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Wikipedia‐ノート:削除依頼/太極拳法20110210

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記事の改善方法

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もし、以下の書籍をお持ちであれば、以下の書籍の中で、太極拳法がどのようなものであると説明されているかを、記事の中に盛り込んでいただけますか?

  • 本田俊一『キレイな息のつくり方』明日香出版社、2005年1月31日。ISBN 978-4756908469  - 第3章「きれいな息のつくりかた~実践編」 3.HONDA流ニオイの抑制術大公開 - 太極拳法

その際は≪『キレイな息のつくり方』によると、太極拳法は……≫のような書き方で記入いただけますか?

私がざっと検索した限り、太極拳法について日本語で言及のある書籍は上記しかうまく見つけられませんでした。ただ、中国語の書籍は何冊もあるように思えます。ただ、私は中国語がほとんど判りませんので、微妙に違う流派のことを指しているのかの判断に苦しみます(多分太極拳法と思えるものに言及した書籍は10冊以上はありそうではある)。多分太極拳法を主題としたものだろうところまでは判断できますが、それが眉唾ものの書籍かどうかまでは判断できません。また、太極拳を主題にしたもので太極拳法についての言及があるものもそこそこありますが、それらについても、太極拳法にどの程度の割合で言及しているかも判りません。

つきましては、以下の書籍が(微妙に流派の異なるものではなく、今回の記事主題である)太極拳法を主題とし、比較的正当な言及書籍であるかを確認いただけますか?

  • 陳龍驤、李敏弟. 楊氏太極拳法精解. 四川科技出版社. ISBN 9787536462663 

上記の書籍、あるいは間違っているとしても上記と同等クラスの言及書籍(特定の流派だけをまるまる1冊掛けて言及している、388ページ相当の書籍)をお持ちであれば、それら(複数あればすべて)を記事内に参考書籍として記すとともに、その書籍の冒頭に記されているであろう、太極拳法の成り立ちに関する記述の書かれた部分を、(書籍名+ISBN+ページ数)というスタイルで記事中に(楊氏太極拳法精解、isbn=9787536462663、×ページ)のような表記で記していただけますか?

それから、以下の書籍の中で太極拳法に関する記述はあるようですが、どの程度の言及があるか判りません。もしお持ちでしたら、言及内容を確認の上、ある程度のページ数(1章まるまるなど)割いて言及しているなら上記同様に参考書籍として、また、眉唾ものの記述でなく、記事の内容を担保できる部分があれば、そこにも上記同様に(書籍名+ISBN+ページ数)というスタイルで記事に書き入れていただけますか?

  • 解守德. 太極內功心法(平裝). ISBN 962-891-887-7 
  • 蒋家骏. 太极拳师门对话录. 人民军医出版社. ISBN 9787509134443 
  • ここまでの書籍では不充分であれば、以下のリンクから探してください

もし上記のような書籍をお持ちでないなら、太極拳法に詳しいOwnさんのことですから、太極拳法に関する上記のような書籍を持った知り合いがいらっしゃることでしょうから、そのような知り合いから書籍を借りるなどして、上記のような対応をお願いできますか?

削除を回避する上で求められていることは、そういうことです。記事内容を担保できる上記のような書籍が何冊もあれば、現在削除票を投じていらっしゃる方々もおそらく票を撤回されると思います。書籍を集めるのに1ヶ月くらい掛かりそうだということであれば、期日を説明すれば、一時存続という可能性もあります(あるいは一度削除の後、書籍が集まった段階で一時復帰という手もある)。また、今の削除票であれば、今回の削除依頼で「綿密な調査に基づいて百科事典に掲載するに値しない記事主題と判断された」と考える管理者さんは多分いらっしゃらないはずです。今の削除票による削除であれば、上記のような書籍をふんだんに盛り込んで記事を再作成する上では、問題ないはずです。なので「一度削除されたら終わり」とは考えないでください。--NISYAN 2011年2月14日 (月) 15:12 (UTC)[返信]

依頼ページから移動したOwnさんのコメント

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2011年2月11日 (金) 02:30 (UTC) 投稿分

