなに簡単でないはずです。申し訳ありませんが、Cray-Gさんのおっしゃっていることがあまりピンときません。
現状は「多数決主義ではありません」の薬が効きすぎて、せっかくのWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票の規定がほとんど有名無実に近くなってます。その結果、誰かが自説を譲らず頑固に言い張っていれば(Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないが発動するほど異端の主張でない限り)新たな決定が不可能な状況になっていると思います。別の言い方をすると、現状を変えたくない人は「反対」と言い続けるだけで変更を阻止できるわけで、現状維持派には譲歩するインセンティブがない状態とも言えます。皮肉なことですが、多数決を毛嫌いしすぎると、みんなが少しづつ譲り合って妥協しようという「コンセンサスの精神」は却って損われる結果になるのかもしれません。--Dwy 2011年8月14日 (日) 12:54 (UTC)
賛成 導入自体はすべきだと思いますし、現に多数決解決ができない弊害が出ていますから導入に賛成します。多数決による解決方法が不可能となってから、日本史などの改名議論(征伐関連や取次など)では、約1年近くもグダグダやってるようなものもあります(多数決による解決が導入されていればすでに解決しているだろうことです)。全会一致が理想であるのは当然ですが、ぶっちゃけそれは無理というのも現実のケースとして存在します(日本史系は双方とも間違っていない場合とかあるわけです)。Cray-Gさんは現状で十分に機能していると仰いますが、現実を見ていなさすぎじゃないでしょうか。WP:POINTや「コミュニティーを消耗させる利用者」というのは使いどころが難しいわけです。片方が明らかに誤っている場合でごねているだけなら間違いなく認定はできるわけですが、双方とも間違っていない場合にはそうは言えなくなってくるわけです。そこらへんももう少し考えてほしいかなと思います。--かげろん 2011年8月14日 (日) 00:56 (UTC)
んー、「双方とも間違っていない」ような重大な問題を、たった一年やそこいらでスピード解決なんぞしていて「信頼されるフリーな百科事典を――それも、質も量も史上最大の百科事典を創り上げる」ことが出来るんだろうか、とか思うわけですよ。そもそもWikipediaの目的自体が非現実的であり非常識なんで、現実だの常識だの見たところで其処に答えがあるはずが無いと言うか。「犯罪者とは、腕の良い弁護士を雇う金が無かった者のことである」と言われるように「Wikipediaに於ける『誤り』とは、《スピード解決》の技術が優れている者がその時に現れなかった観点のことである」などと言われるようなことになっては宜しくないと思うのです。「今はまだ審議中であるがいづれ(何百年後かは知らないがいづれ)合意が形成され、真に中立的な結論が出るに違いない」という希望すら無くなれば「信頼」もまた失われるのではないでしょうか。Wikipediaが「誰でも編集出来」て且つ「全員で合意を形成」するという気狂いじみた方針を守っているからこそ、「真に中立的」という信頼を得られるのだという事実をもう少し考えてほしいかな、と思います。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月15日 (月) 05:14 (UTC)
何百年も議論するのであれば、結論が出るまでの間、記事はどうするのでしょう?結論が出るまで何も書かないというのならまだ筋が通りますが、現実は「先に(こっそり)書いた者勝ち」になりがちですよね?最終的な結論を出すのに時間がかかるとしても、当面の記事をどうするかという暫定措置については、ある程度迅速に合意する必要があると思います。そして、そういう場合、「最終的な結論はゆっくり議論して出すとして、当面、記事は多数意見に従って編集しておこう」は常に最有力の選択肢だと思います。--Dwy 2011年8月15日 (月) 16:33 (UTC)
その「そして、そういう場合」が「どういう場合」かの規定が無いのであれば結局は「あらゆる場合」に適用して解釈することになるんじゃないでしょうかね。現状のガイドラインですらそういう傾向がなきにしもあらずって状況で、Wikipediaの理念の根底となる「合意形成」の意味を変える規定を設けるのは危険なだけだと思うのです。「当面」であるなら「当面」であることの明記やその定義やら手順やらの規定があればもう少し意見も変わるのですが、それはそれで複雑になり過ぎると思うのです。或いは何等かの「当面」用の裁定機関(管理者以外に)があれば、とは思うのですがね。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月16日 (火) 00:51 (UTC)
コメント 超長期的にはCray-Gさんの仰ることも一理あるとは思いますが、明らかに現実的ではないです。現実的には記事に問題がある都度、合意を形成して変更していけばいいわけです。「提案→議論→合意形成→変更→新しい提案→・・・・・・(以下略)」のサイクルを繰り返して記事をアップデートし続けることでこそ、Wikipediaとしての信頼を得られるのだと思います。それと、「真に中立的」かどうかが問われるのは編集者としての立ち位置かNPOVもしくは検証可能性に関する話のはずなんですけどねえ……。--かげろん 2011年8月15日 (月) 23:10 (UTC)
その「記事に問題がある都度、合意を形成して変更」することが出来ないからこその本件提案なのではないですか? ついでに言うと、今でさえ「合意で決定してるんだから蒸し返すな」とか言われて「新しい提案」や再提案が難しくなる状況が見られるというのに、多数決の導入などすれば意見封殺が多発すると思うのですが。それと「真に中立的」かどうかが問われるのは閲覧者視点だと思います。あらゆる閲覧者が「Wikipediaは中立的に書かれているので安心して参照することが出来る」と評価してこその信頼ではないでしょうかね。さらに言うなら、編集者が中立的な立ち位置であるはずがなく、多種多様な立ち位置の編集者が「中立的として許容出来る合意」を形成するからこそ(真に、ではないかも知れないが当該時点では)中立的な記述が出来るようになるのだと思っています。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月16日 (火) 00:51 (UTC)
コメント 今回の提案についてはそうですね。それと「合意で決定してるんだから蒸し返すな」ということについてですが、これは過去の合意を覆せるだけの根拠を提案者が持ってこれるかどうかによります。提案者が相当な根拠(過去の合意時になかった新しいもの)を持ってきているのであれば、議論は真摯に行われなければなりません(それでも過去の合意を盾に排除しようとするようなことがあれば、その方が問題行為ですから)。今までの議論の蒸し返ししかできないような提案(新しい根拠のないもの)であれば、過去の合意を盾にはねつけられても仕方がない部分もあるでしょう(過去の合意が明らかに作為的なものであった場合は別ですが)。NPOVについては閲覧者の視点もあるでしょうが、書き手(編集者)がさまざまな観点から記載できるかにもかかってきますよ。--かげろん 2011年8月16日 (火) 07:18 (UTC)
問題は本件提案により、提案者が用意出来る「過去の合意時になかった新しいもの」が「ミートパペット」ぐらいしか無くなることなんですよね。下の方でSweeper tamonten氏が「再提案」を行なっていますし、其処でDwy氏が類似のことを言っています。ですが該再提案前の「議論」では、圧倒的多数が「(Sweeper tamonten氏の観点では)単に感情的な理由で無根拠に反対しただけ」であって、議論でもなければ合意でもないわけですよ。Sweeper tamonten氏にしてみれば数の暴力で意見を封殺されただけであり、足りなかったものは単に数だったわけです。多寡と正邪の間には相関関係がありますので、件の「前回議論」に大きな問題があったとは思いませんが、同じ術を利用して意見封殺することが可能なわけです。簡単に「術」を使う為に都合の良い「ミートパペット」は禁止されていますが、だからといって不可能になったわけではありません。それを明文化して「術が使える」ことを公知する必要は無いと思うわけですよ。井戸端に「ミートパペット募集」の張り紙を貼りに来る連中に、「ミートパペットを募集する公的な根拠」を与えて欲しくないわけです。私のような「あまり詳しくもないクセにWikipediaの為に貢献したいと思ってせめて井戸端に出没する困ったちゃんの相手ぐらいはしよう」と思っている修行中のウィキペディアンが手出し出来ないような状況を作って欲しくないなぁ、と。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月16日 (火) 08:30 (UTC)
コメント「多数決主義ではありません」の薬が効きすぎて弊害が出ているのではなくて、そもそもウィキペディアの投票には多数決の意味がないのです。 投票の後には意見の取りまとめが行われて、多数意見は多数意見としてとりあげられ、少数意見も無視されていない一種の結論を導き出す作業です。一致していなくてもその内容はその時点での合意です。 結論を受けて、誰かが熱くなりすぎていないかや、多数派は力づくになっていないか、少数派はいつまでも納得しないになっていないかという相互点検が行われたり、出揃った意見を俯瞰して、原状をいじることを当面延期することもありですし、より明確な合意形成するにはどうしたら良いのか話し合ったり、多数派の意見を尊重して良いのか、など改めて話し合いが続けることもOKです。  それとは別に十分な議論の結果、AとBとの選択がどちらも違反でないと考えられる場合に限って、事前に投票数の結果を採択して良いという合意をとれば、投票結果を結論とすることは認められています。 そういう状況の中で確たる理由もないまま、書いてあるからと言って機械的に「多数決主義ではありません」を叫び続けることで合意の進行を妨げているならば、いつまでも納得しない行為に相当します。--Dictionwolf 2011年8月15日 (月) 04:16 (UTC)

コメント合意形成は「理由」を示した意見がある限り多数であるから正しいってことはない訳でして、「コミュニティの議論」節でも少数意見が大多数の論理に勝るケースについて言及しています。確かに全会一致である必要はないかもしれませんがその場合「理由」も示されずに少数が闇雲に反対する、言わば力ずくの状況にでもなければ多数決で押し切っていると判断されても仕方がないことかと思います。ご提案の内容を記述すると意図的に少数を無視した悪用を招きかねませんし、どれだけかかるのが現実的でどれだけ以上が非現実的かなどと決められるものでもありません。「理由」が拮抗しているならそれだけ議論は慎重を期さねばならず、そこに数の論理が介在してしまうことこそ遺恨を残しかねないことかと思います。--はぬまん 2011年8月15日 (月) 06:53 (UTC)

全会一致による合意であれ、多数決による合意であれ、「ウィキペディアの原則に則った合意」であることが必要です。「理由」が示されなければ「ウィキペディアの原則に則った」ことになりませんから、そのあたりはそれほど心配しなくてよいと思います。
はぬまんさんには前にも申し上げましたが、「多数決」が出てくるのは「議論」が失敗に終わった後の話です。「議論」による解決が失敗に終わった後も、あくまで「相手を説得せよ」では先に進みません。先に進めなければ現状維持ということになりますが、Wikipediaにおける現状とは「先に(こっそり)書いた者勝ち」でしかありません。「多数決」が良いとは言いませんが、「常に現状維持」よりはよほどましだと思います。--Dwy 2011年8月15日 (月) 16:33 (UTC)
要は、「「議論」が失敗に終わった」とどのような基準で判断するかが問題なんです。多い方が「失敗に終わったから多数の方を採用な」という訳には行かないんです、それではルールの悪用と言っていい。説得を放棄して少数の理由を軽視するような形になってはいけないんです。
大体が、「議論の失敗」とはなんですか?「理由」が衝突しあい結論が出ないことが「失敗」なのでしょうか?むしろ数の論理で議論を推し進めてしまうことの方がよほど「失敗」であるように思えます。ケースバイケースではありますが両論併記で対応できる場合もあるでしょうし、「議論が失敗した!」と決め付けて説得の努力を放棄する側の理由が採用されるのは理不尽です。理由が拮抗したら多ければいいって言うのはソックパペットやミートパペットを助長することにしかならないでしょう。--はぬまん 2011年8月16日 (火) 11:28 (UTC)

コメント英語版で弊害等が報告されているのであればその情報は頂きたい。そのような情報がないのであれば未確認の弊害を恐れるより、試して弊害があれば、その実際のケースに基づく話し合いを行いたい。試す場合にも後の再考のために主たる賛成と反対の意見をまとめておいていただくことを条件に認めたい。「適正に表明されたすべての意見を考慮に入れて行われます。」の文言を保証するには最低の条件と考えるが、このことがここで認められればわざわざ本文に追加することもない。理由を基準に合意がなされるので誰かが他の参加者に認められない理由を元に主張しているなら、それ故に、その理由を無効として、合意の形成が成されたとすることも許されると考えるが論点についてはまとめておいて頂ければ後に役立つ情報となるのではないか。間違った作業が修正できるのがウィキペディアの利点でしょう。--Sweeper tamonten 2011年8月15日 (月) 10:45 (UTC)

英語版の議論についてはen:Wikipedia talk:Consensus/Archive 10#Filibuster/unanimity point is missingを念頭に置いていましたが、その後良く読んでみると、この議論が今回提案の記述の直接の契機というわけではないようで、ちょっと誤解していたようです。申し訳ありませんでした。
いずれにしろ、ここでの議論は日本語版の問題ですから(かげろんさんからも日本語版での弊害が指摘されていることでもありますし)、英語版での弊害等はあまり関係ないように思います。--Dwy 2011年8月15日 (月) 16:33 (UTC)
かつて「他言語版で成立したガイドラインや修正文は、その文章の必要性と結論を得た論理が何なのかを示すことで判断材料のひとつと考えることができる」(春日椿さん 2010年3月28日 (日) 13:28 (UTC) )とのコメントもありました。できましたら英語版の文章が追加された経緯はどこにあるのかお示しください。--Sweeper tamonten 2011年8月20日 (土) 03:20 (UTC)
回答がありませんでしたので調べてみました。問題の箇所についてはen:User:Kotniskiさんが 2010年7月11日に書き加えたものが始まりです。この件について日本語版ならノートとなるWikipedia Talk:Consensusにおいて話し合われたことはないことをKotniskiさんの投稿記録から確認しました。そのあと2010年7月22日から28日にWolfkeeperさんが、2010年9月19日と2011年1月6日にNucleophilicさんが編集しております。2011年5月12日から25日にかけて複数の方が修正されております。(含まれるのはWhatamIdoingさん、Ring Cinemaさん、Dreadstarさん、Kotniskiさん、Flyer22さんです。)Dwyさんの提案説明の冒頭にある「英語版で上記の記述が導入されたのは、一人またはごく少数の人が頑固に妥協を拒否したときに、物事が何も進まなくなるのはおかしいという問題意識からだったようです。」ということは確認できませんでした。仮に提案時の説明に瑕疵があっても無効でないことはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは規則主義ではありませんの最後の説明で明らかと考えてはおりますが、その場合には提案の説明は修正してください。--Sweeper tamonten 2011年8月22日 (月) 07:48 (UTC)
賛成 とりあえず賛成。第一段落および「合意は必ずしも全会一致である必要はない」ということに異論はないようです。全会一致である必要はないと明記することでは、多数派が、曖昧な理由で押し切ることも、少数派が周囲を納得させるだけの十分な根拠を示すことなく合意を妨げることも、ウィキペディアでは認められない、ということに悪影響は及ぼしにくいと思います。第二段落第二文以下、多数決で決定を行わねばならない、という部分は、再考の余地があると思います。--Ks aka 98 2011年8月15日 (月) 11:02 (UTC)

反対 言ってることはわからなくもないんですが、極少数の反対者というのをどのように定義するかですよね。一方で多数決による解決が否定されている現在、このようなルールを制定するのは混乱をもたらすのみ、そもそも数による強行採決を後押しするかのような投票はやめて議論で解決しましょうっていうのが多数決を非推奨とした理由であるのにそれに反するルールを制定してどうするのかってことですよ。それと、どうもDwyさんは現在かかわっておられるノート:南京事件 (1937年)が念頭にあり、そちらでの議論をこのルール制定によって解決しようとしているという疑念が払拭できません。--Truesight 2011年8月16日 (火) 03:30 (UTC) (追記)「もし一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう。」とのご意見ですが、これはわたしの理解によると明らかに間違いです。問題に対する多数派、少数派とそれぞれの主張する問題の正否事象の支持者数とその信憑性とは必ずしも相関関係はありません。--Truesight 2011年8月16日 (火) 03:46 (UTC)訂正--Truesight 2011年8月16日 (火) 06:43 (UTC)

