Wikipedia‐ノート:削除依頼/藤田卯一郎
記述内容の照合
[編集]出典の「第046回国会 法務委員会 第30号」と「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」からは、「註」の「12月21日」と云う部分を引用しています。『松江八束建設業暴力追放対策協議会「暴力団ミニ講座 37)松葉会」』からの引用部分はありません。『松江八束建設業暴力追放対策協議会「暴力団ミニ講座 37)松葉会」』 では、松葉会の政治結社の届出が「昭和34年9月」となっているのに対して、山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では「昭和34年2月」となっています。この違いを「註」に書くつもりだったのですが、書き忘れていました。残りは全て山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9です。--竜造寺和英 2007年8月14日 (火) 11:38 (UTC)
- 以上のことは、当該記事のノートと編集履歴を見ればわかります。また、典拠を『暴力団ミニ講座 37 松葉会』に負っている部分がほとんどなく、また負っている部分については問題はなさそうです。
- 問題にしているのは、残りの『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』に典拠を負っているとされる箇所です。記事の記述とこの書籍の記述との対応関係をご説明ください。わたしには、ストーリーをそのまま追っているように見えます。 --Hatukanezumi 2007年8月15日 (水) 03:41 (UTC)
- お返事が遅くなってすみません。「明治39年(1906年)9月20日、茨城県水戸市近郊で生まれた」はP.35に書かれています。「母の与加が、東茨城郡長岡村(現:東茨城郡茨城町長岡)の郡司佐太郎と再婚したことから、長岡村で育った」と「大正10年(1921年)1月、旧制水戸中学校に戸籍謄本を提出した際に、自分が母の連れ子で、実の父の姓が「藤田」であることを知った。」はP.40に書かれてあります。「旧制水戸中学校(現:茨城県立水戸第一高等学校)に入学した」は、P.40に書かれてあります。水戸中学菊池校長舌禍事件はP.43からP.48とP.59から60に書かれてあります。「藤田卯一郎は、旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった」はP.63に書かれてあります。「藤田卯一郎は、上京して間もなく、姓を実父の「藤田」に戻した」はP.64に書かれてあります。「昭和7年(1932年)春、藤田卯一郎は、高橋邦之介の使いで、向島区寺島町(玉の井)の轟幸太郎宅を訪れた。轟幸太郎は、民政党院外団常任幹事・関根実(関根賢の兄)の若衆で、大和民労会系の人物だった。轟幸太郎は、ざる蕎麦の出前を取り、藤田卯一郎ら4人とともに応接室で食べ始めた。このとき、関東国粋会系神津島一家の刺客数人が乱入してきた。轟の書生が腰を刺されて重傷を負った。藤田卯一郎は、刺客の1人を刺殺し、1人に重傷を負わせた。轟の若衆が駆けつけると、刺客は退散した。藤田卯一郎は、轟幸太郎の指示で、向島の料亭「まえじま」に身を隠した。翌日の夜、関根賢が藤田卯一郎を訪ねた。その場で、藤田卯一郎は関根賢の若衆になった。翌日朝、藤田卯一郎は、関根賢に付き添われて、向島警察署に自首した。轟幸太郎と神津島一家の対立は、上萬一家玉の井貸元・飯島半之助(本名は吉井半之助)が仲裁した。藤田卯一郎は懲役10年の判決を受けた」ことはP.77からp.95とp.104に書かれています。とりあえずは、ここまで書いておきます、続きは後日書き込みます。--竜造寺和英 2007年8月21日 (火) 08:43 (UTC)
- 後日書き込まなくても結構だと思います。削除依頼に出されている理由が理解されていないようです。--R.Sakamoro 2007年8月21日 (火) 18:03 (UTC)
- 内容の一致の確認は、審議に参加したかたがたが各々行うべきことですので、必要な作業です (というか、そういう確認なしに削除するかどうか判断できるんでしょうか?)。 --Hatukanezumi 2007年8月21日 (火) 23:03 (UTC)