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(投稿者よりのコメント)整理します。まず検証可能性がない記事は削除される。そして検証可能性とは出典が明らかにされ誰でもがそれを検証できること。と いうことです。まず、私は証可能性への理解は最初から正確に行っています。それに対しての異論はありません。これは大前提ですので正確にご確認ください。
 た だ、多くのWikiPediaの記事は出典が明らかにされていなくても掲載されているものばかりです。わたしは、その既にWikiPediaに掲載されい る記事が何らかの暗黙的基準を満たしているものと判断し、私の検証済情報の中からそれらと整合するもののみを選んで掲載しました。もちろんそれ以外の内容 も一部だけですが掲載してますから、それに対しては検証可能性を求められるかもしれないと言うことで理解していました。
 そ こでパタゴニア氏に出典タグを貼られたときに、出典タグを貼られることはよいことだと思う、しかし、ほとんどのWikiPediaの記事がその既に掲載さ れいる記事が何らかの暗黙的基準を満たしているものではないかということで、私の執筆も暗黙的に掲載されるのではと訴えました。もしそうでないならその他 の記事との差別部分を説明してほしいと言うことを訴えたのです。しかしながら、いくら暗黙的基準を満たしているとしても、検証可能性は大切なことであるの で、私は未熟者故、ただ記事内に参考文献を羅列して出典と表記しました。そこでパタゴニア氏は出典は個別に箇所を指摘してというタグを貼られましたので、 個別に箇所を指定しない出典は出典ではないと言うことを理解し、出典の表記を参考文書に変更しました。その上で、記事中に出典は表記していないので、その タグをに対しては、単純に出典を表記していないので、そのタグは不適切であると言うことを述べた上で削除しました。これは、単純にタグの記載と記事の中に 出典がないことの不整合性の問題です。従って出典タグをつけられること自体に異論を述べたものではありません。
 そ れで、出典タグをつけると言うことに戻るはずですが、出典タグを貼られることはよいことだと思う、しかし、ほとんどのWikiPediaで既に掲載されい る記事が何らかの暗黙的基準を満たしているものではないかということで、私の執筆も暗黙的に掲載されると考えるのが正しいはず、もしそうでないならその差 別部分を説明してほしいと言うことを再度訴えました。それで私がパタゴニア氏から絡んでいるということで削除依頼をされました。  今までの経緯を述べましたが、結論を言います。
 そうであるなら、多くのWikiPediaの出典がない記事も出典を求められ、出典がないと検証可能性を満たさないとして削除依頼をされるという事になります。ところがされていません。
 それでは、今回の場合は特定の記事に対してのみ出典依頼と、削除依頼をされることに相当します。
 その権限はパタゴニア氏個人が所有しており、パタゴニア氏はその特別的な行為に対して、公平で明確な説明ができていない限りは、その個人がパタゴニア氏個人が絡まれた、気に入らないなどの理由でそれを行っていると言うことです。
 もしもその個人的な権威に逆らったときにそのようにされるということになります。
 これが一般社会なら、警察官が気に入らないものは、自転車で歩道を走っているだけで捕まえることができ制裁を加える、それも差別的にです。その警察官の機嫌をいつも伺っていなくてはなりません。いかがでしょうかこのようなことをされているのがパタゴニア氏です。
 そうでないというなら。ほとんどの記事がその既に掲載されいる記事が何らかの暗黙的基準を満たしているから掲載されているのであり、それは自転車は歩道を走ってはいけないが、運用上で暗黙的規準を満たしていると言えます。
 しかし、特別な理由があり、自転車を取り締まるならそれはその警察官個人の規準ではなく、公正な規準で行われないといけません。公正な規準なら、その公正な規準に該当するものは自転車で歩道を走れません。
 その公正な規準をパタゴニアさんに求めたのですが、その説明もなく、絡むから削除依頼したとパタゴニア氏は言うのです。
 多 くの記事は出典が明らかにされていなくても掲載されているものばかりです。わたしは、その既に掲載されいる記事が何らかの暗黙的基準を満たしているものと 判断したのですが、そのような暗黙的規準はないので厳格に検証可能性を適用して、出典依頼をして、すぐにでも出典されないなら削除すると言うことになりま す。そうなると、ウィキペディアの記事のほとんどに出典依頼が貼られ、即座に記事が削除依頼されます。自転車で言うと、全ての自転車は今日から歩道を走っ てはいけない、走ると捕まえると言うこと、これは公平です。しかし今回の件は、一部の特定のものが同じ自転車に乗っていて同じように走っているのに、警察 官に気に入られなかったら捕まるという世界です。そのなぜ特別に捕まったかという説明もなしにです。
 本当に皆さんはこのようなことを放置されますか?ウィキペディアの検証可能性よりも根底にある、倫理に反しませんか?私とパタゴニア氏の会話を見ていただければ私の言っている事はこれに一貫しているはずです。ご確認ください。
 気 に入らないから特別に迫害する。これは同じ人間なのにユダヤ人であるから黒人であるからと同じであると思いませんか?これが個人的価値観にまで今回の場合 は及んでいるのです。思想が気に入らないから、又は、価値観が違うからと迫害するのは、今この世界で最も行われてはいけないことです。これがここで行われ ているのです。このようなことがもし社会であれば許されることではありませんので、公の場にこれを提起する方法を現在勉強中です。確認後提起します。皆さ んも大変重要な問題であることをご認識いただけると思います。--Own 2011年2月11日 (金) 02:30 (UTC)[返信]