ウルトラ同意見なのですが、「相関関係」の使い方が間違っています。下らない茶々入れになってしまって申し訳無いのですが、ここで「(正しい意味の)相関関係がある」とか反論されると話がややこしくなるので「必ずしも一致しません」等の表現に改めて戴きたく………--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月16日 (火) 05:03 (UTC)
Cray-Gさん、相変わらずですね(笑)・・・。もとい、ご指摘ありがとうございます、上記訂正しました。こんなもんでいいですかね。--Truesight 2011年8月16日 (火) 06:43 (UTC)
確かに、ちゃんと議論をする前の話であれば、いつも多数意見が正しいとは限らないし、少数意見の方が正しいこともあるでしょう。でも、私が「少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう」と言ったのは、その時点までにあらゆる議論が尽くされた状態になっていることが大前提の話です。そういう文脈に照らして考えれば、「事象の支持者数とその信憑性とは必ずしも相関関係はありません」は明らかに間違いです。
そもそも、ウィキペディアが議論による合意形成を論争解決手段としているのは、みんなで議論することにより、より多くの人々が(そして最終的にはすべての人が)正しい結論に近づいていくはずだという信念に基づくものです。議論を尽くした後でも「事象の支持者数とその信憑性とは必ずしも相関関係はありません」なら、「合意」(=みんなの意見)を基準にすること自体が間違いだということになるでしょう。--Dwy 2011年8月16日 (火) 10:06 (UTC)
文脈に照らしても何もありません。その文章によって形成される意味において「もし一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう。」は間違いです。支持者が多数であれば議論を尽くせば必ずしも真実に近づくわけでは在りません。もしそうであればなぜにガリレオはあんなに苦労したのでしょう。議論が続く限り、そこにあるのは事象が正しいか否かはわからない、ということだけです。真摯な議論において反対論者がいる限り(反対論者の根拠が生きている限り)、誰もそれを主張しているのが少数だからといって誤っているとは断言できないのです。反面、議論を尽くすことによりそうした反対論者の根拠が覆されるとしたらそれは少なくともより真実に近づいたものであると看做せるはずです。--Truesight 2011年8月16日 (火) 10:47 (UTC)
◆皆で議論し(理想的には全ての観点の議論参加者から)中立的であると同意出来る合意を形成することです。Wikipediaは「正しい」ことを書く場所ではありません。
五本の柱の一柱である中立的な観点にある通りです。少数派の観点だから封殺して良い、ということが導き出される文は何一つありません。
  • ウィキペディアの作業をする上で私たちが受け入れている解決策は、「人類の知識」は(意義のある、出版されている)全ての異なる観点を含む、というものです。
  • 偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。また、最も普及している見方を正しい見方として提示するものでもありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません
その他にも引用したいところは多々ありますが、その必要は無いでしょう。議論する前であろうが後であろうが「正しい」なんてものはWikipediaには存在しません。
言葉遣いから、何か「正しい」ものがあるという幻想に取り憑かれているように感じられてしまいます。そんなことを主張したいわけではないでしょう? 少し落ち着いて下さい。自分が正しい、相手が間違っているなどといった論争はWikipediaでは無駄です。自分の意見を通す為に異なる意見を持つ者を論破しようとするのは不適切です。そんな議論が尽くされようとも、疲れ果てた相手から妥協を引き出せる可能性ぐらいしか期待出来るものはありません。多数決でも同じことです。正しいとか間違ってるとかではありません。
中立的であると互いが同意出来る、即ち合意を形成しましょう。その為に、議論を行ないましょう。此処でも、此処以外の何処かでも。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月16日 (火) 13:06 (UTC)
だから、「五本の柱」やWP:NPOVWP:VWP:NORを始めとする方針・ガイドラインに則った記述にすることが、ウィキペディアにおける「正しい結論」ということでいいんですよね?--Dwy 2011年8月16日 (火) 13:42 (UTC)
その「~~に則った記述にする」ことは合意という単なる一時的な「結果」であって「結論」ではありませんよ。論じちゃ駄目じゃないですか。何でそう「白黒着けよう」とするんですかね。私は「何百年」なんて言葉が出るぐらい「白黒着けることにコダワリが無い」所為か、Dwy氏が「もし一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう」なんて口走っちゃう程に力説する「多数決で白黒着けることの正当性」とか何とかがピンと来ないのですよ。
基本的にほぼ単一の観点が圧倒的大多数を占める日本の文化的歴史的要因からか、多数決にも議論にも慣れて居ない(議論と説得と脅迫と言いくるめることとの区別が付いていない)人が少なくなく、逆にそういった文化に不慣れな人(子供とか若者とか、日本社会に於いて未成熟とされる人)にとって多数決は有無を言わさぬ数の暴力として機能してきたわけです。先にDwy氏が言った通り「「合意に向けての努力がまだまだ足りない」とか「Wikipedia:論争の解決の手順を尽くせ」という反論は常に可能」という建前ではありますが、(少数派による)その反論は数の暴力を認めた直後に一瞬で棄却される運命です。その点(多民族国家の人達から見ると㌧でもなく未熟なことに)日本の文化は異なる観点に対して寛容ではない「巨大なムラ社会」ですからね。
で、Dwy氏の提案その他は今のところ、その「巨大なムラ社会で通用していた脅迫とか」を「Wikipediaでも使えるようにしようぜ」と言っているように聞こえるわけですよ。いくらその本心だとか精神だとか効用だとか大義名分だとかを熱心に語ろうとも、その最終的な結論が「Wikipediaでも公的に数の暴力を使えるようにしようぜ」では、結局のところ「数の暴力で少数派を封殺出来るようにしようぜ」と同義なんですから受け入れられませんって。現状でも既に(私的には)使われていて少なくない意見が封殺されているわけですから、わざわざそれを「公的」にしようというのは、「公的には(=建前では)封殺すべきではない意見」を封殺しようと試みているのではないかという邪推を呼ぶわけです。それによって見当違いな意見が出され、見当違いな反論をする悪循環に入ることになってしまいます。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月17日 (水) 09:24 (UTC)
ここで私が言おうとしているのは、Wikipediaが合意に基づいて記事を編集することにしているのは、「議論することにより、より多くの(最終的にはすべての人)が正しい結論に近づいていくはずだ」という考えに基づくものだということです。「正しい結論」という言い方に問題があるなら適切に言い換えていただいて結構ですが、「結果」であって「結論」ではないのような言葉遊びめいた議論は、私にはあまり意味がないように思われます。
「白黒着けることにこだわりがない」とおっしゃいますが、現実に記事があってそこに何か書いてある以上、事実上の「白黒」は着いてしまっているとも言えます。何百年も議論しないと白黒はっきりしないなら、白黒はっきりしない間の記事をどうするのか決めなければなりません。議論がそこまで来たときに「数の暴力で決めるのは嫌だ」と言って結論を先延ばしにする人は、事実上「先に(こっそり)書いた者の勝ちにしよう」に賛成していることになります。それでよいのでしょうか?--Dwy 2011年8月17日 (水) 13:11 (UTC)
賛成していることになりませんよ。それは誤った二分法です。Dwy氏がその「誤った二分法」に基づいてその最終的な結論を「「Wikipediaでも公的に数の暴力を使えるようにしようぜ」」にしてしまったので、「それは違うだろ」と言っているのです。
Dwy氏が主張すべきことは「先に(こっそり)書いた者勝ちである現状を何とかしようぜ」であるはずなのではないでしょうか。なのに実際には一足飛びに「Wikipediaでも公的に数の暴力を使えるようにしようぜ」と主張しています。なので、その「飛ばした一足」を邪推されているのです。
「結果」であって「結論」ではないのような言葉遊びめいた
結論は論なので変わりません、論自体が変わらない限り。多数決により絶対不変な「何か」を求めるなら反対されなければなりません。Sweeper tamonten氏ではありませんが、「合意は常に変更可能」なのですから。
で、その言葉遣い(←結論)から「絶対不変な何か」を求める姿勢があると勘繰られて、こうして強硬に反対されているわけですよ。それ以外にも「勘繰る理由」があることは既に述べた通りです。
そしてその勘繰った結果として「多数決により当面の結果を出すということで合意を取り付けて於いて、それで結論が出たんだから反対するなとして少数派の意見を封殺しよう」と考えているのではないかという邪推に至っているわけです。
それはWikipediaの理念と理想に反した、万が一にも防がねばならない事態です。
腫瘍があります。治療しなければなりません。それには誰もが賛成するでしょう。ですが議論しなければならない問題があるのです。それは如何にして(How)治療するか、という手法です。ある手法に反対していることを根拠に治療すること自体に反対していると主張するのは明らかな誤りです。
現在Dwy氏は「とっとと切り落とせばいいじゃん?」と言っているのです。そりゃ指先の腫瘍なら高度な外科技術が特に要求されるわけでもないので「あり」かも知れません。実際、それ等は「私的に」行なわれています。ですがその腫瘍は「心臓のそば」にある場合もあるのです。想到高度な外科技術を以ってさえ死亡率の方が高くなるような、そんな場合まで十把一絡げに「とっとと切り落とせばいいじゃん?」で済ませるわけにはいきません。そもそも、それが「腫瘍」なのか否かも碌に判断出来ない素人集団(←Wikipediaが「誰でも」編集出来ることを忘れないで下さい)にそんなことを許すなど、只の殺人の正当化に使われても気付くことさえ難しいではないですか。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月18日 (木) 01:51 (UTC)
他に「手法」があるのなら別ですが、他の「手法」がすべて失敗してそれ以外に「手法」がなくなってしまったときに、その手法に頑なに反対するなら、治療自体に反対しているのと同じことです。
大体ウィキペディアの編集なんてものは、何を切り落としてもリバート一発でまたくっついてしまうわけで、心臓近くの腫瘍なんかに例えるのは、いくらなんでもたとえが悪すぎるかと。--Dwy 2011年8月18日 (木) 15:26 (UTC)
「他の手法が無くなった時に切り落とす手法を採用する為に、他の手法が無くなったって言い張れば切り落とせるにしようぜ」では「他に「手法」があるのなら別ですが~~」の条件を少しも満たしていませんよ。
リバート一発で
編集合戦を誘発させようって意見にはますます賛成出来ませんね。どんだけ管理者の負担を増やすつもりなんですか。「心臓」の意味がわかっていないとしか思えませんよ。
何時、誰が、何を根拠にリバートさせると言うんですか? 「切り落とす」根拠は理解出来ますよ、多数決ですよね? ではリバートさせる根拠は何です? 意見封殺された側には「リバートする根拠」があるのですが、それは数の暴力で意見封殺してしまうんですから「リバートする根拠」なんて無くなるんですよ。「ヤバければリバートすればいいんだから大丈夫」とか言われても説得力が無いですよね。何を根拠に「ヤバい」と判断するんですか? その時にはもう「他の手法が無くなった」はずなんですよね?
本件提案による多数決が行なわれたということは、もはや「他の手法が無くなった」ことが前提に存在するとDwy氏は主張しています。「他の手法が無くなった」ということは、多数決以外の判断基準が無いということです。その「最後に残った唯一の判断基準」で出された結果を「リバートする根拠」は当然に存在しないわけです。其処で「何を切り落としてもリバート一発でまたくっついてしまうわけで~~」と言って「間違って切り落としても問題無い」と主張することは「他の手法が無くなった」場合に限るという前提と矛盾しています。「間違って切り落としても問題無い」と主張出来るのは「またくっつけよう、と思う機会」が以後に存在する場合に限ります。即ち、多数決以外の手法により「間違っていた」ことが確認可能な場合です。でも「他の手法が無くなった」のならば「間違っていたことを確認」することは不可能であり、当然「またくっつけよう、と思う機会」など有り得ません。なので「多数決を行なったけど他の手段がまだまだあるから大丈夫」であるか「他の手段が無くなったので二度とくっつけることは無いけど多数決で切り落とそう」かのどちらかということです。
「指を詰める」という表現を聞いたことがあると思います。小指の第一関節を切り落とし謝罪等の意を示すことを言います。「これはもう指を詰める以外に無い」となった場合に、「現代の医療技術だと指ぐらいなら切り落としても元通りにくっつけられるんだから、指を詰めるぐらい大丈夫だよ」とか言われたとしても、詰められた指は地面に埋めて供養するのが「受け取った側の礼儀」であり、其処までが「儀式」です。切り落とした後には「くっつける機会」が無いんですよ。で、現代の医療技術がどう関係して何が大丈夫なんですか? 詰められた指が埋められないなら、それは「指を詰める以外にあった」わけですよね?
その矛盾を孕んだまま、恣意的に矛「他の手法が無くなった場合」と盾「間違ってても問題無い」を使い分ける姿勢で「他の手法が無くなった」とか言われても少しも信用ならないわけです。ぶっちゃけ、自分の対話能力の無さを棚に上げて「あいつらが悪いんだ、悪いやつらを「やっつけ」る大義名分をくれよ」と駄々を捏ねているようにしか見えないわけですよ、その矛盾が垣間見える限り。
Wikipediaには「巨大で中立的な百科事典」を目指すという理想があります。その理想の為に全ての理念があり、理念に基づいて全てのルールが策定されています。「巨大な百科事典」を目指す為ではありません。で、その「巨大で中立的な百科事典」と「巨大な百科事典」との相違はなんですか? 「中立的」であるか否かをどうやって判断するんですか? それは中立的「ではない」と主張する観点一つ一つと対話を行い中立的「である」という合意を得られる記述にしていくことです。中立的「ではない」とする観点一つ一つを意見封殺していくことではありません。「心臓」とは即ち「Wikipediaが中立的になっていく為に共に協力していく他の観点の人達」のことです。過去に井戸端で別の人に述べたことがありますが、そういった人達を意見封殺することは「俺様の気に入らないヤツは入れないユートピアを作ろうぜ」ということであり、結局のところ「何か素敵な場所(=Wikipedia)を見つけたから俺様の気に入らないヤツを追い出せる強権を手に入れて乗っ取ろうぜ」と同義なわけです。
そうではないのならば、そうではないことを「私が」理解し納得出来る反論をして下さい。矛盾を含み疑念を増すような「その場しのぎで言いくるめよう」とするのではなく。
いくらなんでもたとえが悪すぎる
Wikipediaの「心臓」と誤認させてしまったようです。不用意に「心臓」に例えたのは確かに不適切だったかも知れません。どれだけ意見封殺しようとも「巨大な百科事典」として生きているのですからね、植物人間だって生きていて心臓に支障は無いわけですし。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月19日 (金) 08:07 (UTC)
「腫瘍」とか「切り落とす」とか「指詰め」とか、Cray-Gさんの比喩はどれもこれも私から見れば大袈裟すぎて不適切だし、そもそも正確な意味がはっきりしません。できるだけ話を合わそうとしてみましたが、「リバート一発」みたいにこちらが考えてもいないところで言葉尻をとらえられたり、余計に話をややこしくするだけのようです。申し訳ありませんが、例え話の部分は「意味が分からない」ということで、スルーさせていただきたいと思います。
それから、「多数決」が少数派の切り捨てや少数意見の封殺につながるというご意見のようですが、それはちょっと偏った見方だと思います。それを言うなら、「全会一致」に固執して議論の結論を出せない場合は、少数意見ばかりでなく多数意見も切り捨てる結果になり得るわけで、さらに罪が重いでしょう。--Dwy 2011年8月20日 (土) 15:12 (UTC)
意味がわからないですか。では「論理的な説明」を行ないます。
「全会一致」に固執して議論の結論を出せない場合
それは現時点で「出せていない」だけで「いづれ」は出る話なのでしょう?
「いづれ」に対する観点の相違(主に時間的長さ)から色々と問題を生む話ではあるにせよ「殺されて」はいないわけですよ。未来への希望は残されているのであり、「いづれ」復活する可能性があるのですから「切り捨て」られてはいません。
「リバート一発」みたいにこちらが考えてもいないところで言葉尻をとらえられたり
ふむ。「考えてもいなかった」わけですか。考えても居ないようなことを発言して論敵に「無駄足」を踏ませるのは控えるようにお願いしますよ、お互いのみならず読む人まで無駄に消耗しますんで。
で、「考えてもいなかった」とのことなので言葉を変えますと「あらゆる議論が尽くされた状態で行なわれた多数決によって出た結論を変える『合理的手段』が無い」と私は主張しています。これを認めますか?
  • 認めるのであれば、「あらゆる議論が尽くされた状態」を明確に定義しなければ、単に多数派が「あらゆる議論が尽くされたと主張するだけ」で自動的に「議論による合意ではなく単なる多数決」で決定するだけの話になってしまい単なる「少数派の意見封殺」でしかなく、少しも「「五本の柱」やWP:NPOV、WP:V、WP:NORを始めとする方針・ガイドラインに則っ」ていないと思うのですが如何でしょうか。
  • 認めないのであれば、『結論』を変える『合理的手段』とは何ですか? それが『合理的手段』であると私も同意出来る(=合意が得られる)ならば、まさしく「リバート一発でまたくっついてしまうわけで、心臓近くの腫瘍なんかに例える」のが不適切であったことを全面的に認め得るわけですから、その合理的な手段によって「くっつける」ことを文案に盛り込む等もう少し前向きな姿勢で対話が可能だと思うのですが。
せっかくなので、改めて矛盾点を指摘します。
  1. 私が「少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう」と言ったのは、その時点までにあらゆる議論が尽くされた状態になっていることが大前提の話です。( --Dwy 2011年8月16日 (火) 10:06 (UTC) )
  2. 何百年も議論しないと白黒はっきりしないなら、白黒はっきりしない間の記事をどうするのか決めなければなりません。( --Dwy 2011年8月17日 (水) 13:11 (UTC) )
1.に於ける「あらゆる議論が尽くされた状態になっている」ことと2.に於ける「何百年も議論しないと白黒はっきりしない」が矛盾しています。「何百年も議論しないと白黒はっきりしない」なら何百年も議論していない現在では「あらゆる議論が尽くされた状態」になっていないわけですよね? なので1.に於ける「大前提」が満たされていないので「何百年も議論しないと白黒はっきりしない」問題に関してはDwy氏の主張に基づく限り「少数派が多数派に従うのは自然なこと」ではありません。
即ち、2.の「何百年も議論しないと白黒はっきりしないなら、白黒はっきりしない間の記事をどうするのか」は1.で言う「大前提」を満たしていない本件とは無関係な話のはずです。にも係わらずDwy氏は私の質問した「多数決で白黒着けることの正当性」として2.を主張しました。これは前述の通り本件とは無関係な話ですので「多数決で白黒着けることの正当性」はまだ説明されていません。
挙句の果てには「議論がそこまで来たときに「数の暴力で決めるのは嫌だ」と言って結論を先延ばしにする人は、事実上「先に(こっそり)書いた者の勝ちにしよう」に賛成していることになります。それでよいのでしょうか?」と続けています。私はそれが誤った二分法であることを指摘すると同時に、「やんわりと」矛盾を指摘していますが、ご理解を戴けなかったようなので、上記の通り改めて矛盾を指摘します
繰り返しますが、「あらゆる議論が尽くされた状態」になっていない限り多数決を認めないのであれば、多数決は「白黒はっきりしない間の記事をどうするのか」の解決手段では有り得ないと私は考えます。私の考え違いを正す反論をして下さい。それが議論です。
或いはそれもまた「考えてもいなかった」んだと言って、改めて「多数決で白黒着けることの正当性」を説明して戴くのでも構いません。私はそれを認めなければなりません。それもまた議論です。
さらに言うなら、それもまた「考えてもいなかった」んだと言って、改めて「あらゆる議論が尽くされた状態に限らない」と主張し直して戴くのでも構いません。それさえも認めるのが議論です。
ちなみに、そこまで遡ってもなおDwy氏が主張したいであろう内容に変化は無いと私は認識していますし、また合意を形成する余地があると考えています。飽くまで、Dwy氏がちょっと「一足飛び」しているだけだと考えているので、Dwy氏が「一足飛ばさずに」考えて戴ければ済む話だと思っています。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月22日 (月) 03:45 (UTC)
「いづれ(何百年後かは知らないがいづれ)合意が形成され」とおっしゃっているのはCray-Gさんであって、私ではありませんから、そこのところを矛盾と言われても困ります。まあ、「あらゆる議論が尽くされた」のところは「(当面考えうる)あらゆる議論が尽くされた」くらいに解釈していただければと思います。
「未来への希望は残されているのであり」は、あまりにも現実を見ていないとしか言えません。考えうる論点をすべて提示しつくしてもなお「俺たちの意見は変わらない」と言われてしまえば、当面は、それ以上何もできることがなくなります。Cray-Gさんは白黒つけていない限り議論は継続できるというご意見のようですが、現実の問題として、同じことを何度も繰り返して発言するのはウィキペディアのリソースの浪費ですし、やってる本人だって嫌気がさすというものです。結局、変革を望む者の意見が事実上封殺されてしまう結果になるわけです。
念のために一応言っておきますが、新たな論点を提示してみんなの意見を変えるという「希望」であれば、多数意見に従った決定を下した後でも、多数決を嫌って結論を先送りした場合でも、同じ条件で抱けるものですので、その点はお間違いのないようお願いします。--Dwy 2011年8月22日 (月) 15:54 (UTC)
そこのところを矛盾と言われても困ります
其処は矛盾ではありませんよ。指摘してないですよね? 「矛盾だと指摘していない」ことを持ち出して「矛盾だと指摘されても困ります」とか言っても反論になっていませんよ。誤魔化さないで下さい。そうやって誤魔化す姿勢では、「新たな論点を提示」されても見当違いなことを言って誤魔化すのだろうと疑念が湧きますよ。
私が指摘しているのは、Dwy氏の発言した
  1. 私が「少数派が多数派に従うのは自然なことでしょう」と言ったのは、その時点までにあらゆる議論が尽くされた状態になっていることが大前提の話です。の「あらゆる議論が尽くされた状態になっていることが大前提」=多数決による決定はあらゆる議論が尽くされた状態になっていない限り適用しない
  2. 何百年も議論しないと白黒はっきりしないなら、白黒はっきりしない間の記事をどうするのか決めなければなりません。の「白黒はっきりしない間の記事をどうするのか決めなければなりません」=白黒はっきりしない間の記事をどうするのか決める為に多数決を適用する必要がある
の二つが矛盾している、ということです。「2.は1.の大前提を満たしていない」ので私の発言への反論になっていないんですよ。同発言にて私は「それによって見当違いな意見が出され、見当違いな反論をする悪循環に入る」と言いましたが、今がまさにその状況なのです。誤魔化さないで答えて欲しいのです、議論としても対話としても。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月23日 (火) 02:54 (UTC)
(インデント戻しますね)「『あらゆる議論が尽くされた状態になっている』ことと…『何百年も議論しないと白黒はっきりしない』が矛盾しています」というのは、ちょっと違うと思いますよ。
通常、2~3か月も議論していれば、考えうる論点はすべて出尽くしてしまい、議論は堂々巡りに陥る。それから先は、それ以上議論を続けても編集者の時間とウィキペディアのリソースを浪費するだけで、得るものはほとんどなくなる。これが私の認識・理解であり、私の言う「議論が尽くされた状態」の意味です。
一方、「何百年も議論しないと白黒はっきりしない」は、Cray-Gさんが「いづれ(何百年後かは知らないがいづれ)合意が形成され」とおっしゃっているのを受けた発言です。もう少し言葉を足すと、「数か月議論しても問題が解決しないなら、そのあと何百年議論しても時間の無駄だと僕は思う。だけど、Cray-Gさんがどうしても議論するチャンスを与えるべきだというなら、その点は百歩譲ろう。でも、何百年も議論するなら、その間記事をどうするか決めなくてはいけないよね」ということです。全然矛盾はありません。
…で、私ばかりでなく、Cray-Gさんにも答えてほしいのですが、何百年も議論するなら、その間記事はどうするのですか?これまでの議論を見る限り、「先に(こっそり)書いたもの勝ち」を放置するわけではないと主張されているように見えますが、具体的にはどうされるのでしょうか?--Dwy 2011年8月23日 (火) 12:37 (UTC)
ふむ。「通常、2~3か月も議論していれば、考えうる論点はすべて出尽くしてしまい」のあたりでいきなり見解の相違があるわけですね。
今まさに私とDwy氏との議論の中で前回までの投稿でDwy氏がしてきたように「質問に答えてもらえない」ことで「何処に見解の相違があるのかを知ることが出来ない」まま互いに見当違いな論点を出し続けるだけで「2~3か月も議論」が続き、互いに見当違いなので「堂々巡りに陥る」のだと私は考えています。その状態は単に「そもそも議論がされていない」(=単なる言い合いをしているだけな)のであって、議論が尽くされた状態ではないと認識しています。
それは「単なる言い合い」をやめて「議論」を行なえば(=質問に答えれば)解決する問題であって、議論参加者が作り出した状態でありイコール「議論参加者が意図的に作り出すことが出来る状態」なのです。故に「(Dwy氏の言う)議論が尽くされた状態」になったら多数決に移行するという規定はイコール多数決を希望する側は「(Dwy氏の言う)議論が尽くされた状態」を意図的に作り出すことで多数決を希望しない側の同意無しに多数決を強行出来る、という規定であると主張しています。
で、今回質問に答えてもらったことで、Dwy氏は私の言う単に「そもそも議論がされていない」(=単なる言い合いをしているだけな)のであって、議論が尽くされた状態ではない状態を「議論が尽くされた状態」だと認識していると私は認識しました。またそれ以前から私は、私が「Dwy氏が認識している」と認識したことと同じ認識をしている人が多数派であると認識しています。その多数派の人達は議論をしようとせずに説得しようとします。Dwy氏が私の質問に答えず(=議論をしようとせず)に「先に(こっそり)書いたもの勝ちという問題を何とかしなければならないだろ」と説得しようとしたように。
議論は説得する為の有用な手法の一つですが、説得すること自体は議論ではありません。白馬は馬ですが、馬は白馬ではないように。
何百年も議論するなら、その間記事はどうするのですか
その間、つまり議論中に限定する規定を設ければ済む話です。案が無いわけではないのですが、前述の通りDwy氏の主張が一足飛びに「その間」に限らず何にでも多数決に出来るようにしようぜ、になってしまっているので「それは違うだろ」と言っているだけの話です。
過去にはWikipedia:裁定委員会Wikipedia:調停委員会等の案が出されたこともあるそうです。議論中に限定する規定を設けることが出来れば、多数決を基本とした暫時裁定委員会でも何でもアリでしょう。その暫時裁定委員会(仮称)の提案なら私も前向きに検討する余地が大いにあります。
先に(こっそり)書いたもの勝ち」という問題は誰もが認識しています。その誰もが認識している問題を解決することに反対しているわけではありません。ですがその誰もが認識している問題を解決する為であろうとも、Wikipediaを多数決主義にする提案には強硬に反対します。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月24日 (水) 03:20 (UTC)
>前回までの投稿でDwy氏がしてきたように「質問に答えてもらえない」ことで
昨日まで私が質問に答えていなかったという認識とは驚きました。私としては、最初から質問には答えているのになかなか理解してもらえず、昨日丁寧に説明しなおしたら、やっと分かってもらえたという認識です。
>今回質問に答えてもらったことで、Dwy氏は私の言う単に「そもそも議論がされていない」(=単なる言い合いをしているだけな)のであって、議論が尽くされた状態ではない状態を「議論が尽くされた状態」だと認識していると私は認識しました。
はっきり言って、何をおっしゃっているのかさっぱり意味が分かりません。前回の「何か『正しい』ものがあるという幻想に取り憑かれている」や「矛盾しています」が誤解だったように、今回も私の発言を誤解されていると思います。
そちらの真意が分からない段階での発言が余計に誤解を生むのが怖いのですが、あえて一言だけ言わせていただければ、少なくとも双方が相手の主張内容を理解していなければ(あるいは、どんなに努力しても理解不能であることが(第三者から見ても納得できる程度に)判明するまでは)「議論が尽くされた状態」とは言えません。
>多数決を基本とした暫時裁定委員会でも何でもアリでしょう。
「暫定裁定委員会」って、だれが委員をやるんでしょう?あっちこっちで発生する論争がどんどん押し寄せてきますけど、全部ちゃんと引き受けて結論を出すだけのキャパが期待できますか?また、どうせ多数決が基本なら、委員会による多数決であろうが、委員の任命権を持つコミュニティそのものの多数決でも、大して変わりはないような気がしますが?--Dwy 2011年8月24日 (水) 15:00 (UTC)
丁寧に説明しなおしたら
観点が異なり前提が異なるから見解が異なるのです。最初から丁寧に説明してもらえればお互いに消耗が少なくて済むと思うのですが、如何なものでしょうか。
何をおっしゃっているのかさっぱり
議論とは、互いに反論と再反論を行なうことで少しづつ認識の相違点を探ることで共通の認識を確認していき、互いに少しづつ自己の主張を修正し合い続けることです。最終的には全ての認識が共通していることが確認された段階で、修正され続けてきた互いの主張は同一となり、イコール合意が形成されることになります。
二点の「誤解だった」と言うのがもしも「誤解が解かれた」と言う意味であるのであれば、その「Dwy氏の観点から見た誤解」はまだ解かれていませんのでご留意を戴きたく。
最初から質問には答えているのになかなか理解してもらえず
互いに異なる観点に立脚しているので、互いに異なる前提の上で発言を行なっています。その相手が持つ「異なる前提」を知る為に「異常だと思う点」を指摘=質問をし、その指摘の「異常だと思う点」を指摘=質問し返されたり、返答に対しさらなる質問を重ねていくことで相互理解を行なうのが議論です。
もしかしたら私は最近、直接的に指摘するのは相手に強い刺激になるので控えたほうがいいと忠告を受け気を付けていた所為で伝わり難かったのかも知れません。今回もまたそうのようです。
  • Dwy氏の言う「通常、2~3か月も議論していれば、考えうる論点はすべて出尽くしてしまい、議論は堂々巡りに陥る」というのは、「何処に見解の相違があるのかを知ることが出来ない」まま互いに見当違いな論点を出し続ける(=返答したつもりになっている)だけで「2~3か月も議論」が続きながらも互いに見当違いなので堂々巡りに陥った状態であり、その状態は議論参加者が意図的に作り出すことが出来る状態である。
と私は認識していて、それ故に「Dwy氏の言うあらゆる議論が尽くされた状態」になっていることを条件とすることに反対しています。対するDwy氏の返答は、
  • 少なくとも双方が相手の主張内容を理解していなければ~~「議論が尽くされた状態」とは言えません
となっているわけですが、その「双方が相手の主張内容を理解して」いるか否か即ち「議論が尽くされた状態」であるか否かを何時、誰が、何を根拠に判定するのですか?
誰か独りでも「理解出来ていない」と主張すれば「議論が尽くされた状態」ではない全会一致でしょうか? そうすると多数決を望まない「少数派」は間違い無く「理解出来ていない」と主張することで「議論が尽くされた状態」にならないようにすることが出来ます。すると多数決により決定する為には事実上多数決により決定するという合意が必要である現状と全く変わりは無く、本件提案は無意味です。
ならば多数決でしょうか? であれば主張内容や議論の状況如何に関わらず、少数派は自動的に消えることが確定します。
さもなければ誰かそれ用の権限者を設定し、彼等彼女等の裁定に基づくものでしょうか? であればDwy氏の発言通り「委員の任命権を持つコミュニティそのものの多数決でも、大して変わりはない」でしょうし、むしろ特定少数の恣意的な判断が横行することになるので却って好ましくありません。
でなければ現状のブロック依頼のように「議論が尽くされたか否か裁定する手順」を設け、管理者だか委員会だかの裁定を待つ? 単に議論の場所が移動するだけ(フォーラム・ショッピングと呼ぶらしいですね)でしか無いと思うのですが如何でしょう。またその裁定を管理者に押し付ける場合、既存の管理者はそれらの裁定を正しく行なえると信任を受けたわけではないとか、新たな管理者の立候補に際しハードルが上がり管理者不足をより深刻にするとかの問題が持ち上がります。
故に、例えDwy氏の反論を認めたところで、本件提案は良く言っても無意味であり、悪く言えば多数派が数を頼みにゴリ押しする公的な根拠にしかなりません、という私の主張に変化は何もありません。
私の主張に変化をもたらし得る反論とは、Dwy氏の言うあらゆる議論が尽くされた状態を意図的に作ることが出来るという私の主張に対し、
  1. それが不可能である現実(Dwy氏の観点からは現実/私の観点からは幻想)を説明する(そしてそれが可能であるという幻想(Dwy氏の観点からは幻想/私の観点からは現実)を打ち砕く)
  2. それが不可能になる明確に定義された条件を追加する(=1.の一種であり「あらゆる議論が尽くされた状態」を丁寧に再定義する)
  3. それが不可能になる「双方が相手の主張内容を理解しているか否か」の判定手順を明確にする(=2.の一種であり既に反論された条件である「少なくとも双方が~~」を丁寧に再定義する)
  4. それが不可能ではない現実を認め、それへの対策(つまり「そう決まったんだから我侭言わないでちゃんと従えよ」と言われた場合の対抗策)を講じる
  5. 上記以外でも私が想像することすら不可能な予想外の発言をする
のいづれかになります。それ以外は「見当違い」の返答なのです。なお、これはDwy氏が私の観点を理解する為に私に対し質問(=指摘)すること等を禁止しているわけではないことに留意して下さい。つまり「質問したことにYes/Noのみで答えろ」と言うのはおかしい、とか見当違いなことを言わないで下さいね、ってことです。
全部ちゃんと引き受けて結論を出すだけのキャパが期待できますか?
Dwy氏の言う「結論」と私の言う「結論」とで意味の相違がある問題に関してはとりあえず置いておいて、手法に工夫は必要でしょうがキャパを期待出来ると考えています。botの助けも期待出来るわけですしね。
ただ、私が想定している手法は聞いた人が吃驚仰天するような「議論を呼ぶ」概念を含むことになりそうなので、ある程度固まらないと軽々に言えないところが玉に瑕なのですが。つまりDwy氏が想像している「暫定裁定委員会」とはかなり趣きが異なるだろうと考えています。そして後半の通り大して変わりは無いので、委員による多数決は想定していません。対パペット条件を除けば、基本的に全ウィキペディアン参加型の多数決を想定しています。実際には恐らく「委員会」という形すら採らないんじゃないかと思いますが、3rrに関連する保護依頼をどちらの版にするか等の問題だと管理者の手を煩わせることになるので色々と微妙な点を残しています。
とにあれ、私の案とは異なろうとも「議論の代替に用いられない」形であれば構いません。「先に(こっそり)書いたもの勝ち」という問題を解決する為であれば「議論の代替に用いられない」ことは問題では無いと考えます。問題は本件提案ではそれを保証する条件が無い故に「議論の代替に用いる」ことが可能になることです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月25日 (木) 09:57 (UTC)
>互いに異なる観点に立脚しているので、互いに異なる前提の上で発言を行なっています。その相手が持つ「異なる前提」を知る為に「異常だと思う点」を指摘=質問をし、
相手の「異なる前提」が分かっていないと認識しているのなら、「異常だと思う」こと自体がおかしいです。発言の前提も理解していない人にいきなり「矛盾しています」と言われたら、誰だって頭にきます。普通に「あなたの発言のこの部分はどういう意味ですか」と訊けば済むことです。
>その「Dwy氏の観点から見た誤解」はまだ解かれていませんのでご留意を戴きたく。
自分が言ったことなら仕方がありませんが、言ってもいないことを、「お前の発言はこういう意味だ」と勝手に決めつけられても困ります。「何百年も議論しないと白黒はっきりしない」が矛盾しているとのご指摘ですが、それはCray-Gさんの意見を引用したものであって、私の意見ではありません。「何か『正しい』ものがあるという幻想に取り憑かれている」についても、私の発言中にそういう乱暴な決めつけを正当化するような表現は存在しないと思います。
>直接的に指摘するのは相手に強い刺激になるので控えたほうがいいと忠告を受け気を付けていた所為で伝わり難かったのかも知れません。
言う必要があること、言った方がよいことであれば、遠まわしに言うより、直接的に言う方が良いと思います。但し、議論の本筋から外れたことや、最初から相手の納得が得られる見込みがないとわかっているようなことは、言いたい気持ちを抑えて胸にしまっておく方がよい場合も多いと思います。(例えば、「最初から丁寧に説明してもらえればお互いに消耗が少なくて済む」みたいなことは、Dwyの方にも言い分があることはちょっと考えれば分かることですし、そういうお互いの言い分をぶつけ合っても論争の解決に何の貢献もしませんから、あまりしつこくは言わない方が良いと思います)
・・・で、ここからが本論ですが、議論が尽くされた状態を完璧に定義し尽くすのは困難ですが、現実の問題としてそれを確認するのはそれほど難しいことではありません。
「議論が煮詰まってきたから、双方の主張を箇条書きでリストアップして、整理しなおそうよ」
「OK。こっちの主張はこんなもんかな。」
「こっちの主張はこれこれこれだよ」
「もうほかに追加はないかな?」
「こういう考えもあるよ」
「なるほど。」(ひとしきり議論したのち)「ではそれも、リストに入れよう」
「では、もうほかに追加するものはないかな?」
「こういう意見もあるよ」
「その意見はリストのここに既出だね。他に意見がある人?」
(無言)
「じゃあ、もう一度、しっかり双方の主張を読み直して、自分の意見が変わるかどうか確認して」
「変わんないね」
「じゃあ、当面議論すべきことはすべて議論したということだね」
ちなみに、調査投票をやるのであれば、こういう作業は必須です。まあ、言うほど簡単ではないかもしれませんが、決して不可能ではないでしょう。--Dwy 2011年8月26日 (金) 18:48 (UTC)
しつこく云々に関しては、「丁寧でない」言い方が当方観点をあまりにも無視した言い方になる(←つまりお互い様です)からこそ議論という手順を踏むのに、Dwy氏がそのことに少々無頓着に見えたもので。矛盾を指摘するのは議論では最も重要な手順なのにそれはどうかとか何とかもそうなのですがね。過去に井戸端でも言いました井戸端subj分割後)が、私の言う「充填された語」(←暗黙知とか言う概念が関係しているらしいですよ)の差異の所為で「矛盾に見える」ので、対話によりそれを特定しピンポイントに説明を求めることが最も効果的に相互理解が進むわけです。そういった手順の集合が議論です。今読み直してみて思いましたが、当時Dwy氏に対して抱いた危惧と同じ危惧を今もまた、Dwy氏に対して抱いていますよ。
さて、ちょっと嫌味な書き方になってしまうのですが。
「議論が煮詰まってきたから、双方の主張を箇条書きでリストアップして、整理しなおそうよ」
「OK。こっちの主張はこんなもんかな。」
  • 南京大虐殺に改名するべきである
「こっちの主張はこれこれこれだよ」
  • 南京事件 (1937年)に改名するべきである
「もうほかに追加はないかな?」
「こういう考えもあるよ」
  • 南京暴虐事件に改名するべきである
「なるほど。」(ひとしきり議論したのち)「ではそれも、リストに入れよう」
「では、もうほかに追加するものはないかな?」
「こういう意見もあるよ」
「その意見はリストのここに既出だね。他に意見がある人?」
(無言)
「じゃあ、もう一度、しっかり双方の主張を読み直して、自分の意見が変わるかどうか確認して」
「変わんないね」
「じゃあ、当面議論すべきことはすべて議論したということだね」
これとの区別が「客観的に」付かないわけですよ。言いたいことがわかることは先の井戸端の時にも言った通りですが。亜米利加法廷でポルノサイトの定義に関して揉めた時にも「ポルノサイトの定義なんぞ出来んが、ポルノサイトか否かは見ればわかる」と叫んだ議員が居たとか何とか。Wikipediaにも法廷に類するもの(例として委員会を挙げました)があればまぁ、そういう解決もありかとは思うのですが、それも結局多数決でとなるのならば、要するに多数派の思う侭ではないですかと。況してやそれを双方共に消耗した後で提案するなど、誘惑に耐える方が難しいでしょう。
本項#コミュニティの議論にある「合意について慣れていない新しい利用者は投票が行われるなら、それは議論の終わりより、むしろ始まりに頻繁に行われるという傾向を理解しなくてはなりません」からも、「議論の終結に多数決を用いる誘惑」があり且つそれを「推奨していない」ことが読み取れます。読み取れないようであれば、その旨のご返答を戴きたく。またその際には、私がDwy氏のことを「合意について慣れていない利用者」だと認識していることを御理解戴きたく御願い致します。Dwy氏が慣れているのは「日本流の合意」であって、「Wikipediaで言うところの議論により形成される合意」ではないという意味です。より厳密には「議論に慣れていない」のだと言うべきかも知れません。その点の説明は過去に井戸端で行ないましたので、そのことに関する質問への返答は、過去に井戸端に書いた内容の言葉を変えたものになります。今度は「暗黙に充填された語」の補足として暗黙知という語を用いることになると思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月27日 (土) 10:42 (UTC)
私の方から見ると、要するに、Cray-Gさんは私が言ってもいない勝手な言葉を「充填」し、その「充填された語」の部分を捉えて「矛盾している」のような言いがかりをつけてきているわけです。「リバート一発」にしても、私にとっては「(間違えても直せばよいというウィキの哲学に基づく)リバート一発」であるのに対して、Cray-Gさんは「(理由を説明をせずに繰り返せば編集合戦を引き起こす)リバート一発」だと解釈して「編集合戦を誘発させようって意見」のレッテルを貼ったわけです。もっと丁寧に説明するなら、「編集合戦」(=議論をせずに編集強行を繰り返すこと)の要素は、私の発言(「リバート一発」)ではなく、Cray-Gさんが「補充」した部分にしか存在しません。私としては、自分と意見の違う人の発言を解釈するときには、もう少し慎重にやってほしいと言わざるを得ません。
それから、「議論が尽くされた状態」の例についてですが、現実の話としては、論点整理で出てくる論点が「南京事件 (1937年)に改名するべきである」とか「南京暴虐事件に改名するべきである」のような大雑把なレベルであるはずはありません。実際には、「○○○だから『南京事件』にすべきだ」とか「×××だから『大虐殺』にすべきだ」のような論点が山ほど出てくるはずです。Cray-Gさんの例は現実味がなさすぎます。
とはいえ、もし本当にCray-Gさんの例のような進行で「他に意見がある人?」→(無言)となったとして、それで「議論が尽きた」としてはいけない理由があるでしょうか?他に意見が存在しない以上、さらに議論を続けても、リストアップ済みの意見を順繰りに繰り返すしかありません。そんなことに何の意味があるでしょう?何もありません。
「投票が行われるなら、それは議論の終わりより、むしろ始まりに頻繁に行われる」については、私の理解を説明する前に、Cray-Gさんの理解を聞かせてください。この一節が「議論の終結に多数決を用いること」を推奨していないのであれば、「議論の始まりに多数決を用いること」を推奨or是認しているということでしょうか?
それから、私のことを「合意について慣れていない利用者」と認識されているとのこと、別に否定も肯定もしませんが、もしそうだとして、だから何だというのでしょう?そういうことを論じることによって、ここでの問題解決に役立つ何らかの合意が成立する見込みがありますか?私には、どう考えても無駄な議論にしか思えません。--Dwy 2011年8月27日 (土) 16:06 (UTC)
私の方から見ると、要するに、Cray-Gさんは私が言ってもいない勝手な言葉を「充填」し~~Cray-Gさんが「補充」した部分にしか存在しません
当たり前です。Dwy氏が最初から「編集合戦を誘発させる目的で本件提案を行なっている」はずが無いではないですか。お互い善意に取っているのですよ。ですがDwy氏の目的がどうであれ、Dwy氏と私(=Dwy氏の論敵)との間には観点の相違があるのです。人はその観点に基づいて「勝手な言葉を充填」して解釈するものであり、それはお互い様です。問題は、その「充填した勝手な言葉」は普通はお互いわざわざ言わない(=お互い言う必要があるとは思っていない)ので言われないまま、同じ言葉への解釈が互いに異なることに気付かないまま無駄な言い合い(=議論のような議論ではないもの)が「何百年も」続くのです。
それを防ぐ手順が議論です。互いの「充填した勝手な言葉」が何かを明らかにする手順です。Dwy氏も「勝手な言葉を充填」しているのですよ、私の観点から見れば。
ですがDwy氏はそれに気付いていません。自分がどんな「勝手な言葉を充填」しているのかを理解しておらず、それを「充填されていない正確な言葉」だと認識しているのです。それはお互い様ですので「充填されていない正確な言葉だと認識している」こと自体は仕方がありません。ですがDwy氏の観点に立脚すれば「充填されていない正確な言葉」かも知れませんが、他の観点に立脚すれば「勝手な言葉が充填されている」のだということを御理解下さい。そして私(=Dwy氏の論敵)の観点から見て「どんな言葉」が充填されているのかを明らかにし、Dwy氏の主張を私(=Dwy氏の論敵)に理解させて下さい。その為に行なうのが議論です。議論が行なわれているなら「何百年も続く」ことにはなりません、それが議論によって解決出来る問題である限り。
この議論に於いては、Dwy氏が『見当違いな説明(私視点)』しかしないので私が『勝手な言葉を充填(Dwy氏視点)』しました。Dwy氏が『何を説明すべきか(私視点)』を明確にしているわけです。それは『充填された勝手な言葉(Dwy氏視点)』であることを指摘することではなく、『充填された勝手な言葉(Dwy氏視点)』が如何に『間違っている(Dwy氏視点)』かの説明です。私の発言は『間違っている(Dwy氏視点)』はずです。それを間違っているとのみ指摘するのは無意味です。如何なる理由でそれが『間違っている(Dwy氏視点)』のかを説明しなければ議論にはなりません。それは容易なことではありませんが「それは容易ではないからもっと楽な多数決で決めようぜ」は許容出来ません。
「お前の言うそれは思い込みだ!」ではなく、せめて「お前の言うそれは思い込みだ!何故ならば○○は△△という意味だからだ!」と答えて欲しいわけですよ、「○○は△△」という概念を知らない私(=Dwy氏の論敵)の為に。本来ならもっと早くからそういう答えをしてくれたなら、こんな「どう考えても無駄な議論」とやらをせずに済むのですが。
私には、どう考えても無駄な議論にしか思えません
私には、Dwy氏が議論を避けようとしているようにしか思えません。ですがそれはDwy氏が「合意について慣れていない利用者」だと、さらに言うなら「議論(に基づく合意)について慣れていない利用者」だと解釈すれば、「Dwy氏が議論を避けようとしている」わけではなく「Dwy氏が議論のやり方を知らないから避けようとしているように見える」だけだと思うことが出来ます。善意に取ってそう解釈しているので、そういうことを論じることによって、ここでの問題解決に役立つ何らかの合意が成立する見込みがあると考えています。つまり、Dwy氏が議論をしてくれれば。
そしてこの議論の問題が議論によって解決出来ない問題ではない時には、いづれ「議論が尽きる」時が来るでしょう。互いに相手の発言に『異常に見える』ところが一切無く全ての認識が同一であることが確認されたにも関わらず、異なる結論に到達する状態です。
とはいえ、もし本当にCray-Gさんの例のような進行で「他に意見がある人?」→(無言)となったとして
それは「議論が尽きた」と合意が得られた場合ですね。確かに合意が得られたなら何も問題は無いです、例え合意の結果として多数決で決めることになったとしても。これは私の例が悪かった。
議論がされていない、ということを言いたかったのですが、「議論(に基づく合意)について慣れていない利用者」に対しては伝わらなくて当然かも知れません。言いたいことだけ言って終わりなら、そりゃ裁定機関(法廷とか多数決とか)に委ねるのは当然の選択肢ですし。
説明は難しいですが、先に述べた互いに相手の発言に『異常に見える』ところが一切無く全ての認識が同一であることが確認されたにも関わらず、異なる結論に到達する状態が、何等の理由も根拠も示されずとも「一方が単に相互理解を拒絶する」だけで容易に構築可能であることを問題視しているのです。先の例では「何等の理由も根拠も示されずとも」は表現出来ましたが、「一方が単に相互理解を拒絶する」が表現出来ていませんでした。先の例では後半が「双方が共に相互理解を拒絶する」ことで合意が形成された状態ですね。
この議論に於いてDwy氏は相互理解の努力を行なっているわけですが、このまま私が何を言ってもDwy氏が「何を言っているのかさっぱり意味が分かりません」とか「それはわかっていますよ」とか言い続け、私が同じことを何度も何度も繰り返したところでDwy氏が「先程から同じことを繰り返すばかりで新しい論点が何も出てきませんね」と言えば、議論は何も進まないままで「互いに相手の発言に~~異なる結論に到達する状態」が再現出来るわけですよね。それも私独りが「いつまでも「納得」しない利用者」とか「コミュニティーを疲弊させる利用者」とかのレッテルを貼られる形で。
「議論の始まりに多数決を用いること」を推奨or是認しているということでしょうか?
その「推奨or是認」が(結果/結論同様)ニュアンス的に云々はともかく、そういうことではないでしょうか。多数決(投票)の優先順位は議論(合意)より低く、せいぜいがところ「調査」程度、議論の前準備程度の価値しか無いわけです。多数決(投票)の結果は議論(合意)の結果で必ず(同じ内容かも知れませんが)上書きされます。「むしろ始まりに頻繁に」というのは、民主主義的常識(議論の結果として多数決を利用する)に基づいた観点と、Wikipediaの理念(議論の結果として合意を形成する)に基づいた観点との相違点を示しているのだと思います。それが「どのように」相違しているのかの説明はありませんがね。
で、その「多数決」という同じ用語を相違なる二つの観点(民主主義的常識vsWikipediaの理念)それぞれで相違なる意味で用いていること、そして当然に民主主義的常識の観点に立つ人の方が圧倒的大多数なわけですから、そのまま話をしても誤解と混乱を産むだけです。日本は名目上君主制ではありますが、事実上民主制でもあります。日本の人口と日本語版Wikipediaのウィキペディアンの人口とでは、日本の人口の方が圧倒的大多数でしょう。多数決なんぞ導入すれば、民主主義的常識が圧勝しWikipediaの理念は排斥されてしまうわけです。それが「心臓近くの腫瘍」に例えた理由です。WikipediaからWikipediaの理念が無くなれば、Wikipediaは「単なる巨大な百科事典」でしかなくなります。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月29日 (月) 08:37 (UTC)
だんだん疲れてきましたが、もう一度だけ努力してみます。相手が言っていない言葉を勝手に「充填」して、その「充填」した部分を批判するのは詭弁の一種であり、論理的に正しくありません(そういうのをストローマンとか藁人形論法とか言うそうです)。また、「自分の解釈を入れないで、原文に忠実に」(WP:NOR)とというのはウィキペディアの基本で、記事の編集ではみんなやっていることなんだから、勝手な言葉が充填されるのが当り前みたいな言い方は説得力がありません。
それから、今度のCray-Gさんの発言では「民主主義的常識」とか「Wikipediaの理念」とか、いきなり新しい抽象的な概念が登場しました。Cray-Gさんは誰もが理解していて当然のような口ぶりでこれらの概念を語られますが、他の人にはCray-Gさんがどのような意味でこれらの言葉を使っておられるのか正確には分からないと思います。Cray-Gさんとしては、自分の意見を説明したことにより相互理解に一歩近づいたつもりかもしれませんが、私としては、理解・解決すべき事項がまた増えて、問題がますます複雑になっています。出来れば抽象的な一般論は避け、可能な限り問題を具体的に論じるようにした方が、お互い理解しやすいのではないかと思います。
(以上の議論は、論争の直接の論点からは外れたものであることを自覚しながらも、こちらの意見を聞いていただたら少しは議論が円滑に進むようになるかなと思い、議論を続けてきたものです。Cray-Gさんが同意できないということなら反論いただいても結構ですが、これ以上お互いの言い分をぶつけ合っても、論争解決に直接的な貢献はしないと思いますので、私の方からはここまでということにしたいと思います。)
(で、ここからが本論です)「一方が単に相互理解を拒絶する」危険性については私にも理解できますが、ちゃんと議論する気のない人に無理やり議論させることはできません。(どのような状況や理由であれ)それ以上議論しても議論が先に進まないという状態になったら、「議論が尽くされた」とする以外ないと思います。もっとも、直接の議論相手がちゃんと聞いてくれない場合であっても、自分が言いたいことだけはちゃんと言う権利があるわけですし、第三者(コミュニティ全般)に向かって訴えかけることは可能です。もしそれが成功すれば多数決で多数になることもあり得ますから、「相互理解の拒絶」は、多数決に勝つ戦略としては、必ずしも優れたものではありません。
一方で(ここのところをCray-Gさんにもよく考えていただきたいのですが)、「一方が単に相互理解を拒絶する」危険性は、実際には、全会一致でやる場合の方が高いのではないかと思います。多数決でやる場合には、他人を説得する努力を怠れば多数決に負ける危険性がありますが、全員一致でやる場合の現状維持派は自分が「反対」と言い続けていれば良いわけで、まじめに議論するインセンティブがありません。多数決の場合の少数派には、コミュニティ全般に訴えかけ、その賛同を得て多数派になるという手段が残されていますが、全員一致の場合の変革派は、現状維持派の相互理解拒否に対して打つ手が何もありません。
多数決が良いとは決して言いませんが、どうしても全会一致ができないとき、あくまで全会一致にこだわるより、多数決を認める方が「まだまし」とは思いませんか?--Dwy 2011年8月30日 (火) 17:05 (UTC)
私は別に多数決に対してアレルギー反応を起こしているわけではありませんし、そもそもWikipediaでは多数決が既に認められていることは私以外の論者からも言われているわけです。飽くまで「多数決を議論の代替として議論を終結させる」ことに反対しているだけであり、その為に本件提案は不適切であると主張しているだけです。私はどちらかと言うと多数決の有用性を考慮し、Wikipediaとは真逆の「多数決のみによる運営システム」の構築が可能なのではないかとぐらい考えています。Dwy氏が私を説得するべき点は「多数決の有用性」ではないのです。
第三者(コミュニティ全般)に向かって訴えかけることは可能です
私はDwy氏の発言によって初めてWikipedia:カンバスの存在を知ったばかりなので、その「訴えかける」為に必要な手順が良くわかっていないのですがね。それがフォーラム・ショッピングとやらではないと判断する基準がわからんのですよ。
~~危険性は~~全会一致でやる場合の方が高い
推測なのですが、Dwy氏のこの主張は多数派側の観点から感じる「全会一致の問題点」のように思えます。だとすれば私はどちらかと言うと少数派側の視点から感じる「多数決の問題点=全会一致の利点」を主張していると言えば、理解が進むでしょうか。
全会一致の場合、多数派と少数派は平等です。無論、日本流に「説得」するのであれば少数派の方が沢山の人数を「説得」しなければならないので不利ではあるにせよ、「同じ権力」を有しています。残念ながら「相互理解の拒絶」という権力もまた、双方が有しています。その弊害をDwy氏は指摘したものと理解します。
  • 多数決であれば、「相互理解の拒絶」という権力の行使は少数派にとって不利になる。故に少数派による「相互理解の拒絶」という権力の行使を防止出来る。
其れに対し多数決の場合、多数派と少数派は不平等です。少数派にとって多数決に持ち込むことは(Dwy氏の指摘通り)不利になるので「相互理解の拒絶」という権力の行使は決してしなくなるでしょう。少数派にとっては有名無実の権力です。ですが、多数派にとって多数決に持ち込むことは決定的に有利であるので、多数決に持ち込むことは勝利の為の当然の戦略です。なので「相互理解の拒絶」という権力は(少数派には有名無実でも多数派には)極めて有用な、勝利を保証する権力です。少数派が決して選び得ない選択肢を多数派が得ることになります。故に不平等です。
  • 多数決であれば、「相互理解の拒絶」という権力の行使は多数派にとって決定的有利となる。故に多数派による「相互理解の拒絶」という権力の行使を防止出来ない。
私は少数派に属するケースが多いので経験上、全会一致とは多数派による「相互理解の拒絶」の防止策だぐらいに思っています。例え議論という手順を知らなくとも多数派は何とかして説得「しなければならない」ので様々な工夫を行い、その中に議論のような状態が(今Dwy氏が先の返信で行なったように)現れる機会が存在します。ですがいつでも「相互理解の拒絶」により多数決が選べるならば多数派は「様々な工夫」なんぞしません。そりゃ少々の工夫はしてくれますよ、日本は全会一致の文化ですからね。ですが、早々に工夫を諦め多数決に移行しようとすることになります。
で、私は議論の膠着がその「相互理解の拒絶」によるものではないことを明確に判断する方法が必要だと主張しました。一つには定義やら手順やらの規定、一つには裁定機関です。他にも方法があるかも知れません。
全員一致の場合の変革派は、現状維持派の相互理解拒否に対して打つ手が何もありません
それは「やったもん勝ち」の問題です。「やったもん勝ち」の問題=「ゴネ得」の問題を解決する話であり、その為のルールの提案であれば前向きに話をすることは出来ると思います。ですがその問題の解決という大義名分を掲げたところで、その問題の範疇を超えて多大な影響を与えるようなルールの提案には賛成出来ません。それは「行き過ぎ」です。
これは既に言った「Dwy氏が主張すべきことは「先に(こっそり)書いた者勝ちである現状を何とかしようぜ」であるはずなのではないでしょうか。なのに実際には一足飛びに「Wikipediaでも公的に数の暴力を使えるようにしようぜ」と主張しています。」の繰り返しです。それに続く語もまた繰り返しになりますので読み直して戴きたく。つまり、その時点から何一つ進んでいないわけですよ。
もう一つ繰り返したいのは、多数決の有用性や「ゴネ得」の問題が存在することは重々承知です。多数決の有用性や「ゴネ得」の問題が存在することは合意が得られているので、同じことを説明することは無意味です。Dwy氏が説明すべきことについては何が見当違いで何が見当違いではないかという形で既に述べましたので、これ以上既に合意が得られている多数決の有用性や「やったもん勝ち」の問題が存在することを懇切丁寧に説明して独りで勝手に疲れないで下さい。独りで勝手に消耗しておいて挙句の果てに「コミュニティーを消耗させる利用者」だとか「いつまでも「納得」しない利用者」だとか「相互理解の拒絶」だとか言われるのでは堪ったものではありませんからね。
問題は「多数決の有用性や「ゴネ得」の問題が存在すること」と「止むを得ず多数決による決定を行わざるを得ないこと」との間にある「論理の飛躍」です。其処に論理の飛躍を残しておくことで、何でも多数派の思う侭に(=恣意的に)多数決による決定を行なうことが出来てしまうことが問題なので反対しているのです。
それに対してDwy氏は「議論が尽くされた状態を完璧に定義し尽くすのは困難ですが、現実の問題としてそれを確認するのはそれほど難しいことではありません」と反論したわけですが、私はそれに対して「それも結局多数決でとなるのならば、要するに多数派の思う侭ではないですか」と反論しました。それに対してDwy氏は「(どのような状況や理由であれ)それ以上議論しても議論が先に進まないという状態になったら、「議論が尽くされた」とする以外ないと思います」と主張しました。私はこのDwy氏の主張と「Wikipediaを『議論による合意主義』から『多数決主義』にしよう」という主張との間に有為な差があるとは思えません。
しかしながら善意に取っているのでDwy氏がWikipediaを多数決主義にしたいと思っているのではないと私は考えています。にも関わらず私には「Dwy氏は「ゴネ得」問題を解決する為ならばWikipediaが多数決主義になっても仕方が無いと思っている」ようにしか思えません。
Wikipediaには理念と、理念に基づいた五本の柱という議論の余地の無いルールが存在しています。Wikipediaが多数決主義になることはWikipediaの理念に反しているので「絶対に防がねばならない事態」だと私は認識しています。何故ならば、それは単に多数派の「ゴネ得」の問題=多数派の「ゴリ押し」の問題になるだけの話であり、一度多数決を「全面的に」認めると非合法な革命(革命は常に非合法です)が無い限り元に戻せなくなるからです。
「ゴネ得」の問題が存在することは私も問題だと思います。それを多数決により解決することにも賛意を示すことはやぶさかではありません。ですがだからと言って「Wikipediaが多数決主義になっても仕方が無い」という考え方には絶対に賛成出来ません。
此処で仕切り直しというわけではありませんが、Dwy氏は「場合によってはWikipediaが多数決主義になっても仕方が無い」という考え方なのか否かを確認したいのですが。私は既に述べた通り、否(=その考え方ではない)という答えが返ってくると予想しています。
次に本件提案は「ゴネ得」の問題の解決の為に提案したものであり他の意図が無いことを確認したいと思います。私は既に述べた通り、応(=他意は無い)という答えが返ってくると予想しています。
また「ゴネ得」の問題が解決されると見込まれる他の提案があるのであれば本件提案を棄却することに抵抗は無いことを確認したいと思います。私は応(=棄却することに抵抗は無い)という答えが返ってくると予想しています。
以上の三点が私の予想通りであるならば、Dwy氏は「例え「ゴネ得」の問題の解決の為であってもWikipediaが多数決主義になることを許容出来ない」という私の主張と同一であり、Dwy氏と私との主張の相違点とは、
  • 本件提案の採択することで「Wikipediaが多数決主義になってしまう」可能性の高低
の唯一点であると考えます。即ち、Dwy氏は「なってしまう可能性は「ゴネ得」の問題の解決の為であれば冒すに値する程度に低い(≒ほぼゼロである)」という主張であり、私は「なってしまう可能性は「ゴネ得」の問題の解決の為であってさえその危険を冒せない程に高い」という主張です。そして同時に私は「可能性を冒せる程に低くすることが出来るならば合意の余地がある」と主張しています。
上記各点に関してDwy氏の認識を確認したいと思うのですが、御返答を御願い致します。三点に関する私の予想が誤っている、若しくは最後の相違点以外に争点があるのであれば、それを示して戴くだけでも結構です。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月31日 (水) 05:17 (UTC)
アレルギー反応がなくて、「多数決の有用性」を認めているとおっしゃるなら、他の難しい議論はしばし棚上げして、Cray-Gさんが認めている「多数決の有用性」についてもう少し掘り下げれば問題解決だと思います。Cray-Gさんは、どのような場合に多数決が有用だと考えておられるのでしょうか?「○○の場合は、多数決も有用だ(あるいは「有用でありうる」くらいの表現でもよいのですが)」のようなフォーマットで表現していただけませんでしょうか?(「○○の場合」の部分が思い切り複雑な長文になっても構いませんので、なにとぞよろしくお願いします)
(棚上げしてしまった「難しい議論」についてちょっとだけコメントすると、「多数決主義でない」の解釈がCray-Gさんと私ではかなり異なっているのだろうと思います。他の方が挙げていらっしゃるWikipedia:投票は議論の代用とはならないm:投票は邪悪なものなども、私から見ると翻訳がおかしかったりするので、そういうところも意見の違いになっているのかも知れません。それから、Cray-Gさんは「多数派vs少数派」という枠組みで問題を捉えておられますが、どちらが多数派でどちらが少数派かは、議論の過程で常に変化しうるものですし、最終的に投票を数えてみるまでは(場合によっては数えた後であっても)どちらが多数派か確実には分からないという点を見落としておられるように思います。また、「多数派vs少数派」という分類よりも「現状維持派vs変革を希望する派」という観点が各当事者の行動を決定する要素としては重要であることを、もう一度指摘しておきます。下のTruesightさんの発言などは、「現状維持派は(自分が多数派であることを信じている場合でも)多数決による決定より、決定の先送りを望む」ということをよく表しています。…でも、そういうことを議論しなくても、上の質問に答えていただければ、多分問題は解決する可能性が高いので、とりあえずそちらの方をお願いしたいと思います。)--Dwy 2011年9月1日 (木) 15:09 (UTC)
私にとってその質問はすぐに思い付くだけで二通りに解釈可能であり、当然に答えが二通りあります。一方は一般的な意味での「多数決の有用性」であり、掘り下げようが何しようが本件議論には影響を及ぼさないと私は考えています。他方はDwy氏が期待していると私が予想している意味での「多数決の有用性」であり、それは恐らくDwy氏の期待通りの内容になるとは思います。ですが私はそれを論点にしていないので、私にとっては無駄であり「(強い言葉を使いますと)Dwy氏の論点回避の手伝い」の意味しか持たず、その返答内容に関してDwy氏が何を言っても私は今まで私が発言した内容を繰り返すだけになります。そのことを認識した上で下記二件の返答をお読み下さい。
  • 一般的な意味での「多数決の有用性」では、多数決は少数意見の切り捨てという不備を持つにも関わらず、極めて高速且つ客観的且つ確定的に結果を得ることが出来ます。そしてそれは「多数に支持されている内容は高い確率で適切である」という経験則に基づき、高速且つ客観的且つ確定的でありながらも適切な結果を高い確率で得ることが出来ます。それは例えば、多数決主義のWikipediaを作ったとしたら現在のWikipediaに匹敵するレベルで有用であり且つ現在のWikipedia以上に洗練され安定した百科事典を作ることが出来るぐらい「有用」です。
  • Dwy氏が期待していると私が予想している意味では、一つには適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合に多数決を行なうことは当然に有用です。これはDwy氏が本件提案の最初に示した有用性であり、また歴史的には民主主義の実現可能性を支えた根拠であり、実際に実現され現在も支持されている根源となっている有用性です。またその高速性、客観的運用可能性、確定的結果導出可能性を利用し、議論に先立って、或いは議論の最中に状況確認の為に(=Wikipediaで言う調査投票として)運用することも有用です。それは議論に於ける各主張の相互理解の進行具合を計り、適切な論点で議論が行なわれているか否かの確認をすることが出来ます。
私の予想通りであれば、掘り下げも何もありません。もしもDwy氏が、私が2.に関して認めていることを以って「な?  俺の言うことは正しいだろ? だから俺の提案に賛成するべきだろ?」と結論するのであれば、それは「論点回避」です。「その部分」を私は認めますが、だからと言って「本件提案の全部」を認めるわけではありません。また何度も言うようにその高速性、客観的運用可能性、確定的結果導出可能性を利用して「ゴネ得」問題を解決することになら前向きに話は出来ます。そのことを私が認めることと、本件提案に賛成することとは別の問題(=論点)であり、それが如何に「別の問題」であるかに関しては前回私が質問しました。それに答えていただければ、多分問題は解決する可能性が高いので、とりあえずそちらの方をお願いしたいと思います。
なお私が「答えて欲しい」と言う理由は、Dwy氏を黙らせる為ではありません。論点の整理の為です。私の三点の予想が全て正しければ恐らくは最後の相違点のみが相違点です。そうすればその他の点(例えば多数決の有用性とか)に関しては互いに同意見なので繰り返す意味が無いことを両者が確認出来、何を発言することが無駄で何を発言することが無駄ではないのかがわかれば、無駄に消耗することがお互いに避けられると思うのですが如何でしょうか。
そして、係る相違点以外にも相違点があるのならばその事実を私に教えて下さい。そのことを敢えて秘密にし故意に私を消耗させるつもりならば、それがどれほど有効な戦術であるかは既に何度も繰り返しましたので、此処では繰り返しません。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月2日 (金) 03:39 (UTC)
>Dwy氏は「場合によってはWikipediaが多数決主義になっても仕方が無い」という考え方なのか否かを確認したい
>「Wikipediaが多数決主義になってしまう」可能性の高低
Cray-Gさんの言う「多数決主義」って何ですか?私としては(ごく大雑把にいうと)「多数決主義」=「多数決万能主義・多数決第一主義」だと思っていますから、「限られた場面で最後の手段として多数決を使う」であれば「多数決主義」にはなりようがないという理解です。
>次に本件提案は「ゴネ得」の問題の解決の為に提案したものであり他の意図が無いことを確認したいと思います
私の問題意識は「全会一致の合意ができない場合に物事が進まなくなる」ということです。「ゴネ得」という言葉でも私の問題意識の大部分はカバーされているのでしょうが、それですべてを言い表しているかと訊かれれば、ちょっと違うような気がすると言わざるを得ません。
>適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合に多数決を行なうことは当然に有用です
思ったより良い答えをいただいたような気がしています(お互いの意見の差を理解するためにという意味で)。要するにCray-Gさんの立場は、多数決実施の前に、実際に「適正な議論」が行われていなければならないというものですよね?Dwyの方の認識は、お互いが努力をしても(当事者のコミュニケーション能力が不足していたり、先入観が強すぎたりする場合には)「適正な議論」がちゃんと成立しないこともありうるが、それはどうしようもないことだというものです。ここに、一つの相違点があるということでよろしいでしょうか?
議論などというものは「ちゃんと議論しろ」と無理強いできるものではありませんし、気長に待ってもダメなものは大体ダメです。それなりに時間をかけてやってみて、それでもだめなら、全会一致では結論がでないという現実を受け入れて、次に進むしかないと思っています。
>多数決は少数意見の切り捨てという不備を持つにも関わらず、極めて高速且つ客観的且つ確定的に結果を得ることが出来ます。
私はこれに賛成できません。まず、「少数意見の切り捨て」という要素は確かにありますが、切り捨てられるのが常に少数にとどまる点で、これは長所とも言えます。「全会一致にこだわって決定を先延ばしにする場合には、変革派の意見(多数意見かもしれない)が切り捨てられる結果になる」との比較を、しっかりしてほしいと思います。
また、「極めて高速且つ客観的且つ確定的」は、以下の点から見て、かなり言い過ぎです。
  • ウィキペディアでは、調査投票を「構造化された議論」として行うわけですから、それなりの準備をしないと、ちゃんとした結論が出ません。たとえば、投票結果が意味を持つためには、すべての投票者がすべての論点を理解した上で自分の意見を表明する必要があります。論点整理等の準備をなおざりにして投票を始めた場合(というか、充分準備をしていてもそういうことはあり得るのですが)、投票途中で重要な新しい論点が出てきたりすると、それまでに投じられた票の有効性が怪しくなってしまうわけです。そういう場合、結局議論をもう一度仕切り直さざるを得なくなるわけで、「議論の終わりより、むしろ始まりに頻繁に行われる」はこの辺りの事情を表現したものです。
  • 投票結果がそのまま結論となるわけではありません。ウィキペディアの方針やガイドラインに照らして投票結果を評価・解釈し、その上でどういう結論にするのかを合意する必要があります。
  • ウィキペディアに「確定的な結果」はありません。全会一致であれ多数決であれ、得られた結果(合意)は、新らしい議論・論点が出てくれば、いつでも変更可能です。--Dwy 2011年9月2日 (金) 19:56 (UTC)
「限られた場面で最後の手段として多数決を使う」であれば「多数決主義」にはなりようがないという理解です
「限られた場面で最後の手段として多数決を使う」という保証が無い限り「多数決主義」になろうとする傾向を止めることは難しく、いづれ「多数決主義」が台頭する時代が訪れてしまう可能性は無視出来ない程に高い、という理解です。
私の問題意識は~~~~
それは「多数派のゴリ押し」問題を防いでいる代償ですね。その代償の典型的一例として「ゴネ得」を挙げただけなので、それが全てかと言えばなるほど「ちょっと違うような気がする」のも当然でしょう。
ですが該代償には「多数派が数の力でゴリ押し出来ない」という重要な意義が含まれているので、代償自体を問題と看做すことは出来ません。なので『「多数派のゴリ押し」を防止し且つ、「ゴネ得」乃至「その他」の問題の解決の為』の提案であるということで宜しいでしょうか。
ここに、一つの相違点があるということでよろしいでしょうか?
そうですね、それは「どうしようもない」ことではなく「どうにかしなければならない」ことだと認識しています。なのでどうしようもないから多数決でという主張はイコール、
  • 適正な議論が出来るように「どうにかしなければならない」わけなんだけど、それってどうしようもないことだと思うんで、単に「どうにかしなければならない」ってとこだけ取り出して「適正な議論とかどうでもいいからどうにかしなければならない」って意味だって曲解すれば「多数決によってでもいいからどうにかしなければならない」って意味だってことになるから多数決で
と認識されるわけです。無論、これがDwy氏の言いたいことそのままではないことはわかっていますが、私にはそれ以外のどんな言葉がDwy氏の心の中で「暗黙に充填」されているのかを想像することが出来ないわけですよ。
議論などというものは~~無理強いできるものではありません
