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Wikipedia‐ノート:削除依頼/80式汎用機関銃

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Wikipedia:削除依頼/80式汎用機関銃における投票から派生している議論をこちらに移しました。出発点となった投票については再掲。--ZCU会話2018年12月30日 (日) 01:13 (UTC)[返信]

  • 存続 文章表現の類似度が低いです。投稿者がそのサイトを参照して書いたのだとしても、あれこれの事実に対して著作権は及びません。著作権侵害のおそれはないものと考えます。--Kinori会話2018年12月8日 (土) 23:40 (UTC)[返信]
    • あれこれの事実を口実にするなら、転載はほぼ確実に存続になります。事実であることではなく表現が問題であり、これは「そう思わない」で突破できるところではありません。そもそも中国語版と転載元の出典である[1]をきちんと読めば、80年に設計が固まり、83年に生産型が固まったという中国の兵器開発で典型的な2段階ですし、さらに後段も中国語版出典の翻訳ですが、きちんと読めば制式化されていないことは容易に判ります。これを、制式・生産開始と取り違えたり、後段との矛盾を放置する初歩的な誤りは転載元とこの記事に共通しており、到底「文章表現の類似度が低い」などという主張が通用するところではありません。残るPKMについての部分が残存したところで、この記事はPK機関銃の記事ではないので意味はありません。英語版を引っ張ってきてから転載元を見て適当に合成しているので、定義・infoboxレベルから再作成になりますし、抜け殻同然の記事を無理矢理残す意義はないのです。--Open-box会話2018年12月11日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
      • 転載はほぼ確実に削除されます。実際に日々削除されています。しかし、文章表現の類似度が低ければ、存続になります。実際ときどきそうなっています。著作権法は、参考にすることを禁じてはいませんので、参考にしたことを証明できても、文章表現が似ていなければ、著作権侵害にはならないのです。この文がそのままだ、とか、この部分は語順を入れ替えただけだ、というような類似があるなら、削除しなければなりません。が、この件はそうではないようです。内容に問題があるなら書き換えるなり除去するなりすればよいです。--Kinori会話2018年12月11日 (火) 22:35 (UTC)[返信]
        • 転載が現実的に削除されていることと、あなたの意見の欠陥に関係はありません。「あれこれの事実」を理由にすると、転載を削除できなくなるのです。問題は表現であり、「あれこれの事実」であることは「表現の限界」を考慮するときに有効ですが、それ自体は決して理由になりません。翻案や転載が問題にならないのは、「当然の事項を普通に用いられる言葉で表現したもの」である場合になるのですし、分野の専門知識を欠く参加者が多いこの場では、その判断を回避できる「単純な事実」に限定されがちなのです。だからこそケースBで存続が考慮されるときは、表現を問わない「単純な事実」か否かが問題になるのです。
もっとも、「単純な事実」ではないものを「単純な事実」と強弁すれば存続できるという問題もあります。知識が無いにもかかわらず「単純な事実」と勝手に認定して、「単純な事実」ではないものを存続させてしまうのはありがちです。
Wikipediaは「事実」として転載を本質的に容認せざるを得ないケースがある点を鑑みてもなお、データではなく文章は転載が問題視されうる表現なのです。そして、転載が問題視されることに語順を入れ替えただけなどという限定はありません。翻案転載もまた問題になります。ほぼ同一の語に置き換えるってのは、ありがちな翻案転載の手口ですし、この程度の手口で「類似度が低い」と惑わされるようでは困ります。そしてこの文章は、事実ではない創作を翻案したものに過ぎません。元の文の翻訳レベルであれば「表現の限界」と翻訳者の創造性も考慮されます。「当然の事項を普通に用いられる言葉で表現したもの」であれば、「表現の限界」が考慮されますし、語順の入れ替えが一概に転載とはできなくなります。つまり、「当然の事項」でなければその判断基準は上がります。誤りを重ねて創作になってしまったものの翻案に「類似度が低い」を適用するハードルはさらに高くなります。--Open-box会話2018年12月12日 (水) 00:15 (UTC)[返信]
転載が削除されていることと、私の意見に関係がない? 「事実を口実にするなら、転載はほぼ確実に存続になります」とは、open-boxさんが言い出したことでしょう。本当に関係がないなら、はじめからそんなことは書かなければよろしいのです。他の意見を欠陥だと決めつける前に、自分の書いたことを読み直してください。
open-boxさんは「表現が問題です」としながら、具体的な類似を指摘することなく、「誤り」の継承を特に重視しておられます。それは表現ではなく、アイデア(アイデアの範囲は広いですが、この場合は学説)の話です。アイデアは著作権法で保護されません)。「依拠していることが証明されたとしても、表現が類似しているかどうかという問題は消えません。そして表現の類似の判断では、「コピー」と「デッドコピー」の類似や、「中越戦争」で「鹵獲」といった一致はさっぴかれることになります。ZCUさんが指摘した「事実から必然的に定まるであろう、ありふれた表現の一致」です。通常人には感得できないが専門的な自分にはわかる、という程度なら、それは結局類似していないということです。--Kinori会話2018年12月22日 (土) 22:55 (UTC)[返信]