2011年2月14日 (月) 06:27 (UTC) 投稿分

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(投稿者よりのコメント)
1. 投稿者は執筆記事の主題及び本文のほとんどにおいて、ウィキペディアにおいて既に潜在的出典があると認められる内容の範囲内において執筆している事が認め られる。それが認められる記事はカテゴリーにおいて太極拳、中国武術門派などにある記事を主としてその他にも多数に及ぶ。 2.このような執筆であれば、潜在的出典がないと認められる部分の執筆においてのみ出典を求めるのが正当である。 3. しかし、ウィキペディアにおいては、執筆記事の主題及び本文のほとんどにおいて、ウィキペディアにおいて既に潜在的出典があると認められる内容で構成され ている記事において、潜在的出典がないと認められる部分の執筆においてのみ出典を求める例はごく少数である。従って、通常運用の中でこの執筆に顕在的出典 がないと言うことはさほど特別なものではないと認められる。すなわちウィキペディアにおいて一般的である。 4.従って、この投稿者に対してのみ出典を求めたことには、特別な理由が必要である。 5.投稿者が出典明記を求めたものに対してその説明を求めても、特別な理由が明確にされない。 6.その後、出典明記を求めたものは個人的感情を理由にして、削除依頼を発行する。 7.以上から、このような結論が認められる。 (主位的結論1)この執筆された記事は、ウィキペディアにおける一般的運用上で、出典依頼される理由はない。 (主位的結論2)主位的結論を理由として削除依頼を求める理由も、削除する理由もない。 (主 位的結論3)既にウィキペディアに掲載されている記事においては、潜在的出典が明らかであるから顕在的出典を求めていないのは一般的であるのに、その潜在 的出典があると認められる内容と整合する記事で構成されている投稿者の執筆に対し、顕在的出典がないので検証不可能として出典明記や削除を求めることは著 しく特別である。 (主位的結論4)主位的結論3においての特別な理由は、個人的感情や価値観であることが認められる。そのような個人的感情や価値観で、特別な行為を特定のものや範囲に行うことは、一つのテロ行為である。 (予備的結論)ウィキペディアがこの記事への出典明記の依頼や削除を認めた場合、ウィキペディアの既存の記事全てにおいて、潜在的出典があっても、顕在的出典がない記事は全てが出典依頼され、そのまま顕在的出典がなされない場合は、削除依頼される。

■テロ行為について。 このウィキペディア上におけるテロ行為は、潜在的出典がほとんどで構成されているウィキペディア上の記事全般に起こる可能性がある。 特定の価値観や感情を持つものが、その敵対者に対して、顕在的出典がないものは出典を明記し、その後出典されなければ、削除依頼するという行為を行うことができる。 こ れで行くと、今回の執筆者の記事に対しての特別な行為が、ウィキペディア上における一般的行為であると認められ、記事が削除された場合、又、太極拳や中国 武術における潜在的出典で執筆された、内家拳や張三豊、王宗岳などの記事などにも貼られているタグがこのまま貼り続けられ一般的であると認められた場合、 中国武術における潜在的出典で執筆された顕在的出典のない「太極拳」や「中国武術門派」などのカテゴリー中にある記事を始め全てに同じ行為が認められるは ずである。 又、この行為は特定の利益を得ようとするものが、不利益な記事に対しても同行為をすることが、理由が明示されていなければ認められることになる。これは、全ての記事に及ぶであろう。 従って、顕在的出典がその一部の記事にでもされていなければ、潜在的出典があろうとも又常識的な記事内容であっても、出典の明記を依頼され、その出典がなければ削除されるのが正当である。 これが、テロリズムの行為原理である。