現状に於いて無理強いさせているのですよ、多数派に対して。全会一致という建前によって。だから「多数派が数の力でゴリ押し出来ない」という重要な意義を実現出来ているのです。しかしその代償/弊害として「ゴネ得」乃至「その他」の問題が発生しています。特に「ゴネ得」の問題は顕著であり、多くの人が問題だと共通認識を持っています。
<長い上に本件議論の直接の争点ではないので後で読んでもらうで構いません>
にも関わらず、「多数決主義ではありません」の薬が効いているにも関わらず、日本の素晴らしい「本音と建前」という文化の御陰で、例えば「いつまでも「納得」しない利用者」とか「コミュニティーを疲弊させる利用者」とかの排斥には「全会一致ではなく多数派が数の力でゴリ押しする」という適正利用がされています。明文化された法(ルール)が無くとも正しく適正利用するべき時を適切に判断出来る人達が圧倒的大多数を占めているわけです。
ですがその圧倒的大多数の中には、実は適切に判断出来ない人も含まれて居ます。そういう人は「自分の判断が適切か否か」を判断する為に客観的な根拠明文化された法を参照することで圧倒的大多数と同じ結論に至ることが出来ただけなのです。ここで例を挙げるのは可哀相ですが、Sweeper tamonten氏の言う「総合的な案内がなくて困っている人」達です。Dwy氏はそれらの人が「居ない」ことを以ってSweeper tamonten氏の提案に反対していますが、困っている人達は「実際に居る」のです。Sweeper tamonten氏は少なくとも一人その人を知っているでしょうし、私も少なくとも一人そうだった人物を知っています。ついでに言うと私は過去に言った私の名前からDwy氏にも心当たりがあるであろう「誰か」のような輩の「誰か」もまた「その人達」の内の一人であろうと推測しています。その人達は善良でありWikipediaの発展を願うDwy氏の仲間足るウィキペディアンでありながら、Dwy氏とは判断基準が異なるのです。
その人達は、自分の考えを肯定乃至は否定する明文化されたガイドライン等を探します。そしてその時に発生する問題は「とは限りません」や「場合もあります」をどう判断するかです。即ち、今が「全会一致であるべき時」なのか「全会一致を諦めるべき時」なのかです。その基準が明文化されていないならば、彼らはそれを議論により解決しようと試みることになります。そしてその際に「適切に判断出来る人達」がその「適切であると判断した客観的な根拠」を示せない限り(そして示すことは出来ないでしょうから)彼らには理解出来ません。これがSweeper tamonten氏の言う「困っている人達」が困っている所以です。同じ問題が本件提案でも発生します。私は、Sweeper tamonten氏の#合意が変更できるとの記述を追加する提案と同じ理由で本件提案に反対しているのです。
余談ついでに言わせて戴くと、Sweeper tamonten氏の主張の根拠ならば私にも理解出来るのですが、私にはDwy氏の主張の根拠を理解出来ないのです。
</長い上に本件議論の直接の争点ではないので後で読んでもらうで構いません>
私はこれに賛成できません。まず~~これは長所とも言えます
それが長所であることは私も既に認めています。そしてDwy氏も「少数意見の切り捨て」という要素は確かにありますとして「少数意見の切り捨てという不備を持つ」ことを認めています。問題は其処ではありませんよね?
「全会一致にこだわって決定を先延ばしにする場合には、変革派の意見(多数意見かもしれない)が切り捨てられる結果になる」との比較を
問題は此処でしょう。推測するに、私の言うことを認める=全会一致には不備が無い、と結論される詭弁を恐れてのことだと思います。安心して下さい、全会一致にも不備があります。多数決に不備があることを認めても、全会一致に不備が無いことを認めたことにはなりません。
以下の点から見て、かなり言い過ぎです
<長い上に(恐らく)本件議論には影響を及ぼさない点であるので後で読んでもらうで構いません>
申し訳ありませんが、私はわざわざ「そのことを認識した上で下記二件の返答をお読み下さい」と言いました。そしてわざわざ「一般的な意味での「多数決の有用性」では」と前置きまでして答えているのです。同じく述べたように「本件議論には影響を及ぼさない」点です。それに「Wikipediaでは必ずしもそうではない」と反論しても意味はありません。
Dwy氏が反論するべきは「Dwy氏が期待していると私が予想している意味では」というWikipediaでの多数決の有用性です。無論其処では「一般的な意味での「多数決の有用性」」も影響を及ぼしていますが、Wikipediaでは多数決を「調査投票」という用語で再定義しているのです。それが「Dwy氏が期待していると私が予想している意味」です。
前者は前提です。前者を前提として、Wikipediaではそれが再定義されています。それが後者です。反論するなら後者に反論して下さい。もしも前者の一般論に反論するのならWikipediaを持ち出さずに一般論として反論して下さい。一般論(一般的な意味での「多数決の有用性」)として反論するということは、議論が進むと民主主義否定論へと発展していく見当違いな議論になってしまいます。そんなことをしたいわけではないのでしょう?
一般論として多数決/投票は(牛歩戦術などの遅延術を用いない限り)速やかに結果が出ます。必要なのは投票する時間と、票を数える時間のみです。手を挙げて、などとする場合には投票する時間など考えるだけ馬鹿馬鹿しい程の高速性です。
一般論として多数決/投票は(票の廃棄や捏造等の不正が行なわれない限り)客観的に結果が出ます。各票の得票数を比較するだけです。誰が見ても同じ結果になります。
一般論として多数決/投票は確定的に結果が出ます。数えた結果は動かせません。改めて多数決/投票をやり直せば異なる結果が出るかも知れませんが、過去に行なわれた多数決/投票の結果を変更する術はありません。
この「一般論としての多数決/投票」の持つ高速性、客観性、確定性は極めて有用であり、だが多数決主義ではないWikipediaでは「一般論としての多数決/投票」をそのまま利用することが出来ません。なのでWikipediaはこれを再定義しました。それが「調査投票」と呼ばれるものです。調査投票はその特徴として高速性、客観的運用可能性、確定的結果導出可能性を持っています。
上記の通り「一般論としての多数決/投票」と「Wikipediaでの調査投票」とは意味が異なり、そのことは私も理解しています。なので「一般論としての多数決/投票」が「Wikipediaでの調査投票」とは異なると反論することは相互理解の進展に結び付かず、無意味です。
そして私にとって話をややこしくしているのは、Dwy氏が時と場合によって「多数決」という言葉を「一般論としての多数決/投票」として用いる場合と「Wikipediaでの調査投票」として用いる場合とがあることです。Dwy氏は「Wikipediaでの調査投票」として「構造化された議論として行なう」「投票結果がそのまま結論となるわけではありません」「ウィキペディアに確定的な結果はありません」と反論しました。ですが本件提案では「議論がどうしようもない状態になった場合に」「より現実的に物事を進める手段」「少数派が多数派に従うのは自然なこと」などと「一般論としての多数決/投票」の特徴ではあるが「Wikipediaでの調査投票」の特徴ではない有用性を主張してきました。これらのDwy氏の主張の差異(かつて私はこれを矛盾と表現しました)はどういう意味ですか?
もしも「一般論としての多数決/投票」とも「Wikipediaでの調査投票」とも異なる「新しい多数決/投票」の概念を持ち出すのであれば、その旨をご返答戴ければ結構です。その概念の説明をせよとは(まだ)言いません。そしてもしも「新しい多数決/投票」の概念を持ち出すのでないのなら、この差異はどういう意味なのかの説明をして戴ければもう少しDwy氏の主張への理解が深まるものと思います。ですが今すぐでなくとも構いません、まだDwy氏の心の準備が出来ていないと思いますので。
なお余談ついでに、私が何故二通りの回答を行なったかと言うと、一方のみを回答した場合にDwy氏が「一般論としての多数決/投票」としての意味と「Wikipediaでの調査投票」としての意味とを反論するのに都合の良い方を恣意的に選んで用いられる詭弁を防ぐ為です。が、Dwy氏は気付きもしなかったようですね。もう少し「強い言葉」を使った方が良かったでしょうか。議論とは相互理解の為に行なうものです。反論し相手の発言を否定する為に行なうものではありません。
</長い上に(恐らく)本件議論には影響を及ぼさない点であるので後で読んでもらうで構いません>
繰り返しますが、多数決に不備があることを認めても全会一致に不備が無いことを認めたことにはなりません。そして私はDwy氏が「全会一致の不備」として私の言うところの「ゴネ得」、Dwy氏の言葉で言うところの「変革派の切り捨て」があると主張していることを理解しています。
さて、論点の整理に入ります。先ずは共通見解から。
  • 全会一致には事実上「変革派の意見の切り捨て」という問題があり、多数決には定義上「少数派の意見の切り捨て」という問題がある。但し、係る問題の比較は未だ議論されていない。
  • 適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合に限るならば多数決の結果を合意の結果として採択することは正当性がある。但し、それ以外の場合に於ける多数決の結果を合意の結果として採択する正当性(或いは採択される可能性に関して)は意見の一致を見ていない。
また争点としては現在のところ、
  • 「限られた場面で最後の手段として多数決を使う」であれば多数決主義にはなりようがない/その「限られた場面」が不明瞭なので多数決主義になりようがある
  • 議論参加者のコミュニケーション能力が不足していたり先入観が強すぎたり等して適正な議論が成立しない場合が存在し、それはどうしようもない(=諦めて多数決の結果を合意の結果として採択する正当性がある)/それは適正な議論を成立させるべくどうにかしなければならない(=努力を続けなければならず多数決の結果を合意の結果として採択する正当性はない)
が明確になっていると思います。これらの中から互いに同意出来る点を探す為の対話を行ないましょう。
また私の方の主張は、
  • Wikipediaが多数決主義になることは絶対に防がねばならない
  • そして「限られた場面」を客観的且つ明確に定義しない限り、多数決を用いようと意見が出された時に抗弁が出来ない=議論が出来ない=多数決で決しなければならなくなる=如何なる場面で多数決を用いるかの決定は多数決で決める=多数決主義、となる。
の二点を根拠として持っています。またDwy氏の方の主張は、
  • 現在Wikipediaでは議論の進展が起こらない膠着状態のまま、事実上の「変革派の意見の切り捨て」が行なわれている
  • そして変革派が多数派であるか少数派であるかを問わず「変革派の意見の切り捨て」が行なわれているので、これに多数決を用いれば変革派が多数派の場合だけでも救済することが可能になる
  • この救済の妥当性に関しては多数決の妥当性が援用出来るのでこれに問題は無い
の三点を根拠に持っていると考えています。
そして各々の反論として、Dwy氏は
  • 「限られた場面」を客観的且つ明確に定義するなんて(現実的時間内に)出来るわけないだろ! 誰だって見ればわかるんだよ!
  • (現実的時間内に)出来るはずも無いものを実現しろと「ゴネ」てこれからも変革派の意見を切り捨て続けることがWikipediaの為だって言うのか!
また私は
  • 多数決の妥当性なんて何にだって援用出来るだろうが! 「見ればわかる」なんて、それさえ多数決で決めるつもりか! 多数派の思う侭じゃないか! それを多数決主義って言うんだよ!
  • 「変革派の意見の切り捨て」を防ぐ大義名分を持ち出したところで「限られた場面」とやらを曖昧にしたまま放置するってんなら「適正な議論が成立しない」状態を多数派が任意に作り出せるのだから結局はWikipediaを多数決主義にするってことと同義なんだよ!
となっています。ここまで、問題は無いでしょうか。
最後に、少なくとも私は「限られた場面」の定義や手順の構築は何通りか可能であると考えています。ですがそれは概案であり且つ複雑であるとか人手を必要とするとかWikiのシステムに手を加える必要があるとか議論を呼びそうな概念を必要とするとか、色々と解決しなければならない問題があり、今此処ではその問題を議論出来るような状況ではありません。そしてそんな「新たな問題を議論してまで新たな法を作らねばならない」程に深刻な「変革派の意見の切り捨て」が頻繁に発生している状況だとも思えません(ので概案のまま放置しているのです)。Wikipediaは現状でそれなりに適切に廻っています、数多くのウィキペディアンの努力の御陰で。
………そろそろ、インデントを改める季節でしょうかね。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月3日 (土) 13:18 (UTC)
できるだけ議論を拡散させないようにしたいので、納得できない点にいちいち突っ込まず、肝心な点だけ言います。
>全会一致には事実上「変革派の意見の切り捨て」という問題があり、多数決には定義上「少数派の意見の切り捨て」という問題がある。但し、係る問題の比較は未だ議論されていない。
私の方は、いろいろ議論してきたつもりなんですが、「未だ議論されていない」ということなら、ちゃんと議論しましょうよ。「先にやった者」の「ゴネ得」を放置するのか、「議論の結果多数の支持者を集めた選択肢」を取るのか、どちらが「よりまし」なのか、これが一番大事な論点です。
それから、これまでの発言を少し修正します。「定義上」ということであれば、「Wikipediaにおける多数決」(=調査投票に基づく議論・決定)は合意形成の手段です。「少数意見の切り捨て」に結びつきません。そもそも、長期間激しく論争をしているような場合、全員が「○が正しい」と言うようなオプションは存在するはずがないわけで、合意(コンセンサス)を形成するためには「○○は間違っているけれど、何とか我慢できる」というところで妥協を図るしかないわけです。「調査投票」は「○○は間違いだけど、双方の意見を充分検討した結果、より多くの人がそちらを支持するのなら、○○で我慢するしかないな」と言ってもらうための手段です。少なくとも建前上は、少数派の切り捨てはありません。
また、「多数派と少数派は同じ権利を持つべき」は、どちらも自分の意見を封殺されない権利を持つ(言いたいことを言う機会は保障される)という意味なら結構ですが、双方が充分に議論した後の段階で、適切な論拠によって多数の支持者を集めた意見と、みんなから「間違っている」という評価を受けた意見とを同列に扱えという意味なら、間違っていると私は思います。基本的には、機会均等が保障されていれば、結果の平等まで保障する必要はありません。「数の暴力」のような表現も、もう少し注意して使うべきであり、単純に「多数決=数の暴力」と決めつけるような使い方は不適切だと思います。--Dwy 2011年9月3日 (土) 17:22 (UTC)
(インデント戻す)Dwy氏の発言を受けて論点整理をし直します。先ずは共通見解から。
  • 全会一致には事実上「変革派の意見の切り捨て」という問題があり、多数決には定義上「少数派の意見の切り捨て」という問題がある。但し、係る問題の比較は未だ議論されて意見の一致を見ていない。
  • 適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合に限るならば多数決の結果を合意の結果として採択することは正当性がある。但し、それ以外の場合に於ける多数決の結果を合意の結果として採択する正当性(或いは採択される可能性に関して)は意見の一致を見ていない。
  • 「先に(こっそり)書いた者勝ち」=「ゴネ得」の問題は何とかするべきである。
  • 調査投票は「数の暴力」ではなく「少数派の意見の切り捨て」という問題は存在していない。
対立見解としては、
  • 「限られた場面で最後の手段として多数決を使う」であれば多数決主義にはなりようがない/その「限られた場面」が不明瞭なので多数決主義になりようがある
  • 議論参加者のコミュニケーション能力が不足していたり先入観が強すぎたり等して適正な議論が成立しない場合が存在し、それはどうしようもない(=諦めて多数決の結果を合意の結果として採択する正当性がある)/それは適正な議論を成立させるべくどうにかしなければならない(=努力を続けなければならず多数決の結果を合意の結果として採択する正当性はない)
  • 「ゴネ得」その他の問題を何とかする為には、本件提案に無条件に賛成する以外に無い(=定義等は不要だし非現実的)/本件提案に賛成する以外にも手段は存在する(=定義等は必要だし可能だし、それ以外にも手段は存在し得る)
そして議論上のすれ違い(=互いに「相手が論点回避をするばかりできちんと答えない」と考えているもの)として、
Dwy氏
全会一致の「変革派の意見の切り捨て」と多数決の「少数派の意見の切り捨て」はいづれがより深刻であるか。
Cray-G
「限られた場面」の定義、及び「最後の手段として」のみ使われることを保証する手順とは何か。
定義不充分なまま(=適正な議論が行なわれ議論が尽きた以外にも任意の場合に)公的に多数決(≠調査投票)を容認することがWikipediaを多数決主義にするか否か。
先ずは両者の現状認識を互いに確認したいと思います。互いにすれ違ったままでは何百年掛けようと議論は収束に向かいませんからね。補正修正等が必要であれば、或いは意味内容が曖昧だと考えるようであれば、おっしゃって戴きたく御願い申し上げます。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月4日 (日) 08:12 (UTC)
(またまた「充填された語」の話に戻る可能性はありますが)ほぼ正確にまとめられていると思います。2つだけコメントすると:
  • 「定義等は必要だし可能だし、それ以外にも手段は存在し得る」ということであれば、そういう主張をする側が適切な「定義」や「それ以外の手段」を提案すべきではないでしょうか?
  • 全ての場合を言い尽くす「定義」は難しいですが、最低限の条件という意味では「双方が言いたいことを言う機会を充分に与えられること」で良いのではないかと思います。それ以上のこと(例えば「相手の言うことをちゃんと聞け」等)を義務付けても、それを強制する手段がありませんし、その条件が満たされたかどうかを判断する客観的な基準もありませんから、あまり意味がないように思います。--Dwy 2011年9月4日 (日) 13:26 (UTC)
ほぼ正確にまとめられていると思います
先ずは互いの認識を互いに確認出来たことを慶ばしく思います。
またまた「充填された語」の話に~~
それに関しては適宜対話を行い補正修正していくということで。お互い相手に対する無知により「充填された語」が問題になるのです。相互理解が深まれば少しづつ補正され少しづつ解決へと向かうものです。
定義等は必要だし可能だ~~ということであれば~~提案すべきではないでしょうか?
私が本件提案を行なっているのであれば当然にそうですが、私はそもそも本件提案に反対しているのであり、飽くまで「定義等が明確であるならばまだ考える余地はある(が、そうでないので反対)」なのです。少なくともある程度Dwy氏のことを理解出来るまでは、Dwy氏に代わって提案を出来る状態ではありません。詳しくは後述します。
最低限の条件という意味では「双方が言いたいことを言う機会を充分に与えられること」で良いのではないかと
それでは良くない、と私は言っています。「双方が言いたいことを言う機会を充分に与えられること」の意味に相違があるので話がややこしくなっているのではないでしょうか。
とりあえずDwy氏と私との間で、「議論が尽くされた」状態であれば必ず「充分」である、という合意は得られています。これ自体は動かないでしょう。
ですが「議論が行き詰った」状態では、Dwy氏は「それ以上何も言えない(≒全て言い尽くした)んだから充分」だと考えていて、私は「言いたいことを相手に理解出来る言葉で言いたいのに言わせてもらえないのだから不充分」だと考えています。
これは恐らく議論の最後まで争点として残り続けると共に、最初からここにこだわっていると妥協点も見出せないまま平行線=「議論が行き詰った」状態になってしまうので、その他の点を先に整理していきたいと思うのですが如何でしょうか。
それ以上のこと(例えば「相手の言うことをちゃんと聞け」等)を義務付けても、それを強制する手段がありません
現状では「全会一致である」という条件が多数派にそれを「強制」させています。「全会一致で合意を形成する」為には「相手の言うことをちゃんと聞く」しか無いのです。その「相手の言うことをちゃんと聞く」為の手法の一つとして議論と呼ばれるノウハウがありWikipediaでは推奨されているわけですが、日本では議論と説得と脅迫と言いくるめることとうんたらかんたらの区別が付いていない人が圧倒的大多数なので、議論(適正な議論)が行なわれることの方が稀です。だからすぐに議論が行き詰ってしまうのです。
判断する客観的な基準もありません
議論と言い争いとの区別が付くなら「議論が尽くされた」ことを判断する基準はあるのですがね。一方が議論を放棄して言い争い(=とにかく何か言い返すこと)に移行してしまうと難しいことになりますね。
で、重要なのは、つまり私が要求している内容は「議論が尽くされた」ことの定義ではありません。「限られた場面」の定義、及び「最後の手段として」のみ使われることを保証する手順です。「限られた場面」とは例えばみっち氏が出した例である「Wikipedia:管理者への立候補の信任投票」では「限られた場面」が定義されていますよね。
「限られた」場面をDwy氏は「議論が行き詰った」場面だと認識しているのではないかと思います。そして私は「議論が行き詰った」場面というのは「ゴネる」ことで多数派少数派を問わず任意に構築することが可能だと考えています。この点についてDwy氏の認識を確認したいと思います。
Dwy氏も同じ認識を持っていると仮定して話を進めると、故に「ゴネ得」、つまり全会一致の「変革派の意見の切り捨て」の問題を生んでいます。
ここで「限られた」場面がイコール「議論が行き詰った」場面である(と認識可能な)場合、「議論が行き詰った」場面というのは「ゴネる」ことで多数派少数派を問わず任意に構築することが可能である現実が、多数派が「ゴリ押し」をする為に多数決に移行するべく「議論が行き詰った」場面を構築することを可能にすると私は考えています。
それを防ぐ手順が必要です。でなければ調査投票以外の多数決を容認出来ないわけです。そしてその手順さえ多数決であるならば、それは単なる多数決主義と同義です。
で、ここに問題があります。Dwy氏の言う「多数決」が調査投票なのかそれ以外の多数決なのかです。
Dwy氏は「調査投票」は「○は間違いだけど、双方の意見を全部検討した結果より多くの人がそちらを支持するのなら、○○で我慢するしかないな」と言ってもらうための手段ですと言いました。問題はこの「言ってもらうための手段」が「言ってもらえるように再考を促すための手段」なのか「言ってもらえるように強制するための手段」なのかです。
前者であれば、それはまさしく調査投票です。Dwy氏が望むものが調査投票であるのならば、単にWikipedia:調査投票の方法を参照して調査投票を行なえばいいだけの話であり、本件提案の必要性を理解出来ません。調査投票の結果を見て再考するように促し、その結果として合意が得られるのであればそれはそれで全会一致であり現状でも可能なことです。
ですが調査投票の結果多数票を得た案に従うように強制することは調査投票では出来ません。それを可能にしたいのであればそれは前者ではなく後者です。つまり調査投票ではありません。なのでもしも後者であるのならば=調査投票ではないのならば、これまでの議論でDwy氏が「調査投票は~~」や「Wikipediaでは~~」という書き出しの反論の全てが論拠を失ってしまうと私は考えています。
私にはDwy氏の言う意味が前者なのか後者なのかそれ以外なのかを理解出来ません。理解したいと望んでいます。これを私が理解出来ない限り(私の思い込みを正しいと仮定して話を進める以外に)定義等に関する議論も提案も出来ないのです。
Dwy氏が上記に関する説明を行なう意思が無いのならば、当面は定義等に関する議論は棚に上げて、その他の点を先に整理していくことを試みたいと思うのですが如何でしょうか。
そして残る対立見解となっている、全会一致の「変革派の意見の切り捨て」と多数決の「少数派の意見の切り捨て」はいづれがより深刻であるかに関しては、私は理念に反する「少数派の意見の切り捨て」が深刻だと考えています。
ぶっちゃけ「変革派の意見の切り捨て」は記事名と、保護依頼の保護するべき版の問題等、極少数の「排他的にしか存在し得ない」案件でのみの問題であり、それ以外の場合には理念に従い両論併記となるか、さもなくば「いつまでも「納得」しない利用者」とか「コミュニティーを疲弊させる利用者」とかのレッテルを貼って数の暴力で排斥しちまうわけですからね。Wikipediaにとって深刻であればそうやって比較的速やかに解決するわけですし、Wikipediaにとって深刻でない問題なら文字通り深刻ではありません。言うほど数が多いわけでもない(%未満な)わけですし。
それに対して「少数派の意見の切り捨て」は両論併記すら難しくします。「言いたいことは聞きました。理解する気はありません。議論が行き詰りました。多数決で切り捨てます。両論併記は不要と結論されました。」が横行するするようになってしまっては、Wikipediaにとって極めて深刻だと考えています。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月5日 (月) 08:05 (UTC)
当事者間で議論がうまくいかない場合は、Wikipedia:論争の解決に従ってコメント依頼から調査投票へと進むことになっています。別に直接の論争相手の説得にこだわらなくても、コミュニティ全体(コメント依頼から来て議論に参加してくれる人や、投票に参加してくれる人達)を説得すればよいのです。直接の議論相手が「理解の拒絶」とやらに出ても、それ自体は致命的な問題ではありません。
Cray-Gさんは「理念」とやらが自明のもののように語っておられますが、それは一体どういう「理念」なのでしょう?誰もが自分の意見を言うチャンスを充分与えられ、それらすべての意見をコミュニティがウィキペディアの方針やガイドラインに照らして(ここが大事です)判断した結果、「その意見は併記すべきでない」という意見に大多数の人が頷き、「併記した方がよい」の側はごく少数の人しか説得できなかったとき、なんで「両論併記」しなければいけないのか?そういう場面で「数の暴力」とか「切り捨て」とか言うこと自体がおかしいと思います。
それから「強制」云々については、「再考を促す」で充分であり、別に「強制」は必要ありません。「現状(=ゴネ得)を放置すべきではなく何らかのフェアな決定が必要だ」に合意を取り付けるのはそれほど難しくないはずですし、「みんなで全ての論点を検討した後で各々の意見を聞き、多数の人が賛成する意見に従うのはフェアなやり方の一つだ」も(変な「理念」が邪魔をしなければ)それほど反対がないところだと思います。「多数派の意見に従う」以外の現実的な案があればもちろんそれも検討すべきですが、「他にも案がある?」と訊いてみて誰からも反応がなければそれまでのことです。ここまで合意・確認ができれば後は簡単で、「他に案がなければ、多数派に従うしかないよね」に対して、理性的に判断する人であれは(別に強制などなくても)「そうだね」と言うしかありません。(もちろん他に代替案があれば、振出しに戻ってそれを検討するわけですが、投票で少数派だった案はフェアさの点からもみんなの納得を得るという点からも明らかに「多数派案」に劣りますから、検討の対象から外れます。)--Dwy 2011年9月5日 (月) 13:06 (UTC)
当事者間で議論がうまくいかない場合は~~調査投票へと進むことになっています
であれば、本件提案は不要なのではないかと思うのですが、何故に必要なのでしょうか?
説得にこだわらなくても~~説得すればよいのです
いや「説得」ではなく「議論」して下さいよ。「議論に参加してくれ」と説得するのならともかく、議論の相手を無視して他の人を説得しますとか何を言いたいのか理解に苦しみます。
それは一体どういう「理念」なのでしょう?
Wikipedia:五本の柱#関連項目にあるウィキメディアの基本的原則を御覧下さい。其処に書いてある「3.他の編集者らとの「ウィキ・プロセス」および議論を通じて、どんな内容についても最終的な意思決定を合意に基づいて行うこと」が、此処で私が言っている「理念」です。その冒頭にある通りこれらは、ウィキメディア・プロジェクトの基本的な方向性を位置づけるものとして、極めて重要な理念だと考えられています。
それはWikipediaのみならず、Wikipediaを含めた全てのウィキメディア・プロジェクトに於いて共通する「理念」です。他所ではどうだか知りませんが、少なくともWikipedia(ウィキメディア・プロジェクト)である以上「自明」であり、圧倒的大多数が認めている「議論の余地の無い」理念です。御願いですから「理念」に関する議論を試みないで下さい。それは危険な議論へと発展しかねません。
ウィキペディアの方針やガイドラインに照らして(ここが大事です)
「理念って何?」発言をされた直後でこう言われると流石に引っかかりを覚えてしまうのですが。
念の為に言いますと、ウィキペディアは規則主義ではありませんに「明文化された方針とガイドラインは真摯に受け止められるべきですが、誤用されることがありえます。方針の字面の解釈に固執するあまり、方針の原理原則を損なうことをしないでください」とわざわざある通り、誤用されることが多分に考えられるのです。そしてそれは多数決でも「高い確率で」防ぐことが出来るでしょう。ですが全てではありません。多くの人が誤って用いるから誤用と呼ばれるのです。「多くの人」の中には、過去に述べた「困っている人達」も含まれて居ます。
そして本件提案はそれ等の人達の誤用を誘発させ易くするものだと私は考えています。「私の名前からDwy氏にも心当たりがあるであろう「誰か」が何を基準に行動したのか」を思い出して戴きたいところです。
変な「理念」が邪魔をしなければ
本当に変な「理念」ですよね、「最終的な意思決定を合意に基づいて行う」だなんて非現実的で気狂いじみています。他にも不特定多数の利用者に編集させるなんて非常識だというのも良くある批判のようです。
ですが私は、この変で非現実的で気狂いじみた非常識な「理念」を支持しています。当然、邪魔だとは思っていません。邪魔だと思うのは規則主義者だとか多数決主義者だとか何か(ウィキメディア・プロジェクト以外の何か)の信者だとか信念だとか正義だとか、そういった何かWikipediaやウィキメディア・プロジェクトと相反する理念を持つ者がその理念をWikipediaやウィキメディア・プロジェクトに押し付けようとする時に覚える感情なのではないでしょうか。
なお、私はDwy氏が多数決主義者だとか何とか批判しているわけではありません。Dwy氏は善人であり、猫をも食べてしまう凶悪な爬虫類型宇宙人ですらなく、Wikipediaの発展の為に善意で以って本件提案をしたのだと受け取っています。ただ、それが少々行き過ぎて勇み足を踏んでしまっただけのはずだと考えています。失礼を承知で言うならば、Dwy氏は今「ゴネ得」=「先に(こっそり)書いた者勝ち」の問題を解決する為には本件提案を受け入れさせるしかないという「思い込みに支配されている」ように私には見えるのです。Dwy氏の主張/説明の中で何かが「一足飛び」になっています。結び付かないはずの何かが結び付いているのです。それが「思い込みに支配されている」のだと私に思わせてしまうのです。
その「一足飛び」になっている部分を私に理解させて下さい。その為の議論です。
そう言えば「Wikipedia:投票は議論の代用とはならないもm:投票は邪悪なものなども、私から見ると翻訳がおかしかったりする」のだそうですね。そのあたりも影響しているのかも知れません。それぞれのノートで提案するでもいいですし、此処で一席打って戴いても私は構いません。Dwy氏の該頁の解釈は、もしかしたら私がDwy氏を理解する役に立つかも知れません。しないかも知れませんが。
それから「強制」云々については、「再考を促す」で充分であり、別に「強制」は必要ありません
であれば、本件提案は不要なのではないかと思うのですが、何故に必要なのでしょうか?
なんで「両論併記」しなければいけないのか?
ウィキペディアの内容に関する三大方針の1つであるWikipedia:中立的な観点を守る為に「両論併記」が必要ならば「両論併記」をする必要があるでしょう。「両論併記」が必要でないならば「両論併記」をする必要はありません。
そしてその「ウィキペディアの内容に関する三大方針の1つである中立的な観点を守る為に「両論併記」が必要」か否かの最終的な意思決定を合意に基づいて行うことが求められています。互いに合意を得るべき「他の編集者ら」の一部を多数決により合意を得る為の議論から追い出し、残った「他の編集者ら」だけで合意を形成することが求められているわけではありません。
なお、合意を得る為の議論から追い出すこと自体は受け入れられていて、実際に追い出しています、永遠にBANすることで。「永遠にBANする」ほどではないのであれば、それは「合意を得る為の議論から追い出す」ほどではないということを意味していると私は解釈しています。
ここまで合意・確認ができれば後は簡単で~~
であれば、本件提案は不要なのではないかと思うのですが、何故に必要なのでしょうか?
現状、私はこの「何故に必要なのでしょうか?」の答えを最終的な意思決定を合意に基づいて行うことという変な「理念」を無効化する目的以外に思い付かず、そしてその変な「理念」を無効化することはWikipediaがウィキメディア・プロジェクトである以上有り得ない(有ってはならない)ことだと考えています。
ですが合理的事情がある特殊な(つまり定義や手順が明確である)場合に限ってであれば、止む無く多数決乃至その他の解決方法というのも有り得ない選択肢ではないと考えています。当然、それは好ましいことではありませんが、それでも「ゴネ得」=「先に(こっそり)書いた者勝ち」の問題を解決する為ならば恐らくはコミュニティーの支持を受けることが出来ると考えます。既にそうなっている例としては「管理者への立候補の信任投票」と「BAN」を挙げました。
もう少し、定義や手順を明確にする方向では考えられないものなのでしょうか? 定義や手順を明確にすることは受け入れられないものなのでしょうか?
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月6日 (火) 14:37 (UTC)
「他の編集者らとのウィキ・プロセスおよび議論を通じて、どんな内容についても最終的な意思決定を合意に基づいて行うこと」をどのように解釈すれば「多数決はダメ」という結論になるのかを聞いています。少なくとも英語版では「合意は必ずしも全会一致である必要はありません」が当然のこととして受け入れられています。それどころか「全会一致が不可能な場合には、多数決で決定を行わねばなりません」という明文の規定さえ存在します。日本語版の運用も、元々はそういうものでした。「合意」=「全会一致」とは限りません。「多数決に基づく合意」もありえるのです。それが「多数決はダメ」と思い込んだ一部の人たちのために少しずつ捻じ曲げられてきて、いくつかの長期化した議論に結論が出せないという支障を生じている。だから、もう一度本来あるべき元の姿に戻そうという提案をしているつもりです。
「定義や手順」については、私としては「長期間議論をしても全会一致の結論出ないとき」で充分だと思っています。議論が堂々巡りになったとき「もっとちゃんと議論しろ」と強制してみたところで、結局は堂々巡りの議論が続くだけ。ウィキペディアのリソースの無駄使いでしかありません。ウィキペディアは百科事典を作るプロジェクトであって、議論をするフォーラムではありませんから、記事の発展に寄与する見込みのない議論をだらだら続けても意味がありません。それなりに議論を尽くしてそれでも全会一致の結論がでなければ、全会一致に一番近いところまで行った案を暫定的に採用するので、何の問題があるでしょう?別にその決定に永遠の拘束力を持たせるわけではありませんし、誰かが新しい情報やアイデアを見つけた時には、また集まって議論を再開すればよいのです。(だらだら議論の継続を強制したところで、結局、誰かが外部から新しい情報やアイデアを持ち込まなければ堂々巡りの議論がが続くだけですから、一旦解散しても最終的な解決の時期は大体同じようなものだとは思いませんか?)--Dwy 2011年9月6日 (火) 17:34 (UTC)
少しずつ捻じ曲げられてきて
だから逆方向に捻じ曲げることも許容しろ、という論法には賛成出来ません。
捻じ曲げられて「ゴネ得」の問題を発生させていることは理解しています。その「捻じ曲げられた」部分を戻すこと自体には反対していません。ですが「捻じ曲げられた」部分とは別の部分を「捻じ曲げ返しましょう」は許容出来ません。
「長期間議論をしても全会一致の結論出ないとき」で充分
つまり多数派は長期間ゴネればいいわけですね!
なるほど、今まで私は「ゴネ得」の問題を解決する為のものだと思っていたのですが、「ゴネ得」の問題を解決したかったのではなかったわけですか。自分達多数派にもゴネ得させろと、そういうわけですか。そりゃ定義手順を明確にすることに反対しますよね、ゴネ得出来なくなってしまいますもんね。
と理解すれば何もかもが納得行くのですが、善意にとるに従い「そうではない」と考えなければなりません。私はウィキペディアンとしてそう強制されているのであり、また同時に堂々巡り回避の為の努力を強制されているのです。つまり議論により合意を形成せよと。これまでの議論を無視して多数決の場で「本件提案に賛成しWikipedia日本語版を多数決主義にするのか!それとも本件提案に反対しWikipediaの理念を守るのか!ウィキペディアンよ、諸君等の望むWikipediaの未来を選べ!」と誤った二分法を用いた演説を行い「数の暴力」で勝利を得るのではなく。
「多数決に基づく合意」も~~
無いなどとは一言も言っていないどころか、何度も「有り得る」と言っているつもりなのですが?
それが「多数決に基づく合意」=多数決主義ではないのであれば、多数決主義にならないように「多数決に基づく合意」を許容する場面を定義するべきであり、それは「長期間議論をしても全会一致の結論出ないとき」では不足していると言っています。
既存の「多数決に基づく合意」や「全会一致ではない合意」としては、
  1. 多数決の結果を議論の結果とすることで合意を得た時(文字通り多数決に基づく合意ですね!)
  2. Wikipedia:管理者への立候補の信任投票(まさに多数決ですよね!)
  3. 「いつまでも「納得」しない利用者」とか「コミュニティーを疲弊させる利用者」とかをBANする場合(BANされる者がBANされることに合意する方が稀ですもんね!)
  4. 適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合(Dwy氏と私との間で「多数決の正当性がある場合」として合意が得られているものです)
があるのが明らかです。とりあえず4.に関して「議論が行き詰まった」場合でも「正当性がある」か否かはまだ議論中ですが、それと「多数決に基づく合意」が有り得るか否かとは別の問題です。
私は既に「「合意」=「全会一致」とは限りません。「多数決に基づく合意」もありえるのです」に関しては反対していません。はい、それは有り得ます。それが有り得ると説得することは見当違いなので、これ以上既に合意が得られている「有り得る」ことを説得しようとして独りで勝手に疲れないで下さい。独りで勝手に消耗しておいて挙句の果てに「コミュニティーを消耗させる利用者」だとか「いつまでも「納得」しない利用者」だとか「相互理解の拒絶」だとか言われるのでは堪ったものではありませんからね。それからついでに、私はどうやら議論等が長くなることに比較的耐性があるようなので構いませんが、一般的大多数は長い議論に耐性がありません。Dwy氏が独りで勝手に疲れるのみならず、その他この議論を読もうと考える人達をも無意味に疲れさせるので、なるべく控えて戴けるよう気を払っては戴けないものでしょうか。
一旦解散しても最終的な解決の時期は大体同じようなものだとは思いませんか?
だらだら続けることは無益であり、ある程度の段階で議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理し仕切り直すことは重要だと考えます。私もやりましたよね?
ですが残念ながら現状では議論と言うより単なる言い争いが横行しているので、議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理すること自体が出来ません。だから仕切り直しが即ち議論の打ち切りとなってしまい、そのままでは結論すら出て来ません。つまり現状維持派の「ゴネ得」です。
それは大いに問題です。ですが「仕切り直しがイコール議論の打ち切りになる」のが問題なのであって「議論を打ち切ったら議論の結果が出ない」という当然の事実が問題なのではありません。だから「議論を打ち切ったら議論の結果が出ない」ので「議論を打ち切る時には多数決により結果を出す」ことの有用性を主張することは「ナンセンス」です。
相応の時期に「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」し、議論を仕切り直すことが重要なのです。その努力を放棄して、
  • 「散々言い争いをしたけどお互い屈服しないまま長々と続いて疲れてきたからそろそろ打ち切りにしようぜ」→「結果が出ない」→「現状維持」=「現状維持派のゴネ得」
となるので現状の「ゴネ得」問題が発生しています。それを本件提案によって
  • 「散々言い争いをしたけどお互い屈服しないまま長々と続いて疲れてきたからそろそろ打ち切りにしようぜ」→「結果が出ない」→「現状維持」=「現状維持派のゴネ得」「それは困るから多数決で決着」=「多数派のゴネ得」
としたところで「多数派のゴネ得」という新しい問題を生むだけです。そして「多数派のゴネ得」とは即ち「多数派のゴリ押し」であり、つまり「多数決主義」だと私は主張しています。
問題の原因は
  • 散々言い争いをしたけどお互い屈服しないまま長々と続いて疲れてきたからそろそろ打ち切りにしようぜ
という流れになってしまう「日本流」のやり方(即ち議論ではなく説得や討論を行なうやり方)です。議論は討論ではありません。相手の言うことをとにかく否定して自分の正しさを主張し続けることは議論ではありません。議論は相互理解の為に、相手の主張を認める為に行なうものです。「敵の為に書く」という言葉を思い出して下さい。相互理解の為に論点を整理していくのが議論です。
ここまでで気付いたいくつかの見解の相違を纏めてみます。
「多数決はダメ」が意味するもの
  • Dwy氏「多数決は只の一つも許されない」(だがそうではないと主張)
  • Cray-G「多数決主義は許されない」(それは理念に基づき当然であると主張)
議論が行き詰まったら
  • Dwy氏「即ち議論が尽きたことを意味している」(ので議論を打ち切り多数決の結果を合意の結果とする正当性がある)
  • Cray-G「ゴネているだけであって議論が尽きたわけではない」(ので議論を打ち切る正当性は無く、当然に多数決の結果を合意の結果とする正当性など無い)
定義手順は「長期間議論をしても全会一致の結論が出ないとき」で
  • Dwy氏「充分」
  • Cray-G「それだけだと「多数派のゴネ得」という新しい問題を引き起こすので不充分」
そもそも本件提案は、
  • Dwy氏「多数決はダメと思い込んだ一部の人たちのために少しずつ捻じ曲げられてきたものを是正する為の提案である」
  • Cray-G「是正が行き過ぎて逆方向に捻じ曲げたい人達(=議論を避けたい人達)がゴリ押しする為の根拠になってしまう」(是正する為ならばもっと他の方法でも構わないはず)
また繰り返されるのも何なので共通見解として、
  • 「多数決に基づく合意」もありえる
を加えておきます。
「多数派のゴネ得」を許容することは即ち「多数派のゴリ押し」を許容することでありイコール「多数決主義」の容認(黙認?)だと私は考えています。なのでDwy氏の主張内容が「変革派の切り捨て」を防ぐ為に「多数派のゴネ得を許容するべきである」であるのならば議論は尽きています。以降は議論ではなく討論になることでしょう。討論は普通、千年経っても終わらないものです。もう少し早く気付いていれば「御願いですから「理念」に関する議論を試みないで下さい」などとは言わなかったのですがねぇ。
ですがもしもDwy氏も私と同様、「変革派の切り捨て」を防ぐ為であっても「多数派のゴネ得を許容するべきではない」と考えているのであれば、このまま議論を続け相互理解を進めていくことできっと幸福な合意に達することが出来ると信じています。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月7日 (水) 10:06 (UTC)
>相応の時期に「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」し、議論を仕切り直すことが重要なのです。
私の方でも、「双方の主張を箇条書きでリストアップして、整理しなおそうよ」の作業が「調査投票をやるなら…必須」と指摘済みです。議論を整理して仕切り直しても全会一致の合意ができなければ、投票に進むということでOKですか?--Dwy 2011年9月7日 (水) 14:08 (UTC)
こんなに短いのに突っ込みどころが多くて……話を前に戻して堂々巡りさせないで欲しいと言いたいところなのですが、どうやらこのあたりが根源的な見解の相違なのかも知れませんね。
双方の主張を箇条書きで
主張ではありません。既に指摘の通り「相手の言うことをとにかく否定して自分の正しさを主張し続けることは議論ではありません」ので、主張のみを書くことは「調査」投票の意味がありません。そのような利用をしようとするから「投票は邪悪なもの」とか言われるのです。先の「演説」の話を思い出して下さい。あれこそは邪悪な投票ですが、あれこそが私の主張です。
調査投票をやるなら…必須
もしもそれが本当に調査投票ならば、主張の箇条書きは必須ではありません調査投票の手順の2.の一つに「議論の要約~~が用意できているか?」がありますが、それは「どんな形のものでも、拘束力のあるものではありません」ので、ぶっちゃけ、単に「本件提案を採用するべきか否か?」という調査投票も可能なのです。それが「調査」投票として(つまり多数決で決着をつける場合以外の場合には)何の意味も無いことは確かです。しかし同時に、多数決で決着をつける(つまり「調査」ではない投票の)場合にはそれも意義(悲しいことにWikipediaにとって邪悪な意義)があることは先の「演説」の話を見ればわかる通りです。
ということでOKですか?
全く以ってOKではありません。主張の整理ではなく「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」した結果として議論が尽きたことが明白になったならば合意の余地も有り得るのですが、そもそも議論が尽きたか否かを判断する基準に関する合意が未だ形成されていないことに留意して下さい。そして同時に、それを「合意によって判断する」ことは「ゴネ得」を解決しない為、何等かの客観的な「議論が尽きたか否かを判断する基準」か、若しくは強制力のある「議論が尽きたか否かを判断する手順」が必要になります。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月8日 (木) 05:15 (UTC)
「議論」はあくまで「合意形成のための手段」であって、議論そのものは目的ではありません。議論を継続しても合意に達する現実的な可能性がないなら、(それが良いことかどうかは別にして)議論は終わりと言わざるを得ません。「千年経っても終わらない」状態と分かっていながら「もっと議論しろ」と言うのは、リソースの無駄遣いを強いるものでしかありません。そういう状態になったら(それまでに有益な議論があったかどうかに関係なく=有益な議論だったかどうかを判断する客観的な基準もありませんし)「議論は尽きた」ということです。
それから、投票は邪悪なものについて。あれは「投票は邪悪ではないのだけど、邪悪だと言いたくなるほど取扱いが難しい」と言うもので、単純に「邪悪」だと言い切っているわけではありません。Cray-Gさんの引用の仕方を見ると、「投票は邪悪なもの」というタイトルだけしか読んでいないような印象を受けてしまいます。これは翻訳者としての好奇心で聞いてみるのですが、Cray-Gさんは投票は邪悪なものの中身を本当に読んでいらっしゃいますか?英語で読んでいらっしゃれば別かもしれませんが、以前の日本語訳だとかなり理解不能の箇所が多くて、そんなに気軽に引用(リンク)できるようなものではなかったと思うのですが・・・--Dwy 2011年9月8日 (木) 22:28 (UTC)
「議論」はあくまで「合意形成のための手段」であって
そろそろm:基本原則他の編集者らとの「ウィキ・プロセス」および議論を通じて、どんな内容についても最終的な意思決定を合意に基づいて行うことを百万回声に出して読め、とか言っても許される頃でしょうかね。議論も合意も目的ではありません。全て手段です。理念もまた手段として表現されています。
はい、「合意形成のための手段」です。「合意形成のための手段」として議論(と例外として議論ではない「ウィキ・プロセス」)を用いることも理念の内です。討論を行なうことで議論を避け、多数決に移行することではありません。
議論を継続しても合意に達する現実的な可能性がないなら
討論は千年経っても決して合意に達しないものです。ですが議論は、必ず合意に達するか議論が尽きるかのいづれかです。そして自己の主張の正しさを主張し合うことは議論ではなく討論です。
討論は「裁定者」に訴えるパフォーマンスであり、裁定(この場合多数決)の結果に影響を及ぼす為に行なわれるものです。パフォーマンスなので最初から議論(相互理解)など行なう気は全くありません。只管自己の正当性を主張し相手の正当性を否定する、裁定者(民主主義の場合は民衆)に向けた印象操作の塊であり、例えば弁護士が法廷で繰り広げる類のものです。最後に裁定者が裁定する(民衆が多数決を行なう)ならば、討論もまた意味があるでしょう。日本では文化的に天皇や武士という裁定機関や、村八分という多数決による私刑制度が常に存在してきた(一揆は全会一致でしたが、つまり今のWikipediaと同様の「排斥」は行なわれていた)文化なので、討論が一般的であり議論は一般的ではありません。圧倒的大多数が単一の観点に集約されていたので議論の存在意義が無かったわけです。
議論が行なわれ議論が尽くされたならば多数決も有り得る選択肢ですが、討論が行なわれているならば最初から「千年経っても終わらない」状態であることはわかっています。討論をやめて議論をしろと言うことは「当然しなければならない努力」です。討論が千年続くのは当然の話であり、それが一年だか百年だか続いたところで少しも議論が尽きたことにはなりません。
それから~~「投票は邪悪ではないのだけど、邪悪だと言いたくなるほど取扱いが難しい」と言うもので
当然です。私は以前にも言いましたが、「多数決の利用自体には賛成したいのですが、多数決を「議論の代替」として利用することに反対しているのです。多数決は例外などではなく、もっと頻繁に利用されて良いものだと思います、「議論の代替」としてでさえなければ。」という考えを持っています。
そしてDwy氏の言う「千年間討論を続け議論をしないまま多数決に移行する」という手法は「議論の代替として多数決を利用する」という、まさに私が反対している手法なのです。
以前の日本語訳だとかなり理解不能の箇所が多くて
そうだったのですか。少なくとも引き合いに出すにあたって読み直した時には「相変わらず素晴らしいなぁ、これまでの人生で私が嘗めてきた辛酸を代弁してくれているかのようだ。全日本人に百万回声に出して読んでもらいたい。Dwy氏はこれをきちんと読んでいないとしか思えない。誤訳がどうたら言ってたから言葉尻を捕らえた揚げ足取りをする伏線のつもりなのかも知れないが、何処をどう揚げ足取りをするつもりなのか全く予想も出来んなぁ」ぐらいに思いましたが。
もしかすると、その「理解不能の箇所」を指摘して(=議論して)もらえれば、色々と相互理解が進むかも知れませんね。
私としては「m:投票は邪悪なもの」の内容に文句があるならこんなところでごちゃごちゃ言って捻じ曲げようとするんじゃなしにm:投票は邪悪なもののノートで指摘し議論を行い合意を形成して訂正する方が先なんじゃないのか?」と思うのですが。つまり「筋を通せ」ということです。
それはそうと、そろそろインデントを改める季節が近づいて来ている気がします。論点整理を意識した方が良いですかね。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月9日 (金) 03:16 (UTC)
討論は千年経っても決して合意に達しないものです。ですが議論は、必ず合意に達するか議論が尽きるかのいづれかです。そして自己の主張の正しさを主張し合うことは議論ではなく討論です。
その「討論」と「議論」の使い分けは、Cray-Gさん独自の用語法ですよね。結局Cray-Gさんが言っているのは「Cray-Gさんの基準」を満たす「議論」が行われた後でなければ多数決は認めないということですが、「Cray-Gさんの基準」はGray-Gさん以外の誰にも正確には分からないという状況になっています。これでは、他の人は議論のしようがありません。相手に自分の主張が理解できるように、出来るだけ共通の理解が得られやすい普通の言葉使いで論じるとか、そういうことをもう少し配慮していただけないでしょうか。(直感的には、一旦「討論」になってしまうと「議論」に引き戻すのはそう簡単ではないし、単に多数決を認めないというだけでは何百年待っても議論が始まらない可能性が高い…というところが一番の問題のような気がしますが、Cray-Gさんの言う「討論」「議論」の意味が正確にわからないままでは、あれこれ言っても全く意味がありません。)
日本では文化的に天皇や武士という裁定機関や、村八分という多数決による私刑制度が常に存在してきた・・・
前にも言ったと思うのですが、こういうあやふやな一般論・抽象論はリソースと時間の無駄なので、やめていただきたいと思います。こういう議論に山ほど異論があることは少し考えればすぐに分かることですし、「日本では文化的に・・・」みたいな議論をいくらやってみても、ここでの問題の解決にはほとんど役に立ちません。
少なくとも引き合いに出すにあたって読み直した時には
「引き合いに出すにあたって読み直した」ということなら、お読みになったのは私が日本語訳を全面修正した版[1]だと思います。翻訳した者の意見を言わせていただけるなら、あの文章の中にはCray-Gさんの「ちゃんと議論できるまで何百年でも待つべし」という主張を裏付けるものはありません。--Dwy 2011年9月10日 (土) 04:43 (UTC)
その「討論」と「議論」の使い分けは、Cray-Gさん独自の用語法ですよね
Dwy氏は使い分けていないのかも知れませんが、私独自かと言われるとそうではないと思います。百歩譲って私独自の使い分けだとしても、私は私の言う「議論」と私の言う「討論」との違いを何度も説明しています。Dwy氏が望むなら「再定義している」と言ってもいいですが、そのことは御理解戴けていますでしょうか?
「理解出来ない」のであれば、理解出来るように何度でも説明します。何処が理解出来ないのか指摘して戴ければ議論として対応することが出来ますし、そうでなければ演説が如き説明になります。
「理解する気が無い」のであれば、Dwy氏の言う「ちゃんと議論する気のない人に無理やり議論させることはできません」の状態であり、Dwy氏が「議論が行き詰った」状態を作り出しています。私はこの状態を「議論が尽きた」状態とは認めないと主張しています。
こういうあやふやな一般論・抽象論はリソースと時間の無駄
これらを理解する気は無いわけですか、Dwy氏に理解する気が無いなら確かに無駄です。上記「理解出来ない」場合に私が行なう「議論として対応するのではない方」を「理解する気は無い」し、且つ「何処が理解出来ないのか指摘」して「議論として対応」させるつもりも無いのであれば、つまりDwy氏が「議論が行き詰った」状態を作り出していることになると思うのですが如何でしょうか。
そしてこの状態であってもなお「合意は全会一致」の建前に基づき、ちゃんと議論する気のないDwy氏は合意を形成する為に「ちゃんと議論する」ことを強制されているのです。何百年間それに抵抗し続ける(=ゴネる)つもりなのかは知りませんがね。私の立場から言わせて戴きますと、Dwy氏は「合意は必ずしも全会一致でなくても良い」という明文の規定ができると困ったことになるかもしれないことを示す良い例だといえます
とまで言いますとDwy氏の他の発言を勘案する限り流石に言い過ぎだろうとは思っていますが、それでも私の偽らざる本心でもあります。詳しくは後述しますが、Dwy氏は強制されているのです、小さな文字で書いたように「理解を示す」ことを。
「ちゃんと議論できるまで何百年でも待つべし」という主張を裏付けるものはありません
ちゃんと議論
この表現が指す意味を明確にしない限り、これは堂々巡りになりますね。
待つべし
「待て」とは最初から言っていませんよ。そりゃ「白黒着ける」ことは当然に待たなきゃならんわけですが。それまでの間何もせずにぼんやり待っていろ(=現状維持派のゴネ得を認めろ)と主張しているわけではありません。
裏付けるもの
先の「ちゃんと議論」の「議論」が私の言う「議論」であるのならば既に理念自体が裏付けであり、あの文章はその部分的な解説でしかありません。また「討論も含めた意味での(=非殴り合いという意味での)議論」であるのならば、裏付けになるものはWikipediaは勿論ウィキメディア・プロジェクトの何処にもありません。そんな益体も無いものは眼中に無いのですから。
「日本では文化的に・・・」みたいな議論を
議論ではありませんよ、説明です。なので反論(≒議論)されても困るのです。説明無しに相互理解が出来るようなら、最初から争いなんて起きませんよね? 争うこと自体が目的であるとか目的達成に必要な手段であるとかならともかく。
お読みになったのは私が~~
それは重畳。異なるものに基づいて話をしていたのでは混乱が増すばかりですからね。
直感的には~~
その直感は恐らく正鵠を射ていると思います。わざわざ小さく書かれていることに反応するのはどうかと思いますが、その他の部分に素直に反応すると上記の通りあまりにもアレなので、以後その直感に対応します。
単に多数決を認めないというだけでは何百年待っても議論が始まらない可能性が高い
その可能性の高低に関してはともかく、そうです。特に現状維持派には議論を始める意義が無い(「ゴネ得」出来るという既得権益がある)わけですからね。ですがだからと言って単に多数決を認めたところで議論が始まるわけでもありません。そして「単に多数決を認めないというだけ」であってもなお、多数派には「ゴリ押し」出来ないので議論を始めるしかない場合があるので、多数決を安易に認めるわけにはいかず「単に多数決を認めましょう」という提案に反対しているわけです。
何にせよ、「単に多数決を認めないというだけ」では益もあるにせよ害もある。何とかして益はそのままに害だけを除去したい。その思いは共通です。現状維持派のゴネ得? 確かにそうです。捻じ曲げられた? そうかも知れません。ですがだからと言って「多数決を認めましょう」は行き過ぎなんじゃないか? それだと益まで除去しちまうだろ? という話です。
現状維持派のゴネ得は何故に発生しているのでしょうか? それは「白黒決着する」までは現状維持される風潮だからです。改名でも保護依頼の版でもそうです。このあたり、見解の相違があれば伺いたいと思います。また同意が得られるようならそれも確認したいと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月10日 (土) 06:49 (UTC)
私は私の言う「議論」と私の言う「討論」との違いを何度も説明しています。
「議論は相互理解の為に、相手の主張を認める為に行なうもの」ということであれば、山ほど異論があることが最初からわかりきっている「日本では文化的に・・・」みたいなことを、相手から反論されても困る「説明」と言う形で提示するのは、明らかに「議論」じゃありませんよね?自分が正しいと思うことを、相手が納得できるかどうかをまったく考慮せずに言い放っているわけですから、正に「討論」ということでよろしいでしょうか?
既に理念自体が裏付けであり、あの文章はその部分的な解説でしかありません。
私の方から見ると、その「理念」とやらは「あの文章」の中には全く存在しない(他の方針文書にも存在せず、おそらくCray-Gさんの頭の中にしか存在しない)ということになります。
それまでの間何もせずにぼんやり待っていろ(=現状維持派のゴネ得を認めろ)と主張しているわけではありません。
それではいったいどうしろと主張されているのでしょう?(これは非常に重要な点なので、明確にお返事いただきたいです)
それは「白黒決着する」までは現状維持される風潮だからです。
おっしゃっていることがよく分かりませんが、議論で白黒決着する前にどちらかの編集を強行すると編集合戦になりますから、「現状維持」でよいのではないですか?
おそらく、Cray-Gさんにとっては「白黒決着」というのがちょっとミスリーディングなのかもしれません。私が言っている「白黒決着」は、ずっと上の方でかげろんさんが指摘されている「提案→議論→合意形成→変更→新しい提案→・・・・・・(以下略)」のサイクルにおける一つの過程(「変更」のところ)にすぎません。一旦「白黒決着」した事項でも、新しい提案がなされて次のサイクルが始まれば当然見直しの対象になりえますし、将来の議論を拘束するものではありません。
(ちなみに、下でSweeper tamontenさんに言っているのは、同じ提案・議論を繰り返しても同じ結論になるに決まっているのだから、「提案→議論→合意形成→変更しない→同じ提案→議論→合意形成→変更しない→同じ提案→(以下略)」のようなリソースの無駄遣いはやめようということです。)--Dwy 2011年9月10日 (土) 17:48 (UTC)
正に「討論」ということでよろしいでしょうか?
「議論とは何か」に関してはまさにその通りです。私はDwy氏に「議論に参加してくれ」と「説得」しようとしているのですから。
本件提案に関して私は議論を行ないたいと思っているのですが、Dwy氏からは下記の通り「討論とか説得しようとする場合とかだと良くあること」をするばかりでなかなか協力を得られないので困っています。
おそらくCray-Gさんの頭の中にしか存在しない
議論を巻き戻すつもりなのでしょうかね。
  1. Dwy氏「Cray-Gさんは「理念」とやらが自明のもののように語っておられますが、それは一体どういう「理念」なのでしょう?
  2. Cray-G「3.他の編集者らとの「ウィキ・プロセス」および議論を通じて、どんな内容についても最終的な意思決定を合意に基づいて行うことWikipedia:五本の柱#関連項目にあるウィキメディアの基本的原則より)を言っています」
  3. Dwy氏「「他の編集者らとのウィキ・プロセスおよび議論を通じて、どんな内容についても最終的な意思決定を合意に基づいて行うこと」をどのように解釈すれば「多数決はダメ」という結論になるのかを聞いています
  4. Cray-G「その「多数決はダメ」が「多数決は只の一つも許されない」を意味しているのなら、私はそんなことを言っていませんよ
  5. Dwy氏「議論を整理して仕切り直しても全会一致の合意ができなければ、投票に進むということでOKですか?
  6. Cray-G「それ以前に「双方の主張を箇条書きでリストアップして、整理しなおす」ことと「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」することとは違います
とりあえず4.まで読み直して下さい。其処までに私が答えるべきものが既にあります。そして4.で私が纏めた「見解の相違」が合ってるか間違っているかを返答して下さい。それが6.の「双方の主張を箇条書きでリストアップして、整理しなおす」ことと「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」することとの違いです。少しづつ、見解の同じ点と相違点とを確認しつつ進めていくものです。
普通に議論していればわざわざ纏めなくてもいいのですが、こうやって議論を巻き戻したり一般論に雪崩れ込んだり(討論とか説得しようとする場合とかだと良くあること)されると議論が霍乱されて堂々巡りになるので、それを防ぐ為に少しづつ見解の同じ点と相違点とを確認しながら進めていきたいと思うのですが、如何でしょうか。
おそらくCray-Gさんの頭の中にしか存在しない
その「私の頭の中にしか存在しない」ものは恐らく「Dwy氏の頭の中にしか存在していない」のだと思います。そしてそれは推測するに「多数決を一切認めない」とかいう理念なのではないかと私は考えています。そんな理念は何処にも無いし、私もそんな話はしていません。そうであるのか否かを確認したくて先の通り「見解の同じ点と相違点とを確認しつつ進めて」いきたいと思うのですが、Dwy氏からは返答を戴けていないのです。
或いはDwy氏の方から「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」して戴いても構わないのですが。そろそろインデントを改める季節のようですし。
それではいったいどうしろと
言いたいことは多々あるのですが、討論をしようとしている相手の為に何か言うことは出来ません。いくら「敵の為に書く」の精神を持っていようとも、何とかして否定してやろうと手薬煉引いている相手の為には書けません。私は飽くまで本頁の関して現状維持派であり、本頁現状維持を前提とした問題解決の為の提案は不可能ではないと考えています。ですがそれは当然に本頁変革派による「変革する方が楽じゃん!」という一言で封殺されるものです。酷い言い方をすれば「そんな難しいことをしなくてもWikipediaを多数決主義にすれば全て解決する」からです。私が考えている案は全て「多数決主義ではないままで解決する」ことが容易ではない(=楽ではない)現実が課題として存在しています。それよりは「Wikipediaを多数決主義にする」方が圧倒的に楽なのです。
おっしゃっていることがよく分かりませんが
既に答えましたので繰り返しません。いや見直してみると、実はずいぶんと巻き戻されているんですねぇ。
「提案→議論→合意形成→変更しない→同じ提案→議論→合意形成→変更しない→同じ提案→(以下略)」のようなリソースの無駄遣いはやめようということです
問題はその最初の「議論→合意形成→変更しない」で議論がされていない(討論されているだけな)ので、その後の「合意形成→変更しない」が事実上の多数決(←私はこれを「私的な」と表現しました)によって行なわれているということです。つまり現状維持派の「ゴネ得」であると同時に多数派の「ゴリ押し」なのです。そのリソースの無駄は「議論を打ち切る」ことで発生しています。そしてSweeper tamonten氏は係る討論しか行おうとしない相手に対して「議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理」することを試みています。つまり議論を行なおうとしているわけです。それは新しい論点を生むものではありません。
なのでSweeper tamonten氏にとっては単に数の暴力で封殺されただけであり、「新しい提案がなされて次のサイクルが始まれば~~」などと言いながらDwy氏がそうしているように実際には認めない現実が立ちふさがっているわけです。その「現実」に関しては私以外の人からも指摘されているはずです。私に言わせればSweeper tamonten氏の件に関してDwy氏は「多数派のゴネ得」や「現状維持派のゴネ得」に甘んじているわけです。それがいざ自分が「変革派」に立った途端に「ゴネ得」が使えなくなったからって「多数派のゴネ得」だけでも使えるようにしたい、というように見えているわけですよ。
この「誤解」を解く為には「討論」では無理です。それでは千年経っても終わりがありません。現在Dwy氏は「変革派」なので「ゴネ」る意味は無いのです。議論を行ないましょう。
なお、リソースの無駄と言いますが、Wikipediaは単なる巨大な百科事典である為にではなく理念を実現した百科事典である為に膨大なコストを掛けています。そのDwy氏が「リソースの無駄」と呼んだものの為にです。より節約することは当然に推奨されるものではありますが、無駄ではないのです。
「白黒決着」というのがちょっとミスリーディングなのかも
議論を打ち切り、その後は前述の通り実際には認めない現実を表現しています。Sweeper tamonten氏の件にせよ、議論が(例え討論であっても)継続していれば実際には認めないと言いたくともその根拠が無いわけです。ですが実際には強引に打ち切ってしまっているので、以後は「難クセ」付けて実際には認めないことが可能になっているわけです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月12日 (月) 05:05 (UTC)
いくら「敵の為に書く」の精神を持っていようとも
「敵の為に書く」はWP:NPOVの理念ですよね。ここでWP:NPOVの話を持ってきてよいのなら、「日本では文化的に天皇や武士という裁定機関や、村八分という多数決による私刑制度が常に存在してきた文化なので」が極端なPOVであることを指摘したいと思います。「敵の為に書く」精神があるなら、少なくとも「一説によれば…」と言うべきだし、もう少しだけ考えをめぐらせれば「他の説によれば、実際の決定は家臣団の議論による合意で行われており、天皇や将軍は決定を承認し権威付けを行うだけの存在だった」とか「そういう文化的な特徴は戦後の社会の西洋化の中でどんどん薄れているという説もある」とか「ネット上のバーチャルなコミュニティーとリアルの社会とでは人々の行動様式が全く異なるという説もある」とか、山ほど異論があることもすぐ分かるはずです。そういう議論を経て(ここでの問題とは直接関係ないそういう議論をしなければならないのは私にとってなら非常に苦痛なのですが)、Cray-Gさんと私(そしてコミュニティの他の方々)が合意できるバージョンの「説明」になったとき、それがCray-Gさんの主張(例えば「討論が一般的であり議論は一般的ではありません」)に結び付けられるのか?私に「議論を強制する」と言うのなら、そういうことをまず考えて、無駄な議論を強制しないようにしていただきたい。
天皇や武士が出てくる抽象論・一般論に比べると、Sweeper tamontenさんの実例は非常にわかりやすいので、ご本人には大変申し訳ないのですが、話をそちらに絞らせていただきたいと思います。
  • Sweeper tamontenさんはブロックされたわけでもないし、実際に自由に発言されています。別に議論が打ち切られたわけでもないし、封殺されてはいるわけでもありません。
  • Sweeper tamontenさんが批判されているのは、過去の議論を全く無視して(当初は隠そうとしているようにも見えた)、同じ議論を繰り返そうとしたからです。最初から「過去の議論はこういうものだったが、あの時はこの点を十分に検討していなかった」のような議論の立ち上げ方をしていれば、扱いが全く違ったはずです。
  • 過去の議論の状況はともかく、現状、誰が多数派で誰が少数派かは、誰にも分かりません。Sweeper tamontenさんの議論がみんなを説得できれば、Sweeper tamontenさんの方が多数派になり、めでたく提案を通すことができるでしょうし、反対派の論拠の方が強力であれば、提案は却下されるでしょう。結果は、これからの議論における双方の論拠の質・強さ(quality/strength of arguments)主張の重み(weight of arguments)次第です。
というわけで、私の認識は、Cray-Gさんの認識と全然違います。--Dwy 2011年9月12日 (月) 16:46 (UTC)(「論拠の質・強さ」のところをCray-Gさんのお気に入りらしいm:投票は邪悪なものでの用語に置き換えます--Dwy 2011年9月13日 (火) 16:39 (UTC)
とりあえず、私が「答えて欲しい」と言っていることに答えない理由を聞きたいです。その「答えないこと」が「何とかして否定してやろうと手薬煉引いている」ように私には見えてしまうのです。
「敵の為に書く」はWP:NPOVの理念ですよね
そんな狭い話ではないつもりだったのですがね。それは議論を行なう上でも重要な「一つの帰着」ですよ。つまり「敵の為に議論を行なう」のです。少なくとも私はそうしています。
Dwy氏はそうではないようですし、また討論に於ける「一つの帰着」でも有り得ないものではありますが。
ブロックされたわけでもないし、実際に自由に発言されています。別に議論が打ち切られたわけでもないし、封殺されてはいるわけでもありません
Sweeper tamonten氏がしようとしていた議論は「まだ始まってもいない」ですからね。「困っている人など居ない」みたいなことを言われて。実際に居る人を前にして「居ない」などと発言されては議論になりません。
Sweeper tamontenさんが批判されているのは~~同じ議論を繰り返そうとしたからです
いやいやいや。「同じ議論」に持ち込もうという人達(含私)が「同じ議論を繰り返した」だけであって、Sweeper tamonten氏がしようとしていた議論は「まだ始まってもいない」のですよ。
Sweeper tamontenさんの議論がみんなを説得できれば
私を含めた「みんな」は「Sweeper tamontenさんの議論」を「行なわせない」ようにしているのです。説得? 出来るはずがありません。
「Sweeper tamonten氏がしようとしていた議論」とは「如何なる文面が適切か」の議論です。その前段階の障碍を把握出来ていなかったことはSweeper tamonten氏の落ち度であることは確かですが、実際に「困っている人」が居るのに「困っている人など居ない」などと言われては何も言えませんよね。
例え其処で「無くて困っている度合いと有って困る度合いの比較」の議論をしようと考えても、「困っている人など居ない、故に無くて困っている度合いはゼロであり、有って困る度合いの方が圧倒的に上」とか言われたらもうどうしようもありません。
結果は、これからの議論における双方の論拠の質・強さ(quality/strength of arguments)次第です
質だの強さだのというのが問題になるのは討論なのですが、私の言う「討論」と私の言う「議論」との相違を認めない、と主張されると、それ以上は何も言えませんね。ゴネられたら本当に困ります。
さて、現状は「議論が行き詰まっている」状態のようです。私はそう判断した根拠として、Dwy氏が「議論をしようとしないから」だと考えています。Dwy氏は「議論が行き詰まっている」状態だと考えていますでしょうか? またもしも考えているとしたら、その理由は何だと思いますか?
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月13日 (火) 09:17 (UTC)
「答えて欲しい」と言っていることに答えない理由はすごく単純で、Cray-Gさんの長い文章の中で、どれが本当に「答えて欲しい」ポイントなのか見分けられなかったからです。前にCray-Gさんが私の文章に対して「こんなに短いのに突っ込みどころが多くて」とコメントされましたが、私の方から言わせると、Cray-Gさんの方は長い文章全部に突っ込みどころが満載で、とても全部には対応しきれません。議論を進めるのに役立ちそうな論点を選んで回答・反論するので、本当に精一杯なのです。
議論は行き詰っているといってよいでしょうね。本当はもう少し私の主張も理解してくれてもよいと思うのですが、何か「こうでなければならない!」と思い込んでおられることがあるようで、素直にCray-Gさんの耳には入らないようです。例えば、私の方からは、Cray-Gさんの議論の進め方について「明らかに『議論』じゃありませんよね?・・・正に『討論』ということでよろしいでしょうか?」とコメントさせていただいていますよね。私がCray-Gさんのせいで議論がうまくいかないと考えていることは、改めて聞くまでないはずだと思います。
…で、こういう場合、私の方の理解ではコメント依頼から調査投票に進む論争解決の手順を踏むことになるわけですが、Cray-Gさんの「理念」に基づく解決方法では一体どうなるんでしょうか?--Dwy 2011年9月13日 (火) 15:56 (UTC)
もう一つ、蛇足だと思いつつも、我慢できなくて書いてしまいます。
つまり「敵の為に議論を行なう」のです。少なくとも私はそうしています。 Dwy氏はそうではないようですし…
そういう言い方だと、自分はちゃんとやろうとしているという私の側の主張はまるっきり無視されていますよね。私の知っている「敵の為に書く」やり方だと、「少なくとも私はそうしているつもりです。私から見るとDwy氏はそうではないようですし」のような書き方をするはずなんですけど、違いますか?…--Dwy 2011年9月13日 (火) 16:58 (UTC)

