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Wikipedia‐ノート:削除依頼/新約聖書の解説記事

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貴重な祝日にお手数をおかけ致しまして、誠に申し訳ございません。一連のページについて、ご説明申し上げます。

  • 出典 :各項目に「新共同訳聖書」(日本聖書協会)の出典を明示。聖書に出てこない日本語表現は、複数の司祭(故人等)が使用した日本語表現
  • 目標 :①単語抽出によるケーススタディ形式で、聖書を読む。②正当な神学・教義の継承。

今回は、精神的苦痛の源泉としての肉体的心理的暴力の中で後者に注目し、

  • 新共同訳聖書の中から「悪口」を見つけ出し、「悪口(新約聖書)」の項目を作成
  • メンタルヘルス対策として、新共同訳聖書の中から「祝福」を見つけだし、「祝福(新約聖書)」の項目を作成
  • 必要なものが抑えられるように、新共同訳聖書の中から「必要」を見つけだし、「必要(新約聖書)」の項目を作成

単に、正当な神学を自分として認めたくないので撤回しろ、という意見もある、とされています。 失礼ですが、出典について各項目にはっきり明示してあるのに、出典がないので独自研究だ、という理論がよく理解できません。 どこかおかしいのではないでしょうか。

てんとうむし 2007年10月8日 (月) 23:41 (UTC)[返信]

会話ページの挙げられた方針文書をお読みいただけなかったのでしょうか。(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)一次資料、この場合新約聖書から直接記事をお書きになり、分析、総合、解釈、評価にあたる主張が盛り込まれているわけですから、それは独自研究の発表とされるのです。
それと、一度メッセージを他の人に読んでもらった後にメッセージの内容を変更するのはいかがなものかと思います。追加のメッセージがあるのなら単に発言を追加されればよろしいことではないでしょうか。--Clarin 2007年10月9日 (火) 00:44 (UTC)[返信]


加筆につきましては、至らず、誠に申し訳ございません。(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)におきましては、「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません」に相当すると認識致します。 てんとうむし 2007年10月9日 (火) 02:11 (UTC)[返信]

「分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には」とあります。
新約聖書をソースとすることは独自研究にはあたらないが、新約聖書の解釈を一次資料のみに基づいて記事することが独自研究なのです。--Clarin 2007年10月9日 (火) 02:39 (UTC)[返信]
飛ばされた部分である「現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です」の通り、問題ない、と理解しております。分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行っておりませんし、今後もそのようにすれば問題ない、と理解しております。てんとうむし 2007年10月9日 (火) 04:03 (UTC)[返信]
文章というのは全体で一つの物事を説明しているんですよ。都合のよいパッセージのみを取り挙げても不完全な論拠にしかなりません。あなたが一部のみを取り挙げた以外の部分をわたしが指摘したわけですから、それに対し「飛ばされた部分」とされるのは筋が違うのではないでしょうか。
また、あなたの言っておられる正当な神学・教義メンタルヘルス対策必要なものが抑えられるように これが聖書の解釈に基づかないとすれば何だとおっしゃるのでしょうか。例えば新約聖書Wikiとかそういうものを作っておやりになる分には結構ですが、てんとうむし様の「正統」な解釈をそのまま辞典に記載することはできないと考えます。--Clarin 2007年10月9日 (火) 04:30 (UTC)[返信]
Clarin 様の、一部をもとに全体を判断すべきでない、というご意見に賛成します。私以外の人も書かれると思いますから、私の解釈のみ、ということは懸念材料にならないと思います。てんとうむし 2007年10月9日 (火) 04:51 (UTC)[返信]

「定義」

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「定義」については、Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)#定義 を参照。ほか、Wikipedia:スタイルマニュアル も参照ください。--スのG 2007年10月15日 (月) 13:49 (UTC)[返信]

議論

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Wikipedia:削除依頼/新約聖書の解説記事から移動してきました --Hatukanezumi 2007年10月16日 (火) 08:01 (UTC)[返信]

