Wikipedia‐ノート:削除依頼/Category:親日家
>カテゴライズする基準が曖昧、基準を明確化するのも困難
それぞれの人物のページに「親日家」という記述がある。親日家であるかどうかの判断は、各人物のページの議論で行われれば十分。「親日家」という語自体はマスコミでもよく使われており、一般的合意があるのは明白。念のため定義を「親日家として有名な者」とすれば曖昧な者は排除可能。
>政治的な親日家
政治的思惑による場合は「親日家」ではなく「知日家」。「親日家」と呼ばれる人は、個人として日本文化・社会への愛情が深い場合に使われる。シラクは明らかに親日家だが、ブッシュが親日家かどうかはブッシュのページでも疑問視されており、このように政治的親日家は排除されうる。経済的親日家も同じ。必要なら定義を「個人として日本文化・日本社会への愛情が深いことが有名な者」と変更することで対応可能。
>作成者の意図
「親日家」という語が一般的に使われているから。個人的な意図はないが、一日本人としては、日本のどこが気に入られているのか興味がある。当然「反日家」というカテゴリがあってよい。----Reedo
- 反論続き
>有名ってのはどこでって話で、明らかにってのは主観全開だし「親日家」って言葉を説明したいなら辞書ってな話だし。
>明白? 有名? 知日家? 親日家? 「愛情が深い」?
「親日家」の定義をする目的で作成したのではない。曖昧だとの批判を受けたため説明しただけ。「親日家」という語の意味については、マスコミで普通に使われていることから、ウィキでの定義の有無にかかわらず、国民多数の合意は存在している。曖昧との批判を受けて付加した言葉の付加は逆効果なので撤回し、「各人物のページで親日家とされた者」とする。
繰り返すが「親日家」であるかどうかの判断は、各人物のページで行われるべきであり、各人物のページで「親日家」と認定されているのにカテゴリ作成だけ禁止するのは不自然である。認定基準が曖昧だと主張するなら、まずは既に「親日家」認定されている各人物のページにおいて「親日家」使用削除の議論をすべきである。典型的「親日家」とされるフレディ・マーキュリー、アート・ブレイキー、ジャック・シラクを手始めに、すべての人物ページで「親日家」という語が曖昧だとして削除され、「親日家」という語がウィキから一掃され、ウィキの禁句とされたなら、このカテゴリも自然消滅するのだから。
>一覧記事を(上手に)作れば、より作成者の意図に沿うものになる
リストとカテゴリが並存しているケースも多いので、カテゴリ削除の直接の理由にはならないと思います。将来、カテゴリ内のページ数が増えて分類・分析が可能になったら、代表的な人物をリスト化することは有意義だと思います。
日本に興味を持つ外国人が、ウィキで「親日家」カテゴリを見つけ、いろいろな人物のエピソードを知ることは意義深いと思う。そういう観点からも存続を強く要請する。
「親日家」という語に感情的に反発する者については投票数にカウントしないよう求める。この削除依頼が、単なる「言葉狩り」で終わらないよう望む。 --Reedo 2007年10月4日 (木) 22:15 (UTC)
- これまでの私(カテゴリ作成者)の意見を整理した。
1.Wikipedia:存命人物の伝記の「カテゴリの使用について」によれば、ある記事ページをあるカテゴリに分類するためには、根拠となる記述がその記事ページに書かれていなければならず、かつその記述は出典が要求される。よって、記事ページに「親日家である」という明確な記述があれば、迷うことなく「親日家」カテゴリに分類できる。逆に「親日家である」という明確な記述がなければ、迷うことなく「親日家」カテゴリに分類できない。
2.主に「親日家」という理由で有名な人物がいるため、「親日家」カテゴリは有用である。
ちなみにこのページの「○○家」一覧を元に考えると(この分類がどの程度権威あるものか分からないが)、
専門家: 運動家、音楽家、演出家、演奏家、画家、革命家、活動家、鑑定家、漢籍家、企業家、起業家、脚本家、教育家、議論家、芸術家、研究家、建築家、工芸家、財政家、作詞家、作家、作曲家、慈善家、思想家、写真家、小説家、書家、声楽家、政治家、専門家、探検家、彫刻家、著作家、著述家、篆刻家、刀圭家、陶芸家、投資家、批評家、評論家、武道家、舞踊家、文芸家、文筆家、冒険家、法律家、翻訳家、漫画家、落語家、歴史家、和算家