(いきなりですがインデントを戻します)このままでは埒があかないと判断したので、合意形成のためのコメント依頼にて意見募集をかけてきました。--Jkr2255 2011年9月14日 (水) 01:52 (UTC)

【Jkr2255氏へ】コメント依頼提出お疲れ様でした。私の対話能力の無さ故にお手数をお掛けします。
【Dwy氏へ】
どれが本当に「答えて欲しい」ポイントなのか見分けられなかったからです。
それを見分ける為に議論しているのではないでしょうか? お互い異なる観点に立脚しているのですから、最初からそんなものがわかるはずが無いではないですか。それを探す為に議論を行なうのです。
本当はもう少し私の主張も理解してくれてもよいと思うのですが
理解する為に必要な情報を「答えてくれ」と御願いしてきているのですが、答えて戴けないものですから理解が進まないのです。
改めて聞くまでないはずだと思います
何せ私はまだDwy氏のことを理解出来ていませんものですから。独りで議論は出来ませんので、私一人の努力だけでは如何ともし難いのですよ。議論は互いの協力によって成り立つものです。
自分はちゃんとやろうとしているという私の側の主張はまるっきり無視
はい。私にはDwy氏が「ちゃんとやろうとしている」ようには見えないのです。先の「どれが本当に~~見分けられなかったからです」という言葉は私には、「理解出来ません。だから答えません。そして何が理解出来ないポイントなのかに関して質問することさえ私はする必要は無く、私が何も言わずとも貴方が如何に質問するべきかを察し適切に質問しなければなりません」という態度を一貫してきたと主張しているように聞こえるのです。なので今回のDwy氏の発言でも、やはり「ちゃんとやろうとしている」ように見えるようにはなりませんでした。
もう少しわかり易い表現もあるのですが、それは口の悪い私でさえ「流石にこれは喧嘩を売っていると受け取られるだろう」と予測出来る程に酷い表現なので当面は控えておきます。
私の知っている「敵の為に書く」やり方だと
「敵の為に書く」のであればそうでしょうね。ですが私は「敵の為に議論を行なっている」のです、「敵の為に書く」のと同じ理由で。Dwy氏の耳に快いように字面を整えようとしているわけではありません。相互理解の為に、相手の主張を認める為に議論を行なっているのです。
私は本件提案に反対しています。ぶっちゃけ追加することそのものに反対しているのです。
Dwy氏は最初に「あくまで「全員一致」にこだわるのではなく、より現実的に物事を進める手段を考えるべきです」と主張しました。そしてその後の私との対話の中で「何百年も議論するのであれば、結論が出るまでの間、記事はどうするのでしょう?結論が出るまで何も書かないというのならまだ筋が通りますが、現実は「先に(こっそり)書いた者勝ち」になりがちですよね?」や「私の問題意識は「全会一致の合意ができない場合に物事が進まなくなる」ということです」と説明を行なっています。
私は本件提案に反対していますがDwy氏が問題にしていること(この際ですから「ゴネ得」でも「先に(こっそり)書いた者勝ち」でも表現は何でもいいです)を解決する為に議論を行なっているつもりです。なので比較的早い段階から譲歩し得る条件として暫定であることの明記や定義手順等を明確にすることに関して触れています。それが「敵の為に議論を行なっている」という意味です。私は私が「Dwy氏の代わりに議論が出来る=本件提案の反対論者に対して反論出来る」ぐらいにDwy氏を理解出来ることが理想だと考えています。そしてその暁にはきっとDwy氏がそうするべきだと言った通り、適切な「定義」や「それ以外の手段」を(Dwy氏に代わって)提案することが出来るようになることでしょう。ですがそれに必要な情報を私は得られていないのです。
Dwy氏は「問題意識」を持ち、その為に必要な「とあること」を実現する為に本件提案をしたと主張しています。ですが現在まででDwy氏が返答してくれた内容だけでは、その「とあること」が「本件提案などせずとも既に可能なこと」にしか私には聞こえないのです。
その「とあること」には、私が充填し得ない「何か」がDwy氏によって暗黙に―――Dwy氏の立脚する観点では当然のこととして、私の立脚する観点では思い込みによって―――充填されています。その「何か」が何かを私が知ることが出来ないので「(私の)コミュニケーション能力が不足(←Dwy氏視点)していたり、(Dwy氏の)先入観が強すぎ(←私視点)たり」する場合に該当する状況となっています。
その「何か」が何かを知る為に、私は議論を望んでいます、Dwy氏が問題にしていることを解決する為に。私は「解決しなくても今のままでWikipediaはそれなりに適切に廻っている」と考えているにも関わらず。それが「敵の為に議論を行なっている」という意味です。そしてDwy氏が「敵の為に議論を行なっている」ようには私には見えないのです。
本当はもう少し私の主張も理解してくれてもよいと思うのですが
はい、理解したいと思っています。ですがこれまでのDwy氏の言葉では、私が理解するには足りないのです。
質問に答える代わりに一席打って戴いても私は構いません。思いの丈をぶちまけて下さい。ただ、とりあえず何か言い返そうとか、説得しようと一般論やらこれまでの議論の繰り返しやらをされると結局は堂々巡りの議論が続くだけ。ウィキペディアのリソースの無駄使いでしかありませんので、それは出来るなら控えて戴きたく。
逆に、Dwy氏が私の主張を理解する為に質問して下さっても当然構いません。矛盾の指摘でも構いませんし、口の悪い表現でも構いません。私は私の思い込みによってDwy氏が充填し得ない言葉を暗黙に充填している(はずな)ので、それを明らかにして下さい。私はそれを「当然だと思い込んでいる」ので、それが「(Dwy氏の観点から見ると)何か」は私自身にもわからないのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月14日 (水) 17:49 (UTC)
前にした質問をもう一度繰り返します。こういう場合(=議論が行き詰った場合)、私の方の理解ではコメント依頼から調査投票に進む論争解決の手順を踏むことになるわけですが、Cray-Gさんの「理念」に基づく解決方法では一体どうなるんでしょうか?
「それまでの間何もせずにぼんやり待っていろ(=現状維持派のゴネ得を認めろ)と主張しているわけではありません」とのことなので、何らかの解決策があるはずだと期待しています。--Dwy 2011年9月14日 (水) 21:59 (UTC)
それでいいんじゃないでしょうか? つまり「コメント依頼から~~手順を踏む」で。現状そうすることになっているのですよね? 特段の問題を感じませんが。
どうもDwy氏は「私ことCray-Gに固有の(Wikipediaでは一般に認められていない)「理念」とか言うもの」に関して私が主張していると思っているようですが、特にそういうわけではないと思いますよ。
「何らかの解決策」に関しては、以前にも言った通り聞いた人が吃驚仰天するような「議論を呼ぶ」概念を含む類のものなので、現状でそれなりに適切に廻っているWikipediaにわざわざ導入して混乱を呼ぶ価値を見出せません。ですがDwy氏が主張している「本件提案が実現されなければ解決出来ない問題」が現状のWikipediaに存在するのであれば、その解決の為に前記の案を披露することもやぶさかではない程度に考えています。多分廃案になるだろうとは思っていますが、そんなに大きな問題なのであれば多少の混乱程度なら誤差の範囲かも知れませんからね。
ですが此処までの議論では、Dwy氏が主張していると私が「思い込んで」いる「本件提案が実現されなければ解決出来ない問題」が何かが私にはわからないのです。Dwy氏の主張を聞けば聞くほど「本件提案を実施する必要性は無い」と主張しているようにしか聞こえないからです。今回の質問にしても、まるで私が現状で規定されている手順を踏むことに反対しているかのような質問の仕方ですよね。もちろん現状で規定されている手順を踏むことに反対なんてしていませんよ、私は本件議論に於いて現状維持派ですから。現状のまま、追加する必要は無い、と主張しているのです。
Dwy氏「合意は必ずしも全会一致でなくてよい旨を追加しましょう!」 → G「反対!」 → Dwy氏「ならば現状で規定されている手順以外のどんな解決策があると言うのだ!」 → G「え? 現状で規定されている手順でいいじゃん。何も変更する必要無いよね? 何が問題なの?」
「本件提案の追加を行なうこと」と「現状で規定されている手順以外の解決策を求めること」とが私の中でつながりません。
いやつながるはつながるのですが、それには「現状で規定されている手順では解決出来ない問題が存在すること」と「本件提案の追加を行なうことによって、現状で規定されている手順以外の新たな(前記問題を解決出来る)解決策が実行出来るようになること」とが条件として必要になります。ですがDwy氏からこれまで聞いた内容からは、「現状で規定されている手順以外の新たな解決策とは現状で規定されている手順と何も違いは無い」と主張しているようにしか私には聞こえないのです。で、私は「だったら現状維持でいいよね? 何も変更する必要は無いよね?」と不思議がっているわけです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月14日 (水) 23:13 (UTC)
  • 「聞いた人が吃驚仰天するような議論呼ぶ概念を含む解決策」などという、いつ実現するかもわからないようなものを、この場の議論に持ち出すこと自体が「ごまかし」であり、不誠実な態度です。はっきり言わせていただければ、問題外で、議論の対象になりません。実際に提案して皆さんの合意を得て実施が始まるまでは、二度とこの場の議論に出さないでいただきたい。
  • D「合意は必ずしも全会一致でなくてよい旨を追加しましょう!」 → G「反対!」 → D氏「なんで?」 → G「ウィキペディアは多数決主義じゃないし、ウィキペディアの理念に反するから」 → D「『多数決主義でない』って具体的には何がだめなの?『理念』って一体何?」→ G「『5本の柱』や『基本原則』や『邪悪なもの』を見ろ!」 → D 「そこには『多数決がダメ』なんて書いてないよ」 → G「『多数決はダメ』なんて言っていない!」→ D 「じゃあ、なんで反対なの(涙)?Gさんが言っている『理念』なんてどこにもそれらしいことは書いてないし、Gさんの頭の中にしかないんじゃない?」→ 「D氏が私の頭の中にしかないといっているものは、D氏の頭の中にしかありません」→ D「ひょえ~~(涙)」 
最初の質問に戻って、なんで反対なのか、どういう理由で何がいけないと言っているのかを、ちゃんと答えてください。
  • 「現状で規定されている手順」が何なのかについて、具体的なところに入っていくと、かなり認識の相違が存在していると思います。例えば「南京事件」での議論でも「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」という意見がありましたが、私から見ると、そういうのは現状の規定についての誤解だということになります。他の方からも、本来機能するべき論争解決の手順が機能していない記事があるという指摘がありました。そういう誤解や機能不全を解消するのが、今回の提案を目的です。
  • Cray-Gさんの発言を読み直していて改めて気付いたのですが、Cray-Gさんはウィキペディアの「調査投票」も「その特徴として高速性、客観的運用可能性、確定的結果導出可能性を持っています」というご意見なのですね。私の理解では、「調査投票」というのは、要するに「この問題に関する議論全部(の要約)を読んであなたの意見を表明しなさい」という投票です。「どの主張に賛成するかを表明しなさい」でないところが「調査投票」の「調査投票」たる所以ですが、実際に投票の途中で投票者から新しい重要な論点が出てくると、それまでに投票した人は「この問題に関する議論全部(の要約)を読んで」いなかったことになり、投票全体を仕切り直さざるを得ません。また、投票でめでたく結論が出た後でも、新たに重要な論点が指摘されれば、同様に議論を仕切り直してやり直さざるをえなくなります(そんな論点は大して重要じゃないという反論は可能でしょうが、それでもやはり議論は避けられません)。まあ、私からみれば、高速なんておこがましいし、確定的結果導出可能性なんてとんでもない話です。
  • …で、ここが重要なのですが、万一多数派がゴリ押しで投票を実施しようとしても(どちらが多数派かは事前には分かりませんから、こういう設定の仕方は間違いだと私自身は思っているのですが、仮にそういうことがあるとしても)、ウィキペディアの投票が「調査投票」である限り、後から重要な新しい意見が出てこない程度には議論を尽くすようにするわけです(これは非常に難しいことで、だからこそ、「投票はむしろ議論の初めに」という結果になるのですが)。これが私の理解する「議論が尽きた」の基準です。--Dwy 2011年9月15日 (木) 16:24 (UTC)
なるほど。「Dwy氏が私の頭の中にしか無いと言っているDwy氏の頭の中にしか無いもの」が何かわかりましたよ。
例えば「南京事件」での議論でも「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」という意見がありましたが
そういう意見の人が居たからと言って、私までそういう考えを持っていると思い込まないで下さいよ。或いは、そういう考えを持っている人向けの説明は無意味ですよ、と言った方がいいですかね。
私から言わせれば、その「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」というのもまた理念の曲解であり、同時に「少数派のゴネ得」を有効化する要因の一つだと考えています。それはそれで「問題」であることは認識していますが、「Wikipediaを多数決主義にする危険を冒さなければならない程に大した問題」でもないと思っています。
その「問題」を解決する為に私は協力することが出来ると思っています。ですが私は本件提案には反対であり、定義手順を明確化するならば賛成する余地はあると考えています。他にも賛成する条件があるのかも知れませんが、それはまだ私自身にすらわかっていません。もしかしたら今後の議論でそれが発見されるのかも知れませんし、そうだとすればそれは喜ばしいことだと考えています。
Dwy氏が私の発言に対して理解不能だったこととは恐らく、私の発言と「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」とが矛盾しているからでしょう。私は「多数決主義ではない」とは思っていますが「調査投票はダメだ」などとは欠片も思っていません。その思い込みを捨てて下さい。
私が「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」と主張する人と異なる理由により本件提案に反対していることを理解して戴けない限り、他は全て無駄な議論(=リソースの無駄)へと発展することになります。先ずはそれを確認したいと思います。他のことにも答えたいので、確認させて下さい。
  1. 私ことCray-Gであれ他の誰かであれ、多数決主義ではないことを以って本件提案に反対している全ての人が「調査投票はダメだ」と考えているわけではない(←多数決主義ではないことを以って本件提案に反対する者の中には「調査投票はダメだ」と考えている人もいない人も居る)
  2. 私ことCray-Gは「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」を否定する観点に立脚している(←私は本件提案に反対しているし「多数決主義ではない」と考えているが「調査投票はダメだ」と考えているわけではない)
  3. 私ことCray-Gは、多数決主義ではないことを根拠に「任意の状況下に於いて議論の代替として多数決を用いること」に反対している(←このことは議論によって覆されたり説得されることのない私自身の「コダワリ」であり、議論によって理解しようとするのであればともかく、議論によって覆そうとか説得しようと試みることはリソースの無駄遣いであることを明にするものである)
  4. 私ことCray-Gは、本件提案に対しその文面が「任意の状況下に於いて議論の代替として多数決を用いる」為の根拠に出来る文面である限り必ず反対票を投じる=反対意見を表明する(←このことは本件提案に関し私が圧倒的少数派として「私的な多数決」によって封殺される可能性を私自身が容認していると同時にゴネる意図が無いことを明にするものである)
上記四点をDwy氏に認めて戴ければ、今後の議論も有意義なものとなることでしょう。ですが「本件提案に賛成する」か「多数決主義ではない以外の理由で本件提案に反対する」か「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだと考えている」かのいづれかであるという誤った二分法に基づいた思い込みを捨ててもらわないことには、このまま議論を続けてもリソースの無駄になってしまいます。
上記四点を認めますか認めませんか? いづれかを答えて下さい。或いは、上記四点に関し理解出来ない点があればそれに対する質問をして下さい。さもなくば「「本件提案に賛成する」か「多数決主義ではない以外の理由で本件提案に反対する」か「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだと考えている」かのいづれかである」ことを証明して下さい。認めるか認めないか質問か証明かのいづれかを御願いします。
では、改めて「認める」と答えて戴けた場合にする予定の返答を行ないます。上記設問に対して「認める」以外の答えを行なう場合は無かったことにして下さい、見当違いな論点ですので。
そういう誤解や機能不全を解消するのが、今回の提案を目的です。
確かに「誤解や機能不全」は解消されるかも知れませんが、解消し過ぎて「多数派のゴネ得(=ゴリ押し)」を防ぐ機能まで解消しかねない状態になっています。私は「もう少し何とかしてくれよ」と要求しているつもりなのですが、何故に「もう少し何とかすること」に反対しているのでしょうか。それが理解出来ません。
もしもそれが先の「思い込み」によるものであったのならば、これからは「もう少し何とかすること」に関して前向きになって戴けるだろうと考えています。
私からみれば、高速なんておこがましいし、確定的結果導出可能性なんてとんでもない話です。
「結果」と「結論」を混同しているからそう見えるのです。
調査投票自体は特定時刻に必ず終了し、その際に必ず客観的且つ確定的な結果が出ます。つまりいづれかが多数もしくは同数という結果です。ですがそれは(Dwy氏の言う通り)「調査投票の結果」であって「議論の結論」では決してありません。調査投票によって「議論の結論」が出ないことを指摘したところで、調査投票の持つ高速性、客観的運用可能性、確定的結果導出可能性が否定されるわけではありません。
さて、この「調査投票の結果」であって「議論の結論」では決してないにも関わらず高速性云々をを否定することが、即ちDwy氏が腹の底では実は「調査投票の結果を議論に代替して議論の結論として用いよう」と考えているのではないかという邪推を呼んでいます。
ですがこの発言を行なった状況が先の「思い込み」に支配されていた状態であったのならば、「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」と主張する人=「調査投票の結果を議論に代替して議論の結論として用いられる」ことを恐れている人に対し「調査投票の結果は議論の結論ではない」と理解を求めるつもりだった(故に調査投票の結果と議論の結論とを混同した説明になってしまった)のだと解釈することが出来ます。なので私はそれが私に対しては不適切な(=要らん邪推を呼ぶ無駄な)説明であったと理解し、見なかったことにすることで邪推を抑えることが出来ます。
で、ここが重要なのですが
それが重要(論点)になる人とは即ち「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」と考えている人ですね。私ではありません。私はそれを当然のことと考えています。
私が重要視しているのはその中でのもっと細かい(Dwy氏があまり興味を持っていない)ことです。
本件提案実施前であれば調査投票を行なってもそれを「調査投票の結果を議論に代替して議論の結論として用いよう」とする「多数派のゴネ得(=ゴリ押し)」に対し抗弁が可能です。つまり「調査投票はされたがそれは多数決ではない」と言えるわけですよ。
ですが本件提案に何等の定義手順無しに「やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあります」なんて書いてあれば、多数派が「やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあるんだよ(そして今がその時なんだよ)」とゴリ押しをすることが可能になるわけです。何を言おうと常に「やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあるんだよ」と抗弁することが出来且つ、それを多数派が行なうわけですから防ぎようがありません。
当然ながら「必ず自身が多数派になることを事前に知る確定的な方法」はありませんが、そう憶測したでも、いっそ事後でも構わないのですよ。結果として多数派になった側が始めたゴリ押しを防げないのなら同じことです。それを押し留める予防策が無いままでは賛成出来ません。
二度とこの場の議論に出さないでいただきたい
このまま議論が適切に進んだ場合、その方向性には二通りが考えられます。一方ではゴリ押しを予防する文案の議論に進むでしょうし、もう一方では「調査投票ではない多数決を導入」する方向に進むと思われます。
前者に進んだならば以後出す必要は無くなります。後者に進んだならばまた出すことになるでしょう。そしてその際にはもう少し具体的な案を提示出来ると思います。
私はまだ、Dwy氏が前者に進めたいのか後者に進めたいのかを理解出来ていないのです。
最初の質問に戻って~~
前述の通りです。改めて繰り返す必要は無いと思うので省略します。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月16日 (金) 06:39 (UTC)
私のことと思しき発言がありましたので言及しておきますが、南京事件での調査投票では多数決主義としかならない状況であるとして反対したまでで、「調査投票=多数決」と反対していた訳でもないことを申しておきます。無論状況が違えば調査投票も有効になりうると考えています。--はぬまん 2011年9月16日 (金) 10:20 (UTC)
DwyはCray-Gさんのご意見がわからないから、どういうご意見なのですかと質問しているのです。「誤った二分法に基づいた思い込み」など全くありません。そういう勘繰りは議論を進める上で邪魔にしかなりませんし(以前にも「勝手な言葉の充填」はやめてくださいとお願いしたと思います)、あまりしつこいと私も不愉快になります。「どういうご意見なのですか?」という私の質問に素直に答えていただければ、一番速く話が進むと思います(今のところ、Cray-Gさんの回答は「私の意見は○○だとDwyは誤解しているようだが、実際はそうではない」というものばかりで、肝心の「Cray-Gさんのご意見」については全然答えてもらっていない状態です)。
Cray-Gさんやそのほかの方の主張について「…という主張であることを認めるか認めないか」などと言われても、私には答えられません。Cray-Gさんの主張については、ご本人がそうおっしゃるのなら、そう言う主張なのでしょう。他の皆さんの主張については、他の皆さんに聞いてください。
Cray-Gさんは「私が重要視しているのはその中でのもっと細かい(Dwy氏があまり興味を持っていない)ことです」とおっしゃっていますが、これが全くの誤解で、Dwyが問題にしているのは正に「その中でのもっと細かいこと」なのです。
  • 「多数決主義でない」と言っても、「多数決は全部ダメ」から「まず必ず議論をしなさい(ちょっとでも議論がされた後なら多数決OK)」まで、いろいろな立場がありえます。Cray-Gさんの解釈は、どういうものですか?
  • 「議論の代替にならない」と言っても、「議論と『併用』されていれば『代替』とは言わない」とか「調査投票は『構造化された議論』だから問題ない」のような意見もあり得ます。Cray-Gさんの解釈は、どういうものですか?
  • 「私は『もう少し何とかしてくれよ』と要求しているつもりなのですが」は充分理解しています。でも、「何とかする」必要性を認識していないDwyとしては、まず「具体的に何を心配しているの?」「具体的にどうしたいの?」に明確な回答をいただかないと、検討ができないのです。
念のために申しあげますが、上記コメントの中では「多数決主義」や「議論の代替」等についてDwy側の意見は一切述べておりませんので、「Dwyはこう考えているようだが」のような余計な勘繰りは無用にして、素直にCray-Gさんのご意見をお聞かせいただければと思います。--Dwy 2011年9月17日 (土) 02:28 (UTC)
思い込み」など全くありません
では今までのこの長い間、相手のことを何も知らず何も仮定せずにDwy氏は「何の議論」をしてきたつもりなのでしょうかね。極めて不思議です。まぁ、それは置いておきましょう。
「多数決主義でない」と言っても~~いろいろな立場がありえます。Cray-Gさんの解釈は、どういうものですか?
少なくとも「多数決は全部ダメ」よりは多数決主義に近いが「ちょっとでも議論がされた後なら多数決OK」よりは「多数決は全部ダメ」に近いです。これ以上Dwy氏に伝わる言葉を私は持っていません。質問を重ねて判断して下さい。
例えば「~~はOK?ダメ?」という質問の羅列や、「多数決は全部ダメ」から「ちょっとでも議論がされた後なら多数決OK」までの間のDwy氏に可能な解釈を羅列するとか。
かつてDwy氏が「特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成~~の判断基準は、「その問題について世間に複数の見解・観点が存在し、その記述がそのうちの特定の観点をすいしんしているかどうか」だと思います」と答えたように、「多数決主義ではないというのは、決定の基準を合意に基づいて行なう主義であるということであり多数決主義者が行なうように支持者の多寡で決定する主義ではないということです」とか答えたいところです。
「主義」というのはつまり行動に関する「原理原則」です。原理主義(教条主義)であれば「原理原則」以外には認めないのでしょうが、私は原理主義者ではないので「例外」を認めます。ですが例外は飽くまで例外であって、原則的には(原則では)認めないことが前提にあるべきだと考えています。そして、本件提案に於いて変更が為される本項「Wikipedia:合意形成」は重要な原則の一つだと考えています。
そして「多数決主義ではない」ので、「原則に於いては多数決を認めるべきではない」と考えています。そして原理主義でも規則主義でもないので「原則に於いて多数決を認めていないことが多数決全廃を意味しない」と考えています。
私は「例外」を認めるので、調査投票は無論(←これは多数決ではないという認識です)のこと「調査投票以外の多数決」すら認め得ると考えています。ですがよほどの事情が無い限り、それを「原則」に含めることには反対です。そして荒らし対策や信任投票は「よほどと言う程ではないにせよ定義も充分であり妥当な事情」だと思いますので原則に含めずに多数決に基づいて運用されることも問題無いと思います。ですが現在のWikipedia日本語版全体として「原則に含めなければならない程に「よほどの事情」」と言う程の状況ではないと認識しています。
「議論の代替にならない」と言っても
んー、「議論の代替」とは何か、という意味でしょうかね。議論とは相互理解の為の一手法であると私は考えているので、「議論の代替」とは「相互理解の放棄」です。
相互理解した結果として「袂を分かつ」ことになったのならば、多数決(←調査投票ではなく)も当然のことでしょう。ですが其処に相互理解の阻害(ゴリ押しや脅迫、対話放棄、議論霍乱、詭弁、印象操作、コミュニケーション能力の不足、強すぎる思い込み、そして疲労等)があるのならば、多数決(←調査投票ではなく)に移行するべきではありません。
具体的に何を心配しているの?
その場合であっても調査投票は常に認め得るものではありますが、残念ながら「投票は邪悪だと言いたくなるほど取扱いが難しい」ものです。その上、「調査投票の結果」と「多数決の結果」が「使い道が異なるだけで内容は同じ」であることから、(結果としてそうなった)多数派が相互理解を放棄(=議論に代替)して「調査投票の結果」を「多数決の結果」として用いる誘惑に耐えることが難しくなるわけです。特に「議論が行き詰って」いて先が見えない時には。
そうなった時にも多数派に思い留まらせるはずの「原則」で、多数決も(未定義のまま)可能だと書いてあれば思い留まらせるよう説得する根拠が無いわけですよ。そういう群集心理やら集団暴走やらが始まってしまえば、もはや理念だの理想だのは何の説得力も持ちませんからね。なので反対していますし、定義等が明確であれば(群集心理やら集団暴走やらを押し留めることが出来るならば)許容し得ると言っているのです。
以上、御理解戴けましたでしょうか。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月17日 (土) 06:52 (UTC)
「調査投票は原則不可。明確に定義された例外的な場合に限り実施可」ということであれば、「明確な定義」が存在しない限り、事実上調査投票は実施不可能です。Cray-Gさんの方でちゃんと「明確な定義」をしてくれない限り、(私の方から見ると)結局Cray-Gさんは調査投票そのものに反対しているようにしか見えません。
私の方の考えは「議論が行き詰ったら、再度双方が主張を尽くした上で調査投票」で、Cray-Gさんの考えとは違いますから、私の方に「明確な定義」を期待するのは筋違いです。「明確な定義」を必要とする主張をなさるのなら、Cray-Gさんの方でしっかり定義してください。--Dwy 2011年9月17日 (土) 09:37 (UTC)
私の主張では「本件提案が実施されない(現状維持の状態な)のであれば」調査投票は可です、扱いは難しいにせよ反対していません。つまり「残念ながら~~」ではありますが、原則である本項に「多数決も可」とか書いてないんで、集団暴走が起こりそうになっても「押し留める」ことが出来ますし、実際(調査投票自体にさえ反対が出る場合まであるぐらい)押し留められています。その抑止力を取り払う本件提案に反対しています。調査投票自体には反対していません。ですがまぁ、定義等無しのまま本件提案が実施された後は、もしかしたら調査投票自体に反対する勢力の一員になってしまうかも知れませんがね。
調査投票が調査投票である限り、定義なんぞ不要です。任意の場合に於いて常に実施可です。例え議論が尽きていなくても。如何なる事案に関してでも。ですが、調査投票を調査投票以外のものにすることが出来るようにするならば、それを防ぐ為に定義(か何か)が必要だと言っています。そして本件提案は「調査投票を調査投票以外のものにすることが出来るようにする」ものだと主張しています。如何にして「調査投票を調査投票以外のものにする」のかについては既に述べました。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月17日 (土) 10:19 (UTC)
ああ、なるほど。「調査投票」はOKだけど、「多数決」が嫌ということですか?確かに、前回ちょっと見落としましたが、「多数決主義ではないというのは、決定の基準を合意に基づいて行なう主義であるということであり多数決主義者が行なうように支持者の多寡で決定する主義ではないということです」とおっしゃってますもんね。であれば、やはり全ての多数決に反対ということになりますね。(もし、例外があるというのなら、その例外はそちらで定義していただく必要があります)
ちなみに、「多数決主義でない」について、私の理解は以下の通りです。
  • 「多数決主義でない」は、以下の点について注意喚起をしているだけで、決して多数決そのものを全否定しているわけではありません。
  • ウィキペディアで多数決を行う場合には、何が問題になっているのかちゃんと理解した上で、ウィキペディアの方針やガイドラインに則って判断した意見の数を数える必要がある。無知や偏見、誤解に基づく意見を数えても、何の意味もない。
  • ネット上のコミュニティで意見の数を数える際には、多重投票やミートパペット、カンバス行為等の不正行為に細心の注意を払い、その影響を排除しなければならない。
  • ウィキペディアの議論では、合意を決定する際に「議論の品質」を考慮することになっています(例えば、Wikipedia:合意形成#コミュニティの議論の記述を参照)。そして、ウィキペディアで「議論の品質」を判断するとしたら、より質の高い議論はより多くの人を納得させるだろうという前提に頼らざるを得ません。誰もがみんな自分の理論が正しいと思っている訳だから、お互いどんなに議論しても結論は出ません。他に例を探すまでもなく、理論だけで勝負するなら、議論では誰もDwyに負けを認めさせることはできないことを、自分自身良く知っています。最終決定権を持つ個人が存在しない以上、多数決的な要素を全面的に排除してしまっては、満足に意思決定ができなくなるのです。
  • 最後に、英語版のen:Wikipedia:Consensusの最後にリンクされているメーリングリストでの発言を紹介しましょう。
(引用始め)
>「合意」って、どうしたって全員が同意するっていうことでしかないよね。でも、そういうことって何時起きるんだい?ほとんどありえないじゃないか。
「合意」と言うのは少しあいまいな言葉ですが、そういう意味ではありません。実際のところ、ウィキペディアの標準的な運営方法は、「合意」が何を意味するかをかなり良く表しています。。つまり、コミュニティの中に
大筋で同意した人々、
反対の立場だが、お互いの意見の相違を認め合えれば譲歩することに不満がない人々、
同意はしていないが、その問題はどうでもよい問題だと思っている人々、
強く反対だが、コミュニティの意見というものの存在を認め、その意見には従う意思がある人々、
納得せずに自論を主張し続ける者が数名、
「ルール無用」の行動をとる者が数名、
そういう人々が混在していること、それが「合意」の意味です。合意に基づいて行動しようとしていれば、全会一致ではないにしろ、合意が自分の側にあるかどうかは分かるものなのです。(引用終り)--Dwy 2011年9月17日 (土) 14:01 (UTC)
であれば、やはり全ての多数決に反対ということになりますね
私の発言の何処をどう読むと私が「全ての多数決に反対している」と主張しているように受け取れるのでしょうか。
私は「全て多数決にする」ことには反対していますが、それは「全て多数決に反対している」ことを意味しません。
これから私は「論点がずれている」ことを示す為に「お前だって論法」を用いますが、議論を発散させる目的ではなくDwy氏の論点がずれていることを伝える為です。そのことについて私の主張を正当化したり、Dwy氏を貶めたり、或いは貶められたと感じたDwy氏に反論を行なわせ議論を霍乱させる意図はありません。
<お前だって論法>
もし、例外があるというのなら、その例外はそちらで定義していただく必要があります
なるほど。つまり「例外無く全てを多数決にするべき」とDwy氏は主張していることになりますね。もし、例外があるというのなら、その例外はそちらで定義していただく必要があります
</お前だって論法>
私は多数決の全否定をしているわけではありません。多数決を全否定か否かに関しては、私とDwy氏は同意見だと思いますよ。つまり「全ての多数決に反対」でも「例外無く全てを多数決にするべき」でもないという意味で。そのことは理解してもらえないものですかね。そうやって論点を回避し続けていればそりゃ2~3か月も議論していれば、考えうる論点はすべて出尽くしてしまい、議論は堂々巡りに陥るのも当然のことですよ。
改めて言いますが、Dwy氏は「合意は必ずしも全会一致でなくても良い」という明文の規定ができると困ったことになるかもしれないことを示す良い例だといえます。そうやって堂々巡りに陥ったところで、第三者の意見を募る「コメント依頼」や、当然のことだと思っていたことが自身の思い込みであったことを気付かせる「調査投票」は有意義だと思います。ですが「意図的にゴネて(=気付かない振り、理解出来ない振りをして)議論を堂々巡りに陥らせ」て議論が行き詰った状態を作り出し「多数決を望む者が存在すれば例外無く全てを多数決にすること」が出来るようにすることには反対します。
ところで、
「調査投票」はOKだけど、「多数決」が嫌ということですか?
私が「調査投票はOK」であり且つ本件提案の目的が例えば「南京事件」での議論でも「多数決主義ではないのだから調査投票はダメだ」という意見がありましたが、私から見ると、そういうのは現状の規定についての誤解だということになります。他の方からも、本来機能するべき論争解決の手順が機能していない記事があるという指摘がありました。そういう誤解や機能不全を解消することであるのならば、Dwy氏の言う「多数決」は「調査投票」のことだと思いますので、私が「調査投票はOK」だと主張していることを理解した段階で「多数決に関する議論」は不要だと思うのですが。
Dwy氏は私ことCray-Gに
  1. 調査投票を認めさせたい
  2. 調査投票とは異なる性格を持った「多数決」を認めさせたい
のどちらなのでしょうか?
それ以降は概ね私の見解と同一なのですが、一箇所だけ。
議論では誰もDwyに負けを認めさせることはできないことを、自分自身良く知っています
「負け」ってなんです? 此処で「負け」は意味が通じないので理解出来ないのですが。
一応、討論や論争、言い争い、説得等であれば勝敗というのも理解が出来るのですが、議論であれば「相互理解の達成」か「議論が尽きて決裂」かのいづれかであり勝敗というものは無いと思うのです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月18日 (日) 09:59 (UTC)
とりあえず私としては、「最善の努力を尽くしてもなお全会一致の合意に至らない場合には、やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあります」の提案を認めてほしいのです。
そして、認めていただけないのであれば、その理由が何なのか、ちゃんと教えてほしいのです。
ただ、「議論」vs「討論」とか「相互理解」のように、Cray-Gさん独自の考え方を根拠にされても困るので、既存の方針・ガイドラインに基づいて論理を組み立てていただきたい。Wikipediaの議論は、「相互理解」なんかのためではなく、合意を形成することが目的ですし、そのためには当然「説得」も必要です(既存の方針・ガイドラインにそう書いてあります)。--Dwy 2011年9月21日 (水) 16:05 (UTC)
ノート:南京事件 (1937年)での議論が進展を見せたようで、先ずはお疲れ様でした。
認めていただけないのであれば、その理由が何なのか、ちゃんと教えてほしいのです
これまでの議論を読み直して下さい。議論を巻き戻して堂々巡りさせて行き詰った演出をしてリソースとコミュニティーを消費させることは避けて欲しいと思います。
とか言いたいところなのですが、てっきり本丸攻略が進んだのでもう戻って来ないのかもと思い議論の纏めに挑戦しているので、それを投下することで「仕切り直し」て議論を継続する(=やり直す)というのは如何でしょうか。これまでの紆余曲折した議論を読み直す手間も省けると思うのですが。とは言え、私の纏めに対し異論を呈する為にやはり読み直さなければならなくなるかも知れませんがね。
とりあえず仕切り直しに反対された場合の為に言っておきますと、
その理由が何なのか
全会一致に偏っているぐらいで丁度良い、と思っているので反対しています。それでも偏っている所為で色々と問題があることは想像に難くないので認める為に議論を行ないたいと考えていたのですが、Dwy氏が「言うまでもない」として「暗黙に充填している言葉」が何かわからないので認めようが無いのです。その所為でDwy氏の言動が、本件提案は「血迷ってWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票に反対する者への対策」であるという名目の元に事実上の「強制的な投票(調査投票ではない多数決)により議決するルールを新規に制定」することを目論んでいるように見えてしまうからです。
そう思わせてしまう代表的なものにはDwy氏が
「調査投票」を「多数決」と言い換える
これにより、「調査投票」と「多数決」とが明白に異なるものだという観点に立脚している私は「先に(騙して)書いた者勝ち」の状況を作ろうとしているのではないかと警戒心を抱いてしまいます。
「~~ですか?」と聞かれたことに「はい」とも「いいえ」とも「その質問は不適切である」とも答えないで他の話を始める
誤魔化しているように見えてしまいます。それは「真摯に」という言葉に反する態度です。
仕方が無い/現実的という理由を持ち出す
「真摯に」議論を行なっていると受け取られていればそんなこともないのでしょうが、前記の通り誤魔化しているように見えている中では努力放棄の正当化に聞こえてしまいます。
既に回答した質問を繰り返す
これは相手の話を聞いていないように思えてしまいます。これにより堂々巡りが始まりますので「通常、2~3か月も議論していれば、考えうる論点はすべて出尽くしてしまい、議論は堂々巡りに陥る」というDwy氏の認識が、実はDwy氏が独りでそうしている(問題を起こしている人が沢山居るのではなくDwy氏独りが問題を起こしているのであって、その所為でDwy氏視点ではぶち当たる議論の全てで問題が起きているように見えている)だけなのではないかと思わせます。つまり「自分が抱えている問題を棚に上げて他人の所為にして、他人が問題を起こす原因を本項の記述に求めたことから本件提案を行なった」のではないかと疑念を抱かせる根拠になってしまっているわけです。
また同疑念に関しては過去にDwy氏が井戸端で行なった「特定の観点を推進するような発表済みの情報の合成の判断基準は、その問題について世間に複数の見解・観点が存在し、その記述がそのうちの特定の観点を推進しているかどうかだと思います」という発言のような循環論証を行い、しかもそれを「直截で分かりやすいと思います」と主張したことも強い影響を与えています。循環論証をわかり易いと感じるのは同じ観点の持ち主だけであり、異なる観点の持ち主にとっては無意味な言葉なのですが、そのことに気付かないと「議論を行き詰らせたり、議論を堂々巡りに陥らせたり」することになりますのでね。そして何故に気付くことが出来ないのかは異なる観点の持ち主に対する配慮が足りない、つまり「真摯ではない」からなのではないかと思わせてしまうわけです。
「仕切り直し」に反対するのであれば、上記以外の「Dwy氏が何か言い返せるような理由」に関してはこれまでの議論を読み直して下さい。そこに全て書いてあります。また上記「そう思わせてしまう代表的なもの」に対して何をどのように言い返そうとも「Dwy氏が「言うまでもない」として「暗黙に充填している言葉」」が何か一つでもわかるようになるわけではありませんので、議論の進展に寄与する発言にはなりません。意味がわからないようであれば「言い訳は要りません、態度で示して下さい」と言えば意味を理解して戴けるでしょうか。
また「仕切り直し」に賛成なのであれば、後程節を分けて纏めに挑戦してみますので、誤記誤解不足不満異論その他何でも指摘して戴いて纏めを完成させ、その後に改めて議論を継続したいと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月23日 (金) 05:25 (UTC)
「仕切り直し」に賛成なのであれば、後程節を分けて纏めに挑戦してみますので、誤記誤解不足不満異論その他何でも指摘して戴いて纏めを完成させ、その後に改めて議論を継続したいと思います。」と言ったにも関わらずDwy氏が纏めを完成させることに協力する様子も無く、単にこの続きの発言場所を移動しただけだったので、こちらで返事を行ないます。
既存の方針・ガイドラインに基づいて議論を組み立てていただかないと、結局前と同じように論点が噛み合わないで終わる可能性が高いと思います
それ以前にも「論点が噛み合わない理由」があると思うのですがね。何を言ってもDwy氏が「(私から見ると不適切に)言い換えて反論し、そして言い換えを指摘しても訂正や説明をしないで別の話を始める」ことや「私の発言内容によって「調査投票ではない多数決」の有用性を説いてみたりこれは調査投票であると言ってみたりと一貫しない発言を行なう」ことで私に混乱を起こさせています。このことは、私が「既存の方針・ガイドラインに基づいて議論を組み立て」れば「これは調査投票であり、理念に沿ったものである」と反論するつもりなのは目に見えています。その主張は既に聞き、私は理解しているつもりです。
問題はDwy氏が私の言う「本件提案が新ルール制定でないのであれば、多数決主義にならないように文案を勘案せねばならない」に対して「それは現実的ではないので仕方が無い(=私視点では「から多数決主義になることも止むを得ない」)」と答え、さらに私が「いや多数決主義はダメだろ」と答えれば「これは既存の方針・ガイドラインに基づいたものであって多数決主義にする意図は無い」と答え、挙句の果てに私が「~~ですか?」と明確に聞いていることには答えない。それ故に私が「Dwy氏の言う内容が(誤魔化されているようで)理解出来ない」状態が継続していることです。
そしてその「私の問いに答えずに誤魔化す言葉」の端々に(多数決原理主義者や多数決絶対主義者ではないにせよ)多数決主義に基づいた言葉が出てくるので、ますます「誤魔化されている」ように思えるわけです。
「誤魔化されているように感じる」要因に関しては既に述べました。私からの要望です。それに応えないこと自体は仕方が無いのかも知れませんが、「それに応えられない理由」すら言わないところが「誠意を感じさせません」し、そのことに関してノーコメントを貫くところが「相手を無視して一方的に主張するのみで、支持者の多寡により結論を出す」という多数決主義に基づいた行動に見えるのです。それは「本件提案により既存の方針・ガイドラインを曲解させて多数派がゴリ押し出来る状況を作ろうする意図がある」という疑念を持たせてしまいます。
私はその疑念という「思い込み」を晴らさなければなりません。ですがそれにはDwy氏の協力が必要なのです。それでなくても私は本件提案に於ける「バランス良く記述すること」自体に反対しているのですから、そんな疑念を持ったままでは到底「少しづつ譲り合って妥協しようという「コンセンサスの精神」」を抱ける状況に無いのです。私はその「コンセンサスの精神」を抱きたいと思っていて、それにはDwy氏の協力が必要なのです。歯を食いしばりながら譲歩することが「コンセンサスの精神」なのではありません。お互いに、相手が譲歩出来る状況を作り出すことが「コンセンサスの精神」なのではないでしょうか。
これは「私ことCray-G独自の考え方を根拠にして反論している」のではなく「私ことCray-Gが議論を継続する上で必要になることに関してDwy氏に協力してもらえるように御願いしている」のです。何でも反論と受け取り、とにかく何か言い返そうとする態度もまた、多数決主義者が執る傾向の高い態度であるので、さらに疑念を掻き立てています。
「強制的な投票(調査投票ではない多数決)により議決するルールを新規に制定する」意図は~~
そう主張していることは知っています。その主張の内容も理解しています。繰り返す必要はありません。
「合意は必ずしも全会一致を意味しない→多数決が必要なこともある」という考え方自体は昔からあるもので、何ら新規のものではありません
そのことは既に私も認めています。繰り返す必要はありません。
一旦すべてを過去ログにして、一から議論をやり直す
私のゴネ得ということにするわけですか。大いに不満がありますが、これ以上続けてもDwy氏からの協力が得られない限り何等の進展が見込めませんので、仕方が無いことでしょう。私はゴネ得の既得権益がある現状維持派なので仕切り直しでも打ち切りでも特に反対はしませんが、Dwy氏からの協力が得られない限り反対であることに変化は無いので、よほどの文案が出て来た場合を別とすれば、民主主義なら以後議論に参加すること無く黙って最後の投票で反対票を投じるだけの状態です。
そうなる前にDwy氏から協力が得られれば慶ばしいのですが。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月24日 (土) 02:49 (UTC)
前記に対する返信もまた#ここまでの議論の纏めと問題提起_20110923にされてしまいましたので、仕方が無く続きはそちらで行なうようにしました。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月24日 (土) 11:01 (UTC)
その後、Dwy氏により改めて節を分けられました。上記議論の続きは#「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案:議論の続きを御覧下さい。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月26日 (月) 08:34 (UTC)
賛成 議論が堂々巡りになってしまった場合、コメント依頼で第三者の意見を募ることは有意義なことですし、方針文書など影響の大きいものはお知らせページで告知を行うことも重要でしょう。しかし、そういった合意形成のためのあらゆる手段を用い、かつ十分な期間が経過しているにもかかわらず、少数派の意見が他者を説得できない場合は、「いつまでも納得しない」と判断されても仕方がないでしょう。その前提としてどの意見が多数であるか、あるいはどれほど多数であるかを調べるために調査投票を行うことは、論争の解決に役立つと考えます。もちろん多数決ではないので、各サイドの支持者数が拮抗しているのなら、わずかな差で少数派を追い出すようなことはするべきではないでしょう。しかし、明確な差があるのならば、大勢の支持を得られない意見には十分な理由があると思います。何にせよ、たとえウィキペディアが合意を重んじるといっても、議論が泥沼化し記事の発展が阻害されることは避けるべきです。なぜならそれは、編集者の都合で読者に不十分な記事を読ませることになるからです。--有足魚 2011年8月17日 (水) 17:43 (UTC)
ノート:南京事件 (1937年)でも触れたことですが…「その時いるウィキペディアン数」が理由になるんでしたら、仮に提案通りの方法論で合意を得たことにしましょう。その時いたウィキペディアンが離れた後にそれぞれ側が同じ「理由」で泥沼を演じても数さえ多ければ逆の「理由」で覆せることになるんです。これはもう…不毛極まりない。目先の結論を出すだけで何の解決にもなってないんです。「先に書いたもの勝ち」「その時多かったもの勝ち」時間的な要因としては変わりなく、不毛さとしてはどっこいどっこいです。「先に書かれたもの」がおかしいと話し合っているのでしたら、おかしくないと言う結論が導き出される可能性もあるのです。無理な結論の導き方は問題の先送りでしかありません。--はぬまん 2011年8月17日 (水) 21:17 (UTC)
  • 条件付賛成 ノート:南京事件 (1937年)とか、ノート:九州の役とかで延々と続けられている論争を見ていると、宇宙の終わりまでやるんですかと(爆)。合意する気のない人たちには全員退場してもらって、ほかの人間で投票して決めれば? みたいに思えてくるのは確かです。いわれたら言い返さないと「負け」になる、という強迫観念に駆られるのは、お互いに、返事がないのをいいことに好きなようにしたい自分の影を相手に見るからでしょう。だいたい項目名とか表記で争うこと自体が馬鹿げています。プライドがある人間なら、同じテーマで何十回もコメントして合意に達せられないことに、恥じないわけがありません。
しかし一方で、じゃあ多数決だからということでゴリ押しOKなのか、といわれたら、それも困る。「合意は必ずしも全会一致である必要はありません。」はまあその通りだとして、「多数決で決定を行わねばなりません」なんて明記されたら、ウィキペディアのあらゆるところで多数派が少数派を排除する動きに直結する危惧を覚えます。これは、ウィキペディアの自滅というかプロジェクトの否定につながるんじゃないでしょうか。もちろん、多数決の前段には「真摯な努力」や「理想は全会一致」といった文言はあるのですが、とかく人間は自分に都合のいいところだけ参照するものですし、方針解釈の先鋭化を競い合い、それを他者に押しつけるような昨今の風潮からして、これが新たな紛争の火種になることはまず間違いないと思慮します。
したがって、刺激的で飛びつきたくなるような表現のみが一人歩きしないよう、手段として多数決は否定されないけれど、その選択は時により、真にやむを得ない事情がある場合に限る、みたいなことを明確にしておかないとまずいと思います。われながら面倒くさいことをいってると思いますが。あと、この議論もWikipedia:コメント依頼/大和屋敷 20110701Wikipedia:コメント依頼/Chichiii 2011-07-19同様に飛び火して戦いの場と化してしまっているようで、もはや見通しは立たないかもしれませんが、意思表示のみということで。--みっち 2011年8月18日 (木) 08:35 (UTC)
「試訳」は英語の表現をそのまま素直に訳してしまったので、確かに「刺激的」かもしれません。もう少し穏やかな表現にした修正案をこの節の一番上で提案してみます。--Dwy 2011年8月18日 (木) 15:26 (UTC)
多数決が最終手段であることを明記すれば、広い支持を得ることができるのではないかと思います。繰り返しになりますが、「合意形成のためのあらゆる手段を用いても解決できない場合であれば、多数決にせざるを得ない」という考え方は理想的ではありませんが、現実的ではあります。十分に告知され、多くの投票があり、なおかつ得票に優位な差があった場合は、議論において重大な事実として受け入れるべきでしょう。もちろん少数派が議論を続ける権利が奪われるわけではありません。しかし、同じ意見を繰り返すばかりで合意形成の意思を見せないのならば、そのような議論がコミュニティを荒廃させるのは避けられないでしょう。--有足魚 2011年8月18日 (木) 18:37 (UTC)
訳文の修正ありがとうございます。英文に沿った範囲ではこんな感じかとは思うのですが、私としては悪用されないようにまだ制限をかけたいところです。有足魚さんの「最終手段」を加えたらいけるのではないかとも考えましたが、「最終」が別の誤解を生む可能性もあり、英文を離れることも含めてもう少し考えたいと思います。なお、PC不調のため、しばらく書きこめないかもしれません。--みっち 2011年8月20日 (土) 02:05 (UTC)
横から失礼します。方向性が私の考えるものと真逆の方向のようなので。お互い、若しくは一方が議論を諦めれば即時にそれが『最終手段』になるので、ピーナツを鼻に詰める有利さを教えることで(特に多数派の人達に)諦めるように誘惑をしないで欲しいわけですよ。何せ諦めることは容易なことなので、先にミートパペット募集を始めた方が有利だとか多数派でいる今の内に多数決に移行しようとか、間違った方向を示唆しないで欲しいわけです。そういうことになった場合、お互い消耗し切っているでしょうから多数派の大部分は誘惑に耐えられず「まだ議論は尽くされていないと主張する」こと自体が少数派になってしまうでしょうからね。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月22日 (月) 03:45 (UTC)
世界最狂の魔法使いCray-Gさんとは、私がすでにほとんどあきらめている?点で立ち位置が異なるものの、方向性自体はそれほど大きく変わらないのではないかという印象を持っていました。とはいえ、世界最狂の魔法使いCray-Gさんが使われる「言葉」は私の言葉と少し違うようで、危惧しておられる「真逆の方向」(手持ちの辞書に「真逆」はありませんでした)が、私には理解できていないかもしれません。いずれにせよ、下記に修正案をお示ししましたので、すりあわせ可能であれば、ぜひご意見をお寄せください。--みっち 2011年8月22日 (月) 10:14 (UTC)
恐らくその「諦めている点」とは、どちらに向かうにせよ障害となるものなのでしょう。私は多数決の利用自体に拒絶反応を起こしているのではなく、どちらかと言うと多数決の利用自体には賛成したいのですが、多数決を「議論の代替」として利用することに反対しているのです。多数決は例外などではなく、もっと頻繁に利用されて良いものだと思います、「議論の代替」としてでさえなければ。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月22日 (月) 10:50 (UTC)
  • コメント以前、「提案者は現在かかわっておられるノート:南京事件 (1937年)が念頭にあり、そちらでの議論をこのルール制定によって解決しようとしているという疑念が払拭できません。」と疑問提起させていただきました。Ks aka 98氏よりも「ノート:南京事件 (1937年)の議論の飛び火ということなら、いったん棚上げしたほうがいいんじゃないのかな。長期化する記事名についての議論はなんとかならんのか、という問題設定で仕切りなおしするとか。」というコメントがあったと思います。これに対する提案者からのコメントがないようですが、お考えをお聞かせいただけますでしょうか。--Truesight 2011年8月20日 (土) 03:46 (UTC)
「疑念」みたいな言い方をされるのは不本意ですが、ノート:南京事件 (1937年)の議論がこちらでの提案のきっかけになったことは確かで、そのことはあちらのノートでも明言しています。ただ、こちらの問題は「南京事件 (1937年)」だけの問題ではなく、全ての記事に共通する一般的な問題だからこちらで問題提起したわけで、「飛び火」というのとは少し違うと思います。ちなみに、「南京事件 (1937年)」に口を出したのは、私から見れば訳の分からない手続き論のために実質的な議論に入れない状況になっていたからです。現在は何となく議論が始まった状態になっており、少なくとも議論が動いている間は「調査投票」云々も言わない方が良いでしょうから、当面は特に積極的に関与するつもりはありません(たまに意見を言いに行くくらいのことはあるかもしれませんが・・・)--Dwy 2011年8月20日 (土) 15:12 (UTC)
コメントんーとですね。一般的な記事の内容に関する議論では、それほど長期化してぐだぐだすることはないと思うんですね。それぞれの主張を織り込みながら、適当な表現を考えていくというのは、それなりに自由度があるものなので。ローカルルールとか方針とかだと、文面を修正した上で投票になることもあって、それは調査投票ということになるけど、十分多数なら、そのことを確認して、合意とみなして正式化されるという実態があると思います。融通がきかないのは、記事名みたいに、それぞれを妥当とする根拠があるのに選択肢が排他的にならざるを得ないものに限られる。ほとんどの議論では、「多数決」が必要な状態にまで追い込まれることはない。記事名の議論を念頭に置いて、全体に及ぶ改変をすると、ウィキペディアが好ましいと考える合意に、好ましくないものである「多数決」を進入させることになってしまうと感じています。まあ「多数決」という表現もよくないように思いますけれど。
記事名についてならば、「多数決」またはそれに類する決定の手立てを導入する余地がないわけじゃないとは思います。数の大小と言うのは、いちおうは説得力のある意見がでたり、一方の根拠が否定されたりして、議論が深まるにつれて妥当なほうに向かっていくものではあると思うんですね。参加者がバカばっかりだと思うなら、コメント依頼などで告知をして数を増やせば、せめて丁寧に説明すれば常識程度の知識を持つ人が増えるだろう、ということは言える。その程度に説明できないのなら、それはそれでしょうがないということで。そういうことで、多数決に進む条件付けとして、今の訳文よりも限定させていくこと、明示していくことを考えることはできるかもしれない。一方、記事名の付け方のほうで、はっきりとした指針を作るということでも(難しいと思うけど)解決できないわけじゃないという指摘はしておきます。
ただ、現在進行形の論争の当事者としては、自分が支持する意見との兼ね合いもあるでしょうし、客観的に意見を言うことも難しいでしょうから、ここでの議論の結果は、議論参加者の合意なしには、その論争には直ちに適用しないということにしておいたほうがいいかもしれません。
ひとまず、記事名についての長期化した議論をなんとかするために(なんとかしなくてもいい、という意見もありえます)、合意形成という視点から考えてみよう、というふうに、論点を設定してみてはいかがでしょうか。--Ks aka 98 2011年8月20日 (土) 16:14 (UTC)
記事のノートでの議論とこちらの管理系のルール制定に密接な繋がりがあるのは不適切だと思います。つまり、議論を話し合いによらず新たなルール制定によって制しようという試みが不適切だということです。--Truesight 2011年8月20日 (土) 16:40 (UTC)
それとこちらであちらの議論のことを語るのであればあまり失礼な言辞はお止めください。「訳の分からない手続き論」は個人の主観ですので方々で垂れ流すことのないように。それと、もちろん、あちらの議論参加者は「バカばっかり」でもありません。--Truesight 2011年8月20日 (土) 16:45 (UTC)
「バカばっかり」は議論一般に対してで、特定の議論参加者を指すつもりはありませんでした。わかりにくかったらすみませんでした。16:40の意見に対しては、ぼくあてかもしれないのでresしておきますが、「その論争には直ちに適用しないということにしておいたほうがいいかもしれません」と書いています。今ここで続けるかどうかは、それほどこだわりませんが、記事名の議論は、いつもどこかで何かしらやっているので、それを避けようとするのは、ちょっと難しいと思います。--Ks aka 98 2011年8月20日 (土) 17:03 (UTC)