「あれこれの事実」を理由としているのは、Kinoriさんです(2018年12月8日 (土) 23:40 (UTC))。そしてその意見により発生する問題を指摘されて(2018年12月11日 (火) 15:29 (UTC)、2018年12月12日 (水) 00:15 (UTC))、それを指摘した対手の発言からチェリーピッキングを行い、対手の主張であるかのように記載するのは、論旨のすり替えになりますよ。これでは相手を挑発し、議論を読む第三者を欺く事にしかなりませんから、そのような行為は無益です。
表現の具体的な類似は指摘しています。それは、ZCUさんの意見やKinoriさんが例に挙げられたような単なる事実の言い換えの範囲ではありません。この類似は、容易に指摘可能な論理的破綻であり、その読解には専門的な知識が不要で、なおかつまともに資料に当たれば専門的な知識がなくとも決して生ずることのない独自表現である以上、アイデアであるとすることは妥当ではありません。アイデアとするなら、「誰でも判るレベルの問題点をあえて忍ばせ、利用していることを顕在化させる」可能性の部分であり、表現それ自体ではありません。つまり、これは「通常人には感得できないが専門的な自分にはわかる」といった高度なレベルで生じた類似ではないのです。
ついでに「通常人」は常識的な知識・読解力を有さないことは意味しませんし、権威でないものに対する信用を前提とはできません。まとめサイト(wikiはこの場合まとめサイトのシステムでしかありません)を権威化し、これに拠って異常な記載を行うことをよしとする判断を「通常人」の判断と見なすことは困難でしょう。--Open-box会話2018年12月24日 (月) 02:30 (UTC)[返信]
確かに私は、「あれこれの事実に対して著作権は及びません」と書きました。しかし、「事実を口実にするなら、転載はほぼ確実に存続になります」とは、Open-boxさんが言い出したことです。どこもすり替えはありません。それに対してさらにお返事したところ、「関係ない」とおっしゃる。私は確かに関係があることを書きました。それを関係ないと言うのはどういうことですか。
また、表現の類似について、依然として具体的な指摘がないようです。説を依拠した証拠とされることを、「表現」だと主張しているだけです。また、誤りがあることを理由に、問題の外部サイトを「創作」と言い換えています。どちらも、言葉の意味を拡張して、本来含まないことまで含めたものです。人により正しかったり誤っていたりするものは、学説またはアイデアというものです。
Open-boxさんの意見と類似の主張は、最高裁までいった江差追分事件で争われました。この事件では、「江差町が最もにぎわうのは,8月の姥神神社の夏祭りであることが江差町においては一般的な考え方であり,これが江差追分全国大会の時であるとするのは,江差町民の一般的な考え方とは異なるもので,江差追分に対する特別の情熱を持つ被上告人に特有の認識である」(平成13年6月28日の最高裁判決。次の引用元も同じ)という事実認定のもとに、だからそこには著作権が発生するという判決が、下級審で出されました。独自の説だから著作権が発生するというOpen-boxさんの主張とほぼ同じですね。しかし、最高裁は、「その認識自体は著作権法上保護されるべき表現とはいえず,これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはな」い、として退けました。これが以後の裁判で踏襲される判例になっています。ウィキペディアの記事には問題となった二つの文が引用されていますので、これも見比べてください。この程度なら翻案にならないということです。--Kinori会話2018年12月27日 (木) 22:53 (UTC)[返信]
どこを根拠とされているのかはわかりました。「事実を口実にするなら、転載はほぼ確実に存続になります」とは、「「あれこれの事実」を理由としている」kinoriさんの意見を根拠にするならということであり、私の意見を根拠とする話ではありませんよ。だから、「私の意見」について述べるなら関係がないと言っているのです。つまりそこを主張し続けている限り、それは論理的な対話ではなく自らの意見の欠陥を相手に押しつけるすり替えを繰り返しているにすぎません。
判例は、このケースには不適切です。これは、kinoriさんがこの問題に対して深刻な間違いを犯しているからです。「専門知識があれば」問題点に気が付く=「異常な記載であることが容易に発覚する」→「文献執筆者が接した事実から必然的に定まるであろう、ありふれた表現の一致」ではないことが判明すると、「通常人の能力」で問題点に気がつく=「翻案転載であることが判明する」→「表現の問題」が問われるは、別事象です。「専門知識があれば」出典が明記されているため、どこが問題なのか指摘することは容易です。しかし、それは「間違いに気が付き、それを修正」する点であり、翻案転載を認識することではありません(仮に文章が完全に独自のものであったとしても、同様に難点は指摘されて改稿が行われるでしょう)。具体的な指摘はすでに行っています。それは、指摘されていないと主張することでも、表現ではないと主張することでも対抗できることではありません。事実として同一出典の中国語版、出典である新浪網(正確にはその元である少年科学画報)の表現は、「正誤」とは無関係に異なります。誤った理解に基づく主張→成都での試験(ここでも誤っていますがそれは別として)→「肝心の運用比較の部分を飛ばす」→矛盾した結論という、特異な表現は翻案後も維持されており、変更は言い換えの範囲内でしかありません。
