コンテンツにスキップ

Wikipedia‐ノート:削除依頼/藤倉善郎

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。

藤倉善郎の記事は、過去に削除されているのか?

[編集]

削除審議の本筋からは逸脱するかもしれませんが、依頼の妥当性にかかわる論点であり、こちらにコメントしておきます。

依頼者のYumenakabaさんは、「以前にも特筆性が問題視されて、削除された記事であるように思います。」と記されています。その根拠は、ウィキペディア外の個人サイトに、第三者である個人が書き込んだコメントです。

また、(資格なしとして無効とされていますが)削除票を投じられたぽてからさんは、「Wikipedia:削除依頼/やや日刊カルト新聞」を踏まえて、「どうも、藤倉義郎ややや日刊カルト新聞の初稿は、必ず宣伝的であり、かつマルチハンドルの疑いがかけられるという現象があります。」と述べていらっしゃいます。ここで「初稿」とあるのは「初版」、「マルチハンドル」とあるのは「多重アカウント」のことと理解するとして、ここで言及されている「藤倉義郎」という記事は、現在もありませんし、過去に作成された形跡もありません。また、「藤倉義郎」が「藤倉善郎」の誤記であるとしても、この記事の初版について、宣伝的であるという指摘は現時点までなされていませんし、初版作成者である利用者:山田晴通について、「多重アカウント」の疑いがかけられるというのは、何を根拠とされているのか理解しかねます。

あるいは、ぽてからさんは、山田が初版を作成した現在の「藤倉善郎」とは異なる記事を指しておいでなのでしょうか。そうだとすると、その記事が存在した痕跡がないことをどう説明できるのでしょうか? 少なくとも現時点で「ノート:藤倉善郎」、「「藤倉善郎」の変更履歴」を見ても、過去に「藤倉善郎」が立項されて削除されたという事実はないように思われます。Yumenakabaさんが根拠とされている上記の個人サイトのコメントも、ぽてからさんの審議におけるコメントも、何らかの誤解に基づくものであるように山田には思われます。

残念ながら、Yumenakabaさんは無期限ブロック中であり、ご説明をいただくことはできないと思いますが、ぽてからさんにおかれましては、もし「藤倉善郎」の記事が過去にも作成され、痕跡も残さずに削除されているのだと主張されるのであれば、その根拠をお示しいただきたいと思いますし、誤解に基づいて上記のような文章を記されているのでしたら、ご確認の上、文言の修正をしていただきたく存じます。よろしくご検討ください。--山田晴通会話2013年5月8日 (水) 02:33 (UTC)[返信]

  • コメント 山田晴通様の御意見に全面的に賛同します。両者の言い分には全く説得力はありません。おかしな編集をする利用者は履歴を見れば、意図が容易に読み取れます。Yumenakaba氏は一生懸命塾で多重アカウントを用いてでも塾を擁護していました。理由は何でも良いから不利な証言をする藤倉氏発信の記述を除去したかったのでしょう。一方、ぽてから様の編集履歴からは、「やや日刊カルト新聞」を信用できないと判断しており、いつのまにか(あるいは最初から)、理由と目的が入れ替わってしまったのでしょう(この出典は~でおかしいからダメ→この出典はダメだからダメ)。なお、ぽてから様が誘われた私も含めた利用者の根拠が不明です(カンバスというわけでもなさそうです)。--JapaneseA会話2013年5月8日 (水) 08:37 (UTC)[返信]
  • お邪魔します。「削除された記事」、というのは検索結果のうち、これではないかと思います。「誘われた…利用者の根拠」についてですが、コメント要請のあった方々の一部もこの削除依頼にちらほらと見られます(この過去ログは結構前に(この辺りで)気づいてましたが『第三者のソース』がないとは思えなかったので意図的に無視してました)。--Mizuhara gumi会話2013年5月8日 (水) 13:00 (UTC)[返信]

ぽてからさんのコメントについて

[編集]

ぽてからさんから、審議のページに長いコメントが投じられました。山田としては応答しておくべき内容と判断しましたが、審議の見通しを悪くすることは本意ではありませんので、こちらにコメントを書き込みます。以下、ぽてからさんのコメントを文ないし語句ごとに分解し、山田のコメントをぶら下げてゆきます。以下、斜体はぽてからさんのコメントです。