(インデント戻し)「その論争には直ちに適用しない」ということであるのであれば提案における疑念は払拭できるので一般的な提案とし受け入れることは吝かではありません。法の不遡及の原則からいっても現在勃発中の議論に適用するのは不適切ですからね。しかし一般的な提案としてであっても賛成できるものではありません。Wikipedia:合意形成#合意は多数決ではありませんにあるとおり、「ウィキペディアはその決定を参加し投票する人の数に基づかせることはありません。我々は正当な理由によるシステム運営を行」うべきであると考えるからです。極論をいえば議論が長引いても一向に構わないのです。そのような議論にルールの面から時限措置を設けるというのは過干渉だと考えます。--Truesight 2011年8月21日 (日) 04:57 (UTC)

一般的な問題なのでこちらで議論をしていますが、こちらで議論していることは「南京事件(1937年)」でもちゃんと案内していますし、陰でこそこそやっているわけではありません。「議論を話し合いによらず・・・制しようという」のような言われ方をされる筋合いはないと思います。それから、「失礼な言辞はお止めください」と言うのなら、自分の方も「垂れ流し」みたいな言い方はお止めになった方が良いでしょう。
また、こちらで議論していることの本質は既存のルールの解釈の確認であり、「新たなルール制定」ではないと思っています。適用するとかしないとか、私としてはあまりピンときません(適用しないって、どういう意味でしょう?)。いずれにしろ、「南京事件(1937年)」の問題は「南京事件(1937年)」のノートで議論すれば良い話で、こちらの議論とは直接関係がないのではないかと思います。--Dwy 2011年8月21日 (日) 05:50 (UTC)
解釈の確認というのはわかりません。どこに提案にあるような解釈を促すルールがあるのでしょうか。いずれにせよコンセンサスの得られていない解釈を既存ルールに付して明文化するというのは実質的に新たなルールの制定ではありませんか。
確認しておきたいのですが、Ks aka 98氏提案の「その論争には直ちに適用しない」には反対なのでしょうか。Dwyさんとしては、一般論として、新たな条文追加によって議論中の議論を制しようという試みについてどう思われているのでしょうか。--Truesight 2011年8月21日 (日) 06:14 (UTC)
「既存のルールの解釈の確認」として私の念頭にあるのは、以下のようなことです。
これらの点は、私から見ると特に新規なものではなく、既存のルールの普通の解釈です。
それから、「一般論として、新たな条文追加によって議論中の議論を制しようという試みについてどう思われているのでしょうか」についてですが、本来の動機を隠して、みんなが修正の真の意図を気付かないうちにルールを変更してしまうというようなのは、もちろんダメです。でも、ある議論に参加しているうちにより一般的なルールの問題点に気づいた人が、その一般的な問題点の議論を立ち上げること自体はごく普通のことで、たとえ一般論の方の結論がもう一つの議論の結論も左右することになったとしても、特に問題があるとは思いません。
念のためにもう一つ言うと、こちらの問題提起はあくまで一般論としてやっていますから、「南京事件」の記事の議論はあまり関係ないと思っています。「南京事件」への適用云々の議論が必要と思うなら、こちらではなくあちらでやるべきでしょう(私自身としては、せっかく実質的な議論が始まった今、そういう議論は不要あるいは時期尚早と思いますが…)。--Dwy 2011年8月21日 (日) 10:00 (UTC)
それらに書いてあるのは概して時と場合により投票による議決も許容しうるということであり、行き詰った議論は投票にて決すべきであるということではないと考えます。もし仮に、仰せのように「これらの点は、私から見ると特に新規なものではなく、既存のルールの普通の解釈です。」ということであれば何故に改めてここで論議し、明文化する必要があるのでしょうか。(それにDwyさんはあちらの議論では「調査投票は強制力はないからとりあえず実施してみよう。」のようなことを仰られているのであって、こちらで強制的な投票により議決するという強制力のあるルールを策定中であるというようなことは仰ってませんでした。)--Truesight 2011年8月21日 (日) 10:28 (UTC)
私としては、「時と場合により投票による議決も許容しうる」ということで充分であり、なにも「強制的な投票により議決」のようなことを主張しているわけではありません。提案の元になっている英語版のルールでも「強制的な投票により議決」のような運用にはなっていないと思います。(もっとも、議論が行き詰って他に論争を解決する手段がない場合などは正に「(投票が許容される)時と場合」に該当するでしょうし、そういう場合に一方から投票が提案されれば(ルール上投票を行うことが「許容」されている以上)相手側がそれを拒否するのはかなり難しいはずだ・・・というようなことはありますけど・・・)
それから、私がこちらで明文化を提案したきっかけは(南京事件のノートを読めばお分かりになると思いますが)、「多数決主義でない」についてちょっと誤解している方がいらっしゃるように思ったからです。「多数決主義でない」が言っているのは、「投票や多数決が有効に機能する場面は非常に限られおり、それ以外の場面では悪い結果になることが多い」とか「投票をやるときは、充分に準備をして慎重にやらないと失敗しやすい」のようなことだけであって、「意見の支持者の多寡には全く何の意味もない」とか「少数が多数に従うのは常に間違いだ」のようなことは何も言っていません。そこのところをはっきりさせていおいた方が良いと思った次第です。--Dwy 2011年8月21日 (日) 14:35 (UTC)
申し訳ございませんが賛成できません。多数決による解決を許容すると多数派は多数決による裁定を望むでしょう。フェアな多数決が実施されるのは十分な多数が参画しており多数、少数がわからない場合に限られ、多くのwikipediaの議論ではそのような多数者の参画はみられません。このようなルールが採用された場合、多数派によるそうした裁定が幅を利かせるようになり、wikipediaに与える影響は非常に大きくなります。それこそ「多数決主義ではない」において危惧されるとおり、健全な議論の妨げになるでしょう。「多数決主義ではない」の理解もDwyさんには賛同できません。正直どこをどう読めばそのような理解にいたるのかわかりません。「合意は多数決ではありません 」にも「ウィキペディアはその決定を参加し投票する人の数に基づかせることはありません。我々は正当な理由によるシステム運営を行います。」とあります。これらを総合して考えるとwikipediaの理念はDwyさんの考えとは真逆にあると思えます。「時と場合により投票による議決も許容しうる」に留めるのであればそれは論者合意による健全性を有しているものであると思えますが、「強制」が入った瞬間、健全性は失われます。ある特定のグループにより都合の悪い記述はミートにより書き換えられるような事態が生起、頻発化するようになればwikipediaの理念、信頼は地に堕ちます。そのような事態は避けねばなりません。また「南京事件」の話で恐縮ですが、Dwyさんはフィリバスターというような言葉を発してますが、それはお互いがお互いをそう思っているのです。一方だけに理があると考えるDwyさんの見識は全く間違っています。「南京事件」の話では投票を実施すればDwyさん支持の「南京大虐殺」に改名されるだろうとお思いかもしれませんが、前にあちらで話したようにあちらでは議論の最中に二回ほど投票が実施されています。一回目は「南京大虐殺」への改名提案でした。結果は賛成3反対8。二回目は「南京大虐殺(南京事件)」はどうかとの提案になし崩し的に投票されたものです。結果は賛成4反対5。Dwyさんは「南京大虐殺」が正しいと思うから支持しているのでしょうが、そしてまた多数派は正しいという観点からこのご提案を挙げているのでしょうが、結果はお考えとは真逆となり、正しく無いほうが勝ったことになります。実を言えば、今現在、あちらの議論では「南京大虐殺」派のDwyさんのご提案によって同じ「南京大虐殺」派が投票に積極的な意見を述べておりますが、わたしの考えでは恐らく今投票を行っても「南京事件」派が勝つと思います。なのに投票に反対しているのは万が一、「南京大虐殺」派が勝てばいけないと考えているからです。そう考えるということの裏には「南京事件」が正しいという確固とした主張、および根拠があるからであり、だからこそ議論の道を選んでいるのです。このまま議論を続ければ正しい方が勝つと思っているのです。多くの論者が多かれ少なかれそうです。いや、少数派であればあるほどその意思は堅くそれなりの根拠があると考えるのが妥当でしょう。Dwyさんが仰っていた「訳のわからない手続き論」も手続きぐらいきちんとしろという他に膠着した事態を進めるために現在の記事名から改名しようという改名派の根拠を洗いざらい聴取しようと言う意図もあったのです。こちらからみれば何故だかわからなかったのですが改名派が根拠を述べるのは遅々として進みませんでした。そうした状況のとき、それを脇から見ていたDwyさんが飛び込んでこられいきなり「訳のわからない手続き論」は止めろ、調査投票を実施すべきだ、となったのです。Dwyさんは「南京事件」でのことがきっかけでこのご提案をなされたとのことですので少し詳しく事情をお話しました。--Truesight 2011年8月21日 (日) 18:44 (UTC)
順不同でいくつかコメントさせていただきます。
  • 「合意は多数決でない」の「ウィキペディアはその決定を参加し投票する人の数に基づかせることはありません」の記述は、「フォーラムショッピングはいけません」という文脈において「得票数をそのまま用いて決定することはない」ということを言っているだけです。
  • 議論をしている間に新しい論点が出てくることもありうるし、他人の意見を聞いて(投票した後で)自分の意見が変わる人もいるでしょう。だから、議論と同時進行で表明された賛否の数には、それほど決定的な意味はありません。また、論争解決手続きとしての調査投票は、議論に参加している人だけではなく広くコミュニティの意見を調査するものですから、その意味でもTruesightさんのおっしゃっている過去の「投票」とは性格が違います。
  • 「南京事件(1937年)」についてですが、私は、論争の解決のためにウィキペディアが用意している手順ははすべて尽くすべきだと主張しているだけで、特に「大虐殺派」としてこちらの議論をやっているわけではありません。大体、私が今回提案している「すべての意見を考慮に入れて…合意に達するために真摯な努力を払わなければなりません」を真面目にやっていれば、「『南京事件』も『南京大虐殺』もどちらも一理あるから、客観的にどちらが正しいとは言えないな」くらいのところには来ていないとおかしいです。
  • そういう意味では、上のTruesightさんのおっしゃりようでは、合意に対する努力(譲歩・妥協しようという姿勢)が少し足らないようにも思えます。
  • フィリバスターや遅延戦術というものは、政治で言えば現状維持派、裁判で言えば被告側が取るものに決まっています。現状を変えるための新たな決定を望む者や、自分の要求を認めてほしい側の人にとっては、そもそも審議を引き伸ばす意味(利益)がありません。
  • Wikipedia:多重アカウントWikipedia:カンバスに対するご懸念は理解できますが、それらについてはWP:CUとか投票結果を解釈するときに考慮するとかそれなりの対処方法があるわけで(口で言うほど簡単でないのは分かっていますが)、ミートが心配だから投票はダメだのような議論は本末転倒だと思います。--Dwy 2011年8月22日 (月) 15:54 (UTC)
時間がないので上から一言づついきます。失礼ご容赦のほどを。
  • 「合意は多数決でない」には「ウィキペディアはその決定を参加し投票する人の数に基づかせることはありません。」とあり、明確に「ウィキペディアでは」と述べています。フォーラムショッピングはいけませんというのはその代表的な悪い例として述べられているのです。節名にも明確に「合意は多数決ではありません」とあります。
  • 一回目の投票は改名提案の手続きにより公示が行われたもであると思います(未確認)。議論中か議論が尽きたかの明確な線引き(定義)をお願いします。
  • わたしは「南京事件」「~大虐殺」両方に一定の理があると思っています。その上で「~事件」を推しているのです。それは「~大虐殺」派の方々にもいえることだと思います。
  • 今回は記事名なので妥協のしようがありません。が、ご指摘は心に留めておきます。
  • 概して仰せの通りであることを認めます。しかしここまで議論が長引けばそれほど単純でもないものです。実際、こちらとしては先方にフィリバスター的な印象を抱いているのは事実です。
  • このような強制力のあるようなルールを制定するのに悪用への対策が心もとないようでは片手落ちです。実効性のある対策がない限り悪法であると言わざるを得ません。
以上、乱筆乱文失礼。--Truesight 2011年8月22日 (月) 16:35 (UTC)