(ウィキペディアの方針について) そ こで、多くのものが顕在的出典をあらゆる本文記事の詳細にまで明記すれば、その出典を直接使用してその関連する記事が執筆できるので、全ての問題が解決す るはずだが、一般的に顕在的出典がない記事が一部でも含まれていれば、出典の明記を依頼され、それが改善されないと記事を削除されるので、ほとんどの記事 がウィキペディア上から削除されるはずである。又は、考えにくいが多くの顕在的出典があり、顕在的出典においてのみ構成される百科事典ができあがる。いう なれば、インデックスのような辞典である。インデックス辞典としてか、正統な百科事典としてかの存続においての分岐点という重要な問題であるはずだが、現 在ウィキペディアにおいてその方針が明確にされていない。--Own 2011年2月14日 (月) 06:27 (UTC)[返信]

2011年2月16日 (水) 02:07 (UTC) 投稿分

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(投稿者からのコメント)Gyulfox氏はこの記事を存続させたいという個人的利益で抗弁していると思いますか?「分岐点も他のページの状況も関係があ りません。」とはGyulfox氏の述べたいことに不都合なことを排除するための前提でしかありません。私の抗弁の主幹は、客観的に今までの内容から検証 してみてください。
 そして、Gyulfox氏が述べていることは、今回の私の主張に対しては各論でしかありません。
 私はいままで一貫して述べ続けてきたことが、皆さんの何らかの個人的な基準を超えて、その基準外のことでの議論を皆さんが求めないということの潜在的理由から、このようなコメントをいただいているのなら、もう少し個人的な基準を超えられての、私が言っていることの検証と、その問題点の抽出及び、その正当な解釈をされることを求めます。
 また、この問題(執筆内容ではありません)の検証のために情報が不足しているというなら、どの部分が不足しているか明確に指摘してください。
 記事に顕在的出典を示すことについては、私は見解を述べています。それについて異論があるなら申し添えてください。
 Gyulfoxさんの言われている作業について、もちろん行いたいと思いますが、まず総論における解決が先です。
 その解決があって、そこに示された、その正当な規準に従い、私は他の方と同じように特別ではなく、一般的行為として検証可能性を示すあらゆる各論的な行為を行います。ご理解いただけましたか?--Own 2011年2月16日 (水) 02:07 (UTC)[返信]

無責任な検証による、無責任な意見や行為について

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 まず、Shigeru23氏という存在不明者からのコメントの「今回、パタゴニア様は記事内容に疑問を持たれたので

タグを貼られたのでしょう。」という内容は、何の根拠もないのに述べられています。

なぜなら、私は「太極拳法」の執筆における依頼サブページで「私が今までに検証できたものを厳選して執筆した記事ですので検証は可能です。検証可能性のない部分を明確にご指摘ください。」に対してパタゴニア氏からの一切の返答がありません。