性格・趣味: 愛飲家、愛煙家、愛犬家、愛妻家、厭世家、感激家、感情家、嫌煙家、健啖家、好楽家、好色家、好事家、古銭家、策略家、手腕家、常識家、戦術家、蔵書家、大酒家、知日家、道徳家、篤志家、毒舌家、美食家、敏腕家、勉強家、夢想家、迷信家、野心家、郵趣家、雄弁家、楽天家、辣腕家、理想家、理論家
専門家に分類されている「○○家」は、その人の職業・業績をあらわすものであり、カテゴリ作成は有用だと思われる。一方、性格・趣味に分類されている「○○家」の有用性は様々だが、たとえば蔵書家、知日家、道徳家、篤志家、美食家、雄弁家などは、それを理由に有名な人物がいる可能性がある。
3.ある言葉が社会で流通するためには、その言葉の意味(イメージ)が共有されていなければならない。「親日家」という語がマスコミで使用されるなど広く流通しているという事実は、社会全体でその意味が共有されていることを証明している。しかし「親日家」という定義だけでカテゴリを作ろうとすると「基準が曖昧」という批判が出るということは、「親日家」という語そのものの意味に幅があることを示している。その理由は、「親日家」を一つの意味を持つ独立語と受け取るか、「日本に親しむ人」という形容詞付名詞の短縮形と受け取るかの違いによると思う。私は、日本に親しみを感じる外国人は多数いる中で「親日家」と呼ばれる場合は相当限定されていると感じるので、単なる短縮形ではないと思うが、それを証明する根拠は有していない。したがってカテゴリ「親日家」を成り立たせようとすれば、ウィキペディアカテゴリ用に工夫するしか方法はない。
そこで、Wikipedia:Categorization of people の Clearly define the category で例示されている Atheists を参考にして、定義を『外国人のうち、「親日家」を自称している者および世間一般から「親日家」と呼ばれている者のカテゴリ』に変更した。世間一般から呼ばれているかどうかの判断については、Category‐ノート:親日家 において、「各人物のページで「親日家」「親日家と呼ばれている」「親日家として有名」などの記述がある者に限られます。」と補足した。これによって、「曖昧」批判は回避できていると思う。よって私は「曖昧」を理由として削除することには反対である。
最後に、百科事典は、すべての語を説明しようとする作業に他ならない。したがって、現に広く流通している「親日家」という語について、安易に「曖昧」という理由で削除しようとする態度は、ウィキペディアにとって自殺行為だと思う。ノートでの議論なくいきなり削除依頼を立てたAkane700氏をはじめ、複数の参加者に問答無用的姿勢がみられたのは残念である。Wikipedia‐ノート:削除依頼 の「13 中立的な観点を理由としたカテゴリの削除について」においても、中立性基準濫用についての懸念意見がある。--Reedo 2007年10月11日 (木) 07:12 (UTC)
- Xmaseve氏「一発屋や独裁者と同様、一覧も無理でしょう。」への反論
ウィキペディアは、そもそも独自研究を許容しておらず、すべての記述に出典を要求している。つまり、ウィキペディア参加者が、誰某(だれそれ)を「親日家」「一発屋」「独裁者」と判断するのではなく、信頼できるソースに「親日家」「一発屋」「独裁者」と書いてあるからその人物ページにそう書き、ページにそう書いてあるからそのカテゴリに分類するということである。「親日家」「一発屋」「独裁者」という語はいずれも世間で広く使われていることからそのカテゴリや一覧は有用性があり、作成の努力を続けるべきであって、安易に削除するのは本末転倒だと思う。「独裁者」の他国語版の現状については、カテゴリより一覧が相応しいとの判断がまずあり、一覧作成のための議論がノートで続けられているということであって、中立性基準に基づいて不可能との結論が出たのではないのではないか?--Reedo 2007年10月11日 (木) 18:19 (UTC)
- 名詞と形容詞の違い