条件付反対 実際問題として、投票はすでに行われているわけであり、時と場合によっては投票による意見調査を行うことに問題はありませんし、実際に活用されています。とはいえ、草案ではあるもののWikipedia:投票は議論の代用とはならないなんていう文書もあるくらいなので、合意形成に例外を設けるとするならば、「議論が充分に尽くされた状況」とはどのようなものであるかについて、「誰もが客観的に判断できる」なおかつ「議論の当事者が意図的に達成させることが現実的に不可能」な条件を付けない限り、賛成することはできません(投票を行うこと自体が合意を前提とするなら、現状とまったく変わりませんし)。余談ですが、議論が膠着する一因として、この議論そのもののように、「すでに行われた議論がかなり長い結果、それが新規参入の障壁となっている」という面があるので、拘束力のない意見投票で第三者から簡単に意見を得られるようにすることでも、議論の展開が図れうると思っています。--Jkr2255 2011年8月31日 (水) 07:08 (UTC)

ここまでの議論の纏めと問題提起_20110923

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本件提案者から議論を最初からやり直したい旨の要望があったこともあり、そろそろ議論を纏めて論点争点相違点合意点を整理するには良い頃合かと思いましたので、議論参加者の意見を敬称略で纏めてみました。誤解異論疑念不満等あれば忌憚無く御願い致します。

Dwy
提案 「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加することを提案する。本項ではかなり全員一致に偏重した記述になっている。全会一致は確かに理想であり少数意見といえども切り捨てるべきではないが、すべての意見を充分に検討し妥協点を見出すために真摯な努力を尽くしてもなお合意に至らない場合には、あくまで「全員一致」にこだわるのではなく、より現実的に物事を進める手段を考えるべきである。そしてそういう場合に、もし一方の意見が明らかに多数派であるなら少数派が多数派に従うのは自然なことであり、この辺りはバランスよく記述するべきである。
  • 現状は「多数決主義ではありません」の薬が効きすぎて、せっかくのWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票の規定がほとんど有名無実に近くなっている。
  • 現実は「先に(こっそり)書いた者勝ち」になりがちであり、当面の記事をどうするかという暫定措置については、ある程度迅速に合意する必要がある。
  • 多数決が出てくるのは議論が失敗に終わった後の話であり、議論による解決が失敗に終わった後も飽くまで「相手を説得せよ」では先に進まない=現状維持=「先に(こっそり)書いた者勝ち」になってしまうのを防ぐ措置である。
  • ノート:南京事件 (1937年)での議論が本件提案の切欠となったものではあるが、全ての記事に共通する一般的な問題だから提案したのであってノート:南京事件 (1937年)の議論の「飛び火」ではない。
  • これは既存のルールの普通の解釈であり、強制的な投票により議決するルールを新規に制定するものではない。なのでノート:南京事件 (1937年)での議論にも既に適用されているものなので適用するとかしないとか言える性質のものではない。
世界最狂の魔法使いCray-G
反対
  • 偏重すぎるぐらいでちょうど良く、現状で充分に機能している。現実として必ずしも全会一致では無くそれなりに適切なバランスで運用されているのだから、不用意に加えれば多数決主義に傾倒しかねない問題を生むばかりである。
  • 多数決を公的に認めてしまえば、多数派が(自身が多数派であることを確信した時に)意図的に「議論が行き詰った」状態を作り出し数で押し切ろうとすることを防ぐことは(多数派の一員であってさえ)容易ではなくなる。
  • 全員一致に偏重した記述による弊害があることは確かなので、悪用されないように充分に検討された文案であれば賛成の余地はある。そうでないのなら(意図の如何に関わらず)無い方がマシ。中途半端な追加は、多数決主義に傾倒しないように調査投票を使い辛くしていく(=Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票への反対者を増やす)だけ。
  • 多数決により解決した場合には少数派の理由自体が無効化されてしまうので以後、少数派として却下された提案者が新たに用意出来るものが「ミートパペット」しか無くなる。このことは、記事に問題を見付ける毎に提案→議論→合意形成を繰り返し記事をアップデートし続ける上で悪影響を及ぼす。
かげろん
賛成
  • 現に多数決解決ができない弊害が出ている。
  • 全会一致が理想であるのは当然だが、ぶっちゃけそれは無理というのも現実のケースとして存在する
Dictionwolf
コメント
  • そもそもウィキペディアの投票には多数決の意味がないのであって、「多数決主義ではありません」の薬が効きすぎて弊害が出ているわけではない。
  • 充分な議論の結果、AとBとの選択がどちらも違反でないと考えられる場合に限って、事前に投票数の結果を採択して良いという合意をとれば、投票結果を結論とすることは現状で認められている。
  • そういう状況の中で確たる理由もないまま機械的に「多数決主義ではありません」を叫び続けることで合意の進行を妨げているならば、それは「いつまでも納得しない」行為に相当する。
はぬまん
コメント
  • 理由が拮抗しているならそれだけ議論は慎重を期さねばならず、そこに数の論理が介在してしまうことこそ遺恨を残しかねない。
  • 提案の内容そのままでは意図的に少数を無視した悪用を招きかねない。また、どれだけかかるのが現実的でどれだけ以上が非現実的かなどと決められるものでもない。
  • 確かに全会一致である必要はないかもしれないが、少数が理由も示さずに闇雲に反対している腕ずくの状況にでもない限り、多数決で押し切っていると判断されても仕方がない。
  • 「議論の失敗」とは何か? 「理由」が衝突しあい結論が出ないことが「失敗」なのか? むしろ数の論理で議論を推し進めてしまうことの方がよほど「失敗」であるように思える。「議論が失敗した!」と決め付けて説得の努力を放棄する側の理由が採用されるのは理不尽であり、ソックパペットやミートパペットを助長することにしかならない。
  • 「その時いるウィキペディアン数」が理由になるのであれば、仮に提案通りの方法論で合意を得たことにしたとしてもその時いたウィキペディアンが離れた後にそれぞれ側が同じ「理由」で泥沼を演じても数さえ多ければ逆の「理由」で覆せることになる。それは不毛極まりなく、目先の結論を出すだけで何の解決にもならない。「先に書いたもの勝ち」でも「その時多かったもの勝ち」でも不毛さとしては変わりは無い。
Sweeper tamonten
条件付賛成
  • 試行という意味で賛成。但し、多数決に移行する前に主たる賛成と反対の意見をまとめておくことを条件とする。
  • 合意は理由を基準になされるものなので、多数決により少数派の理由自体が無効化してしまうことを防ぐ為の条件である。
Ks aka 98
賛成
  • とりあえず賛成。全会一致である必要はないと明記することでは悪影響は及ぼしにくい。
  • 何にせよ、多数派が曖昧な理由で押し切ることも、少数派が周囲を納得させるだけの十分な根拠を示すことなく合意を妨げることも、ウィキペディアでは認められない。
  • 長期化する記事名についての議論はなんとかならんのか、という問題設定で仕切りなおしする等、いったん棚上げした方が良いのではないか。
Truesight
反対
  • 多数決による解決が否定されている現在、このようなルールを制定するのは混乱をもたらすのみ。
  • 「強制的な投票により議決するルールを新規に制定する」ものではないのであれば、何故に改めてここで論議し、明文化する必要があるのか。
  • ノート:南京事件 (1937年)での議論を話し合いによらず新たなルール制定によって制しようと試みることは不適切である。但し、ノート:南京事件 (1937年)での議論には適用しない等の明言があれば別である。
有足魚
賛成
  • 編集者の都合で読者に不十分な記事を読ませることになるので、議論が泥沼化し記事の発展が阻害されることは避けるべき。
  • 合意形成のためのあらゆる手段を用い、かつ十分な期間が経過しているにもかかわらず、少数派の意見が他者を説得できない場合は、「いつまでも納得しない」と判断されても仕方がない。
みっち
条件付賛成
  • 合意する気のない人たちには全員退場してもらって、ほかの人間で投票して決めれば? みたいに思えてくるのは確かである。が、だから多数決でゴリ押しOK、といわれたらそれも困る。
  • 刺激的で飛びつきたくなるような表現のみが一人歩きしないよう、手段として多数決は否定されないけれど、その選択は時により、真にやむを得ない事情がある場合に限る、みたいなことを明確にしておかないとまずい。
Jkr2255
条件付反対
  • 草案ではあるもののWikipedia:投票は議論の代用とはならないなんていう文書もあるくらいなので、合意形成に例外を設けるとするならば、「議論が充分に尽くされた状況」とはどのようなものであるかについて、「誰もが客観的に判断できる」なおかつ「議論の当事者が意図的に達成させることが現実的に不可能」な条件を付けない限り、賛成することは出来ない。
  • 投票を行うこと自体が合意を前提とするなら、現状とまったく変わらない。

大雑把に俯瞰するに、調査投票に反対する意見は一つもありません。また多数決は一切認めないという意見も一つもありません。そしてWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票に規定されている「投票」は多数決ではなく調査投票であり何等の強制力を持つものではありません。にも関わらず、私を含め反対、導入に慎重を要す、若しくは条件付で賛成の意見が少なくありません。

どうも本件議論参加者の多くは、本件提案を「調査投票ではない多数決」を導入する(=強制的な投票により議決するルールを新規に制定する)提案だと解釈している、或いは実施後にそれを読んだ人がそう受け取ることを警戒しているように思えます。特に賛成を表明しているかげろん氏と有足魚氏は、本件提案を強制的な投票により議決するルールを新規に制定する提案だと解釈しているように思えます。或いは「せっかくのWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票の規定がほとんど有名無実に近くなっている」ことが解決し正常稼動すれば多くの問題が速やかに解決するものと期待しているだけなのかも知れませんが、それが「それにより多数派のゴリ押しが可能になるからではない」ことが明らかになっていないことから確定はしていないが疑念も消しきれない状況となっています。このあたりは提案者であるDwy氏も言葉を濁しているので同様です。

どちらにせよ、そもそもWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票の規定にしたところでm:投票は邪悪なものとまで言われる程に取り扱いが難しいものであり慎重を期すことが求められるというのに、強制的な投票により議決するルールを新規に制定する提案だなどと解釈されてしまう(そうではないかと疑念を抱かせる/刺激的で飛びつきたくなる)ような文面のままでは合意を形成することは難しいと考えます。

本件提案に関して追加そのもの(バランスよく記述すること)自体に明に反対しているのは私ことCray-G独りのみ(バランスが悪いぐらいで丁度良いと考えています)であり。その他の意見では、

  1. 強制的な投票(調査投票ではない多数決)により議決するルールを新規に制定することに対する反対
  2. 実施後にそれを読んだ人がそう受け取ること(=多数派がゴリ押しすることで実効上1.となること)を防ぐ記述の要求
  3. 議論の早期決着の有用性/多数決の不毛さ

が主張されています。

この中で1.は、本件提案者はルール制定を意図していない(と主張している)ことから論点のずれた議論となっているようです。また2.は実現性が疑問視されていて、これは恐らく#合意が変更できるとの記述を追加する提案同様に「実際の文案が出ない限り進展は無い」ことでしょう。そして3.は単なる討論となっていて、お互い正しく且つ論点がずれているので千年討論を続けたところで何等の結論は出て来ません。

今後議論を継続するにせよ一旦打ち切りとしていづれ誰かが再提案するにせよ、そもそも

  1. 強制的な投票(調査投票ではない多数決)により議決するルールを新規に制定することである
  2. 多数決主義ではないからという理由でWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票に反対し続ける者への対策であり、且つ同時に該投票により多数派に立った側による「ゴリ押し」を防ぐものである

のいづれであるのかを(今回の本件提案者の意図とは別に)明確にしておく必要があると思います。これにより名目上は2.(だが実効上は1.)と主張する論点回避や見当違いな議論(意図としては2.なのにルール制定への反対の議論とか)を防ぐ意味で。

他にも、「多数決」なのか「調査投票」なのか、「議論が行き詰った状態」を任意に一方が作り出すことが出来る問題を如何にするか等の論点もありますが、これらは全て前記「1.若しくは名目上は2.だが実効上は1.」ではないことを確認する為の論点と考えます。本件提案者が係る点に関して「言うまでもない」として明瞭な回答をしない所為で残り続けている「疑念」によるものであり、予め明瞭にしておくことで解決する論点であると考えます。

係る疑念は本件提案者が

  • 「多数決主義ではありません」の薬が効きすぎて、せっかくのWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票の規定がほとんど有名無実に近くなっている
  • 既存のルールの普通の解釈であり、強制的な投票により議決するルールを新規に制定するものではない

等と2.である旨を主張しているにも関わらず、

  • 文案に於ける「多数決で決定を行わねばなりません多数決による決定を行わざるを得ない」という「数の優劣に基づいて決定することの明記」
  • 提案理由に於ける「もし一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なこと」という「数の優劣に基づいた基準による少数派に対する譲歩の強要」
  • 議論内での「多数決が出てくるのは議論が失敗に終わった後」等の発言に於ける「失敗」や「負け」という「真摯に合意を形成しようとしている議論には存在しないはずの成否や勝敗の概念」
  • 同「当面の記事をどうするかという暫定措置」等の発言に於ける「暫定措置を特に設けていない現状との相違」

等の2.の後半に反した(=1.を彷彿とさせる)発言を多々行なっていることが主要因なのではないかと考えます。

私見なので間違っていたら修正を御願いしたいのですが、ざっと

1.に賛成
  • かげろん
  • 有足魚
  • Sweeper tamonten (但し試行として条件付で)
1.に反対だが定義手順等によっては賛成し得る
  • Jkr2255
  • はぬまん
1.に反対
  • Truesight
2.に賛成
  • Ks aka 98
  • みっち (但し文面は慎重を要する)
2.に反対
  • 世界最狂の魔法使いCray-G

と意見が分かれているように思います。

このような状況では話がすれ違うばかりです。論点を整理する意味で、新ルール制定なのか単にバランス良く記述するだけなのかのいづれかを明確にする必要があると思います。そして後者であれば、それによりどんな効果が得られることを期待しているのか(事実上の新ルール制定ではない、ということ)を明確にしないと、論点がずれて議論が混迷するばかりだと思います。

世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月23日 (金) 05:40 (UTC)

「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案:議論の続き

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(上の「ここまでの議論の纏めと問題提起_20110923」の節は「[Cray-Gさん]が纏めを作ろうと努力し議論参加者全員に協力を御願いしている」ものだということなので、事後処理になりますが、「議論参加者」の方々がコメントをつけやすいように、ここに節の区切りを挿入させていただきます。私自身は、上の纏めに続ける形で議論を行うことが困難なので、申し訳ありませんが、以下の議論を継続させていただきたいと思います。--Dwy 2011年9月24日 (土) 16:16 (UTC))