(コメント)てんとうむしさん、いくつか申し上げたいことがあります。まず、あなたが新規項目を立ち上げることは良いことだと思います。しかし、その記事には至らない点があったので、どうするべきかをここで議論しているわけです。できる限り、存続してもらえるように、私も手を尽くしましたし、これからもそうするつもりですが、あなたも基本的な決まりを読んでください。定義がない記事は即時削除されますよ。今は少しことの成り行きを見守っていてはいただけないでしょうか。仮に、必要や悪口の項目が削除されたとしたら、一度私に相談してください。あなたが考えるよりも、上手いやり方があるかもしれません。とりあえず、静観していてください。お願いします。manjushage(talk) 2007年10月15日 (月) 09:47 (UTC)[返信]
  • 「必要」の「定義なし」というのは、参考図書不明ということでしょうか。参考頂くべき出版物は、列記しました通りたくさんあります。読み終えることなく定義なし扱いというのは論理的ではないと思いますがいかがでしょうか。てんとうむし 2007年10月15日 (月) 13:38 (UTC)[返信]
定義には「定義とは、ある言葉の正確な意味や、集団において構成員が共通認識を抱くために定める概念のこと」とあります。しかし「必要」の項目には「必要とは~ということである」のような定義がされていないと言いたいのです。Wikipedia:即時削除の方針を読んでいただければ分かりますが、「文章になっているが、定義になっていないもの」は即時削除に対象になります。現在、必要の項目では冒頭の定義付けがなされずに「本項目では、新約聖書から福音書における義務の例を取り上げる」と述べているだけです。あなたはこの文章を一見して「必要」の意味を把握できますか。定義というのは「必ず要すること。なくてはならないこと。また、そのさま。」(大辞林より)のような文章ですよ。論理的ではないという指摘は的外れに思えますが。manjushage(talk) 2007年10月15日 (月) 13:50 (UTC)[返信]
    • 前後してしまったようですが、「必要」は改訂してあります。削除するのもおかしいということなので今もそのままですのでぜひご確認をお願いします。将来的には「悪口」は「迫害」に、「必要」は「回心」に統合してもいいと思います。そのあたりで落ち着かせて頂いてよろしいでしょうか。正直申し上げて、私は仕事におおいに支障をきたしています。皆様もご多忙と思います。睡眠時間を大きく削ったりして仕事に支障をきたさないようにと願っております。てんとうむし 2007年10月15日 (月) 13:59 (UTC)[返信]
      • 「改訂してあります」って、どこに定義があるんですか。「削除するのもおかしいということなので」というのは主観ですよね。繰り返しますが現状では統合の前に即時削除されても仕方ない状況だということを把握してください。manjushage(talk) 2007年10月15日 (月) 14:05 (UTC)[返信]
      • 「必要」を説明することばが足りないということですので、時間ができたらまた書きます。ご理解頂きたいのですが、私は仕事しなければなりませんから、今日のわずか数時間の間にいろいろしなければ追いつかないようなペースでは作業できません。2週間前に問題提起、1週間前に修正、今週は・・という具合に、週末ベースで作業スケジュールを組んで頂けないでしょうか。すでに吐きそうになりながら作業しています。仕事にも支障をきたしています。てんとうむし 2007年10月15日 (月) 14:18 (UTC)[返信]
お仕事ご苦労様です。ただ個人的なことは議論に関係ありません。さて、当方はその本が手元にないため、すぐには確認できませんが、Help:記事とは何かを読めば分かるように、表のみで、文章がない項目は「百科事典としての情報が記載されているページ」に値しないと思いますが。manjushage(talk) 2007年10月15日 (月) 14:24 (UTC)[返信]
  • (コメント)[ご注意と再度のお願い] てんとうむしさん。「『出典を示す』ということの意味を理解されていない」というのは、チャートのことだけを言っているのではありません。以下に説明します。
    この編集で「聖書以外の出典」として付け加えておられるものは、出典とはいえません。たとえば「アビラのテレサの著作」を挙げるのなら、「アビラのテレサは、『○○』という書物の中で〈必要〉について『×××』という見解を述べた」という解説が、記事の本文中に書いてないとおかしいのです。そして、彼女のどの著作の何ページにその見解が述べてあるのか書いてないとおかしいのです。そのようにしてはじめて「出典を示して記述した」と言えます。一例だけ挙げましたが、ほかのものも同様です。
    あなたのやっていることは、有名な学者や聖人の名声を利用して自分のやっていることを正当化しようとすることです。はっきり申し上げて、出典がどうとかいう以前に、倫理的に許されないことです。
    再々のお願いになりますが、削除審議がおわるまで、関連記事の編集をお控えください。そして、あいた時間をこれまで多くのかたが挙げられた各種の方針文書を熟読することに充ててください。お願いします。 --Hatukanezumi 2007年10月16日 (火) 03:36 (UTC)[返信]
      • お願いが3点あります。1.曼珠沙華さんが項目の内容を書けとおっしゃったので書かせて頂きましたら、どうして書いたのかとおっしゃっておいでですので、論理的な議論ができるように前後の文章も読んで下さい。2.WIKIPEDIAの中の他のどのページが、出典のページまで要求されているか明示下さい。3。記載した本の確認作業は何度もお話している通り時間がかかります。体調を崩しているにも関わらずそれでもあれしろこれしろと要求されて、私は来月の今頃本当に死んでいてもおかしくない状況におかれています。それでも頑張って作業しています。すでに体調を崩している人に更に無理をさせて健康を破壊するような要望は倫理的に許されることはないことをあらかじめご理解下さい。てんとうむし 2007年10月16日 (火) 06:33 (UTC)[返信]
「どうして書いたのか」などとは一言も言っておりません。体調を崩されているのはお気の毒ですが、議論には直接関係のないことです。「論理的な議論」と仰有っていますが、あなたの発言自体が、あまり論理的でなく、日本語の構文までも支離滅裂に思えるのは私だけでしょうか。重ねて申し上げますが、今は方針文書などをお読みいただき、静観しておいてください。議論が前に進みません。manjushage(talk) 2007年10月16日 (火) 06:49 (UTC)[返信]
曼珠沙華さんとHatukanezumiさんが同じ人だということでしたら、気づかずにおりまして、たいへん失礼致しましたてんとうむし 2007年10月16日 (火) 07:33 (UTC)[返信]
ちがうひとです。 --Hatukanezumi 2007年10月16日 (火) 08:20 (UTC)[返信]