  • 藤倉が主宰する「やや日刊カルト新聞」は、フリーライターといえるのは藤倉ただ一人であり、ほかの執筆者はたんなる宗教団体脱会者です。
    • → 無根拠な憶測であり、「ほかの執筆者」への名誉毀損の虞れがあります。
  • 個人ブログの域を超えません。
    • → そう言えるかどうかの議論のために、代表者に特筆性があるのかどうかが問題となり、この審議を行なっております。ご意見として表明されるのはご自由ですが、結論を先取りして根拠なく断言するのは適切ではないと思われます。
  • 藤倉が、複数の団体から訴訟提起されてるということに関して、まだ、結論も出ていないわけですし、特にWikipediaに書くべきであるとは思いません。
    • → 刑事事件で起訴されたり、民事事件で告訴されただけでも、検証可能で特筆性があれば記述されるべきです。確定判決を待たなければ書くべきではないという一般的なルールは存在していないと思います。
  • Wikipediaは、裁判所ではありませんし、どの記事でもいちいち裁判記録を書いていません。
    • → 特筆性のない裁判記録はいくらでもあるでしょうし、情報が公開されておらず、検証不可能な裁判記録もいくらでもあります。また、ある種の裁判記録は検証可能であってもプライバシーへの配慮などから記事に書くべきではないこともあるでしょう。様々な記事に、実際にはあったはずの裁判に関する記録が記述されていないことは、特筆性がある人物記事において、特筆性の支えとなる裁判記録が検証可能な状態で記述されることを妨げる根拠にはなり得ません。
  • しかも、ソースが、本人ブログを出典が主であるということには関心しません。藤倉主筆のネット記述以外には、ソースがないのならば、それは特筆性があるとはいえないと考えます。
    • → 「Wikipedia:検証可能性#自主公表された情報源」をよくご覧下さい。「例外となりうるのは、関連分野において著名な専門研究者や有名ジャーナリスト(記者)が自主公表した場合でしょう。その人の著作がこれまでに信頼できる第三者によって出版済みであるなら、その人の自主公表物を情報源として認めてよいこともあり得ます。」とあります。この論点も、上の「個人ブログの域を超えません。」と同じように、結論を先取りして根拠なく断言する不適切なご意見と思われます。
  • また、彼の発言は、カルト側から問題視されているわけではなく、複数のルポライターや有識者からも問題視されております。
    • → これは奇妙なご主張であるように思われます。少なくとも「カルト側」が問題視していることは、出典からも明らかです。その上で、特筆性がある「複数のルポライターや有識者」が「問題視」しているのであれば、それは藤倉がそれだけ特筆性があることの傍証にもなると思います。逆に、特筆性がある「複数のルポライターや有識者」が「問題視」していることが典拠によって示せないのであれば、それは藤倉の特筆性の根拠にはなりませんが、ご主張が根拠のないものだということになります。
  • また、親鸞会の著作物を無断で貼り付けるなど、著作権侵害を犯したのは明らかであり、ただ、刑事事件として立件するほどではなかったということです。これに関しても、なんらかのニュース記事に基づいた記述にするべきであり、自分を擁護する記述を書いた本人ブログをソースとするべきではありません。藤倉のブログは、本人が書いたものであり、自分を擁護する記述に満ちてます。そのため、ブログを出典としたものは、全て、確かな第三者のソースにすべきだと考えます。
    • → 上述の通り、結論を先取りして根拠なく断言する不適切なご意見と思われます。
  • そもそも、この藤倉という人物は、ほんの数個、週刊誌にたいしたことのない記事が掲載された程度です。
    • → これも、そう言えるかどうかの議論のためにこの審議を行なっているものです。結論を先取りして根拠なく断言するのは適切ではないと思われます。
  • 本人がカルト的な人物だと評されているくらいの問題人物であり、
    • → そのような論評が信頼できる出典として存在するのであれば、ぜひ記事に反映してください。検証可能性をも見たし、名誉毀損にあたらない記述は歓迎されます。
  • カルト事情には詳しくないどころか
    • → 少なくとも週刊朝日や、アスキーメディアワークスはそう考えていないということです。
  • 学術的、社会科学的、常識的に誤ったことを述べてるのはご理解いただけるでしょう。
    • → それは根拠のない思い込みではありませんか?
  • それを、本人インタビューをソースとした出典により、いかにも、世間一般がそう見ているかのようなWikipedia記事に仕立てることは、関心しません。本人が自称している、とすべきでしょう。
    • → 「関心」は「感心」の誤記でしょうか? そうだとすれば、審議の場で感想を述べられるのはご自由ですが、インタビューに基づいた記事をまとめた記者が「自称している」とせずに記述したという事実はどう理解されるのでしょうか。ライターは、単に本人が言っているだけで真偽が怪しいという含意をもつ「自称」を付けずに藤倉の経歴について記述しています。それにもかかわらず敢えて「自称している」とすべきだとお考えになる根拠は何なのでしょうか?
  • ’’少なくても、本人が書いたものをソースにしないことは、とくに、この人物の場合は気をつけるべきでしょう。’’
    • → もしこの人物について特に気をつけるべきことがあるとすれば、それは他の人物についても同様に気をつけるべきことです。ウィキペディアのルールは、様々な議論と過去の経験に積み重ねの上に構築されてきたものです。もし、この人物について特別扱いをしなければならない背景があるのだとすれば、それことこの人物に特筆性があることを証明することになるのではないでしょうか。

以上、逐条的にコメントしましたが、肝心なのは、私たちがここに関わっているのは百科事典を作成することが目的だということです。記事の主題、たとえばここで問題となっている藤倉というライターに特筆性がないなら、記事は作成されるべきではありません。しかし、特筆性があるなら、その人物について、過剰に賞賛することも、過剰に非難することも誤りです。ぽてからさんが藤倉について、指弾されるべき人物だとお考えなのであれば、そのお立場から記事の編集に参加されることがもっとも建設的な関わり方であるはずです。

そもそも、藤倉がとるに足りない人物であるなら、ぽてからさんは、自らが投票権を持たない審議に、ここまで熱心に関わる必要はないでしょう。ぽてからさんをそのように駆り立てるだけの重要性、すなわち特筆性が、この人物にはあるのではないでしょうか。ぽてからさんの記事編集姿勢を拝見し、むしろ藤倉の特筆性が強固であることを強く印象づけられております。--山田晴通会話2013年5月11日 (土) 05:55 (UTC)[返信]