「Cray-Gさん独自の考え方を根拠にされても困る」と言っただけで、別に「議論を最初からやり直したい」と言った覚えはありません。既存の方針・ガイドラインに基づいて議論を組み立てていただかないと、結局前と同じように論点が噛み合わないで終わる可能性が高いと思います。
「適切なバランスで運用されている」のような勝手な思い込みで議論を組み立てないでいただきたい。(あるいは、「適切なバランスで運用されている」を言うのなら、誰もが認めざるを得ないようなしっかりした根拠を提示してほしい。でも、「全員一致に偏重した記述による弊害があることは確か」とおっしゃっている以上、それは明らかに無理でしょうね。)
「真摯に合意を形成しようとしている議論には存在しないはずの成否や勝敗の概念」のところは、Cray-Gさん独自の考えだと思います。少なくとも、私の理解している方針・ガイドラインには、そのような考えの明確な裏付けになるようなものはものはありません。
「強制的な投票(調査投票ではない多数決)により議決するルールを新規に制定する」意図はありません。ただ、こちらの発言の最後で引用した英語版のメーリングリストで言うところの「納得せずに自論(=多数意見に対する反対)を主張し続ける者が数名」存在しても、「合意」は充分成立しうるのだということをはっきりさせたい思いはあります。(「合意は必ずしも全会一致を意味しない→多数決が必要なこともある」という考え方自体は昔からあるもので、何ら新規のものではありません)。
いずれにしろ、みっちさんから「[英語版の]一部分のみ導入という形には無理があり、英語版の全体像及び趣旨を明らかにした上で、改訂するかどうかを総合的に判断する必要を感じます」というご指摘がありました。私の方でも、それに応える形でたたき台として利用者:Dwy/合意形成を作ってみましたので、一旦議論を仕切り直して、今後はそちらをベースに議論することにしませんか?
なお、みっちさんからは「お二人が仕切り直しに同意されるなら過去ログ化か改定案についてサブページ化した方がよい気がします」というご指摘も出ています。これまでの議論には結構無駄な論争が含まれているように思いますし、一旦すべてを過去ログにして、一から議論をやり直す方が、他の方々から見た可読性が上がるような気がします。ご賛同いただけるなら、みっちさんに過去ログ化をお願いしようと思うのですが、いかがでしょう?--Dwy 2011年9月23日 (金) 18:29 (UTC)
私が書いた「議論の纏めと問題提起」の内容を無視して前の議論の内容を引きづったまま単に発言場所を移動することがDwy氏の言う「仕切り直し」なのでしょうか。前の議論の続きがしたいなら、前の議論の場所に続けて発言して欲しかったです。そちらで返事を行ないますね。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月24日 (土) 00:25 (UTC)
前の議論場所は節が長くなりすぎて既に編集が難しくなっているので、こちらでお返事させていただきます。
何やら私が質問に答えないということで不信感をお持ちのようですが、答えない結果になっている理由については「Cray-Gさんの長い文章の中で、どれが本当に『答えて欲しい』ポイントなのか見分けられなかったから」とお伝えしてあります。別に意地悪でわざと答えていないわけではなく、Cray-Gさんの長い長い文章のどこに反応しなければならないのか、なかなか判断がつかないのです。Cray-Gさんは私の発言を論点回避とおっしゃっていますが、私の方から見るとCray-Gさんの文章は論点を拡散しまくっていて、全部に反応していたら議論がどこに行ってしまうのかわからない感じです。できれば、もう少し簡潔に(あるいは、それが難しければ少しづつ)発言していただけないでしょうか。
せっかく「議論の纏め」をしていただきましたが、私の方から見ると、どの論点もあまり重要でない(対立がないor突込みが足りなくて的外れ)もので、あまり今後の議論の助けにならないような気がします。細かい論点はいくつもあるのでしょうが、私が認識している重要な論点は、以下の点だけです。
  • Cray-G氏: 本件提案が新ルール制定でないのであれば、多数決主義にならないように文案を勘案せねばならない
  • Dwy: 「多数決主義でない」というのは、こちらで述べたような注意喚起をしているだけのこと。「議論でどうしても全会一致ができないときは多数決もOK」で「多数決主義」になる惧れはない。(英語版でも"a majority decision must be taken"と"Wikipedia is not a democracy"が全く問題なく共存しているでしょ!!)
  • Dwy: ところで、Cray-Gさんが心配している「多数決主義」って何?多分、Dwyが理解している「多数決主義」とは少し違いますよね?みんなが意味をはっきり理解できるように、既存の方針文書に準拠して説明していただけませんか?
  • Cray-G氏: (今のところ回答なし)
ということで、私としてはCray-Gさんの回答をずっと待っています。--Dwy 2011年9月24日 (土) 09:15 (UTC)
どんなに御願いをしても強引に我を通すのですね。
前の議論場所は節が長くなりすぎて既に編集が難しくなっているので~~
つまりDwy氏が楽をする為であれば、私が纏めを作ろうと努力し議論参加者全員に協力を御願いしていることをぶち壊しにして構わない、と判断されたわけですね。何と言いますか、議論を行なうこともそうなのですが、共同作業なのですよ? 後から読む人のことも考えてもらいたいものです。この「共同作業である」という点に関しては色々と苦言を呈したいこともあるのですが、何か言うと議論拡散呼ばわりされるので黙っておきます。あ、この段落には返答しなくて結構ですよ。行動で示してもらえれば済むことなので。
せっかく「議論の纏め」をしていただきましたが、私の方から見ると、どの論点もあまり重要でない(対立がないor突込みが足りなくて的外れ)もので、あまり今後の議論の助けにならないような気がします。
だからぶち壊しにしても良い、ということなのでしょうかね。実力の足らぬ者の努力は無視して良い、という考え方があることは知っていますが、流石に本気で無視する人は初めて見ました。これにはそうであるとかそうではないとか返答をもらえると嬉しいですが、実力の足らぬ者の努力は無視して良いという考え方を持っている人は同時にそういう質問に返答することは甘やかせることになるから無視するのが良いと考えていることも知っていますので無視して戴いても文句は言いません。
多分、Dwyが理解している「多数決主義」とは少し違いますよね?
何処が違うのかわかりませんが、支持者の多寡を評価や選定の主要な基準とすることです。思うに「多数決主義」には両者とも認識に相違は無く、「多数決主義ではない」に相違があるのだと思いますが、その点に関しては既に述べましたので今は繰り返しません。明示的にそう言ってもらえたなら繰り返すことも吝かではありません。
「議論でどうしても全会一致ができないときは多数決もOK」で「多数決主義」になる惧れはない。
その「議論でどうしても全会一致ができないとき」という条件を「多数派(或いはそうと確信している者や投票(調査投票)によりそうと知った者)が任意に作り出せる状況にある」ので「多数決主義」になる虞れがある、と私は何度も主張しています。英語版には英語版の事情があるでしょう。日本語版には日本語版の事情があると思います。
この「虞がある」という意見に関しては、上の「纏め」を見るとはぬまん氏、みっち氏、Jkr2255氏が同様の懸念を示しているようですし、私独りの見解でもないと思います。まぁ、上の「纏め」自体が私が作成したものですので、私にとって都合の良いように改竄されているとか主張して戴いても結構ですよ。その場合には原文から探してきますから。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月24日 (土) 11:01 (UTC)
>「議論でどうしても全会一致ができないとき」という条件を「多数派(或いはそうと確信している者や投票(調査投票)によりそうと知った者)が任意に作り出せる状況にある
多数派であろうが、少数派であろうが、自分の言いたいことは言い尽くす権利があります。ウィキペディアのシステム上、投稿ブロックでもされない限りは誰でも自由に発言できるわけで、誰かの発言を封殺することは(礼儀正しく議論している限り)実際には不可能です。従って、Cray-Gさんの言われる「議論」がちゃんと行われるかどうかはともかくとして、双方が「主張」を尽くすところまでは(双方にやる気さえあれば)ほぼ確実に到達します。
双方が主張を尽くした後、議論の直接の相手方との間で議論がまとまらない場合は、コメント依頼や調査投票によって、より広い範囲のコミュニティの意見を募ることができます。そのようにして表明された意見を賛否で色分けして単純にカウントし、それで結論を出すことは「多数決主義」として否定されているかもしれません。しかし、表明された意見(特に賛否の理由・根拠)を慎重に分析し、どの意見が最も優れた意見か(= 説得力があるか = より多くの人を賛同させたか)を判断し、その意見に従うことは否定されていません。
主張を尽くした上でみんなの意見を聞いてみて、多くの人が賛成してくれたということは、その意見が優れた意見だということです。ですから、どちらが多数意見かが見えてきたら、多数派側が「こっちの意見の方が優れているようだから、これで行こうよ」という説得にかかるのは当然の成り行きです。もちろん少数派側はそのまま屈服する必要はなくて、更に自説の正しさを訴えて他の人の意見を変える努力をしても良いのですが、ある程度やってみてやっぱり他の人たちを説得できそうにない場合には、多数説の方が優れているとコミュニティが認めたのだと諦めて、譲歩するのが正しい態度です。
ということで、「『議論でどうしても全会一致ができないとき』という条件を『多数派』が任意に作り出せる状況にある」というようなことは、別に問題にはなりません。(議論の結果として形成された)多数派であることが判明しているなら、その時点で既に合意形成がほぼできた状態になっているということなのです。
以上が、利用者:Dwy/合意形成で紹介した英語版の方針に基づく私の理解です。日本語版においても、基本的には英語版の方針がそのまま導入されているわけですから、事情は同じだと思います。
・・・というのを「反論」と受け取らないで、Cray-Gさんの意見・理解とどこがどう違うかを分析・検討するための材料として捉えていただけると良いのですが・・・Cray-Gさんの意見・理解を、上記の私の意見・理解と対比する形で敷衍していただけるとありがたいです--Dwy 2011年9月24日 (土) 16:16 (UTC)
実際には反対派になっているのでコメントを入れさせていただきます。利用者:Dwy/合意形成#管理者またはコミュニティによる介入には仲裁依頼が合意形成の最後の手段として説明されています。しかし、利用者:Dwy/合意形成#合意とは何かには「多数決で決定を行わざるを得ません」とあることは矛盾しています。少なくとも英語版では仲裁依頼で済みますね。もしくは仲裁人が多数決で決する事項を決めるのでしょうか?今、私は多数決がいつ使われるべきかについての説明が不十分であると主張し、Dwyさんの提案に反対します。議論が尽くされた状態が多数決によるべき時ですか、外部にコメントを求めることなどできることは利用者:Dwy/合意形成にあります。その流れでは仲裁依頼にたどり着きます。また、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#具体例の「もし延々と議論をしても、解決策が見出せないとき…… 」にあるように「話のポイントを整理し、同意できるところから同意していき、善意と協調をもって段々と議論を収束する方向に向かわせる。」と小さな同意を積み重ねていくことの重要性が述べられています。話のポイントを整理しようとしているのは主にCray-Gさんのようですが提案者にもよろしくお願いします。--Sweeper tamonten 2011年9月25日 (日) 05:56 (UTC)
「多数決」という日本語訳が少し不適切なのかもしれませんが、「多数決で決定を行わざるを得ません」は「多数意見を採用する決定を行わざるを得ません」という意味であって、必ずしも「多数決=決を取る手続き」を行うと言っているわけではありません。
最初から全員の意見が一致している例外的な場合を除けば、ある意見がコミュニティーの合意を得るプロセスは、説得により少しづつ支持者を増やすことによって行われます。
つまり 個人の意見 → (複数の支持者を得た)有力意見 → (過半数を優に超える、またはそれ以上の支持を得た)多数意見 (→ 全員一致) というプロセスを経るわけです。
「もしもそれが不可能な場合には、多数決で決定を行わざるを得ません」は、上記の「(→ 全員一致)」のところが事実上無理なら、必ずしもそこまでやる必要はないということを言っています。
現実のケースにおいて、どこまで行ったら「多数決」を認めてもよいかは、どれだけの支持者を集めたら「多数」と認めてよいのかという問題と同時に判断されることになると思います。上のプロセスの説明では敢えて「過半数を優に超える、またはそれ以上の支持を得た」という注釈をつけましたが、実際には(英語版においても)合意成立の客観的基準(1/2なのか、2/3なのか、3/4なのか…)は存在しません。従って、ある段階で「俺たちの意見が多数意見みたいだから、これをコミュニティの意見として認めてもいいんじゃない?」という声が上がったとき、その可否を判断する際には、「どれくらいの多数意見なのか(1/2?、2/3?、3/4?)」と「それまでにどのくらい議論を尽くしたか」を総合的に判断することになります。多数派が、他の人の説得を中断して「俺たちが多数派だから…」というゴリ押しをはじめることは、充分な「多数」を確保するという意味でも、充分な「議論を尽くした」状態を作るという意味でも、合意成立の判定にかえって不利に働きますから、それほど心配する必要がないというのが私の意見です。
それから、英語版の「仲裁」は、どの意見も「多数」の支持が集められないときに最終的に行き着くところです。「多数決で決定を行わざるを得ません」とあることと矛盾はないと思います。
Sweeper tamontenさんのおっしゃる通り、「小さな同意を積み重ねていくこと」は重要です。その意味で、「日本の文化云々」や「まだ提案もされていないような制度」のように、ここでどんなに議論しても同意に至るはずがない問題を次々に持ち出されても困るだけだし、皆さんのこれまでの発言をランダムにリストアップされても、話を前に進める助けにならないと思うのです。私としては「多数決主義でない」の解釈が一番の論点だと思うので、その点に絞って、Cray-Gさんの説明(通り一遍の説明ではなく、私の解釈との対比を含めた、詳細な説明)を求めているつもりです。Cray-Gさんや他の方が、「もっと他に重要な論点がある」とおっしゃるなら是非ともその論点を指摘していただきたいのですが、後から議論をフォローする際の可読性という意味からも、私の議論の能力という意味からも(論点のたくさんある長い文章に対応するのは極端に苦手です)、本当に重要なポイントだけを簡潔に(余計な論点は後回しにして)指摘していただけると、ありがたいです。--Dwy 2011年9月25日 (日) 14:58 (UTC)
Dwyさんの意見として--ある段階で「俺たちの意見が多数意見みたいだから、これをコミュニティの意見として認めてもいいんじゃない?」という声が上がったとき、その可否を判断する際には、「どれくらいの多数意見なのか(1/2?、2/3?、3/4?)」と「それまでにどのくらい議論を尽くしたか」を総合的に判断することになります。--とありますがこのようなことが保証されるような規則の用意と監視を行う負担を考えれば多数決はしないと決めておいた方がいいと考えます。
Dwyさんの説明では英語版の「仲裁」は、どの意見も「多数」の支持が集められないときに最終的に行き着くところですとありますがそのことを示す文言はどこにありますか?利用者:Dwy/合意形成#外部の意見募集による合意形成の説明には「議論が行き詰ってしまったりすることがあります。」の場合には次の手段があるとしていて、それにどの意見も「多数」の支持が集められないときなどという条件は示されていません。そして利用者:Dwy/合意形成#管理者またはコミュニティによる介入には、非妥協的な編集者への対処方法としては、以下のような手段も用意されていますとあり、これは明らかに多数派が形成されている状態が内包されると考えます。つまり多数派が少数派あるいはひとりを説得できない場合に多数決を行う必要は利用者:Dwy/合意形成の中に認められません。--Sweeper tamonten 2011年9月26日 (月) 00:48 (UTC)
追記いたします。Dwyさんがあるとした英語版の文言の根拠となった議論がなかったことからDwyさんの発言のみが提案の可否を決める主たる材料となっていますが、英語版で実際に多数決が使用された例があるならば議論の材料となりますので見つけられるようであればお示し下さい。できれば最近のものがいいのですが。--Sweeper tamonten 2011年9月26日 (月) 14:41 (UTC)
「俺たちの意見が多数意見みたいだから…」という意見が出たとき、まず考えられる反論は「そんなに多数じゃないだろう」でしょう。2番目に考えられるのは「まだ検討していない論点がある。これを考慮に入れれば、みんなの意見が変わるはずだ」です。そういう反論が出れば、調査投票等でどのくらい多数かを確認したり、議論を継続してみんなの意見が変わるかどうかを確認したりした上で、本当に多数意見(=合意)が形成されたかどうかを話し合うことになるでしょう。また、もしもそういう反論が誰からも出なければ、みんなが「充分な議論の結果として多数意見(=合意)が形成された」と認めたことになります。特段の努力がなくても自然にどちらかの流れになるはずで、「このようなことが保証されるような規則の用意と監視を行う負担」というのが私には理解できません。
「多数」の支持が集まっていれば、合意が成立したということで議論は終わりますから、「議論が行き詰ってしまったとき」のところには行かないと思います。
追記の部分については、分かりやすい例を探すのは意外に難しいかもしれません。こういう面倒くさいことを簡単に他人に頼まないでほしいというのが正直な気持ちです。とりあえず英語版の状況が知りたいなら、en:Wikipedia talk:Consensusやその過去ログを読んでみるのが良いと思います。--Dwy 2011年9月26日 (月) 15:49 (UTC)
Dwyさんの説明では英語版の「仲裁」は、どの意見も「多数」の支持が集められないときに最終的に行き着くところですとありますがそのことを示す文言はどこにありますか、との質問にまともに答えられていません。これはそのことを示す文言がないことを暗に示しているものと解釈いたします。
また、「追記の部分については、分かりやすい例を探すのは意外に難しいかもしれません。こういう面倒くさいことを簡単に他人に頼まないでほしいというのが正直な気持ちです」とありますが、これはDwyさんがあれこれと説明するより実例を持ち出してきたほうがDwyさんの負担が減るからと考えたゆえの追記です。実例があれば「このようなことが保証されるような規則の用意と監視を行う負担」も消えようという考えがありました。そういう点では言葉が足りなかったので「このようなことが保証されるような規則の用意と監視を行う負担」の方にまず対応していただいたことは申し訳ありませんでした。しかし、実例がなければDwyさんの負担は今後も大きいままです。--Sweeper tamonten 2011年9月26日 (月) 16:28 (UTC)
英語版のen:Wikipedia:Consensusに"a majority decision must be taken"という文章があるのは誰にでもはっきりわかりますよね。ですから、いずれかの意見が"majority"であれば"decision must be taken"で、議論に片がついて終わるのです。これ以上の説明が必要とは思えないのですが…
みんなが"a majority decision must be taken"だと認識していれば、他の人を説得できない少数派の人たちは、いずれかの段階で諦めて自主的に妥協or議論から退場することになります。そうすると結果的には全員一致が実現するわけで、前回「分かりやすい例を探すのは意外に難しいかもしれません」と言ったのは、そういう事情を思ったからです。どうしても英語版の事情が知りたければ、例えば"a majority decision must be taken"がノートの議論でどのように引用されているかを検索して、そのフレーズの出ている前後を片っ端から読んでいくような方法しかないと思います。(私としては、この方法を考え付くまでにそれなりの試行錯誤を繰り返しているわけで、「これ以上の説明が必要とは思えない」この問題に更に手間をかける気にはなれません。上から2つも読めばそれなりの「実例」に当たるのは確認済みですから、後は自分で読んでください。)--Dwy 2011年9月28日 (水) 14:46 (UTC)
まとまった情報の提供手段として実例が見つかっているのであれば示していただきたいという趣旨でしたので断片的な説明は不要です。Dwyさんの主張は英文に基づいた加筆を行いたいということでしょうが、その加筆文の理解に寄与するまとまった情報がありません。現在の英語版には合意形成に寄与する手段がいくつも示されているのに多数決が必要な状況がありうるのか疑問です。これまで多数決に頼らずとも作業が進められてきているので急いで加筆する必要もないでしょう。現状では進められている議論が透過性を維持するにはどうしたら良いかを論じるべきことはこの長大な議論の場があることで明らかでしょう。この方向で何かヒントがあればいただきたいと思います。--Sweeper tamonten 2011年9月28日 (水) 15:41 (UTC)
コメント 英語版ではなく日本語版の現状に基づいて考えるべきでしょう(英語版にこだわれば、話が違う方向にずれると思います)。日本語版で考えると、一部の日本史の記事の改名議論はコメント依頼が出されて以降も続き、井戸端の方では投票で解決しようか?という話が出たもののいまだ決着には至っていません。そういった意味で、Dwyさんの訳された「外部の意見募集による合意形成」では解決にいたらない例は日本語版ですでに存在していると言っていい状態ではないでしょうか。英語版の場合は、最悪、調停委員会や裁定委員会が間に入って対処するという手段が用意されていますが、日本語版では両委員会ともありません。両委員会がない現状では、外部の意見を募集しても議論が行き詰った場合は多数決を以て解決をする方が議論双方にとってダメージが一番少ないやり方であると思います(それができなければ、利用者についての不毛なコメント依頼やブロック依頼が増えるだけでしょうからね)。--かげろん 2011年9月28日 (水) 22:51 (UTC)
コメント横槍というか事実上単なる茶々入れなのですが、そもそもその「投票で解決しようか?」で投票が行なえない状況=Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票に移行しない現状を憂いての本件提案だと思うのですが。その「何故に移行しないのか」に関しては「投票=多数決(≒多数決主義)」という極端な解釈が存在することが一因だというのはDwy氏の主張の通りなわけですが、その極端な解釈が「投票反対派」だけではなく「投票賛成派」にも(無視出来ない程に沢山)居ると考えて私は本件提案に反対しているわけで、多数決で解決する有用性を説くより先にその「極端な解釈」を不可能にする(=Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票が多数決ではないということを改めて明確にする)ことが本件提案の趣旨に沿うのではないでしょうか、実際論争の解決のステップ4は調査投票であって多数決ではないわけですし。此処でかげろん氏が(調査投票ではない)多数決の重要性を主張されてしまうと、論争の解決のステップ4=多数決と解釈されて今まで以上に有名無実化していくばかりだと思うのですが。それはかげろん氏をDwy氏の藁人形(←Dwy氏の主張を曲解した上で表向きに同調することでDwy氏の論敵に有利に働かせる議論霍乱戦略=かげろん氏を本件提案の反対派の味方)にしてしまうと思います。その方が反対派であり且つ現状維持派である私にとっては都合が良いのですが、老婆心ながら。Wikipediaをより良くする方法の一つの帰着である、敵の為に書くの精神で。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月29日 (木) 06:27 (UTC)
コメント 私は、「調査投票を行い、なおかつそれを基にした議論でも解決しなかった場合」を想定して、多数決解決の導入を主張しています(言い方を変えれば、論争の解決のステップ4を2段階〔調査投票を行っての議論→それでも解決しない場合に多数決解決〕にすると言えばわかりやすいでしょうか?)。調査投票を基にした議論でもうまくいかなかった場合は、多数決をやらざるを得ないでしょうということです。変に勘ぐられても困りますとしか言いようがありません。--かげろん 2011年9月29日 (木) 07:31 (UTC)
そりゃ勿論何を想定して発言しようが構わないわけですが、その想定を明瞭にしておかないならば、異なる観点を持ち且つエスパーではない人から誤解されて話がややこしくなりますよ、という話です。いや本件提案の反対派であり且つ現状維持派である私にとっては話をややこしくして戴き、そのまま本件提案を「お流れ」にして戴けるなら、結果は希望通りだし私は楽だし私の責任じゃないしと色々と都合が良いのでご自由にして戴いて構いません。茶々入れ失礼しました。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月29日 (木) 08:39 (UTC)
かげろんさんの「外部の意見を募集しても議論が行き詰った場合は多数決を以て解決をする方が議論双方にとってダメージが一番少ないやり方であると思います」を支持します。私自身の提案も「最善の努力を尽くしてもなお全会一致の合意に至らない場合には、やむをえず多数決による決定を行わざるを得ないこともあります」というものであり、なんでかげろんさんがストローマンなのか意味が分かりません。勝手な思い込みで議論の攪乱や印象操作をされるのは非常に迷惑です。既にこの議論は、本筋から外れた議論ばかりで、履歴が無駄に増え、誰も読み返す気がおこらないくらい長い長い議論になっています。すべてがCray-Gさんのせいとは言いませんが(言いたい気持ちはすごくあるのですが、何とか抑えます)、少しは考えてください。--Dwy 2011年9月29日 (木) 13:35 (UTC)
支持していることは理解していますが、それは
  1. 支持するからこそ本件提案の追加を行なうべきであると主張する=支持しないなら本件提案の追加を行なうべきではないと主張する
  2. 支持するか否かと本件提案の追加を行なうべきかであるか否かとは別の問題
のどちらなのでしょうかね。或いは上記以外の何なのでしょうかね。
私はこれまでのDwy氏の主張から2.であると(善意に取って)解釈していました。なので「外部の意見を~~双方にとってダメージが一番少ないやり方である」か否かは本件提案の議論とは別の問題だと考えていました。別の問題なら、ごっちゃにして議論することは論点を不明瞭にさせて話をややこしくすることになると思います。
もしも1.であるのであれば、私がかげろん氏に入れた茶々は確かに不当ですね。「外部の意見を~~双方にとってダメージが一番少ないやり方である」か否かと本件提案の追加を行なうべきか否かが同じ設問だと考えているのであれば、それは本件提案の議論に於いて実に重要な論点だと考えていることでしょう。
私が誤解をしていて実は2.ではなく1.だったのであれば、はっきりそう言って私にそれを教えて下さい。誤解を解き長く無駄な議論を終結に向かわせるチャンスですよ。
ちなみに私は本件提案の追加に反対していますが、「外部の意見を~~双方にとってダメージが一番少ないやり方である」ことを認めます。これは支持していると受け取って戴いても構いません。なので1.であると考えることは私自身が反例として存在するので(何等かの悪意の存在を仮定しない限り)1.であると考えることが不可能なのです。もしも1.であるのなら其処に「何等かの悪意」ではない「何か」(=私視点からは思い込み)がDwy氏の中に存在するはずであり、その「悪意ではない何か」が「何」なのかを私は教えてもらわなければDwy氏と永遠にすれ違い続けるばかりです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月30日 (金) 05:18 (UTC)
多数派であろうが、少数派であろうが、自分の言いたいことは言い尽くす権利が~~双方が「主張」を尽くすところまでは(双方にやる気さえあれば)ほぼ確実に到達します。
そうですね。脅迫や投稿ブロック等を除いては発言出来ないようにすることが出来ないことは認めます。大筋では認めますが、「主張を尽くす」に関しては後述の通り異論があり、そしてそれ故に「ほぼ確実に到達します」には異論があります。
双方が主張を尽くした後、議論の直接の相手方との間で議論がまとまらない場合は、コメント依頼や調査投票によって、より広い範囲のコミュニティの意見を募ることができます。
そうですね。これも問題無いと思います。大筋では認めます。これも「主張を尽くした」に関しては後述です。
そのようにして表明された意見を賛否で色分けして単純にカウントし、それで結論を出すことは「多数決主義」として否定されているかもしれません。
何かずれているような気もしますが、相互理解を進める為に一旦は「大筋で問題は無い」ものとして話を進めましょう。
しかし、表明された意見(特に賛否の理由・根拠)を慎重に分析し、どの意見が最も優れた意見か(= 説得力があるか = より多くの人を賛同させたか)を判断し、その意見に従うことは否定されていません。
大筋問題無いと思うのですが、否定文である所為か多義解釈や拡大解釈が可能に思えます。ですがまぁ、先に進めます。
主張を尽くした上でみんなの意見を聞いてみて、多くの人が賛成してくれたということは、その意見が優れた意見だということです。
条件として主張を尽くしたがある上でならば、全面的に認めましょう。但し、この「主張を尽くした」が意味するものに関しても認識に相違があるようです。私の認識では、例えば現在Dwy氏は「主張を尽くした」状態にありません。
ですから~~当然の成り行きです
はい、当然の成り行きであり、自然な成り行きだと思います。自然な、というのはつまり「拘束条件が何も無ければそうなるもの」だという意味で。だからこそ私は反対しているのです。
つまり、不適切な時にまでそうなってしまうことを防ぐ拘束条件が必要であり、それが無いなら追加しない方がマシだ、と主張しているわけです。
先の「主張を尽くした」状態ではなくとも、「主張を尽くす手助けとする為に調査投票(=Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票)を用いること」にも反対はありません。ですが、件の「当然/自然な成り行き」である所為でm:投票は邪悪なものとまで言わしめる程に投票は取り扱いが難しいものとなってしまっています。
もちろん少数派側はそのまま屈服する必要はなくて~~ですが、ある程度やってみてやっぱり他の人たちを説得できそうにない場合には~~諦めて、譲歩するのが正しい態度です。
「屈服」だとか、共同作業を行なう気のある者が抱く心境ではないと思うのですがねぇ………屈服だと思わせた段階で「議論の失敗」であり、そう思わせるところが「多数決は嫌」なところなのですが。
それはそうと、「ある程度やってみてやっぱり他の人たちを説得できそうにない」の判断基準には明らかな認識の相違があり、私は既に、これが「議論が尽くされた」ことを以って判断することであればDwy氏の主張を認められる旨を表明しています。
ですがまぁ、これは前記「主張を尽くした上で~~」の段落の解説に相当するものなので、結局のところ「主張を尽くした」が意味するもの、という論点に帰着する話だと思います。議論を拡散させる意味は無いので置いておきます。
ということで~~別に問題にはなりません。
えーと、念の為に言うのですが、其処を「別に問題にはなりませんだとは思っていません」と解釈して話を進めますね。つまり「反論と受け取らないで~~分析・検討するための材料として」受け取る為に。言葉尻に過敏に反応する割りに自身の言葉の言葉尻には無頓着に思えますね、つまり反論と受け取らないで欲しいと言うわりには。反論と単に言い返すことは異なるのですよ。
ついでながら、
多数派が~~ゴリ押しをはじめることは~~合意成立の判定にかえって不利に働きますから、それほど心配する必要がない
いったい誰が、何を根拠に、合意成立の判定をするんでしょうかね、多数が支持している時に。多数派がゴリ押し出来たという段階で既に「合意が成立した」ことを多数が支持しているわけですから、「合意が成立していない」と主張する者はどう考えても少数派だとしか思えないのですが。
合意成立の判定も多数決? だとすれば、多数派がゴリ押し出来た段階で必ず合意成立で可決することになりますね。少しも不利に働きません。なので「心配する必要がない」と主張する根拠が存在していません。
合意成立の判定だけは全会一致を必要とする? ならば要するに「多数決には合意を前提とする」ということと同義ですから、今までと何も変わりは無いと思うのですが。つまり本件提案の追加を行なっても何も変わらないということですよね。だとすれば、追加することで誤解する者を増やさない分だけ追加しない方がマシってものだと思うわけです。
さて、「整理」に入ります。
議論の尽きるべき箇所の大きなものとしては、
当然の成り行きです
  • Dwy氏「だから追加するべきだ」
  • Cray-G「だから追加するべきではない」
があるようです。議論としては、互いに反論が出来なくなった時点で(=相互理解をそれ以上進めることが出来なくなった時点で)この箇所で議論が尽きることになります。反論とは言い返すことではなく、相違点を明らかにする為の質問です。観点が異なる故に(先のDwy氏がそうであったように)断言の形態を採ることになってしまうものですがね。
さらに、前記の根拠に関する認識の相違点としては、
「主張を尽くした」が意味するもの
  • Dwy氏「全ての主張を行なった」
  • Cray-G「論点の整理を可能な限り全て行ない(=互いに反論/質問することが出来なくなり)相互理解をそれ以上進めることが出来なくなった」(=議論が尽きた)
があり、その所為で
双方が「主張」を尽くすところまでは(双方にやる気さえあれば)ほぼ確実に到達します
  • Dwy氏「全ての主張を行なうことは必ず可能」(=主張すること自体を封殺することは出来ない→だから多数決を導入することで意見封殺が多発するという主張は誤りである)
  • Cray-G「単に主張するだけなら必ず出来ることは確かだが、だからと言って論点の整理を可能な限り全て行なうことが可能であるわけではない」(=そうなる為には相手の協力が必要であり、協力を拒絶すれば「議論が行き詰った」状態を作ることが出来、故に「議論が尽くされた」状態にほぼ確実に到達するとは言えない)
と見解の相違が発生し、最終的に
主張を尽くした上であれば、多数決に問題は無い
  • Dwy氏「全ての主張を行なった上であれば多数決には問題は無い」(多数に支持される意見は優れた意見であるから)
  • Cray-G「論点の整理を可能な限り全て行なった上であれば多数決に問題は無い」(その後千年に渉って水掛論を続ける意味は無いので、現実的解決手法として多数決は妥当)
と、互いに多数決を否定してはいないが、互いに異なる意味で認めているだけなので、結果として相手とは相反する結論に到達しているものと考えます。
上記「整理」の中に、Dwy氏の発言が意図と異なる曲解等が存在するでしょうか。あるようであれば、説明であれ反論であれそれ以外の何かであれ、他の話を始める前に補足訂正を御願い致します。後々にさらなる補足訂正等が入るにせよ、先ずは互いの認識を互いに確認したいと思います。と言うのは、私からも「多数決主義でない」の解釈に絞ってDwy氏に質問したいことがいくつかあるのです。ですが、その前にDwy氏の発言を私が正しく解釈しているか否かを確認したいのです。無論「完璧に正しい」か否かは悪魔にもわかりませんが、少なくとも見てすぐわかるレベルで解釈が誤っている程度の問題を早目に解決しておく方が可読性という意味でも複数の論点を含んだ長い文章を避けるという意味でも無駄を省けると思うので。宜しく御願い致します。
ただ予め言っておきますと、Dwy氏は「多数決導入=多数決主義」の否定を論証すれば良いと考えているように思えるのですが、このまま「多数決主義ではない」に関して話を進めると私は「Dwy氏の主張内容は多数決主義である(≒Dwy氏は多数決主義者である)」ことを論証することになってしまう流れになっているように思えるのです。「多数決導入がイコール多数決主義になることではない」等という「恐らくは本件提案の議論参加者の全員が同意しているに相違無い無駄な論証」を行なう為に、私に個人攻撃だか印象操作だかのような論証をさせないで戴きたいと考えています。つまり、私の上記の解釈が誤っていると指摘して欲しいわけです。ですが、もしも上記私の解釈に誤りが無く、そして「本当に」(つまり言い返せないことを言って論破する為ではなく)多数決主義ではない、という言葉の内容が重要な論点だと思っているのであれば、きっと私には想像することさえ不可能な反論をして戴けるものと期待します。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月26日 (月) 08:34 (UTC)
相変わらず長いですね(TT)
「別に問題にはなりませんだとは思っていません」のところは、正確に言うと「別に問題にはなりません…以上が、利用者:Dwy/合意形成で紹介した英語版の方針に基づく私の理解です」という構造ですね。こういうところは思い込みで議論せず、善意にとって、お互い無駄なリソースをかけないようにしましょうよ。
>>しかし、表明された意見(特に賛否の理由・根拠)を慎重に分析し、どの意見が最も優れた意見か(= 説得力があるか = より多くの人を賛同させたか)を判断し、その意見に従うことは否定されていません。
>大筋問題無いと思うのですが、否定文である所為か多義解釈や拡大解釈が可能に思えます。ですがまぁ、先に進めます。
ここで2点確認したいのですが、
(1)前にも紹介したように、英語版やメタでは「主張の質」「論拠の重み」で合意を判断すると言っており、日本語版でも基本的には同じ考え方を踏襲しているはずだというのが私の理解です。これについては、異論がありますか?
(2)もし、ウィキペディアで「主張の質」「論拠の重み」を判断しようとしたら、ウィキペディアには最終決定権を持つ個人がおらず、みんなで判断せざるを得ないのだから、「 説得力があるかどうか = より多くの人を賛同させたかどうか」を基準とせざるを得ないと思います。それでよろしいでしょうか?
>「主張を尽くした」が意味するもの
>Dwy氏「全ての主張を行なった」
>Cray-G「論点の整理を可能な限り全て行ない(=互いに反論/質問することが出来なくなり)相互理解をそれ以上進めることが出来なくなった」(=議論が尽きた)
  • Cray-Gさんの説明の「互いに反論/質問することが出来なくなり」の部分に同意します。「主張を尽くした」「全ての主張を行った」は少し言葉が足りませんでした。前に私も「言いたいことを言い尽くす権利がある」という表現を使いましたが、「言いたいことを言い尽くす」には「質問したいことを質問し尽くす」も含まれているべきだと私も思います。
  • ただ、「相互理解云々」のところが、私からするとちょっと気持ち悪いです。「相互理解云々」のところに「互いに反論/質問することが出来なくなり」以上の特別な意味がありますか?
  • 私の意見では、他に何か言いたいこととか質問したいことがありますか?」に対して新しい発言が出なくなった(と多数の人が認めた)ら、それで議論が尽きたことになるのですが、Cray-Gさんの方の判断基準(誰がどうやって判断するかも含めた具体的な判断基準)はどのようなものなのでしょうか?
>このまま「多数決主義ではない」に関して話を進めると私は「Dwy氏の主張内容は多数決主義である(≒Dwy氏は多数決主義者である)」ことを論証することになってしまう流れになっているように思えるのです
それで結構です。というか、やっと分かってくれたかという感じです。要するに私とCray-Gさんでは「多数決主義」の解釈が違うようなので、私の主張内容がCray-Gさんの理解する「多数決主義」である可能性を私は否定しません(私の理解する「多数決主義」がどのようなものであるかについては既に説明済みであり、私の主張内容が私の理解する「多数決主義」に当たらないことも既に説明済みになっていると思います)。
とは言うものの、Cray-Gさんの「多数決主義」が正確にどのような意味なのかが私には分かりません。だから、それを詳しく説明していただけないかと、以前からずっとお願いしています。おそらくCray-Gさんの解釈はいずれかの方針文書の記述が根拠となっているはずだから、その方針文書の記述に基づいて、どのような場合に多数決が容認され、どのような場合に多数決が否定されるのかを説明をしていただけるとありがたいです。--Dwy 2011年9月26日 (月) 15:49 (UTC)
ここで2点確認したいのですが
(1)異論はありません。
(2)質問を多義に解釈することが可能ですね。恐らく、論点(相違点)がこの近辺にあるのかも知れません。とりあえず「宜しくありません」と答えておきます。
私は多数決主義が(完璧ではないにせよ)妥当性/有用性が高いことを認めています。その認めているという意味で「基準とすること」に妥当性/有用性が高いことを認めます。ですが「基準とせざるを得ない」と主張することで議論(相互理解の努力)を放棄することを正当化することは認めません。
後述する(私の言う)議論が尽きた状況下にあるのならば「基準とせざるを得ない」ことも認められますが、それは議論に代替して多数決を用いること(=相互理解の努力を放棄すること)を認めるものではありません。
「質問したいことを質問し尽くす」も含まれているべきだと私も思います
改めて共通見解「適正な議論が行なわれ議論が尽きた場合に限るならば多数決の結果を合意の結果として採択することは正当性がある。但し、それ以外の場合に於ける多数決の結果を合意の結果として採択する正当性(或いは採択される可能性に関して)は意見の一致を見ていない」に戻ったわけですね。その点に関する見解の相違点としては
議論参加者のコミュニケーション能力が不足していたり先入観が強すぎたり等して適正な議論が成立しない場合が存在し、それは
  • Dwy氏「どうしようもない」(=諦めて多数決の結果を合意の結果として採択する正当性がある)
  • Cray-G「適正な議論を成立させるべくどうにかしなければならない」(=努力を続けなければならず多数決の結果を合意の結果として採択する正当性はない)
となっていることまでは合意を得られています。わかり易いが口の悪い言い方で言い換えますと、私の認識では
  • Dwy氏「質問したいことを質問し尽くすってのが理想だけど、理想は理想だろ? もっと現実を見ろよ」
  • Cray-G「理想をこそ建前に掲げておかなきゃならんだろ。現実は現実で本音として認めるのは吝かじゃないが、規則主義者じゃあるまいし本音を建前に含めちゃ駄目じゃん」
となっています。ちなみに、この「規則主義者じゃあるまいし本音を建前に含めちゃ駄目じゃん」は私がSweeper tamonten氏の#合意が変更できるとの記述を追加する提案に反対している理由でもあります。
~~以上の特別な意味がありますか?
有ります。ですがそれを平易な言葉で表せるなら既にそうしているので、つまり簡単に説明することは難しいと思います。
伝われば助かるのですが、規則主義や手続主義ではない、とでも言いましょうかね。議論の目的が相互理解(今我々が求め行なっていること)であり、その目的の為に「反論=質問を行なうことで論点の整理を行なうという一手段」が議論だというだけなので、相互理解が可能なら形式として議論でなくても(反論ではなく質問であったりとかしても)構わないわけです。そして相互理解とは説得の一手法であり、説得の他の手法には多数決や損得勘定や買収や脅迫(村八分とか投稿ブロックとか権力をちらつかせるとか賢く生きるように勧めるとか)があるわけです。
議論でなくとも相互理解ならば、「より良い(=よりWikipediaの理想に近づいた)結果」で合意が形成出来ます。つまり議論の「成功」であり議論参加者全員の「勝ち」であり、全てのウィキペディアンの「勝ち」です。
ですが説得(含多数決)では「とりあえず騒ぎを治める」ことは出来るかも知れませんが、その結果は必ずしも「より良い(=よりWikipediaの理想に近づいた)結果」とは限りません。論者陣営の一方が「勝ち」、他方が「負け」たという結果が出るだけです。それは議論の「失敗」であり、全てのウィキペディアンの「負け」です。
これを象徴する言葉がm:投票は邪悪なものに於ける「投票の方が良い結果をもたらすことはほとんどありません。」です。この言葉は明らかに極論に過ぎますが、この気狂いじみた理想とその為の理念を象徴する素晴らしい言葉です。多数決は現実的時間内に妥当な結論を出す素晴らしい手法ではありますが、Wikipedia(及び全てのウィキメディア・プロジェクト)が目指す理想の実現に寄与することは「殆ど無い」わけです。誰が勝っても寄与しません。全員が勝ってこそ寄与するのです。
それで議論が尽きたことになるのですが
あまり形式主義に陥りたくないので何ですが。
その「新しい発言が出なくなった時」に「それ以前の全てに関して合意が得られていること」は議論が尽きている状況の一つでしょう。つまり「それは違う」という発言が「最後の結論以外」に存在しない場合です。厳密に言えばまた異なるのですが、長くなるのでとりあえず。
先に私が「議論の尽きるべき箇所の大きなもの」として
当然の成り行きです
  • Dwy氏「だから追加するべきだ」
  • Cray-G「だから追加するべきではない」
を挙げました。これ以外の全て(これ等の根拠となっている論点全て)に関してDwy氏と私(=議論参加者全員)の間で合意が得られているならば、その箇所で議論が尽きています。そしてそれ等を根拠として導出される以後の全ての論点で意見が喰い違います。
要するに「新しい発言が出なくなった時」と言うだけでは、それには「新しい発言を出したい/出せるけど出さなかった」場合等が含まれていて、それは任意の時点で恣意的に作り出すことが可能になります。ある種の対話拒否ですね。
それを防ぐ為に議論では「断言を行なう」ようになっていて、それにより「無視や沈黙(=反論が無い)は同意」とすることで「同意を確認すること」が自動的に手順に含まれています。別に断言などせずとも質問とか何とかでも構わないはずなのですが、その場合には言い争いとは別に「同意を確認する手順」が必要になり、その為には相互の積極的な協力が必要であり、論敵に協力する「敵の為に書く」ような精神を全ての人が持ち合わせているとは期待出来ないので、よく論破厨が言う「沈黙は同意と看做します」的なイラつく発言につながるわけです。
「新しい発言を出したいけど出さなかった」例では、膝を突いて涙を流しながら「それでも地球は廻っている」とつぶやくシーンが有名ですね。実は創作らしいそうですが、その所為か象徴的です。そして逆に、この時に法廷では理論やら観測結果やらの説明には「新しい発言を出せるけど出さなかった」(そもそも理解しようとしなかった)ことでガリレオの意見を封殺したわけです。
また、議論というものは大抵は階層構造というかツリー構造になっていてそれぞれのツリーで議論が尽きていって云々とか言いたいことは多々あるのですが、本が一冊二冊書けそうなレベルなので当面は我慢しておきます。そのうち出版しようかな。
それで結構です。というか、やっと分かってくれたかという感じです
正直意外な返答を戴けました。Dwy氏のことを見直さなければならないな、とか思ったのですが、続く言葉で台無しです。
おそらくCray-Gさんの解釈はいずれかの方針文書の記述が根拠となっているはずだから
あのですね、「Wikipediaは多数決主義ではない」ので、如何なる文書内にも多数決主義の定義に関わる文言なんて存在しませんよ。Wikipediaでは多数決主義を再定義していないのです。
多数決主義や多数決原理に言及されている文書、例えば投票(調査投票)が多数決ではないことを警告するWikipedia:投票は議論の代用とはならないは勿論ウィキペディアは多数決主義ではありませんでさえ、多数決主義とは何かなんて一言も書いてありません。出来るはずがないことを要求することで論証の不備を指摘しようとすることが「真摯に」議論を行なう態度だとは思えません。
とか言って反論終了とすれば討論としての印象操作には悪くないのですが、私が求めている相互理解と「敵の為に書く」の精神に基づき、「いずれかの方針文書の記述」と「Dwy氏のこれまでの発言」とが矛盾することを指摘することならば(大変な労力を要するにせよ)可能であることをお知らせしたいと思います。其れを以って理解の助けとして戴く事は出来ないものでしょうか?
そしてそれは私に多大な労力を強い、ひどく消耗させるものであることから、もう少し議論が進み論点が整理され相互理解が進んだ後で、ということにして戴きたいのですが、如何なものでしょうか。と言うのは、私の方としては最初の方の段落やこの後の話で、ある程度Dwy氏の考えを理解しておきたいからです。誤解を怖れながらDwy氏の立脚している観点を想像で補完しながら全ての場合に対応出来るように大量の注釈の入った長い々々(そしてその殆どは無駄に終わる)文章を書くことは、骨も心も折れるものなのですよ。
◆◆◆
敢えて、これまで何度か言ってきた発言であり通じていないことはわかっているのですが、改めて言わせて戴けるならば、
  • 議論に代替して多数決を用いる
ことが、私の言う多数決主義か否かの判断基準です。一切のことで「議論に代替して多数決を用いる」ことを行なわないならば、決して多数決主義ではありません。時間的制約等により止むを得ず「議論に代替して多数決を用いる」ことを許容する場合は、曖昧になってきます。つまり「止むを得ず」が曖昧だからです。そして任意の場合に必ず「議論に代替して多数決を用いる」ならば間違い無く多数決主義です。この「曖昧」から「間違い無く」の間の何処かに分岐点があるはずですが、それを言葉で説明することは出来ません。
とりあえず、私の言う「議論が尽きた」場合には「止むを得ず」と認められる状況下にあり、イコール多数決に移行することを私は認めます。そしてその状況下に於いては全ての議論参加者も認めることでしょうから、「多数決に移行する合意が得られる」はずなので「多数決により決定する合意が得られたなら多数決は合法」という現状を適切だと考えています。そして其処で多数決に反対したところで「いつまでも納得しない利用者」だと(反対者本人自身でさえ)判断することでしょう。そして多数決の後に現れるであろう「新しい論点」とは即ち、其れまでに為された「これ以外の全て」に関して得られていた合意に対する異論です。
ですがDwy氏の言う「どうしようもない」(議論が行き詰った)状況は(これまでに私が散々主張してきた通り)議論参加者の一方の陣営が任意の時点で作り出すことが可能です。それ故に、これを多数決に移行する条件として認めた場合は即ち「議論参加者の一方の陣営が望めば任意の場合に必ず「議論に代替して多数決を用いる」」であるので、これは「間違い無く多数決主義」に極めて近い位置にあると考えます。そして議論参加者の他方の陣営はそれによりDwy氏の言う「質問したいことを質問し尽くす」機会が失われる(し尽くす前に多数決に移行してしまう)わけですから、これは意見封殺に相当するものと考えます。そして「既に出された論点」を無視して合意が成立されたことになってしまったので、多数決の後に現れるであろう「新しい論点」とは「既に出された論点」であることから、「新しい(=未だ出されていない)論点」は存在し得ません。
そして残念なことに、調査投票により自身が多数派に属すると知った議論参加者が「「こっちの意見の方が優れているようだから、これで行こうよ」という説得にかかるのは当然の成り行き」ですので、調査投票でさえ「支持者の多寡で議論を代替する」可能性が多分に考えられるものであり、だからこそm:投票は邪悪なものなどと強い々々過剰なまでの警告がされているのです。其処へ持ってきて公式に「多数決で決定を行わねばなりません」だの「多数決による決定を行わざるを得ないこともあります」だのと「当然の成り行き」を後押しされてしまっては、「議論の内容」で評価せずに「支持者の多寡」で評価する多数決主義が横行するのは「当然の成り行き」です。
だからこそ、「当然の成り行き」だからこそ、反対しているのです。
うーん。多数決主義の判断基準は表現が難しいですねぇ。とりあえずDwy氏は多数決主義者だ、と主張することが許されたのでそうさせて戴きます(けれど決め付けて個人攻撃をしたいわけではありません。飽くまで当方の認識を理解して戴き、適切な弁明/反論/質問をしてもらう為です)と、ちょっと戻りますが
多くの人が賛成してくれたということは、その意見が優れた意見だということです
というところでしょうか。「支持者の数が多かった」から、という根拠により(=議論の内容を検討せずに)優劣を判断することの有意性は多数決主義の根本原理であり多数決主義が成り立つ根拠だと思います。
無論、前記発言でDwy氏は前提として「(私の言う)議論が尽くされた」ならばという条件を設けていますので、この指摘は単なる揚げ足取りであり正しくありません。ですが、にも関わらずDwy氏は多数決(調査投票ではなく多数決)に移行するのは「(私の言う)議論が尽くされた」状況のみならず「(私の言う)議論が行き詰った」状況をも認める、と主張し、あまつさえ「支持者が多かった意見の方が優れているようだ」と評価して「諦めて、譲歩するのが正しい態度です」などと主張しています。
なので私の目から見ると、Dwy氏は私との対話に限って(私を説得する為に)「(私の言う)議論が尽くされた」ことを条件とすると主張して私を「騙して」認めさせておいて、実際にはそれ以外の任意の条件下に於いて多数決で決定出来るように(=多数決主義に)しようとしているように見えるわけです。
それが私がこれまで指摘してきた「矛盾点」であり「論理の飛躍」です。
それが「どうしようもない vs どうにかしなければならない」という見解の相違に帰着しているものと考えます。なのにDwy氏はその矛盾点の指摘を無視して「私の発言内容に合わせた『論点のずれた』反論(質問)」をしてきているので、誤魔化されているように思えるわけです。「「質問したいことを質問し尽くす」も含まれているべきだ」とDwy氏も思うのであれば、「どうしようもない」と言って努力の放棄を「行わねばなりません」だの「行わざるを得ないこともあります」だのと本項に書いてその「「質問したいことを質問し尽くす」も含まれているべき」という「べき」が守れると思っているのでしょうか。実は「「質問したいことを質問し尽くす」も含まれているべきだ」とは思っていない=「べき」ではあるが、ぶっちゃけ面倒なんだし、守らなくたって大勢に影響は無い、と思っているとしか考えられません。
何と言うか、万引き少年を叱り付けているような気分です。と言うのは本ノート頁で過去にSweeper tamonten氏にも似たようなことを言ったことがあるからなのですがね。議論が尽きた状態と議論が行き詰った状態は、物理的にとても似通っています。家の棚にしまってあった御菓子を持ち去るのと店先の棚に置いてあった御菓子を持ち去るのとが物理的にとても似通っているように。万引き少年が万引きを軽く考えているように、Dwy氏が「べき」を軽く考えているように思います。無論、実際どうかはわかりませんが、Dwy氏の態度が私にそう思わせているわけです。
ついでながら、勝ちとか負けとか屈服とか失敗とか、共同作業を阻害するとしか思えない概念を頻繁に発言することも強い影響を与えています。何だか知らないけれど、Wikipediaの理想とは異なる目的の為に「個人的な勝利」を求めていて、その為に多数決の有用性を説いてWikipediaを多数決主義にしようとしているように聞こえるわけです。そうではないと信じたいのですが、信じる根拠となるべき態度をDwy氏が採っていません。
◆◆◆
えー、此処まで書いてきて、
投票により得られた「支持者の多寡」により
多数決
「双方の論拠(の優劣)」を決定することで「結論を出す
調査投票
「双方に少数派の論拠を再評価させる」ことで「議論を継続する
Dwy氏の主張
「双方の論拠(の優劣)」を決定することで少数派の論拠(=内容)を無視して説得(=屈服)することで「合意を得る
という違いがあることに気が付きました。調査投票では、少数派は自身の説が受け入れられていない現実を自覚し「何故に」受け入れられていないのかを探す(=再評価する)必要があります。また多数派は多数派で多数派だからと言って安心して良いわけではなく、少数派の主張が「多数が理解出来ないぐらいに複雑な/難解な」根拠を持っていることを認識し、気合を入れてこれまで以上に慎重且つ入念に少数派の主張を読み解く(=再評価する)必要があるわけです。
その再評価のプロセスが無い、或いはその再評価のプロセスが無くなる(=ありもしない「新しい論点」とやらを待つ態勢に入る)ことが「多数決主義者呼ばわり=反対」している根拠だと言っても良いのかも知れません。或いは、多数派が少数派の論拠を無視する(=こっちの意見の方が優れているようだから~~と説得にかかる)ことを許していることが。
となると、もしかしたら論点は「多数決主義とは何か」ではなくて「調査投票とは何か」や「調査投票と多数決の違いは何か」なのかも知れません。そう言えばDwy氏は調査投票を多数決と言い換えてましたし、「特に新規なものではなく、既存のルールの普通の解釈です」と主張していましたね。もしかしたら係る見解の相違は、調査投票に対する見解の相違の所為なのかも知れません。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月27日 (火) 09:46 (UTC)
「議論に代替して多数決を用いる…ことが、私の言う多数決主義か否かの判断基準です」であれば、「議論に代替して」をしっかり定義していただかないと、Cray-Gさんのご意見が理解できないことになります。結局、前回の質問に戻ると思うのですが、「議論が尽きた」を判断するときのCray-Gさんの基準(誰がどうやって判断するかも含めた具体的な判断基準)はどのようなものなのでしょうか?にお答えください。
(私の方の基準は既に述べたので(同意は無理だとしても)内容はご理解いただいていると思います。ちなみに、ブロックでもされない限り、質問したいことは全部質問できます。それにどこまで答えることが出来るかは、議論参加者の能力次第でしょう(不可能なことを強いることはできません)。場合によっては質問者から「ちゃんと答えてもらっていない」という異議が出るかもしれませんが、「一応回答済みだ」という合意(異議がある以上、多数意見による合意にならざるを得ませんが)が成立するなら、「議論が尽きた」ということになると思います。)--Dwy 2011年9月27日 (火) 22:05 (UTC)
喧嘩を売っていると受け取られることを覚悟の上で確認したいことが御座居ます。
「議論に代替して」をしっかり定義していただかないと、Cray-Gさんのご意見が理解できないことになります
これはつまりDwy氏は、ある状況下で多数決を用いるか否かを考える際には、「その多数決が議論に代替してるか否か」を判断出来ない(或いは判断しようとは考えなかった/考えない、判断する必要は無いと考えていた/考えている)、という意味にも受け取れるのですが、その解釈で合っているのでしょうか?
Dwy氏には言うまでも無いことなのかも知れませんが、私には重要なことなので明言を御願いします。この返答(イエスかノーか)によっては今後の対話の方向性が大きく変わってきますので、ここはDwy氏の言う通り思い込みで議論してはならない点だと思いますので。
今回は「言質を取ろうとしている」と受け取られることを覚悟の上で明確な答えを必要としているので、「~~だった場合用の答え」は敢えて書きません。今回Dwy氏から戴く答えは今後、私がDwy氏との対話を行なう上での根拠として用いられる可能性があります。また回答して戴いた内容に関してさらに詳細な質問を重ねますが、それへの回答も同様に根拠として用いられる可能性があります。「相手を油断させての騙まし討ち」をしたいわけではない、という私なりの誠意を酌んで戴き、しつこい物言いには御容赦を戴きたく。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月28日 (水) 04:55 (UTC)
私が私の理解にもとづいて「議論に代替しているか否か」を判断することは、もちろんできます。
Cray-GさんがCray-Gさんの理解に基づいて「議論に代替しているか否か」を判断することも、もちろんできるでしょう。
誰でも、自分の理解に理解に基づいて「議論に代替しているか否か」を判断することができると思います。
でも、コミュニティとして「議論に代替する」の定義がはっきり決まっていなければ、それぞれの人の判断はバラバラで、それぞれが違う判断になるでしょう。
人々が異なる判断を下している場合、コミニュティ全体の決定を行うことは困難です。全会一致でなければ決定できないとするなら、「議論に代替しているか否か」についてコミュニティとしての判断を下すことは事実上不可能でしょう。
以上が私の理解です。お答えになりましたでしょうか?--Dwy 2011年9月28日 (水) 13:11 (UTC)
いいえ、残念ながら答えになっていません。私がそれを「答え」として受理する為には、私は私の「暗黙に充填された言葉」を必要とします。それはDwy氏が「暗黙に充填した言葉」とは異なる可能性があり、それ故に長く難解で無駄な議論に突入する可能性があります。
恐らくは私の設問が悪く、その所為でDwy氏は自然に(当然以前の当たり前のこととして)「暗黙に充填した言葉」を挿入し、適切と思える答えを返したのだと「善意に取る」ことにし(つまり、明確に答えたら不利益になることがわかっているので玉虫色の答えをしたとは解釈せず)、故に同じ質問を「言葉を変えて」繰り返します。
私の解釈では前回と今回の質問は、Dwy氏にとってその内容は完全に一致し、故に答えも完全に一致するものです。両方の質問の内容とその答えが一致するように「私が暗黙に充填したDwy氏とは異なる言葉」が挿入されてしまっているのだろうと考えて下さい。議論ですので、今後もこういった訂正された再質問を繰り返すことになるかも知れないことは覚悟しています。安心して、「Dwy氏が安心してイエスかノーかで答えられるようになる」まで曖昧に答えて戴いて結構ですし、また質問内容に関する質問や必要ならば表現の定義の明確化や訂正も勿論受け付けたいと考えています。
訂正された再質問
Dwy氏は、ある状況下で多数決を用いるか否かを考えるコミュニティとして判断する際には、「その多数決が議論に代替してるか否かをコミュニティとして判断する」必要は無い、と考えていますか?
とりあえず判断することは可能だということなのでそれに関する記述を除き、そして誰でも判断出来るということから「考える」を「コミュニティとして判断する」に訂正しました。また「コミュニティーとして」というのは即ち、Dwy氏が「事実上不可能でしょう」と言ったその意味です。事実上不可能=不要、という意味なのか否か、であっても恐らく答えは一致すると思うのですが、集合論的な意味で今後の議論に曖昧さを残すことになるので、敢えて上記の内容で答えを戴きたいと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月29日 (木) 06:27 (UTC)
延々と意味の分からない質問を重ねるだけで、こちらの質問にはどうしても答えないつもりですか?まず、「議論が尽きた」を判断するときのCray-Gさんの基準(誰がどうやって判断するかも含めた具体的な判断基準)はどのようなものなのでしょうか?にお答えください。--Dwy 2011年9月29日 (木) 12:53 (UTC)
こちらの質問にはどうしても答えないつもりですか?
答える為に必要な質問です。Dwy氏の質問を私は何通りかに解釈することが可能であり、そのそれぞれの解釈全てで互いに答えが異なります。「思い込み」で答えても良いのですが、今まで私の「思い込み」は外れているとDwy氏が主張するので、「思い込み無し」で答える努力をしているまでです。
Dwy氏と私は異なる観点に立脚しているので、Dwy氏が「当然だ」と思うこと(私視点では思い込んでいること)を私が「言うまでも無く有り得ないこと」だと考えている可能性があるのです。私が「当然だ」と思っていたことをDwy氏が私の思い込みだと考えたように。それを解決しないで話を進めようとするから「何の結論も出ない長く無駄な議論」になってしまうんじゃないでしょうか。
もしも私の問いがDwy氏にとって多重解釈が可能なようであれば、それらを(Dwy氏にとって唯一の意味になるように)確定する為の質問を私に行なって下さい。今私がそうしているように。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月30日 (金) 05:18 (UTC)
9月1日のこの発言以来、基本的に同じ質問を繰り返しています。何とか答えてもらうために、Creay-Gさんの質問にも出来るだけ答えてきたつもりですが、どうしてもCray-Gさんからまともな回答が得られません。これほど単純な、しかもたった一つの質問に答えてもらうのに1か月以上もかかるようでは、どんなに頑張ってもまともな議論が成立するとはとても思えません。:::::::::::::::Cray-Gさんの基本的な立場は「多数決主義にならないようにしなければならない」というもののようですが、Cray-Gさんが考える「多数決主義」というのは、既存の方針文書中に根拠があるものではなく[2]、要するにCray-Gさん独自の概念に基づいて議論をされているようです。ウィキペディアの方針やガイドラインに準拠した議論でないのなら、私としてこれ以上付き合う意味もあまりありません。また、Cray-Gさん独自の考えである以上、ご本人からちゃんとした説明がない限り、他の人は議論についていけません。
前にみっちさんから「うんざりしている」[3]という発言がありましたが、議論の当事者である私自身も、もううんざりです。Cray-Gさんの質問にこれ以上答えるつもりはありませんし、私の質問にも答えていただかなくて結構です(Cray-Gさんの考えの細かいところは分かりませんが、必要最小限のところは理解したと思います)。--Dwy 2011年10月1日 (土) 13:41 (UTC)
以前発言した後も議論の推移を見てきましたが…Dwyさんが本件案を提案された理由の、議論の停滞による現状維持派の有利と言う問題ですが、問題そのものがあるというのは理解できますが、その解決法に多数決を用いねばならない、あるいは多数決しか解決法がない、というような事はないのではないでしょうか?散々Cray-Gさんが説明されているように多数決には多くの問題も孕む訳です。毒を毒で制すような真似をせずとも毒のない別の方法も探ることが出来るのではないでしょうか?私は第3者とは言えないのでしょうが、それでもDwyさんとCray-Gさんの議論を見ていても終始Dwyさんはご自分の考える問題性を説くばかりであったように思えました。Dwyさんは議論の停滞による問題を解決するのが目的なのですよね?合意形成を多数決で出来るようにすること自体が目的で議論の停滞などどうでも良い、ということではありませんよね?Cray-Gさんに倣って「敵の為に書く」を試みてますが、Dwyさんが問題とすることの解決策はなにも多数決に限らないのだと思うのです。そして、こうやって異なる解決策を模索するなどできる訳ですから、ただ各々の主張を言い合えばそれで「議論が尽きた」とはできないのではないでしょうか。「Cray-Gさんの質問にこれ以上答えるつもりはありません」と対話拒否してもDwyさんの考える問題はなんら解決しないのですが、提案を下げられるのでしょうか?--はぬまん 2011年10月1日 (土) 14:23 (UTC)
「『合意は必ずしも全会一致でなくてよい』旨の記述を追加する提案」は、とりあえず取り下げます。今後は、下の「修正案」の節におけるみっちさんの示唆に従って、英語版の方針全体の再翻訳・導入を提案・検討していきたいと思っていますが、私と並行して翻訳作業に当たられたSweeper tamontenさんとの確認・調整作業が必要なようなので、実際に提案を行うのは少し先かもしれません。
一応念のために言っておきますが、今回の提案は(少なくとも私の認識の中では)既存の合意を文書化する提案でしたから、今回ワーディング等について合意が取れなくて提案取り下げとなったとしても、「既存の合意」には何の影響もないと思っています。
「全会一致が不可能な場合(明らかな多数派が存在するときには)多数派に従う」は、実際に英語版で何の支障もなく運用されているルールですし、日本語版でも、基本的にはこのルールがそのまま導入・実施されているというのが、私の認識です。
はぬまんさんは「終始Dwyさんはご自分の考える問題性を説くばかりであった」という認識のようですが、私の認識は少し違います。「問題性」の存在自体はCray-Gさんも認めてくださっていましたし、私の発言の中心は「Cray-Gさんの解決策(あるいは判断基準)は何ですか?」という質問だったと思います。残念ながら、Cray-Gさんからは最後まで具体的な解決策・基準の提示がありませんでした。
それから、「散々Cray-Gさんが説明されているように多数決には多くの問題も孕む訳です」にも異論があります。多数決は単純な「毒」ではなく、使い方によって「毒にも薬にもなる」ものです(このこと自体にはCray-Gさんも同意されていると思います)。でも、ウィキペディアの方針文書が「多数決主義ではない」で排除しようとしているものの範囲については、Cray-Gさんと私との意見が明らかに異なっていました。そこで私から「Cray-Gさんはどういう場合の多数決が容認され、どういう場合の多数決が否定されるとお考えなのでしょう?」を何度もしつこく質問することになったわけです。これに対してCray-Gさんは「多数決主義ではない」を繰り返すばかりで、結局具体的な判断基準の提示はなかったのです。
はぬまんさんが「Dwyさんが問題とすることの解決策はなにも多数決に限らない」とおっしゃるのであれば、是非ともその解決策をご提案いただきたいと思います。今のところ私は英語版でも実績がある「既存の合意」を再確認するのが最善の解決策だと考えていますが、本当により良い代替案があるなら、それを検討するのにやぶさかではありません。--Dwy 2011年10月2日 (日) 03:18 (UTC)
そうですね、いつまでもそのままになってしまうのが問題なのであれば、議論期間の目処みたいものを設定するなど考えられるでしょうか。南京事件でのローカルルールは要は短すぎるから問題だった訳で、半年なり一年なりと目安を設けるなり、それだけの期間が経てば一度議論の経緯を整理整頓を推奨するなどできることはあると思います。または、議論中タグなどで現在の状態に異論が出ていることをより明確にするなどもできるかもしれません。--はぬまん 2011年10月3日 (月) 11:22 (UTC)

(インデントを戻します) えっと、まず「議論が尽きて、どうしても結論が出ない場合」に、最後の手段として多数決を「使わざるを得ない」ということについて異論のある人は、少なくとも今までの議論の中には出てきていないと思います(異議があればそれは大歓迎です)。で、その「議論が尽きた」かどうかを判定する基準・方法、そしてどんな形で文面として落としこむか(もちろん、「現状維持」もその中には含まれますが)が主な問題になっている、という認識を、私はここまでの議論に抱いています(もっと重要な論点があればお知らせください)。

ここで、具体的な判定方法について考えてみることにしましょう。まず、「誰が」判定するかについては、大きく分けると2通り、「議論の当事者が判定する」と「第三者に判定してもらう」というものが考えられます。

当事者が判定する場合
「全会一致で判定する」のであれば、現状でも全員の同意のもとで「最終結果にする前提で投票を行う」ことができるので、現状と何も変わりませんし、「行き詰まりだと認めれば多数決で押し切られるのがわかっている」なら少数派が反対するので、膠着を打開する効果は望めません。逆に、「それ自体を多数決で判定する」のであれば、多数派の思うがままになります。当事者自身が判定する場合でこれらの問題を打開するには、客観的な基準が必要だと私は考えますが、世界最狂の魔法使いCray-Gさんが言うように、「議論を意図的に停滞させる」こともできてしまうわけですから、現実にそんな基準を制定するのは困難だろうと考えます(というより、私はその具体的な内容を想像できません)。これら以外の判定法もあるかと思いますが、ご意見などよろしくお願いいたします。
第三者に判定してもらう場合
これであれば特に問題は生じませんが、その第三者をどう選ぶかという問題があります。おそらくは調停委員会裁定委員会のようなものになると思いますが、どんな形であれ合議体でないといけないでしょう。

そして、これらの具体的条件を明記しないまま「多数決をせざるを得ない」旨だけ書いてしまえば、それを盾にとった、多数派の数による押し切りが起こってしまいうると、私は考えています。--Jkr2255 2011年9月29日 (木) 14:49 (UTC)

全く以って同意見なのですが、その場合分けは
  • 当事者が判定する場合
  • 第三者機関(委員会等)が判定する場合
  • 全員参加の多数決(調査投票ではなく)で判定する場合
であるべきだと思います。少なくともDwy氏と私との認識の相違点として「多数派の思うがままになることの是非」があるので、Jkr2255氏の分け方だと色々と問題があると思うのです。いや無論のことながらJkr2255氏と同意見である私にとっては当然の判断だと思うわけですが、これを指摘しないことは流石にDwy氏に対して私が「真摯」な態度とは言えないと思いますので。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月30日 (金) 05:18 (UTC)
「第三者に判定してもらう」の例として、Jkr2255さんは調停委員会裁定委員会を挙げておられますが、調停委員会というのは拘束力のある「判定」を行うものではものではありません。また、裁定委員会の方も守備範囲は意外に狭く、記事の記述内容等については何の決定も行いません。最終的にはほとんどのことを「議論による合意」で決めざるを得ないという点は、英語版も日本語版もそれほど変わりません。英語版だと裁定委員会まで行けばで何でもきっちり結論が出るようになっているというのは幻想にすぎませんので、その点は指摘しておきたいと思います。
「議論の当事者が判定する」については、「議論の当事者」として、どの範囲の人々をイメージするかによって、問題の見え方がずいぶん違ってくると思います。おそらくJkr2255さんは直接議論に参加して発言している人たちを頭に描いていらっしゃるのではないかと思いますが、私としては、黙って議論をフォローしている人等も含めた、コミュニティー全体をイメージするべきだと思っています。
少数派の問題提起に対して多数派が議論に応じないときであっても、(コメント依頼等で議論を覗きに来た人たちも含めて)誰も少数派の応援に立ち上がらず、みんなが「まあいいか」と黙認しているならば、それはコミュニティ全体として「少数派の問題提起に合理性がない」という判定を下したということであり、「多数派が意図的に議論を停滞させている」という言い方にはならないはずだと私は思います。--Dwy 2011年10月1日 (土) 13:41 (UTC)

修正案

[編集]
合意は必ずしも全会一致である必要はありません。

全会一致による合意が理想であり、そのために議論参加者は最善の努力を尽くす必要があります。ただし、これには例外もあります。例えばWikipedia:管理者への立候補の信任投票は、事前の合意に基づく投票によって結論を得ています。このような場合、投票は単純に過半数ではなく、より多数の賛成を判断基準としていることに留意すべきです。

多数者は、相手が少数であることをもって、相手の意見を否定・排除してはいけません。しかし、少数者が議論において自分(たち)の意に沿わない合意形成を妨げる、あるいは引き延ばすために、「全会一致」を盾としてあくまで反対を唱え続けるようなときには、そのような反対意見は無効と見なされたり、反対者自身がいつまでも「納得」しないとしてブロックされる場合があるでしょう。

不十分かもしれませんが、自分なりの文案を書いてみました。前段は英文に同趣旨があり、かつ問題が少ないと思うので、後段に異議続出の場合は、切り離して前段のみ活かす手もありです。後段でとくに配慮したのは、「多数決」という表現を前面に出さない、ということです。他にもっと適切な例や表現があれば歓迎します。わかりやすい例としてWikipedia:メインページの改訂も参考になるかと思ったのですが、過去ログを見ると、どうも単純な多数決だったみたいで、やぶ蛇かも。--みっち 2011年8月22日 (月) 10:14 (UTC)