(お願い)事典読んで

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(お願い)てんとうむしさん、次の編集するまでに、紙の百科事典か、紙のキリスト教事典を買って通読して頂けませんか(ことば社のでもいいから)。そうすれば、なぜ貴方の書いた物が「事典ではない」といわれるかご理解いただけて、以後は事典的ないい記事が書けると思うんですよ。「各種の方針文書」読むのは、事典の次でいいです。LR 2007年10月16日 (火) 08:59 (UTC)[返信]

祝福について

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悪口について

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Wikipedia:削除依頼/新約聖書の解説記事#悪口より移動

    • (コメント)悪口はキリスト教用語であり、聖書にたくさんでてきます。仏教では使われないキリスト教専門用語であるからこそ、WIKIPEDIAにこの項目を作る価値があると思います。てんとうむし 2007年10月16日 (火) 06:40 (UTC)[返信]
      • (コメント)たくさんというのは主観ですが、新共同訳では14回しか出てきません。新改訳では10回、口語訳に至っては9回です。さて、客観的に見てこの数字は多いでしょうか、少ないでしょうか。manjushage(talk) 2007年10月16日 (火) 06:56 (UTC)[返信]
      • (コメント)悪口は様々な日本語で訳されていて新共同訳に今見ただけで計25件あり、最終的にはそれ以上あると思われます。てんとうむし
        • わたしは削除に賛成する理由として「当記事は…『わるくち』だったのですね」と書きました。わたしの手許にある聖書は新共同訳ですが、ちゃんと「あっこう」とルビが振ってあります (ペトロ1 2:1 など)。しかし、あなたの書いた記事は初版で「わるくち」とされており、それは現在でも変わっていません (ソースを見るとわかります)。つまり、あなたの書いていることは聖書に書いてないことなのです。そして、「あっこう」と「わるくち」の区別がつかないことは、あなたがこの分野について十分な知識をもっていないし、そのことに気づいてよく学ぼうとしてもいないことをあらわしているとおもいます。
          そういうわけでわたしは、あなたが「これはわるくちのことだ」という自分の考えを書いていらっしゃると判断しました。自分の考えを書くことをウィキペディアでは独自研究と言い、認められないこととされています。 --Hatukanezumi 2007年10月16日 (火) 08:20 (UTC)[返信]
  • 「様々な日本語に…」との発言を受けて調査しました。「そしる」(4回、「そしる」は6回)や「ののしる」(4回、「ののしり」は2回)でした。他にどのような語があるかは分かりませんが、すべて1桁を超えていません。「悪口」に関しては、複数の福音書の記述を、その都度カウントして14回です。つまり「悪口」が出てきたシーンはさらに少なくなるのです。「それ以上あると思われます」という、個人の意見は参考になりません。manjushage(talk) 2007年10月16日 (火) 08:58 (UTC)[返信]
    • 確かに、マルコ7章22の新共同訳聖書のルビは「あっこう」とふられています。しかし、マルコ7章22の「悪口」は聖書によって「悪行、そしり」などと表記が異なります。新共同訳聖書でそれらを合計すると少なくとも25件あります。これらを数えて表を作ってもいいと思います。理由は、そのようにして根拠を表形式で表示することで、「必要」における「表」が独自研究のそしりを免れるからですてんとうむし 2007年10月16日 (火) 14:16 (UTC)[返信]