2つ上の意見に、「「親日家」を一つの意味を持つ独立語と受け取るか、「日本に親しむ人」という形容詞付名詞の短縮形と受け取るかの違い」と書いたが、「日本に親しむ人」や「親日的な人」といった形容詞での修飾は婉曲的で断定しておらず、「親日家」と名詞になった場合は断定的である。したがって「親日家」との呼称は誰から見ても親日であるとみなされる人物に対してのみ使われているので、結果として対象人物は限られてくる。--Reedo 2007年10月12日 (金) 04:48 (UTC)
- カテゴリ「独裁者」が104ものページがあったにもかかわらず、削除提案からわずか1週間で削除されてしまった。非常に残念である。再度自分の考えを述べておきたい。
「独裁者」や「親日家」といった語は、人物の特徴として広く使われていることからイメージの共有はあるのだがそのイメージに幅があり、厳密な定義が困難という特徴がある。広く使われている語なのでカテゴリや一覧の作成が有用であることは明らかだが、厳密な定義が困難であるために中立性基準に抵触してしまう。そこで、カテゴリ・一覧の作成の際の定義には工夫が必要である。
私の案は、定義を「○○と呼ばれた者。議論のある者は出典の明記がある場合に限る」とすることである。賛否両論の出典がある場合については、幅広に考え、分類可という基準にすべきと考える。
これは人々がウィキペディアに何を求めているかに関わる。Wikipedia:ウィキペディアへようこそ の冒頭には「信頼されるフリーな百科事典を、それも、質においても量においても史上最高の百科事典を」めざすとあるが、執筆者が無名であるウィキペディアが「信頼性」を高める唯一の方法は情報を大量に例示することであり、カテゴリや一覧はその重要な手段である。さらに一般の百科事典が判断をためらうケースであっても、ウィキペディアは「そう呼ばれた」と定義したカテゴリによって「逃げる」ことができるのである。このようにウィキペディアの特徴であるカテゴリを安易に削除して「角を矯めて牛を殺す」より、定義に「工夫」する努力を続けるべきである。
さらに、イメージに幅がある語の定義を明確にする作業を進めるためには、逆に、どういう風に社会がその語を使っているかを収集することから始めなければならない。その点からも定義を「○○と呼ばれた者」とするカテゴリの存在は貴重である。--Reedo 2007年10月13日 (土) 06:19 (UTC)
価値判断が入る分類
[編集]こんにちは。Reedoさんのご意見は明確であり、おっしゃるメリットも理解できるように思います。
カテゴリは一覧と異なり、記事そのものに付与するものです。いわば「レッテル貼り」の性格もあり、貼られる「レッテル」には十分考慮すべきです。記事本文では言葉を費やして説明することもできますが、カテゴリは問答無用な印象です。
「価値判断が入る分類」は、多かれ少なかれ意見が分かれる一面を含んでおり、明確な分類が困難です。その意味で「カテゴリに不適当」とされています。「独裁者」や「一発屋」は、特にそのような意味合いが強く、例えば本人や関係者が読んで不快になるのが自明なレッテルは、百科事典として適当ではないと考えます。これら2つほどではないにせよ、「親日家」という語もがこのような性格を持つと考えられているのではないでしょうか。私自身は、独裁者・一発屋カテゴリには反対、親日家カテゴリはそれほどでないという認識で賛成意見に回りましたが、上に挙げられている例を見ると、「性格・趣味」の「○○家」は全てカテゴリとするには疑問があります。
上に述べた理由から、カテゴリの定義として「○○と呼ばれた者」では不十分だと思います。「○○だと一般的に広く認識されている者(さらには、○○と分類しても異論が出にくいだろうと思われる者)」くらいの定義にしたいところですが、こんな定義の根拠(出典)は出せないだろうと思います。メリットよりデメリットが多いと感じます。
個人的には、Reedoさんの目指す目的のためには、カテゴリよりも一覧記事が最適であろうと思っています。ただ、削除依頼の議論やこれまでの削除例からすると、一覧記事への反対もありそうで、実現のためには事前の議論と合意が必須と思われます。--Yas 2007年10月13日 (土) 23:50 (UTC)