取り上げられている"いつまでも「納得」しない"ということのソースは元々en:Wikipedia:Do not disrupt Wikipedia to illustrate a pointにあったものが今はen:Wikipedia:Disruptive editing#Refusal to "get the point"に移っている。(両方の2009年2月6日の編集記録から)その内容は--In some cases, editors have perpetuated disputes by sticking to an unsupportable allegation or viewpoint long after the consensus of the community has rejected it, repeating it almost without end, and refusing to acknowledge others' input or their own error.(以下略)--となっていて合意が得られた後のこと。合意が得られていない議論の最中に"貴方はいつまでも「納得」しないね"ということで合意を迫るためにWikipedia:腕ずくで解決しようとしないにある"いつまでも「納得」しない"を持ち出すのは不適切と考える。--Sweeper tamonten 2011年8月22日 (月) 17:24 (UTC)
コメント例外の定義が不充分だと思います。日本語版Wikipediaの主要な編集者が日本人であり、議論という「異なる価値観を持つ者同士が一つ一つ相互理解を進めていく手順」に不慣れであったり、下手すると異なる価値観を持つ者との接触経験が希薄であったりする人が多い環境です。そこで例外が充分に定義されていないと「現在の状況が例外なのか否か」が多数派に都合良く解釈され(そしてそれが多数により支持され)ることが考えられます。そもそも本件発案者が「井戸端にミートパペット募集の貼紙を貼りに行く」ような日本語版Wikipediaの現状では、「多数派が議論の代替として多数決を利用する」ことを認めるようなものです。意図としては認めていなくとも、文面から認めていないことを抗弁出来ないならば同じことです。言葉も碌に通じない現実を出発点に共存を実現している人達向けの文章がどれだけ完璧であろうとも意味はありません。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月23日 (火) 09:40 (UTC)
コメントをありがとうございます。Sweeper tamontenさんのご指摘には、日本語版と英語版は違います、とだけ。Wikipedia:コメント依頼/Sweeper tamontenで私がコメントしたこともご参照ください。
世界最狂の魔法使いCray-Gさんのご指摘どおり、文案は「例外の定義」(十分条件)といえるほどのものにはなっていません。ただ、この文章のテーマは「合意は必ずしも全会一致である必要はありません。」であるので、その説明としては、「全会一致ではないもの」として有力な例(必要条件)をひとつでも示せば足ると考えました。
私が記憶する投票例としては、すでに挙げたWikipedia:メインページの改訂以外にノート:朝鮮民主主義人民共和国/投票(2005年8月)及びノート:朝鮮民主主義人民共和国/投票2(2005年9月)があるのですが、いずれも単純多数による決着であること、また、投票の扱い自体がその後変わってきていることもあり、これらをそのまま「定義」の材料として示すのはためらわれます。ほかにも井戸端などで投票らしいものがいくつかあった気がしますが、関心がなかったのでチェックできていません。もし、十分な定義について具体的なお考えがあれば示していただければと思います。
余談ですが、Dwyさんの井戸端への問題提起をミートパペット募集だと決めつけないでいただけませんか。多数決がミートパペットにつながる蓋然性が高いとは必ずしもいえません。また、Dwyさんが論争の一方の当事者であるならフォーラム・ショッピングだという指摘がなされる可能性はあります。しかし、Dwyさんは賛否には直接関わらずに解決手段の提案をされているわけで、調停者ないしは助言者として役割を果たそうとしておられると認識しています。あと、個人的な理由でたいへん申し訳ありませんが、PC入院につき当分オフになってしまいますので、脈があるなら私を抜きにしてすすめていただいて結構です。1ヶ月以内に戻れたらと思っています。--みっち 2011年8月24日 (水) 10:15 (UTC)
まず、Wikipedia:コメント依頼/Sweeper tamontenにおいてみっちさんがコメントしたことを参照せよとありましたが、私がこの場所で指摘した点に関する答えとなるものはありませんでした。
さて、「日本語版と英語版は違います」というコメントをいただきました。英語版の論理を無視してもよいと受取れる発言ですし、私も議論が尽くされるなどすれば日本語版が英語版と同じである必要はないと考えています。また、一方でDwyさんが英語版での記述が導入された理由を示しえない今、Dwyさんが示された英文はDwyさんの主張に都合がよかったので引用されただけであり、当然の如く主張に都合の悪い英文資料は一切示されておりません。
日本語版の中ではWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは多数決主義ではありませんが多数決に関する考え方を説明しております。英語版の相当箇所であるen:Wikipedia:What Wikipedia is not#Wikipedia is not a democracyも同様です。みっちさんの文章では少数者が悪いことはあっても多数者が悪いことはないというような文面であることはどのような考え方が根底にあるかを示しているものと見ています。少数者をグループの和を乱す悪者としか見れないのではないでしょうか?自分に理解できない少数者の意見を最初から排除する傾向は危険です。これでは議論を進めるより多数派を形成する手法で解決を求めてしまいます。議論に重きを置こうとするウィキペディアの姿勢を非難して例外を形成しようとする前に議論の収束を助けるために何かできないかを考えるべきではないでしょうか?--Sweeper tamonten 2011年8月24日 (水) 13:54 (UTC)
PC入院前に取り急ぎ。真摯な議論と合意努力が重要であること、多数決や投票自体は否定されておらず、ただ慎重さが求められるという点で「何ではないか」との矛盾はないと思います。誤解されているようですが、私は多数者・少数者のどちらの味方でもありません。端的に言えば、私が否定するのは、多数者の「ゴリ押し」や少数者の「ゴネ得」であり、これらは真摯な議論と合意努力の妨害行為だといいたいのです。もしそういう意図に沿ったもっとよい表現があるなら、具体的にお示しいただきたいです。--みっち 2011年8月25日 (木) 07:21 (UTC)
みっちさんが否定するのは、多数者の「ゴリ押し」や少数者の「ゴネ得」とのことです。そして解決のためのもっとよい表現があるなら、具体的に示して欲しいのことです。解決のために多数決を用いるという案に反対しているのであるからその方向での具体案はありません。しかし、目的である多数者の「ゴリ押し」や少数者の「ゴネ得」の被害を抑制する何か別のものということであれば話は異なります。抑制するならどちらの優先度が高いでしょうか?多数者の「ゴリ押し」の被害は大きなものと考えています。特定のグループが何らかの「ゴリ押し」をシステムの広範囲にわたって行うならウィキペディアの受ける被害は大きなものと考えています。この「ゴリ押し」を正当化する多数決の正当化には賛成できません。そしてみっちさんが言及する「いつまでも納得しない」ということについての記述に関しても多数者に悪用されやすいものなので改善して現在のように議論の進行を妨げるために用いられることを防がなくてはなりません。「いつまでも納得しない」とは得られた合意を尊重する気持の欠如であり、合意を無視して単独で作業を進めようとすることを防ぐ為の規定であることをはっきりさせるべきです。その上で少数者の「ゴネ得」を最小化する手段が講じられるべきでしょう。具体的にはWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#具体例で足りるか否かの議論からです。なお、ここには--もし誰かが「ウィキペディアは多数決による民主主義を採用するべきだ」と唱えたら…… --という例が最初にあり、良い例としてソックパペットによる多重投票が可能であることを指摘するとありますね。気がつきませんでした。多数決は腕ずくということでよろしいかと思います。--Sweeper tamonten 2011年8月26日 (金) 10:10 (UTC)
その「調停者ないしは助言者として役割を果たす」為にミートパペットが必要なのですよ、各々のノート頁で「ローカル・ルールで決まってるんだからごちゃごちゃ言うなよ」と封殺されないようにする為に。そして多数決導入後には、それがそのまま「多数決で決まったんだからごちゃごちゃ言うなよ」になるわけです。
既にミートパペット獲得合戦は「調停者ないしは助言者」さえも巻き込んで始まっているのですよ、私的に。それを公的に認めたら、どれだけのミートパペット獲得合戦が繰り広げられることでしょうね。それをどうやって止めればいいのでしょうか。
今はまだ「コミュニティーの支持を得られる範囲」でしか行なわれていません。それをその程度に抑し留めている一言が「全会一致」の建前です。本音では全会一致では無いことはわかっていますが、全会一致の建前があるからこそ公にミートパペット獲得合戦を繰り広げることは出来ず「コミュニティーの支持を得られる範囲」例えば「調停の為に」という大義名分がある時に限るように抑し留められているのです。で、Dwy氏はその大義名分の元に建前を取っ払い「公的にミートパペット募集を認めて私的なミートパペット募集の手間を減らそう」という提案をしているので、こうして「そりゃ行き過ぎだ」と議論になっているのです。
本音は否定出来ません。なので建前は常に本音の抑圧でありストレスです。建前を維持しつつも、大義名分を工夫することで本音が受けてきたストレスを解放する道を残すことで、日本はバランスを保ち秩序を維持してきた文化です。建前を無くすことは大義名分という限定を不要にすることであり、本音を無制限に晒すことが出来るようになることです。そしてそれは武力権力(=武士の刀)以外には建前と体裁しか本音を制限するものが無い文化で育った日本人にとって、体裁という制限の無い匿名世界(Wikipedia)はイコール、武力権力のみが支配する世界と同義なのです。ブロックという武力以外に解決方法が無いなどという世界は、Wikipediaが理想とする世界ではありません。日本人がもっと熟成し、武力権力でも建前でも体裁でも法でも単一の観点への帰属意識でもない「何か」の為に自律出来る者が圧倒的大多数になるまで、建前は残しておくべきだと思います。少なくとも、建前があってさえ管理者の仕事が手が足りなくなるほど沢山発生する現在はまだ。
私が否定するのは、多数者の「ゴリ押し」や少数者の「ゴネ得」であり
「ゴリ押し」はとりあえず防げていますね、このままでも今まで通り「それなりに」防ぎ続けられることでしょう。ですが「ゴネ得」は防げていません。解決方法を考える必要があります。ですが「ゴネ得」を防ぐ為に「ゴリ押し」を防げなくなるようにしないでくれよ、ということです。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年8月25日 (木) 09:57 (UTC)
ミートパペットという呼び方を、Wikipedia:多重アカウントにしたがって慎重になっていただくよう要望しています。多数派形成と言い換えられるなら問題はないと思いますが、ミートパペットには不正あるいは否定的な意味合いがあり、両者は必ずしもイコールではないことにご留意ください。
さて、少なくとも「ゴリ押し」と「ゴネ得」を支持しない点をご理解いただけたことに感謝します。私は議論の最初からそういう趣旨のコメントをしているつもりなのですが、こんなに通じないとは思っていませんでした。今回、英語版を眺めたことで、一部分でなく全面改訂を検討すべきだろうと思い直したので、あらためて下に述べます。--みっち 2011年9月11日 (日) 03:00 (UTC)

コメント賛成反対以前の立場で観ても首を傾げざるを得ない文案です。管理者の立候補など管理系の手続きはここで論じる問題ではないと思いますし、後段は少数派が問題行動を起こした場合のみを論じていますが、多数派が問題行動を起こした場合についてはどうなのでしょうか。--Truesight 2011年8月24日 (水) 16:23 (UTC)

賛成反対以前の立場とは面白いことをいわれますが、Truesightさんはノート:南京事件 (1937年)における論争の一方の当事者であり、そこから関連するいくつかのコメント依頼やこの議論にも追いかけてきて論争を繰り広げておられるわけで、あなたの立場はこれ以上ないくらい明瞭でしょう。念のためお伺いしますが、「合意は必ずしも全会一致である必要はありません。」には同意されるのでしょうか。これが修正案の前提です。同意されないなら、文案について意見交換する意味がありません。一応同意だからこそ内容にコメントされたものとして続けますが、「管理者の立候補など管理系の手続きはここで論じる問題ではない」とは、どのような理由によりますか? 管理系では合意形成は不要ですか? 後段のご質問には「多数者は、相手が少数であることをもって、相手の意見を否定・排除してはいけません。」と書いています。「多数派が問題行動を起こした場合についてはどうなのでしょうか」とは、罰則でも設けろと言う趣旨でしょうか? 質問の意図を明確にしてください。--みっち 2011年8月25日 (木) 07:21 (UTC)
確かにわたしはノート:南京事件 (1937年)の一方の当事者であり、他にも複数の議論を抱えてますがそれはノート:南京事件 (1937年)の為ではありません。それに論争の一方の当時者というのであれば提案者であるDwyさん自体もそうです。
>合意は必ずしも全会一致である必要はありません。」には同意されるのでしょうか。これが修正案の前提です。同意されないなら、文案について意見交換する意味がありません。
同意しません。しかし、同意しなければ、意見を述べるなというのはちょっと違うと思います。確かに、当初わたしはこの文案にはレスするつもりはありませんでしたが、改めて、提案内容は別とし一般的なルールの条文として捉え、「賛成反対以前の立場で観ても」ちょっとどうかなと思ったので見解を述べさせていただいたのみです。
>管理系では合意形成は不要ですか?
いえ、必要です。ただ一般的な記事のノートで時と場合によっては行われる投票行為と確立した手続きに沿って行われる管理系の投票行為は別物であり、一般的な記事のノートで行われる投票行為を規定するルールとして、そのような例外的な投票を例にあげるのは疑問だと述べているのです。極論、不適当な例をあげてしまっている文案だと思えるということです。
>後段のご質問~
「「全会一致」を盾としてあくまで反対を唱え続ける」ことを行いうるのは少数派に限りません。全会一致の原則がある以上、多数派もこれを行いうるし、そうした行為により少数派を「いつまでも納得しない」少数派と見せかけることさえ可能です。ご提案の文案は「いつまでも納得しない」行為は少数派のみが行いうるものとの予断の上に作成されたものであり、ルールとして掲げるに十分な品質なものでないと思います。
先のコメントは上記をソフトに表現したつもりだったのですが、今回はご理解をうるためにやや辛辣な表現となってしまったことをご容赦ください。--Truesight 2011年8月25日 (木) 13:56 (UTC)
いろいろ考えたのですが、「合意とは何か」という文脈では、誤解や悪用を防ぐためにシンプルな表現にしたほうが良いという考えに至りました。投票を思わせる内容は、例示であっても誤解を招くかもしれません。したがって、英語版の「What consensus is」の冒頭にある文章を元に、以下のような文面にしてはどうかと思います。
合意は必ずしも全会一致であるとは限りません。異議のないことが理想ですが、それを実現できないこともあるでしょう。ただし、単に多数派が賛同しているという理由だけで、合意が形成されるわけではありません。
この一節を「これがウィキペディア…合意の目的です。」の後に付け加える形になります。実際に多数派と少数派がどうやって合意を作っていくのかについては、ここで扱うことはないと考えます。--有足魚 2011年9月1日 (木) 10:56 (UTC)
うーん、「合意とは(語意の上から当然に)全会一致である、がWikipediaではそうではない」みたいな記述(「必ずしも」がこういう曲解を産むと私は考えています)ではなく、「合意とは(語意の上から当然に)全会一致である」ということを前提に、百科事典編纂の障碍となる場合には全会一致ではなくとも云々みたいには出来ないものですかね。或いは「そうではない場合もあります」みたいな。まぁ、実際そういう書き方をするとまたわざわざ書かなくてもいいんじゃね?的なことを(私自身が)言い出すような気もしますが。--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月1日 (木) 11:47 (UTC)
「合意は全会一致が理想ですが、そうではない場合もあります…」のような書き出しでも、個人的には問題ないと思います。--有足魚 2011年9月2日 (金) 13:06 (UTC)

ようやくPCが戻ってきました。お待たせしてすみませんでした。また、コメントを寄せていただいたみなさんに感謝します。ひとつひとつレスポンスを予定していたところなのですが、この間考えた結果、この修正問題は仕切り直しが必要で、このまま続けても議論が無駄に費やされるだけではないかと思い至りました。というのは、自分でも修正案の収まりの悪さが気になっており、あれこれ考えましたが、ガイドラインの他の文章と整合が採れるようなものにはなかなかなりません。それで、英語版ではどのような組み立てになっているのか参照したところ、この文は第1節「合意とはなにか」の冒頭にあり、この節自体は「プロセス」、「合意のレベル」、「合意は変更できる」、「例外」の4つの節で構成されています。私が考えていたような例外規定は、すでに本文に組み込まれているようなのです。なお、英語版にはこの補足的文書en:Wikipedia:What is consensus?があり、ここでは合意は多数決でないだけでなく、全会一致でもないとされていることも注目すべきかと思います。また、第2節「合意形成」は、「ノートページでの合意形成」、「外部の意見を募集しての合意形成」、「権限利用者・コミュニティの介入」、「合意形成の落とし穴とエラー」、という節構成です。英語は得意でないのでタイトル訳は妥当でないかもしれませんが、日本語版の「合意は多数決ではありません」が節タイトルとしては存在しないことをはじめとして、現行日本語版とは異なる組み立てになっていることがおわかりかと思います。

したがって、一部分のみ導入という形には無理があり、英語版の全体像及び趣旨を明らかにした上で、改訂するかどうかを総合的に判断する必要を感じます。もちろん、調停制度などが機能している英語版との事情の違いがあるので、すべてそのまま受け入れることにはならないかもしれませんが。同時に、これによって下で何度めかの提案が繰り返されている「合意は変更できる」についても統合的に解決できるかもしれません。現在、Kurzさんに英語版の全文翻訳についてご相談させていただいており、全面改定の提案をいただけるとありがたいと考えています。以上により、修正案自体は取り下げます。有足魚さんにはせっかく具体的な文案をいただいたのに申し訳ありません。この部分の改訂文の候補として、仕切り直し後にひきつづき検討ということで生かせればと思いますが、いかがでしょうか。--みっち 2011年9月11日 (日) 03:00 (UTC)

自己レスです。残念ながら英語版の全文翻訳についてはKurzさんに断られました。こればかりは自分の手には負えないので、DwyさんとSweeper tamontenさんのお二人に改訂版のたたき台を作っていただくということでお願いできないでしょうか。お二人とも英語版からの導入を提案しておられますし、「全会一致に限らない」ことと「合意は変えられる」ことは表裏一体といえるくらい関係が深いので、協調可能ではないかと思いますが。--みっち 2011年9月12日 (月) 10:06 (UTC)
たたき台を作るのはやぶさかではありませんが、完成期限については、ちょっとお約束できません。始めればすぐに終わりそうな気もしますが、途中で躓いてしまうとすごく時間がかかりそうな気もします。(それから、Consensus can changeのところは、やっぱりいやだなあ。あそこは、その部分だけ取り出して見ると、かなり過激な解釈も可能なんですよね。でもまあ、それは後から考えます)--Dwy 2011年9月13日 (火) 16:16 (UTC)
英語版の全文翻訳は以前に行っていますので再度行うことに抵抗はありません。人からコメントをもらったら答える立場なので期限は設定できませんが、場所は別の節を用意するまではここで間借りするということでよろしいでしょうか?なお、目下の私の義務は「合意が変更できるとの記述を追加する提案」において、その旨の記述をガイドラインであるWikipedia:合意形成に置くことに反対している方の理由と根拠をまとめ、一般にわかりやすい情報として提供することと考えています。私の用意したまとめの不備についての会話をみっちさんにお願いできれば一般に受入れやすいまとめを用意できるものと考えます。英語版の全文翻訳が終了した後にこちらの方の協力もお願いできませんか?
調べてみましたが、私が中心となってThis page in a nutshell(この文書の要旨), See also(関連する文書)以外の全訳を行ったのが2009年6月です。一連の作業においてPenn Stationさんに援助していただきました。注意を要する「合意は変えられます」と「例外」以外を本文に入れておいたところ、他の方たちの合意でガイドラインとなりました。なお、私たちの訳以外の要素として「合理的な期間〔通常は168時間程度(約7日間・約1週間)が妥当でしょう〕・・・」があります。これは「2009年11月30日 (月)までの議論」の最後に記録があります。この内容の妥当性については疑問もありますが、ある論点に関する議論が時間を隔てて複数存在することはよくあることです。私も「合意は変えられます」の提案を複数回行っています。このような議論を期ごとに区切る為に「合理的な期間」は有効と考えています。期間の長短に関しては現在Wikipedia:井戸端/subj/「ノート:南京事件 (1937年)」他のローカルルールについてでも論議されております。「合理的な期間」に相当することを議論の参加者が決めておかなかった場合に対処する為に有効と考え、その168時間程度の根拠が薄弱にも関わらず議題にもしませんでした。現在のWikipedia:合意形成はこのような状態です。後半のConsensus-buildingはWikipedia:論争の解決のサブセットが置かれている形式です。この部分は日本語版の「Wikipedia:論争の解決」の事情を考えると厄介ですし、まずは「Wikipedia:論争の解決」の方の見直しからでしょうか?


一方、私は「合意の変更」に関する情報をどこかに置きたいと考えていますが、合意の変更に関しての議論もWikipedia:井戸端/subj/「ノート:南京事件 (1937年)」他のローカルルールについてで行われつつあるようなので「合意の変更」に関する案内の資料となると考えております。
Dwyさんは「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」旨の記述を追加する提案をしていますが私の調べた範囲では英語版ではこの記述のために議論があったことはなく、そのためDwyさんの意見のみで議論が進んでいます。元にするつもりだった英語版の議論がないためにDwyさんの主張には既存のウィキペディアとの整合性における矛盾を解決する手段が欠けています。何が欠けているかは世界最狂の魔法使いCray-Gさん他の方に指摘されつつありますので、欠けている部分が解決されれば「合意は必ずしも全会一致でなくてよい」とする文面が具体的な意味を持つものとなりますが、例えば「真摯な努力を尽くしてもなお合意に至らない場合」が実際には「合意に向けての努力がまだまだ足りない」とか「Wikipedia:論争の解決の手順を尽くせ」という反論は常に可能であるということもDwyさんが言っているので事実上「真摯な努力を尽くしてもなお合意に至らない場合」は存在しません。存在しない場合に行う多数決のことを論議する意味はありません。多数決が必要と言うなら、まずは「いつ」多数決が必要になるかでしょう。「その時点までにあらゆる議論が尽くされた状態」との言葉もありますがこの定義についての合意もありません。やはり通常の合意形成の代わりとしての多数決を使用する機会が確定されないままで議論が続いています。
また、私はローカルルールの存在がウィキペディアで許されるのかということも考えています。ローカルルールは合意で成立しますがそのローカルルールとウィキペディア全体のルールが矛盾する際にはローカルルールは無効となるのか、矛盾する一部のみが無効となるか(この場合にはローカルルール内部のバランスが崩れる心配があります)、それともローカルルールは依然として有効なのかですが、この点についても提案したいのですがまずは「合意の変更」に関する提案を何らかの形で収束させた後です。--Sweeper tamonten 2011年9月14日 (水) 03:15 (UTC)
ありがとうございます。助かります。お二人に理解いただけるといいのですが、「合意は変えられる」は「全会一致に限らない」の保険というか代償措置的な捉え方ができると思っています。つまり、全会一致でなくラフコンセンサスを採用することで「合意」がこれまでより容易になるとすると、それに伴って、「合意」が行き過ぎであったときの是正方法を担保する必要性が増す、ということです。そういう意味で「表裏一体」と表現しました。現状は逆で、全会一致が原則として強調されているために「合意の尊重」の比重がきわめて大きく、「合意の変更」が浮いた存在となっているのではないでしょうか。このあたりのバランスを取ることで、納得性の高い案になっていくのではないかと期待します。改訂のテーマを「硬直」から「柔軟」への移行と捉えてもいいかもしれません。
議論場所はここでも構わないと思いますが、このノートページもすでに相当な量になっており、お二人が仕切り直しに同意されるなら過去ログ化か改定案についてサブページ化した方がよい気がします。
ここからはSweeper tamontenさんへのお返事です。協力の件については、私にできることならしたいと思います。ただ、「一般にわかりやすい情報として提供」というものが私にはよくイメージできません。義務といわれますが果たしてそうなのですか? 率直に申し上げて、Sweeper tamontenさんの文章のいろいろなところが私にはわかりにくく、例えば上の文「私の用意したまとめの不備についての会話を……」がほとんど理解できません。わかる範囲でならお手伝いできます。すでに述べたように、「合意は変えられる」については、ガイドライン全体の組み立てや前後のバランスの関係で位置づけや重みが変わってくると思いますので、部分だけでなく、全体像からもフォーカスさせていくのが回り道のようで案外着実ではないかと考えます。--みっち 2011年9月14日 (水) 11:25 (UTC)
「合意は変えられる」は「全会一致に限らない」の保険というか代償措置的な捉え方が~~
三回読み直して漸く理解が出来ましたよ。ただ何と言うか、私は其処に『「全会一致に限らない」でもいいよね、どうせ「合意は変えられる」んだし』という「合意軽視」の予兆を嗅ぎ取ってしまいます。ある程度の経験を積んだ、所謂分別が付く人間が「腹の底で思っている」分にはいいのですが、公の文章に載せることは新参者を混乱させると思うのです。
まぁ、私が「合意が変えられることは字義からして当然」という考え方を持っている所為なのかも知れませんが。とりあえずWikipediaが「誰でも編集出来」て且つ「全員で合意を形成」するという気狂いじみた理念を守るには、厳しい方が良いと思うのですがね。現実的なんてことを言い出したら、そもそもその気狂いじみた理念自体を棄却するのが最も現実的な選択肢なわけですから。
「一般にわかりやすい情報として提供」というものが
「新参者向けのガイドライン」と言う意味です。右と左ぐらいしかわかっていない迷える新参者に対して、Wikipediaの理念とは何かを説明する為の情報です。「合意は変えられる」の件でも本件でも、Sweeper tamonten氏の行動は極めて安定的であり一貫しています。
義務といわれますが果たしてそうなのですか?
新参者を教え導くことは先達の義務でしょう。その義務(合意は変更出来ると追加すること)を果たす為に必要な全てもまた、やはり義務だと思います。私はその義務を「井戸端に出没する困ったちゃん」の相手をすることで果たそうと考えているわけですがね。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年9月14日 (水) 17:49 (UTC)
英語版の内容を全般的に取り入れることには賛成です。表現、解釈などについて日本語版に導入するうえで問題がありそうな箇所は、個別に議論して修正できる範囲であろうと考えます。合意形成という考え方はウィキペディアにとって重要なものですが、「ウィキペディアの理念」はあっても「ウィキペディア日本語版の理念」があるわけではないと思うためです。--有足魚 2011年9月15日 (木) 17:18 (UTC)
有足魚さん、ご理解いただきありがとうございます。では、全訳をお待ちします。もちろん期限は切りませんので、よろしくお願いします。--みっち 2011年9月16日 (金) 10:30 (UTC)
利用者:Sweeper tamonten/合意形成で作業を開始しました。--Sweeper tamonten 2011年9月16日 (金) 19:19 (UTC)
利用者:Sweeper tamonten/合意形成の作業は終了しました。--Sweeper tamonten 2011年9月24日 (土) 20:22 (UTC)
一応利用者:Dwy/合意形成に「たたき台」ができましたので、後は煮るなり焼くなり、皆さんのお好きなようにしてください。--Dwy 2011年9月23日 (金) 03:42 (UTC)
お二人とも、ありがとうございました。読ませていただきます。ただ、上の議論を拝見すると、お二人のご意見が一致していないようです。同じ英語版に書かれており互いに関係もしている二つの記述のうち、一つは賛成だがもう一つは反対ということでは、統合的な提案にはなり得ません。私としては、全文翻訳による改訂案の提起がこれまでの疑問に応える形ではないかと思いますので、まずはお二人の意見のすり合わせをお願いしたいところです。ついでにいえば、上の議論はもはやほかに誰もついてこれないような状況になっているのではないでしょうか? いい加減に切り上げていただくか、でなければつづきはメールででもやり合っていただき、こちらには要約と結論のみ示していただくのがよいと思います。もし新たに参加しようとする利用者がいたとしても、これだけ長いログを全部読まないといけないとすれば逃げ出すでしょうし、まず私自身がうんざりしているので、口出しは当分差し控えるつもりです。--みっち 2011年9月27日 (火) 10:10 (UTC)

Sweeper tamontenさんとDwyが並行して英語版の翻訳作業を進めてきたわけですが、「二人の意見が一致していない」ので「総合的な提案にはなり得ない」というご指摘がありました。「まずはお二人の意見のすり合わせをお願いしたいところ」ということなので、少し確認・調整を試みたいと思います。

Sweeper tamontenさんは、英語版の"Consensus is not unanimity... a majority decision must be taken"のところに引っかりがあるようですが、私の知る限り英語版でConsensus=unanimityという解釈だったことは一度もありません要するに私の理解は、当該箇所の記述は、方針文書の文言改訂の過程において一時的に消えてしまっていたが、その後しばらくして、この重要な脱落に気付いた人が記述を復帰したというものです。つまり、"Consensus is not unanimity"自体は常に一貫してコミュニティの合意事項だった(だからこそ、議論もなく当該記述が追加され、その後、誰もそれに文句をつけなかった)ということだと思います。そのような経緯は、前にその一部を引用したen:Wikipedia talk:Consensus/Archive 10の議論の流れをざっと追っていけば何となく見えてくるはずだと思うのですが、Sweeper tamontenさんのご意見はいかがでしょう?--Dwy 2011年10月5日 (水) 15:37 (UTC)

英語版の"if this proves impossible"のところが気にかかっています。いつでも合意への努力が足りないと言えると考えれば、ifの状態はないかもしれません。--Sweeper tamonten 2011年10月6日 (木) 04:50 (UTC)
「多数決が必要な場面の定義」について、en:Wikipedia:Consensusには"if it proves impossible"としか書いてないですし、他の方針文書にも特に詳しい記述はないと思います。要するに、全会一致ができそうにないときは(「努力が足りない」とか、全会一致ができない理由等を云々することなく)majority decisionに行くということだと思います。それでen:Wikipedia:Consensusは英語版の方針として支障なく機能していますから、私としてはあまり問題を感じません。Sweeper tamontenさんが、英語版に存在しない「多数決が必要な場面の定義」を必要とされる理由は何でしょう?
(「努力が足りない」についての疑問は以前の私の発言に端を発しているのだろうと思いますので、一応私の理解を記しておきます。「努力が足りない」に対しては、「じゃあ、どうすればいいの?」の反問が有効です。それに対して具体的な回答がなければそれまでです。もし具体的な回答があれば「じゃあ、ちょっとそれをやってみよう」になりますが、それなりの手間をかけてやってみて結局ダメなら「やってみたけどダメだった」または「それを実行するのは無理だった」ということで、"proves impossible"に行き着くことになります。要するに「死ぬまで努力する」必要はないわけで、合理的な期間中にできなければ「不可能」ということだと考えています。)--Dwy 2011年10月6日 (木) 13:24 (UTC)
「じゃあ、どうすればいいの?」に対しては「第三者も容易に議論の内容を理解できるまとめを用意してください」で済むでしょう。まとめをしている過程で新しい考えが浮かんだりもする可能性がありますし、まとめがあれば第三者が主な議論の参加者に質問をしやすいと思います。当事者が思いつかない解決策を第三者から引き出すためにもまとめの作成をお願いしたい。当然、議論の参加者が納得するまとめにする必要がありますが。議論に参加している各人が疑わない判断基準を求め、難問は小さな部分に分けて考え、議論を簡単なものから組み立て、見落しがないまで議論することを求めることを確保する為には第三者にも議論の内容が容易に判断できるまとめが必要でしょう。これは議論の本質が何かを明らかにすることを求めているのですが、これがなぜ必要かは議論において意図的に議論の本質から離れて論破されることを避けようとすることがあることも理由の一つです。--Sweeper tamonten 2011年10月6日 (木) 22:53 (UTC)
既に本件提案者から対話拒否されている身ですのであまり発言したくなかったのですが、あまりにも気になったもので一言。
Dwy氏>「努力が足りない」に対しては、「じゃあ、どうすればいいの?」の反問が有効です
とりあえず相手を黙らせるには有効ですが、これは誤った消去法と呼ばれる誤謬(意図的にやれば詭弁)の一つです。命題Aを証明する為に例えば他の選択肢B、C等を挙げ、BとCとを否定的に証明することで「故にAである」と結論する手法です。これは単に否定的に証明する順序を変えることで、BもCも証明出来るので、論理的に矛盾していて証明になっていません。つまりAとCを否定的に証明すれば「故にBである」という証明になるわけです。消去法を用いる場合には、全ての選択肢が列挙されていることと、最後に残される命題が否定的に証明されないことの両方が満たされていなければなりません。
Sweeper tamonten氏>当然、議論の参加者が納得するまとめにする必要がありますが
全文に渉り激しく同意なのですが、非協力的な議論参加者(=何が何でも自論を通そうとする参加者)が存在することが本件提案の起因なのです。そういった参加者は、纏めや確認に対して協力を行ないませんので、議論の参加者が納得するまとめを作る作業への協力が得られません。それどころか「~~で良いですか?」等の質問に対して答えずに他の話を始める等の妨害的な行動を取る場合さえあるのです。特に、確認されることで矛盾や詭弁が露呈することがわかっている場合、つまり、意図的に議論の本質から離れて論破されることを避けようとする議論参加者は。
その場合の対策が無いならば、やはりそれも「実現不能」な案の内の一つになってしまうと思います。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月7日 (金) 01:05 (UTC)
「努力が足りない」に対しては、「じゃあ、どうすればいいの?」の反問が有効です以降も含めて読むと、詭弁とは違うように読み取れます。Sweeper tamontenさんのような諸々の解決策を行った上でなお話がつかないとき、つまり"proves impossible"になったときの話でしょう。今の話はifの話とそうでない話なので、話が噛み合わない(議論の本質から離れている)ように見えます。しかし議論をし続けるべきという極論と議論をし続けていきづまったときという極論になっていて、難しい議論になるのも仕方がないですね。お互いが考える議論の本質が異なっているので。
Sweeper tamontenさんはまとめをすべきだと機会があるごとに言っていますが、それを記述したり広めたりしたいのでしょうか? であれば独立して話をした方がよいでしょう。まとめ自体は有用だと私も思いますが、新規合意でもそれは変わりないので#合意が変更できるとの記述を追加する提案で話していたのは場違いに思えましたし、この議論でも上に述べたように噛み合っていないように感じます(手の一つとして挙げるのは問題ではないのですが……)。少なくとも今の話では、「第三者も容易に議論の内容を理解できるまとめ」を用意したら済むなんてことはありません。--NNMM 2011年10月8日 (土) 01:11 (UTC)
議論をし続けるべきという極論と議論をし続けていきづまったときという極論になっていて
今日井戸端で知ったばかりなのですが、WP:LOVEという頁があります。其処で言うフレーム戦のようになっているのではないでしょうか。
私は任意の時点で調査投票は(大勢を巻き込むのでコストが高くつくにせよ)可能だと考えていて、また多数決導入にも前向きな気持ちで対話しているつもりです。私は「議論をし続けるべき」と「多数決を導入する」は両立可能だと思うのですが、Dwy氏は何か「多数決を導入して議論を終結させること」のような目的意識を持っているのか、相手の発言内容を否定することに終始してしまうので極論や一般論へと移って行ってしまうのではないでしょうか。そうではないことを確認したかったのですが。
以降も含めて読むと、詭弁とは違うように読み取れます
はい、其処だけを切り取って見てみればおかしな話ではありません。ですがDwy氏は他の具体的な案(委員会とか)は無論のこと他の案を探すことまで全て否定し、故に(調査投票ではない)多数決を導入するより他に無いと主張しているのです。
そもそも実際問題として「じゃあ、ちょっとそれをやってみよう」にならないからこその本件提案なのではないのでしょうか。つまりDwy氏が言うようにWikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票が有名無実になっているが故の。
そのことは私も問題だと思いますが、一旦投票に移れば後は一方の意見が明らかに多数派であるなら、少数派が多数派に従うのは自然なことだとか多くの人が賛成してくれたということは、その意見が優れた意見だということですだとか言い出して議論を強引に終結させるつもりで投票が行なわれることを避けられるのでない限り、Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票はますます有名無実化していくと思うのです。調査投票はもっと気軽に行なえるものだと思うのですが、そういった支持者の多寡で議論を代替する(=支持者の多寡で論拠の正当性を判断する)ことを正当化する人達が居るから、投票が有名無実化しているのだと思うわけです。
Dwy氏も最初は記述バランスの是正だとか既存のルールの解釈の確認だとか強制ではなく「再考を促す」で充分だとか言っていたわけですが、どうも(調査投票ではない)多数決以外の解決方法があるか無いかに争点を移そうとしているように思えます。
要するに、言ってることとやってることとが違うわけですよ。Wikipedia:論争の解決#ステップ4: 投票を有効にするだけなら考えれば色々とあるだろうとは思うのですが、直ちに導入可能な完璧なものでない限り何とかして否定して「故に(調査投票ではない)多数決を導入するより他に無い」と結論付けようとするので方向性すら話せない状態なのです。
~~を用意したら済むなんてことはありません
「済む」と言っているわけではないでしょう。「議論が混迷しました。多数決以外に解決に向かわせる方法は無いですか?」→「まとめを作ることは大抵の場合有効ですよ」という話です。それで「必ず解決する」と決まったわけでも無いですが、同時に「故に多数決以外の解決方法は無い」と纏めも作らない内から(努力もしない内から)反論出来るものでも無い、という話です。Sweeper tamonten氏はどちらかと言うと「その程度の努力もしない内から多数決がどうとかこうとか、性急に過ぎるのではないか」と言っているのだと思います。
議論は「論点を整理する」行為なので、ある程度まで進めば纏めを作ることは比較的容易なはずです。ですが話を逸らしたり別の話を始めたりといった霍乱行為により議論が混迷した場合は容易ではなくなります。「混迷したから全部うっちゃって(=議論に代替して)多数決で決めようぜ」では「努力が足りない」→「じゃあどうすればいいの?」→「纏めを作る等してそれらを整理し再構成する努力ぐらいはしろよ」という話でしょう。Sweeper tamonten氏は、それを「必要条件である」と考えていて且つ「恐らくは十分条件であろう」と推測しているのだと思います。
Sweeper tamonten氏
纏めが作られていることは多数決に移行する為の必要条件である(多数決に移行する場合には必ず纏めが作られている必要がある)
纏めが作られていることは多数決に移行する為の(恐らく)十分条件である(纏めが作られているならば多数決に移行する条件は(恐らく)充分に揃っている)
私ことCray-G
議論が尽きていることは多数決に移行する為の必要十分条件である(実際、議論が尽きていることを確認出来た段階で既に纏めたも同然の状態である)
上記のように私の主張とは少々異なりますが、議論が行き詰って尽きるところまで行くことが出来ないのであれば、せめて纏めを作る程度の努力は必要だと思います、議論を終結するにせよ継続するにせよ。
ただ、そういった行為に非協力的な人(=ゴネる人)が居ることがそもそもの問題なのですがね。それに加えて、支持者の多寡で議論を代替することに反対する人まで居るから話がややこしくなっているので、本件提案に至った(支持者の~~で反対する人だけでも黙らせようとした)わけですが。
世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月8日 (土) 08:43 (UTC) へのいち氏の指摘により修正--世界最狂の魔法使いCray-G 2011年10月12日 (水) 02:20 (UTC)
みっちさんの「まずはお二人の意見のすり合わせをお願いしたいところ」にお応えする形で、Sweeper tamontenさんとの意見確認・調整作業を試みていたのですが、いきなり乱入して話を明後日の方向に持っていく人がいては、それもままなりません。私自身かなり頭に血が上った状態になってしまっているので、悪口雑言が口から出てしまう前にしばらくこのページから離れ、利用者:Dwy/合意形成利用者‐会話:Dwy/合意形成を少しづつ整備していくことで、間接的に議論に参加しようと思います。--Dwy 2011年10月8日 (土) 11:23 (UTC)"
少なくとも10月5日からのこのやりとりでは世界最狂の魔法使いCray-Gさんが推測するSweeper tamontenさんやDwyさんの意図は読み取れず、さらに世界最狂の魔法使いCray-Gさんの先のコメントで後のコメントのような問題を指摘するものではありませんでした。過去の議論は多数決について延々と続いていて(正直あれは読めるものでは……)必ずしも全会一致でなくてよい≠多数決・調査投票と考える身としてはどうしたものかと思っていましたが、翻訳を元にした改定の作業を進める中でよい流れになるといいですね。--NNMM 2011年10月10日 (月) 08:40 (UTC)
とりあえず、「多数決せよ」という部分は一時棚上げでよいのではないでしょうか。個人的に "but if this proves impossible" というのは、後述の合意形成のプロセスがどれも機能しなかったときのことであろうと考えています。しかし、日本語版には調停などの制度がないので、今すぐ同じ考え方を持ち込むことは難しいと思えます。合意は全会一致でないということを明文化することや、合意形成のプロセスが詳しく説明されるだけでも大きな前進であると思います。
実際には、英語版の "Consensus-building by soliciting outside opinions" の節で調査投票についての記述を見ると、調査投票で合意が決定しうることは方針の想定内であるように見えます。重要なことは単なる票数ではなく意見の質とされており、自分の言葉で投票した理由を説明できないのならば、有意な投票とはみなされないようです。こういったことはWikipedia:投票は議論の代用とはならないで詳しく説明されていることであり、平行した整備が必要に思えます(記事名の議論に関して例外を設けることも検討できるでしょう)。--有足魚 2011年10月8日 (土) 19:22 (UTC)
合意は全会一致でないということを明文化すると合意が形成されたとするのは例えば95%の参加者の合意が得られたというように何らかの数字が示されることになるのでしょうか?--Sweeper tamonten 2011年10月9日 (日) 16:40 (UTC)
そんなことはないでしょう。先述したように「重要なことは単なる票数ではなく意見の質」であって、票数があるラインから1票でも多ければよいと言う性質のものではないはずです。ただし、多数の批判を浴びながら論理的な反論ができず、同じ意見を繰り返すのみであったり、相手の揚げ足を取って言い負かそうとしたり、論点をずらして議論を長引かせてばかりだったり…つまりいつまでも納得しない態度を取る人物の意見を考慮する必要はなくなるでしょう。多数決を具体的にこの方針に組み込むには、投票のうちどれを有意なもの(質の高い)とするのか、結果をどのように合意に生かすのかという点で議論が必要であり、調査投票関連の方針の整備次第だと思います。--有足魚 2011年10月10日 (月) 20:36 (UTC)
有足魚さんからは--とりあえず、「多数決せよ」という部分は一時棚上げでよいのではないでしょうか。--との話がありました。しかし、合意は全会一致でなくてもよいということを明文化すべきとしていらっしゃいます。除外すべき少数意見を見極めて合意形成される場合が示されるべきということが趣旨でしょうか?そうであれば除外すべき意見という文章を用意することも視野のうちです。--Sweeper tamonten 2011年10月11日 (火) 10:28 (UTC)
NNMMさんのコメントについてこの場でどのように答えるべきか考えておりました。まとめを求めるのはWikipedia参加者の協力が得られやすくするためであり、直ちに合意形成につながるものではありません。議論の中心となっている二人もしくは数人のみが議論の流れを理解して長大な議論の記録を作り続けている状態では合意形成のためのコメント依頼をしてもコメントが得られにくいのでまとめを求めています。まとめについての基本情報としてWikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメントには「議論が起こっているページにこれまでの議論内容の要約を示してください。これは、他の人がどのような点で議論になっているかをつかみやすくするためです。」とあります。これが守られて欲しいです。このためには例えば合意形成のためのコメントを見張って個別に注意を促す手もありますね。時間があれば誰にでもできることです。こんな手段はうるさがられるだけでしょうか?長大な議論を読ませることを第三者に強いることは避けたいのですし、それは問題の核心を曖昧にさせてしまいかねないので議論の成果としての要約を議論の参加者に求めたいと考えています。要約の良い例や要領がまとめられたものがどこかにありませんかね。そういった役立つ情報をWikipedia:コメント依頼#合意形成のためのコメントに書き加えられればと考えます。--Sweeper tamonten 2011年10月18日 (火) 17:08 (UTC)
Sweeper tamontenさんがそのような考えであることはわかっているつもりですし、個人的にもまとめは有用だと思っています(その程度の差はあるでしょうけど)。ですが10/5からのDwyさんや私のコメントではそのような話をしていませんので確認してください。
今回の場合や#合意が変更できるとの記述を追加する提案では、話の流れに沿っていないために場違いになっています。ちゃんとやればこの提案に絡めて話すこともできる話題ですし、セクションやサブセクションを立て話題を切り分ければ話が拡散せず意見もつくのではないでしょうか。ただ今は英語版の翻訳に話がいっているので、すぐにはやらない方がいいと思いますが……。--NNMM 2011年10月19日 (水) 14:50 (UTC)