聖書中に何度「悪口」という単語が出てこようとも、文章で説明がなされていなければ、「表」は意味をなしません。あなたが根拠を表形式で示そうとするのはなぜですか。他の項目で、そのような例を見たことがありますか。是非一度Wikipedia:表のガイドラインを読んでください。manjushage(talk) 2007年10月16日 (火) 14:49 (UTC)[返信]
  • きりがないのでこのへんにしておきますが、同じ新共同訳でも「わるくち」とルビが振られている箇所もあります (ルカ 6:28 など)。ペトロが「あっこう」と書くのと、イエスが (ルカの口を通して) 「わるくち」と言うのとでは、状況もその意味あいも異なります。それをいっしょくたに自分の考えた「わるくち」という概念にあてはめてしまうのは、あなたの考えでしかなく、独自研究というものだと言っているのです。まして、ほかの似たような言葉もふくめようとか、他の翻訳ではちがう言葉になっているからそれもいっしょだというのでは、論外です。文献を読んで理解するとかいう以前の問題です。 --Hatukanezumi 2007年10月16日 (火) 14:56 (UTC)[返信]
  • 「悪口」がなぜ必要なのかは、「必要」が必要だからで、根拠として同じエフェソ5章27の「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」。子供に学校給食でジャンクフードやチョコバーのように悪影響を与えるものを与えるのでなく、少しコストが高くてもシェフの本格料理を食べさせたいのと同じ気持ちです。尚、不勉強ということで、たいへん申し訳ございません。お叱りを励みに、勉学に励んでいきたいと思います。てんとうむし 2007年10月17日 (水) 13:10 (UTC)[返信]

    • (コメント)いいえ、独自研究ではありません。関連項目の通り、研究書籍もたくさんでています。イエスとマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ各氏が残した教訓に不平不満がある方々につきましては、私のような小さなものが何をお話しようと聞いて頂けることはないのだと思いますが、違反すれば危険に直面すると警告しているのは私ではなく、新約聖書です。いつも弱者の側にある、それをされる人々を守ろうというイエスと福音記者の意図を汲んで頂ければ、間違うことはないと思います。てんとうむし 2007年10月19日 (金) 12:55 (UTC)[返信]

必要について

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Wikipedia:削除依頼/新約聖書の解説記事#必要より移動

  • (コメント)仏教とは異なり、十戒の時代申命記からユダヤ教・イスラム教・キリスト教は「契約」の宗教です。神は契約べースであり、人は契約について学ぶ義務があり、契約について無知であれば裁かれる宗教です。何が必要であるかは様々なキリスト教用語によって、聖書にたくさん求められています。仏教では出てこないキリスト教専門知識であるからこそ、WIKIPEDIAにこの項目を作る価値があると思います。てんとうむし 2007年10月16日 (火) 06:46 (UTC)[返信]
    • 書物を出版しなければ独自研究のそしりを免れない、というのはおかしいと思います。少なくとも私と私の仲間は、「過去の書物の記載を数えて表を作って本を出版し著作権を自分のものにし、その後wikipediaに記載し実質的に著作権を放棄する」という手順を踏まずに最初から許可を得た上でwikipediaに書くことを選択しています。世界遺産なみの貴重な教訓を許可を得て無償で書いているので、大事にして頂ければと思います。てんとうむし 2007年10月16日 (火) 14:25 (UTC)[返信]
  • 人類の利己主義によって地球上の全ての生命が絶滅に向かっている現在、世界中の富の半分以上を抱え込むことによって戦争の原因を作っているキリスト教徒がニーズを理解し、反省し、行動することは、本人と人類と地球の未来のために必要不可欠です。この観点から、キリスト教徒に要求されているニーズを明示することを意図します。