最高裁判所の判例にある「これと同じ認識を表明することが著作権法上禁止されるいわれはない」の部分は、「事実に対する認識」それ自体であり、「表現」に踏み込んだものではないのです。これは同じ判例で「本件プロローグと表現それ自体でない部分において同一性が認められることになったにすぎず,具体的な表現においても両者は異なったものとなっている」とあり、結論部分の前では「同一性を有する部分は,表現それ自体ではない部分又は表現上の創作性がない部分」としていますね。これは「事実に対する認識」と「表現の相違・分量」の違いです。しかも一般的知見とはかけ離れた独自の解釈を元にした異常な表現の一致(今回)と、一般的知見をベースに認識次第で持ちうる解釈を基にした相違する二つの表現(判例)を同一視している時点で、持ち出した判例に無理があるのです。
もうひとつ可能性があるとすれば、出典が同じ誤りを起こしているケースです。この場合は、出典の誤りをそのまま継承したに過ぎないとみなしうるため、「文献執筆者が接した事実から必然的に定まるであろう」とできます。しかし、いまだにその確認はなされていません。
あえて言いますが、最初は類似性が低いと主張、次いで専門性の問題を主張、今度は判例を持ち出す、このように論拠がころころ変わり、自らの発言がもとになった指摘を相手の発言に付け替え、指摘されてなお繰り返す。これが誠実な議論といえるのですか? こんなことを繰り返していては、管理者が一般利用者と対等というのは建前にすぎなくなります。類似性が低いと主張することは立派な見解ですが、理解していない専門性や似て異なる判例を持ち出したことでその主張すら疑わしくなるのです。--Open-box会話2018年12月30日 (日) 00:20 (UTC)[返信]
  • 存続 著作権侵害が成立するには、少なくとも(1)依拠性、(2)類似性の2要件を満たす必要がありますが(要件は他にもありますが省略)、(2)の要件を満たしていないと思われるので、侵害は成立しないと考えます。Kinoriさんも同意見だと思います。Wikipedia側の記事と、転載元として指摘されている2文献(外部サイト、英語版記事)を対比してみましたが、確かに一致する部分は存在するものの、文献執筆者が接した事実から必然的に定まるであろう、ありふれた表現の一致でしかないことから、著作権(翻案権)は侵害しないと考えます。Open-boxさんは、Wikipedia側記事と転載元に共通する誤りがあることを、類似性を肯定する根拠の一つにしておられるようですが、著作権法にいうところの「事実」とは、真実のみならず、誤った事実や、架空の事実を含む概念なので、いくらそれを主張したところで、(2)の類似性要件を肯定する材料にはなりません(1の依拠性要件を満たす根拠にはなると思います)。—ZCU会話2018年12月14日 (金) 14:36 (UTC)[返信]
    • 誤った解釈を構築して、それを前提に立論されても困るのですが。短い文章において同一の特異な論理的欠陥を生じることが必然的であるとすることは、相応の論理が必要になりますが、なされていません。それとも単に転載元と共通する誤りがあるに留まらない同一の特異な論理的欠陥まで共通しているとの指摘を、「単に転載元と共通する誤りがある」x2と理解してしまったのでしょうか? そしてkinoriさんにも共通することですが、知識不足から似通っているものを似ていない、特異なものをありふれたと主張している危険性があります。これは、この種の議論に共通してみられる深刻な問題です。詰まるところ、「理解できないけど、XXがYYに見える」と主張してしまう問題なのですが、ケースBの場合は無知を装って「ありふれた」と主張することで転載を広範囲に認めさせることにつながり、モラルハザードを引き起こすことになります。もちろん記事の知識が無くても主張を行うことは自由ですし、それは頻繁になされています。しかし、知識が無い立場からの判断を根拠とするなら、誠実な調査で補うか、その部分の知識が無くても対応できる範囲に止める必要があります。誠実な調査を欠いたまま知識が無い立場から、「文献執筆者が接した事実から必然的に定まるであろう、ありふれた表現の一致」などと主張すれば根拠のない論の域を出ることはありません。著作権でZCUさんが信用されているにもかかわらず、個別の議論では受け入れられないことも少なくないのは、このギャップです。前提となる事実が間違っていたら、主張もまた違ってしまいますからね。さらに『「事実」とは、真実のみならず、誤った事実や、架空の事実を含む概念』であることは、表現を制約するものではありません。同一の「事実」の記述を類似性の高い表現で行えば、それは類似性を肯定することにつながりますし、「ありふれた表現」とするには表現の限界を問うことになります。そもそも「文献執筆者が接した事実から必然的に定まるであろう、ありふれた表現の一致」であれば、問題のある内容を移動して封印するだけなのですから、依頼が不要なのです(「誤り」の場合改稿ですませるには、システム面に欠陥があります)。--Open-box会話2018年12月15日 (土) 17:18 (UTC)[返信]