- 後日書き込まなくても結構だと思います。削除依頼に出されている理由が理解されていないようです。--R.Sakamoro 2007年8月21日 (火) 18:03 (UTC)
- お返事が遅くなってすみません。「明治39年(1906年)9月20日、茨城県水戸市近郊で生まれた」はP.35に書かれています。「母の与加が、東茨城郡長岡村(現:東茨城郡茨城町長岡)の郡司佐太郎と再婚したことから、長岡村で育った」と「大正10年(1921年)1月、旧制水戸中学校に戸籍謄本を提出した際に、自分が母の連れ子で、実の父の姓が「藤田」であることを知った。」はP.40に書かれてあります。「旧制水戸中学校(現:茨城県立水戸第一高等学校)に入学した」は、P.40に書かれてあります。水戸中学菊池校長舌禍事件はP.43からP.48とP.59から60に書かれてあります。「藤田卯一郎は、旧制水戸中学校を卒業すると、上京し、退役海軍中将・高橋邦之介の書生となった。高橋邦之介は大和民労会の後援者だった」はP.63に書かれてあります。「藤田卯一郎は、上京して間もなく、姓を実父の「藤田」に戻した」はP.64に書かれてあります。「昭和7年(1932年)春、藤田卯一郎は、高橋邦之介の使いで、向島区寺島町(玉の井)の轟幸太郎宅を訪れた。轟幸太郎は、民政党院外団常任幹事・関根実(関根賢の兄)の若衆で、大和民労会系の人物だった。轟幸太郎は、ざる蕎麦の出前を取り、藤田卯一郎ら4人とともに応接室で食べ始めた。このとき、関東国粋会系神津島一家の刺客数人が乱入してきた。轟の書生が腰を刺されて重傷を負った。藤田卯一郎は、刺客の1人を刺殺し、1人に重傷を負わせた。轟の若衆が駆けつけると、刺客は退散した。藤田卯一郎は、轟幸太郎の指示で、向島の料亭「まえじま」に身を隠した。翌日の夜、関根賢が藤田卯一郎を訪ねた。その場で、藤田卯一郎は関根賢の若衆になった。翌日朝、藤田卯一郎は、関根賢に付き添われて、向島警察署に自首した。轟幸太郎と神津島一家の対立は、上萬一家玉の井貸元・飯島半之助(本名は吉井半之助)が仲裁した。藤田卯一郎は懲役10年の判決を受けた」ことはP.77からp.95とp.104に書かれています。とりあえずは、ここまで書いておきます、続きは後日書き込みます。--竜造寺和英 2007年8月21日 (火) 08:43 (UTC)
当該記事の方で説明すると言ったものの、少し調べる時間が必要ということと、ブロック依頼を提出している関係で、少し時間をいただければと思います。基本的には竜造寺和英氏に対して「著作権の重要性」について非常に時間と労力を使う個々の対応ではなく、包括的に対応されることを望んでおります。--Yanoken 2007年8月25日 (土) 03:09 (UTC)
先のブロック依頼に影響が出ますので、本件についてはノーコメントとさせていただきます。--Yanoken 2007年8月26日 (日) 17:12 (UTC)
審議のすすめかたについて
[編集]えーと、記事の内容より特定個人を排斥することに熱心なかたもいらっしゃるようですが、それはおいといて。
今回は、主執筆者本人に内容との照合をお願いしました (依頼する際に自分でもざっと見ているのですが、正確を期したかったためです)。現在までにその過半の作業がおわっているわけですが、今後どのようにすすめれば審議をすすめることができるでしょうか。審議に必要な材料が不足している点がありましたら、ご指摘ください。 --Hatukanezumi 2007年9月1日 (土) 01:20 (UTC)
- 今までの経過でも分かるように直接検証する手段もありますし、多少関係したものとしてコメントを乗せることは良いのですが、ブロック依頼を提出したものとして、ここで厳しい意見を述べることは個人攻撃の延長と捉えられる可能性がありますので、差し控えることとしました。もっと素直に受け取って欲しいと思います。--Yanoken 2007年9月1日 (土) 03:38 (UTC)
- なるほど。コメントを控えられるのは賢明だとおもいます。ただ、わたしとしては、当人がブロックされてしまうとこちらの審議に影響が出るので、むしろブロック依頼をやめてほしいとおもっているのですが。
- とにかく、こんな調子じゃ審議がすすみませんね。当人に依頼した作業もストップしていますし。 --2007年9月1日 (土) 11:52 (UTC)