注:当項目は日本語で作成したので「必要」としました。当項目は英語で表記すれば、"needs"(ニーズ。必要性の複数形)になるかもしれません

期待している効果:第3世界やイスラム教徒の人たちが英語版の当ページにニーズを記入し、キリスト教徒がそれを誠実に対応していけば、対話型の問題解決の窓口となり、イスラム教徒の人たちはキリスト教徒にテロや戦争をする必要はなくなるので、平和になるのではないか、と思います。戦争に巻き込まれて生活が苦しくなったり殺害されたりしてしまう危機に直面しているキリスト教徒でない人にも、問題が解決されたら大きなメリットがあると思います。

てんとうむし 2007年10月16日 (火) 15:00 (UTC)[返信]

  • その話は議論に無関係です。異論があればどうぞ。manjushage(talk) 2007年10月16日 (火) 15:04 (UTC)[返信]
  • 全てのキリスト教徒、ユダヤ教徒は教えを捨てるか、イスラームに改宗せよ。という要求があった場合てんとうむし氏はYesと答えますかNoと答えますか? Noならば、その手段で世界に平和をもたらすことは無理と考えます。--Clarin 2007年10月16日 (火) 16:06 (UTC)[返信]
  • 相手を尊重する気持ちがなければ、宗教者としては失格です。その点を理解させるべきということですが、それは本人に言うしかないのでは。てんとうむし 2007年10月17日 (水) 13:01 (UTC)[返信]
  • 「必要」がなぜ必要なのか、何より優先すべき第一の点を忘れておられます。それはキリスト教徒の回心のため、「しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(エフェソ5章27)
申し訳ありませんが、特定の宗教的思想の流布を目的に記事「必要」が必要なので断固執筆するのだとのお考えが改まらない限り、思想・宗教に関する中立公正を旨とするウィキペディアにてんとうむしさんは「不必要」、むしろ「害悪」です。キリスト教関連記事執筆者全員の立場をこれ以上悪化させないで下さい。LR 2007年10月18日 (木) 00:40 (UTC)[返信]
お叱りはごもっともです。私は数多くの矛盾する提案に誠実に対応するよう求められています。大別すると、1.項目名を残して項目名通りに記述内容を新約聖書に限定、2.項目名を変更して祈りのように他の宗教と列挙、3.項目名がおかしいので内容を他のページへ統合、の3つあります。思想・宗教に関する中立公正の観点から、1は間違いとのことですが、私も同感であり、数日前、私は2または3となるように作業しています。しかし2も3も「削除に関する議論が終了するまで2と3は禁止」ということで削除されています。1の要望については、人を呼び出してリンチして殺すような攻撃的暴力的カルト的宗教がある中で、少なくともキリスト教は攻撃・暴力・悪口などを明確に禁止している点で素晴らしい宗教であり、人々がキリスト教について知りたいと思っている願いに応えることは義務と考えます。本項目については、最終的に2または3となり、各宗教の思想が公平に紹介されることを希望します。てんとうむし 2007年10月18日 (木) 02:56 (UTC)[返信]

    • (コメント)いいえ、独自研究ではありません。関連項目の通り、研究書籍もたくさんでています。イエスとマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ各氏が残した教訓に不平不満がある方々につきましては、私のような小さなものが何をお話しようと聞いて頂けることはないのだと思いますが、違反すれば危険に直面すると警告しているのは私ではなく、新約聖書です。いつも弱者の側にある、それをされる人々を守ろうというイエスと福音記者の意図を汲んで頂ければ、間違うことはないと思います。てんとうむし 2007年10月19日 (金) 12:55 (UTC)[返信]

感想

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書かずもがなかもしれないんですが。

一連の記事をめぐって「カルト」といったような表現さえも散見されるんですが、そういうことを言っても主執筆者には伝わらないだろうし、むしろ「自分はそういうものではない。正統な信仰を持っている」と、ますます力づけられてしまうだろうとおもいます。実際、主執筆者のような思想や心性は、ごく正統的なキリスト教教派の教会に連なる比較的熱心な平信徒には、いくらか見られるものだとおもいますし、そのような思想や心性自体は、健全な信仰生活から自然にでてくるものだとおもいます (ウィキペディアに参加するようなキリスト者というのはインテリが多そうなんで、多くのひとはそこまで素直じゃないかもね)