 それにもかかわらず、Shigeru23氏は「今回、パタゴニア様は記事内容に疑問を持たれたので

タグを貼られたのでしょう。」と前提を述べてその後の意見を展開しているのです。

 Shigeru23氏はこのように何の根拠も無く、ましてやそうでないことの検証か確実にできている内容に対して、検証不可能な結論を前提として意見を述べているのです。
 投 稿者の執筆はウィキペディアなどを通じて多くの人に事実を知らせたいという純粋な行為であり、その労力を提供しています。それに対して、このような根拠の 無いどころか、検証されている事実に対してまで自らの勝手な憶測により、意見を加え、感情的理由によって執筆者に迫害を加えるものに対して加担するので す。このような行為は一般社会でなら許されるものではありません。
 次に、パタゴニア氏が個人の感情的理由によって執筆者に迫害を加えているということの根拠を説明します。すなわち検証可能性を示すと言うことです。
 まず、パタゴニア氏の会話からの出典です。「ちなみに私のところにわざわざ来てくださったのですから、必ず検証いたします。」と述べています。
 これは、私のところにきたから、検証するという個人的理由による行為です。これには客観的理由はありません。私のところにきたら検証するという規準は、個人的理由であり、この場合は感情的理由です。
 次に私に対して「(私に)喰ってかかる奴です。」と感情的発言をして、述べてその後の削除依頼に発展しています。明らかにこれも感情的理由からの行為です。
 次 にパタゴニア氏は私が検証可能性を理解する事を表明しているにもかかわらず、自己に都合の良い判断を用いて「どうしても検証可能性を理解する気がないのな ら、Ownさんの記事すべてをチェックしなければならないかもしれません。」と言って、感情的理由による記事のチェックを表明しています。
 これは、いうなれば、パタゴニア氏の言い分に従わなければ、検証可能性を理解する気がないという自己判断を採用して、それから結論を述べる仮言三段論法です。
 そ の第二段には検証可能性を理解する気がないという自己判断を使用しているのであり、その第一段にある前提は私が検証可能性を理解する事を表明しているが、 パタゴニア氏に従わないという個人的感情による今後の行為を正当化するために、検証可能性を理解する気がないという偽(偽とは嘘という意味ではなく、正で はないと言うこと)の理由を用いたのです。
 従って、パタゴニア氏は個人的感情を第一段として、第二段に偽を用い、第三段の結論を述べて言います。
 この結果、パタゴニア氏は削除依頼などを正当化するのですが、この削除依頼の原因となる結論は、第一段の個人的感情による第二段の偽の自己結論であることがわかるはずです。
 自己結論とはいうなれば、ウィキペディア上で置き換えると、個人研究でありその個人研究は第一段の個人的感情や価値観によって大きく作用されていると言うことですから、このような個人研究は検証を求められる必要があります。
 しかし、私が検証可能性を理解すると述べているにもかかわらず、パタゴニア氏はそれを検証することもせず、個人的感情によって第二段の経過を述べて以下結論を述べています。
 こ のようなことで、執筆者の記事に出典依頼を出したり、又は、削除依頼を出すこと自体が不健全極まりないと言うことです。又、パタゴニア氏には出典依頼を出 すなら、個人的感情を排除してどの箇所が潜在的出典も認められない内容であるのか、明確にしてから出典依頼を出す必要があります。
 今回の場合は、以上に述べたように、執筆者はその箇所を指定してほしいと述べているのに、それは一切答えず、パタゴニア氏が気に入らないからといって出典を求め、削除依頼をしたという根拠が以上のとおりあります。
 そ れにもかかわらず、私の会話に参加されたShigeru23氏のようにその検証もせず無責任に意見を述べ、又、太極拳法の依頼サブページにおいても、十分 に検証もせずに削除票を投じられたもものかんづめ氏やNekowood氏は無責任極まりないと言わざるを得ないでしょう。
 今後は責任を持って、この案件の検証に参加され、問題点を整理し、個人的感情や個人的価値観に左右されない、客観的な議論に参加されることを望みます。
 まだまだ、この問題について、あらゆる方面から調査検証中であり、まだ未確認のところがありますが、確認できましたら今後ここに反映させていく予定です。--Own 2011年2月16日 (水) 02:07 (UTC)[返信]

Ownさんへ、Ownさんはパタゴニアさんや削除票を入れられた方の行為について、記事の改善よりも決着を先にすべきというお考えのようですね。 それも考え方のひとつかも知れません。 しかし現実的な問題として決着がついた頃には、肝心のこのページはとっくに消滅しているように思います。 もちろん改善版を再投稿しても良いでしょう。 しかし求められていることを手近な出典でとりあえず済ませて、記事は存続させておいて、ゆっくりと互いの誤解を解いたり出典の信頼性を高めたりする道もあります。 私はもうこれ以上しつこく述べませんので、どういう優先順位が合理的なのか、またコミュニティーへの貢献になるのかも良く考えて頂ければと思います。--Gyulfox 2011年2月17日 (木) 13:20 (UTC)[返信]