「ウィキペディアは布教の場ではない」ということははっきり伝えるべきだとおもいますが、主執筆者の持っている考えがなにか世間の常識から逸脱した異様なものだというような評価はもつべきではないし、またそのような評価は根拠のないものだとおもいます。単に、ウィキペディアにはそぐわない内容、方法での発表が行われているにすぎません。

やっぱり余計なことを書きました (ちなみに、わたしはクリスチャンではないです)。なお、この発言に対して、てんとうむしさんのコメントは望みません。 --Hatukanezumi 2007年10月19日 (金) 16:58 (UTC)[返信]

てんとうむし氏からのコメントは望まないということなので、一応わたしからのコメントを。カルトでも聖書を使っているという指摘はしました(例: 新世界訳聖書)が、てんとうむし氏がどのような筋の方なのかわたしは一切判断しておりませんし、することもできません。
で、キリスト者が宣教を心がけることが異様かどうか、それはすべからく「手段」の正しさによるだろうというのがわたしの考えです。この場合、何かを利用しようとするならばそこでのルールは守るというのが、人間社会の常識。ウィキペディアを利用するなら、ウィキペディアの目的と方針外のことはしてくれるなということです。(てんとうむし氏と関係はないが、現実社会においても同じことで、手段の間違っている宗教集団は決して根本思想の正しさをもって正当化されるべきではないだろう)--Clarin 2007年10月19日 (金) 18:33 (UTC)[返信]
そうなんだよね。日々の生活のなかで宣教を心がけるのはそのひとの自由だとおもうんだけど、もしそうするのなら、もっと賢く行動しないといけないとおもう。たまたまウィキペディアをおおぜいのひとが読むからといって、そこに書けば自分の目標を達成できる、と早合点するのは大まちがい。
せっかくウィキペディアに関わってくれているのにこういういいかたはあまりしたくないんだけど、自分の信ずる考えを多くのひとに知ってほしいのなら、自分でブログとか立ち上げればいいとおもう (このへんとか参考になるかも)。 --Hatukanezumi 2007年10月19日 (金) 23:58 (UTC)[返信]
ていうか、迷惑なんですよ。私なんか教会役員ですから、それが許されるならとっくにwikipedia伝道に邁進してますよ。でも、ここはそういうことをしていい空間じゃない。むしろ、ルールを守れない狂信者が突出して伝道対象であるはずの一般読者にヒかれたら、福音伝道には限りなくマイナスなんです。だから、キリスト教関連記事のPOVには常に目を光られせており、場合によっては特定ユーザーの投稿履歴を全査読することだってあります。勿論、逆方向の攻撃的POVも取り除きますけど。LR 2007年10月20日 (土) 00:16 (UTC)[返信]
まず、私はクリスチャンです。西日本福音ルーテル教会に属する教会に通っています。以前、Clarinさんにここで「どの立場に則って正典・外典とするかは難しい」という表現で、自分の視野の狭さを指摘されたことがありました。「信条を宣伝するためにウィキペディアを利用してはなりません」とWP:NOTに明記されています。ですから、偏った見方(自分の場合はプロテスタント)から記事を作成したら、この規則に抵触することになります。
自分の教派を宣伝したいが、それはルールに反する。ならばルールに則って宣伝すればよいと考えました。様々な角度から記事を執筆すれば、そういう項目があるだけで、ある程度そこにかかれている事柄の知名度は上がります。てんとうむし氏がそういった発想の転換に至らなかったのが、議論をここまで拡大させることにつながったんではないでしょうか。manjushage(talk) 2007年10月20日 (土) 02:01 (UTC)[返信]

お願い

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  • あちこちでホームページの管理人をしています。口調がきつい、命令調、ぱしっと言われ怖い、会話に参加できない、そういったお話を頂いたこともあります。それは私の落ち度であり、私の改善すべき点と思います。ただ、教会用ホームページで複数の名前を持つ同一人物から朝から晩まで数年間攻撃され続けた時は、教会のホームページの管理人はサイバー攻撃されて歴代廃人にされているという「噂」と管理者への「殺意」を満喫できました。攻撃的暴力的でさえある競争主義的論理は現代の病理でありその人もまた被害者なのだと思ってほしいのかもしれませんが、このようなことはただのいじめです。私も仕事に専念したいので、この件を終わりにすることを再度、真剣にご提案します。どうか私のために、3つとも削除して下さい。皆様にこの場でお会いできたことに感謝しております。てんとうむし 2007年10月20日 (土) 05:18 (UTC)[返信]